<   2012年 04月 ( 10 )   > この月の画像一覧

今日は変わった映画評。前半では褒めていないのに、後半では視点を変えて評価しています。
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OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Calvaire』
『変態村』という邦題はもう小学生がつけたみたいなアホさがありますが、原題はラテン語で「ゴルゴタの丘」という意味だそうです。フランス・ベルギー製作で、アメリカのB級スプラッタみたいなものを予想すると大きく裏切られますね。かく言うぼくもこの邦題に印象を引っ張られまして、はてさてどう書いていけばいいものか、と悩んでしまいます。ぼくはぴんと来なかった映画についてはあまり記事を書く気にならないので、もしもリクエストいただかなければ書かずにスルーしていたでしょう。どう評していいのか困っているのが正直なところです。
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 変態村というからには、山奥の土人的な連中が淫蕩の限りを尽くしたり、外からの訪問者を拷問しては哄笑しているのかな、と思いきやそんなトーンは終盤近くまでほとんど出てこず、もっぱら流しの歌手である主人公の青年と、彼が滞在することになった山小屋のおっさんの話がメインになります。このおっさんがおかしなことをして、青年がえらい目に遭うわけですね。村では獣姦している場面も出てきますが、クライマックスまではおあまり触れないようになっています。 
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おっさんは最初、善意の存在のように登場するんですけど、途中から変貌します。ただ、「げへへ、おまえを苦しめて殺してやるぜ」的なわかりやすいアメリカンタイプではなく、「おまえはわしの妻なのだ」と青年を縛ってしまうのです。このおっさんは妻を過去に失っていて、その妻と同一視してしまうというわけなのです。
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 うーん、ここら辺はよくわからないところですね。ヨーロッパ的なのかわかりませんが、少なくとも非アメリカ的なのは確実で、ここで観客の何割かを結構おいてけぼりにする感じがあります。最初のうちはおっさんは普通に、外からやってきた青年として彼を遇していたんです。それがどうして途中から彼が死んだ妻であるという認識に変わったのか、というのがもうひとつよくわからない。
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 まあ、要は「狂気」みたいなことなのでしょうけど、うーん、狂気なあ。正直、ここでも狂った人物の出てくる話はいくつも取り上げているんですけど、これで狂気……うーん、狂気なら狂気でいいんですけど、もっと煮詰めてほしいというか、中途半端な狂い方というか、そこはもうこっちがくみ取ってくみ取ってしなきゃいけないところなんですかねえ。

 監督のインタビューで『サイコ』に影響を受けたみたいなことを言っていて、なるほどあれもノーマン・ベイツが死んだ母親の人格を自分に取り入れてしまっているというような、狂気の一種を描いていたわけですけれども、本作の狂気にもそこは似たところがあるわけです。まったく見知らぬ若い男性を、自分の死んだ妻と同一視するわけですからね。
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 ただ、ぼくとしては、もうちょっとそこは丹念に描いてほしかった。その狂気をもっとちゃんと観たかったんです。物語演出的に言うなら、ふりが弱いと思いました。ふりということでいうと、犬を探し続ける息子はいいんですよ。いなくなったものをひたすら探し続けている彼の存在の不気味さは立っている。でも、そこで事足りてはいないはずで、あのおっさんが死んだ妻の影をいまだに探し続けている、というのがもっと必要だったんじゃないか。少なくとも、あの歌に感動したというのでは足りないでしょう。

 ただ、そんなことを書きながらあれなんですけど、本作の場合、ぼくは監督のやりたいことがぜんぜん読み取れないというのがあります。たとえば序盤であの慰問コンサートのくだりを入れてきた意図は何か。あのくだりとメインの舞台の出来事がどう繋がるのか。白状しますが、ぼくには読解できていません。先般お断りしていたとおり、わからない映画にはもうわからないとしか言いようがないのです。
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 後半、よくわからないダンスシーンが入るんですけど、監督インタビューで、「あの場面は超現実の極みだよ」みたいなことをおっしゃられていて、端的に言ってぼくにはついていけないところがありました。超現実って言われても、です。食卓のシーンなんかも、ああ、観客に狂ったシーンみたいに見せたいんだろうなあというのはわかったんですけれど、別に際だって強烈なわけでもないですしねえ。その後の俯瞰撮影は面白かったけれど、全体を通して映像的快楽があったのはあの俯瞰撮影のところくらいなんです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、ここまで書いて、その後一時間くらい考えて、このままじゃならぬと思いました。と言いますのも、やっぱりその映画を観たからには何かしらの学びを得たいわけです。人から教えられた映画をけなすのは実に簡単なことです。変な話ですが、今回、ぼくはリクエスト作の良さをちゃんと見つけられたら勝ち、できなかったら負け、と勝手に自分で決めているのです。と、いうわけで、後半はまったく別のトーンで、この映画を褒めます。

実質、映画評二本立てみたいなもんです。別の人が書いたんじゃないか、「karasmokerは二人いる説」浮上、と言われるのもやぶさかではありませんが、別段他の方の映画評を参考にしたわけでもなく、自分の考えで書いています。
 それでは、二本目に参りましょう。

 振り返ってみるに、本作を土人の大暴れを楽しむ映画として観てはならないのでしょう。もしそういう映画だとすれば、主人公が男性であることに引っかかりを感じます。あのおっさんが主人公を自分の妻だと思いこむ。そのくだりがあるなら、主人公が女性のほうが絶対に理解しやすい。でも、そうなってはいないわけです。一方、この映画は冒頭、主人公が唇に紅をさすシーンから始まる。舞台に立つためのメイクなのですが、一般的に見て女性のなす行動です。

 この映画では、性別というものが壊れている。山奥に住む人々が獣姦を楽しんでいるのもそのひとつ。この映画では性別が意味をなしておらず、重要なのは愛する相手の欠落です。息子が最愛の犬をいつまでも探し続けているというのもそのひとつですし、そうやって見ていけばおっさんが主人公の青年を妻と同一視するという、異常な心情もまだ理解の範疇に入るように思います。おっさんは青年に女装させる。一方で、髪を乱雑に刈り込んでしまう。これは青年を女性に見立てる行為としては一見矛盾しているけれど、それはつまり、おっさんは決して、青年を女性に見立てようとしているわけではないということです。この映画における死んだ妻、グロリアという女性は、おっさんや村人にとっての失われた尊い存在であり、その代替物をこいねがう彼らにとって姿形の違いはなんら問題ではない(豚の鳴き声が響く中で獣姦ができる人々です)。そして、来訪者というものそれ自体が、彼らの欠損した世界を埋めるためのよりしろとして、機能していたわけです。
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 おっさんや村人は欠損した世界に生きていたのですが、主人公の存在はその欠損を彼らに自覚させてしまった。おっさんのみならず村人までが主人公を我がものにしようとしたのはそのためです。あのダンスシーンは、「この映画を普通のまなざしで見つめるな」というサインでもあったのかも知れません。あのシーンのダンスも、普通は男女で行われてしかるべきものです。彼らは同性愛者だったのか。違う。彼らにとって性的区別には意味がない。彼らにとって大事だったのは存在と不在の二分法に過ぎない。不在を感知したとき、彼らはその不在を埋めようと、怒り狂って存在のもとに走ったわけです。
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 ゴルゴタの丘、そこはキリストを磔にした、ある意味で死の象徴とも言える場所。しかし、その死がなかったなら再生の奇跡もまたあり得なかった。であるとするならば、ゴルゴタは絶望の場所であり、同時に希望を宿した場所であるとも言えるのではないでしょうか。だからこそラストシーンが意味をなします。ラスト、猛り狂って主人公を殺しに来たはずの男が、自分の死を目前にして言う。「愛していた」と。そして主人公に願う。「愛していたと言ってくれ」と。ここに及び、蒙昧の極みにいた山奥の村人は、愛という感情を思い出すに至る。主人公は村人たちにとっての愛のよりしろ、愛を再び感じ、その魂の救済を得るためのよりしろとして存在していたと言えるのです。
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 と、まあそんなことがこの映画については言えましょう。
 正直言って、素直に書いたのは前半のほうです。後半のほうは無理矢理持ち出してきた感も否めません。しかし、たとえ無理矢理にでもその美点を見いだそうと苦慮することで、映画の見方を広げてみたいとも思うのでありました。世にも奇妙な映画評になったように思うのですが、まあリクエストいただいていなければ何の感想も抱かずにスルーしていたに違いなく、この試みもまたなされずにいたことでありましょう。感謝いたします。

 とりあえず、こんなところなのでございます。
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詰め込みすぎて各要素が印象に残りませんでした。ハリウッドリメイクに期待します。
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bang_x3さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Ne le dis à personne』
 前回イタリア映画を評したわけですが、お次はフランス映画です。どうしても日米が中心となる本ブログ、ぼくの好みとしては、ヨーロッパ映画はあまり手が出ないところもあり、フランスからも遠のいていました。フランス映画が持つある種のこってり感を、無意識に遠のけていたのかもしれません。

 ぼくの抱くイメージとして、今回の映画などを観てもはっきりしたのですが、フランス映画ってどうもこってりしているんですね。料理にたとえると、あんかけみたいなとろみがある印象です。脂っぽさとはまた違うんですけど、アメリカ映画ほどからっともしていないし、スマートでもない。ドイツ、スペイン、イタリアの映画にもないこってり感を覚えます。

本作『唇を閉ざせ』はベン・アフレックを監督にハリウッドリメイク、なんてことらしいのですけれど、アメリカでつくられたらぜんぜん違う風合いになるだろうというのもさりながら、わりと脚本も変えてくるんじゃないですかね。少なくともハリウッドでは絶対こんな映画はつくらない。理由は簡単で、あまりにもいろいろと詰め込んでいるものだから、ハリウッド的な脚本の合理性とは対極にあるのです。

 いろいろと詰め込まれている理由はひとえに、原作小説の要素をなるべく盛り込もうとしたからではないですかね。でも、原作小説を持つ映画にありがちなこととして、結局何を見せたいのか、それを見せるためにどの部分を押してどの部分を引くのか、が見えづらくなっている気がしました。なんていうか、要素の強弱がどうも把握しづらい。そのせいでサスペンスが持つ娯楽性が出にくくなっている気がしました。
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 で、内容についてなんですが、これは謎が明かされていくような話でもあるんで、一応未見の方にも気を遣いつつ話すと、ちょっと難しいですね。主人公は最愛の妻と仲むつまじく過ごしていたのですが、あるとき暴漢に襲われ、妻も殺されてしまいます。ところがその八年後、一通のメールが届き、そのリンク先の映像には死んだはずの妻の姿が映されていた、とまあこの辺から話が転がるわけですね。
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 で、いろいろな人が出てくるわけです。なぜか妻の存在を追っている謎の集団みたいなのが出てきたり、妻と過去に接触した人間が殺されたり、その容疑者として主人公が警察に追われたり、いろいろと出てくる。
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 ただ、どうもひとつひとつが頭に残りにくかったです。
 いろいろ詰め込んでいるから、さらっと台詞で済まされることが多かったりするし、しかもわりといっぺんにいろいろ喋ったりするために、あれ、何がどういうことなのだっけ、と戸惑うことがありました。わかりやすいところでいうと、序盤、主人公のもとに警察がやってきて、「奥さんが昔殺された場所の近くで、先頃二つの別の死体が出てきたんです。奥さんの件と何か関係があるかも知れません」みたいなことを言います。でも、この「二つの死体」は刑事の口からさらっと言われるのと、新聞記事として二秒くらい映るだけで、その映像は出てこない。作り手としては、「はい、ここでこういうことを言っています。後々の展開にも筋は通っています」ということなのだろうけど、印象に残らないんです。

印象に残らないということでいうと、主人公を襲う謎の集団、その親玉、動機、その周辺です。やっぱりミステリー、サスペンスの醍醐味ってひとつに、「ああ、あいつがこうだったのかあ!」とか、「ああ、あれがここで効いてきてこうなるのかあ!」というものだと思うのですけれど、その快楽が実に乏しい。要するに伏線ということですね。要素はばらまいているんですけど、印象に残らなければ伏線として機能しない。二つの死体もそういうことです。まあ、「印象」というものそれ自体が個人的な感覚ですから、いやいや自分には十分印象的に映ったぞという方もおられましょうが、ぼくには詰め込みすぎて複雑化して、描くべきことを絞れずにいた気がしてならないのです。

それより印象に残ってくるのは、R&BみたいなBGMががんがんのシーンだったり、移民たちのいざこざだったり、そういうほうなんですねえ。あの辺にこってり感を覚えます。で、そこでも詰め込みよったなあというのがあって、主人公を助ける白人のおっさんですね。あれ、動機弱くないかなあ、あそこまでするってのは、どうも腑に落ちないというか、もうちょい説得力あってもええのに、なんです。原作ではあるのかも知れないけれど、強引にぎゅぎゅっと詰め込んだ感が非常に強いです。
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クライマックスはある人物と主人公の対峙するシーンなんですけれど、ここもしゃべりが長くて、いろんなことを言うので、正直ぼくは流れを追うのがしんどかったです。ああ、この人の話だとこの人物が鍵を握っているのね、でも、その人物について今までぜんっぜん描写されてこなかったから、あいつだったのかあ感がないんだよね、ということです。 変な例えですけど、学校でも職場でも、自分がそこに来る前にいた人の話をされている気分ってわかりませんか? 周りの人にとっては知り合いでも、自分は知らないみたいな。
「ほら、一昨年の夏にさ、タマさんが石黒さんに怒られてさ」「ああ、タマさんねえ。だってもともと石黒さんとタマさんってあんまり合わなかったじゃないですか」「だけどタマさんってわりといい加減っつうか、仕事荒いとこあったじゃん。石黒さん、タマさんがいないときに結構文句言ってたもん」「ああ、はいはい(笑)」
みたいなことを自分以外の人同士で延々と話されて、自分だけが(うわあ、俺、タマさんも石黒さんも知らねえ。ついていけねえ、面白くねえ)みたいな気分になるあの感じです。

 映画でも、実はこいつがこんなことを! 的なのがあるんですけど、そいつの話それまでぜんぜん出てこなかったじゃん。もっと手前で、そいつのいい感じエピソード放り込んでおかないと、あっと驚くことにはなり得ないじゃん。で、そいつがいる前提であれこれ話されても、あとはもうごちゃごちゃするじゃん、っていうね。どんでん返しっていうかオチっていうか、そのための印象づけが果たされていない。同じことばっかり書いているようですが。

 けなしトーンになるのは避けたいのが本音です。だから、情報をさくさく飲み込んでいける人、カットの切り替えの早い映画が好きな人にはお薦めと言いたいところです。そして個人的な見方でいうなら、もっとシナリオの要点を絞って、描写も無駄を省いて、ハリウディッシュに仕上げるほうが面白くなるんじゃないか、という風に思いました。ここはやっぱりハリウッド的なわかりやすさ、それが支える娯楽性に惹かれてしまう。あれだけ情報量詰め込んで中心をくっきりともさせないで、その結果どんな美点が生まれたのか。何を訴えたいのか。恥ずかしながらぼくには見いだせませんでした。
 bang_x3さんには前回『モンガに散る』をお薦めいただいたにもかかわらずその良さがわからず、今度こそはと思って臨んだのですが、ぼくにはわからなかった。この映画の良さ、むしろお教え頂きたく存じます。そういう意味では、他の方々にもぜひご覧になって頂きたいですね。「いや、ぜんぜんありじゃないか?」という方に学ばせてほしいのが本音なのです。この脚本はまだまだ面白くなる余地が多分にあるとぼくは思う。削るべきところと強調すべきところの配合によっては、その見せ方次第によっては、おう、面白い映画だ、とぼくは言っていたと思うんです。だからリメイクする価値もあると思いますね。
 未見の方はご覧になって頂いて、自分の感じ方、サスペンス劇の捉え方を確認してみるのも一興ではないでしょうか。
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言葉が世界を開いたら。
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軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 タイトルはイタリア語で、「郵便配達人」の意のようです。イタリア映画はもう久しく観ていなかったのですが、なかなかに良い風味の香る作品でございました。

 話はというと、ノーベル文学賞を受賞したチリの詩人、パブロ・ネルーダ(1904-1973)の史実に基づくものだそうです。パブロ・ネルーダは共産党員だったのですが、祖国のチリで共産党が非合法化され、イタリアに亡命することとなりました。彼はカプリ島というところに滞在し、そのときの出来事が土台になっているようです。

 とはいっても、主人公となるのはネルーダではなく、島に住む一人の男、マリオ・ルオッポロです。彼は漁師の息子なのですが、郵便配達人の仕事をすることになり、このパブロ・ネルーダと交流を深めていくのです。

 ネルーダはその詩才ゆえ世界中にファンがおり、世界から日々多数のファンレターが届きます。それをルオッポロが届けにいくのですが、彼は彼でそんな有名人のネルーダに興味を持ち、自分も詩を書いてみたいと言っていろいろと教えを請うのです。
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 この辺の感じがまず素敵であるなあと思いました。
 この映画に出てくる島は文字の読み書きができる人がほとんどいないという設定で、ルオッポロも多少読めるといったくらい。そんな男が、「自分も詩を書きたい」と思うその心は、それだけで少なからず感動的なものがあります。
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 恥ずかしながらぼくは、ネルーダという詩人のことは本作を観るまで知らずにおり、当然その詩も読んだことがないような野暮天なのですが、彼は比喩の名手として有名だったそうです。劇中でも、「隠喩とはどういうものなのか」をルオッポロに教えたりします。
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 これは映画という表現ですので、詩のすばらしさであるとかネルーダの詩の文学性とかを伝えるようなことは難しいわけですね。その意味で、この作品が比喩というものをその象徴として用いたのは、実に的確だったと思います。ところで皆さん、「比喩」というのは、言葉の表現においていったいどういう効果を持つものでしょうか。文章や詩作の中で比喩とはどのような機能を有するのでしょうか。

 などと言いつつ、ぼくはことさら文学に詳しいわけでもなんでもないのですが、比喩というのは一般に、「異化効果」というものを持つと言われています。異化効果というのは簡単に言うと、「見慣れたもの、既に知っているものに対して、別の見方をさせる効果」です。

 たとえば今あなたがご覧になっているパソコンないしはケータイなどのディスプレイ、それは既に見慣れたものでありましょうが、たとえばそれを「世界の窓」などと隠喩的に表現してみることで、ああ、なるほどこのパソコン一つで、自分は世界の有り様を眺めることができるし、外の世界に触れることができるのだな、とあらためて感じられたりするわけですね。比喩はそれまで当たり前に捉えていたもの、なんとなく眺めたりしていたものを、ただ目や耳で捉えるのとは違うやり方で捉え直すことができる方法なのです。

 これは本作にとって重要です。なぜなら、ルオッポロはまさしくそのことによって、世界をあらたな目で見つめ直すことになったからです。彼は詩によってこの世界を記述する人と出会い、その人に触れて比喩を知ることによって、今まで自分が見ていた世界は別の様相を持ちうるのだと気づく。そして、「この世界はものみな隠喩なのではないか」なんて、すごく鋭いことを言ったりするのです。ネルーダはルオッポロに、世界を記述する言葉を与えたのです。それは、「もう一度世界に触れる見方」を与えたことでもあります。
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ルオッポロは島に住む一人の女性、ベアトリーチェに恋をします。彼は新たなる目で彼女に出会い、彼女の美しさに惹かれたのです。しかし、アプローチするにもどうしていいかわからないルオッポロは、ネルーダに助けを求めます。彼女をうっとりさせるような詩を書いてほしいと。ですがネルーダは当然拒絶します。自分の言葉で書かないと意味がないからですね。ただ、ルオッポロはなんとかベアトリーチェに振り向いてほしいので、ネルーダの詩から言葉を借りて彼女の心に訴えます。ベアトリーチェはそんなロマンティックな言葉を掛けられたことがないのでしょう、ルオッポロに惹かれるようになります。
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 ルオッポロはネルーダの詩をぱくったのか。何かにつけてパクリだ著作物の無断引用だとかまびすしい昨今でありますが、この映画にそんな概念を当てはめるのは無粋でしょう。ルオッポロにはまだ、言葉がなかったんです。だから言葉を借りたのです。これは考えてみれば当たり前のこと。ぼくたちの振る舞いやふれあいはすべて、模倣からしか始まりません。「まなぶ」は「まねぶ」であるように、ルオッポロは世界を記述する言葉を、なんとかまねようとしていたのですね。
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 そんなこんなでベアトリーチェと結ばれることになったルオッポロですが、それでハッピーなんて話じゃない。彼の世界の見方は既に変わり始めていた。それは、街にやってくる政治家に向けて放たれました。今まで見ていた世界は、当たり前のものではないのかも知れない。政治家や偉い人々に搾取される世界、平気で約束を反故にされる世界を、黙って受け入れる以外の方法があるのかも知れない。そう考えたのかどうか、映画では明示的ではありませんが、ぼくにはそのように見て取れました。

 ねたばれがんがん。
 




 ルオッポロは最終的に、政治活動に参加して命を落とします。
 なぜ彼は政治活動に参加したのか。共産主義者ネルーダに惹かれたからか、政治家に嘘をつかれてむかついたからか。それも理由。しかし、もうひとつの重要な理由は、彼が、今までとは異なる世界の見方を獲得したからであろうと、ぼくは思います。自分も、言葉によって世界を動かすことができるのかもしれない。なぜなら、自分の世界は言葉によって変わったのだから。そうして彼は労働者代表の演説に向かい、混乱に巻き込まれるのです。
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 かつてはネルーダの詩作を真似たルオッポロですが、終盤では自分の言葉ではなく、自分が生まれ育った島の、自然の音をテープに吹き込みます。当たり前に聞いていたはずの音が、みずみずしく聞こえることを感じたのです。彼の世界は彼なりの方法で、開かれていったのでした。彼が郵便配達人をしていたという設定もいいですね。最初は言葉を運ぶだけだった彼が、言葉を放つことを知り、世界は言葉だけで触知できないというところまで至る。

 ただ、それがよかったのかどうかはわからない。これまさに人間万事塞翁が馬。もしかしたら彼は世界を開かれぬほうがよかったのかもしれない。そうすればもっと長生きできたのかもしれない。しかし、それであればベアトリーチェと結ばれることもきっとなかった。ラスト、浜辺に立つネルーダ同様に、観ている側もまたただ立ち尽くすしかないような気分にさせられます。

 インターネットで思いつきの軽率な言葉を瞬時に世界に放てる時代になりましたが、こういう映画はこちらを不安の中に陥れますね。あるいはその不安は希望の表れかも知れないけれど、いずれにせよゆらゆらした気分になる。何かを発することの怖さ、強烈さ、大切さをオリヴァー・ストーンの『トーク・レディオ』に教えられますが、それとはまったく別の形で、まったく別のこととして、言葉というものに対する何事かを教えられます。

「言葉というものに対する何事か」。けっ、曖昧な言葉だ。こうして適当な言葉に甘えるのだ。まだまだ、まだまだであるなあと、感じ入る次第でございます。
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記事にしてほしい映画をお寄せください。
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世間はもうすぐゴールデン・ウィークでございます。「ゴールデン・ウィーク」とはもともと映画会社である大映によってキャンペーンされたものなのであります。そんな由来にあやかりまして、というわけでもないのですけれど、昨夏に行いましたリクエスト募集を再びやってみたいと思います。なにしろ別にゴールデン・ウィークにさしたる予定もなく、というかむしろそんな時期には出かけたくないよね逆に、どこも混むしね、いやそりゃ一緒に旅行に行こうよなんていう恋人の一人もいれば別よ、そりゃどこかしら出かけてこましたろとも思うだろうけどさ、別にいないしさ、けっ、なんだいなんだい、もうこうなったらやたけただ、池袋を闊歩するアベックにひしゃくで糞尿をぶんまき、「これがほんとの黄金週間だぜ! けけけけけっ!」などと笑って逃げだし、お縄頂戴の憂き目を見てやる! 

 というのもどうかと思うのであって(早く話を進めろ)、ええと、なんだっけ、そう、別にこれと言ってあれな予定もないし、今のところ観たいDVDもちょっと見つからずにいるような状態でもあって、ここはひとつ、リクエスト募集をしてみようじゃないか、ということなのです。

 昨夏に多くの方々よりリクエストを頂きまして、自分ではセレクトしないような作品にも触れられることが出来、大変ありがたく思っております。なので今回も前回同様、皆様からこの映画を評せよというものを募りまして、その記事を書こうと思っておる次第であります。実はリクエストにつきましてはいつ頂いても結構なものとして構えておったのですが、最近は頂けることも多くなく、そろそろかまってちゃんモードになりつつあるので、あらためて募りたいと思うのであります。この機会をご利用頂きたいのでございます。

 しかし!
 ぼくは昨夏におきまして、反省すべき重大な間違いを犯してしまいました。
 といいますのも、皆様が善意から、この映画が面白いよとお薦めくださったものを、まあなんていうんですかね、かまってもらって調子に乗っちゃったのかな、関西風に言うといちびったっていうのかな、ちょけたっていうのかな、つまり、お薦め頂いたものを、俺は本音で行くぜみたいになって、けなしたりしてしまったのですね。これは今でもどうも、申し訳ないと思っているのですね。

 しかし!
 あの頃のぼくとは違います。ここ数ヶ月の記事でその違いがわかる、かどうかはわかりませんけれども、ぼくは以前と比べて、その映画から何が読み取れるのかを考えつつ、積極的に観ていこうとしているのです。ゆえに、前のような失態は犯さぬよう努める、前のような愚行には至らぬ所存でございます。むろん、引っかかった点やよくないと思った点などを書くことはありましょうが、建設的な見方をするように心がけ、けなして終了、みたいなことは決してしないようにしたいと考えています(ただし、難解な映画などについての読み解きなどは、わからないときはわからないので、そのときはすみません)。 
「どんな駄目な映画にもいいところはある。それを見つけるのが映画評論家の仕事だ」と、あの故・淀川長治氏もおっしゃったとかおっしゃらないとか。淀川先生のような立派な評論はできずとも、やっぱりいいところを見つけたいと思いますね、うむうむ。

 ただし!
 中にはどうしても合わない映画、というのが出てくるかもしれません。
 なので、これをけなすのは許せん! というものについては避けてもらうのが吉です。 思い出の映画とか薦められてもぼくはその思い出を共有していないので共感できぬことになる可能性大です。
 そんなわけで、「評価に迷っている、評価の割れている映画」「評判はいいけどどうも自分的には駄目な映画」「評判悪いからたとえ悪く言われても受け流せるけど自分は好きな映画」などがちょうど良いと思われます(めんどくせえやつだな)。みんなが駄目だと言っていて自分も駄目だと思うようなテレビ局系などはちょっと困ってしまいますが……。

 そして!
 ここなのですけれども、基本的にはDVDの出ているものでお願いしたいところです。 読者の方はお気づきの通り、当ブログは旧作がメインです。ぼくは映画が好きですが、映画館に行く趣味がなく、しかもゴールデン・ウィークの混み合った映画館に行くってのはエネルギーを大量に消費してしまう行為なのです。ゆえにDVDの出ているもの且つレンタル可能なもの(その場合は新作でも構いません)でお願いしたいと思います。ものによっては既に観てしまっていて記事にするにはぜんぜんぴんと来なかったようなものも寄せられるかもしれませんが、せっかくですし、まあなんとかします。

受付期間(などというようなものはあってないようなもんですが)は、一応5月6日くらいまでとしておきます。

 さて、一人で勝手に盛り上がっておいてぜんぜんリクエストされない、という最悪のパターンもありえるため怖いところですが、まあそのときはそのときです。ぜんぜんリクエストが集まっていないな、と思われることがあったら、お一方で何作もリクエストしてもらって構いません。いっぱい集まるようなことがあったらさしあたり一作までとさせてもらいますが、前回の失態もあるし、そんなに集まらないかもしれないし、わからないです。
 
 忘れた頃にレビウが載りますので、どうぞこの機会に。
 初めての方もお気軽にどうぞ(ただまあ一応、当ブログがどんな感じなのかくらいはわかっておいてくらはいね。本当のいちげんさんじゃあ困ってしまいまっせ)。
 あなたの映画ライフのお役に立てればと思っております。
 リクエスト頂いたものは基本的にすべて記事にしようと思っています。
コメント欄↓にご希望の作品名をお寄せください。
 それでは、リクエストをお待ちしております。
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今ぼくのいる場所が、探してたのと違っても。
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 黒澤明を取り上げるのは実に久しぶりのことで、しばらく観ずにいました。黒澤作品は初期と晩期は『姿三四郎』と『八月の狂騒曲』くらいであまり観ていないのですけれども、有名どころは大体観ています。『醜聞』から『乱』までのいわば円熟期のものは観ているのですが、その中で唯一観ていないのが『デルス・ウザーラ』で、これがぜんぜんレンタルできません。東宝が関わっていないのが大きいのでしょう。アマゾンでも出品者が高値をつけている状態です。ちなみに中でも好きな作品は『羅生門』、『どですかでん』、『乱』といったところです。『七人の侍』や『蜘蛛巣城』や『生きる』がすばらしいなんてことは、ぼくなどが言う必要はありますまい。

さて、黒澤明が大活躍した50年代、60年代の中でなぜかずっと観ずにいた『赤ひげ』です。なぜかこの作品を観ようという気にならなかったのですね。医者の話というのがどうもぴんと来なくて、後回しにし続けていたわけなのですが、いざ観てみるとこれは黒澤作品の中でもかなり好きな部類でした。黒澤作品で好きなのは? と訊かれたときの回答のひとつにしたいと思います。
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 舞台は江戸時代の小石川養生所、ここは無料の医療施設で、徳川吉宗が行った享保の改革の際に設置されました。主人公は若い医師を演ずる加山雄三と、「赤ひげ」と呼ばれる所長の三船敏郎です。養生所にやってきた加山雄三は最初、「こんなところに勤めるのは嫌だ、自分はもっと高い地位につくために今まで勉強してきたんだぞ」とすねてしまうのですが、そこで過ごす日々の中で、次第に考えを改めていくのであります。
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 三時間ある映画なのですが、ほとんど飽くことなく観終えました。そして、黒澤作品で涙したのはこれが初めてかも知れません。これは泣けました。もともとは山本周五郎の連作短編が原作で、いろいろなエピソードが入っているのですが、それぞれ見せ方がうまいんですね。もちろん原作から落とされた要素というのもあるんでしょうけど、原作にはない話が後半を担っていたりして、この後半の「おとよ」の話でぼかあ泣いたね、うむ。
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 時代劇、というとどうしてもチャンバラ、侍を連想しがちだと思うし、それもまた黒澤明の功績あるところなのでしょうけれど、こういうチャンバラの出てこない昔の話って、『どん底』とかもそうですけど、「うわあ、えらい時代やあ」感が強く出ますね。特に医者の話だと、病人がそりゃあ出てくるわけで、うわあ、この時代はきつかったやろなあ、というのも随所にあります。侍が刀を振り回す話だと、格好良さに見せ場が持って行かれがちだと思うんです、殺陣の見事さとかね。でも、この手の話はむしろ、限定された状況の中で、それでも生きていく人たちの生き様みたいなもんが胸にしみるのでありますね。
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 冒頭の部分で既にぼくは持って行かれていたのですね。小石川養生所は無料だから、貧民たちがたくさんやってくるわけです。で、待合室みたいな場所でぎっちぎちになってただ、待っている。何もせずに、じっと待っている。今でも途上国ならばある光景なのでしょうけれど、江戸時代の医療レベルを考えればねえ、もうどうしようもないことは今よりも多かったはずですしね。で、今みたいに患者様扱いされることもなく、医者が「こんなくさいやつら」みたいなことを平気で言うわけです。なんやねんこの状況、というのがまず描かれて、それでぐいっと引き込まれました。
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  加山雄三が最初すねているんですが、そこから自分の無力さとか弱さとかを知って、だんだんと周囲に溶け込んでいく流れが素敵です。なんて言うのでしょう、そういうことって、あるよね。たとえばこの四月にね、受験で志望校に落ちて、第二志望、第三志望の学校に行ったって人もいるのでしょう。就職もそうでしょう。既に大人でも、そういう過去をお持ちの人もいるわけです。でも、今思えばそこが自分にとって尊い場所だったっていう経験はあるでしょうしね。その意味でこの話には人生がございますね、うむ。
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 医者の話だから暗い場面ばかりかというとそうでもなくて、たとえば三船敏郎がごろつきどもを打ちのめすシーンもあり、サービスも用意しています。しかし三船は医者でありまして、自分で相手の骨を折っておきながら、「医者が骨を折るなんて! こういう乱暴はよくない!」と怒ったように言ったりして、笑ってしまいます。

細かいところの良さを言い出すとめちゃ長くなりそうなので、ここはやっぱり後半の「おとよ」のくだりを話しておくべきでしょう。おとよは宿場の遊女屋に住まわされていた少女なのですが、まあ性的サービスをするには幼い年であり、なおかつ虐待をうけているような状況で、見かねた三船、加山が彼女を引き取ります。しかし、おとよはその悲しい境遇から心を病んでいるような有様で、加山はなんとか彼女をまともにしてやりたいと苦闘するのです。
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 ぼくはみんなに愛されているような子供が出てくると嫌になるのですが、反面、こいつぜんぜん大事にされていなかったんだなあ、というようなのが出てくると大変弱いですね。中盤でも、根岸明美演ずる貧しい女性と、その子供たちが出てくるのですが、悲しいやつらが出てくるともうちょっと、くうっ、となります。
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構成としていいなあと思うのは、加山がかつて自分が養生所に来たときのことを悔やむ場面と、このおとよが心を開いていくくだりを絡ませているところですね。ここでがががっと揺さぶってきます。おとよの出てくるシーンはどこもいいです。

おとよがね、少しずつ打ち解けていくんですけど、養生所で働く周りのおばさんたちとはどうもうまく行っていなくて、「なんだい無愛想な子だよ」みたいに扱われているんです。で、あるとき炊事場に泥棒少年が現れて大騒ぎになるんですが、おとよはそれを見て見ぬふりするんです。すると当然おばさんたちは「泥棒が入っているのにそしらぬふりかいこの子は」となるわけですが、その後ですね、その後におばさんの一人がある状況に遭遇し、号泣することになるんですが、そのくだりなどは絶品でした。
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 やっぱりね、「悲しい目にあったやつだけがわかってやれること」ってのがあるんですね。何かを断罪したりレッテルを貼って決めつけたりすることはたやすいし気持ちのいいことかもしれないけれど、違うだろうって。そいつにはそいつにしかない事情ってのがあるんだろうって。おとよが少年を見逃したときに大体展開がわかって、ばっちりその通りだったので、これまた、くうっ、でした。

『4分間のピアニスト』のときに書いたことともちょっと関連するんですけど、たとえば犯罪者に対する、こういうものの言い方ってありますね。
「幼少の頃にひどい目にあって、それで世間に恨みを感じて犯行に及んだっていうけど、でもそんな体験をしてもまともに生きている人だっているんだ。許されないことだ」みたいな言い方。うん、確かにそうなんです。辛いことがあっても立ち直って、公正に生きている人はいっぱいいる。でも、そいつにしかない事情ってのはやっぱりあるんです。抽象的な言い方だけれど、同じ星空を見たときに、星の輝きに魅せられるやつもいれば、その星々の間に広がる闇のほうが焼き付くやつだっているわけです。
 はっきりと明言しておきますが、ぼくは何も犯罪の加害者をむやみに擁護するつもりはありません。人としてやってはならないことはそりゃあありますし、その分の裁きはしっかりと受けるべきでしょう。しかし、メディアに流れる犯罪事件について、細かい事情も知らずに断罪するような真似はしたくないし、するべきではないと言いたいわけです。「過熱報道で無辜の人を断罪するマスゴミめ」みたいなことを一方で言いつつも、真偽不明のネット情報、週刊誌ゴシップに飛びつく奴があふれかえっているような昨今は、特に。

話を映画に戻す戻す。
 注文をつけるなら、おとよの口調がちょっと上品すぎますね。もっと下品でもいいし、なんなら訛っていてもいいはずなのに、妙にしっかり喋りすぎていて、これは残念です。あと、中盤で死にゆく人がいるのですが、この人の回想のくだりが長いです。なにしろ回想の中の人物がそれまた回想してその回想シーンが流れたりするので、これは文法的にちょっとどうやねん、というのはありました。

 気になったのはそれくらいです。最後もいいんですよ、「死んだほうが幸せだった」なんてことを医者の話なのに持ち出してきて、でもそれにうまい答えが見つからずにいる、というのは、いいもやもやです。
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 まだまだ書けることはいくらでもありまして、序盤に出てくる危ない女性の話も書きたいし、終始格好いい三船敏郎についても書きたいのですが、まあご覧になっていただければぼくなどがこれ以上述べる必要はありますまい。はい、お薦めであります。
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この映画が好きだという人は、すこやかにお育ちでありましょう。
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原題『Bring It On』
 チアリーダーのお話で、結構評価も高いようです。ぼくはキルスティン・ダンストが苦手だ、という話をしたら人に薦められて、もしかしたら好きになれるかもしれぬという期待もあって観てみました。

 しかし、いやはや、どうもぼくはキルスティン・ダンストの魅力がわかりません。『スパイダーマン』シリーズもそれで観ていないくらいなんです。どう観てもヒーローに守られるヒロインの面じゃねえだろ、と感じてしまうのですね。この人が似合うのは、「第一次世界大戦で受難する女性」とかそんなのだと思うんです。ウィキによるとドイツ系、スウェーデン系ということですし、その辺の役柄だったらぴったりだろうなと思うんです。ヨーロッパ映画の顔です。なのでねえ、うーん、どうしてこの人がチアリーダーの映画の主人公なのだろう、と思わざるを得なかったのですね。
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 映画はというと、健康的なアメリカン・ティーンのお話でした。まあ健康的であります。ジョックとクイーンビーだけが出てくる映画で、なおかつ彼らがジョックでありクイーンビーであろうということが描かれない点で、なんとも健康的であります。ジョックとクイーンビーの意味がわからない人は調べてみましょう。
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 太陽さんさん、元気はつらつみたいな映画ですが、それはそれでよろしくて、だったらやっぱ北欧系のキルスティン・ダンストじゃねえんじゃねえの? と思えてならなくて、うーん、どうなんですかねえ、もっと別の人がいたんじゃないかなあと、それこそあんなにたくさんいるんだから、もっといたんじゃねえの感が強いです。

 それこそかつてのゴールディ・ホーンとかね、キャメロン・ディアスとかね、クリスティーナ・リッチとかね、そのタイプを求めてならなかったですねぼかあ。もういっそのこときらっきらした青春像で良くて、そしたらぼくも素直にあげあげになったのです。あるいはまあ逆に、薄味系の顔を持つエレン・ペイジ的な路線の子を引っ張ってくるとかね、それはそれでありじゃないっすか。キルスティン・ダンストは北欧系なのに高カロリーな顔立ちなのです。
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 この映画はなんというか、観る者の「青春時代」に対する記憶をちょっとくすぐってきますね。人間性を試してくるところがあります。ぼくなどは高校時代、ジョックにもなれずクイーンビーとのおつきあいなど想像だにできずという人間であり、それでも大学に行ったら合コンだのサークルだのを楽しめるんじゃないかしら、と期待していたのですが、生活する中で愕然としたのですね。「ぼくにはそもそも、そういうものを楽しむセンス自体がないのだ」と。なんていうんでしょう、たとえるなら、みんなが甘い甘いと言って食べているお菓子があるとして、ぼくもそれをちょっとはかじってみたのです。でも、さっぱり甘味を感じられなかったわけです。甘味感知細胞がなかったのです。これはちょっと辛いもんがありました。

 そういう人間からすると、この映画は眩しくてやれないです。映画自体はテンポもいいし、小事件をちょこちょこ放り込んでくるし、政治的にも正しいし、よくできていました。だから申し上げたとおり、健康的なアメリカであって、たとえば『トーク・レディオ』のバリー・シャンプレーンに魅せられた夜の住人にはややきつい。
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 政治的に正しいのは、あのアフリカ系のチームを放り込んできたところですね。それでいてアフリカ系チームのバックグラウンドも描き、主人公チームとの関係も最終的にはいい感じになり、相手に花を持たせる。うわあ、正しく乗り切ったなあ、とある意味で惚れ惚れいたします。
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 この映画を真正面から好意的に捉える人は、いい人だと思いますね。「好きな映画は何ですか?」「『チアーズ!』です」と答える人とは付き合っておいて損はないでしょう。反面、このような青春像を幻想としてしか捉えられなかった、という自覚のある人には、どこかこうむずがゆさがあると思います。特にぼくはすぐこの前に『4分間のピアニスト』を観ていて、あんな風なぎりっぎりの中で炸裂するもんを観てしまっていたので、彼らのチアリーディングのはつらつさには、おうおう、よろしおまんな、といくぶん醒めた目線を禁じ得ぬのですね。
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 いや、でも、繰り返しになりますが、これがキルスティン・ダンストじゃなかったらぼくはうまくだまされてあげあげになっていたかもしれません。あー、でもそれはやっぱり大きいなあ。それは大きいっすねえ。

 なんか誰のためにもならないような記事になってしまいました。読んで損した分の時間は返せません、どうもすみません。まあ、そんな回もありますな、今日はこの辺で。
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月並みですが、芸術の力ってものを感じました。
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 振り返ってみるにぼくは「師弟もの」感度が高くない人間です。お師匠と弟子の特訓とか因縁とかって、あんまりぐっとくる主題じゃないんですね。カンフー映画感度も高くないし。強いて挙げればゲームの『MGS3』でしょうか。でもあれも「師弟もの」というくくり方は違う気もするし、何か熱いのがあったら教えてくらはい。

 さて、そんなぼくですが、『4分間のピアニスト』はよかったですね。これはいいんじゃないでしょうか。ピアノ教師のおばあさんと、ピアノの才能を持つ囚人の女の子の話なのですが、結構感じ入るものがありました。
 
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 当ブログではドイツ映画は数えるほどしか取り上げていなくて、ドイツ映画感度は低い人間です。そしてピアノ、クラシックの類となるとこれはもうわからんちんもいいところで、「クラシックの曲」というお題で山手線ゲームをやらされたら二周目でアウトになります(それはいったい何人でやっているのか)。そしておばあさんと女の子の話と言われてもこれまたあんまり興味を引かれるものでもないんですが、この映画はそうしたぼくの死角をびびっと突いてきた感があります。
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囚人の女の子はハンナー・ヘルツシュプルングという人が演じているのですが、これははまり役でした。ものすごくいい感じのズベ公ぶりでした。可愛すぎず、凶暴さと野卑さがあって、それでいて演奏シーンの表情はめちゃ格好いい。同じ監獄もので、『リップスティック』というフジテレビのドラマがあったのですが、あれの広末っぽい感じもありました。顔はぜんぜん似ていないんですけど、声がちょっと似ています。あのドラマにおける広末と重なってこれまた高ポイントです。
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 ピアノ教師のおばあさんは役名がトラウデ・クリューガーといって、実際にいた人だそうです。演じたのはモニカ・ブライプトロイという人で、おじいさんにも見えます。このよぼよぼのおばあさんがズベ公をあやしていく関係が、なんともどうもいい感じだったんです。

 人間関係とか来歴とかは、結構曖昧に残されているところがあるんですね。で、冷たく投げ出されているところもあって、その辺のぼんやりした感じは非アメリカ映画的でもあって、これはこれで味わいなのですね。たとえばあの看守のおっさんがそうなんです。看守のおっさんは序盤でヘルツシュプルングに暴行を受けて、それ以後彼女を憎んだりもするんですけど、このおっさんの造型が面白いんです。物語的な意味で言えば、主人公の敵対者みたいな位置づけなんですけど、反面、クイズ番組に出演しているシーンがあったり、娘を大事にするような描写があったり、なんかただの悪い奴でもないんですね。かといってそうしたエピソードは物語それ自体には関わっていなくて、この切り取り方は変で面白い。
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 アメリカ映画は良くも悪くも設定に合理的なところがあるから、仮にこれがアメリカだったらあそこで看守の娘は出してこないと思うんです。いや、あの娘は「正式なお辞儀はできるの?」という部分で伏線になるので出すかも知れないけど、仮にアメリカ映画だった場合、もう少しあの親子関係をわかりやすく描き出すと思うんです。でもそれをしない。その分、なんやねん、あのおっさん、と妙に気になるところが出てくる。この曖昧さを残してくるのがなんだか好きですね。観た人はわかると思うんですけど、冷静に考えたら、あのおっさんは後々処罰される可能性があるんですよ、終盤であんなことをすると。でも、それを顧みずにあんなことをしているでしょう? あの辺がねえ、「ちょっと気になるおっさん」なんですねえ。
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おばあさんの過去が随所で挿入されるんですが、説明無く放り込んでくるカットがいくつかあって、ここもいい。うん、最近は気づけばアメリカ映画ばかり観ていたので、非アメリカ映画的なタッチの演出、わかりやすさよりも違和感で攻めてくる演出が新鮮に感じられました。あのおばあさんの過去も曖昧です。でも、心地よい曖昧さでした。そこはそんなに詳しく言わんでええやん、ほのめかす感じでいこうや、と監督が考えたのなら、ぼくにはばっちりはまりました。この映画はおのおのの過去や背景について、たくさん語ってくれなくていい。女の子の過去ももやっとしているでしょう、親父との関係とかね。でも、もやっとしていていいんです。これについては断言する。もやっとしていていい。
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つくづく映画というのは本当に奥が深いなあと思いますね。語ったほうがいいこと、描写したほうがいいことと、そうでないことの垣根って、ものすんごい微妙です。その配合を誤れば冗長になったり食い足りなくなったりするのであって、いい映画はそのバランスを巧みにとり、そうでない映画はいつの間にかしくじっている。要は編集と脚本の問題になるんでしょうけれど、これは奥が深いテーマですよ。深すぎて今のぼくには到底語り得ないです。そこを語れればこのブログももうちょいしゃきっとするのでしょう。はい、精進いたします。
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 ピアノ演奏シーンもよかったですねえ。やっぱり、女の子がクラシックに収まっていかないところがいいじゃないですか。師匠のおばあさんはクラシックが大好きで、「低俗な音楽なんて演奏するな」と言うんですけど、女の子は言うことを聞かない。考えてみれば、あのズベ公がクラシックなんて弾くのはぜんぜん合っていないわけで、大人しくマイ・フェア・レディになったら最悪なんですけど、見事にその方向を回避しています。

 あのー、結構危険というか、取り扱いの難しい内容なんですよ。クラシックが好きで品のいいおばあさんが、囚人でやんちゃな女の子にピアノを教えるとなると、大人しく仕上げて更正するみたいになりかねないわけです。でも、絶対そっちにはいかない映画ですね。権威の中に回収しない。
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 おばあさんの過去として語られるものがそうで、彼女はたぶんにアウトサイダーなんですね。かつてナチスという権力によって友人を殺され、自らは同性愛者であり、最終的にはピアノを演奏させるべくごろつきの力を借りて女の子を脱走させる。正式のお辞儀を要求したり、正統なクラシックを愛したりする反面で、そういういわば普通ではない側面も持っている。この辺の揺らぎがすばらしいのです。

 「人間」というものについて観ながらあれこれ考えさせられる。
 たとえば、こういうものの言い方ってあるじゃないですか。
「元不良が更生して美談みたいに扱われることがたまにあるけど、あれって変だよな。だって、ずっと真面目に生きてきたやつのほうが絶対偉いじゃん」みたいな言い方。
 さて、果たしてそうなのか。
 ずっと真面目に生きてきたやつは人に迷惑を掛けていない点で偉いけれど、別の見方をするなら、ただ周りに流されて唯々諾々と楽な道を歩んだだけじゃないのか。声をあげるべきときにあげることもなく、戦いを避けてきただけじゃないのか。また、不良のほうにだって、そうやって生きていくほかない境遇があったんじゃないのか。真面目に生きられたやつは偶然そうやって安穏と生きる道があったからいいけれど、そうじゃないやつだっていっぱいいるわけで、世の中に牙をむかなくちゃやっていけない事情だってあったんじゃないのか。

 囚人の彼女の過去が部分的にしか語られないので、たとえばそんな風なことも考えてみたりしました。ただ黙々と囚人生活を送っていればよかったのか。彼女はあの場面で、脱走しないほうがよかったのか。おばあさんは彼女を脱走させないほうがよかったのか。あのラストの演奏は、生まれないほうがよかったのか。そうじゃないだろう、と思わせるラストです。

 あのラストはネットにアップされるくらいに圧巻のものでしたね。あれはちょっと予想だにしなかったというか、まさかあんな演奏法があるなんてと度肝を抜かれました。あのパフォーマンスはめちゃ格好いいですね。ああいうのを観ると、月並みもいいところですが、「芸術の力」みたいなものを感じます。あの一瞬が、人生を支えてくれるんじゃないかと思わせますもの。
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 これはびびっと来るもんのあった映画でした。お薦めいたします。
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笑いを尊ぶ人にお薦めします。
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 ぼくは人を笑わせようとする人が主人公の映画にどうもぐっときてしまうんですね。
有名なところで言えば『キング・オブ・コメディ』がそうですし、去年観た映画のベスト5にしました『パッチ・アダムス』もそう。あと、映画好きにはことごとくスルーされている感じの松本人志監督『さや侍』も好き。あとはチャップリンの『独裁者』もその系統だと感じています。チャップリンの『街の灯』なんかも、女性になんとか笑顔をもたらそうという映画ですね。だからこそ切なさが宿るというのもあって、笑いという要素がギャグとは別のひとつの軸として描かれると、ぼくはどうにもほろっとしてしまう。
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『パンチライン』はスタンダップコメディをする青年とおばさんが主人公で、それぞれをトム・ハンクス、サリー・フィールドが演じています。監督は『オーメン』などの脚本も手がけたデヴィット・セルツァーという人です。
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 日米の笑いの違いとして、日本ではスタンダップコメディというものがほとんど広まらないですね。日本では漫才やコントがメジャーだし、ピン芸でも純粋に漫談と言えるものはぜんぜん出てこない。もちろん芸人が一人でトークをするようなものもあるけれど、スタンダップコメディとはまったく別種のものでしょう。その違いの核にあるのがおそらく、「ジョーク」という概念ですね。日本には「ギャグ」はあっても「ジョーク」はない。ぼくの述べる「ジョーク」というのは「固有性のない、ごく短い笑い話」くらいの意味合いですが、こういうものは日本ではなぜかちっとも流行らない。

 アメリカ以外の諸外国はどうなんでしょうね。アジアとかヨーロッパは。その辺の知識はまるでないんですけれども、アメリカの場合にジョークという文化が根付いたのは、お互いが人種や民族、背景を異にする国だというのが大きいのではないでしょうか。お互いに背景が違うし、どういうコミュニケーションをつくっていけばいいかに悩んだとき、ジョークというのはちょうどいい潤滑油になるのでしょう。人種ネタや民族ネタが多かったりするのも、互いが自虐的にネタにしあったり、背景を共有したりするのに役立つというのがあるのではないでしょうかね。あるいは背景が不透明な分、会話の中でボケていくのが難しい場合に、ジョークという形式でパッケージングすると笑いを生みやすいという理由もありそうです。

 笑いの分析をするのは楽しいのでいつまでも続けてしまいそうですが、映画はというとそんなジョークを武器に舞台に立つ人のお話。医学生崩れのトム・ハンクスが、主婦でコメディエンヌを目指すサリー・フィールドに指南する形で関係が生まれていきます。
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 サリー・フィールドは三人の子持ちの主婦という設定なのですが、ぼくとしては珍しく、すっとこの種のキャラクターに感情移入できました。やっぱり笑いを志す人物だというのが大きいのだと思います。彼女は家事や夫の不理解に悩まされながらも、笑いの舞台で活躍することを願っているのです。
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『パッチ・アダムス』のときにも書きましたが、笑いというのは生の肯定なのです。人を笑わせたいと思うとき、人はその相手の笑顔を欲し、またその笑いを生むことで自分の感性を信じることができる。彼女が誰かを笑わせたいと願う姿は、活き活きと生きたいと願う姿そのもので、だからこそ自然と応援してしまうのです。
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 この映画でいいなと思ったのは、彼女の夫の立ち位置ですね。ジョン・グッドマンが演じているのですが、この夫は夫で、彼女のことをちゃんと愛しているんです。「人を笑わせる才能が無くっても、家族は皆君のことを愛しているよ」なんて台詞をさらっと入れてくるあたりに、おお、と思わされます。観ているとしばらくは、あれ、夫はちょっと敵対者っぽくなるんかな、と思うのですが、そうじゃないんですね。サリー・フィールドが変な髪型になったくだりで、ああ、この夫はええ夫やな、とはっきりわかる。シニカルな対応もせずに、真面目にしっかりしているんです。グッドマンです。
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 トム・ハンクスが彼女に惚れてしまうんですが、あの辺はどうなんかな、というのはありました。まあ、関係に綾をつけたいというのがあったんでしょう。単に支援者だったりしても平坦なんで、ちょっと危うい要素も入れて、それが彼女と夫のつながりをくっきりさせるという効果もあったのでしょう。だからあれはあれでまあよいのです。
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 それと、これは小さなエピソードがぽろぽろ入っている映画ですね。たとえばトム・ハンクスの父親が舞台を見に来る場面。トムは医学生崩れで、厳格な親父には自分の境遇をいまひとつ誇れずにいたりして、それで舞台でもすべってしまう。あのエピソードがまるきり回収されずに放り出されてしまったのはいささか難点ではあるのですが、言ってみれば若手芸人に過ぎない彼の、自分を誇れずにいる姿を描いているのは、これはこれでありなのです。人を笑わせたいって強く願っているのに、それで身を立てたいって思うのに、それがなかなか果たせずにいるのは、そりゃ、辛いもんです、うん。

笑いに携わる人々の光と影みたいなもんも端々で描いているんですね。おじいさんのくだりもそうです。映画ではクライマックスに、テレビ番組の出演を賭けたコンテストが開かれるんですが、コメディアンとして舞台に立ってきた一人のおじいさんは、そこに選ばれないんです。「未来のスターを発掘するものだから、あんたは出られないよ」みたいになるんです。これはこれで切ない。あのおじいさんのエピソードをもっと観たい気もしました。あまり背景が描かれないからもったいない部分です。

 で、おじいさんは失意して落ち込んじゃって、で、哀しい負け惜しみを言うんですね。「自分は昔、ラスベガスのショーで優勝して、エド・サリバンの番組にも出たんだ。このコンテストで優勝して番組に出たって、あれに比べればぜんぜんたいしたことないんだ」みたいなことを言うんです。このおじいさんのくだりはほとんどそれきりに放り出されるんですけど、なんか、切ないです。こういうのをぽんと入れてきます。エピソードが回収されない分だけ、観終えた後に余計哀しくなってくるところもありますね。
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 そういった悲喜こもごもがありつつも、映画は進んでいきます。ところどころ未消化な部分も目立つ作品ではありますが、観終えた後で、笑いを巡るあれこれに思いを馳せてしまいますね。映画自体は1988年のスタンダップコメディを描いた作品とあって、英語も不十分なぼくは十分に笑いを理解できていないところもあるんですが、そういうのはあまり気になりません。笑わせようとする人と、その場所があるだけで、伝わってきますから。この映画を観る際の注意としては、劇中のジョークで笑えないとかそういうのを気にしないことですね。そんなのどうでもいいことです。もっと大きな目で笑いというものを捉えてほしいと思いますね。

人に薦めるかでいえば、人を選んで薦めます。笑いというものについて、ちょっと踏み込んで考える人には薦めたいです。観ている途中で思い出したのですが、爆笑問題の太田光がこの映画について短い文章を書いていて、あらためて読んでみると「笑いに尊敬の気持ちを持っている人がつくった映画だ」というようなことを言っています。笑える映画を観たい、という人向きではありませんが、笑いを大事にしたいと思っている人には観てもらいたいと思いますね。
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ポスト冷戦構造を予見している作品
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 監督は『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・バダムですが、あの映画は心に残る一本であります。何かというとあの映画は「きらびやかなディスコで踊るトラボルタ」のイメージで語られるものでありますが、そのときの記事でも書きましたとおり、あの映画で大事なのは土曜日の夜ではない。狂騒と魅惑の土曜日を終えたあと、日曜を過ぎて、さて次の月曜日からをどう生きていこうか、という真面目なお話なんですね。若い頃に観ておくべき作品の一つと言えましょう。

 さて、『ウォー・ゲーム』です。今から30年も前の映画で、その内容や描写から強く時代性を感じる作品でありました。主人公の少年はパソコンいじりが得意で、学校のコンピュータにハッキングして自分の成績を書き換えてしまうような男の子なのですが、彼がふとしたことから宇宙防衛司令部の核ミサイル制御システムみたいなもんにアクセスしてしまい、実際の核戦争にまで発展するんじゃないか、こらえらいこっちゃ、という話です。
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高校生の少年がいくら特殊なパスワードを見つけたからと言っても、そんなたいそうなシステムにアクセスできるわけないじゃないか、核ミサイル制御システムがそんな簡単に外部からの侵入を許すわけないじゃないか、というのもね、まあ時代が時代のご愛敬ってなもんでしょう。なにしろ今から30年前にトリップして、パソコンの話をしたところで、普通の人々は何のこっちゃわからないでしょうからね。企業や官庁などは別としても、人々の感覚からすれば、「なんかコンピュータってのはすごいんだな」くらいの時代でしょう。日本にはインターネットがなかった時代ですし、コンピュータウィルスという概念さえ世界にあったんだかなかったんだかという頃です。
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そうは言いつつ、ぼくなどには実のところ、ハッキングやクラッキングというものが今世の中でどれくらいのもんになっているんだか、まるで見当もつきません。アノニマスなんて集団がどれくらいの破壊力を持っているのか、サイバー攻撃なんてものが戦争で用いられることがあるのか、この辺はさっぱりわからんちんです。
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 ただ、この映画で用いられた「外部からシステムを動かす」というアイディアはその後の映画でいろいろと利用されてきたわけで、その点面白い作品であるなあと思います。それとも何かこの映画にも元ネタがあるのでしょうかね。この映画で描かれていることは、実は冷戦崩壊後の世界をもちょっと予見している節がありますね。
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 この映画の時代は1983年で、まだ米ソ冷戦が続いていた頃です。劇中でも米ソの対立が主軸となっていて、米軍の宇宙防衛司令部の人々はソ連からミサイルが発射されるのではと戦々恐々としています。
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『ウォー・ゲーム』というのはその名の通りで、劇中で主人公の少年がアクセスしたプログラムは、まるでゲームのごとく、米ソの戦争をシミュレーションし始めます。そのプログラムがそのまま司令部のシステムに影響してしまい、司令官はじめ職員たちは「ソ連がミサイル攻撃を仕掛けてくるぞ!」「レーダーに反応があるぞ!」とてんやわんやになるのです。本当は何もないのですが、まさかそんなプログラムがあるとは知らない彼らは、本当に攻撃されるのではと怯え始めるわけです。
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 米ソの時代がはるか昔となった現代ですが、『ウォー・ゲーム』は興味深い構図を描き出します。といいますのも、米ソの時代というのはつまり、超大国がそのシステムを揺るぎなく保持できた時代でもあるわけです。確かに米ソは互いに脅威を感じていた。ただその対立はつまり、明確な敵を描き得た、ということでもありました。アメリカはソ連を相手にすればそれでよかった。
 ですが、冷戦が終結して911を迎えるとそうはいかなくなった。どこにいるのかもわからないテロリストが相手になってしまった。『ウォー・ゲーム』はそこが面白い。この映画で本当に脅威だったのはソ連じゃない。そして実はコンピュータの暴走でもない。脅威なのは「個人が強大なシステムを脅かせる」ということです。もちろん現実的に考えて一人のクラッカーが国防を左右することはできないでしょうが、超大国に比べれば遥かに小さな集団でも、手段如何によって超大国を相手取れてしまう、ということです。今のところ、テロリストの手に核が渡ったなんて映画みたいな出来事は起こっていないようですが、それでも北朝鮮程度の国力で、核を持つだけで周辺国をびくびくさせられる。『ウォー・ゲーム』は、一個の「安定した」米ソ対立時代から、脅威が拡散する時代への変化を予見したものと言えるのではないでしょうか。
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とはいえ、今もなお当時と同じように、核抑止の時代です。イスラエルにしろイランにしろ北朝鮮にしろ、「核」があるとないとじゃ大違い、の時代です。映画では「相互確証破壊」の考えが描かれ、「結局そんなことやっても勝者はいないんだ」というメッセージがもたらされますし、超大国同士が核戦争をやるメリットはない、とひとまずは言える。でも、もう超大国の論理では立ち行かなくなっていますので、あの頃よりも深刻化しているとも思うのですね。飛行機でビルに突っ込む連中にメリット、デメリットの話はできない。イスラエルとイランをめぐる核保有の論議、アフガンの泥沼と相まって、うん、ちょっとこの先何がどうなるってのがね、読めない読めない。
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 なんか堅苦しい話になりますなあ。堅苦しいわりに無知なもんで中身がないですなあ。

 まあ、こうした映画を通しまして、世界の動きに思いをめぐらせるというのは、個人として必要なことなんじゃないかしら、とは思います。正直な話、ぼくは架空の、ファンタジーなどの戦争物とかってぜんぜん興味がないんですね。架空の世界でなんとか国となんとか国が戦ってどうたらってのはもう心底どうでもいい。そういうのはテレビゲームで十分。今のぼくは、現実の世界に引きつけてでないと映画をうまく観られない、楽しめない、という状態です。映画を映画として愛でる、ということができなくなりました。その意味でぼくはたとえば「映画クラスタ」とかそんなのとはやっぱり距離を置き続けていくわけなのでした。おしまい。
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あらためてご紹介

 いやあ、映画について語る気がしない日々であります。ぼかあ年に幾度かこういう風になります。そう思うとコンスタントに映画の感想をアップしている方々というのは本当にすごいですね。

 映画は観ていないわけじゃあないんですけれども、どうもレビウをしたためたくなるような作品には出会っておらず、もとい、レビウを通して見方を深めようという気にならず、最近は恵比寿マスカッツのことばかり考えていますね。

うん、ぼくがここで映画を紹介したりするのはひとつに、こんな映画を観てこういう風に思ったのでぜひあなたも観てください、という布教的な意味合いがあるわけですけれども、その点で言うと、ぼくは今どんな映画を薦める気にもならず、なぜなら恵比寿マスカッツをまず皆々様に知っていただき、そして恵比寿マスカッツを盛り上げていこうじゃないかというほうが強いのであって、このうえはkarasmokerは映画評を書く人ではなく、「恵比寿マスカッツのエヴァンジェリスト」として認識してもらいたいとさえ思うのですね。

そんなわけで、恵比寿マスカッツの回です。これを数ヶ月にいっぺんくらい挟まないとストレスがたまります。映画の話ばかりするのは窮屈でなりません。恵比寿マスカッツを知らなかった人には知っていただきたく思います。以前からぼくがガン推ししているから知ってはいるけどスルーし続けている、という人はいい加減目を覚ますべきなのです。なにしろこのぼくがですよ、冷静な洞察ときわめて鋭い批評眼で映画を評し続けているこのぼく様ちゃんが、こんだけ推してるわけだから良いに決まっているのです。大人しくファンクラブに入るべきなのです。

そもそも恵比寿マスカッツがその産声を上げたのは今からちょうど4年前、2008年の4月のことであります。テレビ東京の『おねがい!マスカット』という番組の中で結成されたのです。番組は現在『おねだり!!マスカットSP』という名前で、途切れることなくついに5年目に突入したのであります。

 現在のメンバーは4月から入った人も加え、総勢31名を数えます。そのうちの16名がAV女優であります。このAV女優という存在について云々するのはもはや飽きましたので多くは語りませんが、ぼくはAV女優を主要メンバーとするこのグループにとにかく惚れ惚れしているのであります。

 女性はおくとして、男子諸兄の皆様におかれましては、常日頃お世話になっている方が多かろうと思います。お世話になっているのだから応援すべきなのです。実に簡明な理路であります。また、それとは別に、AV女優という生き方には一種の尊敬を覚えるのであります。世間には「乳首を死守したい映画女優」がごまんといますが、あんな連中に騙されてはいけません。また、「処女幻想をばらまいて飯を食おうとするアイドル」もごまんといますが、これまた目くらましの女狐なのであります。もっとAV女優という存在の尊さを見つめなくてはなりません。男子の沽券、ひいては国家存亡に関わります(関わらない)。

 さて、恵比寿マスカッツを知らずしてこの記事を読んでいる貴方は幸福であります。なにしろ今からこのぼくが恵比寿マスカッツの主要メンバーであるところのAV女優たちについてご紹介していくからであります。ついに貴方も啓蒙の時を迎えるに至りました。そのことをぼくは祝福します。恵比寿マスカッツを知り、その魅力を感じることによって、貴方の汚れきった魂は浄化され、澱みきった眼は澄み、腐りきった耳は福音によって癒され、人生の導きを得ることでありましょう。そしてその暁には、「そうだ、あのとき私を目覚めさせてくれたのは、あのkarasmokerという方だった。あの人に是が非でも大金を渡したい。財産分与を本格的に検討したい」などと考えてもらい、実際に振り込むなどしてくれることがあれば、ぼくはもうそれだけで満足であります。

 ここからは実際のAVのパッケージをご覧に入れつつ、16名のご紹介を始めたいと思います。有害だわ、PTAの会長さんに連絡しなくっちゃだわ、そして教育委員会とマスコミ各社にこの紊乱きわまる記事を告発しなくっちゃだわという品行方正な奥様方がいらっしゃいましたら、もう二度と来ないでください。あなたのためにブログを続けることはありません。

麻美ゆま
 二代目リーダーにして番組の元気印。2005年のデビウ以降AV界のトップを走り続けております。この方の笑顔に癒されたる諸兄は数知れぬのであります。
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吉沢明歩
こんなにもお美しい方が他にいらっしゃるでありましょうか。その輝かしき美貌は他のメンバーさえをも惚れ惚れとさせてしまうのでありまして、吉沢明歩を愛でることはもはや我々が太陽を欲するのと同じことなのであります。
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Rio
 番組での活躍度は計り知れず、エースであることは誰もが認めるところであります。正直なところ、麻美、吉沢、Rioの三人だけでもはや他のアイドルグループの小娘などすべて凌駕しているのであります。

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蒼井そら
 今現在のAVアイドル文化、その急先鋒としてゼロ年代を駆けたのがこの蒼井そらであります。現役AV女優でありながらバラエティなどにも出演し、風穴を開けた功績は高く評価されるべきものであり、そりゃあ四千年の歴史を誇る中国の民も惹かれずにはおれぬのであります。
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初音みのり
 どこか冷たい目を持ちながらも野蛮さを備えるのであります。トップグループを張るタイプとは異なるものの、彼女の存在、不在によって華やぎはまるで異なるのであります。

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西野翔
 バラエティ的振る舞いを十分に会得している一方で、どこか影があるのもまた魅力であります。同じグループに所属するメンバーでありながら吉沢明歩に崇敬の目を送るという、「なんやその立ち位置」というような奇妙さに笑わされるのであります。

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佐山愛
 番組内ではデブと揶揄されたりもしますが、セクシーダイナマイツであります。間近で実際のボディを拝見することができたなら、ぎんぎんのふにゃふにゃになってしまうこと請け合いでありましょう。
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小川あさ美
 ボディコンワンレンがグンバツに似合う一方で、中国の高級娼婦のような妖艶さを持ちつつ、馬鹿であるところがこれまた面白いのであります。
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 以上が番組開始当初より在籍する面々であります。言うなれば新選組における試衛館道場の志士たちと言えましょう。そこに以下の方々が加わることによって、恵比寿マスカッツは他に類を見ない不世出のグループとなったのであります。

桜木凛
 二期生の星であります。キャンディーズのランちゃんを彷彿とさせる素敵さがありまして、そのキュートな声にめろめろなのであります。

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希崎ジェシカ
見た目からとんがっている感じかいな、と思いきや、こらええ子やないけ、と思わされるのであります。イタリア人のクォーターで、他のメンバーにはない異風の香りもまた独特の魅力を放っているのであります。

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かすみ果穂
 グループのバラエティ戦力値を大きく引き上げるのが彼女であります。スパロボでいうところのグランゾン的な頼もしさがあります。彼女なしに番組は立ちゆかぬといっても過言ではないでしょう。

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瑠川リナ
 非常に独特な魅力を感じるのであります。単に可愛いアイドルなどごまんといるのでありますが、ちょっとクセのある可愛さがあり、しかしその魅力をひとたび感知すればめろめろなのであります。静止画やジャケ写では伝わらないキュートさに溢れております。
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希志あいの
 麻美ゆまに次ぐ三代目、現リーダーであります。瑠川リナと同時に加入したことによって、このグループの戦力値を大いに高めました。かすみ果穂とともに下ネタをがんがんぶっこんでいく点も実にたくましく素敵なのであります。

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里美ゆりあ
 この方の加入もまた番組にとっての大きな起爆剤になりました。この美貌の一方で、非常に自由な振る舞いが面白く、もう里美ゆりあが喋るだけでおもろいやんけ、の域に達しているのであります。
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春菜はな
 四月からの新加入であります。未知数であります。
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安城アンナ
 四月からの新加入であります。未知数であります。

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 いかがでありましょう。錚々たる面々とはまさにこのことでありまして、小娘アイドルどもとは格が違うと言わざるを得ません。これでもまだ全メンバーの半数です。どうでしょう。もう恵比寿マスカッツを推す以外に貴方に何ができるというのでしょう。
 男子諸兄が尊ぶべきアイドルグループは他にありません。
 これはもう、そういうことなのです。
 さあ、貴方も恵比寿マスカッツを愛でるのです。そして、この世の真実というものに気づくのです。その後、ここが肝心ですが、貴方に真実の道を示したのはこのkarasmokerであるということをよく肝に銘じるのです。家賃を払う必要はありません。私を信じていれば大丈夫です。お布施は貴方のお気持ちで結構でございます。皆様は百万、二百万といった金額をお納めくださいますが、これもまた信心の表れというものでございましょう。お布施に関してご不明な点があれば、ご相談いただければと思います。
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