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表層の部分ではなく、彼の思想について考え出すと、ぼくたちは無辜なのかという不安が生まれる。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Rampage』
 このパッケージだとハリウッドアクションっぽく見えてしまうのですが、ぜんぜんそんなのではなく、世間でいうところのいわゆる「パラサイトシングル」が大量無差別殺人を行う話です。歴史上でも、現在の世界でも実際に起こっている出来事の類ですが、それをさらに大規模にしたような内容です。

 ウーヴェ・ボルという監督のことはぜんぜん知りませんでしたが、なんでもゲーム原作の映画化などをしてその出来により大変な不評を買い、かなり嫌われている監督でもあるようです。ただ、この映画についてはそんなに悪くないというか、作品の出来それ自体は十分飽かずに観られるものだったと思いました。時間も90分に満たないし。
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 常識的な感覚で観たら、唾棄すべき類のものだと思います。なにしろまともに自立しようとしない若者が自家製アーマーを着込み、ただただ街の人々を殺しまくるのです。しかも、追い込まれて精神的に錯乱しているようなわけでもなく、俺は自分なりの思想をもってやっているんだぜ的なところが輪を掛けて腹立たしいのでありまして、しかし腹立たしさを覚えさせるということはこの映画がそれなりによくできていた、ということでもあるわけです。
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 ドイツ・カナダ制作ということですが、アメリカの田舎が舞台です。主人公は人生がうまくいかない多くの人間がそうであるように、世間に対して鬱屈を抱えていて、「行動を起こしてやる」みたいなことで大量殺人に走るんですね。まず最初に警察署を爆破したところがミソで、それによって街の治安機能を麻痺させ、やりたい放題に殺しまくるわけなのです。

 あんなうだつのあがらないやつがあんな爆薬をつくれるのか、警官の銃が効かない一方で身軽に動けるあんなアーマーは軍隊でも持っていないんじゃないか、そうした装備一式を取りそろえて銃まで所持するその金をいったいどこから調達したのか、街の中にも銃を所持している人はいるだろうのにあまりにも主人公にやられ放題じゃないか、などといろいろ思うところもあるわけですが、「こいつはどこまでやるつもりなのだ?」と思わせつつ殺人の限りを尽くすので、先が気になるのですね。こいつがむかついてならないのですが、それもまた引っ張りになるわけです。スプラッタ系の猟奇殺人ものだと、まだ一人一人の被害者の残虐描写に時間を割いたり、そのインパクトに頼ったりするわけですが、この映画だとなんとも軽々しく人々が殺されてしまう。その点に、この映画の持つ不快さの鍵があるような気がします。
 
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 殺人鬼なりなんなりが出てくる映画って、変な話、まだ安心できるのはその殺人鬼が「狂っている」あるいは「人格を持たないモンスター化している」からなんですね。でも、この映画の主人公は自分なりの考えを持ってしまっている。それはつまり、人の命をなんとも思わず、むしろ「人口を減らせば長期的に見れば世界のためになるじゃん!」という口実を見つけてしまっているということです。この映画で軽々しく無辜の人々が殺されることと、彼の考えは一致しているわけです。彼は命をなんとも思っていないどころか、むしろ積極的に減らすべきだと考えている。
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 もちろん、そんな思想を受け入れられるわけはない。端的に言って、物事を単純化しすぎた頭の悪いやつです。しかし、現実として、こういう物事を単純化して自分を正義とみなす馬鹿、というのは相当数いるのでしょう。ぼくは彼が虚構的な存在に思えなかったんです。というのも、たとえばぼくと彼の間に、どんな垣根があるのか?
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 おいおい、穏やかじゃないぞ。

 いやいや、違うのです。ただ、こう考えてみましょう。
 彼は顕在的大量殺人者ですが、じゃあぼくたちは果たして、まったくの無辜と言えるのか?
たとえば、タイムリーな話題で恐縮ですが、生活保護受給の問題でいえば、仮に受給要件が厳格化されたり、給付水準を引き下げたり、資格のあるはずの人がもらえない事態が発生するなどした場合、その結果として死に至るケースが出た場合、厳格化を推進した人、その方向性に賛同した人は、果たして無辜なのか? そのとききっと、そんな人は現場に責任を押しつけるという行動に出るでしょう。自分は悪くない、自分は国や地方の財政を健全化させる必要があると思って賛成しただけだうんぬんと言うでしょう。さて、本当に無辜なのか? いや、もしかすると、「自分には責任がないと言えるくらいに間接的な形で」人の死に関わっているんじゃないか?

言い出せばいくらでもきりのない話です。どんな戦争であれ、その戦争を支持した人々は、他人の死に対して何の責任もないのか? 戦争が始まれば兵士は死ぬ可能性が十分にあるし、その戦場となる場所の一般市民にもまず間違いなく犠牲者が出る。戦争が何なのかわかっていればそれは当然織り込み済みのはずで、そのうえで戦争を支持することは、殺人への関与ではないのか?
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 もちろん、支持した市民が法的に裁かれることはない。あってはならない。自衛のための戦争というものだってあるし、相手を殺さなければ自分が殺される局面というものも考えられる。一概に言える話じゃない。ただ、一概に言えないからこそ、まったくの無辜という立場が取れるのか? という疑念が生まれる。
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 長々と映画から離れて恐縮ですが、彼の思想はまったく現実には存在しない、虚構的なものだとは言い切れない。程度の差こそあれ、自分たちの利のために相手のことなど案じない、という生き方は、たびたび選択されている。そして場合によっては、それが合法であるがゆえに、たちの悪いものなのかもしれない。

 回りくどいようなので、刺激的な文言で短く言ってみるなら、「ぼくたちは皆、潜在的な殺人者じゃないのか?」ということです。たとえばぼくたちが持っている財産を半分でも貧しい人に寄付すれば、その人は死なずに済むかも知れない。ぼくたちが消費を増やせば景気がよくなって、生活保護うんぬんの世知辛い話も吹き飛ぶかも知れない。でも、それはできない。なぜなら、「自分には自分の生活があるし、今後の経済がどうなるかもわからないし、自分の財産を人に譲るなんてできない」からです。つまり、人は自分のことでせいいっぱいなのです。しかしこれは言ってみれば、カルネアデスの板です。自分の命を守るために人を見殺しにしても罪に問われない。自分の生活の満足のために、社会に無関心でいても罪にはならない。そのときぼくは思う。ぼくたちは所詮、浮くための板を必死で守ろうとしているだけじゃないのか? その横で死を迎える者を自分のために見殺しにしている潜在的殺人者じゃないのか?

 こうしたことを考えていくと、「人類のために人口を減らすよ」という彼の究極的な思想を、果たしてどのように否定できるのか? 実はこれは『逆襲のシャア』におけるシャアの思想でもあるんですね。地球の人類は愚かしくも地球を破壊し続けている。制裁が必要だ、という彼の思想に通じているのです。その話をし出すともう収拾がつかないのでやめます。

 表面的に観れば、鬱屈した糞みたいな奴の大量殺人映画、まったく胸くその悪い作品、ということはできる。しかし、その背後にある(たとえ馬鹿げているとしても彼が語る)考えを聞くと、はて、と思い悩んでしまうところがある。これは政治哲学的な領域にも踏み込んでしまいそうな話なんです。虐殺は最悪だ、と言いつつ、国家は戦争を散々繰り返してきたわけです。

 なんだよ、もっと映画の中身についてレビウをしろよ、と思われたらすみません。この前にも述べたとおりに、ぼくは今、映画について、「あのシーンはいいよねー」的話よりも、こういうことを語りたくなるのです(だから休止するのです)。映画なんてのは観れば誰だって感想の一つくらい出るものなんですから、それはあなたが勝手に感じればよいこと。ぼくはそこから映画外に踏み出したくなってしまうのです。

 まあ、そんなところなのです。
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以前観たときはわからなかったのですが、今観るとよくわかるんです。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ずっと前に観たときはぜんぜんぴんと来ずにいたのですが、そのときは集中して観ていなかったらしく内容もかなり忘れまくっていて、あらためて観てみればなんとも味わいのある作品でありました。やっぱり、年齢やら知識やらによって、映画の見方というのは変わってくるものなのですね。観る機会を与えていただきありがたく思います。

『ガタカ』のスペルは「Gattaca」で、DNAにおける基本塩基四つの頭文字を組み合わせた造語です。劇中では主人公の勤める会社名を指しています。
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 この映画の世界では遺伝子診断がものすごく発達しており、男女の産み分けや出生前診断は当たり前になっているのですが、イーサン・ホーク演ずる主人公はその種の診断を受けずに生まれており、寿命が30歳前後であろうという過酷な運命を担っています。
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 そうした遺伝子診断は職業選択にも大きな影響を与えております。彼は宇宙開発の会社に勤めているのですが、そこは遺伝子的に、まあ言ってみれば「優等」な人間でない限り、入れない場所なのです。しかしなんとか宇宙に行ってみたいと願う彼はその種のプロにお願いし、優等な遺伝子を持つ人間に接触し、その人になりすまして会社に入るのです。
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 映画自体はアクションがあるわけでもなく、めざましく未来的なガジェットに溢れているわけでもなく、近未来的なオフィスの中が舞台の、まあどちらかといえば地味な作品でしょう。だからSFと聞いて『スターウォーズ』とか『トランスフォーマー』とか、宇宙の戦艦がやってきてどんぱちみたいなのをイメージする人にしてみれば、娯楽性に乏しく映るかも知れません。昔のぼくはそういう風に思ってあまりちゃんと観られていなかったんですね。でも、今のぼくにはこの手の話のほうがずっといい。この映画は宇宙開発時代の話なのに、宇宙のビジョンはほとんど出てこない。星空がせいぜいです。でも、それでいい。それがいいのです。
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 お話としては、主人公が任務として憧れの宇宙に行くまでの間に、彼の身分詐称がばれてしまうのではないか、という「なりすましもの」的どきどきが引っ張りになります。なにしろ髪の毛一本から即座に身分が割れかねない状況なのです。彼は垢が出ないように毎朝体を丹念にこすったり、キーボードの埃をこまめに掃除したりを繰り返し、とにかく気を遣い続けます。ところがそれが至らずに彼の「不適合な」身体の欠片が発見され、さあ、どうなるのか、ということなのです。
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 構造としては、歴史上でもたくさん発生してきたことに近しいです。差別があって、主人公は身分を偽って暮らしていて、でもそれがばれそうになって、というものですから、たとえば黒人奴隷が脱走して市民として暮らそうとしているとか、ユダヤ人がナチスに隠れて暮らしているとか、キリシタンが幕府に隠れてイエスを崇めたりとか、そういう対・差別のなりすましもの。しかしそこに遺伝子や宇宙というわかりやすく未来的な要素を入れてきたことで、スタンダードにして新しい作品になっている。
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 ただ、遺伝子による差別、というのは何も新しいわけではなくて、実を言えば黒人差別ってそういうことですね。黒人としての遺伝子を持つ人を、その形質によって差別しているわけですから。だからこれはきわめて古典的な差別問題を扱っているとも言える一方で、それが今後の社会で何かの形で起こりうるのではないか、という想像もさせてくれます。
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 もちろん、今後の社会で、遺伝子そのものによって社会的な被差別を受けるということはまずないでしょう。しかし、ゲノム研究がさらに進んでいけば、この映画のように出生前診断による産み分けが広がることは十分に予測できる。いや、というか、既に起こっている。「出生前診断」でググればそんな例はいくらも出てきます。これは今後の社会における非常な難題です。胎内の子どもを検査したら高い確率で難病になる、そういう遺伝子を持っているとわかった。さて、生むべきか、中絶するか。これはもう、ちょっとやそっとで語れるテーマじゃないです。ぼくは今のところ、回答を避けるほかありません。

企業にしても、優秀な人材を募りたいと思ったら、その種の検査を取り入れるところが出てくるかも知れない。法的に規制を受ける可能性は高いですが、技術が進んで時代が移り変われば、たとえば健康診断で遺伝子診断の結果を出しなさいと言われることもあるでしょう。そこで「30歳で難病発症率が高い」などということがわかり、それが就職や役職に影響を与えるなんてことも、十分考えられる。NASAが「最も現実的なSF映画」に認定したのもわかります。
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 この映画の優秀は、宇宙開発といういまだ不確定要素の大きすぎる分野については、周到に言及を避けているところです。それはあくまでも背景、遠景としての機能にとどめている。それはあくまでも未来と主人公の希望の象徴とするにとどめ、彼自身の物語に焦点を当てている。いや、ここが宇宙であることもまた肝要なのでしょう。劇中、下半身不随の男が出てきて、主人公は彼と取引をすることで「適正な」身分を手に入れるのですが、主人公が彼に向かって言うのです。「宇宙に行ったら、車いすを使わなくてもいいんだぞ」と。これはこの映画の影を大きくする一言です。地球は重力に縛られている、たくさんの規則や、障害や生まれ持った差別に満ちている。しかし、宇宙はそうじゃない。なるほど、見えました。主人公が宇宙に惹かれた理由にも説得力があるというものです。彼はどうしようもない差別を帳消しにする場所として、宇宙に惹かれていたのかも知れません。この映画における宇宙は、未来を表す背景だけではなかったのですね。

 そうなると、他方、海というものもまた意味をなす。そこには社会的差別はない。遺伝子が何だ、自分のほうが泳げるんだ、という主人公の兄への対抗心。彼にとって、宇宙や海はとても意味のあるものだったわけです。
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 がちゃがちゃした要素がないので、物足りなさを感じる人がいるかもしれません。ほら、映画って、がちゃがちゃした要素に面白みを覚えたりもするものじゃないですか。だからそういうのがほしい人向きではないかも知れないけれど、必要なこと、この映画で表せることを過不足なくやっていると思いました。あの殺人事件はその中でもやや過激すぎる出来事ですが、物語を進めるうえでは意味があるし、おかず機能も担っていたのでしょう。
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 以前にはちゃんと味わい切れていなかった作品でしたが、あらためて観て良さがわかりました。これはリクエストいただいたからこそのことでありまして、ありがたく思います。最後の医者のくだり、ぼかあ、好きですねえ、うむうむ。

 この映画はですね、なんというか、グミとかファンタが好きな子どもには薦めませんが、塩辛いつまみとともにウイスキーを飲む良さがわかるような人には、わかると思います。ええ、お薦めいたします。
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昔のコメディの上品さ。戦時中にこれがつくれる余裕。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『To Be or Not to Be』
 今回で450件目の記事を迎えた当ブログでありますが、今日までにリクエストいただきました作品、今回分を含めた残り4本を持ちまして、一度お休みしようと思います。近頃の記事の傾向でもおわかりの通り、ぼくはここしばらくずっと、映画それ自体について語るよりも、映画から読み取れることを考えたいと思っているのです。つまり、映画以外のことを考えたりする時間をもっと取りたいのです。ここ数ヶ月のぼくの興味はざっくり言えば政治、経済、国際情勢、歴史、哲学、政治哲学、テクノロジー、社会などのほうに向いておりまして、これからもそちらのほうでもっと知識を蓄えたり、考えを深めたりしたく思うのです。ゆえに、あと4本でこのブログは当面お休みします。短くとも9月くらいまでの間は更新しなくなると思います。読者の方には申し訳ないのですが、とりあえず、ご報告までに。
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 さて、『生きるべきか死ぬべきか』です。
第二次世界大戦初頭の頃のお話で、ナチス侵攻を受けたポーランドが舞台のコメディです。こうした種類の映画というのは当世ほとんど観られないものですね。今ではナチスというものが既に散々語り尽くされたか、もしくは映画でも散々に利用され尽くしたようなところがあるし、映画内における悪の組織としてデフォルメされたりしている。一方で、歴史的な評価は極悪の権化として固まっているわけで、あまりライトな描き方もできないし、おそらくされるべきでもない、という状況でしょう。
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 この映画は1942年公開でナチスばりばりの頃ですが、まだ歴史的な評価も定まっていないとあって、風刺的な意味合いが強く残っているものであります。しかし、えらい時代といえばえらい時代ですね。悪逆の限りを尽くすナチスが実在している一方で、「ハイル・ヒトラー」のあの敬礼をギャグっぽく描いている。ルビッチはドイツ出身らしいのですが、どういう目線でこの映画をつくったのか、気になるところです。前にも書いたことですが、戦時中にこういう映画がつくれるアメリカには、そりゃあ勝てないわ、と思わされます。チャップリンの『独裁者』もそうですけど、本当にやばかったらこんな映画はできないでしょうし、こういうものを娯楽映画の中でつくりこんでしまう余裕がすごいです。ヨーロッパと地理的に離れているというのも精神的要因かも知れないけど、それにしても、じゃないですか。
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 冒頭からわかりやすいギャグを入れ込んできますね。掴みとしてもグーなのです。これはコメディだぞ、というのがばっちりわかって、掴みはオーケーです。ナチスの芝居をしている人たちが「ハイル・ヒトラー!(ヒトラー万歳!)」の敬礼を交わすのですが、それがまた機械的で、ヒトラーの芝居をする人は「ハイル・マイセルフ!(自分万歳!)」と返したりする。構造も細部も面白さを蓄えているんですね。
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 で、コメディの常道であるところの「なりすまし」をフルで用いている。で、なりすましものはやっぱり、ばれたらやばい、ということが必須になるわけですが、この映画ではナチスが敵に当たるわけで、なりすましのハラハラ感がいちばんわかりやすく効いてくる。なりすましものとはつまりスパイものですが、チャップリンの『独裁者』とともに、これはその後の映画の、ひとつの教科書になっているんじゃないでしょうか。

考えてみると、ナチス潜入以上のスパイものってのはなかなかつくりがたいところがあるようにも思いますね。スパイ大活躍時代と言えば冷戦下でしょうけれど、あくまで冷戦状態ですし、この時代のナチスほどの迫力はない。そのうえで深刻にも描けるし、あのわかりやすい制服やしるしによって、コメディ的にも用いることができる。ナチスというのは最悪の集団なんですが、一方では映画の実りにおいてきわめて重要で、映画は娯楽メディアとして、ねじくれたもんをもっているなあと思ってしまいます。うん、ナチスやヒトラーという存在は、ちょっとやそっとじゃ語れない側面を持っているんですね。
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今の時代で映画を作るとなると、どうしても規模をそれなりに見せようとしたりなんなりされてしまいますけど、この時代のこういう映画は人々のやりとりだけを簡潔に描きますね。その中でいかに密度を上げるか、という方向になっている。これは映画として美しいと思います。昔のコメディが持つ上品さって、あるよね。と言いたくなります。余計なショットも小ネタみたいなギミックも、しゃらくさいサプライズも過激なブラックジョークもない上品さというのが間違いなくあって、変な話ですが、昔のもののほうがずっと洗練されていると感じることが時として確かにある。1930~40年代をハリウッド黄金期と位置づける人がいるのもわかるような気がします。もちろん、映画はいろいろな要素をその時代に応じて取り入れていくわけで、たとえばANCは古くさくなったハリウッドのスタジオ製映画に反旗を翻して生まれたわけで、その後も特撮やCGなどで映画は百花繚乱の時代を迎えたわけですが、ことコメディにおいては、昔のもののほうが構えずに素直に笑えることが多いのです。
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 そうした流れが映画の中で潰えた、わけでは決してないとは思うんです。それほど観ていないので詳しくは言えないのですが、いわゆるラブコメはまだ昔のコメディの伝統が息づいている部分じゃないかなとは思うのですね。そう考えると、日本ではもっぱらOL層をターゲットにしていると思われる「邦題が十文字以上系」ラブコメなども、もっと評価されてしかるべきものなのかも知れません(ただ、観ていないし、しばらく劇映画を観る気もないので、その辺はあくまでも印象論です)。
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 ああ、また今日も細かい内容について踏み込んだレビウをしなかった。いや、まあ、映画の内容なんてものは観ればわかる話なんで、いちいち文章化する必要もないんじゃないかと、そんな風に思ったりもするのです。ドイツのポーランド侵攻、とかについて話したらいよいよ映画のレビウじゃなくなってしまいますし、映画の外形、古い映画の印象などをだらだら語るより今はないのです。古い映画はどうも、という人は、コメディから観始めるといいのではないでしょうかね。とりあえず、そんなところであります。
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韓国的闇づかいも十分な娯楽作。韓国映画の充実期を示すひとつの好例。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ぼくは劇場に行かないたちなので、皆さんより遅れて話題作を観るわけですが、公開時にはツイッターのTL上でも結構賑わっておりましたね。しかしまあ、タイトルのアジョシというのは「おじさん」みたいな意味らしいのですが、韓国映画がときどきやるこのほとんど投げやりみたいなタイトルは逆に面白いですね。『グエムル 漢江の怪物』も原題では単に「怪物」だけらしいし、『シークレットサンシャイン』も(別の意味合いを引っかけているのかもしれないけど)単に地名の「密陽」ですから。『息もできない』にいたっては「糞蠅」です。

 さて、おじさんというにはいささか格好よすぎるウォンビンが主演のバイオレンスアクション映画ですが、これは娯楽作品としては言うことなしでいいんじゃないでしょうか。個人的には映画の娯楽性というものへの感度が鈍っているのですけれど、アクションシーンの迫力とか細かい部分の見せ方とか、日本映画との差を感じてなりません。

 ただ、今の日本でこういう映画を撮れるかというと、映画産業うんぬんとは別に、社会状況的に難しいというのもあるでしょうね。日本的成熟、いい意味でも悪い意味でも落ち着いている日本にあっては、なかなかこの映画のような題材から話を作っていくのには無理がある。以前レビウした『スプリング・フィーバー』でも述べたアジア的活気。とりわけ韓国の場合はいまだ地続きの北国と緊張状態にあるとあって、暴力表現にも生々しさが宿りやすいのでしょう。アジア的生々しさが随所にあります。警察がどやどや踏み込んできているのに、ばばあがラーメンをすすって睨みつけたり。
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 この映画に限らず、韓国映画でよく観られる風景として、近代的な風景と土着的な路地の落差、というのがありますね。一方では金持ちがプール付きの豪邸で女性を侍らせたり、クラブで踊り狂ったり、最新の携帯機器を使いこなしているかと思えば、日本では昭和の映画でしかお目にかかれぬような汚くて薄暗い、古い家屋の建ち並ぶ路地があったりする。これは欧米の映画でもなかなか観られぬ類のもので、日本だと今度は寂れた田舎っぽいほうに振れたりしてしまう。ひとつの物語の中に、都市の中に新旧が入り混じり合う風景は、映画にとって大きな財産でしょう。だから、いずれ開発が進めば、韓国映画にも今のような土着さは多分出せなくなる。その意味で韓国映画は幸福な時代をいまだ保持していると言えましょう。
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 映画に入っていくなら、闇づかいが実によい、ということです。あの闇はもう欧米も日本も醸せない類じゃないかと思わせる。家の中の、生活臭にまみれた空間に映える暗がり。あれは韓国映画の強み、大きな武器です。今の日本映画にはほとんどできない。それは映画制作力どうこうではなく、時代的に日本は既に、あの暗がりに説得力が宿らなくなっている。ああいうものを観るにつけ、「日本映画は韓国映画に比べて駄目ね~」的言説は(過去にぼくも述べてしまっていることですが)、映画を単純に論じすぎているという気がしてくる。社会状況の問題と併せみて論じるべきなのでしょう。ポン・ジュノ監督が言っていた意味がわかります。
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 ああいう風景が、血みどろ劇に厚みを持たせるんだと思う。またそれますが、南アフリカを舞台にした『第9地区』で、バラックに住むエイリアンたちがやけに実在感を帯びていたのもそこで、個々の出来事や存在はその風景との調和で説得力を左右される。韓国映画ではあの薄暗い土間、何が潜んでいるかわからないような路地、ああいうものを背景にすることで、血しぶきひとつとっても見事な画になるのです。だから逆に、明るいシーンだと日本映画みたいな薄さが出ていたりもする。一人の男を拷問する場面があるんですけど、あれは大手の日本映画っぽくて、虚構性が際だってしまう。でも、気になったのはそれくらいです。
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 いつになったら内容に触れるんだ、最近のおまえはいつもそうだ、と言われそうですが、いやあ、だって、ウォンビンが格好いいとかそんなのは、もう散々言い尽くされているでしょうし、いいじゃないですか。そういうのが読みたい人はどうぞ「ウォンビン格好いいよねーレビウ」をお巡りください。
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 内容に触れますと、別段物語自体には目新しさはないのです。ウォンビンがキム・セロン演じる少女を救い出すために頑張る話です。骨格自体を切り出しちゃうと、この映画の魅力はちゃんと伝わらないんじゃないでしょうかね。敵はわかりやすすぎるくらいわかりやすい悪役ですし。でも、あんなわかりやすい悪役、誰がどう見ても悪い奴を出してくるってのも潔いなあと思いますね。なにしろ臓器売買のために平気で人さらいをして人殺しをして、子どもに覚醒剤の合成か何かをさせて、ほとんどショッカーの域です。でもそこまで行くのもあっぱれな話です。いや、それが適当な感じだったら駄目ですけど、悪い奴は徹底して悪いのだ、という風に持って行くのは、いまどきなかなかできるもんじゃないです。そこに子どもをもろに絡ませている露悪趣味はさすがの韓国映画節です。
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 で、昔の東映映画みたいな、宿命のライバルテイストもちょっと入れてくるんですね。あれなども面白い。敵の組織に腕利きがいるんですけど、こいつは最後にあるひとつの大事なことをして、そのうえでなおウォンビンと対峙する。絶対有利の状況なのにあえて銃を捨てて、ナイフで挑む。これはなんだか時代劇っぽいじゃないですか。まさしく『用心棒』ってな案配です。組織とかどうでもいい。おまえを倒すほうが大事だ、というね。
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 演出の細部は好きなところが多いし、全部は語れませんね。これは観た人それぞれ、何かしらあるんじゃないでしょうか。ぼくがいいなと思ったのは終盤です。ウォンビンが敵のボスを追うんですけど、敵は車に乗って逃げようとする。このとき、ウォンビンは銃で車を狙うんですけど、ちゃんとタイヤを狙うんですね。ここはえらいです。ぼくが銃と車の出てくる映画でいつも疑問に思うのは、「なぜタイヤを狙わないんだ.車体ばっかり狙うんだ」ということで、逃げる車の的確な狙撃目標はやっぱりタイヤでしょう。で、相手の動きをちゃんと止めるわけです。
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 その後もよい。敵のボスは防弾ガラスの車に乗っているから、銃で撃っても殺せないと。そうしたときウォンビンは、あくまでガラスの一カ所を執拗に狙うんですね。考えてみれば当たり前のやりかたですけど、この執拗さがいい。地味で実効的でよい。これ、敵が車からうぎゃーとか言って逃げ出すより、はるかにはるかにいいじゃないですか。

結末・ネタバレーション警戒速報。結末に触れます。

 最後はどっちでもいいと思った。死んでしまっているでもありかなと思った。そしてそれは映画としてすごいと思って観ていました。この映画の場合、最後に少女を救えても救えなくても、どちらでもいける。ただ、やっぱりちゃんと救ったほうが絶対に収まりがよくて、あの腕利き用心棒にも深みが出る。韓国映画のことだから、あの目玉は本当に少女のものだ、みたいなえげつなさで攻めてくるかとも考えましたが、そこはかわしておいていいところですね。ちゃんと終わってよかったと思います。

 これはいいんじゃないでしょうか。けなしどころはあるでしょうかね。細かいところをつついていけば何なりとあるでしょうけど、そこに気を取られるのはもったいないと思います。お薦めいたします。
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彼は彼だけにできる仕事を果たしたのです。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 アカデミー賞作品ですね。わりと賛否が分かれているのでしょうか。英国王の史実に基づくものですが、歴史的事実に違いがあるんじゃないかなんてことも言われているようですし、英国王室という題材が題材だけに脚色にも気を遣うところがあったのでしょう。時は第二次世界大戦前、というきわめて政治的に不安定な時期を舞台にしており、それがゆえに評価が分かれる部分もあるようです。

 イギリス史や英国王室史に明るくないので、その辺のアレへの深い言及はまったくできぬのですけれども、まあ行きましょう。主人公はコリン・ファース演じるイギリス王ジョージ6世、劇中では即位する前の時期から描かれます。彼は吃音症を抱えていて、大事なスピーチの席でもうまく声が出せない有様。それをなんとかするのじゃい、というような話と、王位継承時のあれこれが描かれています。
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映画の時代は1930年代後半、戦争前夜のきな臭い頃合いですが、政治的な話は後半までほとんど出てきません。ジョージ6世が王としてスピーチをちゃんとできるのかどうか、に焦点が当てられています。
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 これはこの映画の作りとしては正しいと思います。というのも、王にとってスピーチはとても重要な行為だからです。裏を返すと、外国との政治的な駆け引きに王は参加できない。それは当然首相をはじめとする政治家の仕事であって、王が口出しすることではないわけです。「君臨すれども統治せず」なわけです。
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 ではなぜ王室が重要なのかと言えば、それは国家の権威の象徴、国家の伝統を代表するものとして大切なわけで、求められるのは威厳です。だからこそ、スピーチがとても重要になる。特にテレビもなく、ラジオしかない時代ですから、その存在を国民に示すうえではある意味今以上にスピーチが大事。劇中でもヒトラーが出てきますが、彼がドイツ国民から支持された大きな要因として、彼が演説の名手だったことが挙げられるわけです。実際の政治に携わることができず、それでいて国家の権威を示すべき立場にある王としては、スピーチの正否は死活問題だったのですね。
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 映画では第二次世界大戦の開始に際し、国民を勇気づけるスピーチを放送するところがクライマックスになります。で、スピーチがうまくいってよかったね、ということで話が終わる。宇多丸さんの評のリスナーメールでは、ここを怒っている人もいるようです。今から戦争が始まるってのに、そんなのんきな結論でいいのか、ということのようです。
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 うーん、そこはどうなんだろう、うーん。
 じゃああのときの彼に何ができたのかってことですけど、王には政治的権限なんかほとんどないに等しいわけでしょう? あのとき反戦のメッセージを放っていればよかったのか? 彼の立場ではそれはできなかったでしょう。ナチスやファシスト党のような勢力がばきばき出てきているときに、反戦を訴えたってしょうがない状況があったわけで、その中で彼に尽くせるベストはもはや、スピーチを立派に遂げる、そうしてイギリスの人々を勇気づけることしかなかったんじゃないかと思うんです。それは人々を戦争に駆り立てる行為だ、というかもしれないけど、じゃあどうするんだって。ナチスみたいなとんでもないやつらが明らかに脅威的になっていて、協定結んでも破ってきて、形式上は軍の最高司令官だとしても実質は何もできない王に、何ができたのか。それでも反戦メッセージを訴える? 言うのはたやすいけれど、そんなこと言い出して国に混乱が起きている間に攻め込まれて殺されるぜ?  フランスだけで南北からのファシズム勢力を迎え撃たせればよかったの? イギリスがいたってフランスは占領されちゃったわけで、交戦しないのにも無理があったでしょう。ジョージ6世についての細かい話はそんなに知らないけれど、彼は彼のベストを尽くしたんじゃないのでしょうか。それは今振り返れば異論はあるかも知れないけれど、そのときその時代のその立場の人間じゃないんだから、わからないって。

 王は前線に出るわけでもなく、安全地帯にいるというかもしれないけど、そんなことはないでしょう。国家の威信を背負う立場です。政治家みたいにやめれば済むわけじゃないし、いや、やめることは形式上できたかも知れないけど、父が死んで、その後即位した兄貴が変なやめ方しちゃってるから自分まで立て続けになんて絶対できない。そいつだけが背負っているもんってのがあるわけで、安全地帯でも何でもない。ある意味、最前線です。彼は彼なりに、国家の威信を守るっていう仕事を果たした。その後の戦争うんぬんとは別の話です。
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 もちろんこのときの状況は日本とは無縁ではないし、だから日本人としてこの映画のスピーチにいい評価を与えるのはいかがなものか的なこともわかるんですけど、じゃあ三国同盟を結んだナチスドイツの側に立った映画ならいいのかっていうとそんなわけもないし、むしろこれはどちらの立場でどうのではなく、国家の威信を守らんとして、自分にできることをやり遂げようとした人の話として観たほうが、実りがあるんじゃないですかね。そのとき、吃音症の克服は個人レベルの小さなものではなくなります。死活問題たるスピーチの前に立ちはだかる、大きな大きなものなんです。そういう立場のことを考えることなんて日頃ないわけで、この映画を観た甲斐もあるというものです。国家というものを大事に思う人ほど、この映画の意義は感じられるんじゃないでしょうかね。単に吃音症を克服した感動話だって観るのは、いくら感動したとしても矮小化しすぎでしょう。
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 言語療法士を演じたジェフリー・ラッシュとの掛け合いのテンポよく、飽かずに観られました。実際の細かいところには違いもあるようなんですが、この映画で彼が免許も資格も何もない男として出てきたのはいい対比になりました。彼は第一次世界大戦で、今で言うPTSDを発症した兵士たちの治療に努めた過去があるという話をして、ここなどは権威あるが経験のない王と、権威は何もないが経験のある男のコンビという対照的な関係があってよい。ヘレナ・ボナム・カーターの存在感もちょうどいい。
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 なんか戦争がらみの拙い議論を展開してしまい、聡明な方から叱責を受けそうで怖々しているところもあるのですが、ぼくはこの映画はよいと思いました。映画自体のレビウにしては映画からそれすぎている感もあるやもしれないのですが、映画自体よりもそこから膨らませられることを考えることに今のぼくの力点はございまして、まあアカデミー賞ですしレビウはそこかしこにあるでしょうし、ご勘弁願いたく存じます。
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十代の方がご覧になればよいのでしょう。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回の『スカイ・クロラ』もそうですけど、大人が観るにはいささかナイーブすぎる、もしくは甘味がきつすぎるような映画ってのがありますわね。クオリティは大人が観てもすばらしいと思えるけど、その内容はもう二十代以上には通用しないんじゃないかみたいな作品というのがあります。しかし原恵一監督と言えば子ども向けど真ん中のあの『クレヨンしんちゃん』をむしろ大人のほうが泣けてしまう地平に持って行くという前人未踏の離れ業を成し遂げているので、どうかいな、と思って観たわけですが、ううむ。
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 冒頭は死後の世界から始まります。そこでは主人公の姿は明かされず、とにかく彼が既に死んでいること、そして生前の記憶もなく自分が誰なのかもわかっていないことが示される。その一方で、「あなたはもう一度人生をやり直してもらいます」と案内人みたいな少年に言われ、「自殺を図った小林真という少年に乗り移りなさい。彼は魂が抜けているから」と指示を出されます。主人公は自分が誰かもわかっていないので、「え? それは誰? 見知らぬ相手に乗り移るの?」的なことになって、そこから話が始まります。主人公は自分が誰だったのかもわからぬまま小林少年に乗り移り、小林少年としての生活を始める、とこのようなわけなのです。
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 さっそくネタをばらしにかかりたいのですが、その前に声優の件に触れます。原監督の前作『カッパのクゥと夏休み』のときもぼくは苦言を呈していたのですが、今回は輪を掛けてノイズに感じました。主演の子は前作でカッパのクゥを演じていて、その演技についてもぼくはぶう垂れていたわけですが、今回は彼がメインで、うん、ちょっと、どうなんですかね。その役がミスキャストかどうかってことは、突き詰めれば個人的な感覚でしかないわけで、そうとわかったうえで言いますけど、この主人公の少年には合っていない声じゃないですかね。仮にそうでなくても、演技がへたくそじゃないですかね。声優がへたくそだって思うことはあまりないんですけど、これは強烈に感じました。なんでこの子を二回連続で、メインで扱ったんでしょう。芸能事務所の意向なのか、はたまた二回連続ってことは監督もしくはプロデューサーの意向か。いや、監督にせよ声優の子にせよ、いい人なんだろうなと思います。声優としてすんごく頑張っていて、監督もそのがんばりを見て今回も起用したのでしょう。だから出来はどうでもいいんでしょうね。人と人との温かいつながりがあるじゃないですか、それでいいです、もう。

 あとは有名な俳優なりタレントを使うと制作費が上がるから、仮に声優業界の畑がやせ細ろうとも、麻生久美子演じる母親がずうっと麻生久美子そのものであり続けたとしても、それでいいんでしょう。舞台にせよ映像にせよ、役者は表情と身体を用いて表現するものだから、声優に比べて声色の微妙な調整をする技術に長けているわけではなく、そのための訓練をしてきたわけでもなく、ゆえにキャラクターと声との間にどうしようもない距離があったとしても、それはいいんでしょう。そんなことにこだわるほうが馬鹿げているんでしょう。だったらもういっそのこと、顔も何も麻生久美子や南明奈や宮崎あおいや高橋克実に似せてみたらどうですかね。そのほうがもっと集客が見込めるはずです。だって、突き詰めたらそういうことなわけでしょう? 彼らの名前や存在が集客になるって考え方でいくわけでしょう。だったらいいじゃないですか、そのほうがカラフルで。

 さて、余計な悪態はこの辺にしたいのですが、今日はちょっと辛口になりそうな気配です。リクエスト作に辛口はなるべく避けたい、それは今回のリクエスト作評当初から申してきたことですが、これはちょっと、どうなんでしょう。だから先に申したとおり、これは十代向けだと思います。二十代以上はきついと思う。だから十代の人は、じじいがうぜえこと言っている、と思ってくれればよいのです。十代の純真無垢な心に突き刺さる快作なんだと思うんですたぶん!
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 早めにネタをばらしますと、この死んだ主人公、正体は誰なのだ? ということをひとつの引っ張りにしたいのでしょうかね。あれはもうぜんぜんオチになっていなくて、構造上あの少年と同一であるってことしかないんです。もうそれ以外の回答がない。そこはばれているのに、ばらさない感じでいこうとしているから、随所随所無理が出てくる。これはちょっときつい脚本です。
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自分が誰かわかっていなくて、この小林少年に何の思い入れもない、というところからスタートする半年間なんですが、結局この主人公の魂の正体は小林少年なんです。そういう結末なんです。つまり、自分が自分だと気づいていなかったって話です。
 でも記憶がなくて、自分だとわかっていなくて、何の思い入れもない、と。そのくせ、母親が不倫していた過去にやたらむかついていると。この辺がねえ、扱い決めかねている感がすっごいするんです。おまえは過去を知らんことになってるんちゃうんかと。だったらもっと客観的な感じで、「あんたがそんなんだから息子は死んだんだ」みたいなことを言わせちゃったりすればいいのに。それと、友達ができるくだりですね。あれにしたって、「友達はいいなあ」みたいなことになりますけど、過去のないやつが自分の正体すらおぼつかない状態で、そんな風になりますかね。正体不明で自己同一性を保てずにいるということで行きたいのか、自殺をはかった小林少年で行きたいのか、そこがどうもねえ、「正体が小林少年だってことは後でばらす」という意識が働いているせいなのか、ちゃんと描けていないように思えるんです。

 相手の過去を知らないはずなのに妙に相手の過去を不快に感じる。自分の履歴がないはずなのに自分事として感じる。好意的に解釈すれば、彼の中にある無意識の記憶がそうさせたのだ、みたいなことは言える。でも、だったらそこは観客に先にばらしちゃっていいと思うんです。小林少年が自殺して、でも本人はそれを忘れて生まれ変わったような気分でいる、という構造のほうが、つまり観客を主人公に対して情報優位にしておいたほうが、彼の内面の動きの見通しが格段に良くなる。この映画では主人公の正体が不明ということに一応はなっているので、観客も主人公のことがわからない。わからないのに勝手なことをいろいろするし、演技もへたくそだから、彼に移入できない。
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 あとは、宇多丸さんが言うところの「テーマを台詞で言っちゃう問題」ですね。テーマを台詞で言うってのは、それが描き切れていないことを作り手が認めているに近いんじゃないか、という気がしてならない。いや、それをアクティブな会話で表現したり、互いに口論させて観客に考えさせる、とかそういう形式ならいいんですけど、あの美術室のシーンなんかで、「カラフルでいいんだよ」みたいなことを言わせるのはきつい。あの南明奈はあの後も、「そうだ! ひろかはカラフルなんだ! これからも援交してカラフルな洋服を買うんだ!」となりそうで心配です。彼女は金がほしいとやつれているようにも見えず、わりとノリノリでやっちゃってる感があります。それとも、本作はジュン・スチュアート・ミルの提唱した愚行権を大幅に認める、リベラリズム的思想を称揚するものなのでありましょうか。それとぼくは一人称を自分の名前で呼び、単語的に会話することで幼児性をアピールし、それをカワイイに繋げようとする連中がほぼ無条件に嫌いなのです。つまりこのひろかちゃんを好きになれなかったので、勝手にせえとしか思えなかったのであります。
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 人様のブログを参考にすると、本作は原作が98年出版で、援交も今とは違う状況下に置かれていたようです。エアマックス狩りもそうしたことなんでしょう。でも、うん、あの、ケータイを普通に持っているんですよ、友達のいない中学生の小林少年が。だからこれは2010年のものとしてやっぱり観るべきなんでしょう。だったら援交の話はもっと脚本の段階で練るべきでしょう。練る気もないなら、ちょっと別のもんに置き換えたりなんなりすべきでしょう。2010年になっても援交をしている少女たちに向けてのメッセージが「カラフルでいいんだ」かよ。まさしく新自由主義のゼロ年代を文化的にまで体現したような思想でありまして、これを退廃と呼ぶのは時代錯誤なのでございましょう。
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 人物造型が中途半端なわりに、風景を妙に写実的に描いているのもよくわからなかったところです。風景を写実すればするほど、人物の薄さが際だってくる。しかも役者の顔が見えてキャラとしての自立性が奪われた状態で、です。あの二子玉界隈をめぐるくだりは何なのでしょう。あれもね、記憶がないっていうところを何か活かすのかなと思ったんです。それもしない。というか、記憶がないという設定はあの場合、むしろ邪魔。
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 記憶があれば、自分はこの町で育ったのに、ぜんぜんこの町のことを知らなかったんだな、という話に持って行けて、そこから記憶の尊厳と事実性の話に持ち込めたのに、『オトナ帝国』の原監督ならそれができたはずなのに、この脚本ではそんなことをかすめさえしない。単に、友達っぽい少年との交流という部分に矮小化してしまう。
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「カラフルでいいんだ」「生きていればそれでいいんだ」的なメッセージを受けて感動するほど、もうぼくは無邪気じゃなくなっている。とすれば、この映画からぼくは何を学びましょう。日常の風景がカラフルに見えてくる、ような感覚も得られなかったし、役者のやりとりから何かを得るにもさすがにノイズが大きすぎた。ちょっと、ちょっと、ちょっと今回の作品はきつかったです。見いだそうとする行為をノイズにかき消され続けました。ぼくは有益なものを何も読み取れなかった。お気に入り作品でしたら申し訳ない。
 帰り道のコンビニでフライドチキンを食べて肉まんを分け合って、ああ、友達っていいものだなあ、と思えるような若さを持った人たちには、お薦めしましょう。そして、この映画を観て豊かな気持ちになれるとしたら、そのほうがきっといいのです。そのほうが健全なんでしょうきっと。ぼくは駄目でした。申し訳ありません。
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若者のうんぬんをごちゃ混ぜしすぎているように思います。
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小野さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 宇多丸さんがシネマハスラーで酷評していたので、それじゃあまあ観なくてもよいか、別の人の説得力ある論評も目にしないし、とスルーしておりました。

 やっぱり映画を二時間なら二時間かけて観るとなれば、そこから何かを導き出したいと思うわけでありまして、なんとかこの作品から得られる学びを、と考えているのですが、ぐうむ、ぐうむ。宇多丸さんの指摘はもうその通りなんですねえ。でも、だからそこはもう避けて通らないと、何も見えてこないかなあと思う。原作は読んでいないのですが、どれくらい異同があるのでしょう。
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 SF的な要素がある、戦闘機乗りの話です。主人公たちはキルドレと呼ばれており、年をとらない、つまり肉体的外傷のない限りは永遠に生きられる存在、という設定です。で、この世界では戦争がないらしく、しかし世の中の人は戦争を求めるのだ的なことが言われていて、主人公たちはいわば戦争ショーみたいな感じで、戦闘機に乗るのです。じゃあ死なないのかと言えばそうではなくて、撃墜されると死ぬのです。
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 監督は現代の閉塞的な感覚を抱いた若者へうんぬん、ということを意図していたらしいのですが、ぼくはそこはもう、自分に引きつけるのは無理です。自意識におぼれるような時代は終えてしまったし、思春期的な悩みにはかわいげとうっとうしさしか感じません。いや、もちろん違う映画だったらそこはそれで感じるものもあるだろうけど、この映画から若者のなんちゃらを言われても無理です。学生さんに任せます。
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 ただ、そういう意味で言うと、菊地凛子の声は弁護できます。菊地凛子の声がね、若い戦闘機乗りの上司みたいなあのキャラクターには合っていなくて、彼女がしゃべり出すたびにぼくは笑ってしまって、なんか『花子さんがきた』の花子さんみたいだな、少なくともあの寒色系のキャラと彼女の声はミスマッチだな、と思っていたけど、なるほどわかった。結局、このキャラには自意識化膿系女子学生みたいなところがたぶんにあるわけで、だとすると菊地凛子のべたっとした声も合っている。この菊地凛子の声と台詞は、ぼくにうざさを感じさせてやまない自意識化膿系の女っぽいのですね。
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若者うんぬんはどうでもいいとして、得意な設定が何を表したがっているのか、そこからどんな実りが得られるのかを考えてみたいわけですけれども、ひとつには「戦争のない世界」という設定ですね。なるほどこれを、今の日本社会に重ね合わせようとそういうことなのでしょう、ふむ。そして、「キルドレ」ですが、この設定が微妙なのは、「平穏に暮らしていれば永遠に死なない」、それでいて「戦争ショーの前線にいるので明日にも死ぬかもしれない」という引き裂かれたようなものであるからです。そういう存在を仮想することがぼくにはうまくできないので、ここが困ったところです。なおかつ、中盤であるキャラクターが、自分は自分の過去の記憶に自信がないのだうんぬんと言い出して、あれ、ちょっとまた違う部分の話持ってきたなあ、記憶がどうたらって言われ出すとまたややこしいことになるぞ、と思わずにはいられず、大変困りますね。ちょっとクローンみたいな方向に行っちゃってる。そんなさっぱり意味のわからない存在がまさか「現代の若者」であるわけもないし、いや、というかもうこの時点で、監督には若者像みたいなもんがきちっとできあがっていないんじゃないか、なんか訳のわからない存在に見えてしまっているんじゃないか、と思えてしまうのです。これを見て、「おおう、このキルドレたちはまさしく俺のことだ、私のことだ」と思う若者がいるのでしょうか。どんなやつやねん、と思うのです。ちょっと抽象度を上げすぎているんじゃないかなあと思うんです。若者へのメッセージがどうたらっていうならわかりやすくすればいいのに、ちょっと抽象的、あるいはメタフォリカルすぎる。

 と、ここまでが素直な意見。で、最大限弁護するモードに入って書くなら、この映画は「繰り返される日常の憂鬱」に対する言及なんですね。戦争のない世界で戦争に荷担し続ける無意味な繰り返し、自分の存在が固有性を欠いたまま、また別のもので代替されてしまう憂鬱と、その繰り返し構造がもたらす憂鬱。そして「死なない」と「すぐ死ぬ」の狭間で、代替可能で固有性のない自分を抱えたまま生きることで、生と死が不分明なままで生きることの憂鬱。ラストの主人公のモノローグもそこに関連する。そうしたものがあるからこそ、主人公はラスト、その繰り返しの大きな象徴であるところの敵のエース機を打ち倒そうとする。それは日常の繰り返しからの大きな離脱行為であり、そこには固有性を獲得せんとするオリジナルな営みがあり、それは繰り返しを強いるようなシステムへの反逆でもある。本来システムへの反逆はもっと違う方法をとるべきであろうけれども、ぼくたちは小さく、個人でシステムに対抗することは困難、であるがゆえに、せめてその象徴たりうるものを見つめ、そこにぶつかろうとすることは諦めてはならないのであります。
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 なーんてことは書けるんですが、この映画は自意識と戦争と生と死、なんてところまで射程を広げすぎているがために、相当混濁したものになってしまっている。

 いや、ああ、うん、でも、いいのかな、これはこれで。
 思春期の頃の悩みってのは、そういうものが混濁しているものですからね。ろくに知識もないのに戦争だの社会だのについて考えるし、だから変に単純化してしまったりするし、しかし一方では自意識の問題、自分はいったい何者なんだってことを悩んだりするし、で、だけどその辺にはどうとも折り合いがつけきれずに、もやーんとするもんだし。下手に鮮明であるよりも、若者は自分でも整理できぬような混沌とした思いを抱えているのだ、この映画の構造自体が若者の悩みの構造のメタファたりえているのだ、とか言えるんですかね。知らないけど。でも、この映画はそんな混沌とした悩みを持つ若者が見ても、意味がわからないんじゃないでしょうか。あるいはもやっとした自意識の一つを補強するか。

 すっごい歩み寄らないと学びの種が得られないです、ぼくの場合は。この映画がちょっとだけ言ったことを、「そうそうそう」と言って引き継いで、こっちが膨らませてあげる必要があるという印象です。ただ、これはもう2012年には通じないんじゃないですかねえ。2000年代前半あるいは1990年代後半ならまだ理解が得られたかもしれないけど、ちょっともう今の時代のものではない感じがします。10年後、20年後に「00年代後半までに日本に充ち満ちていた空気を代弁している」的なことを誰かが言い出しそうな作品で、「いや、こんなんじゃないけど」と言いたくなる作品じゃないでしょうか。
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 日常にもやっと感を抱くのはぼくだってそりゃああるけれど、ちょっともはや共感できない類のもの。学生さんにお薦めしておきます。
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有名な傑作ですから、語ることがありません。未見の人は読まないように。
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bang_x3よりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


 原題『Witness for the Prosecution』
「アガサ・クリスティー原作、ビリー・ワイルダー監督の傑作法廷ミステリー」というその一文だけでもうこの映画は済ませてもいいような気もするのですが、そうもいかぬので書き散らしていきましょう、知る人ぞ知る名画、『情婦』です。
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 オチが有名な映画というと、たとえば「ここは地球だったのか!」であるとか、「実はあの人が幽霊だったのか!」とかが最も有名なところで、個人的に好きなのは「真ん中の死体が犯人だったなんて!」とか「すべては過去の映像だったのか!」あたりですが(さて、何の映画でしょう)、本作もそこはまったく引けを取らないですね。だから、難しいですね、これを語れというのはどうも、うーん、やっぱりまだ観ていない人には多少気を遣いたいんですけどねえ、いや、でも、リクエストいただいたbang_x3さんはご覧になっているのでしょうし、もうばらしていきますね。観ていない人は読まない方がいいです。本作に関してはそういう風に言っておきます。はい、もう、ぼくは知らない。すぐ下の行で結末を書きますよ。細かい流れとかもあまりちゃんと書かないから、観てからじゃないと何を話しているのかわからないですよ。



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 簡単に言うと、「おまえ、やってたんかい!」ですね。
これは実にいい線をついています。法廷ものではもうこれ以上簡潔なオチをつけることはできないでしょう。ミステリーのフーダニットものだと、よくあるのが「善意の案内人が実は犯人」とか「探偵の依頼人が実は犯人」とか「信じていた人物が犯人」とか「犯人はヤス」とかがあるわけですけど(あれ?)、本作はその王道をばちっと決めている一方で、観る者の意識をそこには向けない、という惚れ惚れするテクニックでかわしてくるわけです。
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 原作を未読なので映画の話になるわけですが、映画では弁護士のチャールズ・ロートンが主な視点を担うので、観客は無意識に彼を応援するわけです。なんとか依頼人の無実をはらしてやりたいと思う弁護士に移入し、どうやって裁判に勝つか、という目線になってしまう。アル中という設定で、真面目ばりばりでもない太っちょですから、自然と愛らしいキャラクターとして受け入れてしまい、それが自然と、タイロン・パワーを信じることにもなってしまう。持って行き方が大変に巧い。
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物語の常道の逆を行く、というのも大きいですね。やっているはずがない、と自然に思ってしまうし、またそう思いたいという観客の心理がある。タイロン・パワーはそこを二重で破ってくるわけですね。「本当はやってたのか」「そうなんだよ、この妻と組んで、一芝居打ったってわけさ」「愛する夫のためですもの」からの、「でもさ、俺、おまえのこともだましてるんだよね」「えっ!」です。勝つのが到底無理だろうというところからひっくり返して、それがさらにさらに、ですから、気持ちのいいこと請け合いです。
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 今の時代ではもう通用しないような話なのでしょうが、くどくどしいこともなく、観客の興味をずっと持続させ、裁判も二転三転する。これはもうぼくがこれ以上褒める必要がないです。あまり書くことがないと言ってもいいでしょう。どうしようかな。逆にこの映画の悪いところを考えてみても、なんかどうでもいいようなことしか思いつかないし。
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 みんながいいと言っている映画なので、もうぼくは言うことがないんですね。評価の分かれる作品ならやりようもあるし、メッセージのある作品ならそこを読み取ろうと思うのですがそこを突くタイプでもなさそうだし、法律うんぬんについてはまるきり門外漢だし。言うなれば、「評するまでもない。傑作だ」というところです。bang_x3さん、ぼくはいったい何を語ればいいのでしょうかっ(訊いちゃったよおい)。
 はい、普通にお薦めいたしまする。
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表面的な怖さはあるけれど、内面を揺らせる怖さは何もなかったです。
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軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『The Girl Next Door』
 1950年代に実際にあった事件をもとに、ジャック・ケッチャムが原作を書いており、その映画化であります。長い原作を90分に収めるとこんな感じになってしまうのだなあ、というもんがあります。

 隣の家の少女が虐待を受けている、という少年の目線からの話なんですが、前半は不穏感が漂い、母親の強権的な感じ悪さもよく、なかなかよいのではないか、と思ったのですが、ちょっとしょぼしょぼん、としてしまったように思います。
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 隣の家の少女には妹もいて、二人して縁戚から引き取られたような立場で、もともとの家の男子たちや母親からはどうも疎まれている、あるいは男子たちには性の対象に見えてしまう、というところの危うさもあるわけですけれども、描写それ自体で言うと、どうも各人の内面が軽んじられている節が強く、わるもんはわるもんにしか見えず、それじゃあちょっと単純じゃないか、という風に思いました。
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 思春期の男子が抱える危うさ、というのはこの映画でもっと描かれるべきだと思うんですが、それがないんですね。もったいない。そして、虐待に荷担している子供らの逡巡みたいなもんもほとんどない。この映画の構造は簡単で、要はあの母親の怖さに頼っているんです。母親の嫌な感じは確かによく出ていました。でも、深みはない。母親はこれじゃあ単に嫌な奴です。いや、この母親はこの母親で何か辛い過去があって、それでああやって歪んでしまったのだな、とは思うし、ぼくはそこでなんとかあの母親の弁護士になりたいわけですが、これじゃあ彼女の抱えるもんがわからない。嫌な感じは絶品! うん、それはわかった。問題はその奥でしょうということです。そこを観たいのに、何もないんです。野村芳太郎の『鬼畜』を観ましょう。
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 この母親と子どもたちには別々の動機がある。子どもたちは劇中、エロ本を見たり覗こうとしてみたり、体を触りたがったりするわけで、その辺の行為それ自体は描かれる。ただ、それが記号的な行為に過ぎなくなっている。至極残念です。男子たちが寝室に集っているシーンで、「女性の裸体を初めて見た」という話をする。だったら、なぜその瞬間の怖じ気と興奮を描かない? 彼らの表情や目線に間を割かない? そこを描くことで、思春期の彼らが抱えるより危ないもんがあぶりだされたはずなのに。
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 虐待描写の嫌さ、というのは、一個の映画としては十分成立しているものだったと思います。だから、この虐待描写は本当に陰惨たるもんだ、と思う人がいてもおかしくはない。でも、こういう表現は今の時代、本当に難しいと思います。なにしろ、ぼくたちは既に、ネットなどを通していろいろなものを見て、いろいろなものを知っている。実際の凄惨な事件から想像する怖さ、実際の虐待事件の画像から想像する怖さ、そういうものを知っていると、この映画の虐待描写を褒めることはできません。こんなもんじゃねえだろ、と思わされる実際の出来事は、既に世の中に溢れている。それを忘れてこの映画の虐待描写に怯えるほど、もう若くはないのです。
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 で、主人公の少年にしても、この映画の描き方だと、「早く警察に行って匿名の通報をしろ」と言いたくなってしまう。警察に言いたいけど言えない、両親に言いたいけど言えない、そういう要素がないんです。その辺の逡巡が描かれていない。父親と話すときでもそぶりを見せず、「暴力は駄目だぞ」みたいなことを言われてそれきりの始末。
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 この映画はもっとここをこうすれば、というのがわりと多くあります。そしてそこを膨らませることで(あるいは変えることで)、もっと実りあるものになる。そこから読み取れるものもきっとある。でも、それらを捨象してしまっているがために、単に胸くその悪いものになっています。じゃあちゃんと胸くそ悪いならそれはそれでいいのに、そうでもない。この映画で何を映したかったの? 何を語りたかったの? と素朴に疑問です。表面的な怖さはある。だけど、内面を揺らせるような怖さは何一つ感じられなかった。うーん、これは本当、描写の問題です。90分しかないからしょうがない、という風には言えるんですけど、もっと長くていいから、もっと各種の描写を掘り下げてほしい、と思わずにはいられない作品でございました。 
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格好いいのはわかった。それで、何なのでしょう?
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ロキタさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 今年には2もつくられるとのことですが、もともとアメコミにはてんで関心のないぼくとしてはスルーだった本作です。うーん、これはちょっと困りました。

 ぼくはこのブログを続ける中で、自分の映画の見方が確実に変わってきているなというのを感じております。最近はそれがやや極端にもなっていて、要するに「娯楽的に面白いかどうかは、二の次」ということです。極言すれば、娯楽的に面白いかどうかなどどうでもいい。いや、さすがにそれは言い過ぎかとも思うのですが、ぼくにとっていい映画とはつまり、語りがいのある映画、語ることで見えてくるものがありそうな映画、ということなのです。だって、娯楽作品として面白いかどうかなんて、結局個人の感じ方ですからね。説得してどうなるもんでもないし、そこを語ることの意味があまり見えなくなった。そういうのは、他の皆さんにお任せしたいというのが正直なところです。などと言いつつ、かわいらしい女優などが出てきたらどうせきゃっきゃ言うのですけれども。
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 さて、『シン・シティ』ですが、アメコミ原作で、モノクロの中にパートカラーをふんだんに配合しているのが画的な特徴です。これなあ、これはもう好みの問題だろうからなあ。これこれこういう理由で駄目なのだ、とかそういうことでもないんですねえ。
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 メイキングやインタビューなどを観ると、監督のロドリゲスやタランティーノが、「この画は最高にクールだぜ!」みたいな感じで喋っているのであり、まあアメコミの雰囲気を保持する上ではパートカラーとモノクロの多用によって奥行きをあえて欠落させ、人物をマテリアルに際だたせるというのは効果的な手法であろうとは思うのでして、それが「なるほど超クールだぜ!」と思う人には何の文句もないのですけれど、そのクールでヴィヴィッドな表現ゆえに薄さが際だち、あれだけの技巧を凝らしながらも黒澤明が『天国と地獄』で見せた一瞬のパートカラーの鮮やかさ、強さには及ばぬとも思うのであって、結局のところは「お好きな人はどうぞ」というくらいしか言うことがないのです。
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 映像で冒険したり、いろんな表現を試みるのはどんどんやってほしいと思います。そういう中からびっくりするようなもんが生まれてくるのだろうし、その意味でこの映画はがんがん攻めているとは思うので、本当、お好きな人はどうぞ、です。
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 ぼくには合わないな、というのが、ラストの一場面に凝縮されています。
 ブルース・ウィリスが自殺するんですけど、そのワンカットを、なんというのですかね、シルエット風というか、モノトーンの切り絵みたいな感じで表すんです。ああ、これだなとぼくは思いました。結局この映画では、ブルース・ウィリスが生きようが死のうが、ジェシカ・アルバを救おうがどうなろうが二の次なんです。スタイリッシュなビジュアルとして見せるのが最初にあって、その中にいる人々がどうなろうが映画をスタイリッシュかつクールに見せるためのコマに過ぎない。ぼくはそういうものに興味がない。
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 いや、簡単に言うと、趣味の合わないファッションをずーっと薦められている感じなんです。このシャツ超いけてるよね、このジャケットマジ格好いいよね、てかこの靴とかマジやばくね? とずーっと言われているけど、いやあ、趣味が合わないなあ、としか思えない感じ。で、外見が格好いいのはわかったけど、そろそろ実のある話しない? と言いたくなるんですが、え? でもほら、俺むずかしー話とかちょー苦手な人じゃん? てか踊ってたほうが楽しくね? あ、あの娘ちょー胸でかくね? え、マジいい女じゃね? 普通に。みたいな。うわあ、ノリが合わねえ、という。
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 だから、ノリがあった人はそれでいいんじゃないでしょうか。それとも、この映画だからこそ、あの表現だからこそ語れるものが何かあったのか。ぼくの読解力ではそこが見て取れなかった。その意味では惨敗。監督が三人いて、アメコミ原作のオムニバスで、画のクールさに力入れて、で、何が語られたのか? ぼくにはわからなかったんです。教えてください。この映画については、本当に何もわからなかった。あの色にもきっと意味があるのでしょう。それが見えない。いや、意味なんかなくて、単に格好いい色だからとか言うんだったら、もう本当にどうでもいい。ぼくの知識ではあの色をあのように配置した意味がわからない。
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 どうも、馬が合わない作品でございました。どうも申し訳ありません。
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