<   2012年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧

饒舌な劇ですが、語ってほしい部分にはいかんせん寡黙で。
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パトリック・ウィルソン演ずる男がエレン・ペイジ演ずる少女と出会い系サイトで知り合い、あれなことをしてやろうと思ったら逆にどえらい目に遭わされるという、そんなお話です。日本のオヤジ狩りにヒントを得たそうで、パッケージからも明らかなとおりに「赤ずきん」が元ネタでしょう。

 本作は一言で言うに、エレン・ペイジを観る映画なのかなと思いますね。短髪で生娘っぽい外見の彼女がその実サイコパス的な言動に走るその様が本作の見所でして、後に彼女が『スーパー!』に起用されたのもむべなるかなと思います。
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 なぜ彼女がパトリック・ウィルソンをひどい目に遭わせるか、その本音の本音の部分はどうも語られずじまいのようなのですが、要するに彼が出会い系で若い少女を捕まえるようなロリコンであり、過去にもそんなことをしているのであり、であるならば制裁をくらわせてしかるべきであるからやってしまえと、まあそんな感じなのです。
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 ほぼ全編二人の会話劇です。二人のスリリングな駆け引きがこの映画の肝なのです。饒舌な劇でありまして、エレン・ペイジに虐められたいという諸兄にはもはやこれ以上の映画はないのであります。一方で、彼がロリコンであるという部分は台詞でちろちろ語られるのがもっぱらであり、こいつがどんな人間かもうひとつよくわからないなあというのもあって、そこまで入り込めはしませんでした。
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 二人が男の家で織りなす会話劇、なおかつ男は身体の自由を奪われて大変な状況、であるにもかかわらず、どうにも二人の本音が見えてこない印象がありました。そこがねえ、うん、この映画のひとつ弱いところではあります。
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 ロリコン野郎をぶちのめせ映画であるのだとして、こいつのロリコンぶりがあまり見えてこないんです。そこが弱いのです。いや、別に、そういう写真だの映像だのを出してこいというんではないんです。むしろ必要だったのは、彼が己のそういう無様な一面、口にするのも憚られるような欲望をぶちまけるシーンがなかったことです。
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 なぜこの映画はそこをかわすのか、あるいは用いないのか。それがないからどうにも芯が弱くなる。男は少女に睾丸除去を迫られて、「なんでもするから助けてくれ!」と懇願する。いわば極限状態です。にもかかわらず、こいつの醜い面が最後まで出てこない。
 
 なんかね、一人、失踪中の少女がいるらしいんです。で、この男がやったんじゃないかと言って少女は攻撃を加えるわけです。その辺は真相が藪の中というか、最後まで男は否認するんです。そういうやりとりがあるのは構わない。だったらなぜそのくだりで、この男の他の罪、ロリコン的趣味の告白をさせない? それをさせたほうが像がくっきりとしてくるのに。
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 いや、それをすると男が悪者っぽくなり、少女が正義の執行者のように見えて、映画のバランスが崩れるのだ、というかもしれない。でも、そうやって本音を交わし続けているから、この二人の劇の熱が高まっていかないんです。なんかよくわからない二人がずーっと戦っている感じになります。

 この映画では男の睾丸除去というのがひとつの山場になります。そこら辺の直接的な描写はふせられています。それは全く構わないというか、この映画ではグロ描写は別に必要ない。それでいい。しかし、その分だけ二人の会話から生まれる熱にもっと傾注しなくちゃいけないし、そのためには二人の正体なり本音なりにもっと迫らなくちゃいけない。顔のアップが多いのに、二人の深い部分が見えない。せめて、男のほうはそれをすべきだったと思うんです。エレン・ペイジの謎さはキープしてもいいけれど、男のほうはもっと明かしてほしいわけです。

 二人の駆け引き、どっちが攻めるか守るかの揺れというのは確かによくできていて、その部分のサスペンス感はあります。そこはいいのです。そこがいいのでこの映画はそれでよし、ということもできる。一方で、もったいなさも感じます。
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あるいはこれは観る者の年齢、性別等々によって、ずいぶんと見方が異なる映画なのだろうなあとも思います。たとえばこのエレン・ペイジと同世代の少女が観たら、パトリック・ウィルソンは単に悪い他者でしょうから、ある種の痛快さを得て終わるかもしれません。反面、ロリコン男には胸くその悪い結末でありましょう。十代のアイドルを信奉している人たちに見せるとどよーんとするかもしれません。どちらでもない人間からすると、もっと踏み込んでくれればいいのに、と感じるのであります。
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 ちょっと、「観客のご想像に任せるよ」の部分が多すぎるかなというのが大きいです。こっちは想像したいんだけど、それにしたってもうちょい鮮明にするところがないと想像できないよ、と言いたくなるんですね。

 この映画が自分にはよくわかったぞ、この映画は深い部分でこういうことを言うているのだぞ、というのがあったら教えてほしい一本でございました。
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ものの良し悪しって何なのでしょうかね。
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 好事家の間で話題を生んだドキュメンタリー作品です。なかなか考えを揺らせる作品でありまして、よい映画でございました。

 バンクシーというのは正体不明のグラフィティアーティストでありまして、街角の壁にいろんなアートを描いている人です。政治的メッセージ性のある作品なども描いていて、世界的な注目を集めているようです。

 映画はバンクシー監督名義になっているのですが、少しややこしいのは、映画自体の始まりが彼ではない、ということです。最初はティエリーというカメラ好きのおっさんのハンディカムから始まって、彼がいろんなグラフィティアーティストの活動を追いかけるのです。バンクシー自身が出てくるのはずいぶんと後で、最初のほうはぜんぜん絡んでいないんです。このティエリーというおっさんの話でもある、というかそちらの話になっています。ティエリーというおっさんがバンクシーと接触したことで、バンクシー監督による作品が生まれた、そんな珍しい構造なんです。
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 本作を観て誰もが感ずることは、アートって何やねん、という問いでしょう。全編がこれをめぐるお話と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 
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 グラフィティアーティストといって、まあ街角に勝手に描くわけです。違法行為だから見つからないように夜な夜なささっと描いて逃げたりするんですね。日本の街角でも変な落書きみたいなのが方々にあったりします。
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 それ自体がどうやねん、というのもありますね。知らない人の建物に勝手に描きまくって、それがアートなのだ、どうだ、と言われても、ぼくはそれを消す仕事をしている人のことを考えてしまったりもします。消すの大変だろうなあ、とかね。自分で描いて、自分で消していたらまだいいんですけど、言っちゃえば描きっぱなしですからね。穏やかな町並みの中に、手前勝手に表現活動されてもうっとうしいだけやで、みたいなのを感じる部分もあります。
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 うん、それはあるかなー。いや、バンクシーみたいにね、政治的な意見の表明としてやっている分には、意味があるというか、わかるんです。言論よりもわかりやすく人々に伝わるというのは間違いなくあるし。ただ、それを芸術表現だみたいにしているのを観ると、なんか違うんちゃうかな、という気もしてしまう。

 そもそもの話、ぼくはアート感度が大変低い人間であります。もし人にアートの話をされてもきついもんがあります。ただ、この映画はアートの中身うんぬんよりも、その外側。受け取る側に突きつけてくるものがあるので、とても刺激的です。芸大や美大の人とか、アート関連で飯を食おうという人は観ておくべき作品だと思います。

 バンクシーを追いかけていたおっさん、ティエリーですが、バンクシーから自分でアートをつくりなさいと言われます。これは別に彼に才能があると思ったからではなく、ティエリーが自分でつくった記録映画が、ぜんぜん駄目だったからなのです。バンクシーは、「自分の作品はすぐになくなってしまうし、映像として記録に残るのもよかろう。ティエリー、ちょうどいいからおまえの映像を編集して映画にしてよ」と言ったのですが、これがまるきりどうしようもないので、とりあえず彼にアート制作を勧めたようなものなのです。
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 ここからが面白くて、ティエリーは自分でいろいろ始めだして、大きな個展を開くぞ、という話になるんですけど、そのアートの中身はといえばどうにも無個性というか、自分の内側から生み出したものじゃねえじゃん、っていうかぱくったりとかしまくってんじゃん、みたいなものになっているのです。
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 ただ、これまた面白いのは、彼の個展は結構評価されるんです。勧めた責任上、バンクシーも名前を貸したりしており、彼の名前があるならということで人が集まって、作品が高値で買われるようになるのです。

 さあ、ここがこの映画の大変興味深いところですね。じゃあ、アートってのは何なのだね、という話です。本物のアートとか、偽物のアートとか、そんな言い方がそもそも何を指し示すものなのか。それがわからなくなるのです。
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 いや、アートに限りません。映画もそうだし、小説も、演劇も、音楽も、テレビ番組も、なんでもそうです。何をもってぼくたちは良し悪しの判断をしているのか。
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 いちばんわかりやすいのは数字ですね。数字が出るということはそれだけ多くの人に評価されているということでもあるし、だとするならそれはよい作品なんじゃないかと言える。でも、数字だけで表せるほど単純なものであるはずもない。
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 映画ブログですから映画産業でいうとわかりやすいでしょうね。テレビ局制作の映画が興収の上位を占めると。でも、多くの映画好きからすればそんなものは観るに値しないといわれる。でも、事実として多くの観客はそれを観て面白いと感じている。だったら、良し悪しって何なんだろうね、ということです。

 そのお金によって救われる人が出てきたらもっと事態は複雑です。劇中、アーティストとしてどうやねん、と思われるところの多いティエリーですが、事実彼は大金を手にしている。そのお金を、たとえばですよ、慈善事業に寄付していたりなんてことがあるとするなら、本物のアートうんぬんと言いつつも密かに闇夜街角でごちょごちょやっているだけの人よりも、ずっといいのかもしれない。この映画ではそういう描写はまったくないんですけど、そこを一カ所でもぽんと放り込んだら、観客の認識はもっと揺るがされることになったでしょう。

 アートは内発的に生みだされたものがすばらしいとか、独自のスタイルを確立してこそのものだとか、そういう言説というのは確かにそれらしく聞こえはする。ただ、どうなんでしょうね。受け取る側が満足しているならそれでいいじゃん、っていうか受け取る側に支持されるものがいいもんなんじゃないの? だって、おまえ一人がいくら自分の内面だの経験だのをごちょごちょ言ったってそれは結局おまえ自身のものに過ぎないしさ、そんなのよりみんなが楽しめるものを生み出していたらそれでいいんじゃねえの? という話にもなってくるんです。
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 この辺のことはぼく自身がずうっとずうっと考えていることでもある。
 ぼくは昔から人を笑わせるのが好きだったんです。一時は本気でお笑い芸人になろうと思ったこともあるし、今だってテレビの芸人を観ているともどかしさを感じたりする。でも、ここが微妙なところで、好きではあるけれど、得意かどうかというとぜんぜん話が違うんです。ぼくが面白いと思ったことが、人に伝わらなかったりするんです。逆に、ぼく自身はぜんぜん面白いと感じてなくて、まあこれくらいで人は笑うのかな、程度のことを言うと、むしろそちらがウケたりする。そのたびにぼくは感じる。周りが笑っているからそれはそれでいいんだけど、ぼくはぜんぜん面白くないんだよなと。そうなったとき、ぼくはどうしようもない気持ちになる。
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 そうなったら、ウケているほうが正しい、と思わざるを得ないんですね、その場では。でも、それはぜんぜんぼく自身の中からのものじゃなくて、むしろどこかの流行のギャグだのちょっと変な言い方だのをアレンジしたものに過ぎない。じゃあそれは、この映画で言うところの、本当のアートではないから駄目なのか。そうじゃないだろうと思うんです。
現に、それが受け入れられているから。だから辛いというのもある。

 話はまとまりようもありませんが、この映画はいろいろ問いかけてきます。じゃあオリジナリティって何やねん、とかね。最初のほうに出てくるスペースインベーダーのアーティストにしたって、インベーダーのあれってもともと日本のタイトーがつくったんちゃうんか、そしたらティエリーと何が違うねんとかね。バンクシーがグアンタナモの囚人の人形を置くくだりでも、あれがアートなのかえというのもあるし。

 話はアートに限ることなく、かなり広範囲にわたる話題を引き出す映画だと思います。 観た後に、内容から考えさせられることをいろいろと語らせたくさせます。
芸術関係の人とか、これから知人の個展やなんかに出かけようという人は、ぜひ観ておくとよいと思いますね。
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監督のアホさが炸裂している作品は観ていて気持ちがよいのです。
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 SFというジャンルには興味がありますけれど、ぼくが関心を抱くのは現代の延長上に想像できるような未来もの、その中に出てくるガジェットの数々などのほうで、宇宙戦争的なものにはあまり惹かれず、その方面はガンダムなどアニメのほうがむしろ好きなのです。みんな大好き『スターウォーズ』にもちっとも興味が無く、エピソード4と1しか観ていないような人間であります。

 本作は原作がハインラインの『宇宙の戦士』ということなのですが、刊行されたのが1959年。世界大戦が終わった後の冷戦期、宇宙進出競争が東西陣営で行われていた時代です。 宇宙ものSFが華やいだのはやはりこの米ソ対立、宇宙競争のたまもので、今よりも宇宙に対する希望が大きかった時代と言えましょう。その流れは70年代、80年代まで続き、それが『スターウォーズ』、『ガンダム』の製作、ヒットの要因と言えましょう。両者ともが戦争というモチーフを中核に据えているのも道理なのです。

 そういった時代から離れて97年、がっつりとした宇宙戦争もの映画です。戦争、とは言っても、相手は人間ではなく虫のエイリアン。まったく言語も通じない怪獣みたいな存在です。怪獣ものとして楽しめるところが多分にあり、アメリカSFと東宝映画が出会った、みたいな作品です。
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冷戦も終わってソ連崩壊、ロシアは宇宙開発どころか経済がやばい、という時代でもあるので、その辺の緊張感はなく、とにかくエイリアンをやっつけるぞ、というまっすぐな映画です。ヴァーホーベンの悪趣味を炸裂させるにはちょうどよい内容と言えましょう。
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 ウィキによると、本作はナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』のパロディであるとのことで、劇中の世界は統一政府によって支配されているらしく、ニュース映像も兵隊さん万歳みたいな内容で、軍の人たちの一部はナチスそっくりのユニフォームを着ています(ちなみに上画像の鷲の紋章(ロゴ)はナチス特有のものではまったくなく、鷲マークはドイツの伝統ある国章ですから、ナチスと同一視するのは誤りです)。
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でもそんなことはお構いなしじゃい、政治的な細かいことは要らんのじゃい、という感じで映画は進み、主人公が地球防衛軍みたいなところに属し、敵との戦いに繰り出していくのです。
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 ところで、近頃はアメコミものが人気だし、SF映画も勢いがあるのかなという風に思うのですが(新作追っかけにまったく興味がないのでわかりません)、最近の映画でこんな思い切りのよいシーンはあるのかいな、というくらい、ヴァーホーベンがやりたい放題やっている感があります。
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 なんというか、むき出しなんですね。兵士が死ぬシーンなんかでも、人体が無様に散るんです。これがまあ本当に無様で、滑稽ですらあるのです。どちらかというと、SFとか戦争とかいうより、スプラッターものに近いんですね。感傷とかそんなのはぜんぜんなくて、ヴァーホーベンが「やっちまえ!」と吠えている様が浮かびます。『ロボコップ』とか『トータルリコール』とかでもそうですけど、ヴァーホーベン監督はリアリティうんぬんよりも、「この画おもろいやないけ! どかーんとやったらええねん!」という勢いを感じる監督で、ジョン・カーペンターに似ているなあとも思います。CG加工とか特殊メイクとか照明とか次第によって、もっとリアリティある画にはできるけれど、そんなのはいいんだ、この画がいいんだ、というのを確かに持っている感じがして大変よいのです。
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 活劇的面白さは十分で、主人公が巨大な甲虫の背に乗るシーンなどはPS2『ワンダと巨像』のような快楽もあるのであり、敵の虫が大群をなして襲ってくる様はあほみたいでこれまた面白い。
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 正直なところ、この映画はもうそっち押しがんがんの映画です。そもそもあの星に歩兵隊で攻め入るところが戦略としてどうなのやというのがあります。核ミサイルとかをがんがん打ち込んだほうがいいんじゃないかと言いたくなりますが、そんなのは知らないんだ、白兵戦のほうが盛り上がるんだからそれでいいんだ、現に面白いだろう、という力押しが圧巻です。原作だともっと説明があるのでしょうけれど。
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 反面、戦争パート以外はヴァーホーベン監督はそんなに力を入れてないんかな、と感じるところもあります。軍に入隊した若者たちの日常みたいなパートとか、恋愛パートみたいなのがありますが、そこはもう別にそんなにあれです(何なのだ)。しかしそんな中でも攻撃型演出健在で、たとえば戦争訓練のシーンで上官が新兵を締めるくだりはやっぱり少しやりすぎたりするんです。
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 あと面白いのは、新兵たちがシャワーを浴びるシーンですね。男女が普通に同じ場所でシャワーを浴びている。これはまあ、未来の世界では性差とかそんなのはないのだ、的なことなのかもしれませんが、どちらかというと単純にパイオツサービスなんじゃないかという気もします。
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 思いついたままにだらだら書くいつものスタイルで続けますが、ラストはラストでちょっとイってる感じの終わり方ですね。普通この手の、戦争で味方ががんがん死んで、艱難辛苦乗り越えて敵をやっつける映画の場合、主人公はラストには疲労困憊、心身ぼろぼろで任務を成し遂げたりするものですが、この映画では敵の巨大な虫を捕獲したら、みんなで取り囲んで勝ちどきを上げるんです。やったぞー、さいこーみたいな。死んだ人をほとんど顧みることもないままに笑顔なのです。しかもナウシカのオウムに似ているボス虫の口が、明らかに女性器に似ているし。最終的にそこに棒をぶち込むし。
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 そんなこんなで、ほとんどアホ丸出しで爆走しているところが魅力的な作品であります。監督がやりたい放題やっている映画、という感じがする作品は(本当はもっとやりたかったのでしょうけれど)、観ていて面白いものです。
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タイトルが逆説的に照らし出す、世界の複雑さ。
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 多視点・時系列ばらしものといえば90年代のタランティーノが最も有名であろうと思いますし、近頃の日本映画では内田けんじ監督などが注目を集めているわけでありますが、この方式には確かにパズルが組み合わさるような快楽があるのでして、伏線の張り方なども多岐に富むため、ぼくはわりと好きな手法ではあるのですが、『21グラム』は一種独特の感覚を残す映画でありました。
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 ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロが軸を担い、それぞれの物語が展開していきます。時系列通りに言うと、デル・トロがナオミ・ワッツの家族をひき逃げしてしまい、彼女の夫が脳死状態になり、心臓病を患っていたショーン・ペンに心臓移植が行われ、三者の人生が交わっていく、というような話です。今述べたのはあくまでも骨子の部分のみで、それ以外の部分なども含め、時系列をばらした形で話が進みます。
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 かなり細かく裁断されているので、ぼうっとしているとよくわからなくなりそうな映画でもありますね。その点で、観る者に緊張を強いるつくりとも言えます。あまりひとつひとつのシーンをじっくり長く続けたりもしないんですよ。で、こちらはこちらで何か時間的な仕掛けがめぐらされているのでは、と思ったりもするので、身構えを崩せずに観ることになります。気楽に映画を楽しみたいな、という人にはぜんぜん薦めません。
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 時間軸をばらす手法を取り入れた意味について、宮台真司は以下のように述べています。
「時系列を寸断する意図はあまりにも自明である。他でもない『特別な困難さえ無ければ…』というリグレットを効果的にキャンセルするためだ。」(『<世界>はそもそもデタラメである』より) 

 これはどういうことか。反対に時系列を寸断しなかった場合を考えてみるとわかりやすいでしょう。もしも時系列通りに、わかりやすく話が進行していたらどうか。ひき逃げ事件とそれが引き起こす事件の連鎖を時間の通りに映せば、「あの出来事によって運命が狂った」「あの事件さえなければ平穏でいられた」という感覚がどうしても観ている側に生まれる。しかし、世の出来事はそう単純ではないよ、というわけです。
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 ぼくは常々、「人間万事塞翁が馬」という感覚を持っているので、この辺の感じがよくわかります。何がよきことで何が悪いことなのか、それはまったくわからない。そしてもうひとつ、時間は確かに因果関係を生み出し、ぼくたちはその中で生きてはいるけれど、その因果関係とてまた自分の意思や境遇ひとつによるものではなく、他者との連関の中に存在するということ。こういう感覚を内在させて観ていると、わかりにくい話ではまったくないのです。
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 えてして映画というのは、登場人物への共感によって話を理解することができるし、自分に引きつけて観ることができる。いちばんわかりやすいのは正義と悪の二元論的な話で、正義の主人公に肩入れして観ることによって、彼が悪を打倒していく様を観ることによって、観る者はカタルシスを得るし、世界観を安定できる。
 多くの映画は観客が主人公に感情移入することで、その物語を共有するという形式をとるわけです。
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ところがこの映画はそれをキャンセルする。細かい裁断によって、観客は十分な移入の機会さえも与えられないわけです。そして同時に、題材が題材であるだけに、他の時系列ばらしものの多くが持つようなパズル的快楽、それによるエンターテインメント的な愉快さとも距離が置かれている。世の中の複雑さを描き出すための優れた形式であるとぼくは思いました。
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タイトルの『21グラム』というのは、ウィキに依りますと、「20世紀初期のアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った、魂の重量を計測しようとした実験に由来する。」そうです。なんでも、人は死ぬ瞬間に体重が21グラムほど軽くなるのだそうで、それが魂の重みなのではないか、というようなことが言われたりしたようです。

 このタイトルは逆説的に映画を照らすように思います。21グラムという単語から率直に連想できることは何かといえば、「定量的で、軽量」ということです。静的で、数字で示すことができて、なおかつ実に小さなものに過ぎないですね、21グラム。

 しかしこの映画で起きることはそれとは真逆です。まるで計量不能だし、単純化できないし、些細なことではあり得ない。時系列をばらすことでより、そうした世界のありようが見えてくるわけです。 
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 具体的な中身、詳細に入れずにいてあれなのですけれど、なまじ立ち入ると大変なのです。なにしろいろいろと繋がっているわけで、易々と切り出せないところが大きいのです。

 ひとつだけわりと輪郭のはっきりしたところを言うなら、デル・トロのくだりです。彼はかつてはやさぐれきった男だったようなのですが、福音派に入信しており、地元の不良にも神の意思を説くような人間になっています。彼は清く生きようとしていたわけですね。ところがそんな彼がひき逃げを起こしてしまう。これは神という、いわば「世界を単純化するための装置」をも溶かしてしまうような設定です。彼はもしかしたら神を信じずに生きていれば、それはそれで幸せだったかもしれない。清く正しく生きて「いなければ」、あのひき逃げを起こさずにいられたかもしれない。清く正しく生きていなければ、あんな風に深い後悔の念に襲われずにいられたかもしれない。ただ、そんなことはすべて今となってはありえないイフに過ぎない。

 世界の複雑さを照らすために、神を信ずる男を入れたのは大変効果的であったなあと思います。そして彼は彼で別に、根っからの信仰者じゃないところもポイントですね。それ以前のまったく別の生を想像させる設定にしたのも、奥深いところでありましょう。

「人間万事塞翁が馬」、この感覚を常日頃持っていると、しっくり来る映画なのではないかと思います。そうでない人は、これまたまったく別の映画ですが、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』あたりと併せて観ると、世の捉え方が一回ぐちゃっとするような感覚を得られるのではないかと思います。この辺で。
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壮大ではあるけれど、設定や演出が追いついていないのです。
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『戦国自衛隊』が面白かったので、同じ大作角川映画ということで観てみました。キャストも千葉真一、夏八木勲、渡瀬恒彦など、あの映画の主役たちがこぞって出演しています。本作の主役は草刈正雄です。 
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 小松左京原作で、『日本沈没』などがそうであったように、これまた極端で壮大なスケールのお話です。世界的にウイルスが流行し、ほとんどの人類が死滅してしまうのです。残されたのは極寒地域、南極の人たちだけで、彼ら南極部隊の運命やいかに、ということなのです。
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 世界が破滅する話というのは、たとえば巨大隕石が衝突したり、大規模地殻変動が起こったりなどという設定で語られたりしますが、ウイルスが最もリアリティのある題材じゃないかと思います。本作では生物兵器が漏洩したことで感染が始まるんですが、これなどもその種のテロが危惧される昨今において、現実味のある話と言えるのではないでしょうか。テロやウイルス、感染とは違うけれど、放射能の問題とも通じている部分があります。
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 世界の破滅、というテーマは冷戦時代、核競争の時代においてやはりある程度にリアルなものであったのでしょう。本作でも米ソのミサイルが大きな脅威として位置づけられており、それがウイルスと相まって世界を終局へ追い込んでいってしまうのです。

本作はそうした点で、王道を行っている作品と言えます。病原体と戦争は、大量死を招く二大要因として歴史上不動の位置を占めているわけですから、誰が観てもわかりやすい内容なのです。

 映画としては当時高く評価されたのでしょうかね。今観ると、うーむ、これはいろいろと詰めなくちゃいけないところがあったんじゃなかろうか、ああ、さすがに資金の及ばぬところがあったのだな、というのが散見されて、入り込めぬところも多かったです。
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大変な感染状況だというのに、医者がマスクをしていないのはなぜなのでしょう、というのもあります。大統領も戒厳令下の自衛隊もしていない。その辺が緩いんです。必死で防備しまくっている。けれど防げない、という感じがしないのです。
 街の人たちや行政側があまりにもあまりにも無策なのもいただけません。なんでもいいと思うんです。たとえば、どれくらい効果があるのかもわからないままに消毒薬が街中に散布されている、とかね。街中が消毒薬で不気味な色になっている、みたいなね。そういう様子を描き出せば、より混乱が説得力を持てたはずなのです。南極ロケに多額がかかったそうですが、そこよりも他の部分にお金を費やすべきだったのではないかと思います。
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あと、これは予算制約上やむを得なかったのでしょうけれど、世界中の都市で人が大量死している、というのを、街の遠景と字幕で済ませる、というのはちょっとしょうもないです。あそこはもっとニュース映像っぽくしてかまびすしく見せたりとか(そういうシーンはありましたがあくまで序盤だけでした)、もしくはせっかくアメリカ大統領執務室を用意したんだから、そこが飛び交う情報と鳴り止まない電話でしっちゃかめっちゃかになっているとか、なんでもいいからもっと「どえらい感」が必要だった。そのうえで、何万人死亡なんて字幕を乗っけずに、ただ街の死んだ風景を映したほうが、混乱と寂寥の落差が出てきたはずです。うん、何万人死亡、みたいなのをあの字幕で表すよりもっと方法があったんじゃないかと思ってしまいます。
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 もちろんこれは三十年以上前の日本映画。ですので、その後洗練を経てきたハリウッド映画などを基準に物語るのはあれですけれど、やはり今観るとそういう穴がぼこぼこ見つかってくるわけなのですね。

 そうした演出の部分はおくとしても、地震のくだりがありえないタイミングの良さで、興ざめします。いちいち説明するのはおっくうなのですが、ある重要な場面で、もうご都合主義的としか言いようのないタイミングで地震が起きるのです。草刈正雄を一人にするためにいちばん手っ取り早いんですけど、もう少し脚本を詰めるなりなんなりは絶対必要だったでしょう。なんであんなことを。
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 日本や南極やアメリカやといろんな場面に話を向けて、海外ロケもふんだんにやって、世界規模の話だというところでまあ観られるのですけれど、基本的なところの穴が多すぎるのでちょっと辛いです。うん、重点が分散していたんですね。草刈正雄とオリビア・ハッセーの物語を作る段取りなら、最初の多岐川裕美のくだりはばっさり切って、日本の混乱は別の切り口で見せることができたし、渡瀬恒彦も結局よくわからないことになりました。原作があっての話でしょうけど、そこは思い切れなかったのでしょうか、うーむ。夏八木勲と千葉真一に至ってはせっかく出てきたのにほぼ何もせずにフェード・アウトです。
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 テーマの壮大さはすごいんです。戦争と病原体によるカタストロフ、というのはいい。でも、それを支えるだけの強度が物語自体になかった、設定も演出も随所ゆるゆるだった。だからかなりの竜頭蛇尾映画という風に見えてしまうんですね。今これを観る意義、というのは、ぼくにはあまり感じられなかったのでありました。もったいなさを強く感じる映画でございました。
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おなかいっぱいにしてやるぞ、という作り手の心意気に感動。
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「あぁ、それ観てなかったんだ」シリーズ。リメイクもされている有名作品ですが、観ておりませんでした。

 原作小説やリメイク版はまったく触っていないので、その辺との比較をしつつ話を進めるような真っ当な真似はできぬのですが、これは大変面白く観ました。映画を観ながら久々に、おおう、わあ、と声を上げる体験をしたのでした。

 活劇として大変よくできていると思いました。黒澤をはじめとする戦国活劇に敬意を払いつつ、自衛隊という存在を映画に落とし込む。日本で戦争映画といえばやはり太平洋戦争ものになりますし、そうでなくても自衛隊の敵は大怪獣だったりするわけで、そのどちらでもないこの見せ方はシュールさと相まって実に映画として面白かった。時代考証うんぬんは正確ではないところも多々あるようですけれどもね、うん、そこはこの映画ではつついてもあまり実りがないんじゃないですかね、うむうむ。
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 千葉真一率いる20余名の自衛隊の部隊が、戦車やヘリ、船もろとも戦国時代にタイムスリップしてしまいます。これは映画のかなり早い段階からそうなるのでして、現代での平和な日常みたいなもんとかは省かれます。ぼくはせっかちなので、このような早々とした展開は好きですね。『バトル・ロワイアル』が好きなのは、もう冒頭からまがまがしさばりばりで行くところ。変なアイドリングをだらだらせずに、さっさと戦国時代の武将の一団と接触します。武将は後の上杉謙信、長尾影虎で、夏八木勲が演じています。
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 見せたいものが非常にはっきりしているのがとてもいいです。とにかくサービス精神に溢れている。敵からの急襲を受けたり、仲間割れが起きたり、ある軍勢に荷担して敵をやっつけたり、やってほしいことを全部やってくれています。おなかいっぱいにして帰らせてやるぞ、という作り手の意気込みが感動的なのであります。
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 部隊の中で、渡瀬恒彦がリーダー千葉真一に反目しています。どうやら過去に何かあったらしく、原作では語られているのでしょうが、映画では台詞でちょいと説明があるくらいで回想などもありません。もしかすると原作ファンには不評かもしれなくて、「あの過去を描かないと二人の確執が引き立たない!」的なことがあるかもしれないけれど、原作を知らぬ立場で言うなら、ぜんぜん問題ないです。この映画は『バトル・ロワイアル』に似ています。あれもこれも、いきなり不条理な場所に放り込まれて命を狙われる羽目になっているのです。で、大事なのはその空間での活劇のほうで、過去のごちょごちょは要らないのです。変に背景を造型して現実味を持たせようとすると、土台非現実的なこの物語がゆらゆらしてしまいかねない。だったら火薬も血糊もなんでもござれで、ばしばしやってくれてよいのです。もちろん背景の意味合いとかを読み取りたくもあるけれど、そこに重点を置くと今度は映画の濃度が低下しかねないのです。
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 で、その渡瀬が千葉のもとから勝手に抜け出し、俺たちの好きにやるぜと言って、その時代の女性を誘拐してレイプするなど好き放題やり始めます。これは自衛隊の協力をほとんど仰げなかったのが吉と出ているように思います。もしもこの映画が自衛隊からたくさん協力してもらっていたら、あんな風に自衛隊員を悪く描くことはできなかったのではないですかね。そこの思い切りがよい。いいこちゃん映画になっていない。

 やっぱりですね、たくさんの人間が不条理で危険な状況に置かれたとなれば、闇の部分というか、負の側面というか、そういうのをきちっと描いてほしいわけですね。そんな品行方正にやれないだろう、ひどいことを始める奴も出てくるだろう、という部分があることで、人間がよく描かれるわけです。その点で渡瀬は素敵なヒールでした。そしてこの映画はドンパチ活劇と見えながら、最後には暗い部分をちゃんと描く。あっぱれです。
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 重火器や戦車を要する自衛隊と、戦国の軍隊との戦い。
 ここはとても白熱するものがあって、日本映画でも屈指なのではないかと思います。非常に贅沢に描かれていると思いました。で、攻めと引きのバランスもいいんです。自衛隊側が手榴弾や機関銃で一斉に掃射したかと思いきや、今度は数で圧倒的に勝る敵方に押されたり、そうかと思えば戦車で突き進んだりして、ところが敵は敵で燃えさかる炎を積んだ荷車をぶつけて必死に応戦。互いが全力でぶつかりあっている様子が真摯に描かれております。武田信玄の軍と戦うくだりは活劇的快楽が十二分です。
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 別の映画を引くなら、『ブラックホーク・ダウン』もちょっと連想したんですね。あれもすごい映画でしたが、あれと似ているところがあるんです。というのは、不条理な中で目的もわからずにただ戦い続けるほかない、というのがあるんです。千葉真一は夏八木勲と仲良くなって、互いの戦功を約束しあってうんぬんみたいなのがあるにはあるけど、他の連中は非現実的な状況におかれて、ただ仲間同士が手を取り合って、何が目的なんだかわからないままに目の前の敵を倒すことにのみ全力を尽くしている。
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 活劇的な魅力が大きいのでそちらに持って行かれるけれど、ふと思うわけです。何のために戦っているんだ? というね。一応の理屈はつけられるんですよ。自分たちが天下を取って歴史を改変したら、その歴史の異常によって再び時空間に異変が生じ、帰れるんじゃないか、みたいなね。でも、そんなの気休めの理屈っぽくしか響かない。だから何のための戦いなのか、よくわからない。
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 話はそれますが、『ブラックホーク・ダウン』なんかもその辺に感じ入りました。あれはソマリア内戦におけるPKOの介入を描いていますが、平和をもたらすために来たはずなのに、現地人は自分たちを見るや即座に殺しに来る。そんな中で目的がわからなくなる。はて、いったい何のために戦っているんだ? というね。お国のためとか家族を守るためとかそんな大義もない。ただ、戦わないと命を落とすから戦う。戦争の中で起こる意味の消失。その辺の不条理感も、映画に濃さをもたらしているように思います。
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 本筋とは関係ない、ちょっとした部分もぼくは好きでした。夜這いをするシーンとかね。ああいう、戦士としてではない、生身の男としての下卑た部分をちゃんと描いているのは信頼できる。それと、一切喋らない女性と隊員との恋ですね。あの辺はなんだか強引に持って行った感もあるんですけど、そんな中で女性に一切喋らせないのはよかった。あれね、喋らせるとあの展開の変さが気づかれちゃうんです。一切喋らせないことで、なんか最後まで雰囲気で持って行けちゃうんですね。あの辺は今の映画が見習ってよいところじゃないでしょうか。雰囲気でごまかしきった感があります。ごまかしきったので、いいです。
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 最後もいいですねえ。
 千葉真一がね、自衛隊のあり方に疑問を投げるようなシーンがあるんです。もとの時代に行ってもどうせ戦うことなんかないんだ、この時代だからこそ戦いに生きることができるんだ、みたいな。戦争に憑かれた男に成りはてるんです。でも、生き残った隊員が苦しそうに言うんです。「俺は嫌だっ。女房や子供がいるあの昭和の時代に戻りたいっ。あの平和な時代が大好きだっ」みたいなことを言うんです。これね、なんら修辞のない率直な思いとして、いいなと思うんです。「平和な時代が大好きだっ」っていうのが、なんか、すごく響いたんです。

 途中途中、現代の風景が挟まったりするんですが、それもくどくどしくなく、短く効果的に入っていました。現代の風景で、お祭りみたいなシーンで、戦国時代の戦いの様子を催しでやっていますみたいな場面があって、なんだかちょっと鳥肌が立つような、言いしれぬ気分になったりしたんです。劇中でも、敵の軍を見ながら隊員がぼそっと、「あの中に自分のご先祖がいたりするのかなあ」とか言ったりする。押しの演出一辺倒ではぜんぜんなく、ふっと引く瞬間を作り出す。なかなかの芸当であるなあと感じ入りました。

演出で引っかかったのは一点。音楽ですね。なぜだか妙に甘い音楽を流すんです。あれはあの時代としてはありだったんでしょうかね。今観ると、「なんでこの状況で英語の歌やねん」と言いたくなるところもあり、奇異な感じでした。まあ、それはそれでカルト映画的な要素になっているとも言えるのですけれども、

 とても見応えのある傑作でした。未見の方にはぜひにぜひにと申し上げましょう。
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叙情も感傷も、何の救いにもならない中で。
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映画というのは多くの場合、自分たちの価値観や生活を相対化して捉えさせるものでありますが、アフリカを舞台にしたものだとその感覚をいっそう強く抱くのであります。
 リベリア内戦を題材にした少年兵の話ですが、こういうのを見ると、ああ、日本とは本当に生ぬるく、そして幸福な国であるなあと感じます。また、少年兵という存在は紛争の起こる限りにおいて、おそらく絶えようのないものなのだろうなあとも思うのですね。

 複数国間での戦争であれば、もっぱら国の軍部によって統率された正規軍によって戦いが行われるものですが、内戦となるとそうはいかない。なにしろ政府軍対非正規軍、レジスタンスの争いになるので、普通の民間人が戦争を始めてしまう。その中で、子どもという存在も駆り出されてしまうわけですね。いや、というより、子どもや十代の若者たち自身が、進んでそこに身を投じていったりするわけです。日本のアニメその他では、十代の若者が戦いに身を投じるような作品が何かと人気になりますが、実際にそんなことをしたらこんなことになるぞ、というのがよくわかるお話です。
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 タイトルの『ジョニー・マッド・ドッグ』とは映画に登場する少年の呼び名で、彼らは仲間内でニックネームをつけて呼び合っています。「ノーグッドアドバイス」とか「バタフライ」とか「プッシーキャット」などと言い合っている。これなどはキャラ好きの日本人からするとどこか格好よく思えたりするし、ギャング的なものへの憧れを惹起するし、コードネームのような華々しさを帯びても聞こえますが、劇中、それとは違う背景がふっと語られますね。彼らはそもそも自分のしっかりとした名前を持っていなかったりする。いつしか集団の中に入り、自分を示すアイテムや何かを見つけ、それを名前にする。裏を返せば、彼らが名前を持てるのはただ、その集団の中でのみのことでもある。これは少年兵を考えるときに重要なことなんじゃないかと思います。あるいは家族から引き離され、強制的に加入させられる者もいる。そのとき、新たな人格を否応なく付与されてしまうわけです。
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彼ら少年兵は劇中、悪逆の限りを尽くします。冒頭からいきなり、田舎の村を政府軍のスパイ呼ばわりして虐殺し、強奪し、街に人影を見れば見境なく因縁をつけ、場合によっては殺す。なんてひどい奴らなんだ、と思うのは簡単だけれどそうではない。彼らにとっては、それこそが自分の存在を承認してくれる行いなんですね。日本の十代の若者でもある意味では似たようなところがあるのでしょう。不良的な集まりだったら、悪いことをするのが格好いいみたいになったり、それで根性があると見なされて尊敬されたりするわけです。その点ではまったく遠いものではない。
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 ただ、少年兵の場合が深刻なのは、彼らがそれ以外の承認手段を一切持っていないということです。なにしろ国はぐちゃぐちゃ、教育も麻痺し、道徳を得る機会など与えられていない。そして安穏としていたらいつ殺されるかわからない。だから被害者にならないためには加害者になるのが最善の方策。そう信じるしかない。そんな中で一人だけいい子ちゃんになることはできない。そんなことをしたら自分も殺されるかもしれない。そうやっているうちにいつしか、自分の行動に疑念を持たなくなる。

 輪を掛けて深刻なのは、彼らを利用する大人によって、彼らが承認されるという構造です。教育者のいない中で、「おまえは政府軍を殺せばよい」「政府軍を殺せば一人前」「そうすれば幸せになれる」と教わり、麻薬をもらって快楽を覚えてしまえば、もはや抜け出すのは至難でしょう。思考力も心的規制も弱い十代だからこその直情さも相まって、彼らは何のためらいもなく戦渦のうちに飛び込んでいくのです。

映画に登場する少年兵たちは、なんと実際の元少年兵なのだそうです。彼らは幸いにして渦の中から抜け出せたわけですが、現実問題として、そこから抜け出せないまま大人になっていく人も数多いのでしょう。そうなってくると、その人たちがまた次の世代の少年兵を生み出したり、内戦の火種を大きくしたりを繰り返していく。アフリカ映画が放つ、「アフリカという場所のどうしようもなさ」を思います。
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 この映画には日本や欧米の映画のような感傷がありません。ジョニーとは別の映画の軸として、一人の少女が出てきます。映画はこの両者を追っていく構成なのですが、この少女はいわば内戦の一方的な被害者で、住処を追われてしまうのです。
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 彼女には両足をなくした父親がいるのですが、彼がどうして両足をなくしたのかは語られない。そして彼女には母がいないようなのですが、それすらも顧みられることはない。まるで、そんなのはありふれたことであって、ひとつひとつの事情を物語るまでもないというかのように説明が省かれているのです。彼女には幼い弟がいて、彼を引き連れて逃げ出すのですが、彼とはぐれてしまいます。そして、このエピソードも結局は未回収になるのですが、少女が感傷に浸るような描写はない。
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「叙情など贅沢品に過ぎない」と言ったのはキム・ギドクですが、この映画はその言葉を地でいきます。叙情も感傷も、何の救いにもならない。ただ、状況に対処することで精一杯。彼らは自分の内面を語る言葉すら満足に持ってはいない。だからこそ、見ている側はひとつひとつの背景を想像することになります。
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 この映画にはまともな救いが何一つありませんし、カタルシスもないです。ですが、この映画はそのような結末を迎えるよりほかにないし、物語が終わったかのように見せるならばそれは欺瞞でしかないでしょう。実に真っ当な終わり方だと思います。ぼくたちの生ぬるくて幸福な生活を相対化させる作品として、観てもらいたい一本でございます。
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美容整形について思うところ。映画自体は面白く観ました。
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 鈴木由美子の漫画が原作だそうですが、設定や内容はそれとはまるきり違うものなのだそうです。それならオリジナル脚本だと言い張ってもよさそうなものですが、「いや、もともとはあの漫画から着想したので」ときっぱり表明しているのはとても潔いですね。その姿勢は映画の内容とも通じていると思います。整形美人になる主人公のお話です。

韓国の整形文化については広く言われていることですが、ぼくの考えとして美容整形に肯定的か否定的かと言われれば、一応は肯定的であると申し上げましょう。というより、論理的に考えたときに、美容整形を否定することはできなくなるからです。一席ぶちましょうか。

 まず、前提として、人は顔の美醜で人を判断してしまう生き物だということです。この社会において、その前提に疑義を呈することはできません。現に顔の美醜によって人気者は生まれ、化粧品市場は潤い、経済は動いているのですし、顔の美醜によって恋愛問題は生じるわけです。美醜の問題は、たとえば貨幣経済がそうであるように、人間という存在にとって絶対的なものではない。しかし、貨幣経済がそうであるように、現代の社会から切り離すことはできぬものなのです。

外見によって人は人を差別します。美人はもてはやされ、不美人はそっぽを向かれる。男の場合もそう。それがどの程度に露骨であるか、個々人の価値観や考え方によってもちろん度合いは異なりますが、人はどうしても外見で人を差別するのです。こと、恋愛などという場面においては特にそうでしょう。拭いがたくあるものです。

 であるならば、なぜ不美人は美人によって、いつまでも富を収奪され続けなくてはならないのか。なぜ不美人は美人との生来的格差を是正してはならないのか。過激な物言いをするならば、整形の否定とは、被差別者をいつまでも被差別的境遇に置いておいて構わないとする、きわめて危険な思考だとも言えるのであります。

 ここまで言うと、いやそんなことはないと思われる方もおられましょうが、ではお尋ねしましょう。あなたは対人関係において、こと恋愛の局面において、顔の美醜を価値基準としてまったく設定していないと、本当に言えるのでしょうか。もし言えないとするなら、あなたはまさしく美醜による差別心を持っているわけです。美男美女から迫られたら受け入れるけれど、醜男醜女なら受け入れない。これは差別なのです。

 それを悪いと言っているのではなく、先に述べるとおり、人はそういう生き物なのです。だから、被差別者が被差別的境遇から抜け出そうとする投資を、否定することはできないのです。その否定はほとんど人権の侵害行為なのです。

それでもなお、「いやいや、自分は一切外見で差別しない。顔の善し悪しはまったく価値基準にない」としたうえで、整形を否定する人がいるかもしれません。しかし、それは自己矛盾です。外見や顔がどうあろうと人を差別しないということは、他人の顔に一切のこだわりを持っていないということです。顔の形に一切こだわりを持たないのに整形を否定する、これは矛盾そのものです。だって、どうでもいいわけでしょう、顔というもの自体に何の興味もないわけでしょう、だったら否定する必要がないじゃない、という話です。

まだ書けます。こうしたぼくの考えに対して、「親からもらった顔に」云々、「顔はその人の人生の履歴書であってそれを変えるような考え方は」云々という道徳的アプローチで反論することも可能です。しかし、そんな意見に対しては、「それはおまえの個人的な感覚だろう」で終わりです。社会的に、道徳的に、というのならば、批判すべきは整形をする個人ではなく、この社会です。美醜によって人を判断するという、人間が持つ動物的、非理性的価値観を温存する社会。それに対しての反論ならばわかる。そういう人は整形を否定しても意味がないので、「社会の皆さん、顔の美醜で判断するのはやめましょう」と呼びかけるべきなのでしょう。

 かような理由をもちまして、ぼくは整形に肯定的です。

 と、言いつつも、ここで立ち止まる。社会的評価に対して、顔の美醜が占める割合が大きくなれば、人々の知的ありようは変化してしまうのではないか。わかりやすく言うなら、整形や美容のために掛けるコストの分だけ、他の方面への知的涵養、感性的涵養は果たされなくなってしまうのではないか。そういう危惧があります。現に、日本の書籍市場における売れ筋はダイエットや美容の本。これが日本の大人たちの興味なのかと思うと、やはり憂いたくはなる。その点では、整形に対する疑問符が取れない。

ここに矛盾がある。個人にとっての幸福の追求は、決して社会全体の成熟を意味しない。個人個人がよきものを得ていったとき、社会がよき場所になるとも思えない。
 何も難しい話じゃない。人を見た目で判断するな、と言いつつ、ぼくたちは人を見た目で判断する。その矛盾を常に既に抱えている。

整形を肯定する場合には、この矛盾に対する内省が必要なのであろうと思います。

 さて、やっとこさ映画に入ります。
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 この映画は「歌はうまいけどデブでブスな女性」が全身整形を施し、美女に生まれ変わるという筋立てです。歌はうまいけど外見がアレなので、美人な歌手の「ゴーストシンガー」として歌い続けている女性が、イケメンプロデューサーへの恋心から整形を決意し、持ち前の歌唱力で堂々と表舞台に立つのです。
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 コメディテイストの本作。笑い自体はベタベタです。怒っていた人が相手が美人だとわかるや態度が豹変したり、美人になった主人公に見とれて男がバイクから転げ落ちたり、整形前と別人だと思った友達がまったく気づかずギャグになったりと、結構ベタベタなんです。音楽の使い方もえらい古いなーと思うくらい、その辺はもう古典的な感じです。ただ、見せ方、間、切り取り方が上手なので、素直に面白く観ることができました。ストーリーラインでも伏線の機能がしっかりしているので、感心するところ多々です。
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 整形美人ものって、わかりやすくサスペンス構造です。ばれるんじゃないか、はらはら、という引っ張りが効くので、物語の緊張感も持続できる。くわえて、途中でライブシーンのような盛り上がりも入れている。とてもうまいバランスです。劇中、主人公がBlondieの「Maria」という曲を歌うのですが、Coccoのようでもあり、ぼくのヘビロテになりました。

 語りたい場面が多いのですが(いい映画の条件ですね)、ぼくは美人になった主人公に一目惚れした、出前持ちの男のくだりが好きです。彼は彼女をつけ回して盗撮をしているのですが、それを彼女の恋人である音楽プロデューサーに見つかってどやされます。しかし、その恋人を彼女は制するんですね。「好きな相手に近づきたくても近づけない気持ちがあなたにわかるの?」みたいなことを言って。ここはいいなあと思いました。彼女はかつて自分がそうだったから、いわゆる恋愛弱者の気持ちがわかるわけです。ともすればストーカーを肯定するようなシーンでもありますけど、かつて弱い立場にいたからこそわかってやれることがある、というのを示す点、非常によかった。
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 これね、整形美人でいい気になって、ファンの男を鼻にも掛けないみたいな冷たい態度をとらせることもできるんです。簡単に言うと、「外見は綺麗になったけど心は……」みたいにすることもできる。外見重視の話だとそっちに行きがちなんじゃないかとも思う。でも、そっちにはいかなかった。えらいっ。あのシーンはそういう意味でも重要な場面なんです。
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さて、なりすましサスペンスではその正体を暴こうとする敵の存在が大事で、この映画ではかつて主人公の歌声を利用していた、いわば「もうひとりの嘘の歌姫」的な女性が出てきます。彼女は主人公が消えてしまい、ゴーストシンガーがいないとあって窮地。そこで主人公を怪しみ、いろいろと仕掛けてきます。
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 この人がねえ、悪者になりすぎてしまっている部分もあって、でも、そこは仕方がないのかなあ。主人公を応援させるにはこいつを悪者にするのは仕方ないか、うーん。こいつはこいつで可哀想なんですよある意味。外見は整形で何とかなるけど、歌の才能はなんともならないとあって、そこでの問題も含んでいる存在なんです。ただ、そこまで丁寧に描くと話の軸がぶれるし、難しいですね。悪者としての役割はしょうがないところでしょう。
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ネタバレ警報。ういーん。

 最終的に、主人公はスターの位置に上り詰めるのですが、満員の聴衆を前に、整形を告白します。その要因が痴呆のお父ちゃん。お父ちゃんとのくだりがもっと濃密でもいいかな、そのほうが効果的かなとも思う一方、あれを最後のきっかけに持って行ったのは好きです。自分を偽り続ける限り、お父ちゃんを大切にできない。そんな生き方をするくらいなら、この地位を捨てたほうがましだというシーン。
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 で、この映画がさすが韓国だなというのは、その後も彼女はスターであり続けるんですね。整形でもいいじゃないか、と明るいエンディングになる。ここは韓国的態度ですねえ。日本はいまさら『ヘルタースケルター』を映画化して、整形の悪イメージを保持したりしているけれど、なんと向こうの国の映画ではラスト、不美人の友達が「私も全身整形する!」と言い出して終わるんですから。

 前半長々とぼくは「整形肯定論」を述べましたが、それは「整形推奨論」とは違います。ですので、ここまで整形ばりばりサイコーの終わり方で来られると、おお、そこまで言うのか、韓国はすげえとこまでいってんな、とびびったりもするんですが、安易な否定論的結末に比べれば百万倍マシです。アンチもいる、というのを最後に示してもいるし、その点のバランス感覚があります。

ただ、書きながら思いましたが、整形肯定論とは言っても、40代、50代、60代となるとちょっと別ですぼくは。その年までなったら、「美醜から解脱しろよ」あるいは、「20代、30代のような顔!とか言って若さにしがみつくなよ」とは思います。その年ならその年なりのものを磨けるんちゃうんか、と言いたくなります。それが知性や感性の成熟というものでありましょう。うん、若さにしがみつく整形は嫌ですね。それは美醜とはまた別の問題です。ショウビズの世界での整形はぜんぜんオーケーだと思います。

なんかどの辺からコメントが飛んでくるかわからない記事になってちょいとびくびく。ご意見もお待ちしておりますよ。
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これまたひとつの未来へ。
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 初号機hmz-t1が発売されたのが一年前で、長らくの品薄状態が続き購入を控えていたのですが、このたび二号機が発売されると知り予約。13日発売と言われていたのがなんと二日前倒しの11日に届き、晴れて入手の運びであります。新作レビウをてんで行わぬ当ブログにありまして、新作機器のレビウをしようと思います。

 ヘッドマウントディスプレイ。頭部に装着して映像、ゲームなどを楽しむことができるというきわめて未来的なアイテムなのです。初号機を持っていないぼくなので、比較はできぬのですけれど、まずは装着感の話からしていこうと思います。

 ぼくはメガネっ子なので、裸眼の人よりは若干レンズとの距離感があるのかなあとも思います。メガネ無しだと見えないのかと言えばこれはその通りで、画面がぼやけてしまいます。致命的な問題ではまったくないのですが、裸眼の人のほうがよりいっそう快適に装着できるのは間違いないかなあと思います。
 
 未体験の方にわかるように申しますと、視界を覆われるといっても、完璧に周囲が見えなくなるというわけでは決してありません。メガネのあるなしにかかわらず、レンズと眼球の間にはわずかな距離があるのでして、視界下部は覆われません。双眼鏡を覗き込むようなスタイルとは違うということです。ですので、これを装着している間は手元の飲みものが見えぬとか、そういう問題はあまり気にしなくてもよいのです。

 こう書くと、なんだ、完璧に視界を覆うんじゃないのかと思われるかもしれませんが、一応ゴム製のパットみたいなのが付属されていて、それをつけると外部の光はほぼ遮断されます。しかし、この機器に一点の注文をつけるならそこで、このゴム製パットはなんとも「つけにくく、とれやすい」代物です。なのでぼくはつけていません。特にメガネっ子の場合、メガネの縁に引っかかるなどして邪魔になります。

 ですので、これは部屋を真っ暗にして楽しむのがより効果的であります。外部の光をなくしてしまうと、大画面が目の前に広がって見えます。

 さて、見え方ですけれども、これまさに映画館的であると言って差し支えないのではないでしょうか。大きなスクリーンの劇場で最前列、ほどではないのですが(というかそんなサイズは要らない)、映画館で後部の座席に座るくらいなら、よほどこちらのほうが感覚的に大きく思えるのは、間違いないのです。映画館級(あるいはそれをも凌駕するくらい)の大画面を、横たわりながら楽しめます。ベッドで仰向けになって、天井を見上げる体勢でも観られます。
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 目は疲れないのか、というとこれはそれなりに疲れます。今のところ15歳以下の視聴には制限がかかっているようでもあって、これをずうっと観ていると確かに疲れてくる感じはあります。しかしそれは慣れの問題なのかも知れませんし、裏を返せばそれほどの迫力があるという証明でもあります。ただ少なくとも今の段階では、どんな映画もこの機器で観ることにしよう、とまでは思いません。また、おでこの部分にパットがついているのですが、そのせいでおでこが痛くなったりもします。強めに締めるとそういうことになります。ですがぼくはそれをもってこの機器を悪し様に言う気にはならず、むしろもっと快適な見方があるのではないかと模索したくなります。

 さて、本機器の特性の一つとして、ブルーレイならびに3Dを堪能できるということがあります。ブルーレイの画質がクリアなのは言うまでもないとして、皆さんが気になる3Dの効果はどうかというと、これはですね、はっきり言ってですね、「ソフト側の問題」に帰着するところが多分にあります。

 3Dの効果を存分に活かしているものとそうでないものでは、やはり差が出ます。たとえばぼくは二本ほどこれでAVを観たのですけれども、撮り方によっては十分な立体感で、女優のカメラ目線に緊張してしまうような場面もあります。また他方、うまく活かしていない作品の場合は、なんでそんな撮り方をするんだ、ぜんぜん3Dを活かせないじゃないか、というのもあるのです。しかし、効果的なシーンはいくつも確認されたのであり、作り手側の工夫によって、もっと期待ができるのは間違いないのであります。そして、基本的なこととして、大きな画面でAVを観るという小さくも永い男の夢は、存分に果たされているのであります。ポテンシャルを感じる機器なので、もっともっとと望んではしまうものの、はっきり言ってぼくはこの機器の入手によって、大画面テレビをほしいと思うことは未来永劫ないのではないかとさえ思うのであります。PS3のゲームもやってみましたが、これ以上のサイズでゲームをしたいという欲望は生まれ得ず、満足を得てしまったのであります。

作品によって違いがあるんです。画面の周囲は黒いので、たとえばAVの場合、もうちょっと没入感が得られるようにできないかとも思う。他方、ど迫力の映画のシーンなどは、大きすぎて画面の右端と左端を同時に目で追えないくらいでもある。欲を言うなら、画角や大きさを調節できる機能が実装されてほしいと思います。

 いずれにせよ、大きなポテンシャルを感じる、未来に期待を抱かせる機器であることは疑いのないところであります。ちなみにお値段は、ぼくが購入したところでは69100円とまだ高い。しかしこの登場によって、既に初号機は値崩れを起こしているわけで、広まっていくのも時間の問題じゃないでしょうか。
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 さて、このhmz-t2は未来を想起させます。今後この機器はもっと軽量化、小型化していくでしょう。そして、たとえばエグザイルであるとか、イケイケガールがしているような、視界を完全に覆うタイプのサングラスに近しいものになっていくでしょう。電子機器の小型化の歴史を考えれば、これはかなり固い線だと思います。思えばぼくたちは20年前、カセットテープ入りのウォークマンをしていたのです。いまや数センチ四方のipodnanoに何万曲も入るのです。そういう技術革新は今後も進んでいくはずです。
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 ナノテクノロジーによって、コンタクトレンズにAR技術が導入される研究、というのも現代では進んでいます。それが実現する頃には当然メガネに実装されているでしょうし、将来のメガネはこのhmz-t2の機能を当たり前に兼ね備えたものになるでしょう。そしてその頃には当然、今のhmz-t2の機能や見え方が、なんとも貧弱なものとして映っていることでしょう。

 またそのとき、映画館は今の役目を終えているでしょう。新作映画は配信によって公開され、どこにいてもどんな時間でも新作の映画が観られる時代が来るでしょう。単館系映画館の有名どころ、シアターNが閉館になるそうですが、そうしたことは今後も起こっていくでしょう。「単館」自体が死後になるかも知れません。

 しかしそれは悪いことではない、と、旧作映画ブロガーのぼくは思う。
 1月の記事で既に述べたことですが、映画館という場所は言ってみればいまや、「映画館のある地域に住む、ごく一部の人たちにのみ特権的に与えられた施設」に過ぎない。新作の映画で盛り上がれるのは都市の人間に過ぎない。それを全国津々浦々に解放できるわけです。また都市の人にしたって、観たい映画があるけどちょっと遠いし、日に一回しか上映分がないんだよね、観に行けないや、ということもなくなるのです。huluあたりがそのうちその種のサービスを始めても、なんら驚くに当たりません。

 そしてそれは作り手にとってもいいことでしょう。せっかく映画を作っても、渋谷の単館でしか上映されない、あるいはほとんど映画館でかけることができない、なんてこともなくなる。アクセシビリティの絶対的上昇によって、観てくれる人の絶対数は間違いなく増える。

 これは映画だけに留まりません。たとえば舞台、演劇もそうです。演劇は映画以上に閉じられていて、いくら芸能人がテレビで舞台公演の宣伝をしたところで、地方の人間は観に行きたくても行けない。しかし配信が進んでいけば、それはなくなる。というか事実、閉じられていたものがネットに解放される流れはずっと続いている。

 将来ぼくたちはヘッドマウントディスプレイの子孫をかけ、「今公開中の映画、演劇」なんてものをいつでもどこでも観られるようになる。余談ですが、その操作法については、グーグルが研究を進めています。グーグルは指輪型のウェアラブルコンピュータで指先の動きを感知し、レンズモニターと連動して操作するというスタイルを研究しているようです。他のやり方もあることでしょう。
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 かようなことで、このhmz-t2は、未来の種となる製品に相違ないのであります。いまやアップルなどの外国企業に席巻されている先端通信機器市場ですが、この登場によって、ぼくはSONYに一票を投じておきたいと思います。

 
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お久しぶりでございます。
 恵比寿マスカッツの新曲『逆走 ♡ アイドル』のPVが解禁になりましたので、予告通りに一応の再開をするのであります。

書きためてある在庫もございますゆえに、しばらくの間は二日に一回ペースでの更新を行う予定でございます。皆様のご反応が糧となりますゆえ、どうぞお気軽に、思ったことを書き込むなどしていただければありがたいのでございます。

 また、ちょうどこの折りに、ぼかあSONYのヘッドマウントディスプレイ二号、hmz-t2を購入いたしまして、その辺の話もしていければと思うのでございます。アイホンやアイパッドなどの新しもんにはこれぽちも興味を示さぬぼくですが、本製品には強く惹かれるものこれありまして、ここに映画新時代を見るのであります。以前にもここで述べました映画の未来像についてなど、今一度愚考をしたためようかとも思います。

そのうちにまた気まぐれで休止することでありましょうが、それまでの間、またよろしくご愛顧願えればと思います。ではまた明日にでも。
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