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真実は嘘よりも、本当に尊いのか?

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1950年代のアメリカのテレビ番組で実際に起こった出来事をもとにしているようですが、これは今もってなお意味のある題材だと思います。こういう社会派劇みたいなのは好きです、ええ。

 出演者二人が対決するクイズ番組。勝者には高額賞金が与えられる。しかしその裏では話題作りのための八百長が行われており、それをめぐって関係者たちの攻防がなされる。とまあそんな内容なのですが、つまりいわゆる「やらせ」というやつですね。ぼくは元来テレビっ子なもんで、テレビ番組を題材にしている時点で結構興味を惹かれたりしたのです。
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現在までの日本で言うと、やっぱり時を経るにつれてテレビのパワーというのは落ちてきているわけでして、それはむろんネットの普及と発展が大きいわけですけれども、ネットがテレビの裏側を暴き立てるようになったのも主因のひとつですね。ひとたびテレビ番組で不祥事なりなんなりが起こったりすれば一気にネットで広まって、というのは数多いわけでして、テレビ局は相当な苦慮を強いられているようであります。
 もちろん、ネットがあるからこそ明るみに出ることもあるのですが、こと娯楽としてのテレビという点では、ずいぶんと萎縮を余儀なくされているのでしょう。

 2ちゃんねるの元管理人ひろゆき氏が「嘘を嘘と見抜けない人には使うのは難しい」みたいなことを言ったのが広く伝わっていますけれど、ことテレビについて言えば、「嘘を嘘として楽しめる人が少なくなった」のかもしれません。騙されないようにしよう、という知的警戒心それ自体は重要なものですが、一方で何かにつけてやらせだなんだというのも狭量な話だと思います。
 ひとつ覚えているのは、ぼくが中学生くらいの頃に好きで観ていたTBSの『ガチンコ!』があります。TOKIOが見届け人で、ボクサーになりたい不良とか大学に行きたい不良とかを熱血講師が指導する、みたいな番組で、ドキュメンタリーっぽい演出でした。 これに対して一部の週刊誌がやらせだというのを暴いたことがあったのですが、ぼくはなんだか興ざめしてしまったのを覚えています。それはあの番組が「ガチンコ」でなかったことに対してではないのです。「わざわざ騒ぎ立てるなよ、野暮だな」ということなんですね。こっちはマジックを楽しんでいるのに、そのタネがわかったと騒いでいる人がいたら醒めるじゃないですか。ディズニーランドで楽しんでいる人に向かって、「ミッキーの中には人がいるんだよ」なんて言うのは野暮じゃないですか。プロレス観戦で、「台本があるんでしょ」は野暮でしょう。それに近しいものを感じたのです。

 ただ、週刊誌に理がないわけではない。状況や対象によっては、「王様は裸だ!」と言わねばならないときもあるでしょうし、その辺は難しいところ。長くなりましたが、その辺の難しさをきっちり描いている映画として、とても見応えがあります。
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 映画はわざと負けるよう指示された出演者の告発に始まり、そこに法律家が目をつけ、真実を暴いてやるぞとテレビ局や制作者、スポンサーに挑んでいきます。八百長で勝利し、話題の人となったのはハンサムな大学教授で、彼と法律家の攻防が主軸です。
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 映画自体はドラマをきっちりと撮る堅実なタッチでありまして、彼らの駆け引きこそがこの映画の最大の見所のわけですが、この映画が偉いのは、決して一方的な善悪に収まっていないところなんです。テレビ局やスポンサーという巨悪! 真実を暴く痛快劇! になっていない。社会の複雑さを描いているのが大変好もしいです。
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 眉毛の太い法律家役のロブ・モローはその中でも真実を暴こうとする立場にいて、観る側は彼を応援するようなつくりではあるのですが、そこに閉じていないんですね。他の人々の立場とかも斟酌できるつくりなんです。これはそうたやすくないぞ、と観ながら思うのです。
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 たとえば八百長で負けにさせられるジョン・タトゥーロがいますが、後半明らかになるように、彼も答えを教えてもらってきたんです。それで何でもない貧乏ユダヤ人だった彼は一応賞金を手にしてきたんです。でも彼は八百長で負けを強制されたと怒る。この辺なんかも、彼をただの無垢な被害者にしていないグッドポイントです。おまえはおまえで甘い汁吸ってる側にいたじゃないか、と言われても仕方のない立場にいる。
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 テレビ局やスポンサーも自分たちなりの道理を持っている。あれがやらせであったとして、何がいけないんだ? と問うてくるわけです。視聴者は最強スターが出ていれば喜んでみるし、それが人々に知識を持たせようとする動機付け、教育効果に繋がるし、冠スポンサーは売り上げが伸びて万々歳だし、何がいけないんだ?
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 こうしたオトナの問いに対して、「だってそれは真実じゃないもの!」と反駁することはできる。現に八百長でスターになる前のハンサム教授、レイフ・ファインズは良心からその誘いを断ろうとする(カントなら何て言うかな? とインテリっぽく)。

 ただ、観ながらふと思う。真実って何なんだろうと。それを暴くことは果たして人のためになるのだろうか? そんなことを思うのです。
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 いろんな人が言っていることですけど、たとえば事故で最愛の我が子を亡くし、悲しみに暮れる母親がいたとします。彼女の前に二人の人間が現れたとします。一人は現実主義的で、科学的に証明されていない死後の世界などまるで信じない人間。もう一人は霊界と交信ができるというスピリチュアルな人間。彼女を救えるのはどちらなのかといえば、「天国では息子さんがあなたにこう言っていますよ」云々と語る後者のほうかもしれません。彼はインチキかもしれませんが、現実よりもそんな嘘が人を救うことだってある。

 これは単純化した例ですけど、先ほどの手品の例のように、「どうだい、嘘を暴いてやったぜい」という「真実主義」が必ずしも人を幸福にするとは限らないのです。

 この映画はそんな現実を見せます。
 ラスト、ファインズは法廷に立ち、真実を語るのですが、結局のところ彼ひとりが社会的な地位を失い、テレビ局の人たちはのうのうと次の仕事を始めることが示唆される。
 ロブ・モローは確かに真実を明るみに出しました。しかし、真実主義者の本当の敵はまた次の嘘をいくらでも生み出せる。彼は中途半端な形でしか真実主義を遂行できず、結果一人の人間は職を追われた。
「テレビには嘘がある」ことを示したという点では、意義があった。何もかもを鵜呑みにしちゃ行けないよという教訓を与えたでしょうし、人々は多少賢くなったことでしょう。でも、それは果たしてよきことなのか、ここは難しさを孕んでいるように思えてなりません。
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 なんだか社会哲学めいて参ります。
「嘘のない社会は、いい社会か?」

 ぼく一人では到底語りようのないテーマに想到させる映画でした。
 ここはひとつ、『クイズ・ショウ』にあやかって、大きなクエスチョンを投げて終わりましょう。
 どうですか?
 皆さんは、嘘によって救われたことが、ただの一度もありませんか?
 強者による嘘や隠蔽は許せない! としても、強者の嘘や隠蔽によって今の不自由ない生活が成立していると考えたことは、一度もありませんか?

 お相手はkarasmokerでした。また、この時間にお会いしましょう。
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マスカッツのイベントに行くの巻き。または、微熱の時代を夢見て。
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 当ブログで恵比寿マスカッツを布教し続けているぼくでありますが、実際にライブ等の現場に出向いたのはDVD発売イベント一回のみでありまして、あまり生で観ることに興味がなかったのですけれども、池袋のサンシャインシティに来たるとあって、ここはもろに生活圏の範囲内でありますので、これはさすがに行かなあかんなというわけで馳せ参じたのであります。今日は「karasmoker、マスカッツのミニライブに行くの巻き」として、普段と趣向を変えてのライブレポート的なものにするのでございます。

 会場は池袋サンシャインシティ内の地下、噴水広場でございまして、優先観覧スペースに入るため朝の十時からのチケット取りに出向き、夕方に再び現地に赴いたのであります。なにしろ家から徒歩五分なので楽ちんなのであります。

 噴水広場は上階まで吹き抜けになっておりまして、買い物客がふらっと観るなどということもこれ可能で、言ってみれば無料なのですけれども、優先スペース+握手会に参加するにはCDを三枚お買い上げ頂くという話なのであります。その手の商法にはいくぶん否定的な思想を持つ者でありますが、CDは三パターンありますし、優先スペース、握手会、ポスターのための料金と考えればまあ道理も通るのでございます。

 普通のライブ会場と違って、なにしろ開放的商用空間の最中にあるものでございますから、どうにもくすぐったい感じもあるのでございました。ぼくが参じた優先スペースは「濃い衆」に溢れており、上階にいる「何かやっているらしいのでまあ観てやろうか」というくらいの人たちから見下ろされるのであります。言ってみればファンも観られている構図なのであります。

 優先スペースに入れたのは80番目で、前方四列目くらいの位置でありました。噴水広場自体が広くないので、大きなコンサート会場などよりもはるかに至近の距離で観ることができたのであります。

 登場メンバーには欠けもございましたが今回主役の吉沢明歩様をはじめといたしまして、半数以上のメンバーが参加とあり、豪華な布陣だったのでございます。惜しむらくは蒼井そら様や希崎ジェシカ様、そしてそして桜木凛様がいらっしゃらぬということでありますが、それでもCD販促イベントの千秋楽とありまして、出てほしい方々のほとんどがいらっしゃったというのは誠にもっての慶事なのでございます。

 メンバー一人一人からのコメントがあって後、「親不孝ベイベー」「ハニーとラップ」「ロッポンポン☆ファンタジー」「逆走 ♡ アイドル」「スプリングホリデー」の五曲が披露されたのであります。

 ぼくはこうしたイベントに不慣れでありまして、何もかもが新鮮に映り、怒濤のごとく時間が過ぎたのでございます。すぐ前にいた人は熱心なファンでございまして、曲の合いの手、振り付け、声援などが堂に入ったものであり、一方ぼくはそれになんとかついていくというので精一杯。マスカッツもさりながら熱心な応援の方々に圧倒されたというものでございます。

 ここに及んでぼくは自分の心中に小さな化学変化を感知したのでありました。
 始まる前、周囲の顔見知りのファン同士があれこれ喋っているのを見るにつけ、「どうも自分とは違う種類の方々だ」と距離を取って眺めていたのですけれども、優先スペースでそうした濃い衆の方々といると、上階ですかした感じで眺めている連中よりも、ずっと親近感が湧いたのでありました。

 たとえばかけ声ひとつ取ってみましても、拍手を取ってみましても、上階の物見遊山の人々は反応乏しく(正面は除く)、むしろ優先スペースの熱狂者たちを嗤っている風にも思えたのですが、ぼくの前方の方などはそんな連中など構いもせずにマスカッツに情熱を傾けていたのであり、「おお、ことによっては上方でゆったり観ようかなどと考えてもおったけれど、この熱狂スペースでよかったのであるなあ」と思えたのであります。

 その後に行われた握手会でありますが、いやはやあまりの眩しさゆえに、「正視に耐えぬ」のでありました。我ら人類が太陽を直視できぬのと同じように、ぼくはマスカッツの方々のまばゆさに打たれ、一瞬顔を見た後、ついつい俯いてしまうのでありました。

 何を着ていけばいいのか迷ったぼくは、「彼女たちに謁見申し上げるにあたり、平服では非礼であろう。このうえはスーツで参らん」と思い至りまして、スーツにニット帽という我ながら奇妙な格好で出向いたのでした。なぜニット帽かといえば、これはぼくなりに背後の観客に気を遣ったのであります。ぼくの逆立った髪が背後の方の観覧を阻害することがあってはならぬ、という理由なのであります。しかし結果として逆立つ髪が帽子を押し、余計膨らんでいたというのが後ほどにわかりまして、反省するところであります。
 握手会の際、スーツ姿に反応してくれた篠原冴美様と、「ありがとうございました」の後に一言「お気をつけて」と添えてくれた麻美ゆま様には一層の情愛を向けるものと決めたのでございました。麻美ゆま様の優しさはやはりただならぬものであると感じ入ったのでありました。

 先ほど、「そのまばゆさ故に、至近での正視はこれ難し」と申しましたが、こうしたメンタリティは古来、日本人が天皇に向けて感じたものと似ているのであります。むろん、天皇陛下とマスカッツを同一線上で物語るなどは不敬でございまして、そうした意味合いではないのですが、まあこれは言葉の綾、もののたとえでございます。

 しかしここでぼくは、「スーツで参る」というのは作法のひとつとしてありなのではないか、と思うのでありました。そんなことを考えていたのはぼくだけのようでして、他の方は皆平服でありましたが、これはどうにもひとつ、敬意が足りぬのではないでしょうか。なんというか、「謁見申し上げる」という意識があってもよいのでございます。そしてかような、ファン以外の人々も観覧するなどという局面においては、ファンの皆々がスーツで参じることによって、「おおう、その辺の小娘アイドルのオタクとはぜんぜん違うな、マスカッツのファン層は」とびびらせることもこれ可能であり、そうしたことがひいてはマスカッツの社会的ステータスをより向上させる運びになるのではないかとさえ思うのであります。

 などと言いつつ、これは半分以上しゃれですので、マジで反論するなどの無粋な真似はなさらないようお願い申し上げます。

 ここまでの文面で、どうもこいつはアイドルを愛でるという感覚を放棄しているのではないか、変なほうに行っちゃってるんじゃねえか、とお思いの方もおられましょうが、それはまさにマスカッツが他のアイドル風情とは違うということを意味するのであります。
 
 イベント冒頭、リーダーの希志あいの様がおっしゃっておられましたように、マスカッツは長年の音楽活動においても、歌番組にもほとんど呼ばれず、出たとしても深夜のみで、ゴールデンにも一切出られないような状況なのです。これは言わずもがな、彼女たちの主要メンバーがAV女優であるということでテレビ局が軒並みびびっているわけでございます。また、世間の目においても「AV女優」は日陰の存在と思われている節はいまだ強く、なんならアイドルや女優などよりも格が下であるなどという観念も根強いのであります。

 これは甚だしく遺憾であります。世の男子諸兄はその多くがAV女優のお世話になっているではないですか。彼女たちに快楽を与えてもらっているではないですか。

 ならばリスペクトをしないほうがおかしいのであります。ぼくはそうした不当な観念、不当な建前に強い違和感を覚えるのであり、マスカッツはそれに抗する最高の組織体なのであります。かつてキング牧師は黒人と白人が同じ食卓につくことを夢見ましたが、AV女優と一般の女優が同じ映画やドラマで共演する、ゴールデンの歌番組を彩ることは、マスカッツの向こうにある夢なのでございます。そうしたカオティックなメディア状況が現出したとき、ペドフィリアの欲望と処女幻想にまみれた蒙昧なアイドル時代は終わりを告げましょう。価値観は崩壊し、ぐちゃぐちゃになり、「成熟の時代」などと言って老境にさしかからんとする日本は再び「微熱の時代」を迎えることになりましょう。テレビは再び、あの輝かしき20世紀の活況を取り戻すことでありましょう。

 あえて申し上げるならば、秋元グループにも、ピンクの三つ葉にも、「時代を逆撫でる」ことなどできやしないのであります。それが唯一可能なのは、恵比寿マスカッツなのであります。賢明なる方々はもうお目覚めの頃合いでございましょう。これ以上の多言は蛇足であります。

 楽しみはしましたが、今後もぼくはあまり現場に出向くことはないでしょう。それは今日の熱狂的な方々にお任せすればそれでよいなあと思い、ぼくのすべきことではないという思いを強くしたのであります。ぼくが予約して取れるであろう席は、蒙の啓かれるべき新たな方々にお譲りいたしましょう。今後も折に触れて、もっぱらこのブログなどにおいて、密かなエヴァンジェリストの役を担っていこうと思った、そんなイベントでございました。


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この手の映画には哀しさがほしいのです。
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原題『Out of Rosenheim』
 1980年代終わりの日本(おそらくは東京)でミニシアターブームを引き起こしたと言われている作品です。前から名前だけは知っていたのですが、どんなもんかいのうと思って観てみました。

 タイトルにあるバグダッドカフェとは映画に登場するモーテルの名前ですが、舞台はアメリカの砂漠地帯で、観るところイラクとは何の関係もありません。何か深い意味があるのかもしれませんが、これはむしろ日本の街角にもあるような、「喫茶 パリ」とか「スナック モンテカルロ」とか「ホテル イスタンブール」とかそんな感じの店名だと捉えたほうが、むしろ風合いを感じられるようにも思います。

大まかな印象から言うと、これはもう風合いをどれだけ感じたかということに尽きるんじゃないですかね。ぼくは実はそれほどぴんとは来なくて、方々のレビウを散見したのですけれど、どれもこれも映画の印象を褒めているようなものばかりです。1980年代終わりの東京では、なんかこれを褒めたほうがもてるんじゃないか、少なくとも『ロボコップ』とかを愛でるよりはるかにもてるに違いない、と思った男が続出したことでしょう。かく言うぼくだって、たとえばその時代に大学生だったりして、小粋なガールを連れて映画を観に行ったとなれば、無理矢理にでも褒めまくってハイセンスを気取ったに違いないのです。
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ストーリーはというと、ドイツからアメリカに来ての道中、太ったおばさんが夫と仲違いし、一人バグダットカフェに泊まるところから始まっていきます。このモーテルを仕切っているのはいつでもぷんすか怒っている黒人の面長おばさんで、急に訪れたドイツおばさんを怪しんだりもするのですが、いつしか打ち解けて家族ともどもハッピッピー、という映画です。
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 大した出来事が起こらず、日常の変化を淡々と追っていくような映画、でいうと、ぼくはここで幾度も述べているとおり、アキ・カウリスマキが好きなんです。風合いということでいえば彼の描き出す世界がなぜだか妙にしっくりと来るのでして、それをちょいと思い出したりもしました。で、それと引き比べるのは違うのだろうと思いつつ、どうしてアキ・カウリスマキがぴんと来てこの映画はそんなにぴんと来ないのかなというと、これはわかりました。うん。
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 あのー、うん、この映画は哀しくないんです。
 ぼくが惹かれなかったのはそこですね。哀しい感じがどうも足りない。
 別にこの映画が悪いんじゃなくて、というか一部で絶大な支持を得てすらいるわけで、この映画はこれでいいのだと思うのですが、ぼくにはもっと哀しみがほしいなと思ったんです。
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 わりと事がとんとん運んでいくんです。最初はぎすぎすしていたモーテルの中、そして素性知れずで怪しまれていたドイツ人女性、そういう初期設定があるのに、彼女がとんとん受け入れられていって、最終的にはモーテルで手品ショーを開いて大盛況、老人男性とも恋が芽生えて、結婚して永住権も獲得できちゃうのかな、という展開。寂しい風景があるにもかかわらず、哀しみが足りない。
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 これはそういう映画じゃないんだ、哀しみなんか要らないんだ、と仰る方はそれでよいのですけれど、別の言い方をすれば、背景がないんです。主人公のドイツ人女性にしても、彼女がどんな人間でどういう生を歩んできたのかが見えないのです。
 冒頭、アップテンポなカットで刻んで、彼女が夫と別れる場面を描くのですが、なんであんな描き方なのか、あの手法がどういう効果を生み出すのかがぼくにはよくわからなかったんです。
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 いやそりゃ確かに、激しい口論と喧嘩があって、けばけばしいメイクとぴちぴちの服装をまとってという部分で彼女のある種の荒みが描かれ、それをあの場所で癒されていくような展開というのもわかるんですけど、そこで気にかかってしまうのが主題歌の『Calling You』です。なんかちょっと幻想的な感じなんです。あの主題歌はすばらしいですね、というレビウがちらほら見受けられたのですが、ぼくにはこれまたわからなかったです。まあ、それがわからないというのは、つまりぼくがこの映画の魅力、よい見方を決定的にお見それしているということなのかなと思いますが、あの仰々しい、神々しい感じの曲と僻地における彼らの日常がどうシンクロしているのか。ぼくにはわからないのでした。
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 などと言いつつも、確かにずうっと観ていられる映画ではあるんです。風邪気味でぼうっとしていたのもあるかもしれませんが、なんだかずっと観ていられました。その点で言うと、この映画の風合いが自分にはびびびっと来たぞ、という人の気持ちもわからなくはありません。
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 ぼくはこうした映画に対して、「哀しみのおもり」を求めてしまう。もちろん、寂しげにピアノを弾き続ける少年や、彼がつくってしまったという赤子の泣き声などは哀しみを担うものであるけれど、そこはそんなに膨らむこともなく、マジックショーシーンは多幸感に充ち満ちていたりして、哀しくない。そんな感じでした。

自分の感じ方を確かめる意味でも、観てみるとよいのではないでしょうか。
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戦争の悲痛さや愚かしさよりも、虚しさを感じました。
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原題『Cross of Iron』
 町山さんがオールタイムベストワンにしていて、サム・ペキンパー監督で、ずっと前から観ようと思っていた映画なのですが、新しく発売されたDVDの字幕がひどいという評判が定着しているようで、敬遠しておりました。ツタヤで発見したので借りました。

 字幕は確かに不自然というか、最適な訳とはかけ離れているという印象でありました。「誰々が、誰々が」みたいな主語の連続が随所で出てきたり、自動翻訳みたいな箇所があったりなどして困ってしまい、英語の聞き取りも不十分な身の上とありまして、細かい部分はたぶんよくわかっていないのだろうなあと思います。
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 また、観る前に歴史についてもう少し覚えておくべきだったなあという箇所もあり、観終えてから方々の解説サイトを回り、なんとか意味がわかったぞみたいなところもあるため、今日はいつも以上に底の浅いことしか書けそうにありません。とても細かく批評しているサイトなどもいくつもあるようなので、そちらに行くべきであります。なんとなく知りたい人だけ読めばよいのです。

 第二次世界大戦の、ドイツとソ連の戦いの一幕を描いた作品です。しかし、戦時下のドイツと言ってもこの映画では、ナチスの影はかなり薄いというか、ナチスに反目するドイツ軍人が主人公なのです。主演はジェームズ・コバーンです。

邦題からはわかりませんが、原題は『Cross of Iron』といって、鉄十字勲章を指します。これはプロイセン王国時代から続くドイツ軍の勲章だそうで、ナチスの鉤十字などよりずっと由緒あるものなのです。この原題からして、非ナチスの映画、ドイツ軍人が全員ナチスの手先だったわけじゃないんだぞというのが示されています。

 サム・ペキンパーの映画はこれまで8作くらいは観ているのですが、大体において特有の「もったり感」があります。他の映画にはない、「もーん」とした感じがあるのです。なんというか汗臭く土臭く、砂まみれで乾いたような印象を与えるのです。この映画もまさにそうで、独ソ戦の様子が美化ゼロの風合いで描かれています。
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両軍の戦闘シーンは『ワイルドバンチ』でも観られた高速カットで描かれ、くらくらさせられます。何が何だかわからなくなってくる、というのがそのまま当てはまります。特に本作の場合、両軍の見た目をわかりやすく分けたりなんてことはないし、どちらも土と泥で汚れているような状態ですから、わわわわわと圧倒させられるのですね。これは戦争シーンの描写としてとても正しいと思います。何が何だかわからないままに敵がやってきて味方がやられて敵を殺してまた味方がやられてという極限的な状況は、むしろ「何が何だかわからない」からこそ写実的に描かれていると思うのです。観客に臨場感を与える演出として大変効果的であるなあと感服いたします。
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 主人公のコバーンと対比的に描かれるのはマクシミリアン・シェル演ずる上官で、彼は勇敢なコバーンとは対照的に、自分の勲功にこだわりながらも決して力強くない存在として出てきます。コバーンと彼がCross of Ironそのものについて語る場面は印象的で、コバーンは勲章など要らないと言い、一方でシェルは十字勲章を尊んでやまぬのです。
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シェルは貴族出身の軍人として出てくるのですが、この辺もこの映画が非ナチス的な軍人たちの物語として生きてくるところですね。そもそもナチスは労働者たちに支持されて台頭してきたのであって、かつての帝政のもとで重んじられていた貴族としては、あまり気分がよろしくない。伝統あるドイツ国防軍もナチスの下に位置づけられてしまい、それでもなお、貴族として、軍人として勲章がほしい。この、階級や所属と一体化してしまった自己像というのは、決して遠い国の昔のものではないと思うのです。
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 コバーンはそれに真っ向から相対する。彼は彼でナチスを嫌っていて、だからいっそう立ち位置が微妙です。彼が戦う相手はソ連で、自分はドイツの側に属しているのだけれども、かといってナチスのために生きることなどできず、軍のために生きることもできず、勲章で自分を誇るような生き方もできない。妻に「あなたは戦争が好きなんだわ」と言われても何も言わず、怪我が完治せぬままに戦場に出向く。彼は彼で何をどうして生きればよいのかわからずにいるように思えるのです。疲れ切ったようなあの表情からも。
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 とかく戦争には愛国だなんだと大義がつきものですが、この映画はそんなものを唾棄しているように見受けます。勲功は馬鹿らしいし、国を仕切っているやつらはもっと馬鹿らしい。戦い抜いてはみたものの、味方と思っていた連中が自分に銃を向けてくる。映画公開はベトナム戦争が終わった後のことで、ペキンパー流の反戦の表現が絶品なのです。サイトを巡ると、この映画は反ナチスの映画だ、と書いているものがあったのですが、違うでしょう。ペキンパーがこの時代にわざわざ反ナチスを撮る必要はないし、だからこそこの映画ではむしろナチス色はとても薄められているのです。ナチスというわかりやすい悪役をあえて脇に置いたことが、この映画をより強いものにしているのです。

だからラストに、ドイツの劇作家、詩人のブレヒトの警句が置かれるのです。

Don't rejoice in his defeat, you men
 For Though the world stood up and stopped the bastard,
 The bitch that bore him is in heat again

"the bastard"とはヒトラーのことでしょうが、この警句の要点は、「ヒトラーは死んだが、彼を生み出したものはまた首をもたげているぞ」ということで、なるほどまさしく米ソは戦いを始めるわけです。そして「彼を生み出したもの」は、今もなお生きているわけです(蛇足ですが、それは特定の国家や団体ではあり得ません)。
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戦争の悲痛さとか愚かさとかそういうものよりも、強い「虚しさ」を感じさせる映画でございました。
反戦映画の金字塔としては、語弊を承知であえて言うなら、『まぼろしの市街戦』が愚かしさを、『ジョニーは戦場へ行った』が悲痛さを、そしてこの『戦争のはらわた』が虚しさを顕現しているように思います。
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