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二時間かけて語られてもなあ、でした。
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 巨匠ポランスキー監督作で、受賞も多く、高評価の作品と見受けますが、ぼくにはどうもぴんと来なかったのが本音でございます。

 イギリスの元首相と、彼の自伝を書くことになったゴーストライターの話です。首相の名前は架空です。イラク戦争と思しき戦争にまつわる報道が出てくるのでいちばん近いのはトニー・ブレア元首相ということになるのでしょうが、イラク戦争に対するイギリスの政治的責任、とかそういう話にもあまりなっていかないので、それはそれ、「政治をめぐるサスペンス」みたいに観ればいいのですね。
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 ユアン・マクレガー扮するゴーストライターは、ピアース・ブロスナン扮する元首相と出会い、彼の自伝を書く作業を始めます。しかし、この首相が戦争時、捕虜の拷問に携わっていたぞ、という報道が出てきて、彼の身辺がにわかに騒がしくなります。そんな中でマクレガーは自分なりに元首相の過去をいろいろ調べ始めるのですが、その過程で首相の話したことと出来事のずれなどが発覚したり、前任のライターの不審死がきな臭いものに思えてきたりして、彼は「政治の裏」にどんどんと首を突っ込んでいくことになります。
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 うーん、ただこれねえ、中盤から「この程度の話になるなあ」感を覚えてしまうんですね。映画は二時間観るなら二時間の中で、やっぱりなんというか、何か考えの種がほしいんですね。もちろん、たとえ何も残らなくても二時間ばっちり愉しませてくれるものもいいんですけど、これはなまじ政治の裏の話とかしているんでねえ。だから、現実を忘れてその二時間を愉しめばよい、というものでもないし。そう考えると、政治に何の興味もないよ、という人ならいいのかもしれないですね。褒めているのはそういう人じゃないかなという気もしてしまいます。今のぼくは「ポランスキーのこの映像美学を観よ!」と言われても、そちらにはとんとインポテンツなので。

ネタバレーション警報。結末の話をしますね。
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 この映画に大きく絡んでくるのはCIAです。ざっくり言うと、CIAが(つまりはアメリカが)イギリスの政治を裏で操っているのだ! みたいな結末です。このマクレガーもそこを追及する形になっていくんですね。CIAと関係していると思しき人物が元首相との関係を隠していたりするし、その関係に触れたから前任者は死んだのだ、みたいなにおいをさせたりもするし。で、最後には、「首相の妻はCIAの人物だった!」というところでびっくりさせるみたいなね。
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この結末に至ったところで、ああ、やっぱりつまらない話になっちゃったな、と思ったんです。っていうかこの話って、日本人からすると、何の衝撃もない話じゃないですか。そんなこと言い出したら、こちとらずっとアメリカに操られているぞ! ってなもんですから。こちとら憲法も米国人製で、「戦力は、これを保持しない」はずだったのに、朝鮮戦争があって保持することになって、その結果違憲状態のまま半世紀以上が経過したぞ! この国の保守は親米がメインなんだぞ! なんか知らないけど親米的な内閣ほど長続きしてきた国だぞ! 日本の従米・属米をなめるな! ですから。だからねえ、イギリスがアメリカに操られているのだ! って言われてもねえ、なんです。
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そもそもぼくはどうもこの、「操ってる系」の話、「陰謀論的」とでも申しましょうか、この手の話が好きじゃないんですね。

 わかりやすいんですよ、陰謀論というのはね。この世界には絶大な影響力を持つ組織なりなんなりがあって、世界はその組織の考えで動いている、みたいなのってわかりやすいじゃないですか。でも、それはちょっと見方が拙い気がしてならないんです。実態なんて何もわからないぼくですが、要するにアメリカにせよCIAにせよ、抜群に手回しがうまい国家、組織だと思うんです。いくつものシナリオのシミュレーションがあって、どこがどう動いてもいいように早めに手回しをしている。相手がぼんやりしているうちに早めに動いて、自分たちがうまくやれる方向に仕向ける。そういうのがうまい国だと思うんです。

 その外交能力、処理能力にめちゃめちゃ長けているんだと思う。だからこそ、傍目からはすべて彼らの仕組んだことに見えてしまったりもする。アメリカがどこそこの国と実は裏で手を組んでいるんだ、とかいうのは、「手を組む」じゃなくて「手を回す」が正確なところじゃないかと思うんです。向こうの国がこう来たらこう返す、こう出てきたらこのように対処する、あちらがどのように動いてきてもこちらの国益を損なわないように準備しておく、みたいな構えがあるんだと思うんです。そういうことをまるで考えない人たちが「陰謀」という話に飛びつくんじゃないでしょうか。そこで考えるのをやめれば楽だから。

 この辺の話をすると膨らみますけど、政治的陰謀論って、「自分が不幸なのは世の中が悪いんだ」的な心性と結びつきそうなんですよね。誰々が悪いから自分は不幸だ、あの組織がこうだから自分は不幸だ。そう考えるとそこで楽になれるんです。でも、それはあまりにも単純だよねってことです。もちろん実際にそういう場合もあると思いますけど、こと国家同士の話になったときには、そんなに単純とは思えない。
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 陰謀論を膨らませてしまうのは、外交能力の無さを、あるいは自分の弱さを見ないようにするための、悲しい慰撫に見えたりもするんです。「仮面ライダーのいない、仮面ライダー的世界観」とでも申しましょうか。
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 映画から遠く離れました。そのうえでこの映画を考えるとね、やはりどうしても物足りない。ラスト、この映画における「衝撃の真実!」に触れた主人公が殺されたことを暗示して終わるわけですが、国家が個人の告発を握りつぶすなんて、もうそんなのいくらでもある話でしょう。政治運動をしただけで投獄される国だってあるわけです。そこをねえ、ラストに持ってこられてもねえ。敏腕きわまる国家の連中に対して、個人が闇雲に動いたらそうなるよ、というのは案の上の結果です。二時間以上あって、こちらの思考を何一つぶらしてくれない。
 
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 興味が湧くとすれば、この映画の結末に驚いたり満足したりしている人の頭の中です。 その人がどういう目線で、日頃政治というものを考えているのかには興味があります。 
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ぴんとこなければそれはそれで幸福。
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最新作を除いて、ここしばらくの園作品はずっと観ていたのですが、一本だけ観ないでいた作品です。特に理由はないのですが。

 いざ観てみるとゼロ年代の、『自殺サークル』『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』などの系譜にある作品だなあとつくづく思いました。いわゆるひとつの園ワールドが真っ当に体現されているなあと思うのでした。

 神楽坂恵演ずる貞淑な妻が娼婦へと変化していく話、というのが主軸です。富樫真演ずる娼婦(昼は大学教授)が、彼女を陰の世界へと引きずりこみます。一方、女性が被害者である猟奇殺人事件が起こっており、それを捜査する刑事として水野美紀がいます。この三者の動きで話が紡がれていくわけです。
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 リアリティは度外視、熱量で押す。というのが園子温のひとつの形です。園子温と増村保造の類似についてここで何度か述べていますが、どちらにも他の日本映画とは異質な、演劇的な空間があります。だからまず言っておくべきは、本作をしてリアリティうんぬんというのは、とても間違った見方であるということです。ぼくは園監督の作品を観ると、「マジック」という言葉が似合う監督であるなあとよく思うのですが、ひとつのマジカルな世界をつくりあげて、そこにどろどろとしたものをぶちこむのが彼の得意技だとぼくは捉えています。
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 その点について、ひとつの明確なサインをぼくは感知しましたね、ええ。
 というのはね、主人公の神楽坂恵。彼女は園監督の妻でもあるわけですが、他の多くの役者に比べて、演技が拙いところがある。序盤、ああ、やっぱりそうだ、なんで監督は妻であるこの女優にだけ、マジックを掛けられないんだろう、と思えてならなかった。
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 ところがある箇所で、ぼくはちょっと見方を変えることになります。
 彼女は潔癖的に厳格な夫と生活しているのですが、あるときパートを始めて外の世界に触れます。そしてAVにも触れます。そういう一連の中で、彼女は家の姿見の前で全裸になるのです。
 ここが面白い。彼女はパートであるスーパーの売り子のフレーズを、全裸のままで連呼し続けるのです。で、それがちょっと長いんです。これをぽんと放り込んでくる。このシーンがひとつの大きな契機です。この映画はこの変なトーンで行くからね、よろしくね、という宣言です。この場面で乗れないと、この映画に乗れないと思います。そういう意味では親切設計でもあります。

これね、うん、よくね、自分を解放する、みたいな言い方ってあるじゃあないですか。自分を解放してやりたいことをやろう、みたいなポジティブな言葉って、あるじゃあないですか。でもね、それとはちょっと違うんです。うーん、ここは書き方が難しいですね。
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 劇中、「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズが繰り返されます。田村隆一という詩人の『帰途』という詩の一節がくどいほどに繰り返される。これほど繰り返されるならば、ここにこの映画の主題のひとつがあるのは明白です。
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 などと言いつつ、ぼくは詩の読解にかけては大変不得手でありますゆえ、正しい読み解きには自信がないわけですが、ぼくなりに考えたのは、「言葉」というものがもたらす認識の拘束性です。富樫真も、彼女に感染した神楽坂恵も、この詩を何度となく繰り返す。それがヒントです。

 言葉とは何か。それは事物を認識するための道具です。同時に、人間はその事物に意味付けを行い、あるいは印象付けを行います。そしてもうひとつ、言葉の役割は、誰かとコミュニケーションをする際の道具であります。言葉をいっぱい覚えることによってぼくたちは様々なものを認識できるし、様々な形でコミュニケーションを行えるのです。

 しかし他方、言葉は認識を拘束してしまうものでもあります。ぼくたちは言葉に認識を拘束されることによって、その外側を見なくなる。言葉が通じることを当然と思って、言葉が通じないものに触れるのをやめてしまう。あえて乱暴なものいいをするなら、言葉というのは、ぼくたちを社会の内側に閉じ込めるものでもある。ぼくたちの認識は言葉によって広がりますが、一方言葉によって拘束されているわけです。 
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 言葉なんか覚えるんじゃなかった、と繰り返すこと。すなわち、言葉の呪縛から解かれようとすること。これを富樫真にせよ神楽坂恵にせよ希求しているわけです。ではなぜ言葉の呪縛から逃れようとするのか。言葉が自分と自分の認識を、社会の内側に閉じ込めるものであるからです。ではなぜ社会の内側に閉じ込められることを嫌がるのか。
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 劇中ではわかりやすい設定がなされていますね。神楽坂の場合は厳格な夫、富樫の場合はほとんどきちがいみたいな母親。これがひとつの重しになります。観客に対してわかりやすい設定と言えます。今までの自分を縛り付けていたものの象徴から逃れることと、社会から逃れることが通じます(すみません、もっと詳しく書けばいいのですが、すっげえ面倒くさいんです)。

 誤解されないようにしたいのですが、「社会の内側へ閉じ込められることを嫌う」というのは、たとえば尾崎豊的な「社会への反抗」ではない。社会への反抗は、既存の社会への反発に過ぎない。この映画が言っているのは「脱社会」のほうです。劇中とラスト、「ゴミを捨てに行った主婦が遠くへ行ってしまう」という話が出てくるのはそのことです。

 ではなぜ人は「脱社会化」を求めるのか、という話になりますが、それはちょっと、今のぼくには荷が重すぎるので、各々で考えてもらうほうがいいでしょう。生活が嫌になったとか、退屈だとか、そういう簡単な解釈で済むならたやすいのですが、それだけではない。「意味に還元されない世界への触知」とか「情動」とかの方面の話になってきます。それはあまりにも面倒くさいので、ここでこれ以上広げるのやめます。っていうか、ぼくにもそんなに手持ちがないし。
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 社会学者の宮台真司が「自分にとって映画は娯楽ではなく、アート。ではアートとは何か。それに触れる前と触れた後では、身の回りの世界を同じようには捉えられなくなるものだ」というようなことを言っていて、その感覚はよくわかる。彼が園子温を激賞するのもよくわかります。なんだか、感覚をぶらされるところがあるのです。だからこれを、娯楽映画を観る構えで観ようとすると(たくさんの映画を観ている人は時として見方が凝り固まっているものです)、ちょっと見方を間違えるんじゃないかと思います。

 とはいえ、ぼくとしても大いに賛美できない部分もあるにはあります。富樫真と神楽坂恵が大学のキャンパスでごちょごちょ話すところとか、水野美紀が廃屋で雨に打たれる妄想をするようなところは、やや映画の手つきに酔っているな、と思えてしまいます。

 あとはちょっと、中途半端にカットを切りすぎているようにも思いました。カットを切るのか切らないのか、その辺のこだわりがもうひとつぼくには見えなかった。たとえば神楽坂恵が富樫真と邂逅し、彼女を追って歩き回るシーンなどは、カットを切らずに長回しで追ったほうが、別の世界に足を踏み入れていく様を、実在感をもって描けたのでないか。それと、あのクライマックス。富樫が狂ったようにセックスするシーン。そしてピンクのボールをひょろっちい男が投げるあの場面。あれはもっと高速でカットを切ってもいいんじゃないかと思いました。観客の認識をぶらすには少し遅いように思えた。それこそペキンパー的な高速カットで追ったほうが、もっと訳がわからなくなったのに。

手つきに酔ったり、なまじうまくなったりすると、狂気とは離れてしまう。この映画にはもっともっともっと野蛮さがあればよかったのに、というのは残念なところです。かつての『うつしみ』みたいな野蛮さです。この映画に大事なのは野蛮さ。それがもうひとつ足りなかったという印象はあります。だから後半はちょっと、だれてもいた。
 
しかし総じて、最近の園子温作品の中では少なくなっていた、「狂い」を前に押し出そうとした作品として、面白く観ました。園子温はあまり観ていないけどビデオ屋で借りてみるか、という場合は、これと『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』、あるいは『ハザード』あたりと一緒に借りて、立て続けに観てみるとよいのではないでしょうか。
 
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コメディとして本当によくできています。記憶をめぐる話としてはもったいなさも感じます。
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毎度、映画について四の五の言うておりますけれども、映画は観る者の成熟度を試すようなところがこれあるのでございます。ある映画を観たときに、面白いつまらないと各々に誰しも感ずるものでありますが、ある映画をつまらぬと感じた場合はその映画の責任というよりも、自分の見識、審美眼、観察眼の未熟さゆえということも、往々にしてあるのでございます。

 などと言って書き出すと、これからこの映画を悪く言う前振りになってしまいそうですが、必ずしもそうではありませんで、とても楽しめたのでございます。しかし、今のぼくよりももっと人生経験を積み、過去が光の中に消え、それが美しく輝き始めるような境地に達しておれば、もっともっと楽しめたであろうなあとは思います。ぼくよりも上の世代の人はきっともっとびしびし来るんじゃないか。80年代に原体験のある人はもっと地肌でわかるんじゃないか、なんてところも多いのでございます。
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 高校時代とおばさんになった現在を交互に描いていくコメディタッチの作品でありまして、軽快なテンポは実に愉快なものでありました。エンターテインメントとしてはとてもよくできているなあと思いますね。七人の仲間たちという設定、離ればなれになった仲間たちを探していくという設定はわかりやすいし。高校時代と現在とでぜんぜん顔が違うな、という配役事情的な部分についても、「整形」を表に出して乗り切る。韓国ならではであるなあと思います。
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全編にわたってテンポがよく、べたべたの部分もよくはまっています。漫画的に頬を赤らめるようなシーンも許せてしまうというか、ああ、そのトーンで行くのね、そっちのほうがいいねと思える。学生運動に巻き込まれたシーンの軽快さは白眉でありました。
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ずうっと楽しく観られるのですが、四分の三くらいが過ぎると、何か引っかかるものがあるなあと感じられてきて、それは何だろうと考えていたのですが、わかりました。うむ、ぼくからすると、「この作り手は屈折していないなあ」と見えたんですね、屈折。

自分がそうだったから、というのが一番大きい理由なのですが、青春期を描いた作品となったときに、ぼくは何らかの屈折を求めてしまうたちなのです。屈折という言葉がわかりにくければ、「思春期のもんもん」と言ってもいい。別に性的なものを意味しているのではなくて、もっとなんというか、自分というものに悩み始める部分とか、しかしそれを言語化できずにうろうろする様とか、社会の歪みとかが見えてくるけれどどうしようもない夜とか、社会なんてどうせこんなもんだと髙をくくってその結果痛い目にあってのたうち回る様とか、そういう部分に「青春」を見るたちなのです。主人公の兄ちゃんやシンナー少女のほうに気持ち的には近いのですね。だからね、「いやいや、青春は楽しかったよ」と言える人は、この映画が徹頭徹尾楽しいだろうと思いますね。それはとても幸福なことです。幸福な人が観るとより幸福になれる映画です。
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 でも、この辺も冒頭で述べた「自分の成熟度」と関わる話でね、長くなるからしませんけど、もっと大人になったらまた違うことを言えるだろうな、とは思うんですね、うむ。

まあコメディが主体ですからね、その辺をごにょごにょ言うのも違うんだろうなとは思いますが、観終えてちょっと経つと、自分とこの映画の間にある大きな溝が見えてきてしまう面はありますね。映画自体について言うと、記憶がわりとみんな一緒に共有できちゃうんだね、というのが気になるところでもありました。
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 あの頃はああだったよね、こうだったよね、という話をするときに、「いやいや、自分はあの頃実はこうだったんだぜ」というのがあると、もっと深まるのになあとは思ったんです。時間が経ってわかることというか、時間が経ってるからこそ語れること、そういうのがあまりないんじゃないか、というのは気にかかった。わっかりやすい話で言うと、同窓会で出会った男女が、「当時、実はおまえのことが好きだったんだぜー」「えー、ぜんぜん知らなかったー」的なことって、あるじゃないですか。当時としては秘めたる思いを口にできず、布団の上でのたうち回った日々なのに、今となればあっさり言えちゃうよね、ぼくたちも年をとったね、的な時代の彼我。そういうもんがね、深まらないんですね。過去という美しい箱の中はしっかりと安定している感じ。それはぼくの求めているものと違ったんです。あるにはあるんですけどね、ハンサムな好青年とのくだり。でも、そういうところはわりと記号的なんですね。
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コメディのテンポを保つ以上、負の側面を記号的に処理するのはわかるんです。たとえばあの、ハンサム青年とクールビューティ・スジの逢瀬を、主人公が発見してしまうところですね。なんであんな、『殺人の追憶』なら完全に殺されているであろう林の中を歩いているんだ、ということは、言ってはならないのですね。負の部分はディレクターズカット版で入っていると宇多丸さんが言っていましたが、そこを切るのもわかる。それくらい、コメディとしてはよくできているんで、うむ、これはこれでいいわけですね。
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しかしそうと知れた上で、あえて二点ほど申し述べると、あのクールビューティ・スジに関するところです。
 仲間たちが楽しい日々を過ごして、連帯感ばりばりなんです。でも、スジはいつでもすかしているというか、一人だけテンションが低いんです。こういうキャラ付けはいいんです。というか、この映画のキャラ付け自体には何の文句もなくて、とてもよいのです。
 ただね、キャラ先行のところが強いんです。平たく言うと、なんでスジがあの面々とつるんでいるのか、どうもわからないところがあるんです。一匹狼っぽいおまえが、なんであんなハイテンションガールズと一緒にいるのだ? と言いたくなります。電車の中でも一人離れているんです。すかしすぎなんです。『リンダリンダリンダ』の香椎由宇もすかしていたけれど、しっかりチームの一員でしたし。
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 だからね、あのキャラの場合は、「ああ、こいつはこいつで感情表現がうまくはないけれど、ここにいるのが楽しいんだなあ」というのがほしいわけです。そういうツンデレな部分がないと、どうもこいつの話が終盤で重みを帯びない。で、さらに言うと、もしもその設定で押すのなら、あのシンナー少女のくだりはちょっと違うんです。
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「普段は何も言わない、仲間っぽくもないやつだけど、こいつは誰よりもチームを愛しているんだなあ」感が必要なのです。そしてそのためには、あのシンナー少女を圧倒するとか、クールに追い詰めるとかじゃなくて、熱いところを見せなくちゃなんです。圧倒的に不利な状況、でもチームを守るために戦うんだ的な展開があってこそ、あの寡黙キャラはもっともっと活きるのです。そのほうが、一員である感が絶対もっと出るのです。美貌で押すより、そっちのほうがいいと思うんですよねえぼかあ。
 まあ、それは好みの問題なのかもしれませんがね、はい。

でねえ、うーん、ラストですね、はい。この映画はね、ラストでメンバーの一人が死んでしまうんです。でも、そのメンバーは大金持ちで、友人たちに多大な遺産を残しているんです。ここはね、別にいいんです。結局金でハッピーエンドかい! などと言って、わりとここを突く人もいるようなんですけど、それは別に構わない。うん、この多幸感のある映画であれば、しんみり終わるよりもあれでいい。あのラストだからこそ、ダンスが活きるんです。だからあれはあれでいいのです。

問題はその後です。なぜ、おばさんになったスジを映したのです!
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この映画はおばさんになった主人公が旧友たちを集めていく話なんですけど、一人だけ見つからない仲間がいて、それがかつてのクールビューティ・スジです。で、ずっと見つからなくて、本当の最後の最後に、やっと出てくる。仲間たちが再会! というラストですね。
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ここはねえ、スジを映さないほうがいいと思いませんか? 知らないおばさんなんですよ、言ってしまえば、観客にすれば。観客にとってのスジは、あの若かりしクールビューティなんです。だからぼくは終わる直前、ああ、これは出さないほうがいいな、と明確に思った。でも、結局出しちゃった。あれはね、きっと、主人公の笑みで終わっていいんです。
 ぼくが求めたのはこういうラストです。五人がダンスを踊る。スジが来ないまま終わるのかと観客は心配する。で、誰かが部屋に入ってきたのがわかる。しかし正体は映さないでおく。そのまま主人公の顔にパンする。主人公が笑う。観客はそこで、「あ、来たんだな」とわかる。エンドロール。

このほうがいいと思うんです。ここがこの映画で一番残念なところでした。
ワンカットのあるとないとで大違いです。というのはね、あそこで観客の想像に対して開いたまま終わると、そのまま観客はその感情を持ち帰れるんです。で、学校を卒業してから会っていない友人に、各々が思いを馳せることができると思う。あいつ会っていないけど、今どんな感じなんだろう、どんなおじさんおばさんになっているんだろうと、顔を想像できる。わかりますかね? スジの顔を映さないからこそ、現実の観客個々人の記憶を、揺らすことができたはずなんです。この「想像に対しての開かれ」。それをあのラストは供給し得た。なぜそれをやらなかったんだろうと思ってならない。

 映画はとても面白かった。反面、「あれ? この監督はこんなに記憶を揺らしうる題材を描いておいて、記憶というものにそれほど興味がないのかな? 思想がないのかな?」と思うところがあります。それが感じられれば、ぼくはこの映画を激賞していたかもしれないのですがね。

 結構書きましたね。この辺にしておきましょう。ちなみに、かつての友人たちが集まる作品で言うと、ぼくが好きなのはジブリの『海がきこえる』です。あの作品がまた、観たくなりました。そんな感じで、今日はこれまで。
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この手の題材の映画としては、頭ひとつ抜けている印象です。
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 イタリアの犯罪組織カモッラの有様を描いた映画です。海外の犯罪組織というと、「マフィア」という名詞がいちばんよく使われるものだと思いますが、マフィアというのはもともとシチリアから発祥したものなのです。カモッラはナポリから生まれたものであって、別の組織なんですね。だから本来、マフィアというのは一般名詞ではなく、もともと固有名詞に近いのでしょう。マフィアはアメリカで勢力を広げたり、政界に影響力を持ったりなどするうちに、概念のような形になってしまったわけです。
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暴力団やマフィアについて書いてみようと思ったのですが、映画と離れたままかなり長くなるのでやめておきます。しかし、この映画を観たら、暴力団やマフィアが社会や世界にどのような影響を与えているのか、どういう背景をもとに生まれてきたかを考えたくなるはずです。「暴力団なんて法律で禁止して、なくしてしまえばいい!」「マフィアやカモッラみたいな組織は警察がもっと取り締まればいい!」なんて言いぐさが、本当に子供じみたものに過ぎないことを知らされます。
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 本作ではカモッラに関係する人々、関係せざるを得ないがたくさん出てきます。それはカモッラに入ることに憧れている少年であり、不良の二人組であり、組織と構成員家族のつなぎ手であり、産廃業者であり、洋服の仕立屋であります。このような複数スレッド進行が、いかに地域と組織が深く結びついてしまっているかを効果的に示します。
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それぞれに言及していると一日仕事になってしまうのでさすがにできませんが、これはとても巧みな設定であるなあと思います。子供から大人まで、どの世代がどのように関係してしまうのかを綺麗に映し出していると思います。憧れを抱く少年などには、『ジョニー・マッド・ドッグ』の少年兵に近い背景を見いだします。この世界が奪う者と奪われる者で成立しているならば、奪う者の側に回らぬ手はない。ぜひともそちらに回りたい。そんな世界観が植え付けられてしまうのでしょう。彼がその通過儀礼として銃で撃たれる場面などはとても印象的です。暴力はよくないなんて道徳は、目の前で銃撃が頻発する世界では、意味のない理想論に過ぎない。
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 産廃業者のくだりも見るべきものがあります。これは日本にも通じる話じゃないでしょうか(というか、ほぼ同じような話が日本でもあるのは、よく聞くところです)。この辺が社会のどうしようもないところだなと思いますね。たとえばある業者が産業廃棄物を出してしまう。これを処理するうえでコスト削減のため、別の業者に外注する。そうなると
安い値段で処理を請け負う業者にお鉢が回る。しかしその安さが可能なのはまともな化学的処理を経ずに投棄してしまうからであって、そういった話は闇社会の勢力の温床になる。表社会に生きるもともとの依頼人は、「処理はお任せしているので」と知らんぷりを決め込める。環境を悪化させるような投棄など駄目だ、行政は何をしているんだと言っても詮ない。じゃあ自治体が請け負いましょう、というほどの金もない。こういう連関は先進国、途上国問わず起こることです。
 この映画ではさらにひどくて、子供たちにトラックを運転させて廃棄させる様まで描かれています。どこが先進国やねん、という話です。
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複数のスレッドにおいて、最も組織と縁遠いはずなのは、真面目な仕立屋のおじさんです。何十年にわたり洋服をつくってきて、職場でも信頼厚いおじさん。しかし、彼もまた無縁ではいられない。このくだりはとても興味深いものがありました。
 彼は会社の上司が無茶な注文を引き受けてくるのでいっぱいいっぱいで、しかも上司が信頼の置ききれない人間なもんだから、給金がまともにもらえるかも不安でならない。そんなとき、彼の腕を見込んで近づいてくるのは、中国系移民の仕立て屋。中国人は彼に対して、技術を分けてくれと頼み、十分な報酬を約束する。彼はおそるおそる、彼の工場へと出向いていくのです。
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 聞くところによると、21世紀以降、ヨーロッパで中国移民の増加率が最も高いのはイタリアだそうです。細かい背景はわかりませんが、伝統的にマフィア勢力が強いイタリアならば、治安的な面で考えても、不法(?)入国者が入りやすい土壌があるというのはイメージしやすいところです。ヨーロッパにおける移民問題、というのを織り込んでくるあたり、ああ、この映画は本当に地で行ってるなあと感じます。で、仕立屋さんの行動がどうして問題なのかと言えば当然、会社の技術を他の業者に売っているからですね。それも中国系の就労ビザもあるんだかないんだかわからない連中に売っているとなれば、これは許し難い。そこで登場するのがカモッラで、上司が頼み込み、「あの中国人の連中うざいんで、困るんで、どうかよろしく」と言えば、これを屠りにかかるわけです。真面目な仕立て屋おじさんはそんな状況に絶望することになります。スカーレット・ヨハンソンもこれまたとんだ使われ方をしたものです。
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ぼくはナポリにもイタリアにも行ったことがないので、これがどれくらいにリアルなものなのかはわかりません。いや、現地に在住しているという人でも、これらの様相を熟知している人は少ないでしょう。それは日本のヤクザに関しても同じことです。
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 ただ、なるほどこれは確かに十分にあり得そうなことだ、と思わせるくらいに、泥臭いリアルさがあります。カモッラの構成員の人たちはちっとも格好よくない。任侠のにの字もそこには見出せない。三浦友和とか西田敏行が出てくる日本のヤクザ映画みたいに、ばちっと啖呵を切って格好よく決めるような有様もなく、ただ密やかに地域に溶け込み、そして浸潤しているのがわかる。アル・パチーノの演じたがごとき、組織の絆や家族との情愛みたいなもんもない。原作者はカモッラの報復から逃れるべく海外逃亡して保護されていると聞きますが、なるほどやばいものがここにはあるなと思わされる。まかり間違っても、テレビのロードショー枠では流せない。仁義なき戦い、どころか、そこには仁義なんて概念が端から無いかのような、乾いた世界が描かれています。
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ヤクザ映画、マフィア映画というのは数多くあるわけですし、ぼくはぜんぜん詳しい人間ではないですが、ちょっと頭一つ抜けている印象です。一切美化することなく、組織の内幕をドラマティックに描くなんてこともせず、いかに社会に溶け込んでしまっているかを、効果的に描き出しているように思えます。反面、こういうものを観ると、有名スターがいきっているヤクザ映画をあまり観る気にならなくなるので、その点でも注意が必要かもしれません。
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アメリカ、自由、共同体、その他。
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 とかくアメリカ映画といえばビッグバジェットのハリウッド映画。とりわけ2000年代後半以後はずっとアメコミヒーローものがその話題的中心を担っているように見受けるのですが、ぼくはそれよりも今回の作品のような、アメリカの深い部分を覗き込ませてくれるようなもののほうがずっと好みなのですね。特にこの数年は。

 余談ですが、アメコミヒーローものとかって、いまひとつ乗り切れない。興味が湧いてこない。なぜなのかなあと考えたら、わりと理由がはっきりしてきました。というのもね、ぼかあ幼少期、ウルトラマンや仮面ライダーが大好きだったんです。たとえば仮面ライダーの放送を観終えますね、するとぼくはテンションが上がりきって、エンディングテーマを聴きながら、まるでそれが何かの儀式であるかのように、戦うライダーの真似をして飛び回っていたんです。ちゃぶ台の上から何もない中空に向かってジャンプキックしていたのです。友達と遊ぶときも本気で自分をライダーやウルトラマンの化身と信じ、戦いに身を投じていたのです。身体的に感染していたわけです。そういう記憶があると、今更アメコミのヒーローで盛り上がりましょうと言われたって、とてもじゃないがあの頃みたいな熱量は自分の中で生み出せない。何々格好いい! とか言ったって、あの頃に抱いたウルトラマンやライダーへの憧れにはとてもじゃないが及ばない。それを思うと、アメコミヒーローとか、かなりどうでもよく感じられてくるわけですね。
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 さて、そうなるとやはりこうした、陰鬱とした地味な映画に学びを得たくなる。
 本作は山中に住むアメリカ白人、ヒルビリーの少女の話です。町山さんのWOWOWでの解説がとてもわかりやすいです。背景などがよくわかります。この映画を未見で、「ヒルビリー? 何それ?」と思われる方は、検索して解説を聴いてから観るとよいかもしれません。
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 ところで、ここ数年はオバマ大統領による医療保険制度改革が取りざたされています。世界を牽引する先進国の筆頭でありながら、国民皆保険制度を持たずにきたアメリカ。ではなぜアメリカは国民皆保険を実施せずに来たのか。
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 その背景には、アメリカが建国の旗印にした「自由」というものがあります。 アメリカにとって「自由」というのはとても重要な概念ですが、ざっくり言うにその政治的意味は、「国家が国民を縛ることがあってはならない」ということですね。だからこそ1791年に制定された憲法修正の第一条では「宗教、言論、集会の自由」が保障されているのだし、二条では「民兵の自由」、つまりは革命権が謳われているし、今でも銃は自衛のための不可欠な存在と考えられている。イギリスからの独立によって人工的に構築された国家ゆえに、もともとから「国家への不信」がプログラムされている。アメリカが断固として共産主義を許さずに来たのもひとつにはこのためです。
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そういう発想からすれば、国家が保険制度に入ることを強制するなんてあり得ない! という考えが右翼方面から出てくるわけです。それがいいものであれ悪いものであれ、そもそも国家が強制するのはよくない、というわけですね。

 そのような発想が底流している国は、一方で多様な民族、いまや三億の国民、広大な国土を有している。そうなってくると必然、いかに世界第一の国家であろうと、その施政からこぼれ落ちる人たちが出てくる。この映画で描かれているのはそんな社会の様相です。

この少女は幼い兄弟二人と、精神を煩った母を支えながら暮らしています。父はというと、家を担保に借金をして出て行ってしまったのです。サブプライムローンが記憶に新しいわけですが、貧乏な人たちが借金返済ができず、福祉制度も備わっていないとなれば、これはもうどうしようもない状況に追い込まれます。主人公の少女は行き場もないままに、家を売りに出さざるを得ないような形になるのです。その前になんとしても父親を捜し出さなくてはなりません。

 しかし、近所の人たちに父親のことを聞き回っても、みんな頑なに口を閉ざすんですね。 その様子があまりにもあからさまで、どうやら何かあったらしいとわかってくる。
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こうした、閉ざされた田舎というのは、万国共通なのだなあと思いますね。田舎というのはやっぱり狭い世界であるらしくて、独特の怖さみたいなもんがあります。かく言うぼくも田舎の生まれですが、その辺の怖さはそこはかとなく感じますね。旧友の結婚式で地元に帰って飲んだときも、既に地元で家庭を築くなどしている同級生が、「どこどこの誰々はああだこうだ」という話に花を咲かせたりしていた。うわあ、なんか、いろんなことがばればれでやっていかなあかんねんなあと、少し距離感を抱きました。東京で暮らしていると気づきにくいことです。「これからの時代と田舎における人間関係」というのには、文化人類学的な興味をそそられます。

ネタバレ速報。ういーん。
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 話が進むうちに、どうやらこの少女の父親は、村における掟を破ってしまったらしいとわかってきます。村における掟って。昔じゃないんだから。という感覚になったりもするのですが、そこでアメリカ社会ってもんがちょっと垣間見えますね。
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国家というものは信用できない、という国家においては、民族やその系譜などをよりどころにして、国家よりも小さく緊密な共同体が、大きな意味を保持する。その助けになるのはキリスト教ですが、本作でそうであるように、宗教など何の生活的救いにもならない。そうなってくると、個人個人は自分たちの生活を守るために共同体が必要で、そこでは掟というものがどうしても重要視される。その掟が犯罪にまつわるものになってしまっても、貧困が絡んでそこから抜け出すことができない。そう、おそらく、日本では既に昔話にしか出てこないような「村の掟」なるものが、今もってアメリカでは意味をなしているのでしょう。すごい話だなあと思います。そして、「そんなのはよくないよ、もっと福祉制度を充実させて」などと言っても通じないわけですから、これは根の深い話です。別の国家ですが、中国の田舎なんかも、もしかしたらこういう面があるんじゃないですかね。要因は当然ぜんぜん違ってくるでしょうけど、これは中国に置き換えても成立する話に思えます。中国とアメリカって実は似ていて、「国家を信用する」ことができない歴史があるんです。向こうは王朝や支配者層の変転というものがありますから。

 全体を通じて、かなり地味というか、話らしい話はぜんぜん膨らみません。親父はどこだ、親父には触れるなの繰り返しですからね。でも、最終的には結構えげつないことになるんですねえ。抑制したトーンでずっと来ていた分、あのチェーンソーの響きが重いんです。「うわあ、最悪やあ」のシーンです。あれはきついです。少女にしたら、「なんでこんなことになってるんだ」というほかない状況です。
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「地域の共同体」という言葉、概念の怖さがここにはあります。「共同体」とか「自治」とかっていうのには、相互扶助、もっと優しい言い方ならば「助け合い」という祝福の側面がありますね。日本でも、「昔はよかった。貧しかったけれど隣近所で互いが助け合って」みたいな言説がある。ただ他方、「隣近所の輪から抜け出せない地獄」という呪いの側面もあるわけです。まあ、今更言う必要もないことでしょうけれど、経済的な問題などによってその呪いが膿んでしまうと、こういうどうしようもない事態が発生してしまうわけです。そんなどうしようもなさをまざまざと見せつける作品でございました。
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 年が明けて2013年になりましたが、ぼくの映画に対する接し方はどうやらこのまま継続しそうです。すなわち、映画そのものよりも、映画を通して見えるもののほうに惹かれる、ということですね。何々格好いい! とか、誰々の演技がぁ、というのは、とりあえず過去の記事の中のものです。映画を観る以上は、学びを得ていきたいのですね。映画を観て、面白い面白くないというのはもういい。そんなことにぶうたれている大人なら、アニメに文句も言わず熱中する幼児のほうがよほどいい。そんな感じなんで、これからも大した数の読者を得られずに低空飛行だと思いますが、まあ、よろしければよろしくです。
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この映画はこういう風に観る。あるいは、ぼくたちと社会との関係について。
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昨年、ネット上で概して評判がよくなかった印象のある作品。ナイトウミノワさんがぼろくそに書いていたのが印象に残っていて、じゃあ観なくていいかなあと思っていたら、宮台真司が監督とのトークショーで肯定的な評価をしていたのを知って、うむ、こういう評価の分かれる作品は大好物だぞ、というわけで、『RIVER』。

 2008年の秋葉原通り魔事件をもとに着想したという映画です。主人公はその事件で恋人を亡くしたという設定の女性で、彼女が秋葉原の街をとぼとぼと歩く長回しの場面から幕を開けます。
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 といっても、事件のことについてはほとんど触れられないんですね。だから海外の人とかには何のことかわからないと思います。劇中では「あの事件」的なことでしか言及されず、事件の様子なども何も描かれず、観ている側の了解に委ねられている。

 悪く言えば、「あの事件のことを何も描いていないじゃないか」とこうなる。ただ、ぼくがそこで気になった点として、「あまりにもあの事件のことを描かなすぎている」というのがあります。この映画では本当にあの事件のことが何一つ描かれていない。ここまでやっていると、これは意図的な選択じゃないかと思うんですね。
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「実際の事件に誠実に向き合っていないんじゃないか」的な意見もわかるんですが、ぼくはそこで立ち止まる。じゃあ、事件に誠実に向き合う、あるいはそれを映画化する、それは一体どのような作法で果たされるべきなのか。ぼくにはよくわからなくなります。

 実際の事件をもとにした映画というのはたくさんありますね。たとえばわりと記憶に新しいところだと園子温監督の『冷たい熱帯魚』。あれは実際の愛犬家連続殺人事件をもとにしているわけですけど、あれはどうなのか? 細かい取材はしたかもしれないし、よくできている映画かもしれない。でも、そういう問題なのか? ぼくを含めあの映画を観た多くの人間は、「でんでんサイコー」的な感想を抱いた。でもちょっと待てよと。あれは本当の連続殺人犯がモデルだぞと。それをもとにした映画キャラクターに「最高!」って何だよと。それこそ実際の被害にあった人、遺族の人は、世間が「でんでんのあの殺人鬼はすごい迫力だね!」なんて言う言葉に、いい気持ちが絶対しないだろうと。それってどうなの? という問題がどうしても気になってくる。

 そう、土台事件と関わり合いのない人間が、誠実に向き合うとか綺麗事を言っても、たかが知れている話です。取材を綿密に行った、だから何だという話です。被害者に寄り添う? どのみち綺麗事。実際の事件をエンターテインメントに! マジで言ってるのか?
だったら、あえてその事件には深く触れない作法があり得てもいい。それはそれで事件に関する向き合い方の一つだろうと思ったのです。

 だって、所詮そうじゃないですか? ぼくたちは世間の痛ましい事件を見知るたびに心痛めたり何なりを繰り返す。でも、そのニュースが終わったらいつしか忘れて、自分の楽しみにうつつを抜かしている。街の風景は見事にその様を映し出している。ぼくたちは所詮、そういう存在です。であるならば、「ほんのいっとき誠実に向き合う」ことはそれもまた欺瞞かもしれない。であるならば、触れられぬものには触れない、しかしその周縁にたたずんで見えるものはきちんと見よう、というあり方もあっていいはずです。

 この主人公は恋人が好きだった街、恋人が死んだ街である秋葉原を彷徨する。何をどうしたらいいのかわからないままにさまよう。その中でいろいろなものに触れていく。ただ、どれを取っても自分の求めているものではないと知らされ続ける。世間は「おまえの傷なんて知らないよ」とばかりに動いている。だからこそ冒頭の長回しの最中、「街を作品にしているの」的な女性は彼女の傷に触れた瞬間、大いに戸惑い、寄り添うのをやめてしまう。
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登場する人物や場所にもそれなりの意味があるように思いました。メイド喫茶の様子を見てぼくは、「ああ、ここは幼稚園プレイを楽しむ場所なのだな」と思い至ったのですが、あれは現実の街を流離する彼女が触れる場所として、面白いと思いました。それと、なんか優しげな甘い歌を歌ってやがるな、というストリートミュージシャンの女性。その女性と主人公が川辺で話をする場面があるんですが、ここは笑ってしまった。なんてお花畑なことをだらだら喋っているんだろうって。そう、この映画では、自分がどう進むべきかわからずにいる主人公が、いつまでも現実に触れられずにいる様を、街の様子を通して描いているのです。彼女は現実に触れながら、「これは現実じゃないだろう、これも現実ではないだろう」という気がしてしまう。あるいは、現実自体がかなりしょぼくれたものであることを知らされてしまう(田口トモロヲの役はその象徴でもある)。
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そうやっている中に一人の青年に彼女は出会う。そして彼の故郷が震災の被災地であることを知らされる。これをきっかけに、彼女は彷徨から醒めることになります。
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秋葉原の事件をもとにして、被災地に話が行くなんて、何の関係があるのか。
 答えはひとつ。何の関係もありません。あるいはこう言える。何の関係もあるはずがない。ただ、何も関係がないがゆえに、この映画は成立し得る。

 秋葉原事件と震災に何の関係があるんだ、という問いは、映画を観る者に対して「あなたと映画の主人公に何の関係があるの? 何の関係もないのに何であなたは涙を流したりするの?」と問うのに似ています。そう、言われればその通り。まるで関係ない。にもかかわらず、ぼくたちは映画の中の人物に自分を重ね合わせたりする。

結局のところ、ぼくたちの人生など、自分とは本来無関係であるはずの数々のものに紡がれていくものです。目を閉ざし耳を閉ざし心を閉ざし生きていれば触れずにいられるもの、そのいくつかに、ぼくたちはいい意味でも悪い意味でも、人生を狂わされる。

この映画において、主人公は震災や被災者家族の青年と触れることによってのみ、自分の輪郭を規定できたんです。もう一度言いますが、そこには何の物語的必然もない。ですが、人生において物語的必然などあるわけがない。震災を利用している? はい、この映画は確かに震災を利用している。ですが、果たしてそれは責められるべきことなのか? だったら尋ねますが、貴方は自分の生において、自分と無関係なものを「利用」したことが、ただの一度もないのでしょうか? まさかとは思いますが、残忍な事件をもとにした映画を、娯楽として愉しんだことはないのでしょうね?

 意地悪なトーンになってしまいました。言いたいのはこういうことです。ぼくたちは自分と無関係なものの脅威にさらされ、自分と無関係なものに興味を惹かれ、自分と無関係なものによって日々を送っている。であるならば、その対象が何であっても、そこに前向きな道を見いだすことは、責められるべきではないのです。殺人事件の被害者が震災によって道を見いだすなんてあり得ない? なぜそう言える? 不条理な出来事によって傷をつくった人間が、不条理な出来事によって道を見いだすことは、何もおかしな話ではない。
この映画のモチーフの二つが無関係であることを、ぼくたちに責める資格はない。

 映画は手ぶれが多くて、被災地の場面ではとりわけそれがひどくなって酔いそうにすらなるんですけど、あれはあれで効果を生み出すためのものだろうという気もします。ただ淡々と、カメラをうまく動かしていたら、青年を客体として映すことになりすぎる。ひどく静かな光景の一方で、あの手ぶれが感情のぶれを演出するための方法だとしたなら、安易ではありますが演出的な意図はわかります。
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 序盤に比して後半、終盤は要らない台詞も多かったので、その辺はいまひとつ練れていなかったのかなあとも思いますね。ラストで主人公の女性が台詞を吐くのですが、あれは要らなかったと思います。路地の鏡に映って、「これが現実なの!」というのもくさすぎるんですが、まあ主題を伝えるためなんでしょう。それがわからない観客のための配慮なのでしょう。そこだけ浮き上がっているので、やりすぎかなとは思うのですが。

 事件や震災、というものをどう見るか、向き合うかによっても見方の分かれる作品なんじゃないかと思います。ただ、当事者でもないのならば、「真っ当に向き合う」みたいな考えがどこまでも戯れ言であるというのは、心得ておきたいものであります。
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いやあ、ゲームって本当にいいもんですねえ。

前回の続きです。個人的ベストテンですが、誰でも知っている有名作品ばかりです。

『スーパーロボット大戦F/完結篇』(PS バンプレスト 1998/1999)
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スパロボは友人の家で知って、小学校の頃などは一日中やっていたものです。スパロボをやって、外で遊んでというのがゴールデンコースでありました。ここからガンダムを覚えたりなどした世代なのです。いろんなロボットアニメを教わりました。マジンガーとかゲッターとかエルガイムとかビルバインとかね。実際にやったのは第三次、第四次、EX、それと本作とαまで。ああ、あとは「新」なんていう変わり種もありました。そんな中でも大ボリュームなのがこのFです。エヴァが初めて出たのもこれですね。はっきり言って終盤などはクソ難しくて即コンティニューなしでは進みようがなかったし、敵同士の撃ち合いを延々と見せられて手の出しようがないなどと、課題も多かった作品でありましたが、その分だけがっつりとやってしまったものであります。

『ファイナルファンタジーⅨ』(PS スクウェア 2000)
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FF枠としては9作目を推します。といっても、ぼくがやったのは4を途中までと、5を途中まで。がっつりやったのは6とあとこの9だけなんで、それほど深く接してきたわけではありません。7や8は世代的に触れていてもよさそうなものですが、主人公がホストくさいのを見て、まったく興味がなくなりました。あんなホストくさい主人公と旅をする気にはなりませんで、それは10以降でもそうなのです。
9がいいのは、キュートなファンタジー世界観をばっちり決めてくれているところです。頭身数の多いリアル系ホストキャラでいくより、断然こっちのほうがいい。それならもっとぼくはFFに注目するのに、と思ってしまいます。かつてのドット画が正しく成長した感じというか、ドット画の向こうに見ていた発展形はまさにこれだよと言いたくなる素敵なキュートさに充ち満ちていました。世界観がまったくもってぼく好み。世界崩壊という大イベントがある6も同じくらい推したいし、宿敵としてはクジャよりもケフカのほうが断然好みなのですが、9のキュートさに軍配を上げます。6が9的な形でリメイクされたなら、ぼくはそれを推すと思いますが、ううむ、微妙なところです。ぼくがファンタジー系映画にほとんど興味を持てないのはひとつに、この9のキュートな世界があるからです。こっちのほうが、ずっと飛び込んでみたい世界ですもの。

『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』(SFC/PS2 エニックス/スクウェア・エニックス 1992/2004)
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ドラクエシリーズのナンバリングタイトルは新作二作を除き、すべて手を出しております。VをきちんとやったのはPS2版のほうです。Ⅷについては後述しますが、個人的にVはシリーズの中でも一番の傑作ではないかと思っています。といいますのも、この作品は他のドラクエ、そして双璧をなすFFが十作以上出してもいまだやっていないことを、唯一やっているんですね。それは何かと言えば、主人公の一生を追うということ。一生と言ってもまあ老年などは描きませんが、子供の頃から成長して子供を持つ大人になるに至るまでを追っている。その過程での父との物語などを描きつつ、実に長い時間をその中で描いている。このアイディアは凄いです。
 Vに関して感動的なことがあと三つあります。ひとつには、勇者の証である天空のアイテムを装備できるのが主人公ではなく、その子供であるということ。この発想は凄い。普通ならば、プレイヤーがずっと育ててきた主人公を勇者にする、どんなゲームもそうする。でも、これは違う。本当に勇者たり得るのは自分ではなく、次の世代だという思想。なんて大人の考え方でしょう。しかもそれがいわば子供をターゲットにしたものでなされており、子供たちには「君たちが次の時代を担うんだぞ」というメッセージにもなっている。これはものすごく鮮やかな設定です。もっともっと褒められていいはずです。
 そして、妻を選ぶイベントがあること。幼少期の思い出があるビアンカと、金持ちの家の娘のフローラを選ぶわけです。なんて設定でありましょう! これも、子供の頃の思い出ゆえの結婚、みたいな閉じ方をしていないのですね。大人になったらなったで、まあ別の出会いもあるんだよ、というのが効いているじゃないですか。相手が金持ちのご令嬢だというのもなかなか攻めている設定です。一方のビアンカは一人山奥の村で、病気がちの老いた父(しかも実父ではない!)と密かに暮らしている身。なんという選択を子供のプレイヤーに迫るのでありましょう!
それとやっぱり外せないのは、モンスターを仲間にするということ。これはねえ、これは凄いんです。それまではね、いわば「導かれし者たち」が仲間だったんです。モンスターは外敵でしかなかった。でもこのVはそこを裏切ってきた。かつては敵でしかなかった山野の獣を、欠かせぬ友として旅を続ける。これは感動的な設定です。社会的な正しさもここにはあるように思いますね。一部の選ばれた人間だけが友ではない。敵対するものの中にもわかりあえる相手がいるはずだ、というメッセージがある。このドラクエV以上に、意味的に優れた設定を持つRPGを、ぼくは他に知りません。
 
『実況パワフルプロ野球11』(PS2 コナミ 2004)
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パワプロは’97、98、99、そしてこの11をやっています。ハードやなんかで数え方が違うんですね。パワプロ枠として一番やったのがたまたま11だったということですので、12を買っていたら12と言うかもしれません。パワプロはやっぱり外せないのです。野球ゲームというと「ファミスタ」がありますけどちょっと前の世代のものという印象で、今だと同じ人気タイトルの「プロ野球スピリッツ」がありますがこれはリアルもので好みではない。それと何より大きいのはサクセスモードですね。サクセスモードはめちゃめちゃやりました。回数を重ねていけば大体同じようなことになるんですけど何度もやってしまうという、まさにゲーム=麻薬的な快感を覚えさせる優れたシステムでありました。野球ゲームと育成シミュレーションのまさしき融合、というのは言わずもがなですね。

『メタルギアソリッド3』(PS3 コナミ 2004) 
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はい、これまた王道中の王道です。PS版の一作目の体験版が、確かパワプロの97だったか98だったかに同梱されていて、それをやってみたら面白そうで購入、というのが出会いだったと思います。以来、一作目、二作目、そしてこの後の四作目と楽しんできましたが、ぼくはナンバリング最新タイトルの4よりも、この3こそが傑作だと思っています。1も2も、敵地の建物に乗り込んでの話で、狭いと言えば狭い空間だったわけですが、この3ではジャングルはあるわ高地はあるわと広がっていて、ムービーシーンのクオリティも本当に映画級のものになっていた。これは感動的でした。相当やりこんだ覚えがありますね。ケロタンを全部撃ってステルスを獲得したり、敵兵をからかって遊んだり。
 MGSの面白さなんて誰しもが語っているところでしょうけれど、とりわけぼくが感動したのは、あのジ・エンド戦です。ボスキャラが複数出てくるのですが、その中の一人が老人スナイパーのジ・エンドという敵なんです。で、一般的に言ってボスキャラというのは、言ってみれば限定空間の中で、さあ殺し合うぞと向き合うわけじゃないですか。勇ましい音楽とかが流れてね。このゲームでも大体はそうなんですけど、このジ・エンドは違うんです。広い森の中で、どこにいるかわからないんです。まったく対戦中という感じがしないというか、音楽も何もない。ただ、静かな森の中で、どこかわからない遠くのほうから狙撃してくる。敵が見えない緊張感。こんなボス戦は見たことがない。
 で、ぼくが震え上がったのはこのときです。ジ・エンドがどこにいるかわからないので、ぼくもスネークを操作して、スナイパーライフルを装備して、スコープを覗き込むわけですね。で、どこだどこだと遠くの狙撃地点を探すわけです。しかし一向に見つからないわけです。すると、ジ・エンドの声がすぐ間近で聞こえる。えっ、と思った瞬間、カメラがズームアウトして、すぐ背後で銃を向けられているのがわかる。で、撃たれてジ・エンド。これは本当にびびりました。同時に、なんてすごいアイディアだろうと思った。これがあるだけでもこのゲームは押せる、というくらいです。
 出来の良さ、ストーリーの面白さは言うまでもない。4も好きですが、実際の歴史を踏まえてみたり、森でサバイバルをするなどの要素を加えてみたりという点などを考慮すると、やっぱりこちらが最高傑作という風に思います。

ここまで十選。

延長戦!

『ドラゴンクエストⅧ 空と海と大地と呪われし姫君』(PS2 スクウェアエニックス2004)
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ドラクエ5のすごさは書いたとおりですけど、いちばん時間を費やしたのはこの8です。8はもう本当に感動的です。ぼくはこの8があるので、9も10もやる気がしないんです。7から8の発展って、すごいと思うんです。それまでのドラクエには、空がなかったんです。上から見る形ですから。でもこの8は立体的そのもので、世界中を旅して回るわけじゃないですか。あの鳥山明の画の世界を旅して回るその快楽。だから9がDSになるとか聞いたときはもうがっくりでした。この8のままで行ってくれていいのに。ネット通信とか要らないから、8の世界をもっともっと広げていけばいいのに。この8の世界は本当に動き回っていて気持ちがいい。動き回るだけで気持ちがいいゲームって、傑作だと思うんです。そんな風に思わせてくれる作品でした。

『SIREN2』(PS2 ソニー 2006)
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実はこれは実際にプレイしたことがありません! ネットのプレイ動画で見ただけです。理由は怖いからです。ぼくは映画にも小説にも漫画にもびびりませんが、ホラーゲームには大びびりの人間なのです。ホラーゲームより怖い映画なんて、ぼくは見たことがないです。それくらい怖いんです。『バイオハザード』って、もともとがアメリカ風じゃないですか。でも、こちらは純日本的。しかも土着の日本って感じ。どこかで見たことがあるようなド田舎の景色。その敵の視界を手がかりに動き回るというのもすごいし、動かすキャラクターがか弱い少女で一切攻撃ができないとかの縛りもえげつない。実際にプレイすることはできないへたれものですが、観ているだけでこれはすごく怖くて面白いゲームだな、と思わせてくれる作品。これより怖いゲームってあるかってくらい、ぼくはこの世界観が怖いですねえ。

あとは『みんなのゴルフ』とか『ワンダと巨像』とかも入れたいところですが、きりがなくなるのでこの辺で。皆さんも自分の思い出のゲームを考えてみるとよいでしょう。いろいろと記憶の扉が開くんじゃないかと思うし、それは映画よりももっと体感的なものでありうるかもしれません。
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テレビゲームについての記事です。

 映画を観る、語る気持ちにならぬ状態が続いております。今回は趣向を変えまして、個人的「テレビゲーム・オールタイムベストテン」をやってみます。映画ではオールタイムベストテンというのはよくありますが、ゲームではあるのでしょうか。寡聞にして知りませんで、やってみたら面白いんじゃないかと、まあそんな気まぐれでございます。ぼくにとってゲームというのはほとんど麻薬的なものがあります。やったら確実にはまるのであって、その愉しさは映画の比ではないとさえ思うのであって、ゆえにそうそうやるものではないと決めております。しかし人生の中で、がっつりはまったものはそれなりにあるのでして、そういうものを並べてみようじゃないかと、まあこういうわけでございます。

 ぼくが所有してきたゲーム機はというと、ファミコンに始まり、スーパーファミコン、PSの1、2、3。そして、実家の母が何かの懸賞で当てたけれど使いようがないからという理由でもらったWii。セガやマイクロソフトにはぜんぜんお世話にならずに来たのであります。

 わりと王道のものが多いというか、知る人ぞ知る! みたいなのはありません。べたべたやな、と思ってもらってよいです。なにしろ小中の頃はそれほど多く買えないから当てにいきますし、金銭的に余裕で買えるようになったらなったで別のことに時間を割かねばならぬからそれほどいろいろ手は出せないしというわけで、そんなコアなものにはいかなかったのです。

 ゲームと言っても広いですからね。一本も被らない人もいれば、結構被る方もいるでしょうか。寸評を挟みつつ見ていきましょう。順位付けは困難なので、発売年順に書いていきます。

『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(SFC 任天堂 1991)
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言わずと知れた人気シリーズですが、ぼくはこの前作も後の作品もやっておらず、この一本だけです。「ファンタジー」というものに生まれて初めて触れたのは、もしかしたらこれかもしれないなあと思います。そして、幼かったぼくは謎解きができず、攻略本というものに初めて頼ったのもこれでした。これはなるほど、人気が出るよなあと今にして思いますね。ゲームバランス、システム、シナリオ、謎解きの快楽含めて、ほとんど言うことなしと言える一本じゃないでしょうか。で、怖い場面はきちんと怖くつくってあるんですね。霧の立つ深い森の中とか、豪雨の沼地とか、本当に怖かった。適度に怖かった。その中を主人公リンクを動かし、えいやっと飛び込んでいく。このテレビゲーム的快楽。そして一方で、穏やかな場面はほっと安心できるつくりになっている。その緩急。姫を救い出して世界を魔の手から救うのだ! という直球的なシナリオもわかりやすくていいし、音楽もいい。でも、こう書いていると思いますね。今、ゼルダをやっても、あの頃のような冒険はもうできないだろうなあって。それくらいに鮮やかに、残っていますね。小四の頃に引っ越していった樋口くんは、あの頃のことを覚えているかなあ。

『ヒーロー戦記 プロジェクト・オリュンポス』(SFC バンプレスト 1992)
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当時のぼくはウルトラマンと仮面ライダーに魅せられまくっていたのでして、「将来、自分はきっとウルトラマンか仮面ライダーになるに違いない」と素朴に信じていたのでして、とにかくこの二つが大好きで、その夢の共演が果たされた正統派RPGです。その二つとガンダムの夢のコラボです。当時はガンダムを知りませんで、あまりその存在をよくわからずにプレイしていましたが、ガンダムも知った上でこのゲームをしていたら、精通もしていないのにエクスタシーを感じていただろうと思います(あほ)。これをきっかけに「グレイトバトル」や「バトルドッジボール」など、いわゆる「コンパチヒーロー」シリーズが大好きになりましたが、その中でも一番の良作、傑作じゃないかと思います。小ネタも満載だし、各シリーズのエピソードもふんだんに盛り込んでいます。主人公はウルトラセブン、仮面ライダーブラック(RX)、そしてガンダム(ニューガンダム)です。この辺もいいんですねえ。ウルトラマンじゃなくてウルトラセブンを入れてくるあたりが、もう本当によくわかっている。世代的にブラックにはまったので、これもありがたかった。
 他にもサブキャラとして各シリーズの仲間たち、敵たちがいっぱい出てくるんです。これより後に『ガイアセイバー』や『スーパーヒーロー作戦』などの同種のRPGがリリースされましたが、もう圧倒的にこの『ヒーロー戦記』のほうがよくできている(というか、後の二つはゲームバランスが悪すぎる)。中盤で仲間がバラバラになってしまうエピソードなどもあるし、ラスボスにも驚きがあるし、シナリオもすばらしい。これは傑作だと思いますね。

『大貝獣物語』(SFC ハドソン 1994)
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 考えているといろいろ浮かんできてどれにするか迷ったのですが、これを入れることにしました。ファンタジックな正統派RPGです。当時、ぼくの周りには「コロコロコミック派」と「コミックボンボン派」がいて(「ジャンプ派」「マガジン派」などが出てくる前の幼い頃ですね)、ぼくは後者でした。『コミックボンボン』と『デラックスボンボン』はぼくが人生で唯一購読した漫画雑誌です。あの雑誌はカプコンやバンダイなどとタイアップしていて、それらのゲームを題材にした漫画がよく載っていました。その中のひとつがこの『大貝獣物語』。漫画につられて買ってみたらとても面白いゲームでした。
 書きながら気づくのですけれども、ぼくはとにかくゲームにキュートなものを求めてしまうたちなのですね。というか、大人っぽいものへの抵抗というか恐怖というか、そういうのもあったのです。出てくるキャラクターが可愛らしかったし、世界観もよかった。今にして思うと、ボリュームもかなりの量なのです。かなり長い。でもその分だけ、世界にどっぷりと浸かって愉しんだという記憶があります。
 それにしても、繰り返しになりますが、こうして書いていると当時はなんと無邪気にゲームを楽しめたのだろうと思いますね。余計なことを考えずにゲームの世界に浸っていた。それはもう無類の愉しさだった。もうそんなことはないんだろうなあと思うと、少し寂しくなったりもするのでありました。

『不思議のダンジョン2 風来のシレン』(SFC チュンソフト 1995)
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これはねえ、この不思議のダンジョンというのはねえ、ゲームとしての設計の妙という点では、古今東西のゲームを集めてきても、五指に入るんじゃないですかねえ。それくらい美しいゲームだと思います。非常によくできている。
 ダンジョンに入って進行していくんですが、敵とプレイヤーはまるで将棋みたく、一ターンごとに動くわけです。で、そのダンジョンというのは毎回違う迷路みたいなもので、落ちているアイテムも毎回替わる。だから毎回新鮮な気持ちでゼロから始められるし、毎回毎回で違う悩み方をする。運の要素、つまりは不確定要素に充ち満ちたゲームで、これは大変な発明じゃないかと思います。一作目のトルネコにもはまりましたが、オリジナル世界であるこのシレンは仲間やアイテムといったシステムが大幅に広がり、世界としてとても豊かになっています。褒め言葉として言えるのは、「やられ方が実に豊富」なんですね。いろんなやられ方がある。まさかここでというところでやられたり、すべてが順調にいっていたのにたった一度の判断ミスでぼろぼろになったり、時には即死したり。トルネコでの出来事としてですが、「難敵に向かってラリホーの杖を振ったら、その敵と自分の間に見えない敵がいて、杖の効果が反射してしまって、眠りに落ちて、ぼこぼこにされて、死ぬ」なんてことがあったときには、ショックと感動が一挙に襲ってきました。そういうものに充ち満ちている不思議のダンジョンシリーズ。トルネコでもいいのですが、独自の世界観とゲームの幅の広がりの点で、シレンを挙げておこうと思います。

『チョロQ3』(PS タカラ 1998)
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レースゲームの代表格と言えば、何なのでしょう。『グランツーリスモ』とか、『リッジレーサー』とか、あるいは『マリオカート』がそれに当たるのでしょう。ぼくはリアル方面にまったく興味が湧かなかったので前者の二つには触れたこともなく、『マリオカート』はSFC版こそ友人のものを一緒にやったりしましたが(思えば幼かったあの頃はぼくの人生における実に淡いモテ期。)、それほどがつんとは来なかった。そんなぼくが好きだったのがこのチョロQシリーズです。1~3と、「ワンダフォー」までやりました。チョロQと言ってもぜんまい仕掛けでなく、普通のレースカーとして登場するんですが、チョロQが時速百キロ以上で走ったりする馬鹿っぽさがとてもキュートに思えたのです。船とか飛行機の作品もありますが、「それはもうチョロQじゃない」と醒めました。大ジャンプするコースがあったり、水の中を走ったり、変なコースを走ったりというのは、後の『マリオカートWii』などよりずっと早くこのゲームでなされているのです。チョロQシティというのがあって、そこを冒険するような楽しみも加味されており、とても面白かった作品です。

後半は次回。
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