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その陶酔感においてはマスカッツの方々を凌駕する。
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 以前の記事でも述べましたとおりに、「マスカッツを愛するとはすなわち、マスカッツを超えるものを求めること」。というわけで、ぼくたちは新たな希望の依りしろを探すことが大事なのであります。そしてそのためにはAV女優のアイドルをどんどんと世に知らしめていくことがこれ大事であろうと思い、その種のキャンペーン記事でございます。映画評はどこへ行った、これではAV評ではないかね、もうおまえのブログは見ないぞ、と言われましょうが、映画評はそのうちやるので、今回はご勘弁願います。映画は放っておいてもみんな観るのです。マスカッツの種を広めるためなら、ブログの方針などどうでもよいのです。
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マスカッツの創生におきましては、蒼井そら様や麻美ゆま様、吉沢明歩様やRio様、あるいはみひろ様という存在が不可欠でございました。そうした超一線級の方の発掘が重要でございます。そうしたときにkarasmokerがなんとしても語らずにはおられないAV女優、第一弾。由愛可奈さんでございます。「ゆめかな」と読みます。
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由愛可奈さんの作品を網羅しているわけではぜんぜんないので、もっと魅力を語れる方もおられようかと思いますが、ぼくはこの作品を観て、おおう、これはちょいと、なかなか、おおう、と感銘を受けたのであります。
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構成はというと、インタビューと絡みを繰り返す形式でございます。両方ともがきちんと見所であって、彼女の素顔を活写しているのであります。
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 マスカッツの偉大なる功績として、AV女優が背負う陰を和らげたということがあります。人にばれてはいけない、なんて後ろめたく生きるのではなく、堂々とAV女優が光のもとに立った。自分の職業はAV女優である、というアイデンティティを誇らしいものとして認めさせた。あるネット番組の中で、かの吉沢明歩様がおっしゃっていた言葉を知る人があるかもしれません。彼氏にAVをやめてくれと言われたらどうするか? と尋ねられた彼女は、凛としてこう言い切りました。
「やめない。やめろと言われてやめるようなことはやっていない」
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由愛可奈さんも、堂々とAV女優として生きていらっしゃるのが本作でわかります。ご両親には、デビュー前に既に話したとのことです。AV業界は広く深く、親にばれたのでやめるなどという方もいらっしゃいますし、そのほか職業の特殊性ゆえに人格的な支障を来すケースもあると聞きますが、彼女は自信の職業的アイデンティティを真っ当に保持しているようなのであります。実に頼もしいのでございます。
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 彼女を推さざるを得ないのは、セックスにおけるその心酔ぶりであります。これはAV女優にとってとても重要な要素です。こう言ってしまうとあれですけれど、マスカッツの方々は実はこの点が弱い。皆様は女優としての心得が十二分にあるがゆえに、見る限りそこまで自己を解放しない。「マスカッツのAVって抜けないよね」というネット上の声も多くありますが、原因の一つがこれでしょう。今回は詳述いたしませんが、これはエスワン系AV全般に見られる傾向ではないかと思います。
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その点において、由愛可奈さんは蒼井そら様をはじめとするマスカッツのほとんどの姐さんたちを既に凌駕している。そう見えるのはもちろん監督であるカンパニー松尾さんの手練手管があってこそとも言えますが、別の作品においても、由愛可奈さんの奔放さは時として半ば感動的ですらある。痴女的演技においても、ああ、ここまでの演技ができる女優は、マスカッツの中には誰もいないとまで思わせる。こういう方を目にすると、壇蜜ごときがエロスの代表格のように言われているメディア状況が、いかにゴミ同然のものであるかが知れましょう。あんなの、黒木香の足下にも及びやしねえじゃねえか。
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 由愛可奈さんのような方がたくさん出てくれば、種子の繁栄も夢ではないと思えます。
 吉沢明歩様やみひろ様と一緒にバラエティに出たりもしているので、その点でも有望株でございます。一方、普通の映画などでの演技は、トレーラーを観る限り、あまり優れたものではなさそうな気もします。彼女は女優ではなく、まさしくAV女優であると言えましょう。
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作品内容に踏み込んで評しておらぬではないかと言われそうですが、いい映画を観た後のレビウが時としてそうであるように、「うだうだ言うより観てもらった方が早い」と思ってなかなか書けないこともあるんですね。最初の男優との絡みはそれほど好みじゃないんですが、カンパニー松尾との暗い室内での絡みは絶品です。

今後も気になる女優を取り上げていきたいと思います。
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 ところで、この種の記事は何かに引っかかるんでしょうかね。
 18禁の映画はよくて、AVはいけないのかな?
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ある設定を根本的に変えていれば、素晴らしいものになったように思うのです。
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 放送当時、好事家の間で話題になり、今年の夏には劇場版が公開されるということで、伊集院がラジオでちょいと触れていたのもあって、観てみました。

 あらすじをざっくり言うと、不登校の男子高校生のところに、何年も前に死んだはずの少女が現れるところから始まります。彼女の訪れをきっかけに彼はかつての仲間たちと再会し、死んだ少女への思いを通して再び皆が心を交わし合っていく、みたいな話です。
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うーん、久々なので加減がわからん。いや、これはですね、ぼくにはちょいときついところもありました。その理由はもう完全に明白で、ヒロインたるめんまのキャラクターです。あれはねえ、もういい年をこいてくるときついですね。だからもう、ぼくみたいなもんは端からお呼びでないというか、めんまについていけない人間は観ちゃ駄目なのかもしれませんね。あんな風な萌え萌え幼女的な感じで来られると完全に引いてしまうのであって、あるいは『ハルヒ』における朝比奈みくるのようにキャラづけに何か批評性があるのかと思いきや最後までそうでもなく、めんまがきゃぴきゃぴするたびに心がささくれ立ってくるという不健康な状態で観てしまったので、その辺がどうもあれなんですね、はい。
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 同年に放送された『まどかマギカ』も序盤は萌え風味が鼻につくなと思いつつも、結構物語的な部分とか魔女戦の演出とかキュウべえの謎とかがあったのでよかったのですが、今回はめんまがねえ、うん、ここについては後でちょっと掘り下げます。
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 あとは「デレヤレの構図」ですね。これは思いつきの造語ですが、ラノベやアニメに広く観られる構図です。冴えない主人公のもとに突如現れた少女が無償の愛を捧げながらデレデレし、一方主人公は内心惹かれているにもかかわらず村上春樹由来の「やれやれ」な態度を取る。アニメでは『うる星やつら』のラムちゃんがその金字塔ですが、それをいまだにありがたがっている状況含めて、ちょっと辛かった。
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 観終えてみると、めんまに引きずられたというか、持って行かれた部分がかなりあるなーというのが気になります。主人公と四人の仲間たちが出てくるんですが、彼らの造型というか、物語面がちょっと弱いように思いました。悪く言うと記号的にも思える。確かにそりゃクールなイケメンが女装したりというフックはある。でも、観終えて振り返るに、彼らのことをあまり長くは覚えていないだろうな、と思えてしまう。特に、ぽっぽとつるこは役割的な描かれ方が大きく、彼らの内面に踏み入れない。最終回で感情が爆発するのですが、それまでの話で重しが充分に機能していない。ぽっぽなんかは特にそうでしたねえ。最終回前まで、賑やかしの安定キャラでずっと行っちゃった。あれはどこかで伏線を張っておくべきだった。
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いろいろと文句を垂れてしまい恐縮なのですが、めんまに引っかかり続けていた人間としてはずばりこう思うのですね。賛同を得られる見込みの少ない、元も子もないことを言いますね。

 ぼくね、これはね、めんまの姿を見せないほうがよかったのではないか? という風に思うんです。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! めんまはあんなに可愛らしいのに!」

 ええ、だからもうね、めんまが好きだという人は読んでも意味がない話をするので、切り上げてくれて結構です。でもぼくは観ながら、ああ、これ、めんまの姿が視聴者にも一切見えていなければ、それこそすごいアニメになったんじゃねえかなあっていうのがあるんです。

視聴者は最初からあのとてつもなく可愛いめんまが見えてしまうわけで、主人公とずっと目線を共有することになるんですけど、その分、仲間たちが見せる当初の不理解ぶりを一切共有できない。先ほど、仲間たちの造型について述べましたが、それと繋がる話です。
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 勝手なことをあれこれ続けますが、これ、作り方としては、せっかく十一話あるのだし、他のメンバーを主軸の視点にして数話つくったほうが、深まったんじゃないかって気がしてならないんです。視聴者にも見えないようにしてそのつくりにすれば、もっと彼らに寄り添えた。あ、ネタバレをしますね。知りたくない人はここでやめてくださいね。
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 ええと、続けます。
 そういうつくりにして、最後の最後にだけ姿を現せば、「みぃつけた!」が最高に活きた。あそこでみんなが見つけてもねえ、こっちは第一話からがんがん来られてますからねえ。「みぃつけた!」からの、消えてしまう、がぜんぜん活きないんです。その「夏の幻」感がない。まったく得られない。
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姿を見せずに声やものの動き、あるいは筆談でその存在を示す。それを視聴者も共有する。めちゃくちゃなことを言っているようですけど、これは実は最もアニメ的な表現の提案でもあるんです。というのはね、そのやり方は絶対に小説ではできない。やっても仕方がない。それに漫画でもできない。漫画ではものが動いたり声が聞こえたりをアニメほどアクティブには描けないですから。あるいは実写映画でもできない。実写映画でやったら、成長前のめんまと成長後のめんまの役者が変わるので、最後の場面を説得的には描けない。そう考えていくと、姿を一切現さなかったら、もっともっと深く刺さるものになったんじゃないかって気がしてしまうんです。

 事実、筆談で仲間たちがめんまの存在を知る場面がありますけど、あれなんかも、姿が一切見えないほうが鮮烈に映ってくるはずだし、ラスト近く、仲間へのメッセージとしてへたくそな字で書かれている文字も、『アルジャーノンに花束を』よろしく、「消えていく存在」の儚さが強まった。主人公には見えていていい。でも、視聴者が見えている必要はない。

めんまが高カロリーな萌え萌え幼女キャラで実在感を示してくる分、周りの仲間にしても、めんまの母の狼狽にしても、ちょっと滑稽に感じられてしまう。視聴者には完全に見えている分、彼らの感情の揺らぎをまったく共有できない。

 なんであんな萌え萌え幼女造型にしたんだろう、というのがものすごく引っかかる。そんなの腐るほどある。地味な見た目になるのを回避したかったのでしょうし、キャラ商売をするうえではそのほうがいいのもわかるんですが、「この話を形作る上で最も的確な方法だったのか? 視点構成だったのか?」というのがすごく疑問として残る。文句ついでに言うと、なんでめんまだけあんな西洋人的な感じなのか。ウィキによるとロシア人の血を引いているなんてことなんですが、その設定の必要理由が何もわからない。単に画的な華を添えたいのか? 透明感みたいなことを言いたいのか? いや、透明感ってキャラでもないわけですし、なんであんな風に妖精的な持って行き方にしたのか。精神的には子供のままなのに肉体は大人びている、みたいなところの媚び要素もあざとくて鼻につく。この話の良さを高めるうえで、本当にあのキャラ造型で正しかったのか? 日本人のコスプレイヤーは泣きを見るぜ。白人にやられたら勝てないぜ。

「正しいに決まってるし。てかめんま超可愛いじゃん。何文句つけてんの。イミフww」

おまえはいつまで読んでいるんだ。読まなくてよいと言ったのに。
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だからあれですね、結局こういう共感を得られそうもない提案をしているぼくのようなじじいは、対象年齢から外れているんです。ポケモンが懐かしゲームとして出てくる設定にしてもそうで、中高生が観て満足すればそれでよいのですね。逆R―20指定作品として設定してもよいのかもしれません。中高生向けのアニメにわざわざ当たりに行っているぼくが当たり屋なんです。どうかご容赦くださいませ。今後の更新は未定ですが、引き続き気まぐれにやっていこうと思います。それじゃあ今日は、この辺で。




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終わっちまったのか? まだ始まってもいない。

 気づけば二ヶ月以上滞らせておりました。
 この二ヶ月ほど映画は本当に数えるほどしか観ておらず、映画について語るよりもせねばならぬことに追われていたような感じでございます。また、映画から刺激を得ることにあまり魅力を感じなくなっておりまして、今もそれは継続中と言えばそうなのです。また調子が戻ったら立て続けに書き出すでしょうが、近況はそんなところであります。

 さて、我らが愛する恵比寿マスカッツは去る4月7日をもって解散いたしました。
 解散コンサートに馳せ参じたかといえば、ぼくは行っておりませぬ。といいますのも、解散発表後に行われたファンクラブ先行のチケット抽選。ここをぼくは逃したのです。マスカッツ解散のショックに見舞われ放心していたこと、認められぬと嘆き続けていたこと、マスカッツを継ぐ者を探してアンテナを伸ばしていたこと、仕事が忙しかったことなどが原因で、チケット抽選の機会を逸してしまったのですね。こうなるってえとS席の一番いい席などはもう見込みがなかろうというもんで、だったらもう、いいや、とこう思ったんです。もともとライブに通うタイプでもありませんのでね。

 と同時に、ぼくは思いました。どのみち、総合演出のマッコイ斉藤よりも最前列で観ることはできないのだと。たとえ最前列であっても、ぼくは観客という立場でしかあり得ず、どうしようもなく分け隔てられた壁のこちら側なのだと。この感覚は、多くのファンの方々とは違う部分じゃないかと思います。気の利いた合いの手や精一杯の応援で盛り上げる、という立場を自認する方はそれはそれで大変よろしかろうと思うのですが、ぼくにはそれが辛い。自分が愉しんだところで、マスカッツを広めることができない。ぼくにとっての理想は、マスカッツの種子が肥沃な大地で次々と芽吹くこと。その種の蒔き手になれなかったことが悔しくてならなかったのであります。

 行かなかったことは、後悔しております。しかし、単に悪い感情ではございません。
 聞くところによると、休養中の麻美ゆま様、そしてあの桜木凛様、そしてそしてみひろ様やかすみりさ様、KONANさんなども一緒に歌い踊ったということでございまして、なんと五時間の長尺で行われた模様です。ああ、それはさぞよいものであったろうなあと思います。その終わりにおいて、行かなかったのを存分に後悔させてくれる代物であったことは、むしろ悦ばしくさえ感じているのです。

そして同時に、こんなことを思います。自分にとってのマスカッツは、まだ終わっていないのだと。いや、まだ始まってもいないのだと。そう、ここでも既に述べております通りに、マスカッツは完全なグループではなかった。その証拠のひとつが、解散コンサートを武道館や国技館に断られていた、ということです。おそらくは、AV女優というその存在の特殊さゆえに、「伝統」なるもんを重んじになられる良識ある武道館の担当者の方などが、拒否なされたのでありましょう。ああ、なんて悔しい! マスカッツは結局、勝てなかったのです! 皆さん、思い出しましょう! 『おねだり!! マスカットDX』時代、番組の中で彼女たちは「武道館に立ちたい」という夢を述べ、小林Pに「武道館なんか行けるわけねえだろ!」と言われてしまった。戯れの一つではございますが、当時は、いつか行けるのではないか、とみんな願っていた。しかし、現実はどうでしょう。哀しくも小林Pの言ったとおりになってしまったのです!

 皆さん! マスカッツを愛する皆さん! 皆さんがすべきことは、マスカッツの解散で心に穴を開けることでもなければ、在りし日の番組を懐かしむことでもありません!
 彼女たちが叶えられなかった夢の続きを、我々が見続けることなのであります!
 マスカッツを愛するとはどういうことか。
 それは、マスカッツを超えるようなAV女優ユニットの創生を希うこと!
 マスカッツの叶えられなかった夢を叶える、別の存在を求めること!
 ご想像くださいませ。いつか、そんなユニットが生まれたとき、かつてのレジェンドとして、マスカッツが再び結集する姿を! ああ、今のこのユニットがあるのは、あのときマスカッツがあったからだよなと、心からそう思える日を! 
 マスカッツはまだ終わっちゃいない!
 その種子が実ったとき、もう一度マスカッツは輝くのです! 断じて、彼女たちを時代の徒花のようにしてはいけない。
 振り返ることはならぬのです!

懸命なる皆々様におかれましては、今後もマスカッツの彼女たちに匹敵するようなアイドルを、芳しきAVの大地において、見つけていくことがこれ肝要でございます。
 AだかKだかBだか知らねえが、あんなもんが俺たちの時代のアイドルだなんて、認めるわけにゃあいかねえ!
壇だか蜜だか知らねえが、あんなもんがエロスの代表だなんて、認められるわけがねえ! そういう思いを胸に、マスカッツの種子を撒くためにできることは何なのかを真摯に考え、日々を生き抜こうではありませんか。
 マスカッツを愛したなら、あんたの中に、種は宿っただろう?
 その種を、これからも、撒いていこうじゃあねえか。
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