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ばかばかしさの果てまでも。
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ロメロゾンビの終焉、ということについて前回触れましたけれど、正確には終焉というよりも、「完全なベタ化」というほうがいいのかもしれません。つまり、出てきて怖い存在ではもはやあり得ず、それをいかに遊ぶかのほうに時代は動いているわけですね。『ショーン・オブ・ザ・デッド』によってそれを感じましたし、『ゾンビランド』もそう。あとは『デッドライジング』なんかはぼこぼこにされる存在になり果てている感もある。各種ゲームでは銃器でばんばん撃ち殺すだけの存在という色合いが強くなってきて、おいしいところはモンスター的なボスキャラに持って行かれたりしている。こうなってくると、「完全なベタ」であるロメロゾンビはそれをいかに調理するかという素材になっていまして、本作ではもうとうとうウンコまみれになってしまいました。
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 副題が「TOILET OF THE DEAD」の本作では下ネタが前回です。ウンコだのオナラだのが大好きな小学生あたりがよろこびそうな話ですね。ただ、いざ児童に見せればトラウマ映画化する可能性が高いので、親御様は配慮が必要であります。
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 筋立てとしてはゾンビものの定番です。山奥に出かけた若者たちがゾンビに襲われるというのが骨格。でも、そのゾンビはくみ取り式の便所の中から出てきたりするため、糞まみれになっているのです。彼らは寄生虫にとりつかれているのですが、寄生虫はなぜか尻から姿を現すのであり、ゾンビたちは尻を向けて襲ってきたりするのです。AVはスカトロ畑の出身たる、井口昇監督ならではのゾンビものであります。
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こう書いていくとなんと下品なのかしらと眉をひそめられそうですが、一方ではアイドル映画という側面もあって、主演の中村有沙の好演が光ります。『片腕マシンガール』の八代みなせもそうでしたが、井口監督は実はアイドル映画の優れた作り手であるなあと思いますね。とても可愛く撮れています。AVというのはある意味アイドル映画みたいなものですから、彼の本業と言えるのかもしれません。で、本作では本当にこの中村有沙さんが頑張ったなあと思いますね。正直、十八かそこらの可愛い女の子であれば拒否したくなるであろう場面もあるんですが、ぜんぜん逃げていないのです。とても偉い。何の必然もなく胸を晒しているんです。ぼくはその心意気に胸を打たれます。
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 これはAV女優を愛でるのと通じているんです。やっぱり、世間的には日陰の存在になるんですよ。で、広告だの何だのできらきらしている女優やらモデルやらのほうが憧れの眼で見られるわけじゃないですか。でも、違うよねと。彼女たちのほうがもっと晒すもん晒してぶつかってるよねと。
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 本作の中村有沙もそうです。世間的にはね、決して本作は大衆の支持を得るようなもんじゃないというか、言ってみりゃきわもんの部類ですよ。そりゃあオシャレなドラマだの純愛映画だのに出ているほうがずっと綺麗でウケもいいでしょうよ。でも、それが何だと。こういう映画で裸体を晒し、必然もなく片方の乳首を晒しながら戦い、あまつさえオナラでぶっ飛ぶような被写体となっている。その姿に打たれますよ。現在二十歳かそこらの彼女が今後どういう芸能活動をしていくか知らないし、その先で本作があるいは黒歴史的な扱いを受けることがあるかもしれない。冗談じゃないよ。これは一級のアイドル映画ですぜ旦那。
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 アイドル×ゾンビ映画の本作ですが、クライマックスではゾンビはやはり役目を終えてしまい、エイリアン映画になります。これはゾンビの発想としては別段目新しくはないですね。ゾンビをゾンビたらしめているのは寄生虫で、その寄生虫には親玉がいてそいつがボスとして立ちはだかるというわけです。で、寄生虫は戦隊ヒーローものに出てくる敵みたいになります。フェアに言えば正直な話、CGがすごいというわけでもなく、ああ、今の日本のこの規模の映画だとこれくらいのクオリティだよな、ううむ、というもんだったりはするのですが、有沙ちゃんがすごく頑張っているのでそれはもういいです。それにハリウッド的なやりかたでやっても太刀打ちは難しいのだから、そこはわりきって「変な表現で攻めてやる」という心意気を感じます。
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最後に敵として立ちはだかるのは優希という人で、この子と有沙ちゃんのキャットファイトもまた見物です。アイドル映画の醍醐味のひとつに、このキャットファイトというのがありますね。ここがきっちりつくられていると観ていて面白い。『バトルロワイアル』の灯台もいわばそういうことです。イメージだのなんだのがあるし実現が難しいものではあるんですけど、そろそろネタ切れ感が出てきているAKBなどは、キャットファイトイベントを仕掛けてみると面白いかもしれません。
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他の役者の人、特に女優の人たちはなんというか、ひとつたがを外したなと思いますね。そこがとてもいいと思う。映画の中ではそれこそオナラをしまくるんです、ぶーぶー。あとは和式便器にまたがってお尻を晒したりね。そんなのって、女性としてはやっぱり嫌な部分じゃないですか。ある意味、性的な場面を演ずるよりも嫌なところがあると思うんです。でもそこを受け入れて演じきっていますからね。中村有沙ちゃんにいたっては、最後オナラのロケット噴射で空を飛ぶんです。昔の少年ギャグマンガみたいなことになります。こういうね、馬鹿すぎて誰も実写ではやろうとしなかったようなことを真っ向からやっているところ、そしてそれに挑む女優の様というのはとても感動的なものがあります。『片腕マシンガール』が「なんでもありの果てまでも」ならばこちらは「ばかばかしさの果てまでも」。こういうものは応援しなくてはいけません。
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 ウンコだのオナラだのそんなの嫌だな、若い女性がそんなのをしている姿は観たくもないなと思われるかもしれませんが、誰もが避けてきた部分に挑む様は感動的なのです。園子温監督が持つ魔法とはまた違う、井口昇マジックを、またも見せて頂きました。
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これもまた「ゾンデミック」の系譜。あるシーンの元ネタが気になるなど。
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ブードゥー教由来のゾンビというのは、「術師によって復活させられた奴隷的存在」という色合いが強いのですが、ここに「人間を襲う」という発想を加えたのがジョージ・A・ロメロで、ロメロは同時に「襲われた人間もまたゾンビになる」という感染の要素を加味しました。彼は生ける屍に「襲撃者」「感染者」という二つの要素を備え、現代までの主流なゾンビ像を造型したわけですね。

 映画に限らずゲームその他、世界で見れば既に何千単位でつくられているんじゃないかと思いますが、いまやゾンビというのは「蘇った死者」という属性が薄まって、「襲撃者」「感染者」という部分のみが重要視されているんじゃないかな、とも思います。

 というか、きょうびぼくたちがゾンビものに求めているゾンビ的部分というのは、もうずばりそこであろうとすら思うのですね。生ける屍ということはどうでもよくて、とにかく襲ってくる奴、しかも感染の危険がある奴、というこの二つの要素こそが現代におけるゾンビの本質といって差し支えないんじゃないかと思います。

 規模の大きな話にするときはそのほうがやりやすいんですよね。『ワールド・ウォー・Z』にしてもそういうことでしょう。ゲームで言えば『The Last of Us』もそうだし、そのほうがいろいろと都合の良い局面が出てきているわけです。本ブログで前々から「ロメロゾンビの終焉」について述べた来たのはそういうわけだったのです。

 ぼくはこのブログでも前々からゾンビ像について、「のろのろゾンビ」と「ダッシュゾンビ」の対比について書いてきました。そこでも、ダッシュゾンビのほうが好みであると書いてきたわけです。それはつまり、上記のようなわけなのですね。ロメロはダッシュゾンビは嫌いだと明言しているのですが、後続の作り手の多くが欲したのは「襲撃者」「感染者」のほうなのだろうと思います。死者がダッシュするのはおかしい、死後硬直もしているのだしのろのろ動くはずだ、と言うのなら、「だったら死者の部分は要らない」なんです。感染者でいいのです。そういうと「病気ならもっと体調悪そうにするはずだ」とか言われそうですが、「うるせえ、つまらないことを言うな」なんです。素早く動けたほうが面白くなる場合ってあるじゃん、ですから。リアリティがうんぬんということを言うのなら、ゾンビよりも凶暴化する感染者のほうがまだリアリティはあるんじゃないですかね、ふん。

現在では「ゾンビもの」と一言で言っても、それがロメロ的ゾンビを指すのかどうかが難しくなっています。ここはひとつ、非・ロメロ的ゾンビの出てくる作品を指す用語として、「ゾンデミックもの」を提唱しましょう。ゾンビ的ではあるけれどパンデミック性、感染者ニュアンスのほうが強い、という意味合いです。

その系譜をつくったのが『28日後...』でありザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』あたりですね。『28日後...』はゾンビではなく、「感染者」という部分を押し出した点で、ひとつの曲がり角を示したように思います。今回取り上げる『REC2』もその筋ですね。1についてはもう何年も前に取り上げております。近頃はゾンビもの、あるいは「ゾンデミックもの」を観ようと思っていて、いまさらながら2に手を出しました。

 全編がPOVなのは前作と同じです。もうそこが作品の命綱みたいになっていますね。違う言い方をすると、普通の撮り方ではもう何もないようなお話じゃないでしょうか。POVの美点は、ある場面にのみ集約されています。
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 ほとんどのシーンが、感染者に溢れたマンションの中で展開します。時間的には前作の直後から続いていて、「建物の中が大変なことになっているぞ、調査しろ」と特殊部隊隊員四名が乗り込み、専門家のおっさんが同行します。
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 1を観てずいぶん経つので虚を突かれたのですが、この映画はゾンビもの、感染者ものと思いきや、エクソシストものみたいになります。感染の専門家だと思われていたおっさんは実は神父で、教皇庁から特命を受けたらしいのです。この辺が一回ちょっとこの映画をぐだぐだにします。
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 おっさんの話によると、もともとの感染者はある少女で、そいつが悪魔に取り憑かれたのであり、是が非でもそいつの血液をゲットしてこれを解析、感染被害の拡大に対処しようということなのですが、もうなんだかよくわからない。「悪魔に取り憑かれた少女の血液を分析して感染を避ける取り組みに励もう」という目的がなんだかぶれぶれなんです。ウイルス的な何かなのか、呪い的なもんなのか。科学的に対処できるのか宗教的な方法が必要なのか。十字架をかざして対処したりしているので宗教的なのでしょうけれど、そこと「血液を採取せよ」みたいな任務の折り合いがすっげえ悪い。 
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はっきり言ってこのおっさんの言い分をごり押しするがために、物語上の説得力が大いに欠けるのです。任務だから最後までやり遂げるぞとうるさいのですが、どう考えても一旦逃げて体勢を立て直すべきだと思えてしまって、入り込めない。これは「追い込まれもの」の一番の基本だと思うのですが、「逃れようのない状況」をつくるのが土台じゃないですか。どうやっても逃れられないとわかって、さあどうしようという話になる。それが「とりあえず一旦逃げるという手があるやん」と思える段階でもう駄目なんです。嘘でもいいから、あのおっさんに「ちょっと無理っぽいんで一旦帰ります」みたいなことを言わせるべきなんです。で、無線機の向こうから「いや駄目だ。おまえは最後までやれ」みたいな声を届けさせるべき。あるいは絶対にやめられない事情があることを語らせるべき。それだけでもまともになる。それを怠る脚本というのがぼくにはもうわからない。
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 いいところはというと、終盤の「暗闇になると風景が変わる」というあれですね(あれと同じような手法を何かの映画で観た覚えがあるんですが、あいにく思い出せません。だれか教えてください)。あの場面はとても面白かったです。あの辺はもう条理とか理屈を飛び越えて、行ったれーという勢いを感じました。水の中に引きずり込まれたりね。あの方面で膨らませても面白いのになと思ったんです。「目的とする敵は暗闇の世界でしか確保できない」というのを押していけば、この映画は意義深いものになった気がする。そこのダークファンタジー感をもっと前に出せば、宗教的な云々も補強されたのに。

 うーん、先行作品で何かあった気がするんですけどねえ、なんだったかなあ。ゲームだったかなあ。これは気になるなあ。回答、大募集です。
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あの場面に出会えただけでもこの映画を観てよかったなとは思えます。あとは全部ぐずぐずとも言えます。大体の話、ぼくはキリスト教的な神が悪魔を圧するという設定が気にくわないのです。十字架というものの権威性あるいは福音派的な傲慢が鼻についてなりません。いや、それならそれでいい。そっちをしっかりしてくれればそれはそれで受け入れます。ところがこの映画はラスト、え、何なの、寄生虫的な何かなのというこれまた中途半端なイメージを放り込んでくる。どれにしたいねん、という話なんですね。ウイルスなのか、寄生虫なのか、悪魔なのか。あれをオチに持ってこられても、「いや、どないやねん」に近いもんがある。
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 別段にお薦めするものではございませんが、あの暗闇シーンの元ネタをぜひとも思い出したい、ということで、是非観てもらってお教え願いたい次第でございます。
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ショットガンの出てくる映画は、ショットガンに頼る癖がある。
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気づけば二ヶ月以上放置しておりました。近頃は映画をほとんど観ない日々を送っているのでございます。映画とのふれあいを強いて挙げれば、『バトルロワイアル』を繰り返し観て、なんて完璧な映画なんだろうとつくづく思い直す、というくらいのものなのでございます。パクリ疑惑が醸された『ハンガーゲーム』などを観て、これはとんだ駄作だと飛び上がったりしたくらいなのでございます。あとは近頃ゾンビものを観ようと思っているので、誰か教えてください。

 ところで、『バトルロワイアル』がえらいのはその作品中に、サービス精神が溢れかえっている点でございます。あの辟易するほどの長さを誇る原作から、映画にとって何が必要で何が不要かを適切に選別し、抽出している。構成もかなり几帳面にできていて、様々な地獄巡りを楽しめる。栗山千明のシーンと、女子たちの灯台のシーンはくりぬきで観られます。限られた上映時間内で、あのようなシーンをあの辺でぶちこむというのも、構成の妙が光っております。ぜひとも再見をお薦めする次第なのでございます。
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 さて、ほしたら近頃のんはどうかいのう、ということで、似たようなテイストも香っている『悪の教典』でございます。原作を楽しんだので、なるほどここはこう切るか、こう編集するかとあれこれ考えながら観てみたのでございます。『海猿』のヒーロー伊藤英明にサイコパスを演じさせるあたり、三池監督はやはり悪趣味で良いなあと思ったのであります。

 伊藤英明扮する高校教師・蓮見が、担当するクラスの生徒の大虐殺に踏み切る話です。映画的に言うと、どう転んでもそこが見せ場になるわけですね。そこさえオッケーならこの映画はもうオッケーなのです。上下巻ある長い原作では蓮見の過去や人間性であるとか、それぞれの生徒の背景や内面などがたくさん描かれますが、それをすべて入れ込むのは無理。だとするならこの映画ではクライマックスの虐殺がいかに描かれるかが勝負になってきます。

 その話は後でするとして、前半から中盤に至る日常描写はどうかといえば、高校生の描き方などはちょうどいい案配であったなあと思います。
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 二階堂ふみがますます宮崎あおいに見える本作ですが、彼女のちょっとべたっとした声色などはとてもいい感じであります。この作品の醸すちょいと暗い雰囲気によく合っている。友人のちょっと声が低い女子もいいですね。あの子のあの感じはなんだか、すっげえちょうどいい。『ヒミズ』コンビの染谷将太の小生意気な感じも存分に発揮されており、原作と違ってほとんど出番のない養護教諭役、小島聖のうさんくさい感じなども、この作品のテイストに合っている。
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 学校描写、生徒描写の場合、リアルかどうかなんてことよりも、その映画のトーンにどれだけ合致しているかが大事だなと思いますね。ちゃんとその枠の中に収まった振る舞いができているか。そこを考えずに今時の高校生像みたいなもんに寄り添おうとすると駄目なんでしょうけれど、この作品の場合はトーンと人物の温度がちゃんと合っているし、その点には何の文句もないわけであります。生徒たちがどこかAKBくさいところなども、ある意味とても正しい。蓮見と肉体関係になる女子生徒などは、昔のアイドルみたいな顔でこれはこれでよろしい。

 作品が進んでいく中で、いくつかの事件が勃発します。蓮見の正体に触れるような人が死んだり、厄介者が排除されたりするわけですね。この辺はねえ、うん、ちょっと難しいところがありますね。気に掛かるのは、殺される人たちに、「端からの負け役くささ」が漲っているところです。文句を言いに来る父親とかね。こいつら殺されるんだろうなあ、ああ、やっぱりやられたなあというのがね、盛り上がりのための段取りくさい。映画的にはクライマックスがあって、そこに向かうまでの盛り上がりが必須になるわけですが、その過程でちょっと段取り化している。いざ殺すところもささっと終わらせてしまったり、見せなかったり。こいつ生き延びるのかな、どうなのかな、うわ、やられちゃった、というドライブがないので、一方向的になるんですね。
 
これがこの映画の最大の弱点である気がします。
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第三幕としての時間はたっぷり取ってあります。四十分くらいありますから。
でも、その間伊藤英明が徹頭徹尾余裕の攻めなんですね。ここがもったいないところなんです。一方向的になる。クライマックスも半ば段取り的になっている。
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山田孝之扮する教師は原作の二人の人物を足して二で割ったような感じなんですが、原作ではそれなりに格闘するんです。これってとても大事なことです。別に原作との異同なんてどうだっていい。純粋に映画としての話です。やはり、伊藤英明はどこかで一度は追い込まれるべきなんです。そうすることで、映画に波が生まれるんです。その波が興奮を生み出す。ところがこの映画では彼が着々と殺していくことになる。 なんであれだけの尺をとって、山田孝之をあっさり殺したのか。ここにこの映画の弱点すべてが集約されている気がします。
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複数視点化するこのシークエンスをテンポ良く移動しているし、あの校外に出た女子生徒のように、「最期の台詞を言い終えられないまま死ぬ」なんてところも小気味よい。でも、でも、いやあ、難しいのですねつくづく。この種のクライマックスはひとつ選択をミスっただけで高く上がっていたボルテージが下がる。あの東大を目指している少年がそうですよ。あの場面であんな台詞のやりとりを入れると、熱が逃げてしまう。それに、これがどうにもわからないんですけれど、(あ、ネタバレをしますよ。というかもうしまくっているけれど)
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 どうしてあの「生存者二名いました」の前の段階で、二階堂ふみたちが生き残っているとわかるようにしてしまったのか。あれ、原作だとちょっと曖昧なまま勢いで読ませてしまうみたいなところがあるんですが、映画ならばあの警察のシーンで初めて明かせばよかった。そうしないと観客の思考が伊藤英明の思考を追い抜いてしまうんです。あれは後でネタをばらすようにしてよかったはずなのに。
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 この映画に限ったことではないですが、「ショットガンの出てくる映画はショットガンの銃声に頼る」という癖をどうしても持っていて、それと格闘する必要があるのですね。 ショットガンは確かに映画を盛り上げる最高の道具の一つだし、であるがゆえにそれなりにクライマックスは楽しめる。けれど、けれど、けれど。
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 この映画のもうひとつの弱点は、野蛮さに欠けるところです。
 野蛮じゃない。だから、シーンが焼き付かない。あれだけの凶行を並べながらそれは致命的です。どうも理に落ちてしまう。そうかと思えば二階堂ふみの目にCGを入れたり余計なことをする。そうじゃない。この手の映画に大事なのは、焼き付くような一瞬です。
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 それが漲っているのがたとえば『バトルロワイアル』の全シーンであり、たとえば『プライベート・ライアン』の序盤であり、たとえば幾多のゾンビ映画であり、たとえば『リング』のテレビから出てくる貞子であり、たとえば『悪魔のいけにえ』における朝焼けのレザーフェイスなのです。何かひとつあればもうこの映画は何だってよかったのに!

 総じて言うに、細部はおおむねよく配慮されているのですが、一番盛り上がるべきところで大事なものが決定的に欠けていた、という印象です。既に古い話ですが、AKBの人がこの映画を嫌いですと仰っていたそうです。しかし、大丈夫です。嫌わせてくれるほどのものではございません。人のこと嫌いになるってのは、それなりの覚悟しろってことだからな。
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