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ぼくはもうついていけない、ということなんでしょう。

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 公開当時方々から絶賛の声があがって、うわ、こら難儀やな、乗れなかったらなんか嫌な感じになるな、と思って敬遠していたのですが、一応観ておこうと思って、まどかマギカ。

結論から言うと、個人的にはちょっときつかったです。乗れませんでした。これはですねえ、ぼくもおっさんになったなあと思いますね。あのきゃぴついてる感がそろそろきつくなってきたんです。カロリーが高いというか、胃もたれするというか、そんな感じです。大学生くらいの頃は、おじさんたちがいうところの「この年になると肉はもういいね。魚だね、うん」的な発言を完全に他人事として受け流していたのですが、なんかそれがわかるんです。「男子の夢想する、女子たちのお喋り」みたいなもんを観ているのがもう辛い。ラノベ的な、恋愛要素のないハーレム的部室感がきついんです。作品がどうのこうのじゃなくて、今のぼくには糖分が高すぎる。若者ならばまだしも、ぼくより上の世代の識者とか通人みたいな人がこれを観て耐えられるのがある意味羨ましいです。若々しいと思います。

あとはあの劇団イヌカレーによる描写もぼくには辛い。カロリーが高い。
 結局ぼくは、『哀しみのベラドンナ』に撃ち抜かれっぱなしなんです。あの抽象表現をどうしても思い出すので、今回のような足し算スタイルにはどうしても乗れなくなる。
 ここで前に述べたことです。そこから前に進めていない感じがしてそれが自分でも辛いんですけども、結局「昔感じたあの鮮烈さ」を超えてくるようなものじゃないと、エレクトしないんです。「あー、これは確かに凄いけれども、あのときのあれのほうが凄かったよなあ」になってしまう。

 正直なところ、偏狭と言われるのを覚悟で申すならば、「『哀しみのベラドンナ』に勝てるアニメ表現なんか無い」とさえ思ってしまうのです。理由は簡単で、あの作品が想像力に訴えてくるから。今日までのアニメ技術の発展による緻密な描き込み、高画質、高精細のどうたらこうたら。それは確かに凄いけれども、所詮はすべて視覚への訴え。『哀しみのベラドンナ』が違うのは、あえて視覚的要素を減らすことで、こちらの想像力に訴えてくるからなんです。足し算をいくらやられても、引き算をつきつめたもの以上の感動を得られないのです。

 で、どうでもよくなっちゃったんです。
 足し算をされればされるほど、ああ、どうでもいい世界のどうでもいい話だなあ、感が迫ってくる。その意味では『エヴァQ』で感じたものと同じです。「こいつらがどうなったところで俺はもうどうでもいい、何なんだこの世界は」という感覚が、キャンディなものを描かれれば描かれるほど強まってしまった。なんでこんなに、足し算をするんだろうって、冷めてしまった。チーズ! カマンベール! とか、あの辺のノリと作為性。

 若い人はいいと思うんです。若い人がこれを観て、おおお、と思うのはとても正しいと思う。ぼくも十代や大学生なら、あのほむらとマミの対決のシーンとかで興奮していたと思う。でも今のぼくは、なんかぺらぺらだなあ、と感じてしまう。「ああ、こいつらはどうせどっちも死なない。なぜならこの世界はたぶんなんでもありだし。仮に死んでも、何か理屈をつけて蘇ったりするし」と引いて観てしまう。「いるか? その格好つけたポーズ」なんて思ってしまう。作為性ばかりが目に付く鼻につく。

世界に入り込めなかったのは大きいです。『エンジェルウォーズ』を観たときの感覚にも近いです。「魔女がつくりだした世界なの!?」とか驚くのもよくわからない。そもそもあんな世界、見るからに現実でも何でもないから、どんな世界でもどうでもいい。

で、後半から終盤で、ほむらがキュウベエと一緒になって、この世界はどうたらこうたらということを言い出すのですが、乗れなかった人間としてはもうきついだけになってしまった。というか、テレビ版に遡って、このまどマギという作品がちょっと嫌いになってしまった。

テレビ版の最後で、まどかが世界を救って、でもみんなに忘れられて、みたいな結末を迎えていたのですけれども、これがあらためてちょっと引っかかってきたんです。というのも、実につまらないことを言いますけれども(既に散々言っている気もしますけれども)、ぼくには「世界なんか、救えない」という諦念があるからです。いや、それは違うかな、言い方としてはこうかな。「あの程度の描き方で、世界を救った救世主的な立ち位置を取られても、愛おしくない」と思ってしまう。

 世界なんか、この作品では描かれていないんです。身の回りとか、ごく限られた登場人物が、デフォルメされた舞台にいただけです。キュウベエが「地球外の存在、観測者」として出てきてぐうっと広げてはいたけれど、この作品には実世界における人々の営みや歴史の連なりのようなものがなく、あくまでもぺらぺらの世界があるだけに過ぎないので、それを救ったところでそれがなんなのか、と非常に冷めた物言いをしたくなる。

「みんながまどかを忘れる世界なんて嫌!」などと言ったところで、結局のところぼくたちは皆忘れられていく存在なのです。百年、千年、一万年の歴史を考えてみれば、ぼくたちなんてどのみち死ねば忘れられる。そもそもこの現実世界において、一人の人間の人生など、世界にとってなんでもないものです。どれだけ狭い範囲の話をしているのや、と思います。それで世界を変える変えないみたいな話をされてもなあ、です。それを何を子供じみたことを言っているのか。すべては光の中へ消えていくというのに、あまつさえ愛がうんぬんと言い出す。もう本当にどうでもよくなる。

 いや、ぼくは「忘却」にまつわる話を否定するわけではないんです。ただ、その規模の問題なんですね。「身の回りにおける忘却」ならばぐっと来る話になると思うんですけど、そこでどうして「世界」に飛んでしまうのか。結局はこの話もまたセカイ系的なものに感じられてならない。ごく限られた人間の間で交わされる話が、世界の命運を握っているかのように論じられる。

「叛逆の物語」というより、「ほむらちゃんのどうでもいい話」として感じられてしまったぼくは、いやはやつくづく乗り損ねたなあと感じます。別のタイミングで観ていたら、きっともっと違う感想もあったのでしょうけれど、率直に言えば上記のような感じ方になってしまったのであります。もっと建設的な見方をするべきなのは重々承知ですけれども、今のぼくにはあまりにハイカロリー、糖分高めでありました。

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他国の事情は知りませんが、日本で「嫌いなもの」のアンケートを採ったら一番手に来るのがゴキブリでしょう。そして「ゴキブリが好きですか、嫌いですか」と尋ねたら、99%近くの人が嫌いと答えるでしょう。

 はて、しかしなぜ人はゴキブリを嫌うのでしょう。かくいうぼくも素手で触れるかと言われれば、逡巡してしまいます。どうしてぼくを含めた多くの人々は、ゴキブリが苦手なのでしょう。

そもそも虫全般が苦手である、という人もいます。それならばまだ話はわかります。顔が見えないのでコミュニケートしづらい、という感覚もわかる。足が六本(以上)ある、羽が生えているなど、人類とは別種の変化を遂げたその姿形が、距離感を覚えさせるのもわかります。

 ここでの議題は、「カブトムシや蝶々なら愛でるのに、ゴキブリは嫌いである」というその差別意識なのです。

 本能的なものとは考えにくいのです。食用にしている文化圏もあるわけだし、「ゴキブリによって殺された」という話も聞きません。人間を殺す動物ならば他にもいくらでもいるし、病原体の媒介でいえばネズミや蚊のほうがよほど脅威です。ゴキブリにそれほど嫌われる理由があるとは思えないのです。

 おまえ自身の理由を考えてみたらよかろう、と言われそうです。ふむ、考えてみましょう。自己対話です。

「あの黒光りした様が嫌なのです」
「ふむ、しかしおまえの好きな色は黒ではなかったかね」
「あいつはちょっと茶色っぽいじゃないですか」
「茶色いものを嫌いなのか。ではチョコレートはどうだね」
「そういうことじゃないのです。チョコレートは食べ物ですから、比較材料としては不適切です」
「ふむ、ならば黒光りしていて茶色っぽい虫だから嫌いなのかね」
「そうです」 
「だったら白いゴキブリであれば問題ないのかね」
「部屋に白いゴキブリが出たらある意味普通のゴキブリ以上に怖いです」
「どうも色が理由だというのは少し怪しい気がするぞ」
「だいたい、あいつらは不潔じゃないですか。ゴミ捨て場や下水道などに生息しているじゃないですか」 
「ほう、だったら清潔な環境で飼育されたゴキブリなら触れるのかね」
「自信がありません」
「なぜかね」
「なぜでしょう。そうだ、あの触覚が嫌なのです。体と不釣り合いに長いあの触覚が微妙に動く様など、不気味に思われます」
「触覚がなければ平気かね」
「少しはマシな気もします」
「だったら君は、ゴキブリが嫌いとは言わずに、触覚が長い生き物が嫌いだと言えばいい。なぜそうゴキブリばかり嫌悪するんだね」
「あいつらはカサカサッと動くじゃないですか。あの動き方が嫌です」
「君は気づいているかね」
「何でしょう」
「君はさっきからゴキブリの特徴ばかりを述べている。そこに『嫌い』とくっつけているだけだ。それでは説明にならない。イヌが嫌いだという人がいたとして、四足歩行だから、ワンと鳴くから、全身に毛が生えているからと説明されても、ぴんと来ないだろう」
「はて、ではなぜぼくはそれらの属性を嫌っているのでしょう」
「そこに勘違いがあるのだよ」

 そう。ここにはおそらく認識の転倒があるのです。きっとぼくたちは「嫌い、という認識から始まっている」のです。親がゴキブリの出現に大騒ぎしたり、嫌なものとして扱われているのをテレビで見たり、ゴキブリホイホイの存在を知ったり。とにかく「ゴキブリ=嫌うべきもの」という認識を与えられ続けてきたのです。そしてそのあとから、理由付けをしているに過ぎないのです。合理的な理由があって嫌っている、わけではないのです(不潔だからという合理的理由がある、という人は、清潔なゴキブリなら触れるという人ですね。でもそれは不潔なものを嫌う理由であって、ゴキブリをことさらに嫌う理由にはならないのです)。

 ではなぜ日本人は文化的にゴキブリを嫌うようになったのか、という話ができればぼくも立派なもんですが、あいにく文化人類学には疎いのです。
 ぼくはこの議題を、ヘイトスピーチ問題に結びつけて考えたくなります。
 中国や韓国を強く嫌悪する人々と、ぼくたちがゴキブリを嫌う理由というのは、実は似ているのじゃないでしょうか。ここで言いたいのは当然、「中韓=ゴキブリ」などという話ではまったくありません。述べたいのは、「嫌いから始まっている」ということです。 理由は後付なのです。

だから、ヘイトスピーカーに対して、合理的な説得を図っても難しいような気がするのです。彼らの理屈や言葉を剝がして剝がして残るものはきっと、単純な叫びです。
「理由なんかどうでもいいんだ! とにかく自分は中国や韓国が嫌いなんだ!」
というものでしょう。嫌いなものは嫌いだ、というだけの話です。

 ぼくは彼らの罵倒を不当だと感じます。しかし、であるならばぼくは正当な理由をもってゴキブリを嫌悪していると、果たして言えるだろうか。そう考えると不安になってきます。もしかしたらぼくたちは、不当にゴキブリを差別しているのではないか? 好きになる必要はなくとも、他の虫と同じくらいに扱ってやってもいいのではないか?

 こう書くと、「外国人は人間だぞ。ゴキブリは虫じゃないか。同等に扱うのは乱暴だ」「ゴキブリを触れなくても誰も迷惑しないじゃないか。ヘイトスピーチは人を傷つけるんだ」と言われそうです。しかし、ぼくの言いたいことの力点はそこじゃない。問いたいのは、嫌悪するものを思い描くことで、ヘイトスピーカーの心性を理解できるんじゃないかということ。そして、果たしてぼくたちは差別をやめることができるのかということ。

 ヘイトスピーカーにやめろということはできる。でも、やめる側には難しいのかもしれない。ぼくたちにとってゴキブリを触ることが、難しいように。理由のない差別をやめるべきだというならば、ぼくたちも同じようにしなくちゃいけないのかもしれない。

 去年ぼくはナウシカの原作をがっつり読んで、虫への慈しみを覚えるようになりました。 ゴキブリだって懸命に生きているのです。
 何もぼくたちに嫌がらせをしようと台所に出現しているわけじゃない。「おなかがすいたなあ。食べ物無いかなあ」「あ、あった、巣に持って帰ろう、子供たちに食べさせなくっちゃ」。そう思っているとき、ばったりぼくたちに出会ってしまうだけなのです。
ぼくは時々本気で、「おまえは一匹のゴキブリよりも一生懸命生きているか?」と自分に問うてしまうほどなのです。

 さあ、そう考えたら触れそうだ。と、思いながらも、やはりためらう。
 ぼくはまだまだです。ゴキブリを平気で触れるようになったとき、「一段上の男」になれる気がするのですが、なかなか果たせません。
 さて、どうでしょう。あなたはゴキブリを触れるでしょうか。
「嫌うことをやめる」というのは、なかなかに難しいことなのかもしれません。

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 映画についての更新は休止中なのですが、世間の出来事について思ったことを書きたくなりました。今後も時たまそういうことがあるかもしれませんので、その際は気が向いたら読んでくらはい。


ろくでなし子さんという方は知りませんでした。今回の件で初めて知ったという方も多かろうと思われます。彼女は自分の性器の3Dプリンタ用データを頒布し、それが「猥褻電磁的記録」の頒布に当たるとして逮捕されたそうです。この件について、愚見を述べたいと思うのであります。

 思考の結論自体はまだ出ていないのですが、多少ネット上の情報を見聞して思うことには、「これをOKにしたら、裏ビデオもOKになるのではないか」ということです。

順を追って考えてみますに、まず排除すべきことは「芸術かどうか」という曖昧な議論です。芸術活動だからOK、というのは意味のない議論です。もしそれが通るなら、ぼくは今日から裸で街を歩いていいことになります。警察に咎められても、「これは芸術活動だ」で乗り切れるか。そんなはずはない。つまり、「芸術活動だから逮捕するな」というのは無意味な言い分です。この点について、過去の実績うんぬんというのもまた無意味です。ぼくが今から十年間、男性器のアートについてどんな活動をしてどんな実績を積んでも、裸で歩くことはできません。まずは、「芸術うんぬん」という議論を切り捨てます。

 ではなぜ逮捕されるのかと言えば、「猥褻物」を「頒布」したからです。「猥褻物を頒布してはいけない」という法律は必要なものであろうと思います。際限を設けることは社会にとって必要です。そこで問題となるのが、「猥褻物」とは何か、という線引きの問題です。

 猥褻なものの筆頭たるAV。これまでのAVでは様々な性的表現がなされてきましたが、「性器の無修正撮影」は今も昔も御法度です。肛門はよいのですが、性器は男女問わずアウトなのです。このラインが、逮捕に至る「猥褻物」か否かの完全な分かれ目です。たとえいかほどにくんずほぐれつの営みがなされても、いかほどに変態的な性的遊戯がなされようとも構わない。ただ、性器だけは映すなよ。これが警察による猥褻の線引きです。性器さえ映っていなければ、有償であっても可というわけです。この線引き自体に、ぼくは違和を覚えません。「どんなに淫らで変態的な行為でも構わない。その代わりに、性器だけは映すな」。この取引で、AV界と警察は渡り合ってきたのです。わかりやすい取り決めであると思います。

 では、女性器を模したオナホールはよいのか。男性器を模した彫刻など昔から溢れているではないか。といえば、これはよしとされているようです。つまり、「模したもの」であればよいのです。そのものでなければ、可なのです。

 ひとまず整理します。頒布すると逮捕に至る「猥褻物」とはすなわち、「性器そのもの」であると言えます。性器に似ていても、性器でなければいいのです。

では、「性器そのもの」であれば、逮捕されても文句は言えないのか。性器は「猥褻物」なのか。それはとてもデリケートな領域ですが、少なくともAV界はその線で渡り合ってきました。そうでなければ、これも猥褻、あれも猥褻となって、逆に表現の幅を狭められてしまうかもしれない。だからこそ、猥褻の対象を性器に絞り込んできたのです。そしてその線を越えた業者は逮捕されてきました。性器そのものが映っていますからね、文句は言えませんね、と。

 その線引き自体が不当である、性器が映っていてもいいじゃないか、という場合は、これまで裏ビデオとされてきたものも、よしとする必要があります。この点を留意して話を進めます。

 さて、ろくでなし子さんの件です。
 彼女は「自分の性器の3Dプリント用データ」を「不特定多数の人間に有償で」頒布しています。繰り返しになりますが、その意図や動機、実績などは無意味です。芸術活動のためかどうか、ということは何も意味がないのです(もしその理屈で許可できるなら、裏ビデオ業者も全員無罪放免です)。寄付してくれた人に限って渡している、という部分は弁護材料になりません。それが通るなら、その理屈で裏ビデオ業者も行けます。購入ではなく寄付なのだ、で通るものではありません。
 いよいよ本質的な部分に来ました。
「自分の性器の3Dプリント用データ」は「性器そのもの」に当たるかどうか、という議論です。はっきり言って重要な論点はここだけです。3Dプリンタという新規なものゆえに問題が複雑化しているように思われますが、それは既存の技術に置き換えて考えたほうがシンプルです。

2Dプリンタ、すなわち写真だったらどうなのか、と考えてみましょう。写真そのものではなく、ネガのほうがわかりやすい。つまり、今回の件はこれと同じです。

「自分の性器を映した写真のネガを、不特定多数の人間に売った」 

 さて、これは逮捕すべき「猥褻図画頒布」に当たるのかどうか。
 もうひとつ言うならば、「裏ビデオ」というのもいわば「データ」ですね。
 モニターで再生すれば性器が映るデータ。それを売ると、逮捕されるのです。
この路線で行けば、前例に照らして言えば、彼女の逮捕は正当であると言えます。

 しかし、3Dプリンタのデータは「性器そのもの」ではない、という立場に立つなら、この論は成り立ちません。彼女を擁護する人間はこの点に立脚して勝負する必要があります。彼女を擁護する人間の言い分は「あれは性器そのものではない」という立場を意味しています。問題は本当にこの一点です。

 中には、「あれは性器そのものだ。だが逮捕は不当だ」という人もいらっしゃるかもしれません。OK、であれば、ぜひ裏ビデオをも擁護してもらいたく存じます。いやあるいは、AVのモザイクを取っ払う方面の主張も重ねてお願い申し上げます。もちろん、別の「線引き」を提示する必要がありますが。

すごく嫌な言い方をしますが、AV界は今回の件を格好の試金石と見ているはずです。
「彼女の頒布したものは性器そのものではない。ネガやビデオデータとは異なる」という擁護派の主張が通るならば、AV界は新たなマーケットを生み出せる。すなわち、「有名女優の性器データを堂々と売れる」ことになるからです。元手が安く住む分、それなりに大きな利益が生まれることでしょう。くどいですが、それが芸術かどうかなんて話には何の意味もない。
 あるいは、女子大生やOLがちょっとしたこづかい稼ぎに、性器のデータを売るなんていう新たな地下マーケットもつくられることでしょう。顔を隠して匿名性を保持しつつ、顔以外の身体データを売って金を儲ける。そういったことも問題ないわけです。
 今回の件で彼女を擁護するのであれば、そういった可能性ももちろん許容する必要があり、そうした商品が定着しても一切問題ない、と宣言することになります。フェミニズム的に彼女を擁護する向きもあるようですが、この点ご一考いただくのがよろしかろうと思います。今ここで彼女を擁護すれば、性の商品化はいっそうその土壌を広めます。ぼくとしてはそれでも何も問題ないですが、フェミニスト的にどうなのかは疑問です。

彼女の逮捕が不当かどうか、ぼくにはわかりません。3D用データが性器そのものか、ぼくには結論できません。ただ、逮捕が不当であると主張する場合は、その影響も加味したうえでのほうが、よろしかろうと思います。

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