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 ふと思いついた疑問の答えが、なかなか出なくて困っています。
 
 最近はAV問題について頭巡らすことが多くなっているのですが、そこに児童ポルノの問題も絡んできたりして、少しややこしさを感じたりもしています。

 ぼくは「表現の自由」を重んずる立場です。
 他者の人権を害しない範囲で、表現は許されるべきと思う。それゆえ児童ポルノについても、たとえば18歳以上の女優が演ずる小中学生のAVがあってもいいと思うし、「非実在青少年」をレイプする漫画があっても、その存在は許容されるべきだと思う(褒められたものかどうかは別として)。後の話を円滑に進めるため、それらをひとまず、「虚構的児童ポルノ」と呼ぶことにします。一方、マイノリティに対するヘイトスピーチ(ヘイトクライム)については、その属性を持つ人々の生活を脅かすものとして、反対の立場です。朝鮮人死ねとか、中国人帰れとか、そういう表現はなくすべきであるとぼくは思うのです。

さしあたり、4つの立場に分類すると、
①虚構的児童ポルノも、マイノリティへのヘイトスピーチもOK
②虚構的児童ポルノはOK。マイノリティへのヘイトスピーチはNG
③虚構的児童ポルノはNG。マイノリティへのヘイトスピーチはOK
④虚構的児童ポルノもマイノリティへのヘイトスピーチもNG

Q1.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?


 ①は表現の自由の原理的肯定派。④は積極的表現規制派。
ぼくは②の立場です。③という人がどういう人かはある意味で興味があります。
②の立場の人というのはそれなりに多いのではないかと、勝手な印象を抱いています。
そしてこの文章は、①と②の人に向けて書いています。

 はて、とここで立ち止まる。 

では、次のようなAVや漫画があったらどう反応するか。

A.「在日朝鮮女を集団レイプ!」   B.「身体障害者を拷問陵辱!」

 正直に言えば、そんなタイトルの作品を目にしたら、ぼくは大いに顔をしかめ、眉をひそめ、唾を吐きたくなるし、あってほしくないと思う。さて、上で①や②を選んだ人は、ここでどう反応するのでしょうか? もちろんそれは、あくまで「虚構的」なもの。本当にそういう人々ではないと仮定します。

 ここで、立場を整理します。虚構的児童ポルノをOKとした人に尋ねます。

①AもBもOK
②AはOK。BはNG
③AはNG。BはOK
④AもBもNG

Q2.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?

 ①を選んだ人に訊くことはありません。徹底した表現の自由肯定論者でしょう。②や③の人はなぜそこに線を引くのか、興味があります。ぼくは④です。

 さて、ぼくはここで困ってしまう。
「レイプ表現や虚構的児童ポルノを許容しつつ、民族的マイノリティや障害者を対象とするポルノを許容しない」という立場は、何か正当な理屈を持ちうるのだろうか?

 当然、そこに絡んでくるのは差別という問題。マイノリティや障害者は、社会的に差別されやすい人々です。彼らを対象とするのはよくない、という意見がまずはある。

 でも、ぼくが例としてあげた架空の作品は、差別を煽動する内容ではない。あくまでもポルノです。「日本人の成人女性をレイプする作品」はよくて、「在日朝鮮女をレイプする作品」は駄目なのか。なぜそう言えるのか(「朝鮮女」の表現が気に入らないなら、「韓国人女性」でも結構です)。「実際のレイプを誘発しかねない!」という意見であれば、レイプAVや虚構的児童ポルノにだって当てはまってしまい、表現規制派と同じ。

 幼女のレイプはよくてAやBは駄目だというのは、どうしても弁護が難しいような気がしてしまうのです。幼女も民族的マイノリティも社会的、生得的少数派だし、幼女も障害者も庇護を必要とする人々です。虚構的児童ポルノをよしとしたうえで、ぼくたちはQ2の④という立場を果たして取りうるだろうか? ①の立場以外で、表現の自由を語りうるのか?

 もう少し掘り下げます。
 レイプではなく、そのものずばり殺人だったらどうなのか? 
 現実の世の中でも、小学校や施設に押し入り、虐殺する事件が過去に起きている。
 
 思考実験として考えてみてください。

A.「女子小学生をレイプ!」 B.「女子小学生を殺害!」
C.「在日韓国人を殺害!」  D.「障害者を殺害!」

 もちろん、すべて架空の設定の作品です。
 さて、Aだけを許すという理屈は成り立つか?
レイプと殺人に、軽重をつけて語っていいのか? BとCとDに差異はあるか?

 さまざまな問いを投げてきたのですが、ぼくには明確な答えが出せずにいます。
 あるいはぼくがここで述べたことは、既に表現の自由/規制論議で語られ尽くしているのかもしれませんが、AV問題を契機にあらためて考えてしまったのです。

 HRN的な、「エロいものは全部駄目だ!」な人たちには必要のない問いでしょう(個人的には、反応頂かなくて結構です)。かたや、ヘイトも含めたあらゆる表現を許容する人たちにも必要ないでしょう(この問いについて悩むまでもないでしょうから)。

 ぼくがお相手したいのは、そのどちらでもない人たち。
 表現の自由を重んじるからこそ、その内省を求められる人たち。

 さて皆さんは、表現の自由というものにどう向き合うのでしょう?
 とりわけ訊きたいのは、Q1で②を選び、Q2で④を選ぶ立場について。果たしてそんな立場は成立するかということ。

この仮定はまったくあり得ないものだとぼくには思えない。もしも虚構的児童ポルノを許容するなら、それ以外の作品群も出てきかねない(もしかしたら既に流通しているかもしれない)。その状況がもしやってきたら、どういう構えをとる? 一時期流行ったサンデル教授じゃないですが、この問いは多分に社会哲学的なもののように、ぼくは勝手に思うわけであります。

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 伊藤和子弁護士率いるHRNがこの半年ほど、AV規制にまつわる活動を活発化させています。その報告書にはDMMの名前も挙げられ、我が愛する恵比寿★マスカッツとも決して無縁ではありません。既に多くの方々がHRNの問題点を指摘していますが、あらためて今回、「HRNには人権を守る気などさらさらない」ことがはっきりしたように思います。一般に示された報告書には数多くの問題があるのですが、すべてに触れるのはどうにも難儀であります。端的な事例をもとに、「HRNには人権を守る気がない」ことを指摘したいと思います。

 前提として申し上げますが、かねてより彼らが問題視するAV強要、そして児童ポルノというものは、それ自体許されるべきものではありません。ゆえに、彼らが本当にAV強要被害をなくしたいと考え、真摯に児童ポルノ問題に取り組む団体であるのならば、僕はその活動を応援したいと思います。被害者の人権は守られるべきものに相違ありません。ところが実際、彼らのなしていることはまるで真実性を帯びず、真摯に人権問題に取り組むものとは到底言えない。そのことを述べていこうと思います。ありていに言えば、HRNは人権の敵と言わざるを得ない状況です

 9月5日付で発表された報告書では、「児童ポルノ」についての問題を取り上げています。児童ポルノとは簡単にいって「18歳未満の少年少女を被写体とする、性的要素を含んだ事物」のことを差します。ところで、それが18歳未満を連想させつつ、実際は18歳以上の出演者である場合はどうなのでしょう。あるいはそれが漫画の場合はどうなのでしょう。この点においては議論の余地を残すところかもしれませんが、HRNはそうしたものも広義の児童ポルノに含めようとしているようです。オーケー。わかった。だったら、その目線でとりあえずは考えてみましょう。HRNの目線に立ったうえで、HRNの問題点を指摘しましょう。

 さて、9月5日付で発表された報告書においては、HRNは複数のAV作品を取り上げ、「児童ポルノの疑いがある」ものとして示しています。その作品はタイトルに「小学生」などと銘打ったものであり、なるほど字義通りに受け取れば、悪辣な児童ポルノということになります。実際は成年の出演者であっても、「小学生」であることを強調するのは、もしかしたら問題のあることかもしれません。オーケー。HRNの言うとおり。仮にそうだとしましょう。

 その点を加味しても、この報告書には、非常に大きな問題があります
 一般向けの報告書は伏せ字になっているものもありますが、十分に作品名を特定できるものも複数掲載されています。ちょっと検索すれば、数秒のうちにどの作品を差しているのかわかってしまいます。
 そういえばHRNは今年に入ってから、AV強要について盛んに主張していました。強要被害を受けた女性に寄り添い、その個人名も作品名も公表しない方針を貫いていたはずです。それがなぜここにきて、すぐに作品名がわかるような報告書を出したのか。
 
 その作品に出演した女優が、強要被害を受けた可能性はないのでしょうか。HRNが本当に強要問題に真摯に取り組んでいるのなら、真っ先にそのことに配慮を向けるはずです。そして強要被害を受けていたと判明したら、作品の名前は出すべきではない。少なくともHRNは、そのような方針でいたはずです。

この一点を取ってみても、彼らは強要被害について真剣に考えてなどいないのが、はっきりしています。また、もしも本当に児童ポルノであるならば余計に問題であり、彼らは18歳未満の出演者を特定できるような報告書を仕上げたことになります。
 
 いや、待てよ。そうか。なるほど。

 HRNはきっと、当該作品の出演者に関して年齢などの調査を細かく行い、強要被害もないと断定したうえで、報告書に作品名を挙げたのでしょう。そうでないと、ことの筋目が通りません。あの大変高名で聡明なHRNが、いい加減な団体だということになります。まさかそんなはずはない。

 ところが。

 実際はその形跡がまるで見られないどころか、むしろ報告書において、出演者への聞き取りなどなんらしていないことが明らかになっています。ある作品については成年の女優であることが判明していますが(ド素人が一分もかからずに確かめられます)、HRNは実在も不確かな小児科医の診断として、「小学校高学年の可能性もある」などと表記しています。

 と、いうことは。

 HRNは作品名を特定可能な形で表記しつつ、出演者の情報も特定できていない

 と、いうことは。

 その女優が「強要被害者であった場合の二次被害」の可能性も考慮せず、「仮に18歳未満であった場合の二次被害」も考慮せず、そのうえで出演者を特定できる形で、報告書を出したことになります。人権被害に加担する可能性があるわけです。

 だとすると、きわめて残念な結論が導かれる。
 HRNはAV強要問題にも児童ポルノ問題にも、真剣に取り組む気がないということです。人権を守る気がないのです。そのくせいっちょまえに、「児童の権利を考えて」などと言い、「出演者の二次被害、法令違反を防止するため」、出演者の情報を非開示にする、などと言っている。というかそもそも、本当にその気があるならば作品名を出すべきではない。AV強要についても、彼らには被害者を救う気がないというのは、以前の記事で述べたとおりです。

 こういういい加減な団体があると、本当に真面目に活動している人権団体にとっても有害でありましょう。だからこそ、HRNは人権の敵なのです。まるで、差別が目的のくせに愛国を標榜するどこかの保守団体のように。

この手の連中がいちばんたちが悪いと、個人的には思います。本音は別のところにあるくせに、さも立派な大義名分を掲げて活動し、いかにもそれらしく振る舞う。しかし根底のところで真摯ではないから、いたずらにそうした主張自体のイメージを毀損し、本気でその問題を考えている人々の邪魔になる

 なぜ堂々と言わないのか。
 ポルノが嫌いだ、ポルノを規制しろと堂々と言えばいい。ハードなポルノは嫌いだから規制しろと言えばいい。成年であっても漫画であっても、児童を連想させる表現は全部駄目だと言いたいなら言えばいい。表現の自由を縮めたいと、堂々と言えばいい。

 ついでにレイシストもそうだ。愛国とか保守とかそんな笠を着なくても、差別が目的なら堂々とそう言えばいい。自分が本当に真剣に心から差別をしたいなら、その態度を表明すればいい。それでどんなに批判されても、自分が正しいと信じるならその道を行けばいい。

 おわかりか。

 彼らは自分自身の主張に対してさえ、真摯ではない。
 彼らは自分自身の欲望に対してさえ、真摯ではない。

 HRNは、一刻も早くあのいい加減な報告書を取り下げるべきです。人権問題にとって邪魔です。HRNは「いいかげんな団体が人権問題の邪魔をしている」ことについて、真剣に取り組むべきです。

 DMMもDMMだし、IPPAもIPPAです。ひとまず引くのはいいとしても、相手はいいかげんな主張で突っかかってきただけなのだから、ちゃんと毅然と対応してほしいものです。

 まだまだ問題点は多いのですが、全部書くのはあまりにも難儀なので、この辺で。

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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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