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 辺野古の基地新設工事が進められる沖縄。沖縄が抱えている米軍基地問題には右派、左派ともに、自派を顧みる必要があるように思います。

 まず、そもそもどうして沖縄に基地が必要なのか。という話を紐解いていけばそれこそ戦後史自体を振り返ることにもなるので、ここでは避けます。今現在、なぜ基地が必要かと端的に問えば、その答えは「海洋進出を例とする、中国の膨張政策に備える」というものになるでしょう。北朝鮮有事というのもありますが、やはり中国の存在が大きいわけです。尖閣諸島の一件を取っても明らかなわけですし、中国が今後の外交を改める兆しはあまり認められません。

 だからこそ、抑止力としての米軍基地が必要で、沖縄には基地がある。
 政府並びに、それを支持する右派は、沖縄の基地を是とします。

 一方、今の沖縄では、米軍基地の存在に批判的な民意が多数派です。国政選挙を見ても、現在の翁長知事が選ばれているのを見ても、沖縄の意思としては、基地負担の軽減を求めるものになっています。共産党、社民党、自由党をはじめとして、左派の陣営は辺野古基地、あるいは高江のヘリパッド建設に異議を唱えています。

左派への問い
 さて、しかし、左派はここできちんと考えねばならないと思います。
 右派の疑問に、きちんと答える必要があります。

 米軍基地なしに、中国の海洋進出を防げるのか?

 ここについて右派を説得できない限りは、基地建設の反対運動が力を持ちません。中国が攻めてくるわけないじゃないか、と言われても、実際に尖閣への威嚇的な行動は確認されているわけで、中国に対する脅威というものを右派は感じている。なればこそ、彼らを説得できるような、安心させられるような論を立てない限り、基地反対の主張は現実味を欠いてしまう。お花畑だ、などと揶揄される原因のひとつは、その点にあろうかと思います。

 これは沖縄のみならず、国防全体にまつわる議論にも言えます。日本共産党は日米安保の破棄のみならず、自衛隊の縮小をも主張している。ではどうやって国を守るのかと言えば、平和外交への努力だと言う。なるほど確かに、平和外交はとても大事です。しかし、そのためには卓抜した外交能力が問われるわけだし、外交とは相手方の意見もあるわけですから、こちらの努力だけではなかなかうまくいかないというのもまた現実です。だからこそ、右派は防衛費の拡大路線を是とするわけです。平和外交がどのようにして可能であるか、ということに説得力を持たせられなければ、やはり右派の納得は得られません。

「米軍基地が要らないっていうけど、それで中国を抑えられるのか? どうしてそう言えるんだ?」

 中国に怯える右派の恐怖。これを取り除く論理を、左派は構築する必要があると思います。

右派への願い
 さて、問題があるのは左派だけではありません。

 そうは言っても、沖縄の民意は米軍基地反対という点で、はっきりとしているのです。むろん、国防は国全体に関わることですから、沖縄だけの民意をくみ取るわけにはいきません。しかし他方、彼らの民意は民意として尊重する必要も、ないわけではないのです。
 この点について、右派は向き合わねばならないと思います。
 
 大きく言って、右派は次の三つの点に留意する必要があります。
 ① 米軍の存在によって、領土、領空を奪われている現状。
 ② 米軍なしでは日本を守れない、という現状。
 ③ 米軍基地の存在は、沖縄の民意に反しているのだという現状。

 「自国は自国で守る」というのが、本来主権国家としてのあり得べき姿であろうと、ぼくは思います。つまり、①と②というのは、本当のことを言えば好ましいものではないのです。それは理念の問題だけではなく、現実的なことでもある。米兵に日本人が蹂躙されたり、航空訓練の騒音で住民が辛い思いをしたりというのは、まったくいいことではありません。

 この①②を踏まえた上で、③に絡むことですが、ネットにおける右派の主張などを見る限り、逡巡が足りないように思えます。「ニュース女子」の問題でもそうですし、翁長知事に対する評価などもそうですが、基地に反対する人々を嘲弄するような発言が、目についてなりません。

 右派に必要なのは、左派を嗤うことでも潰すことでもない。
沖縄の人々が納得できるように、寄り添う態度です。
 そして右派であるならば、自国を自国で守れずにいることについて、忸怩たる思いがあってしかるべきです。

 沖縄では基地を要らないと言っている。でも、地政学的に見て、防衛上の観点から見て基地を置かざるを得ない。その矛盾に悩む態度が右派に欠けているように、ぼくには見えるのです。

 「本土の人間が負担を押しつけてしまって申し訳ない。でも、どうかここは折れてくれ」というためらいの気持ちが必要であるし、また同時に、「基地を負担してくれてありがとう」という感謝の思いがあってもいいはずです。米軍に対して「思いやり予算」を払うのなら、同じ日本の人々に対して、そういう思いやりがあってもいいはずです。少なくとも現段階で、政府は右派の主張どおりに事を運んでいる。左派に対して怯える必要はない。だからこそ、基地に反対する沖縄への思いやりの気持ちとか、慰めの気持ちとか、そんな情を抱いていいはずなのです。

 基地に反対している人の言動に、いっさい問題がないとは言いません。しかし、右派が寄り添う気持ちを失い、ただ黙って受け入れろと押しつけるような態度では、彼らが反発を覚えるのも無理からぬ話です。右派は先に述べた①②③を忘れるべきではないのです。

 左派が基地を除去したければ、右派の不安をも取り除く論理と戦略が必要です。
 右派が沖縄の反対を鎮めたければ、①②③の事実を胸に留め、納得を得られる語り方をすべきです。

現実に理想を
 おまえはどう思うのかって?

 ぼくは、沖縄の米軍基地をなくすべきだと思います。
 しかし、国防も必要なので、沖縄の米軍基地に変わる抑止力を持つべきだと思います。
 そのためには憲法九条を改正の上で、対地攻撃能力を持つ自衛隊基地を、沖縄に置くべきだと思います。米軍ではなく、自衛隊が守る。①②に処するための回答です。

 むろん、日米安保は必要です。しかし、考えてみてください。
 アメリカにとっていちばん大事なのは、日本を守ることではありません。
 彼らにしても中国の海洋進出は脅威であり、そのために日本を防衛の砦としているのです。なればこそ、日本はもっと強気に出ていいはずなのです。
「俺たちなしでは中国から国を守れないぞ!」とアメリカに言われても、強気に出られるように、九条を改憲して自衛隊を強化する。
 そのうえで、「アメリカさん、海洋線を守りたいのはあんたらも同じだろ、日本に協力しろよ」と言えるようにする。肝心な部分を忘れてはいけません。日本はアメリカに守ってもらっているけれど、一方で、アメリカは日本によって中国の海洋進出を止めたがっているのですから。利用する狡猾さが必要なのです。尖閣への安保適用なんてのは、アメリカの戦略として当たり前の話で、それで喜んでるのは情けのない話なのです。

 当然、そんなことは一朝一夕にはできない。何年もかかることです。
 しかし、理想を持った現実主義と、理想のない現実主義は違う。
 他国に国防を頼って何のためらいもない右派は、志のない現実主義です。
 フィリピンのドゥテルテは米軍との同盟関係について問われた際、「自分は他国の軍人がいない国を目指したい」と言った。それこそが右派の取るべき思考です。
 ドゥテルテには賛否がつきまといますが、この点については正しいと思います。
 理想に現実を、現実に理想を。
 
 ちょっと格好いいことを言って、今日はこれまで。

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 昨今、巷に広まった言葉として、「フェイク・ニュース」「ポスト・トゥルース」といったものがあります。さらには「オルタナティブ・ファクト」なる言葉まで生まれる状況でありまして、とかく「真実に触れる」ことが困難な時代であるなあと見受けます。


カスタム・ファクトとは何か?
 一昔前はマスメディアが世間の情報を独占できたものでありますが、今ではひとりひとりがメディアの時代となりまして、「マスコミは本当のことを報道していない」「ネットに真相が書かれている」という論調がそこかしこに生まれるようになりました。

 この手のことで騒がしくなるのは、とりわけ政治の世界でございます。昨年のアメリカ大統領選が好例でありましょう。ネット情報自体が政局を左右する時代にあって、ニュースひとつ、情報ひとつが武器になる。真偽不明の情報がもとから溢れていることに加え、フェイクであっても有利に事を運べばそれでいい、と考える不届き者が出てきて収拾がつかなくなり、いやはや何が真実なのかと、まことに頭を抱えたくなる時世でございます。

 この状況を表す言葉が「ポスト・トゥルース」だったのかと思いますが、ぼくなりの表現で言うならば、現代は「カスタム・ファクト」の時代ではないかとも考えます。今回はこの「カスタム・ファクト」という概念を掘り下げたく思います。

 初めに言っておくと、この言葉はぼくが思いつきででっち上げた単語です。英語的には「カスタマイズド・ファクト」「カスタムメイド・ファクト」などというほうが正しいのかも知れません。意味はと言えば、「趣味に応じてあつらえられた真実」とでもなりましょう。「セレクテッド・ファクト」という言い方も適当かも知れません。

カスタム・ファクトの誘惑
 先に要点を述べてしまいますが、人というのは何につけ、「信じたいものを信じる」のですね。既に言い尽くされた表現ですが、ともかくも人というのは自分好みの真実を選ぶ習性があるのです。

 現代では何が本当で何が嘘なのか、あるいはどれほどまで辿れば正しい理解に辿り着けるのか、非常に見極めが難しい。そこまでにいろいろな情報を吟味しなくてはならないし、うっかり信じ込まないように絶えず疑いと警戒の気持ちを持たねばならない。はっきり言ってそれはとても手間が掛かるし、疲れるし、そもそもそれだけの手間を費やしても「本当の本当」に到達できる保証などない。人が信じたいものを信じてしまうのも、まあ致し方のない状況であります。

 そうなった場合、人が選ぶ合理的な行動は何か。
 自分にちょうどいい、ないしは収まりのいい、気分的に好ましいファクトを飲み込むということです。そうしないといつまでも精神的に落ち着かないからです。

 裏を返すと、人は精神的な安定を得るためなら、本当に事実かどうかというのをまさしく二の次にしてしまうわけです。別の人が真相として提示するものがあっても、精神的に不安定になる以上は受け入れたくない。そう考えた場合、人が「カスタム・ファクト」を見出すのは、とても自然なことなのです。

 カスタム・ファクトを選択し続ける限り、精神的には安定します。なにしろ耳心地のいいものだけを選ぶわけですから、不快な思いはせずにすむ。たとえ偏見がないつもりでも、人は確証バイアス、認知バイアスに絡め取られやすい生き物でありますから、自分でも気づかないうちに、好みのファクトのみを選び続けたりもするでしょう。

 特に現代の場合、カスタム・ファクトをつくりやすい時代です。ネット広告にしてもアマゾンのお薦めにしても、そのユーザーの好みをコンピュータが読み取ってくれる。こちらが頼みもしないうちから先回りして、好きそうなものを教えてくれる。過剰なまでのサービスが、考える前に答えを与えてくれる。特殊な趣味であっても、ネットの世界を一歩踏み出せばどこかしらに同好の士を見つけることができ、自分と意見を同じくする人たちが頼もしさを与えてくれる。くれるくれるくれる。

 ひとりひとりがメディアになれる現代は、ひとりひとりが自分に最適なものを選べる時代です。古く昭和の時代はケータイもなく、テレビも家族に一台しかなく、好きな番組が見られずに仕方なく家族の好きな番組を横で見ていた、なんて風景もあったわけですが、そんな話は今ではほとんど聞かなくなった。誰でも、自分好みのものを選べます。多少お金に余裕があれば、ネットでお気に入り商品をいくらでもゲットできる。

 さて、そうなった場合、情報もまた個人用にカスタマイズされるのは、むしろ自然なことでありましょう。事実かどうかよりも、いかに好ましいか、いかに精神的に安定できるか、そちらの優先度が高くなっても、何も不思議ではないわけです。

 だから、ぼくは言うのです。現代が、カスタム・ファクトの時代であると。

カスタム・ファクトの表れ
 しかし、この状況には危険性もつきまといます。
 信じたいものだけを信じることが可能な状況を突き詰めていくと、そこには(原理的な帰結として)カルトが発生します。真実かどうかが二の次である以上、居心地の良さをひたすら求めていけば、カルト的な狂信性に辿り着くのは時間の問題となる。むしろ居心地の良くない情報が、その人の背中を押しさえするでしょう。

 既にその兆候は、ネットのそこかしこに見受けられる。
 この文章を書こうと思いついたのは、あるネット動画がきっかけです。
 固有名は伏せますが、たとえば次のようなことです。

 あるテレビ番組がありました。その内容にデマや虚偽、いいかげんな報道が多く含まれているとして、抗議の声を上げる人(A)がいました。
 ところがその抗議に対して、「言論弾圧だ!」と食ってかかる人間(B)が出始めました。

 Aは「デマを訂正してくれ」と言っているに過ぎないのですが、Bにはそれが通じない。なぜなら、Bにとってその番組内容がデマではないからなんですね。「カスタム・ファクト」のなせる業です。Bとしては番組内容を十分に事実だと信じているので、Aの要望が「言論弾圧」という概念で捉えられてしまうわけです。

 むろん、Aが絶対に正しい保証もない。同時に、Bが正しい保証もない。
 それぞれが「カスタム・ファクト」の世界に生きている。

 これを解決する方法はただひとつ、双方が話し合い、双方が納得しうるファクトを導き出すことしかありません。逆に言えば、それができさえすれば、簡単に解決できるわけで、ある意味ではとても単純なことなのです。
 しかし、それは実際のところ、容易ではありません。
 いや、それが実は、本当に難しい。

 なぜなら。

 人は信じたいものを信じてしまうからです。

 ファクトよりも、カスタム・ファクトが尊いと信じ、そう振る舞ってしまうからです。

 現代において、カスタム・ファクトの誘惑を絶つのはきわめて困難だとつくづく感じる次第です。

 そしてこれもまた、ぼくなりのカスタム・ファクトなのかもしれません。

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 大阪の「森友学園」という学校法人が、近頃何かと問題になっているようであります。
 園児に教育勅語を暗唱させたり、軍歌を歌わせたりということで注目を集めた「塚本幼稚園」が、その進学先として設けようとしている学校が「瑞穂の國 記念小學院」。その土地購入に際して、不当に安く払い下げたのではないか、という疑義が持ち上がり、国会でも質問が繰り返されています。
 
 その細かな経緯については他に譲るとして、ここでは、ネット上に見られる多くのリアクションについて、考えてみたいと思います。この件についてツイッターなどを見ますと、批判する側、その矛先を逸らそうとする側に別れている印象を受けます。大まかに言って、いわゆる「左翼」の側が問題視しており、「右翼」の側が追及を嫌っている感じです。この辺の振る舞いについて、気になることをつらつらと述べてみます。

渦巻く「ホワットアバウティズム」
 これはつい最近知った言葉で、ぼくの中での流行語になっているのです。皆さんはご存じでしょうか。
ホワットアバウト。英語で書けばWhat about. 「~についてはどうなんだ?」というときの言い回しです。
You criticize them so loudly, but what about that?
[君はこの問題についてうるさく言うけどね、じゃああの問題はどうなんだ?]

 お見受けする限り、今回の問題について、いわゆるネトウヨ系の人たちは、このホワットアバウティズムを多用しています。
「じゃあ朝日新聞の土地はどうなんだ?」「じゃあ大阪の朝鮮学校はどうなんだ?」「じゃあ国会の無断欠勤はどうなんだ?」「他にももっと審議すべき問題がある!」
 実際に、ツイッターで検索をかけてみてください。ホワットアバウティズムの例を、実に多く見つけることができます。

「ホワットアバウティズム」の誘惑と実態
 実は、このやり方というのは、いちばん簡単なんです。かく言うぼくも、過去にこのブログやツイッターにおいて、この手の言い返しを使ったことは何度もあるわけです(その点の自戒の意味でも、この文章を書いているのです)。
このやり方は、非常に便利です。なぜなら、防御と攻撃を同時に行えるからです。
 自分サイドの問題について突っ込ませず、なおかつ相手の弱みを突ける。一挙両得の手法であり、たいへん使い勝手がいいのです。これは何も、今回の森友学園の問題に限らない。とても広範に使われる手法で、相手を煙に巻きたいとき、実に重宝します。


 しかし、この手法には問題があります。
 なんというか、建設性に乏しいのです。
「おまえサイドにも問題があるのだから、この件について触れるな」という態度は、根本的な解決を生みません。「お互いに探られたくない腹はあるだろう」と、クリンチに持ち込んでやりすごす態度は、何も発展性がないのです。ゆえにこの手法は、「その場の論議に負けたくない」場合に絶大な効果を発揮する反面、あまり建設的な議論を生み出さないのです。このホワットアバウティズムという手法を煎じ詰めると、実に意味のないやりとりに行き着きます。

A「○○は問題だ! 追及するぞ!」
B「ふん、じゃあ、地球規模の環境汚染についてはどうなんだよ?」
A「は?」
B「おまえの扱っているのは所詮は小さな問題だ。この世界には大きな問題が横たわっている。地球規模で進む環境汚染について論議せず、そんな小さな問題にこだわるのか? もっと論じるべきことはあるはずだ!」

 ちょっと飛躍的に映るかも知れませんが、ひたすらホワットアバウティズムで矛先をかわしてみてください。ホワットアバウティズムを多用していくと、(それが環境問題かどうかは別として)最終的には実りのない部分に辿り着いてしまうのです。

「○○について批判するんですね。じゃあ、××についてもお願いします」というのは、どこかで一度くらいは見覚えのある言い回しでしょう。
 しかし当然ながら、人や組織の動ける範囲には限界があります。すべての問題について平等に追及することなどできません。
 だからこそ、それぞれがそれぞれの問題意識の中で、追及していけばよい。ホワットアバウティズムで逃げていては、ある問題についてきちんと取り組むことができなくなります。「じゃあ××についてもお願いします」というなら、「じゃあそれは君がやってね」で終了です。
 ホワットアバウティズムを仕掛けて、言ってやったとにんまりするのがゴールというのは、どうにも発展性に欠ける論議です。

これは誰の問題なのか?
 さて、ここで冒頭の森友学園問題について戻りますけれども、ぼくにはとても大きな疑問があります。なぜ右派は、あるいはネトウヨ系の方々は、この問題について触れるのを避けたがるのでしょうか? ホワットアバウティズムで逃げたがるのでしょうか?

 今回の件では、いわば「愛国」的な学校法人が問題となっています。であればこそ、日頃「愛国」とか「日本が好き」とかってことを言明なさっている方は、なおいっそう批判すべきなのではないでしょうか。なんなら左翼の方以上に、「愛国者を騙りながら、いいかげんなことやってんじゃねーぞ」と、息巻いてもいいはずなのです。

 問題となっている学校法人が、国家の財産たる国有地を不当に安く購入した疑いがある。
 その法人の幼稚園では、登園する園児や保護者に対して、虐待的・差別的言動を行っていた疑いがある。なればこそ愛国者は言うべきであります。「愛国者の面汚しが!」と。
 民進党や共産党など、「愛国者」の方々が「反日」と罵る相手に任せるのではなく、「愛国者」の筆頭たる自民党のほうこそが、この問題を激しく追及してもよさそうなものです。「日本政府の代表者たる安倍首相の名を使って、疑われるようなことをするな!」と、威勢良く森友学園に突っかかってもよさそうなものです。
 
 しかし、それはしない。やるのは、ホワットアバウティズムの繰り返し。
 ぼくには本当に、その一点がわからない。
 この問題を、朝日新聞や民進党になど扱わせるのではなく、産経新聞や自民党といった「愛国」的組織にこそ糾弾の先頭に立ってもらいたいし、ネトウヨ系の皆さんも怒りにたぎるべきなのです。しかし、それはしない。本当に、なぜなのでしょう?
 これは徹頭徹尾、愛国者の問題なのです。民進や共産や朝日新聞ごときに、先鞭をつけられてどうするのです。
 
憲法改正、教育無償化の問題
 近頃に進んでおります憲法改正論議。その重要項目のひとつとして、教育無償化というのが上げられております。法律で整備できるのだからそれでいいんじゃないかと個人的には思うのですが、自民党、日本維新の会、民進党細野グループなどは、「教育は国の柱」と考え、法律ではなく憲法に書き込むのだというお考えのようです。

 なるほど、実に高邁な考え方です。
 
 はて、そうなるとぼくには疑問です。それほどまでに教育に熱心な各党の方々が、どうして今回の問題、それも「愛国」を旨とする学校法人に関して、ほおかむりを決めているのでしょうか。そのような学校で差別・虐待的言動があったなどとすれば、教育無償化の憲法改正を進めようというほど熱心な方々は、いの一番に注視すべき問題でありましょう。国を愛するなどと言いながらそんないいかげんなことをしているのか、獅子身中の虫ではないかと、誰よりも早く駆けつけて、事態を精査すべきでありましょう。

 だが、断る。それはしない。

 なぜなのか。
 合理的に考えると、実に恐るべき結論が導かれます。

 自称「愛国者」は、愛国者ではない。
 教育無償化の憲法改正を訴える人間は教育に興味がない。

 領土問題についてうるさく叫びながら、国有地の不当廉価売却を無視。
 教育について憲法改正を主張しながら、教育現場の問題を無視。
 では、彼らは何に興味があるのか。

 自分は国を愛しているのだ! と叫ぶ美しき自己像。
 自分たちの力で憲法を変えるのだ! と叫ぶ逞しき自己像。
 それ以上のものは、何もない。理想の鏡に、現実は映らない。

 まさか、よもや、そんなはずは。そんなはずない!

 でも、実際にそうなんじゃないか?

 最後に
 昨年に発生した相模原障害者施設事件について、先頃、犯人の鑑定結果が公表されました。いわく、「自己愛性パーソナリティ障害」。自分は特別であり、他者に危害を加えても許されるとまで考えたであろう犯人の姿に、今の日本の「愛国」と重なるものを見てしまいます。ニッポンすごい! 中韓は死ね! と叫ぶ、自称「愛国者」の姿と。

 あれ?
 そういえば。
 あの犯人も、「愛国」的な思想に、共鳴していたそうで。


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