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 右翼と左翼、保守とリベラル。政治の話をする際は、とかく立場が分かれがちになります。今回は左右両方の、あるべき姿について考えたいと思います。

 ではそもそも右翼と左翼とは何なのか、なんてことを言い出すと、それこそフランス革命の話だの、日本の特殊性だのというところから振り返らねばなりません。そうでなくても、歴史認識やその他さまざまに違いがあるわけで、ひとつひとつを詳しく見ていく手間は取れません。立場の違いをわかりやすく示すために、ここでは例として、「外国や外国人に対する捉え方」という切り口から捉えてみたいと思います。

左右の違い
 左右の考えの違いを分かつものとして、ひとつに「多文化共生」というものがあります。左は外国人コミュニティも含め、多様な価値観がともにあることを良しとして、そのような社会を推進したいと考えます。右よりも外国人の権利や人権などに寛容だし、外国人の参政権も認めるべきだ、と主張する向きも中にはあるわけです。

 左にとって重要な価値のひとつとして、「平等」という概念が挙げられます。19世紀以降に世界を席巻した共産主義という考え方はまさしく「左」によるものであり、世に溢れる不平等を無くしていこうとするのが、左の大きな重点です。

 そしてまた、特に日本の場合においてですが、左は平和外交を志向する向きが強いです。政党で言えば共産・社民が筆頭であるように、膨張政策を続ける中国に対してもなお、軍事的対立ではなく、平和外交を目指すべきなのだという主張を掲げます。

 つまり左は、国内においては外国人も含め、多様な価値観や平等な権利を志向しつつ、外国に対しては平和的な対話外交を推進しようとする性質があるわけです。

 一方、右はというと、この考えと大きく対立します。
 移民の流入に対して反対したり、外国人参政権に反対したり、中国に対しては軍事的な抑止力を持って備えようとする考えが強くあるわけです。

 右は「保守」とも呼ばれるだけあって、物事が変わっていくことについては慎重な立場を取ります。外国人の増加や権利拡大が、日本の文化や習慣を大きく変えてしまうのではないかと考えるし、日本の輪郭を確固として保つためにも、下手な融和外交はすべきではないと考えます。歴史認識という点でも、特に中韓に対し、 決して譲れない部分というものを多く持っています。そして昨今の場合、中韓の国家性や民族性に対して批判的な向きも大きくなっているし、日本という国家の価値、あるいは高潔さを称揚する人も多くいる状況です。

 さて、ここではどちらがいいとか悪いとか、そういう話をしたいのではありません。
 上記のおさらいを踏まえたうえで、右にも左にも顧みるべき点があるであろう、ということについて、考えてみたいのであります。ネット上の言説ややりとりなどを見ると、どうにも右も左も、自分たちのあるべき姿を見失っているのではないか、と思えてしまうのです。その点に関する指摘を、行っていきたいと思います。

左の問題と取るべき態度
 まずは左です。
 左は、多文化共生や多様な価値観というものを尊びます。たとえ文化や考え方が違っても互いを尊重しあい、ともに住みよい社会をつくっていこうという理念を持っています。そして、軍事的対立ではなく、平和外交の努力を進めるべきだとも考えます。

 そうしたときに問われるのは、異質な他者に対する構え方です。右の人々が外国人との軋轢を憂慮するなら、左はそれを緩和できるように範を示さねばならない。自分と考えの違う人を安易に罵倒したり、嘲笑したりするのではなく、どうすれば共存できるのか(あるいは相手の振る舞いを改めさせられるのか)を考えねばならない。武力によるのではなく、対話による外交が必要だと主張するならば、卓抜した対話能力を示さねばならない。

 要するに左は、他者に対する寛容さについて、右を導くべき立場なのです。それができないなら、異質な他者との共生など無理であると、自分から言っているようなものです。
 また左は、異質な相手との対話力を必要とする立場なのです。それができないなら、対話による平和外交などできないと、自分から言っているようなものです。

 むろんそれは、何から何まで寛容せよというのではありません。そんなことを言い出したら、「移民排斥という立場を寛容せよ」ということになって、主張が通らなくなります。ですから左は、移民排斥を主張する他者に対して、説得的な論理を打ち出す必要があるし、彼らの不安を取り除けるような対話力が求められるわけです。

 しかし残念なことに、今の左はさしたる政治的な力を持っていません。ネット上においても、右の考えを左に溶かし込むような、有効な方策を持っていません。ここが、左にとっての大きな課題なのです。

右の問題とあるべき姿
 右を見ていきましょう。
 右は右で、あまりよろしくない振る舞いというものが確認されます。
  
 昨今に右に見られる振る舞いとして、特徴的なものがあります。それは、中国や韓国に対して嘲笑的だったり攻撃的だったりという振る舞いです。あるいは、日本はすごいのだと自己賛美的になりやすい態度です。左は右に比べると国家意識が強く、同時に自国の文化や歴史を肯定的に捉えるものですが、それがいささか過度に(あるいは歪んだ形で)表出しているように、ぼくには思えるのです。
 
 たとえば、こういう言説があります。「中国人は行儀が悪く、自分勝手である」「韓国人は平気で嘘をつくし、日本を罵倒する」「一方、日本人は礼節を重んじ、相手をきちんと尊重する」。なるほど、仮にそうだとしましょう。

 で、あるばらばです。
 日本人は高潔さを保たねばならないし、誇り高くあらねばなりません。行儀の悪い振る舞いは避けねばならないし、嘘をつくべきでもありません。それでこそ日本人の美徳を示せようというものです。

 しかし残念ながら、とてもそうとは思えない振る舞いも、ネットには数多く見られます。
 決して行儀がいいとは言えない発言や、相手を貶めるようなデマや、相手を尊重しない表現の数々が、「右」や「愛国」を自称する人々の手によって放たれています。 左が自己の取るべき道を歩めずにいるように、右は右で自分たちのあるべき姿を見失っているように思えてなりません。

 他民族を一緒くたにして貶めるような物言いは避けねばならないし、自分たちの主張に間違いがないか、厳しい目で捉え続けるべきです。日本人の礼節を重んじるならば、たとえネット上とはいえ、見知らぬ他人に敬語を欠くなどあってはならないし、謙遜の美徳というものを軽んじてもいけません。相手がどうのとすぐさまあげつらおうとする態度は控えるべきだし、たとえ相手がどうであれ、自分たちに甘くなってはいけません。
 左は戦争を恐れ、平和という題目を唱え、軍事増強や強硬外交に反対する。一方で右は、「戦争が起こってほしいなんて、思っているはずないだろう」「戦争になるなんて考えすぎだ」と反発する。であるならば、右はその正しさを示す意味でも、日頃からつとめて抑制的な振る舞いを、心がけねばなりません。

 左は寛容さと対話力を持つ必要があります。
 右は礼節と高潔さを持つ必要があります。

最後に
 ネットにおける言説や主張、やりとりなどを散見するに、右も左も自分たちのあるべき姿、取るべき態度を、忘れているように思うのです。どちらの立場であっても、自分たちの思想に基づく振る舞いを、忘れてはならないと思うのです。
 右翼、左翼という言葉は暗示的で、「翼」という文字を持っています。飛行機であれ鳥であれ、片方の翼がなくては満足に飛べないし、本来は互いが支え合うべきものであるはずなのです。
 右でありながら左である、左でありながら右である。
 そのようなしなやかさを、失ってはならないように思います。

 おしまい。

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