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「私、日本人でよかった」というポスターが話題になっています。
実はモデルが中国人だった! とかで騒がれる向きもあり、かたや「自国に誇りを持つのは何がいけないんだ」と、批判に抗弁する向きもあります。

 あのポスターに対して、ぼくは否定的です。
もちろん、自国に誇りを持つのは悪いことではありませんし、ぼくだって日本人でよかったなあと思うことは山ほどあります。
 そして、ぼくが好きな日本の美徳に、「謙遜」というものがあります。すごいと言われても、いやいや自分なんてと一歩引いてみせる様が美しいと思うし、それこそが日本人のよさであるだろうとぼくは考えます。

「わざわざ言うのは、みっともねえよ」ってことです。

 たとえば以下のようなポスターや広告があったら、大炎上ないし猛批判を食らうことでしょう。
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 はて、反感を持った方にお訊きしたい。
 美人であること、金持ちであること、天才であること、政治家の家系であること。
 それを誇ることの何がいけないんだ!?

 そう、何もいけなくない。ただ、わざわざそれを言明するのは品がない、みっともないのです。この「みっともない」という感覚がまさしく謙遜の美意識であって、こともあろうに日本文化の要所を担う神社本庁がその感覚を持っていないという点が、甚だしく残念であるなあと思います。

「日本人でよかった」というのはもっと、しみじみと思う深い感覚なんじゃないのかい? 広告のキャッチコピーなどに使うものじゃなく、それこそ神社仏閣の趣深さに触れたり、和食の絶妙な味わいを感じたり、そうしたときにそっと「あぁ、日本人でよかったねえ」と呟いたりするのが、美しさってもんじゃないのかい? 中国人だったとかいうのはこの際どうでもよくて、そういう「粋」な感覚を持たなくなっているのがやばいんです。みっともないんです。

「『日本人でよかった』を批判するなんて、なんて自虐的なんだ」

 違うよ。自虐じゃなくて、謙遜の問題、日本的な美徳の問題だよ。自虐と謙遜の区別もつかないやつのどこが日本好きなんだよ。いちいち声高にそれを口にしないところに、日本の美しさがあるんだよ。ということをわからないやつらが、日本が好きだの愛国だの言っているのだとしたら、正体見たりなんとやらだ。

 あのポスターの問題は、神社本庁ともあろうものが、日本的美徳を忘れていることです。
 みっともない。


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深いテーマが配合されている。描ききれてはいないけれど。
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 ずいぶん前に一作目を観たと思っていたのですが、もしかしたら観たつもりでいただけで初見だったかもしれません。二作目、三作目は観ていないし、そんなに惹かれずにいました。監督の二人は現在、性転換手術をしているので「姉妹」と書くべきかもしれませんが、公開当時はまだ男性名で活動していたので、「兄弟」と書いておきます。

 さて、昨今いよいよ市場に花開くVR=仮想現実ですが、その種のテーマの代表作といえる作品ですね。この現実は本当に現実だろうか、というのはそれこそ古代中国の胡蝶の夢、邯鄲の夢などで言及されてきた哲学的な主題。現実を疑う作品として思い出したのはフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』、それを原作とする『トータルリコール』。このテーマって、言ってみればあらゆる題材の中で、いちばん大きな枠組みの問いですよね。歴史を改変する大事件とか、宇宙を巻き込む大戦争とかよりもはるかに大きい。「ここに存在する自分自身」というものを突き崩す話ですから。

 この手の話には答えがないのですが、自分の実存がふと遊離するような感覚というのは、稀に訪れるものです。あれ? 自分はなぜこの自分なのだろう? 自分の名前で自分は呼ばれるけれども、なんで自分はその名前で呼ばれるのだろう? 自分は今ここにこうしているけれども、ここにいない選択肢もあったんじゃないか? 
 小沢健二が『流動体について』で歌っていたように、「並行する世界の僕は、どこら辺で暮らしてるのかな?」と思う瞬間があったりわけです。あり得ないと知りつつも、街のどこかで別の生き方を選んだ自分に会うこともあるんじゃないか? なんて空想してみたり。

 もっとも、劇中ではそこら辺をそんなに深くは踏み込まず、あくまでアクション映画のストーリーテリング。その点に物足りなさを感じた部分もありますが、この作品はもうひとつ、ふたつのテーマも含みこんでいるので、重層的なつくりと言えるかもしれません。

主人公のキアヌ・リーブスは「現実とされる世界」において、トーマス・アンダーソンとして暮らしています。「本当の現実」ではネオと呼ばれます。「現実とされる世界」は普通の世界なのですが、「本当の現実」ははるか未来、荒廃しきって機械が支配する世界。今までは機械のつくった現実の中を生きていたというわけで、そこから「目覚めた」ことで大冒険に出るはめになるのです。

 観ながらわかったもうひとつのテーマは、『失楽園』です。イギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『失楽園』は近年ならあの『ダークナイト』に通底するモチーフで、日本のアニメ映画ではそのまま『楽園追放』なんてのもありました。
 要するに、「天国で奴隷でいることを選ぶか? たとえ地獄行きでも自由を得るか?」という問題です。「自由」というのを「尊厳」に置き換えると、また別のテーマになります。「組織に従っていれば生活は保障されるけれど、組織の不正を知った以上は戦わなくちゃならない」なんてテーマなら、『セルピコ』とか『フィクサー』あたりが思い出深い。「たとえ賢明でなくても、自分はこの瞬間を戦わねばならない」という話なら、何よりも『ロンゲスト・ヤード』が思い出される。

 本作で言うと、機械の作り出す世界にいたほうが、幸せっちゃ幸せなんです。現実は悲惨きわまるものだし、だからこそ一人の登場人物は中盤、主人公たちを裏切って、仮想世界でいい思いをしようとする。劇中では悪役的に描かれているけれど、あれはあれで十分に取り得る選択ですよね。過酷な現実を生きるなら、支配されても幸せを選ぶというのは、この社会でぼくたち自身が選んでいる生き方でもあるでしょう。本作はハリウッドのアクション映画ですから、そこを掘り下げられなかったんでしょうけれど、あの裏切り者も描き方次第では別に、悪人ではないんです。

 映画の性質上はしょうがないのですが、そこに食い足りなさを感じたのはあります。キアヌ・リーブスは独り身で、ぜんぜん冴えない生活を送っている設定ですが、もしもあれが幸せな家庭を築いているマイホームパパだったらどうか? その幸せな家庭を捨ててまで、あの過酷な現実を生きる価値はあるのか? そういう問いに直結しますよね。まあそれをやっちゃうと観客の共感を得がたくなるので、できなかったのでしょう。でもぼくが観たいのはそっちの葛藤でした、本当を言うとね。

だから見方を変えると、本作の主人公たちって危ない人たちなんです。いわゆる「目覚めちゃった人たち」なので、新興宗教、新左翼的なにおいがしてくる部分もある。「この世界は間違っているのだ! 自分たちが世界を導くのだ!」的な人たちとも言えます。そうならないように、エージェント・スミス側の悪意を設定してはいるのですが、考えてみるとけっこうぎりぎりですね。

 映画の主人公は一応、観客の共感を得るように設定されるのが常道だし、ハリウッドのアクションものなら余計にそうだと思うんですが、この映画はいろんなものをどうにかこうにか固めたうえで、ようやっと共感に足る主人公にしている。キアヌ・リーブスに対して、無邪気に頑張れと言える人は、実はこの映画をちゃんとわかってはいないでしょう。だって、もしかしたらあの船に乗っている人たちのほうが、仮想現実側なのかもしれません。現実を疑う構造であれば、彼らこそが世界を崩壊させようとしている悪魔団の可能性も、完全には排除できない。うん、この手の映画では原理的に、キアヌ・リーブスを絶対善にはできないわけです。そう考えると深みが出てきますね。

 あと、描かれた大きな問題として、『ゼイリブ』問題があります。ジョン・カーペンター監督の映画で、本作にも影響を与えたそうです。あの映画では、異星人が普通の人間として入り込み、人間になりすまして世界を営んでいるんです。悪の陰謀が隠されてはいるんですけど、一応それで表向き、世界は成立している。あの映画のラスト、主人公の活躍で宇宙人の正体が暴かれ、なりすました姿からもとの醜悪な宇宙人に戻るシーンがあるんですけど、それを観てぼくははっとしたんです。悪の陰謀を暴いたとして、責任取れるのか? というね。

 この世界には確かにいろんな悪がある。不正義や不公正さがある。もしもなくせるならそれに越したことはない。けれども、その悪や不正義や不公正さのうえに今の社会はあるわけで、もしもそれらを取り除いたら、社会は混沌としてしまうのではないか? その場合の責任を取れるのか? なんてことも、ちょっと考えるんです。保守と革新の政治的テーマにも通じます。本作でも、一応はあの機械の世界で幸せに暮らしている人もいるはずで、主人公たちがその秩序を乱す側という見方も、成立しはするんです。永久に騙してくれるならそのほうがいいってこともありますからね。真実を暴かないほうが幸せってこともある。この辺の問いはロバート・レッドフォードの『クイズショウ』でも考えたことです。

 映画の中身から離れすぎている感もありますが、作品それ自体の面白みは、特段痺れるものでもなかったです。本作が後世に与えた影響もあるでしょうけれど、今観ればちょっとアレだな、という部分もなきにしもあらず。いちばん引っかかったのは、ネオが銃弾で撃たれまくって一度は死んだのに、「救世主である」というその一点をもって復活してしまうところです。なんじゃそら。現実現実言っておいて、その肝心な部分はぜんぜん現実的じゃないんかい、とつっこみたくなる。ヒロインの「あなたは救世主よ」的な囁きで復活するなら、今まで何を見せられていたのか。そうなるとこの映画で言う現実なるものが疑わしくなるし、あれはアリなのか。チートキャラがちと過ぎやしないか。続編で明かされるのでしょうけれど、この作品を観る限りはそうとしか言えない。ところで、「目覚めちゃった人」たるネオによって、ビルの警備員さんはかなり殺されているのだけれど、彼らに何の罪があったというのか。

 そう観ていくと、主人公=新左翼・新宗教系テロリストのにおいはどうしても残る。預言者に出会うくだりもただ「預言者に会う」というだけのために行動しているので、映画の流れがくたっとして感じられました。

と、文句を言いたい部分もあるのですが、深いテーマをあれこれと含みこんでいる映画であるのは間違いないわけで、映画そのものよりもむしろ、映画を観ながら感じたこと、ふと考えたことを楽しむほうが、多少はオトナな見方と言えるかもしれません。まあ、そんなところで。


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