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アメリカの連邦最高裁で同性婚が合憲とされたそうです。これにより今後全米において、同性婚が認められることになるそうです。個人的にはよいことだと思います。ヨーロッパでも同性婚やパートナーシップ制度が広く認められているし、ここでアメリカにおいても認められたとなれば、日本もまたその方向へとシフトしていく可能性が、高まったと思われます。今年の4月にはこれに先駆け、渋谷区での同性パートナーシップ条例が施行されました。
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日本ではなぜ同性婚が認められないのか。というと、ここには憲法の問題があるように思われるのです。過去に何度かツイッターで述べてきたのですが、今一度ここにまとめてみたいと思います。御意見を賜れればありがたいです。

婚姻にまつわる条文として、日本国憲法第24条があります。

第1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
第2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 公布が1946年である日本国憲法は、婚姻は男女間のものである、という前提のもとに書かれたものでありましょう。言い換えれば、同性婚という概念はそこで想定されていない。「両性」という言い方がそれを示していますし、同性婚の概念があれば「両性」ではなく「配偶者同士」などの書き方がなされるはずでしょう。

 つまり、ぼくはここで考えをはっきりさせておきますけれども、現憲法下において言えば、「同性婚は合憲ではない」と考えます。「婚姻は両性の合意のみに基いて成立」であり、「両性」という言葉の辞書的意味は「男女」であるからです。

 この件につきましては、憲法学者の木村草太さんの御議論が参考になります。ブログから引用させていただきます。
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「憲法24条は、男女が婚姻する場合に、男性の一方的意思のみでは結婚できないこと、
親族会の同意等は不要であることを確認したもの、と理解されています。
 したがって、憲法24条は同性婚については何も述べていないというのが通説的な理解で、たいていの教科書・コンメンタール類でも、同性婚禁止条項だという解説はありません。

*注
 また、憲法24条は同性間で「婚姻」は成り立たないと理解(憲法24条に言う「婚姻」が同性間で成り立つというのは文言上厳しい理解)しても、同性婚契約を「婚姻」と呼んではいけないというだけで、婚姻と効果が同じ「同性婚」という制度を作ることまで違憲ということにはならんでしょう。

「同性婚については何も述べていない」「婚姻と効果が同じ「同性婚」という制度を作ることまでは違憲ということにはならんでしょう」

 なるほど、同性婚というのは「婚姻と効果が同じであるが、婚姻ではない」ということなのでしょう。ここは重要なところです。まとめるなら、

①憲法の文言上でいえば、婚姻は男女同士のものに限定される。
②すなわち同性婚は婚姻ではなく、同性婚は違憲ではない。
③しかし、同性婚は婚姻と同じ効果を有するものとして認められる。

ぼくが引っかかるのが②と③です。「AはBではなく、違憲ではない」「しかし、AはBと同じ効果を有するものとして認められる」。では、AとBは何が違うのか。この論理を許してもいいものだろうか。
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 この点においては、安倍内閣の主張する集団的自衛権行使に似たものをかぎ取ってしまいます。安倍内閣の「『集団的自衛権の行使』は、『日本を戦争する国にすること』ではなく、違憲ではない」としている。しかし、反対派は「『集団的自衛権の行使』は『日本を戦争する国にすること』と同じ効果を有するじゃないか! 憲法違反だ!」と声を上げているわけです。何が違うんだよ、と。

 少しわかりづらくなったかもしれませんが、要するに、「同性婚は婚姻と同じじゃないか! 憲法違反だ!」という論駁を、許し得るのではないかということです。安倍内閣は今、憲法解釈の問題で揺れている。現憲法は同性婚について、同じ事態を惹起しうると思うのです。時代の変化に応じて、憲法解釈を見直し、同性婚を許可する。なるほど、だとするなら、時代の変化に応じて、憲法解釈を見直し、集団的自衛権を許可することにも、一定の正当性が与えられてしまうのではないでしょうか。

 回りくどい言い方はそろそろやめにしましょう。ぼくが最も言いたいことは、とても簡単なことなのです。つまりはこうです。

「憲法24条の改正によって、同性婚を堂々と認められるようにすればいい」

「両性」ではなく、「配偶者同士」に改正すれば、上に述べたようないちゃもんは一切つけられません。「同性婚は婚姻ではない」などと抜け道的に言うのではなく、堂々と「婚姻」であると言えるわけです。

 同性婚推進の立場の人はなぜこれを主張しないのか。ぼくには大変疑問です。
 おそらく、「憲法改正」の論議に踏み入るのが嫌なのではないかと思います。
だから現憲法下で可能な主張に留まっているのでしょう。ですが、その態度はどうも、ことに左派が忌み嫌う「憲法解釈」と同じものに見えてなりません。安倍内閣にぶつけられる批判として、「憲法解釈などの手段をとるのではなく、堂々と憲法改正に踏み切れ!」というのがあります。この文言は、護憲派の同性婚推進論者にも直撃するのではないかと思います。同性婚推進の人たちはなぜ、憲法24条改正に触れようとしないのですか? それが一番の真っ向勝負じゃないでしょうか。

 そして、自民党を初めとする改憲論者が、もしも本当に憲法を変えたいなら、まずはここです。「おためし改憲」だとかなんとか揶揄されている現状がありますが、「とにかく憲法を変えるということをやりたい」だけを優先するなら、24条で先鞭をつければよいのです。24条の改正には、左派は反対できません。ただ、その改正が「保守」の仕事かどうかは、大きな疑問ではありますが。

 ところで、同性婚の推進についてぼくはなんら反対するものではありませんけれども、ひとつだけ気がかりがあります。「同性婚を認めても、社会が壊れたりする心配はないんだ」ということが言われたりしますが、偽装結婚問題はどうなのかと少し疑問なのです。
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 現在の日本においては、外国人の「偽装結婚」が行われていると聞きます。日本人の配偶者と形式だけの「偽装結婚」をする外国人がいるというのです。なぜそんなことをするのでしょう。それは、在留許可の延長や永住権獲得のためです。日本人の配偶者がいると、外国人の在留許可要件、永住許可要件が緩和されるのです。これにより、ただ日本にいたいがためだけに籍を入れる偽装結婚が行われ、その斡旋業者たちが地下経済の一端を担っているというのです。

今は男女だけです。しかし、同性婚を認めると、男性同士や女性同士でもそれが可能になります。単純に、偽装結婚がやりやすくなるのではないかと思うのです。いちいち男女の組み合わせを考える必要がなくなり、障壁が下がり、男性の暴力団員が男性の中国マフィアと取引をする幅を増やしてしまうのではないかと思うのです。中国の黒社会の人間が、日本にいやすくなってしまう可能性を、広げてしまうのではないかと思うのです。同性婚に反対したい人に、論拠のアシストをしてしまいそうですが。

 むろん、偽装結婚問題はそれ自体として対処されるべき問題なので、同性婚に反対する主たる要因にはなりません。しかし、闇の部分を考えずに光ばかりを見るのは、不誠実であろうとは思うのです。

 繰り返しになりますが、ぼくは同性婚の許可に反対ではありません。排外的観点から同性婚に反対するという立場を取るものではありませんし、結婚は個々人の意思によってなされる自由があると強く思います。一方、現在の自民党による集団的自衛権行使には反対だし、現在の自民党による憲法改正にも反対です。

ただ、同性婚の推進について、24条をかわしていこうとする態度は、いささか不思議であるなあと思います。もしあなたが、安倍内閣の憲法解釈に反対であり、なおかつ同性婚許可を認める立場であるなら(これはたぶん多くの人に該当する立場でしょう)、さて、24条にどう向き合いますか?




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 憲法を変えるべきか否かという論議が、とりわけ第二次安倍政権になって以降、そこかしこに見聞きされるようになりました。この件について、あなたはどちらの立場ですかという問いははっきり申しまして、現段階においてそのすべてが不毛であると思います。メディアはこの不毛な問いを、この後もしばらく続けるのでしょう。

 どう変えるかもはっきりしないうちに、ただ変えるべきかどうかというのはあまりにも意味がない問いです。たとえば、どうでしょう。「あなたという人間は、変わるべきではないですか? どうですか? 今の人生は完璧ではないでしょう? 完璧ではないならさあ変わろうじゃありませんか!」と言われても、返答のしようがないのです。だって、どう変わるのかもわからないから。

 どう変えるかもはっきりしていない。という事実は、改憲を進めたい人々の決まり文句に見ることができます。すなわち、「GHQに押しつけられた憲法だから変えよう」というものです。GHQ、ひいてはアメリカによって押しつけられた憲法を、後生大事に守っていては、いつまでも日本は精神的自立を果たせない。自国の憲法を自国でつくるという当たり前なことをやろうではないか。これについては、ぼくもそう思います。やはり自国の憲法は自国の人々によってつくられるのがよかろうと思います。ここにはひとえに、「敗戦国日本」から脱したいという浪漫があるのです。浪漫はとても大事なものであります。

 さて、しかし、それはとても難しいことです。ことによると大変ブザマな事態を招きます。と申しますのも、たとえば「加憲」であるとか「部分的改憲」であるとか、そういったものを果たしたところで、ちっとも浪漫は実現されないからです。精神的自立は果たせないのです。「8日間で作られたものを、戦後70年経って、国内で散々揉めに揉めたあげく、やっと一部分だけ変えたぞ」というのでは、浪漫を抱いた分だけあまりにもブザマ。沽券に関わります。一部分だけやって風穴を開ける、みたいなことをおっしゃる人はありますまい。浪漫が泣きます。

 それなら一字一句変えないほうが、まだ格好が付くのではないかと思います。一字一句変えずに、いつか日本がアメリカを超えるような国になってごらんなさい。いや、ある意味で既になっているわけですね。「戦争で自国民を死なせるようなことがない国」を実現したわけです。これを永久に守り続けることが、護憲派にとっての浪漫というわけです。浪漫と浪漫のぶつかりあいがここにあります。

 だからこそ、「押しつけられた憲法だから変えるべき」派の人たちは、全部変えなくてはなりません。ぼくも究極的にはこの立場です。でも、だからこそ、今の改憲派の人たちには、なんとも頼りない感じがして仕方がないのであります。

 自民党は数年前に、改憲草案を発表しました。あれが結党以来、改憲の志を抱き続けて半世紀以上経った末につくられたものであるとするなら、はっきり言って、憲法を変えるに足る知性のようなものが、完全に欠如していると言わざるを得ません。誰からも文句を言われないようなものはできないかもしれない。でも、改憲したいと願い続けて、できたものがあれでは、本当にどうしようもないではないですか。ある議員はあの草案を「たたき台」とおっしゃっていましたけれども、台が腐っていては立つものも立ちません。

 中身もろくに考えることもできずに、変えよう変えようと言っている下品さ。
 ぼくはここで、ある恐るべき考えを抱いてしまいました。
 彼らは、憲法というものを真剣に考える気がないのではないか?
「なんか憲法っていうのがすげえ大事にされてるみたいだしさ、それ変えたっつったらすごくね? なんか、すげえことやった感じしね?」程度でしか考えていないのではないか? そんなことはないって? 誰が信用するのです。50年掛けてあんなものしかつくれない人たちを。それでいて、「8日間でつくられて押しつけられたものだから駄目だ」などと言っているような人たちを。
 
 いったい、何を急いでいるのでしょう。まさかとは思いますが、「安倍政権が続いているうちに変えよう」「盛り上がってるうちに変えよう」みたいな、クソつまらない考えでいるわけではないでしょう。しかしもし仮にそうだとしたらきわめて国辱的な、憲法のことなど何も考えていない、単に自分たちの自己顕示欲求のみに支配された連中だということになります。いや、まさかそんなはずはないでしょう。読み流してくださいませ。

 本当に自立的な憲法をつくりたいなら、落ち着いてやればいいのです。たとえば今から五年間、超党派の議員や学者たちを集めるだけ集めて、じっくり議論する。もちろんその間も適宜メディアに議論の模様を公開していき、各条項についても意見を募る。そして五年後、どこに出しても恥ずかしくないような憲法草案をつくりだし、国会で発議し、現行憲法とどちらがいいのか国民の投票にかける。それでもし駄目だったとしたら、また五年間、修正を繰り返しながら形を整え、あらためて投票の機会をつくる。

 保守というのは、急激な変化を好まず、それまであったもののよさを活かしながらじっくり前に進んでいこうという立場ではないのでしょうか。それがこの憲法に関してだけは最近、妙に革新めいた動きをしているのが不思議で仕方ない。安倍政権が続いている間にとか、国民の関心が高い間にとか、今がチャンスだとか、そんな視力の悪いことを考えているはずはまさかないでしょうし、だからこそ本当に不思議です。こんな奇妙な状況が続くと、今に不条理文学みたいな事態に陥ってしまうかもしれません。

 たとえば、海の珊瑚を潰して外国の基地をつくりつつ、一方で「環境権」を憲法に盛り込もうとか、そういう精神分裂的な政権ができるかもしれません。あるいは、一方の口では外国に対し「民主主義を教えてくれてありがとう。地球の裏側まで戦争支援に行きます」と約束しながら、一方の口では「外国に押しつけられたあんな憲法は駄目だ」という、変な総理が出てきてしまうかもしれません。もしもそんな内閣があったら、憲法を変えるに足る「格」は当然ないのですが、今のところそこまでひどい事態にはなっていないようですので、粛々と憲法論議を進めるのが良ろしかろうと思います。

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ただひたすらにブロンソンを愛でるための映画
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げこ野郎さんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

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「ラッスンゴレライ」のネタでブレイクしている8,6秒バズーカー。そのネタが反日的暗喩に充ち満ちているのではないか、彼らは反日的な人間ではないかという話がネット上に渦を巻いているようです。この辺りについて考えてみましょう。

 と申しましても、あのネタにまつわる疑惑をひとつひとつ検証しようという類のものではありませんので、そういうのに興味がある人は読んでも仕方がないですよということを、先にお伝えしておきます。

 さて、ところで、件のネタや芸人に関する疑惑について、本当だと思うかどうかを正面から問われたならば、ぼくはこう述べます。
「ぼくにはわからない」と。
 前回の山本圭一さんにまつわる記事でもしつこく触れたとおりに、わからないものにはわからないとしか言いようがないのです。今回の件で言えば、件の芸人さんがどういう思想を持っているのかぼくには判断できないし、疑惑とされている要素のひとつひとつについて誰もが納得できる答えなど示せはしない。既にデマだと断じられているものについて「なるほど」と思うこともあれば、奇妙な符号があるぞという主張について「なるほど」と思うものもある。基本的な姿勢はつまり、「真相はわからない」という、ごく平凡なものに過ぎません。

 では、何を考えてみたいかといえば、ネット上でつぶさにネタを検証しようとしている人の、その心性です。有り体に言えば、「かのコンビが反日的であるという証拠集めをしている、その人の心性」。ぼくの興味はそこにあります。そういった人たちはなぜ、かのコンビが反日的であると「信じたい」のか? 「反日的であってほしい」と思っているのか?

こう述べると、「別に、反日的であってほしいとは思っていない」と返されますでしょうか。そして、「反日的であってほしいとは思わないが、数々の証拠がそれを示しているのだ」と言われるのでしょうか。OK。証拠というのは、「誰がどう見てもそうである」といえるものでなくてはならない。解釈の余地があってはならない。そういったものをひとつも提示できずに、「そう言われればそう見えるかもしれない」というものをいくら並べ立てても、それはひとつの証拠にほど遠い。繰り返しますが、ぼくは彼らが反日的な思想の持ち主かどうか、わかりません。疑惑を叫んでいる人が、あるいは正しいのかもしれない。ただ、残念ながら、証拠はないのです。もしもあなたがそれらの「証拠」に説得力を感じているとするなら、あなたが見つめるべきはモニターではない。説得されたいと感じている、あなたの内面です。なぜ、反日的であってほしいと思っているのか?

 反日的なものを見つけるべきだからか? 反日的なものを見つけて潰すべきだからか?
 もしそうだとするなら、それは大変愛国的な精神だと思います。そして、そのような崇高なる精神は、ぽっと出の芸人に向けるのはあまりにももったいないものです。その強靱なる精神は、アメリカ政府に向けるべき類のものでありましょう。「原爆投下は非戦闘員を大量に殺害する非人道的行為であった」ことを認めさせ、米国から謝罪を引き出す熱意とするべきものでしょう。そこに力を結集すべきだし、呼びかけるべきでしょう。あるいは、原爆投下を是としている米国人のブログやSNSを見つけて、皆で反論をぶつけるべきでしょう。ちまちまと証拠集めをする労力は、日本人を侮蔑する発言の摘発にこそ、傾けられるべきでしょう。なぜ、たかがお笑い芸人などに? なぜ、いずれは消える可能性の高いような芸人に注目するのです? なぜ、彼らが反日的であってほしいのです?

世間が気づいていなくて自分だけが気づいている真実がある、と感じたとき、人は気分が高揚するものなのでしょう。世界の謎を解いたような気がして、すごく聡明であるような気分になれて、いい気持ちになるのでしょう。そして、一度そう感じてしまった場合、その解釈を取り下げることは難しいのかもしれない。自分の知性に疑いをもたれることは、人間にとって好ましいことではないからです。

 彼らが反日だったところで、実のところ何の意味もありません。仮に彼らを潰したところで、原爆投下を実行したアメリカ政府には塵ほどの痛痒もありません。本質にはかすりもしません。彼らが潰れたとき、起こることはひとつ。潰したいと思っていた人間が「すかっとする」こと。ただそれだけです。これが、ぼくの提示する仮説です。むろん、証拠はありませんが。

 彼らには反日的であってほしい。なぜなら、反日的なものを見ると気分が高揚するから。潰すとすかっとするから。

 それならそれで構わない。反日的なものを潰してすかっとするのは思想の自由です。
 ただその場合、そういう人はいくつかの項目にチェックサインを入れることになるでしょう。

 まず、そういう人は、己の「すかっとする」のために日本を利用するという、まったく非愛国的な精神をお持ちだということです。日本という国家、日本という共同体は、そういう人の自尊心や満足感のためにあるのではない。万世一系の皇統を有する、世界に類を見ない国家です。にもかかわらずそういう人はそれを利用し、反日的なものを設定するための道具とし、つまりはオナニーのおかずとして用いている。ぼくはなにもそれが悪いとは思わない。ただその行為自体はかなり反日的であり、ひどく国辱的だなあとは思いますが。

そんなことはない、自分は真に日本を思っている。と、おっしゃるでしょうか。であるならば、繰り返します。あなたの標的は、いずれ消える可能性の高い芸人などではないはずです。

 断っておきますが、これはスポーツの日本代表が相手国のチームや選手に勝ったときに芽生える喜びとは、まったく違うものです。日本代表は公式に認められ、国際的にその立場を正式に認められたものです。それが勝ってすかっとすることには、何の国辱性もありませんので、誤解なきように。

 さてふたつめ。反日的なものを潰してすかっとする。そのために証拠のないものを反日的だと信じる。その心性をもたらすのは、反日的なものへの依存です。そういう人は、いつでも求めているのです。反日的なものにいてほしくていてほしくてたまらない。そしてそれは、潰せる程度のものでなくてはならない。発信元がデマであろうとかまわない。なぜなら、すかっとしたいから。この心性が何故に生み出されるものなのか、ここでは論じませんけれども、この依存的傾向はたぶんに病理に近しいものであろうと、過去の記事で既に述べております。

まとめましょう。8,6秒バズーカー反日説を信じる人は、「今のところ」、自分の知性に疑義が挟まれることを嫌っている。「今のところ」、かの芸人が反日であってほしいと思っている。そして、反日であってほしいと思っている人間は、実は反日的なものに依存している。
  
まったくでたらめな分析だ、とおっしゃるでしょうか。でも、ぼくもまた自分の考えを信じているのです。彼らが彼らの考えを信じるのと、ちょうど同じように。「今のところ」と付け加えたのは、かの芸人の正体が、今のところはわからないからです。今のところ、反日説は単に唾棄すべき陰謀論ですが、もしかしたら、真実かもしれません。そのときぼくは自分の見識の無さを痛感し、世界の思いがけなさに触れることができます。

 さあ、真実を追い求めてください。

 たとえその先に、何もなかったとしてもです。

 仮に本当に反日だとして、「だから何だ」と虚しい結果を招くとしてもです。

 ぼくもまたきっと、反日の姿を追い求めるあなたを、求めているのでしょうから。




  おもしれえから。バカみたいで。
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 未成年者への性的暴行事件により、芸能界を離れていた山本圭一さんが活動を再開。ラジオ番組にも出演などのニウスがネット上に流れ、ツイッター上にも賛否両論がある模様です。この件についていろいろと思うところを述べてみるのでございます。

 まず、彼が起こした事件というのは2006年7月17日深夜、函館のホテルにおいて、未成年者の女性に性的暴行をはたらいたというもの。女性は被害届を出し、北海道警によって立件されました。後に示談となり、起訴もされませんでしたが、山本さんは吉本興業を解雇されて芸能活動をやめることになりました。これがぼくの知る大まかな経緯です。

 事件前における彼の品行、あるいは事件当夜における出来事の経緯など、週刊誌において取り沙汰されたものがネット上で読めますが、ここではその記事には触れません。どれくらいの情報が本当のことなのか、まるでわからないからです。週刊誌が常に真実を述べる保証などどこにもなく、あの種の記事から彼の人間性を考えるのは、フェアではないと思うのです。ぼくには山本さんがどういう人間なのか、わかりません。

 また、事件当夜に何が起こったのか、仔細についてもわからない。週刊誌がかき立てることが本当か嘘かはわからない。たとえ本当だとしても、1のことを10にして語っていないとも限らない。世間ではこう取り沙汰されているけれど、本当は違うのではないか。そう考えるべき出来事も、世の中にはあります。本件に関しては不起訴ですから、裁判で事実関係が細かく立証されたわけでもない。

 だから、ぼくを含めた多くの野次馬の方々は、次の二つの点を留意しておく必要があると思います。事件当夜に何があったか、どういった経緯でどんな状況だったのか、本当は詳しくはわからないということ。わからないことをこうだと決めつけて考えるのは、フェアな態度ではないということ。

 この点は、この事件に関してだけの問題ではありません。だからぼくはここであえて、極論を述べます。山本圭一さんは、性的暴行をしていないかもしれません。はい、こう書くと、何を馬鹿なことを言ってるんだ、めちゃくちゃだ、どれだけひいきするんだ、あり得ないことを言うなとたくさんの批判が来るでしょう。ええ、その通りです。ぼくも彼が無実であるとは思っていません。ですが、もう一度述べるとおり、ぼくたちには何もわからないのです。わからないのに、わかった風に言ってはいけないのです。真相は藪の中。黒澤明監督の『羅生門』をはじめ、多くの映画が、ぼくにそのことを教えてくれました。

 さて、長々と書きつつも、ぼくは別にここで彼の事件に疑義を呈したいのではありません。仮に、彼の起こしたものが紛れもない性的暴行事件であったとして、彼は復帰を許されるのか? このことが本題であります。つまり、有り体に言えば、「強姦をした人間はメディアに出てもいいのか?」ということです。「不起訴だからかまわないのではないか」「少なくとも彼は刑罰を科せられた犯罪者ではない」という点の議論はここでは避けます。強姦事件の特殊性を考えると、「不起訴であることが必ずしも、犯行の軽さを示すものではない」とも言えるのです。

 では、メディアに出てはいけない理由は何か。これを考えることが、この問題を解決する最短距離でしょう。「簡単だよ。犯罪者だからだ」というのなら、どうして犯罪者はメディアに出てはいけないのか。

 不快だから。というなら、不快なものがメディアに出てはいけない理由を示さねばなりません。不快であることが理由になるというなら、ぼくにだって、出てくると不快になる有名人はいます。みんなそれぞれ、嫌いな芸能人や有名人はいることでしょう。これは理由にはなりません。

 単に不快だというだけではなく、社会通念上の問題だと言われるでしょうか。その社会通念というのがどういった実体を持つのか、ぼくにはわかりませんが、ひとつにはこういう理由があげられるかもしれません。現にツイッター上でも目にしました。
「強姦の被害者になってしまい、心に傷を持つ人は世の中にたくさんいる。彼は強姦の加害者だ。彼がメディアで笑っている姿を見るのは単に不快なだけではなく、その人たちにとって心の傷を抉られるような出来事だ。強姦の被害者がいることを、考慮していないのではないか」

 もしも世間の人々の多くがこの意見を支持するとしたなら、ぼくには少し不思議なことがあります。はて、なぜ世の中にはやたらと、「殺人事件」や「戦争」をモチーフにした作品がやたらとあるのでしょうか。子供向けのアニメでも殺人事件を扱ったものがあるし、ゲームでは戦争が花盛りです。ぼくはその種のものが悪影響であるという考え方を採りませんが(ここはあとで少し詳しく触れます)、たとえば殺人事件の被害者の遺族は、「なんとかなんとか殺人事件」という文字を見るたびに、辛い気持ちになるのではないでしょうか。戦争で敵兵をばんばん撃ち殺すゲームを目にしたら、戦争での痛々しい記憶を持つ人々は辛い出来事を思い出すのではないでしょうか。だから、こういう言い方ができてしまいます。
「殺人事件を描くものは、娯楽の一要素として人の死を描いている。殺人事件の被害者への配慮がまったく足りていない」と。殺人事件を「戦争」に置き換えても同じ意味の文ができます。

 こう述べると、「そういうのはフィクションだろ。現実とフィクションの区別をつけろ」と言われますでしょうか。ほう、もしそうだとするなら実に興味深い意見です。殺人事件の被害者の遺族の方には、その説明で事足りるというわけですね。あれはフィクションだ、おまえの事件とは関係がない、そんなもので心の傷を抉られるほうがどうかしている、みんなが楽しんでるんだからよしとせよと。そして、強姦の被害者に対してこう言うことを許してもらえるでしょう。「山本さんは、おまえの強姦事件とは無関係だ」と。

もうひとつ、こういう意見もあることでしょう。
「メディアは社会に対して影響力を持っている。強姦した人間がメディアに出て笑っていたら、強姦がまるで軽い罪であるかのように、扱われてしまいかねない。社会的に間違ったメッセージを放つことになる」

 はい、確かにこれはこの通りなのです。ぼくはこの考えに対して、反対論をぶつける気持ちはありません(申し添えるなら、先の考えにも実は反論をしていません)。

 ただ、物事というのは、人間の境遇によって受け取り方が違います。
 彼の存在が、誰かを勇気づける可能性だってあるのです。
 世の中には罪を犯した人間がたくさんいる。もう自分の人生は終わりだと絶望する人もいる。しかし、そんな人が山本さんを観たときには、「自分だって笑っていいんだ」と思えるようになるかもしれません。いや、別に罪を犯した人間に限らない。何かのきっかけで人生に躓いた人がいたとして、その人が山本さんを観たときに、「あんなやつだってやり直せたんだ。自分だって再起できるはずだ」と思えるかもしれません。彼の復帰はそういうメッセージを放ちうるのです。

 賛否両論が起こる出来事というのはおおむね、正の面と負の面がある。彼の復帰にも、正の面があるかもしれない。この先、彼の復帰によって救われる人間がどこかにいるかもしれず、復帰するなという人は、その人の救いをなくそうとしているのかもしれないのです。

 もちろん、負の面もあります。今ぼくが述べたことは、そっくり負の面にひっくり返る。彼の復帰が誰かを傷つけるかもしれない。でも、「誰かを傷つけるかもしれないから駄目だ」というなら、多くのお笑いは彼もろともなくなるべきだ、とすら言えてしまうのです。ハゲをいじったらハゲの人は傷つくかもしれない。ブスをいじったらブスの人は傷つくかもしれない。デブをいじったら、チビをいじったら。そこには無限の可能性がある。

「彼に影響されて、強姦への心理的ハードルが下がり、強姦に及ぶ人間が出るかもしれないじゃないか」と言われるでしょうか。これについて、ぼくは否定ができません。ただ、そのような意見に対して、ぼくはいつも「戦争」を思い出してしまいます。
 戦争のテレビゲームは、戦争への心理的ハードルを下げていないか?  

 暴力ゲームが悪影響を与えて、暴力的行動を促す。このテーゼは科学的に立証されておらず、むしろ反証されていると聞きます。だからぼくはこのテーゼを支持しません。
 しかし、ぼくの知る限り、次のテーゼには反証がありません。
 すなわち、「戦争ゲームが悪影響を与えて、戦争を肯定する考えを促す」というものです。
 なにしろリアルな戦争ゲームが出たのはつい最近のことですから、少なくとも日本国内においては、これを反証するだけの期間もないわけです。つまりぼくたちは今、「もしかしたら戦争肯定の世論を惹起するかもしれないゲーム」を、現実に許しているとも言えるのです。暴力については、現実とフィクションの区別はつくかもしれない。だけど、戦争については? 現に、ぼくたちのほとんどの世代は、実際に現実の戦争を経験していない。だから「現実の戦争」と「フィクションの戦争」を区別することは、経験的にいえば不可能なのです。どうして現実を知らないぼくたちが、フィクションとの区別がつくと、断言できるのか? 戦争ゲームで敵を撃ち殺す爽快さは、本当に戦争を肯定する気持ちを促さないのか? どうして?

 ずいぶんと話をこじらせてしまいました。ぼくが言いたかったのは、どういう悪影響があるかわからないものを、ぼくたちは既に現実に許しまくっているということ。遺伝子組み換え食品しかり、化学調味料しかり。次に原発を動かした後のこと、しかり。いろんな物事の悪影響の可能性を許しながら、山本さんだけは許さない? 

 ずっと上のほうになってしまいましたが、ぼくはフェアネスについて言及しました。好き嫌いではなく、快不快ではなく、物事をできるだけフェアに考えること。そうしたとき、彼の復帰だけにことさら目くじらを立てるというのは、ぼくの採りたい態度ではないのであります。
 



 それでも彼を葬るというならば、


 OK、


 多くのものを、ともに葬ろう。
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とても楽しき無人島映画。
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di9tkmtnakrsqhomさんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

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ろくでなし子さんの東京地裁初公判が開かれた、というニウスについて、またいろいろと考えたくなりました。この件は昨夏にも触れているのですが、検察側と彼女側のどちらに付くかと言われれば、正直なんとも言えないのです。ゆえに、あらためて考えてみたいのです。昨夏の記事はこちら。

 そもそもわいせつとは何なのかについて、あるいは刑法一七五条の「わいせつ三要件」の是非について論ずるのも大事なのですが、ひとまず事実関係を述べまするに、ろくでなし子さんは「自身の性器の形状データを有償で頒布したこと」、そして「アダルトショップにて女性器をかたどった作品を展示したこと」の二つに関して、罪を問われているわけですね。それらがいわば「わいせつ」な行為とされ、逮捕、起訴されたと。

 彼女は「自分の女性器はわいせつではない」と主張している。そしてまた彼女を擁護する人々は、彼女の作品が「わいせつ三要件」に当てはまらないとして検察に異議を唱えている。ネット上の論考その他を眺める限り、そのようなものが目につきました。

 ところで、わいせつ三要件とは何かと言えば、 
「徒に性欲を刺激・興奮させること」
「普通人の正常な性的羞恥心を害すること」
「善良な性的道義観念に反すること」
だそうです。しかし、これはきわめて曖昧な文言です。「徒に」「普通人」「正常」「善良」そして「性的道義観念」。どれをとっても明確な線引きが困難な言葉です。そしてまた、このような曖昧な文言に基づいて考えてしまえば、法の運用基準についても当然曖昧にならざるを得ません。

 わいせつをめぐる議論の数々は、それが感覚的なものであるがゆえに、どこまで言っても万人が納得する線引きはできないのです。人生はこのようなものに満ちています。今日は暑い日だったのか、寒い日だったのか。そこに正解はない。いつまでが春でいつまでが夏でいつまでが秋なのか。通行許可を示す信号の色は青か緑か。便宜的な形で、たとえば気温や日付などの数値を用いて定めることはできる。ただそれはあくまでも、便宜的なものに過ぎない。万人がなんとなく合意できる妥協点に過ぎない。

だから、どうしても便宜上の、いわば恣意的な線引きが必要になる。それが今回の場合「女性器」だったわけです。この点については以前の記事で述べたことです。さて、考えを深めるためにひとつ、ここで昨日の公判後記者会見からろくでなし子さん本人の弁を引用します。

わたしがなぜ女性器をモチーフにしたり、女性器の名称である「まんこ」という三文字を発信し続けてきたかと言えば、女性であるわたしにとっては、女性器は自分の大事な体の一部分に過ぎないものであるにも関わらず、ここ日本においては蔑まれ、汚いものや恥ずかしいもの、いやらしいものとして扱われ、とてもおかしいと強く感じたからこそでした。
 雑誌では女性器の名称が必ず伏せ字にされ、タレントがテレビでその名称を口にしただけで降板されてしまいます。おかしな事に、男性器の名称やセックスを煽るもっといやらしい表現や言葉に対しては、NGとされず、それらは電車の中吊り広告やインターネットに今日もあふれています。ここまで「単なる女性器にのみ」拒絶反応を示すのは異常であると思います。わたし自身も気づかずにそのおかしな風習に従って生きてきました。しかし、女性器とは、単に人間の女性の体の一部にすぎないものであり、そこから生命が生まれでてくる場所でもあるならば、蔑んだり、いやらしい場所などとみなすことはとてもおかしい話です。
 わたしはなぜそんな風になってしまったかを考えました。その結果、女性器はまるで男性の愛玩物のように扱われているのが原因で、根底にあるのは女性差別であると思い至りました。そこで、わたしの体でありわたしの物であるはずの女性器を取り戻すため、女性器のアートを本気で活動するようになりました。

 なぜ女性器は禁忌の対象となったのか。この辺りについての学術的論考というのがきっとたくさんあるのでしょうけれども、ぼくが思うにそれは「愛玩物のように扱われている」からとか「女性差別」があるからとか、そういう理由ではないと思うのです。
もしその論に立つならば、「男性器がオープンな存在である」ことを示さねばならない。なるほど確かに、チンコというのはテレビやラジオでもオンエアに乗るし、イラストや漫画に出ても構わないかのように扱われている。この点において、「男性器の女性器に対する社会的開放性」が高いことは認められます。
 ですが、しかし、男性器丸出しで街を歩いても文句は言われないかと言えば、そんなことはない。当然逮捕される。テレビでも男性器はさすがに編集処理される。
 ここにおいて確認できることは、男性器にせよ女性器にせよ、実物は禁忌として扱われているという周知の事実であり、この点においていえば両性は同等なのです。「女性差別」はなく、「愛玩物のように扱われている」のはむしろ明確に、男性器のほうであります。彼女の活動の目的のひとつが「男性器と女性器の間における社会的開放性の差異」をなくすことであるとするならば、つまりはマンコをチンコ同様にオープンな存在にしたいと考えるならば、彼女はむしろ女性器を「愛玩物のように」扱ってほしいと思っているのではないでしょうか。考えてみてください。もしもテレビで「マンコ」が解禁になったら、まず間違いなく今まで以上に、女性タレントは「男性の愛玩物のように」なるはずです。
それが彼女の望みなのでしょうか?

 迂回してしまいました。女性器はなぜ禁忌の対象になったのか、に戻ります。
 彼女は会見でこうも述べています。
「そこから生命が生まれでてくる場所でもあるならば、蔑んだり、いやらしい場所などとみなすことはとてもおかしい話」
はい、ここに性器というものの難しさがあるように思います。
 男女問わず、性器というのは二つの相反する要素、はたらきを持っている。すなわち、排泄と生殖です。前者は老廃物を排出する行為で、出されたものは悪臭を放つ不衛生なものになる。かたや、後者は男女であり方が異なるにせよ、最終的に出てくるものは尊ぶべき新たな生命です。いわば性器とは祝福と汚れの同居する場所であり、性の象徴であり、同時に性欲なるものと分かちがたく結びついている存在です。

 人間はその文明を営む上で、このようにあまりにも複雑な性質を帯びているものを、オープンにはしませんでした。見せてはならぬもの、ひいては安易に触れてはならぬものとしてタブー化することで、社会を滑らかに運営しようとしました。このことは責められるべきことではないし、責める必要もないでしょう。

 ではなぜ、そのタブーは蔑まれたり、いやらしく思われたりするようになったのか。
 ぼくの考えはこうです。
 それはつまり、社会の安寧のためなのです。社会を滑らかに運営するために不可避な判断だったのです。
 性器がかくも複雑なものである以上、性器に対するイメージを安定させることはひどく難しい。祝福と汚れを同時にイメージすることはきわめて困難です。であるがゆえに、社会は「汚れ」のイメージを採用したのです。

 なぜ祝福のほうを採用しなかったのか。理由は二つ。ひとつには排泄器官であることへの嫌悪。そしてもうひとつが、社会の安寧です。 
 
 前者は説明不要でしょう。問題は後者ですね。
 性器を祝福と結びつけてしまえばどうなるか。そうすれば不特定多数との性交渉が祝福のイメージを持つことになり、近親相姦や強姦、不倫といったものへの精神的ハードルが下がり、社会はきわめて不安定な様相を呈することになります。とてもじゃないけれど、祝福をもって捉えることはできない。それが許されるのは、「愛」という世にも不思議なものが守ってくれる場合のみ。生殖という特別な出来事がある場合のみ。
 だからひとまず社会の安寧のためには、汚れを採用すべき。人類はおそらく無意識的に、そのように考えたのではないでしょうか。

 警察は今回の事件で、実物の女性器をもとにしたものをわいせつとした。これをして短絡的、恣意的という批判がなされるようですが、性器は上に述べたような複雑な性質を持つのであり、「男性器の名称やセックスを煽るもっといやらしい表現や言葉」や「電車の中吊り広告やインターネットに今日もあふれてい」るものとは「格が違う」のです。簡便に言えば、それらのものは「たかがエロ」に過ぎない。一方、性器はエロを超えている。その意味において警察は取り締まり、検察は起訴の対象とした。非常に簡明な理路でしょう。彼らは社会の安寧を守るために存在しているのですから。

 思いのほか長くなりました。
 最後に、彼女を擁護する人々に対しては、二つの挑発をもってこの論考を終えたいと思います。

 ひとつ。彼女が無罪となり、彼女の活動が法的に認められ、その先に「マンコ自由化」があるとしたなら、間違いなくこれまで以上に「男性の愛玩物」になります。男性タレントが「おまえのチンコ小せえな」とはしゃいでいただけだったコミュニケーションに女性も巻き込まれ、「おまえのマンコがばがばだろ」といういじりに曝される。これまでマンコを守っていた汚れのバリアは剥がされ、かといって祝福の衣が着せられるわけではない。当然そんな表現にはクレームが付き、規制をもって対処される。しかし、チンコはマンコと同様に扱わねばならない。だとしたらその先にあるのは、「チンコ非自由化」。表現を規制するなという主張の未来は、あるいはさらなる規制を招く悲劇の末路かもしれません。
 
 ふたつ。これまでは女性器以外のエロ表現はかなりの部分が認められていた。いわば女性器はどこかの宗教の救世主のように、すべての罪をその一身に担っていた。警察という「表現の敵」を納得させるべく、わいせつの誹りをその中に封じ込めていた。その封印を解くということは、「わいせつ」の線引きを融解させることに間違いなくなります。安寧の基準は崩壊し、今までわいせつではないとされていたものも当局の睨みを浴び始めるのです。今よりも、わいせつのレッテルを貼られるものは、ずっとずっと増えるかもしれません。だって、そこにはもう、わいせつの合意がないのですから。女性器の献身的封印を、解こうというのですから。

 ろくでなし子さんを擁護したい気持ちはわかります。表現の自由を守れ、官憲の横暴を許すな、女性器をタブーから解放しろ。
 さて、その先にあるものは? その奥にあるものは? 
 それでも強く主張される場合は、どうぞ満腔のお覚悟をもって。

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ロジカル野郎のド直球
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本当の認識。ぼくたちの認識。
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