格好良さ、美しさ、豊かさ、その差歴然
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映画は毎日のように観ているんですけど、エネルギーを違う物事に向けているため、しばらくこのブログを滞らせていました。久々に気まぐれに何か書こうと思います。書いていない期間にも沢山観ているのでいずれ言及するかもしれませんが、今回は語りやすいものについて語ってみたいと思います。というわけでタイトルの二本。

『NANA』は酷かったです。松本人志が映画評で、何かの映画を酷評しつつ「逆R指定をつくれ」と言っていたのを思い出します。RとかPGとか、年齢制限がありますが、あれはあくまで下限制限であって、何歳以下は見てはいけませんというものです。それに対し松本は「何歳以上の人は楽しめませんよ」という上限制限、「逆R指定」をつくれと言っていたのですが、今回の映画はまさにその感じです。20歳を越えた人間は楽しめないと思うんです、あほらしくて。せいぜいが高校生かそれくらいで、これを褒める大人がいるというのがまるでわからない。役者の演技、台詞回し、どうしてこんなことになるのかと思わずにはいられない。下手な演技というのは台本が見えてきます。喋る役者、動く役者という表象の裏側に、台詞やト書きが透けてしまう。世界自体もぺらぺらなんです。『NANA2』が世間的に酷評されていた覚えがありますが、いやいや、一作目の時点であかんがなという話です。違う言い方をすると、結構笑えます、ものすごく馬鹿っぽいから。レストランのシーンなんて、再現ドラマの文法です。もはやドラマですらない。バラエティ番組の中に入る三分くらいの再現ドラマ、それでよく見たような光景。これを観ていったい何を感じろというのでしょうか。そう、だからやはり、未成年限定指定か何かにすればいいんです。

とて、僕がこれだけこの映画を好きになれないのは、演出的幼稚さもそうなんですが、原作の『NANA』の魅力がまったくわからないというのもあります。僕には『NANA』の何が面白いのかひとつもわからない。世界的に輸出されており、もう累計で何千万部みたいな規模らしいですが、一、二巻ほど読んで駄目でした。どうでもいいんです。大学生くらいのやつがほれたはれた、好きよ嫌いよ言うてるのはもう本当にどうでもいい。だから「あいのり」みたいな番組も何もわからない。憶測ですが、「あいのり」が好きな人は間違いなく『NANA』が好きなはずです。どうでもええようなやつらのどうでもええようなほれたはれたに現を抜かしているのが好きな人たちでしょうから。
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さて、後半は『ガキ帝国』です。
これはよいです。『パッチギ!』の原型というか、『パッチギ!』的完成を見る前の不完全さがあって、『NANA』的書割世界に比して非常に豊かですね。特別に好きだったのは、役者たちの滑舌がよくないところです。紳助も竜介も、何を言っているかわからないんですよ、早口だし。でもそれがいいんですね。映画にしろテレビにしろ、どうしてもはっきりと喋らせようとするし、特に最近はそうだと思うんです。何を言っているかわからないからもうワンテイク、みたいなね。でも、何を言っているかわからなくていいんですよ。あの『ガキ帝国』的な、汚い大阪の街で暴れる汚い若者たちの世界を表現するうえで、あの滑舌の悪さは非常に有意だった。台詞というのは何かを伝えるための装置ですが、大事なのはその言説内容に限らない。何かを喋っているその姿や振る舞いがメタ的な言説要素になるのであって、この映画の薄汚い感じは非常に美しかった。うん、これはこのブログでも何度も書いたことですけど、格好いいとか美しいっていうのは、格好悪いこととか不細工なことも含めてなんですよね。『ガキ帝国』に出てくる人たちはみんな格好悪いし、だからこそ格好いい。みんな臭そうで汚いけど、だからこそ美しい。で、映画の魅力はそういうところにあると思うんです。それは写真とかでは伝わらないことで、どろどろの汚さや生臭さを持った人々の生きて動くさまが描かれることが大事なんですね。『NANA』をぼろくそに言うのはいい加減にしておこうと思いますが、結局あれでは誰一人格好よくないし、美しくない。ええかっこしたいんか、と言いたくなるだけですもん。『ガキ帝国』は「ガキ」というだけあって、馬鹿だし、愚かだし、どうしようもないやつらばかりなんですけど、そこには確かな芯がある。繰り返される喧嘩は本当に無意味で馬鹿らしいけど、それでぼこぼこにされた後の表情には確かに人間的なものの宿りを感じる。

ぜんぜん時代も舞台もそこで描かれていることも違うけれど、今日あげた二つの映画に出てくる若者たちはあまりにも違います。映画的なよさもまったく違います。何の共通点もないような映画を比べるのはおかしいですが、仮に『NANA』と『ガキ帝国』を観て、万が一にでも『NANA』がよかったというやつがいれば、そんなやつと僕は何も喋りたくないし喋ることもできないでしょう、たぶん、話す言葉も何もかもが違うから。
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格好いいとはどういうことか
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勝新太郎の『座頭市』は初めて観ました。というか、役者・勝新太郎の作品を初めて観たというべきです。三船敏郎大好きっ子の僕ですが、いやあ、勝新もめちゃ格好いい。やっぱりね、格好いい役者、まあ「貫禄」ってことですけど、その貫禄ってひとつには怖さでもあるんですね。三船にしても勝にしてもめちゃめちゃ怖そうですもん。本気で怒られたら僕は間違いなくびいびい泣いてうんこを漏らします。この「怖い役者」というのがなかなか今の時代いなくなってしまいました。いやもちろん、ヤクザ映画に出てくる俳優とかいるわけですけど、それでもこのどこまでも油断できない役者というのはなかなか今は見られません。時代は優しくなっていますからね。それこそこの映画の「めくら」という表現にしたって今では放送禁止になっているわけだし、配慮配慮の積み重ねによってかつてのような油断ならない俳優というのは生み出されにくくなっているのでしょう。勝新太郎にせよ、たとえば松田優作にせよ、監督との衝突という事件を起こしている。今はもうぜんぜん聞かないじゃないですか、そういうの。せいぜい広告代理店やらタレントの所属事務所やらが監督にあれこれ注文をつけて、俳優は「悪そうに見えますけどすごくいい子なんですよ」的な感じで収まって・・・・・・かあっ、むずむずする構造です。去年の沢尻報道でも思いましたが、もっと無軌道なやつらがいてもいいんです。それをあんな風に処理するから駄目なんです。最近で言うと窪塚洋介なんて僕の大好きな俳優なのに、俳優業に愛想を尽かしてしまったらしいじゃないですか。それじゃあすごいもんなんてできるわけないんです。平和ボケ国家は平和ボケ国家で結構だけれども、脅迫的な平和では困ると思うんです。この平和を乱すものは容赦なく撃ち殺す、といわれればそれはもう平和じゃないんです。SFが散々謳ってきたことです。

で、『座頭市物語』ですが、ちょっと『用心棒』に近い感じですね。ばくち打ち同士の衝突が会って、互いに用心棒がついていて、その用心棒たちは当の雇い主のいざこざには愛想を尽かしていて本人たちだけの戦いがあるという。それでまあ後年『座頭市と用心棒』なんて作品もできていますし。続編がどんどんとつくられたシリーズもの第一作になるわけですが、この盲目の剣豪というのは当時結構目を引いたんじゃないでしょうか。しかも剣豪ではありながら見た目はしがない按摩をやっているというね。で、三船の『用心棒』などの剣豪と違うのは、見た目は平身低頭な感じだということで、これが不気味さを醸すところがあります。三船が陽の強さだとすると、この勝は陰の強さがある。すごく物静かではありながら、太刀裁きですべてを思い知らせるというか、それであるからラスト、雇い主の親分に啖呵を切るところでもその台詞に格好良さが出る。この静けさと、終盤の戦いの混乱が対比されてすごくいいじゃないですか。あまり詳しいレビウは書けそうにないけれど、五社体制時代にものすごい数の映画がつくられまくった中で、時代を越えて語り継がれる作品というのには、やはり何事かのすごさがこもっているというのがわかります。

さて、後半はドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の『ダーティ・ハリー』です。これもシリーズ化されて五作くらいまでつくられたようですね。クリント・イーストウッドの主演作というのはほとんど見ていないのですが、三船や勝のようなすごさは残念ながらあまり感じられないんです。どうも茶目っ気がないというのが今の印象なんです。三船や勝は怖いけれど、その一方でちょっとした茶目っ気が覗くところがあって、それが魅力的なんですけど、どうにもこのしかめっ面続きのイーストウッドには惹かれない。もっと見れば印象が変わるかもしれないですけど。あのー、この映画のイーストウッドはそりゃあまあ格好いいんですよ。犯人を追い詰めるところの銃をつきつけるくだりとかね。ただまあ、これは銃と刀の問題なのかもしれないけれど、やっぱり侍の格好良さはないんですよね。

作品自体は楽しめました。ただ、あの犯人を釈放してしまうというのはありなんでしょうか。証拠がないから云々と言っていましたけど、あの辺はちょっとどうなのやと思いました。なんだか説得力がない感じがしたんです、四十年近く前のアメリカの法律がどういうものかあいにく僕にはわからないから、こういう発言は無知をさらしているだけかもしれないんですけどね。犯人がテレビ局のインタビューに嘘をついて答えるくだりとかも、別にそこから話が膨らんだわけでもないですしね。当時の社会に対するメッセージ性があったのかもしれないですけど、なんならあの犯人の側からつくったら面白そうだなあと思いました。

今日は映画への直接的な言及よりも別の部分の話が膨らんでしまうんですけど、やはりねえ、僕などからすると、刀と銃があったときに、断然刀のほうが格好いいんですね。銃は好きじゃないです。銃も刀も凶器であることに変わりはないけれど、刀と侍は切っても切れなくて、つまり僕は侍の格好良さが好きなんですね。銃って西部劇でも出てくるけど、現代劇でもばかばか撃たれまくってるし、遠くから撃つなんてこともいくらでもできるから、格好良くないんです。それは『座頭市物語』の中ではっきりと語られました。病に臥する平手という用心棒が、銃を持っていくという他のやつの発言に対して、「鉄砲は卑怯だ」とどやしつけるんです。これがねえ、格好いいんです。傷つくリスクのない攻撃の仕方は卑怯だ、というのはやっぱり侍の心意気なんです。相手を傷つけるときはこちらも傷つく覚悟を持つべきだというのは一度ちゃんと腰を落ち着けてアメリカ野郎に教えてやるべきことです。

そういえば、今年には綾瀬はるか主演で『ICHI』なる映画が公開されるそうですね。はあ、綾瀬はるか、ふうむ。北野武の『座頭市』は、勝新とは別の要素を盛り込んでつくられていましたよね、真っ向から勝新をやっても仕方がないと見切っていた武は頭を金髪にし、タップダンスを盛り込むなど奇をてらった方策に打って出た(黒澤・三船を模写しようという暴挙に出た森田・織田とはそこが違いますね)。で、北野武はそれまでの芸歴、来歴からしても貫禄がありますから、僕は『座頭市』は楽しめたし肯定的に捉えたいのです。さて、厄介な代物です、『ICHI』・・・・・・。三番煎じは、よほど煎じ詰めないことには危険でしょうからね、今日はこの辺で。
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反復がもたらした秀逸なリズム
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僕は、北野映画というものに対する感度は鈍いほうかもしれないです。名作といわれる『ソナチネ』、『HANA-BI』について、ほとんど反応できないというのが正直なところなんですね。『HANA-BI』は随分前に観たので今観れば別かもしれないけれど、『ソナチネ』はどうも今の段階ではそのすごさを感じられない。じゃあどういうのがいいんだよおまえこのやろうと言われれば、『その男、凶暴につき』とか、あとこれは世間のキタニストには不評かもしれないけれど『BROTHER』。はじめてまともに観た北野映画が『BROTHER』だったのでその印象が強いのかもしれません。『キッズ・リターン』とかも僕の中ではもうひとつなんですねえ。

 さて、『3-4x10月』です。これはいいです。この映画のリズムはすごく心地よかった。何がいいのかなあと考えると、あの反復のイメージなんですね。この映画には多くの反復がちりばめられていて、それが随分と快いものになりました。反復は早い段階で示されます。まずはあの草野球のシーンがそうですよね。柳ユーレイがバッターボックスに立って三球三振する。繰り返し投げられ続ける球に対し、それを見送り続けてしまう態度という反復。ガダルカナル・タカとベンガルのやり取り、「井口だろ?」「井口さん」の反復。あと、これはこじつけになるかもしれないけれど、パチンコという遊び自体にある反復など。もっとも美しかった反復は、たけしが女に向かってボールを打ち続け、それを女が拾い続けるシーン。往復運動を細かく切り刻んだあの場面は、僕がこれまでに観た北野映画の中で最も充実したワンシーンに思えました。

反復というのは運動と停止を同時に内在させる事象です。反復運動という形でそれは絶えず動き続けている。一方、その反復運動を外側から眺めたとき、それは新しい展開を呼び込まない停止でもある。古来、停止的な、静物画的なショットを効果的に収める監督というのは数多いて、北野映画でも停止的ワンカットは多用されているのですが、この反復は停止的なイメージを残しつつも映像の強みである運動を同時に喚起している、ごく単純ではあるがきわめて効果的な技法であるなあと思うわけです。

ではその反復は何をもたらすのか。申し述べたとおり、運動と停止を同時に行う技法であるがゆえに、次の場面に移る場合は、必ず別の動きを生み出すことになる。つまり「反復→停止」にもなりえ、「反復→運動」にもなりうる。僕がこの映画のリズムに惹かれたのはまさにそういう要因のためです。反復運動が繰り返し用いられるおかげで(それはメタ的な反復でもあるわけで)、この映画では運動と停止の絶妙なバランスが生みだされているのです。

ちょいと堅い話が長くなったので、もっと簡単なことを話しましょう。
石田ゆり子がいいですねえ。この映画に出ている頃は20か21歳、今の石田ゆり子ももちろん抜群にいいわけですが、女子大生的な魅力を持つこの頃の彼女はもうとんでもないわけでして、映画の中とはいえ柳ユーレイに嫉妬さえ覚えるわけです。柳ユーレイの試合を石田ゆり子が見に来る場面がありますが、あれはねえ、もう本当に、「ええとこ見せたろ」と思いますね、男ならね。「ええとこ見せたろ」と素直に思ってしまう場面というのは、なかなかありません。あの石田ゆり子が観戦している試合で「ええとこ見せたろ」と思わない男がいたなら、それはもう男ではありません。そんなやつはくるくるぱーのぷっぷくぴーです(なんのこっちゃ)。柳ユーレイが石田ゆり子とともに電車に乗っている場面がありますが、僕があの柳ユーレイと同じ状況にいたら、多幸感がきわまって死んでしまうかもしれません。だからこそ、あの終わり方は嫌でした。石田ゆり子を巻き込んで欲しくないのです。彼女には幸せになってほしいのです(あほか)。

北野映画では笑いが邪魔になることがあります。『ソナチネ』でも『キッズ・リターン』でも、笑いが鬱陶しかったりする。僕はビートたけし世代ではないので、彼の芸人的な面白さに思い入れもなく、べたべたさにきつさを覚えたりもするのですが、この映画ではそんなことがありませんでした。笑いの場面も素直に受け入れることができた。それはあの反復あってのことだと思いますね、映画における笑いはやはり、リズム感をつかめなければどうにもならないんです。笑いとは空気あって生まれるもので、その空気の醸成には世界観の構築とは別の、リズム感の獲得が必要になるのです。この映画のリズムには申し分がないので、非常に楽しめました。ちなみに、ラストの夢オチですけれども、あれはまああれこれ言われるのでしょうけれども、考えてみればこの映画にとって自然なことなのです。なぜなら、この映画は反復を配した映画であるわけで、あの柳ユーレイもまた、いつもどおりの野球場に向かって戻っていくのは当然なのですから。
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なんだかんだ言いながらも、とりあえず観ろとしかいえないし、是非観てほしいですね
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園子温作品は『紀子の食卓』に続いて二作品目の鑑賞なのですが、今回も強烈でした。強烈な映像を撮る、作品を撮る監督は歴史上世界に数多いると思いますが、日本ではこの人が今現在、ダントツのトップなんじゃないかと思います。ホラーとかスプラッターとか、そういうレベルの強烈さではなく、もっと嫌らしいというか、かなり屈折した強烈さがあります。この点においては、今の邦画界で良心的な作品を生み出す黒沢清、青山真治といった人々とはそもそも住む世界が違う感じがします。どっちが上とかじゃなくて、ぜんぜん違う方向を向きながら、日本の映画を支えているという感じ。

まず述べたいのは、この人が使う役者たちは皆、瑕疵のない演技をするということ。役者の力というよりもこれはもう監督の力だと思うんです。なかなかそういう監督は今、いないと思いますね。先に揺ぎ無い世界観を構築した後で役者を遊ばせていて、役者は決してその世界観を壊さない働きをしている。これは何なのでしょうか。定評のある役者たちを使っているというわけではないのに、定評のある役者たちががんばるよりもはるかに良質なものに仕上がっている。その映画の持つ空気、エネルギーがそうさせているんですね。思い切り突飛な世界であり、まあ言えば非現実的な世界であるはずなのに、ちっとも浮いた感じがなく、その世界の人間として役者がそこにいる。こういうことができる監督は、繰り返しになりますが、現代の日本映画には非常に稀だと思うんです。

あと、音楽の感じもものすごく僕は好きです。今日の僕は、酔いながらの帰り道、「名前のない仔犬」をずっと口ずさんでいました。『紀子の食卓』でも、穏やかな音楽をずっと鳴らしながらの登場人物の独白があり、彼らはそのナラタージュの中、社会から漏れていく。あれねえ、音楽なしのナラタージュだと駄目なんですよ、声のもたらすものが強すぎるから。声が情報になって、喋っている自意識が浮き出てきて、絶対浮いてしまうはずです。でも、この監督はそれをさせない、絶対に浮かせない。音楽によって独白を中和し、あるいは独白をも音楽化して、ナラタージュにしている。おどろおどろしい音楽なんて使わないんですね。それが既に陳腐であることを知っているというか、だからこそありきたりな音楽の構成は絶対にしない。先ほど述べた「名前のない仔犬」も自分で作曲しているというし、クレジットでも監督・脚本・音楽・園子温となっているし、かなりその点においてこだわっているのがわかります。役者をその世界の住人にするうえで必要な音楽という演出を、非常にたくみに活用している。僕はあまり音楽に明るくなくて、映画を観るときもあまり重視しないんです、実際。サントラに惹かれるということもあまりない。でもこの監督の場合は別です。この人の使う音楽のセンスは実にすばらしい。その点に注目して観てみてください。

あのー、おそらく映画っていうのは、その世界観を完璧に提示した瞬間に、ほとんど勝ちだと思うんです。不味い映画がどういうものか、そこに共通しているのはひとえに、世界観がしっかりしていないことだと思う。この映画はまあ言ったらめちゃくちゃな部分が多いというか、むしろまともな部分のほうが少ないというか、有体に言って現実的な感じは全然ないですよ、学校のシーンひとつとっても、もうありえない世界です。でも、それをして突飛過ぎるとか、非現実的だとかいうそしりを投げる鑑賞者は悪いけど馬鹿だと思いますね。そんなことはすべてわかった上なんです。むしろ現実性に拘泥して世界観をまともに作り上げられないほうがよほど愚かというか、どうでもええことに縛られとんな、と思うわけです。かといってまあ、迂闊に真似はできないところではあるんですけどね、なまじぶっ飛んでしまうと、今度は足元が崩れてしまうことがあるので。この映画の場合、冒頭からあの訳のわからぬショーのシーンで始めていますよね。最初から、「この感じでいくで、ついてきてな」という態度を示しているのが大変好ましいと思います。

ストーリー的な部分で話すと、まあこの映画をストーリーだけ切り取って語ることは無理なんですけど、めちゃめちゃ嫌な話で、めちゃめちゃ嫌な真相がありますよね。この映画の場合、移入が難しいです。観ている人の大半はおそらく、あの少女に移入して世界を眺めていくと思うんですよ、でも、途中から母親がメインになって、「あら?どういうことなんや」となっていって、どうやらあの少女がこの母親と同じになっているらしいぞ、と思って、で、最後に裏切られると。だからもう、大半は妄想のもとに繰り広げられているんですけど、あのサーカスシーンを冒頭に設定してラストに入れて、すべてを包み込む形になっているじゃないですか。だからもう、何が現実かとかどうでもいいんですね。そもそも映画における現実ってなんやねん、ということでもあって。夢オチは最悪やというのが世の中の常識となっていますけど、これはもう夢オチとかそんな次元にもないし。最初のほうからのどこからどこまでが本当のことで、どこからどこまでが妄想なんやというのもよくわからないじゃないですか。そう、だから、ストーリーについて云々語るのは無意味かもしれないですね。これこれこういう話やで、というとこに落ち着けないです。難しいですよ、この話の筋を人に説明するのは。いや、それはやろうと思えばできるけど、それが正しい解釈として成立しているかというと、あのサーカスのラストですべて怪しくなりますからね。

いずれにせよ、久々に強烈なものを観たなあという印象です。それは見た目のグロテスクさもさりながら、もっと別の部分ですね。グロテスクな映画なんていくらでもあるわけですけど、この映画のグロテスクさって、可視的にスクリーンで描かれている表現以上のものです。その点を感じることができないと駄目です。見た目のものはあくまでも見た目でしかないでってことがわからないと楽しめようもありません。

R-18ということですね。まあこれは、あらゆる意味でテレビではできないです。ただその分、こういう映画を映画批評家が褒めていかないと映画が伸びていかないと思うんですけど、批評家内での評価はどうなのでしょう。詳しくないので知りませんけど、ある意味で、これがメジャーになってもそれはそれでまずいなあという気がするし。難しいのは難しいですね。この映画を宣伝する文句を書きなさいといわれたら僕は、なんだかんだと書いた上で言うのもあれですが、「とりあえず観ろ」としか書けません。でも、凡百の映画よりもはるかに、映画という媒体でしかできないことを成し遂げているのは、これはもう間違いありません。
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いまさらのきわみですけど、三船のすごさを強く感じるわけです
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映画に目覚めてからずっと観たいと思っていたのに、ずっと貸し出し中で観られずにいた一本。ようやく観ました。『花よりもなほ』の次、時代劇を立て続けに見たのですが、いやはや黒沢明が活躍したころの時代劇というのは、妙な感傷もなくていいですね。今の時代劇というのはおしなべてなんというか、いい話みたいな感じにするじゃないですか。前回の『花よりもなほ』はその最たる例のひとつですけど、2000年期に入ってからの時代劇は、夫の武士がいてそれを妻が支えて云々、うるうるみたいな。そういうのが好きじゃない僕なので、こういう『用心棒』のような話は実に好ましい。

桑畑三十郎にはちょっと笑ってしまいました。『椿三十郎』はこの後に撮られているんですね、僕は『椿』が先で、自作のパロディをしたのかと思って笑ってしまったんですけど、この桑畑のほうが先なのでした。『椿三十郎』といえば織田裕二がありましたが、ちょうど今の織田裕二とあのころの三船は同い年くらいなのですね。いやあそうなると、三船がいかに格好良かったか、いかに逞しかったかということをまざまざと知らされるばかり。この『用心棒』においては特に、まあ『椿』もそうですけど、三船の格好良さがいかんなく発揮されているため、惚れ惚れします。やっぱり風格がとてつもないんですね。しかもこれより前の時代の1955年に、あの『生きものの記録』の老人を演じているわけです。この『用心棒』の六年も前、三十五歳のときにですよ。そんな役者はもう日本には皆無です、いや、世界にもいないでしょう。娘の三船美佳がその夫と一緒にけらけらテレビで笑っているのを見ると、今昔併せ見て、時代の退行というものを感じてなりませぬ。三船敏郎が見たら泣くでしょう。

この映画ではっとしたのは、その三船がぼこぼこにされるシーンです。『蜘蛛の巣城』では壮絶な死を遂げていましたが、あのように格好悪いやられ方をしているのは新鮮でした。ほかにもあるかもしれませんが、たぶんそれは僕がまだ観ていない作品でしょう。あれがいいんですね。『七人の侍』でも『椿三十郎』でも、三船はいつも強くて格好よい。でもその三船がああやってぼこぼこにされるのを見ると、それはそれで映画として実に面白いわけです。で、ぼこぼこにされて、ほうほうのていで飯屋の親父のところに逃げ込む。この後がいいですね。死体を運ぶ桶の中に担がれていくのですが、その中から強気に怒鳴り始める。きわめてキュート。桶の中から、やばい状態にあるのに外の状況を聞きつけ、「見物するから止まれ」とか言ってみたりするあれは絶品。ああいうのって、今、ないんです。今の映画で同じようなことをしたら、もっと恐る恐るやると思うんです。「ちょっと見てみたいんだけど、なんとかなるかなあ、いや、無理だったらいいんだけど」みたいな弱気な感じになるはずです。時代が繊細さを身につけたせいで、ああいう無頼で常に強気な侍の姿というのは描けなくなってしまいました。これはとってもとっても残念です。

それで言えば、一組の親子を救うシーンもそうです。今同じことをやって御覧なさい。絶対もっと心優しいキャラクターにしてしまいますよ。どうでもええような子どもとの会話のシーンを入れてみたりね。そういう愚は冒す気配すらない。これは非常に大事な場面だと僕は思うのです。なぜかというと、三船の役柄自体がそういう、現代映画にあるような叙情性を否定しているから。三船はとらわれの親子の、あの父親のような人間を嫌っているんです。早く失せろってなもんです。だから絶対に、あの親子とまともに口をきこうとはしない。三船のあのキャラクター性というのは、現代の映画に観られるような妙に生暖かい、「感動の人間ドラマ」みたいなものを明らかに否定しているんです。素浪人の格好良さとはつまりそのようなところにある。決して表には出ない、すべてを行動だけで示す、嫌われるとか好かれるとか格好いいとか悪いとかそういう価値観のすべてを排した場所に、あの役柄は生きてくる。あの、乱暴な優しさが今の映画からは失われている気がしてなりません。

他の役者で言うと、山田五十鈴がいいですね。ものすごく性格が悪そうな女主人。あの女主人と、丑寅方のぼんくらとが三船を取り合ったりするシーンなど、すごく愉快。仲代達矢の危ない感じもいいし、ジャイアント馬場みたいな人もいい。そういういかにも一筋縄ではいかなそうなやつらの間をかいくぐり、ぼこぼこにされつつも最後に勝利していく、それまでの筋書きはやはりすごくいいじゃないですか。あのー、叙情に逃げていないというのが好ましいんです。すべて三船の無頼漢ぶりの中でうまくまわされていくあの筋立ては、叙情的に夫婦愛だの家族愛だのを描きたてるものよりもはるかに見ていて気持ちがいいです。ならず者ぞろいのばくち打ち集団二組を、腕力と計略ですべて動かそうとしていく、あんなに格好良すぎる役柄に、ばっちり三船がはまって、これはやはり傑作になるわけです。場所の風情があるのはいわずもがな。
 今は『椿三十郎』とか、次の『隠し砦』とかありますが、よく言われることですけど、リメイクには無理があるんです。それはね、黒沢明という巨匠の作品を云々とは別に、やはり三船敏郎という絶対的なまでにすごい役者の出てくる作品を、今の役者でやるということに無理があるんです。ジャニタレでどうするっていうのですか。そんなことをするくらいなら、一本でも多くの黒沢作品(当然もともとの黒沢作品を)をテレビで流してほしいですね、ってまあ、そんなことを言ってもどうしようもないんですけれども。この辺で。
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 もし観るなら、暁覚えぬ春ごろに、何の期待もなくぼけえっと観るといいでしょう
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 新宿のマスターにもらいました。ありがとうございました。
『花よりもなほ』は若干長く感じました。二時間ちょっとなんですけど、この手の映画だと百分くらいが心地よい。なぜだろうなと考えると、いくつかの要因に思い当たります。

まず、この映画にはあまり風情を感じることが出来なかった。まあこれは人それぞれあるものですから、あくまでも個人的なものなんですけれども、こうした映画においてかなり重要な要素であるその空間の風情が、あまり香ってこなかったんですね。舞台は汚い長屋というきわめてにおい立つ場所であるはずなのに、醸されるものがあまりなかった。汚い長屋を汚く映すことが大事で、その汚さが逆に映画の美しさに変わっていく。ドブネズミみたいな美しさ、たとえば黒沢明の『どん底』にはそれがあります。この長屋は『どん底』ほどの汚い場所ではないにしても、もう少し汚れてほしかった。その点に風情のなさを感じたのかもしれません。

いや、わかるんです。これはもっと朗らかな話ですから、ことさらに汚さを押し出す必要はない。だとしても、やはり風情は保ってほしかった。宮沢りえが綺麗過ぎるんです。誇りっぽさもなくてやたらに綺麗過ぎて、それはまあ岡田准一についてもそうなんですけど、せっかくの時代劇なのに、時代劇風情がなさ過ぎて、現代の話でも別にええんちゃうんけと思ってしまった。

やたらと芸人が出てきたのは何なのでしょうね。BGMが示すように、この映画の陽気さを保つ上で有用な存在と考えて起用したのでしょうか。よかったのは上島竜兵です。千原兄は最初から最後まで千原だったんですが、上島竜兵に関してはその汚れ具合もいいし、映画の風合いにもそぐう働きをしていた。芸人では板尾が俳優として活躍していますが、上島竜兵ももっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。反対に、木村祐一はミスキャストでした。演技どうこうではなくて、あの役に木村はない。なんなら古田新太と役柄を交換したほうがよかったんじゃないかと思えてなりません。古田は『木更津キャッツアイ』のオジーなど変な役をしているので、岡田も出ているし、今回もそれをすると同じような感じになるかな、と回避したのかもしれませんが、木村祐一の役は移入を阻害しました。ああいう役であればもっと若い俳優を使って新しい才能を発掘する機会にしてほしいなと個人的には思います。トミーズ雅が出てくるなど、「この監督は物語に観客を引き込む気があるのだろうか?」と思えてなりませんでした。ああいう形にすると間違いなく、一瞬観客は没入を疎外されるんです。作品世界に見入っていたのに、「あっ、トミーズ雅だ」という余計な驚きが入ってしまう。最近の日本映画はそういうのが多いです。これは苦言を呈したいところです。それを遊びに使うのは悪くないけど、あそこでトミーズ雅を起用する理由が、映画的には何もない。事務所的にはあるかもしれないけど、そんな事情は知りません。

長く感じた要因はいくつかありますが、ちょいちょい入れる甘ったるいシーンがそのひとつです。子供と岡田が話すところとか、観客への媚という感じが強くて辟易しました。子供をかわいらしく描きすぎている。かわいらしい子役を出しすぎている。これが風情が死んでしまったもうひとつの理由です。汚い長屋に暮らすならばもっと汚くないと趣がない。阿呆な女子供の客は「子役の子がかわいかったあ」などと鑑賞後にほざくかもしれませんが、かわいい子役を見たければ一日中NHK教育でも眺めていてほしいですね。この映画において子供は完全に小道具化していたので風情を助けず、むしろ邪魔でした。復讐を済ませたという芝居をするところでも、宮沢りえが子供を抱きながらだらだら喋る、それに岡田が何事かを感じる………ああいうのがどうにも粋ではない。もっとさりげなくやってほしいですね。子どもが宮沢りえの夫の似顔絵を見せるじゃないですか、それが仇討ちの指名手配の絵になっている。それで十分なんですよ、岡田が復讐の意をとどめようとするのは。それをあそこまでくさいやり方でするとなると、いやはやむしろ怒るべきは観客のほうに対してなのかもしれません。

もっとも、結構辛口で話しましたが、決してそこまで悪いわけではないです。あのー、うん、BGMの軽快さが印象に残っていて、これね、中高時代の春休みくらいに観るとよかったかもしれないですね、もしくは五月前くらいのちょっとあったかくなってきたなあってくらいの時期。新年度でどたばたしつつも、特別に大きな悩みもない時期。それくらいにふらっと映画館に入ってぼけっと観る、そんな感じの映画ですね。逆に言うと、あまり真剣に観ると見返りがないので、こうしてちょいと辛口になってしまいます。この辺で。
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ある意味で、こんなに困惑させる映画を僕は知らない
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ロバート・アルトマンという監督のことを、僕はぜんぜん知りませんでした。名匠として名高い人らしいのですがまったく知らなくて、この遺作が初鑑賞になります。新宿のバーでもらいました。マスター、ありがとうございました。映画のことを語れるバーが二件あって、一件では2007年のベストワンと伺い、もう一件ではぴんと来なかったと聞きました。キネ旬では昨年の第三位でした。

 さて、映画についてです。
 時間が気にならない映画というのには二種類あります。ひとつにはとても面白い映画、もうひとつには引っかかるものがないまま流れるように過ぎていく映画。この作品に関して言えば、僕の場合、後者でした。

 ストーリーのあるなしというのは映画の出来不出来に関係ありません。ストーリーがよくてもつまらないものはつまらないし、ストーリーがなくてもいいものはいい。この映画は長年続いた劇場の最後の日の話ですが、ストーリーはないようなものです。ではそうした映画に何が問われるかというと、ひとつには風情の問題があって、この映画にはどうにも風情を感じることが出来なかったんです。

ちょっとわからないのは、この映画が、こうした映画でいくらでもできるはずのことをすべて外してきていること。その外し方が徹底されているので、あるいは別の意図があるのかもしれません。たとえば、こうした劇場映画の場合、その限定空間性がひとつの武器になります。ひとつの場所で複数の人間がいる場合、あちこちに動き回る映画よりも舞台の濃度を格段に高められる。人々の間ではなく、その場所に映画としての息吹が宿る。三谷幸喜が好例ですが、ドラマでいえば『王様のレストラン』『今夜、宇宙の片隅で』『総理と呼ばないで』、映画で言えば『ラヂオの時間』『THE・有頂天ホテル』、脚本のみ携わった映画ならば『笑の大学』、こうした作品群においてはほぼひとつの場所、ひとつの舞台だけで話が進行した。その中で、場所にこそ宿るものがあった。誰もいなかったとしても、そこに何事かを感じさせる、限定空間性を大いに拡張した映像作品です。舞台出身の三谷ですから特になんでしょうけれど、そうでなくても限定された空間には、人々の生み出す独特の空気が自然に生まれてくるんです。ここで紹介した作品では『カッコーの巣の上で』が好例でしょう。しかしこの『今宵、フィッツジェラルド劇場』には、そうした限定空間の濃度がないんです。これがわからないところです。作り出そうとしてしくじっているわけではない。むしろ、そうした限定空間性を活かすことを回避しているようにさえ見える。それは登場人物が画面に映るときの大きさからも明らかです。この映画では登場人物たちに寄ったショットが多い。そして引いたショットは極めて少ない。これにより、狭い空間がさらに狭く感じられ、この劇場の広がりがまったく掴めず、なおかつどういう構造を有しているのかも明らかではない。劇場の外観も入り口が示されるばかりです。悪いといっているのではない。その意図が僕にはわからないということです。

ではその大写しになった登場人物たちに息吹があるかといえばそれもない。長く続いている劇場といいつつもそのことを傍証するような趣はなく、出てくる人々がどのようなバックボーンを抱えているのか、どういう性格があるのかもただ語られるばかりで一向に示されはしない。それは意図的と見るより仕方がありません。彼らは喋る駒でしかなく、そこには彼らの来歴を浮かび上がらせるものが何もない、たとえ妊娠した女性がいても、彼女のことが後は何もわからない。老人が死んだと言って皆が悲しんでも、彼ら彼女らとあの老人のこれまでを描き出すものがないので、こちらには何も伝わらない。繰り返しますが、それを悪いといっているのではなく、ここまで徹底的に、何一つ印象に残らないようにつくっているそのつくりの意図が、僕には見えないということです。使えるものが目の前に沢山ある。でもそれに対して完璧にそっぽを向いている。その理由がわからないんです。

そんな一方で、天使を名乗る女が出てきます。まったくもって天使らしくない彼女。ここでも外してきています。ショーの場面にしても、完璧に薄い登場人物たちが歌っているだけです。この映画はその意味で難しいです。何かを仕掛けようとしてしくじっているわけではない。むしろ何も仕掛けようとしていない。何かが起こってもよさそうな舞台設定で観客をひきつけながら、これほどまでにすべての効果を殺している映画はあるものではない。何度も言います。悪く言っているのではない。むしろこれは、僕の映画を観る目がまだまだ足りないという自分の無力さの表明と受け取ってもらうほうが穏当でしょう。ストーリーがないのに、風情もない。深みを出すことをむしろ嫌っているようにさえ見える。ある意味で、こんなに困惑する映画はない。明確な評価は避けたいです。このアルトマンという人のほかの映画を観ないことには、本当に何もいえない。

映画をいいと思うか悪いと思うかは、畢竟感覚的なものです。その映画から感じる得体の知れぬものを愛でることが醍醐味であり、その得体が知れないからこそ個人個人の独自のフェイバリットが生まれる。この映画について言えば、どういう人がどういう風情を感じるのか、僕にはまったくわからないんです。今度、新宿で聞いてきます。
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これまで27本の映画について、感想を述べてきました。今後も書き続けていきたいと思いますが、節目節目にはこうして特定の映画についてではない文章を書くのもいいと思いまして、記すことにします。ところで、この記事をアップした現在、コメントがひとつもないというのは実にさびしい限りです。どうせ自分のために書いているようなものだからいいのですけれど、何事かの反応があると嬉しいので、一応コメントを期待、歓迎しておりますという旨、ここに伝えておきます。

まあ、コメントが来ないのは仕方ありません。そもそもこのブログのことをほとんど身近な人には教えていないし、それ以前に映画について語れる「身近な人」というのがほとんどいないし、そうでなくてもここに上げている中に最新作など皆無で、時には60年近くのものを語る始末で、ならばそれだけに足る映画的教養というのがあるのかと言われればこれまたぐうの音も出ぬ次第で、ゆえに今日も今日とて見返りのなさそうな文章をだらだらと書くわけであります。

さて、長々と書きつつ、そんなことはどうでもいいのです。
僕はこのブログを映画の話をするために始めたのだし、続けているのです。なので映画の話をしたいと思います。

とて、先ほども述べたように、僕は映画についていまだそれほどの知識も教養も有しておりませぬ。有名どころでも観ていないものが数多くあり、ちょいとした映画好きの中に入れば僕などまったくのひよっこであります。ひよっこであることについて恥じらいはありませぬ。むしろ前にも書いたように、ひよっこであるからこそこれから、「非・ひよっこ」の人々が既に感じ終えてしまった感動に多く出会えるのです。

僕が映画を観るようになったのは昨年の十月初めからです。なんと短い映画歴でありましょう。もちろんそれまでにもちょいちょいとは観ていましたが、あくまでもちょいちょいであって、年に数十本程度のものでした。一週間に一本も観ていなかったと思います。今はどうかというと、毎日一本は観るようにしております。もちろん観られない日もあるのですが、去年の十月から数えれば、百十七本ほど見ております。このままの計算でいくと年間三百本ペースということですから、ひよっこなりには頑張っているほうでしょう。

もとより、何本観たから偉いとか、沢山映画を観ているからすごいとか、そういう考え方は嫌いです。いくら映画を観たって何も学べない人もいれば、一本の映画から百の学びを得る人もいることでしょう。そしてすばらしいのは無論後者であって、僕も観るからには出来る限りの学びを得ていきたいと思うのです。

このブログでは古いものも扱っています。規則性はありません。観たいと思ったものを観て、書いているだけです。最新映画を観るということはほとんどありません。理由は大きく分けて四つあります。
ひとつ、映画館に行くのが面倒くさいということ。ひよっこなりに曲りなりに映画好きを自称しながら、なんと馬鹿げたことでしょう、とお思いかもしれませんが、僕は生粋の出不精でありまして、映画館なる場所に行くのが億劫なのです。自分の部屋でDVDで鑑賞するのが好きなのです。もちろん映画館に出向くこともありますが、稀です。僕の観たいと思う波長が、公開されているものと合った場合は観に行きますが、そのこと自体が稀なのです。
ふたつ、映画館に行くとお金がかかるということ。僕はお世辞にも裕福とは言えぬ生活を送っているものですから、そんなに頻繁に映画館に行けぬのです。名画座なら二本立てで千円くらいですからまだいいですが、最新映画の場合、一本だけでもっとかかります。DVDであれば、全品半額レンタルの日に出かければ一本百八十円です。どちらがいいかは言うに及びません。
みっつ、最新映画に期待できないこと。僕は新しい映画についてあまり期待を持ちません。好きな監督のものなら別ですが、特に日本映画の場合などはリスキーでありまして、ひどい映画に捕まったらと思うと怖くて仕方がないのです。どうしようもない映画を観て、それだけでもくたくたなのに、あげくに横の席で阿呆が涙ぐんでいて御覧なさい。僕にはその人を殴らない自信がありません。口コミなるコミュニケーションがありまして、今はネットなどというものもありますから、評判を聞くことは出来ますけれども、基本的に僕は世間の評価なるものを信用しないので、これについてもあまり意味はありません。
よっつ、これが一番大事ですが、古い映画でも観るべきものはまだまだ山ほどあるということ。1895年にリュミエール兄弟が創始してからというもの、全世界で百年以上にわたる歴史が紡がれてきたのです。一生かかっても観きれないほどの財産があるのです。何を最新のものを追っかける必要がありましょうか。古い映画はほとんど観ちゃった、もう新しいものくらいしか観るものがないよ、というすごい人なら別ですが、僕はまだまだひよっこです。歴史上の名作偉作を観ずして、映画を真に捉えることが出来ましょうか。古い時代のものを知らないということはつまり、歴史を知らぬことへのコンプレックスを喚起するわけです。これと向き合うことなしに、映画と向き合うことは出来ぬと僕は考えるのです。まずはいいものを観ること。優れた人々の残した作品に向き合うこと、最新のものを追いかけるのはその後で十分です。ゆえに僕はおそらく今後も、最新映画を観に映画館に出向くということはほとんどないと思います。

映画は実にいろいろなことを教えてくれます。今までずっと見過ごしてきた分、そのすばらしさに打たれ続けています。適当な娯楽として観るのもいいでしょうけれど、映画が適当な娯楽化しすぎて今のテレビのようになってからでは遅いのです。今後も、絶えず敬意を抱きながら、より真摯に映画を観続けたいと思うばかりです。心から。
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# by karasmoker | 2008-02-18 21:11 | Comments(0)
遠景は見えるが、主題がぼけている ~キネ旬は在日びいきなの?~ 
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在日朝鮮人をひとつの主題として扱った映画で観たことがあるのは、『パッチギ!』とその続編、それから『GO』『血と骨』程度のものなんですけれども、その中では最初の『パッチギ!』がずば抜けています。続編は不味かったですけれど、ほとんどDVDを買わない僕が購入したくらいですからね。『GO』は不味かった。行定勲監督というのはどうにも肌に合いません。二十代の俳優では最も好きな窪塚洋介が主演で、期待していたんですけれど、どうにも味わえなかったです。『GO』は2001年度キネマ旬報第一位を獲得していますが、なんで?と思うほかありません。

さて、それ同様、1993年度にキネ旬第一位を獲得している『月はどっちに出ている』です。キネ旬は在日映画びいきなのでしょうか。『パッチギ!』の2005年度一位はいいとして、『血と骨』の2004年度二位もまあいいとしても、『GO』を一位にするなど、あまりにも出来すぎているくらい在日ムービーへの評価が高いです。そして、『月はどっちに出ている』を第一位にすることに異論があるかといわれれば、僕はあると言う方になりました。

映画の内容に入る前に書いておくこととして、1993年辺りの邦画というのは、今にして観ると一番古臭く感じる、ということです。外国映画はその国のことを知らないからあまり思いませんし、日本映画でも80年代以前になればその古さに新鮮さを感じたりするんですけど、1993年辺りは端的に古臭い感じがしてしまいますね。いや、だからといって映画の評価に影響を与えるものではないんですが、そういう印象は強く感じたもので。

この映画については、あまり楽しめはしませんでした。というか、特別に光るものを感じ取ることが出来なかった。この映画を褒めようと思ってあれこれ頭をひねっても、どうにも出てこない。在日朝鮮人、あるいはルビー・モレノのフィリピーナやハッサンというアラブ人のドライバー、そうした人々が日本で生きていく姿を主題として描く中で、どうもどれをとっても掘り下げられている感じがしない。じゃあそういうものを無視して、たとえばひとつの恋愛映画として考えたらどうかというと、これまた別に特筆すべき点を見出すことも出来なかったし、「人々の何気ない生活」的映画として観ても、風合いや間の取り方、テンポや動きに魅せられることもなかった。こうなってくると、在日外国人を取り上げた映画という珍しさだけで走ってしまったんじゃないかという気がしてしまいます。在日という主題を用いたとき、たとえば『パッチギ!』では衝突と融和を描いていました。出来自体は肌に合いませんでしたが、『GO』においては自分の異質さ、自分の異物性をひとつの主軸としていた。ところがこの『月はどっちに出ている』の場合、在日という記号が持つ何事かを有用に活用していないように思われた。衝突はちりばめられている、特殊な自己意識も入り混じっている、しかしどれも光ってこない。僕が受けた印象はそういうところです。うん、微妙なところでは表現されていたのかもしれない。もしかすると僕の気づかない、在日外国人たちにとっての「あるある」はあったかもしれませんね。崔監督も韓国籍だというし。でも、日本公開である以上はもっとはっきりとしたものがほしかったなあと思います。

なぜ光ってこないのかなあと思って考えると、岸谷五朗のキャラクターがちょっと好きになれなかったというのがあるかもしれません。軽薄な感じはいいんですが、どうもちょっと寒かったです。岸谷五朗が悪いのではなくて、その役の動きが寒いと言いましょうか。あれではまるで中居正広の演技です。中居正広はどれだけ頑張っても重みのある演技ができないと僕は思っているのですが、その中居正広的演技を今回の岸谷には感じた。わかりにくいですかね。岸谷五朗は一生懸命やっている、でもその演技を演出する側が「中居正広のようにやれ」と言っているみたい、という印象を僕は語っているのです。笑いの部分はほかでもちょっと鬱陶しかったかな、金田明夫の絡む「自分はどこにいるのでしょう」のくだりとか、「金貸してくれよ」の電話のくだりとかね、なんというか、本当にべたべたで古臭い。

ルビー・モレノはよかったと思います。会話の間、言葉の間がいい。これで脚光を浴びたらしいですね。でも、ウィキペディアを参照する限りはあまり活躍していないようでもあります。東南アジア人枠というのは日本の芸能界でも俳優界でも空いているところだと思うんですが、あまり馴染まないのでしょうか。何故か東南アジア枠は誰も出てこないですね。映画とはまったく関係ないですが、僕にはフィリピンパブなるものの存在理由がまったくわかりません。僕に「東南アジア美女萌え」用アンテナがないせいかもしれません。

他の役者で言うと、「一瞬金貸してくれよ」の人が印象的ですね。あの人がまた腹の立つ顔をしているんです。腹の立つ顔をして腹の立つ声で腹の立つことを言うものだから観ているほうまで腹が立ってくる。でもそれは映画に移入しているということでもあるので、あの役はまあよかった。「俺、頭おかしくないだろ?」と言うんですが、やっぱりおかしいんですね。あの、なんとも言えない気持ち悪さというか、現実にいたときにどう対処したらいいかわからない存在というのは面白い。ばたくささとリアルの境界線上にいる感じです。

映画賞も数々受賞したようで、期待しても観たんですが、総じて言えばあまり印象に残る映画ではなかったです。プロデューサーは『パッチギ!』の李鳳宇だし、監督は『血と骨』の崔洋一だし、『69』『フラガール』の李相日監督作品よりも個人的に期待値の高い人々のものだったのですが、もうひとつでした(そういえば、2006年キネ旬一位も在日韓国人監督の『フラガール』だ!やっぱり在日びいきがある!)。今日はこの辺で。
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人間やその身体についての表現として、非常に真摯な作品
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キム・ギドク監督の作品は前々から観たいと思っていて、これが初鑑賞です。ハングルはわからないのですが、英語の原題は『The isl』ですから『島』とかいうことなのでしょうか。『魚と寝る女』という邦題はよくわからないですね。細かいことを言うと、「魚と」の「と」が「Fish and a woman who sleeps」なのか、「A woman who sleeps with fish」なのか迷ってしまうところです。「with fish」だと思うんですけど、「Fish and」のほうだよといわれれば、それはそれでいいような気もしますし。

いいなと思ったのは、やたらと排泄の描写を含んでいるところですね。別に排泄の描写がいいわけではなくて、そういうところを省かずに描いている姿勢が好ましいです。ドラマでも映画でも、人間性を描くとか人間の生き様をどうちゃらというものが多いですが、排泄のシーンというのはほとんど描かれない。食事のシーンを描くものは多いですよね、食卓の風景を描いてそこに何事かをこめようとする作品は数多見受けられます。だけど、食事の後に必ずある排泄のシーンはほぼ必ず省かれる。あるいは、たとえば何もない部屋に長い時間監禁されているとか、ずっと縛られているとかいうシーンがあっても、そのほとんどは排便をしていないんです。「そんだけ長い時間身動きできないなら、絶対漏らしてるやろ」という小さなツッコミが観客の心に生まれても、それはあえて描かないようにされているわけです。でも考えてみればそれは嘘なんですよね。そんなに綺麗なものじゃなくて、もっと動物的な汚さが出るはずなんです。この映画はだからその意味で、大変に汚く、生々しい。そういう排泄の汚い描写を置くからこそ、釣り針の身体的痛みも確かなものとして伝わってくるんです。

この映画を観た多くの人々は、やはりあの釣り針のシーンが印象に残ったことでしょう。飲み込んだり性器に入れたりという、地味ではあるが地味な分だけすごく痛い。銃で撃ったとか殴ったとか、そんなのとはまったく次元の異なる痛みがあります。北野武が映画について語っているのを何かで見聞きして、「痛みの伝わる表現を重視している」というようなことを言っていたのを覚えているのですが、その痛みとはまったく別種の、暴力の痛みとはまた違う鮮烈な身体的苦痛があのシーンにはある。それはひとえに、先ほど述べた排泄のシーンの賜物であって、ああした描写の上にこそ痛みが説得力を帯びるわけです。この点については噂どおり、キム・ギドクの表現のすごさというのを思い知りました。

もうひとつ言うと、僕のこうした感慨については、あれが韓国人という、日本人と外見的にほとんど相違ない人々だったこともあると思います。白人や黒人の場合だと、どうしても外国人のものとして見てしまいますが、韓国人の場合はより日本っぽくて、一方で日本人ほどなじみがないからこそ味わいがあるのです。数年前に韓国のスターがもてはやされましたが、あの背景には、日本人に近しい親しみやすいルックスと、外国人スターという「雲の上の存在」的魅力が交じり合っていたというのがあると思います。親しみやすさと遠い憧れという相反する要素が、一部に熱狂的なファンを生み出した大きな要因でありましょう。韓国映画を観る楽しみ(中国、香港でもいいですが)のひとつには、近さと遠さの混合があると僕は思うのです。

話の筋自体はよくわからないというのが正直なところです。あの女は何なの?というのは一番広く聞かれる感想ではないでしょうか。怖いですよね、いきなり海に引きずりこまれたり縛られたり。娼婦の女は可哀想なもんです。楽しみに男に会いに来たのに、すぐに縛られたあげく湖に落ちて死んでしまうんですから。主人公の女があの男になぜそこまで入れ込んだのかもよくわからない。娼婦と男がセックスをしているときに、部屋の中の穴から見ているなんて、これは怖いですよー。僕があの男だったら「うわあ、なんやねん、絶対あかん人やん、あかんほうの人やん」と思ってしまいます。ただあの感じのルックスは気持ちいいところですね。綺麗過ぎては駄目なんですよ、絶対。綺麗だったらちょっと神秘的みたいになってしまいますけど、ぜんぜん神秘的ではなくて、何を考えているかわからない、獣くさい怖さがありますから。そういう怖さがあって、なおかつまったく喋らないという。まったく喋らずにセックスを覗いていたり、女を殺していたり、これが普通の街中の話であれば、完璧にキチガイですからね。ラストシーンも、多くの人々同様に疑問符がもっさりです。キム・ギドクという人はかつて引退宣言をして自分の作品をゴミ扱いしたりなどした、なかなかこれまた精神的に怖そうな人ですから、ちょいと解釈に困ってしまいます。もっと多く観てみないとなんともいえません。

今回一番勉強になったのは、身体的なものについてですね。排泄や釣り針もさりながら、体を切られた魚が泳いでいるところの印象も強いし、セックスシーンがこれまた男の腰の動きばかり目立ってちっとも美しくないし、人間や生物の汚いところをちゃんと描いているからこそ、その表現に信用が置けるというのがあります。ストーリーこそ完璧には咀嚼できていませんが、生半可な「人間ドラマ」よりははるかに良質なものだったように思いました。この辺で。
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別の視点から描いたらさらに面白くなったのに、という感じがあります
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レオナルド・ディカプリオという俳優はどうも逞しい役として見られないんです、僕には。一時期、僕が中学生くらいのころでしょうか、ディカプリオとブラッド・ピットが双璧の人気を博していたような記憶がおぼろにあって、それで比較してしまいがちなのですが、断然ブラッド・ピットのほうが好きなんです。ディカプリオは日本の俳優で言うと、妻夫木聡のイメージに近いです。軽い役とかさわやかな役をする分にはいいけど、逞しさを見せようとするとどこか頼りない感じがするというか。

さて、『ギャング・オブ・ニューヨーク』ですが、二時間半以上あるけれど飽きずに見られました。ひとえにディカプリオの敵役、ダニエル・デイ=ルイスの功績です。『存在の耐えられない軽さ』(1988)の主役の人だったんですね、ネットで調べて知りました。あの映画はあまり好きじゃなかったし随分と前に観たので、同じ役者とはまったく思いませんでした。魅力的な敵役というのは時として主役を超えます。『レオン』(1994)に出てくるゲイリー・オールドマンしかり、『ブラック・レイン』(1989)の松田優作しかり。設定上、役柄上の魅力もさりながら、やはり役者としてその役にはまるとすごく印象に残る。今回の『ギャング・オブ・ニューヨーク』もいわばデイ=ルイスの映画であって、この映画で数々の賞を受賞したというのも頷けます。デイ=ルイス側の話として描いたら、別の面白さがきっとあるはずです。彼が上り詰めていく過程というのは非常に面白そうじゃないですか。そのほうが非常に活気ある街の全景が見渡せる気がしますし。ブラジル映画の『シティ・オブ・ゴッド』という映画はそういう目線で撮られていまして、これもなかなかよかった。ディカプリオの復讐劇になってしまって、どうも話が小さくなってしまったようにも思う。主役の座を完璧に食ったデイ=ルイスの魅力のせいで、ディカプリオが邪魔にすら思えてしまいましたね。

脇役としてはキャメロン・ディアスもよかったですが、役設定自体はそうでもなかったように思います。スリの女なのですが、あれがディカプリオの女になってしまうのは嫌ですね。ちょっと離れているくらいがちょうどよかったんですけれど、がっつり肉体関係を持ってしまうとあの女の魅力が出てこない。なんならもっとわかりやすく、最初からデイ=ルイスの女として置いたほうが活きたんじゃないかと、勝手に思っています。あるいはスリの女のあれこれをもっと知りたかったかな。ここでもディカプリオが余計なことをしたわけです。女性ということで言うと、ほんのワンシーンなのですが、切り取った耳をカウンターに置いて酒のサーバーから直飲みするあの女性は魅力的でした。ほんの一瞬だけど格好良かった。あの街はギャングの群れが沢山あるので、その中の人々の話ももっと見てみたかったというのがあります。ディカプリオが出ずっぱりでほとんど彼の話なので、その辺がちょっと残念でした。うん、なまじ恋愛を絡めてこられるとちょっと退屈してしまうところもあります、この種の映画だと。

ニューヨークの歴史に疎かったので、その辺は己の無知を恥じ入るばかりです。知識があればもっと面白くなっただろうなというのはありますね。徴兵暴動なんて史実さえ僕はぜんぜん知りませんでしたから。いやはや、何も知らぬ戯けであります。

総じて、街の世界観も好きだし、敵は魅力的だしということでなかなか楽しめました。その分、ディカプリオにもうひとつの働きを期待したかったところであります。世間的にはこの映画はディカプリオの映画とされてしまうのでしょうがとんでもない。明らかにデイ=ルイスの映画であって、イケメン俳優がどうたらという阿呆のような世間の見方は早くなくなってほしいものだと、切に願うばかりであります。
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タイトルが皮肉な作品です
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巨大な彗星が地球に落ちてくる話ですが、こういう映画の場合難しいのは、どこで彗星を落とすかということです。序盤でカタストロフを起こしてその後の世界を描くか、それとも最後の最後まで引っ張るか、この映画の場合は後者でしたけど、そうなるとそこにいたるまでの物語が難しくなります。これが戦争映画だったりしたら、その発端までの過程が緊迫感を持つんですけど、彗星が落ちてくるというだけだとなかなか難しい。実際にこういうことが起きたら、手が出しようがないというのが人々の発想になるわけですけど、この映画自体にもそんな感じを受けました。見せ場までをどう引っ張るかに労している感じを見受けます。手の出しようがなく、現実感も希薄な分だけ、人々の動きをあまり躍動させられない。ここは難しいところです。

手の出しようがない出来事、となると、人々の間でパニックを起こすと面白くなる。この映画で総指揮に回っているスピルバーグが監督した『宇宙戦争』(2005)において最も白熱していたのは、宇宙人が攻撃してくるところよりもむしろ人間同士が鬼の形相で助かりたがるところ。得体の知れぬもの、抗いようのないものを登場させたときには、それとの対峙模様もさりながら、人間模様が見ものなんです。単に逃げ惑う駒として人間を配置するのではなく、そこでむき出しになる人間性、助かりたいと願う一心不乱の狂態が、物語における危機感を演出する。今回の場合で言うと、それがあまりにもなかったのでびっくりしました。これではせっかく彗星を落としても、落とし甲斐がありません。

早い段階で、小さなものでもいいから、彗星を落としておくべきだったのではないかと思うんです。それを前ふりにして、「今度はこの彗星の数十倍のものが落ちてくるぞ」と煽りを入れれば、逃げ惑う人々にも緊迫感が生まれた。ところがこの映画に出てくる一般の人々は、どうにもたるんでいるんです。百万人を地下に誘導するという出来事で、家族が離れ離れになるんですけど、そういういくらでも遊びようのあるイベントでも、あくまでも主人公家族だけがごちょごちょ言うている。もっと他にも混乱の描きぶりあるやろ、と思って仕方がありませんでした。主要登場人物以外が全部風景になっています。いや、それならそれでいい。しかしそれなら風景をもっと演出しないと、肝心の登場人物たちの緊張感も伝わってこない。それでやっていることといえば、結婚式の様子だとかなんだとか、どうでもいいんです。あげくにバイクで走った少年と少女はすぐに山に行って助かる、どうしようもないです。

宇宙船の飛行士たちが頑張るシーンは緊迫感もあるのですが、ここでもまた家族のドラマをちょっと入れるくらいで、重みがなさ過ぎる。宇宙飛行士の家族のドラマをもっと入れて、訳のわからんどうでもええ家族のことなんてほっといたほうが絶対面白くなったと思うんです。これは同年公開への『アルマゲドン』への配慮のにおいがして嫌でした。「あまり宇宙飛行士の家族の話膨らませんといて、それされると、こっち、ごっつ被ってまうから」という交渉があったんじゃないでしょうか、嫌な感じです。宇宙飛行士の人間性も何もないものだから、最後に彼らが死んでも別に感動もない。ニュースキャスターの話でも、最後に親父と抱き合って津波に潔く飲まれてってなんじゃそりゃ。あのー、どうしようもない状況でそうなるっていうのなら、それはそれでいいシーンなんです。何か事情があって絶対に動けなくてとか言うなら、津波に潔く飲まれるところにも趣が生まれる。ところがこいつらは自分から助かろうともせずにそんなことをしているものだから、これまでニュースキャスターの話を見せられてきたほうとしてはたまらないんです。

この映画のほめ言葉で、人間ドラマ云々というのがありますが、何を言っているのかわからない。主要登場人物たちの人間ドラマを演出するべき背景の人々にはまったく緊張感も緊迫感もないし、肝心の主要な人たちもてんでお粗末だし。そういうことについてどういう風に観ているのでしょうか、気になります。

だからその意味でラスト、宇宙飛行士が決死で大きな彗星を破壊するというのも、どうなのかと思ってしまう。あれなら、宇宙飛行士が飛び込んでいってさてどうなる?のところでエンディングロールを流しつつ背景化するほうがいいような気がする。地球と彗星を捉えて、どんどん迫り行くショットにして、そのままロールに行ってフェードアウト、のほうがいいなあ。この映画の場合、ハッピーエンドにされてもあまり意味がない。絶望的な宇宙のショットを置けばそれこそひとつの「ディープ・インパクト」なラストシーンになったと思うんですが、それを回避してしまっては、この映画のタイトルごと崩れ去ってしまいます。今日は辛口でした。いい映画をもろ手を挙げて賞賛する分、一方ではこういう書き方もしてしまうものです。この辺で。
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めちゃくちゃですけど、なんだか憎めないです
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これは評価が分かれやすい作品だと思いますね。それも、いい悪いのまっぷたつでなく、絶賛から酷評まで満遍なく別れるというか。僕はといえば、結構楽しめたほうです。映画は観たときのコンディションによっても左右してしまいますけど、こういうのが観たいときだったりもしたので、よかったです。

細かいことを言い出すとアラはそりゃあるんですよ。携帯電話のくだりがわかりやすいですけど、なぜかけ直せないのかよくわからないし、電話があったというのは携帯電話ならば着信履歴で明らかだし、この辺はたぶん監督も悩んだことでしょう。「死んだと思った娘が生きているとわからないといけないなあ、ああ、そのためには携帯電話使うしかないなあ、でも携帯電話使うとなると相手の携帯に繋がるから着信履歴とかあるけどなあ、まあその辺はええか、さらっと行こ」みたいな感じになったのかもしれません。結構序盤ですから、その部分で気になってしまってという人も相当数いたはずです。警察も軍隊もぜんぜん動こうとしないし、そのくせやたらとあのおっさんを捕まえることだけには必死だし、考えるまでもなく明らかにおかしいですよね。「菌を持っているかもしれない人間や」ということでテレビ局までぎゃあぎゃあ言うといて、「菌の源泉」であるはずの怪物相手にぜんぜん動いてないですから。そりゃあもう、めちゃくちゃなことは多いです。

ただまあ、日本映画と比較して考えたときに、やっぱり韓国のものって泥臭いんですよ、そういう泥臭さは日本映画が今決定的に失っているところなので、そこはいいんです。日本であんな売店で暮らしている人なんて今、いないですからね。日本でやると普通の会社員の家族がどうたらになってしまったりすると思うんです。ハリウッドでもそうですよ、あんなコンテナみたいなところで暮らす人の話にはしないですよ。そういう背景のもとに、あの地下の部分が効いてくると思うんです。今の日本映画だとあの汚さは出ないと思うんです。微妙なところですけど、今の日本映画にはない面の汚し方というか、とても泥臭い感じがあります。まあ昔の日本映画に泥臭いものは沢山ありますが、現代のCGと泥臭さの結びつきを保てるのは、やはり韓国という国なんですね。おっさんの死に様ひとつとっても、既に日本映画が失った泥っぽさがあります。これは映画技術云々よりも、その国のもっている空気によるものだと思います。

内容の話をすると、娘を探している家族たちのもとにその娘がいきなり出てきて、実体的にものを食べたり触ったりするシーンがあるのですが、あれは何なのでしょう。帰らないことを暗示しているシーンなんでしょうか。あの子供を死なせるか死なせないかというのは難しいところですね。たぶん監督によるでしょう。どちらでも行けるような感じでしたし、結局はっきりと死んだとわからせていないですよね、死んでいるんでしょうけど、百パーセントの確証を持たせていないじゃないですか、最後雪の降るコンテナを映したシーンに、子供が走り寄っていくショットがあれば、それだけで印象は反転します。どうするか迷った挙句、あの形にした感じがしますね。でもそれなら、生きているでええやないかという感じもします。何事もなかったかのようにして平和な食卓になっていましたが、それなら本当に何もなかったように見せて、普通にあの孤児の子供と娘と親父とで、なんてことない食事風景にすればいい。もう、本当に何もなかったくらいまで行ききると逆に気持ちいいというか、なんならおっさんの親父がいてもええのかなくらいの感じ。僕だったらじいちゃんまでは出さなくても、娘を何のせりふも説明もなく、あそこにいさせたいと思いました。

怪物についてですが、あれはあれでまあ気持ちいいサイズではありますね。なんというか、軍隊が出動しにくいレベルとでも言いますか。「これ警察が動く?」「いや、軍隊やろ、せっかくあんねんから」「そうか、でも警察でなんとか行けるんちゃうんけ」「無理やって、あれ近く行ってみ、意外とでかいで」みたいな警察と軍隊のやり取りがあってもよさそうです。ただ、あのアーチェリーの火矢で倒すのはちょっとくさかったです。ホームレスのおっさんもやけに協力的だし。その辺のご都合主義的な感じは確かに成熟していない感じがあるんですけど、まあまあそないに厳しく言わんとこうや、というのが僕の意見です。厳しく言い出したらきりがないんですからね。

うん、そうですね、なんだか嫌いになれない映画です。楽に観られるといいましょうか、褒め言葉になっているかわからないんですけどね。そんな感じで、この辺で。
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もう大体のことは言われ尽くされていますから、あまり書きようがないですね
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世間的にぼろかすに言われていたせいで、「それなら観んでもええわ」と放っておいた作品なんですが、たまたま気が向いて「まあ観たろかい」と思って借りてきました。公開されてからいい評判をぜんぜん聞かなかったですねえ、原作者も怒ってたみたいだし、うん、原作者を怒らせるというのはなかなかのもんです。

アニメ映画全般で言うと、まあさして観てはいないですが、オールタイムベスト1は『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)ですかねえ。ジブリでいうと『紅の豚』(1992)がベストです。

さて、『ゲド戦記』ですが、世間でぼろかすに言われている分、僕は好きになりたいと思って観ました。ところが、うん、そうですねえ、これはねえ、うん。いや、これをたとえば高校生がつくったとなれば、「ものすごい才能が現れた!」という風になるはずなんですよ。高校生でなくても、自分の友達が自主的につくったアニメだと言って見せてきたら、すごいクオリティだというかもしれない。ところがまあそうは行かないわけです。

作画的なことに関して言えば別に文句はないです。『千と千尋』とかを見せられているから今回のものにすごさを感じないかもしれないけれど、酷評されるほどのものじゃない。そういうところにはフェアでありたいですね。悪いところで言えば、やっぱりストーリーとか世界観、そこに付随するメッセージ性なんですねえ、これは仕方がない。ストーリーのことについて、今頃になって細かく言う必要はないでしょうけれど、まあ、もうどうでもええような話です。この映画に際立って褒めるところがあるだろうか?って思ってアマゾンの短いレビューなんか読んだのですが、それでも星五つがそれなりにあるのには驚きました。生と死について考えさせられたとか、子供の微妙な気持ちを表現しているとか、「どこらへんで?」と思いますが、まあそう感じたのならそうなのでしょう。僕は知りません。

僕が気になったのは、間です。テンポや間が映画にとっては大事ですが、この映画の場合はどうにも間が弛んでいる気がしてなりませんでした。もったりしているというかね、もうワンテンポ早くてもいいなと思うんです。そしたらもっと情報量をつめて整合性を取れたはずだし。この映画にとってベストな間が取られていたようには思えない、全体を通じてのことですが。

あとまあね、うん、声優のことはもう書きたくもないです。なんで俳優を使うのか、声優を使おうとしないのか。『ザ・シンプソンズ』について去年一部で問題提起がされていましたけど、もういいです。いや、やっぱりよくないので一言書いておきたいです。僕ね、『ハウルの動く城』を観ていないんです。観たいんですよ、『ゲド戦記』ほど評判も悪くないし。でもね、もうキムタクが頭にこびりついているから嫌なんです。こう書くとキムタクを嫌っているのかと思われそうですがそうではなくて、ちゃんとした声優を使わずにキムタクに頼るような発想がもう嫌いなんです。あげくに映画を観て「キムタクの声が格好いい」などとほざく輩まで出る始末。それなら是非、『HERO』のDVDを抱いて死んでくださいということなんです。アニメは他のあらゆる映画よりも、純粋世界の構築においては絶対的に優位なんです。カメラに意図せぬ対象が映りこむこともない。天候も環境も自分の好きなように変えることが出来る。なんなら作り始めた後であっても、キャラクターの顔をすっかり変えることだって不可能ではない。作り手が神になれる、世界のすべてを自分で作れる純粋な映像がアニメです。そしてそれに命を吹き込むのが声優でしょう。声優の畑をちゃんと耕さないと駄目なんです。そういう考え方を持たないっていうのはあまりにもひどい。「そのほうが収益が上がる」とか言うかもしれないけれど、収益が上がって結局飯を食うのはそいつらですから、「収益が上がる」じゃなくて「自分の利益になる」が正確な言葉です。でも確かに収益は上がるかもしれない、だったら先ほど言ったように、キムタクの声を愛でてるやつらが最悪なんです。いい加減にしてほしいところです。それで何かい、収益を上げまくって儲けてできた作品が『ゲド戦記』かい。はは、おもろ。

声優問題について言うとうるさくなるので、この辺にしておきましょう。ともかく、今回の作品はやはり僕の肌にも合いませんでした、残念でした。
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政治運動好きな若者がどう感じるか、知りたいですね
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 いつもは僕が語るまでもない有名監督の有名作品ばかりを書いているのですが(そして今後も大体そうなるのですが)、今回はちょいと風合いを変えましてこの『新しい神様』です。雨宮処凛という女性を追いかけたもので、右翼バンド『維新赤誠塾』に属する彼女が北朝鮮に渡ったり、日ごろの政治的、自意識的な思いのたけを語ったりなどするドキュメンタリータッチの作品です。

劇映画ではないので物語的なことについてあれこれ書いても仕方なさそうです。やはりこの被写体である雨宮の言動をただ観察していくほかないんですね。ただねえ、うん、いや、これはもう本筋ともこの映画ともぜんぜん関係ないがなということになってしまうんですけど、雨宮があまり美しくはないので、長い時間カメラ目線でずっと喋ったりしていると、僕はちょっと笑ってしまったり、あるいは耐えられなくなったりしてしまいますねえ。あき竹城ベースで片桐はいりが入っているかな、という。それと漫画太郎の登場人物のエキスが数滴入ってるなあという顔立ちで、これねえ、本当のことを言ってしまうと、もし彼女がもっと可愛らしかったらぜんぜん違う感じの映画になったやろなあというのはあるんです。たぶんそうしたら彼女のフォロワーとかすごい増えているでしょうね、うん。「あまみや かりん」ってもう、萌え系のアニメに出てきてもよさそうな名前やのに、ぜんぜんあれだし。なんやろ、めっちゃ単純なことなんですけど。キャバクラに勤めているとあったので驚きました。これは指名なさそうですねえ、というのが大変に失礼な感想のひとつであります。

この映画で語られていることに言及するとねえ、うん、今の僕はものすごくしんどいです。それならこの文章なんて書いても仕方ないんですけど、政治運動的なことと個人的な自意識の関係とかについてはねえ、もう面倒くさくなったというのが正直あるかなあ。ただね、彼女の発言を見ていく中で、家族っていうキーワードが一切出てこなかったのがちょっと気がかりというか、そこをもうちょっとつついてほしかったです、うん。友人がいないわけではないんですよ、「同志」の伊藤もいるし、ちょっとだけ出てくる女性の友人らしき人もいるし、だから家族の存在が気になるんです。個人と国家、なんていう大きなことが出てくるんですけど、その個人が個人として社会化される段階で登場する家族について、一切の言及がなかった。この映画はほとんど彼女のことで埋め尽くされているのだから、なんとかそこについて語ってほしかったんです。家族のことは語りたくない、ならそれでいいから、そういう言明がほしかった。でないとねえ、どうしてもこの人が見えてこないというのがある。結構肝心な部分だと思うんですけどねえ。

政治運動みたいなものって、基本的には嫌いです。うん、なんやろ、僕ね、まあ僕なんて何も知らない子猿ですけども、人を動かすものってね、権力と経済力と魅力の三つがあると思うんです(これの変容体が「法学部」「経済学部」「文学部」という大学の主要文系学部なのかなとも思いますが詳しい言及は避けます)。人はこのうちのどれかに動かされる気がしていて。政治運動ってね、魅力がないんですよ。人を動員するだけの魅力について完璧に欠けている。これはねえ、どんなに正しいことを主張してみてもそこに魅力がなければ、あるいはその人が面白さを感じさせられなければ、やっぱり無力なんです。くるくるぱーであっても魅力があると思われれば、皆そっちに動いてしまうんですよ、これはもうどうしたってそうです。政治運動とかって結局主張主張なんですよ。主張がどんなに正しくても何の魅力もないので、人々は「はいはい、正しい正しい、ね、あんたが正しいわ、それでええやろ」と見向きもしないんです。そんなものに何事かがあるとは思えないんですよ。

と、映画とは無関係なことを語っても楽しくないのでこの辺でやめますが、この映画はでも、政治活動とかそういうのに関心を持つ若者なんかが見るとどういう反応を見せるんでしょうね。大学でそういうサークルに入っている人たちの反応を知りたいというのがあります。結構ね、自分と被る部分とかあるんじゃないですかねえ、彼女の言葉の中のどれかで。ただねえ、それがまた魅力にかかわることで、彼女があまり美しくない。うん、あのー、何回も書くことでもないんですけど、彼女が美貌的に美しくないことは、この映画については案外大きな要因であるような気がするんです、伝わり方という点で。歌もぜんぜん上手じゃないんですねえ。「出入り禁止になった」というのはちょっと笑ってしまった。うん、面白いところもあるかな。あれがすごくうまかったらきっと、別なんです。それはたぶん別になるんですよ。面白さはありますね、何の説明もなく「苦節24年、この映画に賭けてます!」っていう張り紙があったり、あれはちょっと面白いです。あ、でも、そうか、反対に美しくないからこそ伝わるものもあるか。うーん、ちょっとこれ以上語るのはしんどいです。

あとそうだなあ、ちょっと生っぽいかなあという。うん、ドキュメンタリーのことは何にも知らないですけど、好きな生っぽさじゃないんです。生っぽいことが悪いわけではないですけど、それならちゃんと生にしてほしかった。ちょっと映像的に二重にしてみたり、変に編集してみたり、ああいうのをすると嫌な生っぽさになるというか、ばたくさいというか。船の上で漁師さんが釣った魚をおろして食べる。そのときにはもう刺身でいいんです。酢醤油にちょいちょいでいいんです。それが生っぽさのよさなんですけど、この映画ではそこに変な調合のドレッシングをかけてみたり火であぶってみたりみたいなことをしているきらいがあって、そこは好きじゃなかったかな。そうすると、生臭くなるんです、よくない意味で。

この映画についてもっと詳しく言及せよ!と言われればできないこともない。でも、今の僕にはしんどいんです、そりゃあもう、ものすごくいろいろな意味でね。
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傷つけない面白さ、傷つけてもきちんと救う格好よさ
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ビリー・ワイルダー的コメディというのは、もうアメリカにはなくなってしまったのでしょうか。それとも鈍感で情報収集量の少ない僕が見過ごしまくっているだけなのでしょうか。わかりませんけれども、久々にワイルダーのコメディを観て、やっぱりいいなあと思う僕です。太田光が好きな僕は、彼がその著書で再三チャップリンに触れているのを知り、一時期チャップリンを見まくって大体の有名どころは見尽くしているのですが、そこまでぴんとこなかったんです。チャップリンが飛んで跳ねてしているものにそこまで面白さを感じない。やっぱりワイルダーのような、あるいは三谷幸喜のようなコメディにこそ惹かれるのです。ウディ・アレンなども面白いとは思うのですが、その面白さはあくまでもワイルダー的な正当なコメディあってのものだろうなと思うし。

いきなり終わりの話をするのもあれですが、この映画のエンドロール、それぞれの登場人物たちのその後が描かれているのがどうにも好きなんです。あの終わり方がいいのは、不幸の影を見せていないこと。すごく気持ちのいい終わり方ですね。死刑囚は処刑されておらず、睾丸を撃たれた博士も『不能のよろこび』なる著書を記したなど、細かいところにも救いがあって、そういうところはやっぱりいい。無理なくハッピーエンドになっているんです。ジャック・レモンとスーザン・サランドンのカップルが破局したことを知らされても、劇中でレモンが新聞記者として熱中しているのを示しているので、なんら問題ない。別れた女性が子供につけた名前もいいじゃないですか。ああいう風な終わり方はひとつの理想という感じがするんです。いや、さして難しい技巧があるわけじゃないんですけど、観終わった後の爽快感を演出するというかね。

内容についてですが、観客を飽きさせない密度というのは大事ですね。当たり前のことかもしれないけれど、娯楽作品である以上はやはりその当たり前のことが大事で、この映画でもどうでもいいような部分はほとんどない。すべてちゃんと必要な情報としてもたらされているので、弛みがないんです。展開の早いコメディですからそうなるのでしょうけど、僕にはすごく心地いいテンポだった。ぜんぜん時間が気になりませんでした。僕の場合、時間を気にしてしまうことがわりと多いんですけど、これについてはなかった。やはりそれは熟練されたテンポ感ゆえなんでしょうね。リアリティがどうだとかいうことを言われるかもしれませんけど、そんなものはどうでもいいんです、こういう映画については。リアリティというのはもちろん大事な要素ですけど、何もかもに当てはまる金科玉条じゃない。この映画はもっと気楽に楽しめばいいんです。

結構小ネタの部分で好きなのが多いですね。新人記者が小便を漏らして、それが後々フィルムの現像のときに仇になるところとか、ウォルター・マッソーが駅に仕掛けていたあれであるとか、そういう小ネタが充実していると、そのコメディはやはり優れたものになります。うん、小ネタの配置って大事ですね、そこにセンスが出るというか。だから駅の家族役を出すところなんて、本当に、僭越のきわみここにありですけど、ワイルダーはセンスがいいなあと思うわけです。スーザン・サランドンという女優はよく知らなかったのですが、非常に声がセクシーアンドプリティですねえ。あの声はとても好きです。うん、そういうところが印象に残っているところかなあ。

さっきの話に戻るようですが、誰も傷つけないというのはやっぱり格好いいんですよ。何かにつけて穏やかじゃない話を持ち出して人目を引いてっていうエンターテイメントが多い中で、誰も傷つけていない。いや確かに娼婦は窓から転落したし、博士は睾丸を撃たれてしまったけれど、そういうことは後でちゃんとフォローしていますからね、『不能のよろこび』として。これは三谷幸喜でもばっちり受け継がれていて、結局誰も傷つかないようにつくられている。そういう作品って、本当に素直に「面白かった」と思えます。道具みたいにぶち殺しまくった挙句面白くない、という作品もある中で、誰ひとりとして傷つけずに面白いものをつくるというのは、やはり巧みなんですねえ。うん、まあ、この辺で。
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起用した女優が映画を決めた二作
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『白い花びら』はモノクロのサイレントスタイルです。もともと寡黙なカウリスマキ作品ですから、自然に見えます。ただ、どうしても女優カティ・オウティネンが気になってしまいましたね。オウティネンはカウリスマキ作品の常連です。『浮き雲』『過去のない男』などでは、すごくよかったんですけど、今回は役柄的にどうなのやと思ってしまいました。この役はオウティネンではないでしょう。

オウティネンのマルヤとその夫ユハが田舎で細々と、しかし幸せに暮らしています。そこに一人の男がやってきます。車の修理を依頼するためたまたまやってきた男なのですが、その男はオウティネン演ずるマルヤを目にして、夫を捨てて自分と来なさいと誘惑するんです。マルヤに一目惚れしたように見せるわけです。

でも、悪いけど、オウティネンは一目惚れをさせてしまうような美貌じゃないんですよ。この映画ではそこが大いに引っかかってしまった。いつものカウリスマキ作品はそれでいいんです。いや、むしろそれがいいんです。『浮き雲』にしても『過去のない男』にしても、冴えない人々の冴えない日々が豊かに見えるというのがカウリスマキ作品のすばらしいところで、だからこそオウティネンのような女優がいい働きを見せる。別の女優ですが、『街のあかり』にしたって、大して美しくない女性が登場したことでよりいっそう意味深い映画になっていました。でも、今回のオウティネンはいただけません。夫婦のもとにやってきた男は彼女を見て、「娘さんかい?」などと聞くのです。オウティネンは「夫婦ですよ」と返して、男は「そんなまさか」と言わんばかりに笑うのですが、これがねえ、ぜんぜん娘には見えないわけで、むしろ彼女のほうが夫よりも年上に見えるんですよ。後の展開を考えてみても、これはどうしたってもっと若い女優を使ってほしいところでした。綺麗じゃないところがよかったんですけど、それを綺麗な役として配置されると、どうしても違和感は生まれますね。

話の内容的には、ほかのカウリスマキのほうが好きです。僕の中では、最新作の『街のあかり』がベスト。『過去のない男』もよかったし、カウリスマキ作品の波長が、回を重ねるごとに僕の波長とマッチしてきている感じで、次回作が楽しみというところ。今回はオウティネンを外してほしかったなあという気持ちです。
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さて、女優つながりですが、次はぜんぜんまったく作風の違うもの。ハワード・ホークスの『紳士は金髪がお好き』。オウティネンは美しくないからいいのだ、という話をした後でなんですが、ノーマ・ジーンは綺麗ですねえ、マリリン・モンロー。べたべたですがマリリン・モンローは好きです。この作品でもマリリンのコメディエンヌぶりが好ましいです。カウリスマキの登場人物とは好対照に、マリリンは煌びやかだから素敵というのがあります。彼女はやはりスポットライトが似合うというか、ありていに言ってスターなんですね。あごを上げた下目づかいの顔がよく出てきますが、彼女の場合は上目づかいがとってもプリティです。彼女が一番素敵に見える映画は僕の知っているところで言うと(そんなに知らないけど)、ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』。もっと言うとその映画の前半部分。髪をあまり固めすぎずに、少々ラフな感じで天真爛漫に振舞う姿が絶品ですね。

今回の映画で言うと、ジェーン・ラッセルも綺麗でした。ちょっと山本モナに似ていますね(余談ですが、山本モナは顔の綺麗さだけで言うと、芸能界でも相当なハイランクにあると思うのですがいかがでしょう)。二人の美人女優を中心として、周りに登場する紳士たちが阿呆になるこの構図は娯楽映画として正当で愉快。子供の役者も面白かったですねえ。

やっぱりマリリン・モンローという人は不幸だったりひなびた感じだったりはどう考えても似合わなくて、その分だけこういう輝く映画では誰よりも輝く。ハワード・ホークス作品に登場したのはこれだけなのでしょうか。よくわかりませんけれども、ハワード・ホークスやビリー・ワイルダーといった名匠たちのコメディで彼女は最高に輝いているわけです。ワイルダーソウルの継承者でもある三谷幸喜には、早く現代のマリリンに出会ってほしいと願うばかりですが、なかなか日本にそういう女優はいないものです。このへんで。
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観終った後で、その演出の正しさに気づく
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 黒沢明はとにかく全部観たいと思っていて、ちょいちょい借りています。最初期、最後期のものに触れられておらず、とりあえずは円熟期ともいうべき時代の作品群を観ております。黒沢明といえば誰しもお気に入り作品というのがあるわけですけど、そしてその最大公約数は『七人の侍』になるのでしょうけど、いまのところ僕のフェイバリットは『乱』と『どですかでん』。黒沢明ファンの方々から観てこのふたつがどう取られるかわかりませんけど、僕はカラー時代のものが好きだったりするのです。というのはひとえに、黒沢明の色彩的な感覚が好きだからというのが大きいですね。モノクロの作品でずっとつくってきた黒沢明は、カラー化したことでそれまでの色彩的鬱屈を大爆発させたんじゃないかと勝手に思っているわけでして、たぶん、アプリオリにカラーになじんできた作り手とはやはり違うと思うんです。最初からカラーにまみれた世代はそれなりにカラーの映像美を追求するのでしょうけど、やはりそれは白黒でつくるのが当たり前だった時代の作り手たちとは感じ方というか、ありがたみが違うんじゃないかという気がして。キューブリックも最初期はモノクロから出発していますよね。モノクロ世代の作り手が色彩を得たとき、そこにはアプリオリの能天気さでは太刀打ちできないこだわりを見て取ることができるように思うのです。

さて、前置きが長くなりましたが、『悪い奴ほどよく眠る』です。いきなり単純なことを言いますが、香川京子がやっぱり綺麗ですねえ。『どん底』で初めて観て、「かわいこちゃん発見!」と思わずパソコンに叫んだのですが(あほやがな)、なんというか、ううむ、綺麗ですねえ。香川京子的顔立ちに僕はしびれます。

さて、映画ですが、なんというか正統派のエンターテイメント映画というか、世に言うエンターテイメント小説で喜ばれそうなつくりですね。談合なる社会悪の一端を打ち崩そうとする男、しかしその男は策略のため結婚した敵の娘に惹かれてしまう、そして実は男の正体は談合のうちにあって死んだ父親の息子で、という、非常にわかりやすく目を引きやすい形です。恋愛的なロマンスタッチは抑えられていて、あくまでもハードボイルドで、ひとつの現代的娯楽作品に徹したという感じ。黒沢映画の中で言えば映像的意匠というのは感じられませんでした。純文学もエンタメも手がけられる作家がエンタメ作品をがんばって、その純文学的うま味を削ってしまったという感じですかね。次から次にいろいろと出来事が起こるし、三船ががんばるし、飽きずに見られますが、他作品と比較するとすごさはあまり感じない。贅沢な話なんですけどね。でも、黒沢明ともなるとやはり期待値は高まってしまうので。かなり抑えてつくったという感じもします。試みよりもむしろ、今まで培ってきたものの中できちんとしたひとつのものをつくろうとした、という印象です。ラストはちょいと別です。後で話します。

ハードボイルドと書きましたが、一方では志村喬演ずる守山を監禁したときなどは、それまでにない軽快な音楽を流して、なんだか朗らかなシーンのようにさえ思わせてくれます。大事な会話をしているし、廃墟の地下に監禁するという穏やかならぬことをしているのに、妙に明るいシーンのように思わせる。あれによって深刻さは一瞬剥がされるんですね。そして、嘘か誠かわからないですけど、三船敏郎と加藤武が「自首して刑務所に行く」という話をし、これまたあまり明るくない未来をさも万事希望に溢れているとでもいうかのように思わせる。それまでの流れを踏まえて、不思議なシーンでした。しかしそれが後になって効いてくる。ラスト間際の、加藤武が一人途方にくれているときにあのシーンが出てくるわけですが、ああした軽妙なタッチのシーンを先に描いたことで、あの場所の虚無感というのが鮮やかに対比される。もともと虚無だった場所が、さらに虚無であるように思われるのはやはり、ああした音楽演出の賜物ではないかと僕は考えるのです。色彩表現への飢え、鬱屈、という解釈を先ほど述べましたが、それは音楽の工夫によって昇華されようとしていました。ああいう音楽の配置は、無邪気に映画をつくってもきっとできないはずです。

ラストは呆気に取られました。「闇に葬られる」という言葉を地で行ったと言うべきですね。三船が殺されるまでの出来事を一切描写せず、ただすべて終わったこととして観客に知らせる。それまでずっと観客とともにあった三船演ずる西、あるいはその横で非常な名演を見せていた藤原鎌足の和田、壮絶だったはずの彼らの最期を、回想という形すら用いず、ただ語らせるだけで示したというのはまさに、「闇に葬られた」というわけです。ああいう、下手をすれば見せ場を見せなかったとも受け取られるような演出を施すことで、社会の暗部をより暗部として観客に提示する。なるほどなあ、と思いました。だからあれはある意味で、もっとも正しい方法のひとつなんですね、だからあのおっさんの電話で終わるのは、きわめて正しいわけです。そしてあのラストをもたらすうえで、これまでの演出のすべてが、意味づけられてくるのです。うん、そんなところです。
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 映画における正しい子供の使い方 きわめてキュートな作品
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 これはなんともキュートな作品ですね。うん、なんというか、キュートさというのが僕にとって必要な概念で、キュートじゃないものは面白くない、とまでは行きませんが、シビアな作品でもシリアスな作品であっても、キュートな部分が見えるとうれしくなる。この作品はシビアでもシリアスでもないのですが、かといってコメディというべきかというとそうでもない。ヒューマンドラマというのも違う。よくあるようなジャンル分けを許さない映画ですね。というか、日本や欧米であれば、「こんなもん映画になるかい」と企画の段階で通らないんじゃないかと思うほど、ストーリー的には小さなお話です。

簡単に言えば、子供が友達の家にノートを返しに行くだけの話ですからね。ただそれが成立するのは、「はじめてのおつかい」的な面白さがあるからでしょう。もしかしたら「はじめてのおつかい」の企画を持ち出した放送作家はこの映画に触発されたのかもしれません。そしてその過程で出会うのが、これまたRPGの町の住人みたいに、「情報を持っている場合は与えてくれるがそうでない場合ほとんど相談に乗ってくれない」人たちで、そういうところがキュートなんです。中でもキュートなのは、木の枝か何かの大きな塊を背負った老人。主人公の少年と話すときも、カメラに背中を向けたままなので、まるで木の塊がしゃべっているみたいなんです。さらにキュートなのは同行してくれるおじいさん。枯れ木の会話のくだりとか、りんご売りとのくだりとかは非常に愉快。声をかけてくるりんご売りに対し、「歯がないから食べられない」と返すのは絶品です。二回言いますからね、「歯がない」。ちゃんとしゃべれているみたいだから、あるはずなんですけども。牛とかヤギとかも、もちろんキュートです。

子供が主人公というのがあまり僕好みではないので最初は多少引き気味だったんですけど、子供を中心に置くことで、周囲の出来事が鮮やかに映し出されていた。大人ではもともと成立しない話なんですが、これを仮に「大人が外国まで何かを届ける話」として構図そのままにスケールアップしたとしても、この映画のような風合いは生まれない。子供が空っぽの眼で世界を見つめるとき、とりわけイランの世界観を満足に知らない僕のようなものもまた、空っぽになってその世界をまなざすことができるのです。先ほどからキュートという単語を多用していますが、僕は別にこの主人公の子供をしてこの映画をキュートだと言っているのではありません。子供の虚心なる瞳が不可解な闇を見つめるとき、あるいは得体の知れぬ存在と対峙するときに生まれる間合いがキュートなのです。それは見てくれの可愛さなどでは代替できない、独特な時空間に生じる魅力なのです。子供を使う映画のよしあしを計るときに有用な発想かもしれません。そういう間合いを持たないまま子供を登場させる映画ではおそらく、子供が子供たる重要な価値を生かせず、ただの小道具と堕してしまうことになるでしょう。

サイズ的にもきわめてちょうどいいですね。まあこの手の映画でこれ以上長くすることは無謀でしょう。終わり方も実にあっさりとしていて潔いし。こんな映画ばかりであれば退屈するかもしれませんが、大作や活劇の溢れる中で間違いなくその存在意義を発揮している。子供の愛らしい話であるとか、心温まる話とか、そういう風にとられやすいかもしれないけれど、一方で僕はやはり、「子供とその世界との対峙」という点でこの映画を高く評価したいのです。キアロスタミはまだ僕にとって二作目なのですが、大変いろいろなことを教えてくれます。テンポの大事さ、間の大事さ、間合いのとり方、キュートさ。そろそろ眠くなってきました。まだまだ書き落としていることがありそうですが、とりあえずこの辺で。
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スタンダードを知らぬゆえのコンプレックスを感じています
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古い映画については、最近のそれと比べて、語ることに対するちょっとした抵抗があるというか、僭越さを感じるというべきか、どうしても難しさを覚えてしまうんですね。歴史を知らないことに対する強いコンプレックスがあるんです。どういう時代背景の下に、どういう文脈の下にその映画があるのかわからないことについてコンプレックスがあって、だから僕は古いものを最近観ようとしています。一応、それなりに観ていかないと結局どうにもならないなあと思っています。

確かに古いものの中には、今観ても感慨がないという類のものもあります。ビリー・ワイルダーは好きな監督ですが、『サンセット大通り』『失われた週末』などは、今の僕にはぜんぜん響きません。でも、そういうものも含めて歴史をわきまえないといけないと思いますね。そういう態度を持って観ていくと、たとえば『2001年宇宙の旅』という40年前の映像イメージを、いまだに誰も超えられていないということもわかってくる。新しいものを悪いといっているのではなくて、古いものを見ない限りは新しいも何もない、ということですね。僕が最近よく行くバーのマスターは新作映画を追いかけまくる人なんですが、それはあくまでも古いものを押さえた上でのことですからいいのです。ただ、古いものを観ないまま宣伝に乗せられ、映画館に足を運んでも、やっぱりそれは仕方ないんです。映画は話のネタにすべきアイテムではないと思っていますから。

さて、『荒野の決闘』です。なんというか、子供にもわかる格好良さみたいなのがありますね。あくまで大人向けで、子供が喜ぶようなものでは全然ないのに、子供も格好いいと感じるような。日本映画の侍とアメリカ映画の西部保安官、実際の歴史上の存在としてはぜんぜん違うものですが、侍よりも歴史が浅い分、わかりやすく格好いいという感じがあります。侍の格好良さって子供向けじゃないんですよ、でも保安官って子供にもわかるわかりやすさがある。こんなことを感じるのは僕だけでしょうか。

この映画だけの話をするにはまだ僕の歴史知識がなさ過ぎてあれなのですが、なんというか、非常にシンプルでありながら、ある種のスタンダードというものがここにはあるなあという感じがします。ハリウッド黄金時代と呼ばれるだけあって、夾雑物の少ない、純粋な娯楽映画というか。今はもう、過去に散々やりつくされていますから、何か変わったことをしなきゃいけない。普通のものをつくったら「何をいまさらそんなものをつくっている」と言われかねないわけですけど、この時代は堂々と自信を持ってひとつのスタンダードをつくることのできた時代であって、だから迷いがないんです。それに加え、先ほど言った「西部保安官的わかりやすい格好良さ」があるので、やはりひとつの王道を観た思いなんですね。あと、これはまあ映画によるでしょうけど、特にこの映画の場合、非常にあっさりしていますね。弟が殺されてしまうところとか、踊り子の女の正体が発覚するところとか、クラントン一家が保安官の一人を殺すところとか、今の時代の演出では、洋画も邦画も含めてまずありえない、あっさりとした感じ。

『荒野の決闘』というからもっと男くさい話なのかと思いきや、女性が結構絡んできたりして、その点は意外でした。観て知ったのですが、原題は『My Darling Clementine』ですからね、この原題を『荒野の決闘』と訳したのは思い切りがよすぎます。もうちょっと色気のある訳し方はなかったのでしょうか。タイトルにもなっているクレメンタインが非常に綺麗です、僕の好きな顔です。

うん、いやあ自分で書きながら今回はなんとも底の浅い映画評になりました。いかんいかん。これでは阿呆のブログだと思われても仕方ありません。やはり古いものを語るにはもっとちゃんといろいろなことを知らないといけないなあとつくづく実感します。ちょいと出かけなくちゃいけないので、この辺で。
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突然炎のごとく死なれても、困る
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ヌーヴェル・ヴァーグ、ネオ・リアリズモ、アメリカン・ニューシネマ、イギリス・ニューウェーブ、ニュー・ジャーマンシネマ、はたまたイラン・ニューウェーブなど、映画の長い歴史は全世界に各々のカテゴリーを芽生えさせているらしく、まあ僕などはそのどれひとつについてもまともに論じられぬ、そもそもそこまで映画を観ておらぬ若輩ですけれども、それでもちょっとずつ自分の趣味嗜好というのは輪郭化されてきていて、たとえばネオ・リアリズモはあまり肌に合いそうにないなあとか、アメリカン・ニューシネマはいいかもしれないぞなどとなんとなく思っておりまして、それで今回のトリュフォーといえばヌーヴェル・ヴァーグ。あとはゴダールくらいしか観たことがないので、なんとも言えないのですが、このヌーヴェル・ヴァーグの肌色はまだ微妙なんです、自分の中で。合うのか合わないのかよくわからない。そして今回の『突然炎のごとく』もそんな感じです。

トリュフォーというと、ちょっと思い出すことがあります。なんていうことはないのですが、高校生の頃、深夜、僕はエロの入っている番組に餓えておりまして、まあAVを借りる度胸もなかったものですから、「ミニスカポリス」「水着少女」などのちょいエロでも、「動く胸」「動く尻」が見たくてたまらなかったのです。その折、ラテ欄をチェックしていると、『柔らかい肌』というのがありました。動くエロに餓え、理性をなくしていた僕は、「これはVシネマとかロマンポルノ的な類のやつなのでは!」と思い、深夜二時まで起きていたのですが、全然違っていて観るのをやめました。あれがトリュフォー作品だったと知ったのは、その五年後くらいのことでした。

ものすんごくどうしようもない話をした後で、やっとこさ話を始めます。トリュフォーの『突然炎のごとく』です。ジャンヌ・モロー演ずるカトリーヌに、ジュールとジムという二人の男が恋する話なのですが、ぎくしゃくする恋愛関係とかいうのとは違い、カトリーヌはどちらにも愛を向けており、ジュールとジムも別にいがみ合うことなく、「彼女はそういう女なのさ」みたいな軽い感じになっています。

実際にいたらとてつもなく迷惑な女です。仕舞いにはジムを道連れにして死んでしまいますし、子供のこともものすごく軽く扱っている。僕はねえ、前の記事の『アカルイミライ』にしてもそうなんですけど、子供を出したら一応それなりにケアしてあげてほしいんです。子供好きじゃないですよ、どちらかといえば嫌いかもしれない。でも、物語に出すからには知らん顔してほしくないんです。『リップスティック』というフジテレビのドラマで、三上博史が「子供産んだんならなあ、女やめて母親になれよ!」という叫ぶ場面があるのですが、僕にもそう叫びたい気持ちってある。女をやめろとは言わなくても、母親の部分を描かないならば母親としてそこにいてほしくないんです。この映画ではその葛藤さえもなくて、それはこのカトリーヌの奔放さを描く上ではいいのかもしれないけれど、観ているとあまり気分がよくないんです。

早いカット割りなど観るに、ある意味では彼らに人間性を与えようとはしていないのかもしれない。どちらかというと駒的でした。ジムとジュールも別に深く悩んでいる様子はなくて、「彼女が言うならそうしようぜ」みたいな感じになっている。ちょっとは自分の意思を出したりもするけど、最終的にはずっとこの女に寄り添ってますからね。鬱陶しいですよ、これは。「おまえは何やねん、最終的にどうなりたいねん!」と突っ込みたくなって、最終的には死にやがります。まあ傍についていた男もどっちつかずのやつらばかりなのですが。だから登場人物に気持ちを入れ込んでみることはできませんでしたね。「なんやうだうだやっとんのお」という感じでした。これをね、どちらかの男がね、もう俺だけのところにいてくれっていう強い意思表示をしたらわかるんですけど、結局振り回されてばかり。
結末で死ぬというのもどうなんやろう。原作がそうなんでしょうけど、「また死んだわ」と最近僕は考えるのです。この物語でいくと、どうにか死んでほしくなかった。死なないで何がしかの結論を見出してほしかったんです。死ぬっていうのは簡単なんです。いろいろなことがありました、でももうその当人は死んだのでもうこれ以上は語れません、というのは逃げている感じじゃないですか。あの女の別の末路を見てみたかったです。「突然炎のごとく」、消えられても困る。

でもまあ、飽きずに観られたというのはあります。テンポが好きだったのかもしれません。あとは時折はさまれる視覚効果であったりとかもあって。レンタルしたDVDにはトリュフォーのインタビューがあって、そこでいいことを言っていました。原作を映画にしようとするとき、小説を戯曲化してシーン割りしたりしてはいけないのだ、原作にある文体を活かさねばならないのだ、ということを言っていて、これについては、ええこと言わはりますわあと思います。この金言は覚えておく価値がありそうです。
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これが好きだという人がいるのはわかるけど、僕にはぴんときませんでした

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黒沢清作品で言うと、初めて観たのが『ドッペルゲンガー』で、あとは『CURE』『叫』しか観ていなくて、今回が四作目です。今のところ一番好きなのは『ドッペルゲンガー』ですね、永作博美が大好きであるということもあって。

黒沢清の映画というのは、ちょっとコメディというか、笑いが入っているなあと感じることがちょいちょいあります。『ドッペルゲンガー』でいうと、あの過度に実体的なドッペルゲンガーの言動はちょっと面白いですもん。『叫』にしたって、葉月里緒菜が出てくるところって、松本人志のコント的文法に近いものがある。笑いを狙ってはいないんでしょうけど、僕にはそういう風に見えるんですね。今回の『アカルイミライ』にしてもそうなんですよ。笑いは狙ってないんだろうけど面白い、というところがいくつかある。間やカットという要因もあると思います。

そのひとつが、名優笹野高史の工場長の言動ですね。あのおっさんはちょっと面白いんです。マモルの部屋に来て寿司を食い、自分の昔話を始めたり、帰るのかと思いきや卓球の試合を見始めたり。それを「早く帰れよ」臭ぷんぷんで眺めているマモルとユウジ。すごく面白いんです。笑いになっている。笑いを狙っているのかもしれません。卓球の試合というのがひとつポイントで、あれがサッカーとか野球ならそうじゃないんですけど、卓球ですからね。テレビ中継のスポーツとしてはとてもマイナーです。「なんで卓球やねん」と言いたくなります。だから、あの工場長が殺されたときはちょっとショックもありました。

浅野忠信演じるマモルが、工場長夫妻を殺します。ユウジが殺そうと出かけたときに既に夫妻が殺されており、それがマモルの犯行だとわかるわけですが、どうも僕は最近、こういうのに飽き始めているのかもしれないです。

どうも、死とか殺人とかいうのが、映画界に多すぎる気がしてね。それをすると観客の引きはいいんですよ。わかりやすく衝撃的だし。殺人事件ありきの探偵ものとかならいいんですが、それ以外で死を絡ませすぎるきらいがあるような気がして。あのー、もっともっと、特別なものとして描いてほしいなあと思うんです。それはまあ死にオチに対する嫌悪感でもあるんですけど、こうした、純文学的な映画作品にしても人が死にすぎている。これまでに僕が観た黒沢清の作品ではどれも例外なく人が死んでいるし、現代日本映画界のほかの牽引者、青山真治や園子温などでも、どうにも人の死ぬものが多い印象があって。へんな言い方ですが、殺してしまうと楽なんですよ。そのあとその被害者が出てくることはなくなるし、加害者のほうも逃げるか、捕まるか、その事実を隠すかすればいいし、話もしやすくなる。できれば殺さないでほしいですね。今の僕はそういう感じでいます。

話を戻すと、笑いということで言えばあのクラゲはもうそれだけで面白いです。あれが大繁殖して藤達也演じる父親がはしゃいでいるところなどは、コントですね。クラゲがユウジの家の板の隙間に落ちていくところも面白い。ただ、こういう映画についてこういうことを言っても仕方ないんでしょうけど、どうして一匹で逃げたあのクラゲがあんなにも繁殖できたのかがよくわかりません。いや、もちろん重要なのはあの映像自体のほうであって、そういう部分についていうのは違うと思うんですけど、そういうところの整合性はほしいんです。そうしないと何でもありになってしまうと思って。

うん、笑いで目に付いたところが多いかな。僕みたいな見方をする人は、黒沢清作品については少ないかもしれません。ほかにもあるのは、男子高校生たちがインカムをしているところ。インカムをしていると仲間同士だけで話ができるんだ、みたいなことを言うのですが、彼らは同じテーブルにいるから、そんなものをする必要がないんです。「おまえら、目の前に相手おるから、そのインカムは何の意味もないがな」とつっこみたくなります。あと、これはもう、映画とは無関係になってしまうかもしれないんですけど、僕はああいう連中がほとんど無条件に嫌いなので、ちょいと不快でしたね。金を盗み出してはしゃいでいるところなど、「おいおい、会社の人たちが一生懸命働いて稼いだお金なんやぞ」と思って腹が立ちました。まあ結局捕まってくれたからいいんですけど、反省の色がないラストシーンがやはり嫌いです。僕はそういうメンタリティがありますね、これは伊集院光の影響もあるかもしれません。伊集院光は不良文化を嫌っていて、「不良が格好いいみたいになっているけど、その被害を受ける形の善良な人たちの身にもなってくれよ」ということをたまに言います。尾崎豊の「盗んだバイクで走り出す~」「夜の校舎窓ガラス壊して回った」を格好良く歌いたがる連中に対する、「おいおい、盗まれたほうの身にもなってくれよ」「ガラス割られたのを片付けるほうの身にもなってくれよ」という目線ね。僕はそちらが強くあるので、あまり好きじゃないんです。マモルが夫妻を殺したのでも、できれば子供の女の子にはいてほしくなかった。そっちのほうがよっぽどショックのはずです。オダギリのユウジが何をうだうだやっているか知らんけど、あの女の子の方がずっと大変なんですよ。そういう感覚を持たないでマモルとユウジの物語に移入するのは、倫理的に僕にはできないんです。

、男子高校生とユウジが窃盗を働いた会社、そこに勤める会社員役のはなわがいい味を出していました。最初出てきたときは驚いたのですが、はなわの演技、目線がすごくいいんです。「ああ、おるおる、わかるわかる」という感じがものすごくしました。はなわの目線に注目です。

なんかあまりいいことを書いていないような気がしますが、うん、なんでしょう、今の僕には「ああ、これはいいものを見たな」という印象は特にないんです。オダギリジョーの役に若者が自己投影するのかもしれませんけど、僕はその段階はもう終わりました。だからぴんと来ないのかもしれません。岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』(2001)がいいという人が多いみたいですが、あの映画もぴんときません。これに反応する人たちがいるのはわかるけどね、という立ち位置ですかね。

今の僕なんかはやはりカウリスマキの人たちが好きなんですね。カウリスマキは人を死なせないし、その意味でも好きなんです。今回はこの辺で。
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天才は亜流に絶望を与える
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キューブリックの有名どころは前々から少しずつ押さえていっているのですが、この作品は特別に理由もないままにずっと回避していて、やっと今になって観ました。最近よく行くようになったバーのマスターがこの映画をオールタイムベスト1だと言っていたので、そういうこともありまして。

そういえば公開から今年でちょうど40年なんですね。キネマ旬報によると1968年度版ベストテンでこの作品は第五位。ちなみに一位にはアーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』がランクされており、アメリカン・ニューシネマが勃興した頃でもあるわけです。かたやニューシネマが始まり、かたやこのキューブリックの才気大爆発があった。アメリカ映画の華やかなりし頃のひとつ、と言って許されるでしょうか。僕にはよくわかりませんけれども。一方、日本ではウルトラシリーズが権勢を振るっていた時代でもあります。ウルトラシリーズの最高傑作であるウルトラセブンがこの一年前に放送開始されており、社会的には大学紛争もあり、なんかもうそうなるといろいろありすぎてよくわかりません。密度の濃すぎる時代です。

さて、『2001年宇宙の旅』ですが、いまさら僕めがどうこう言う必要もないくらい語られているのですが、まあここは極私的なところなので、思ったことを書きましょう。映像的には、これがつくられた段階であとは何ができようか、ということだと思うんです。もちろん、40年の歳月の中でCG技術は発展の一途にあるわけですが、その発展を金字塔の頂点からせせら笑うかのように、この作品は今なお輝かしき光を放っているわけです。一番魅せられたのは、宇宙に放逐されてしまった乗組員がくるくると宇宙空間を回るシーン。あのイメージは言語では表現しえません。映像がいくら頑張ろうと小説に及べぬ領域があるように、小説がいくら頑張ろうと映像に及べぬ領域がある、のだとすれば、たとえばそのひとつがあのシーンでしょう。CG技術が発展して、VFXだかSFXだか知りませんけど、そういうのですごい映像が表現されている今日ですが、ああいうものはやはりキューブリックという人がいなくてはできないわけです。やはりそれは、まあ僕などが述べるのは僭越のきわみですけれども、映像に対する哲学というようなものがあってこそなのでしょう。技術や小手先のうまさが備われば、それなりに優れた映像はたぶんいくらでもつくれるのでしょうが、キューブリックという映像の哲学者がいなければ、あのような言語を超えるイメージにはたどりつけないと思うのですね。

その意味で言うと、僕の敬愛する小説家、映画評論家の阿部和重は『バリー・リンドン』(1975)をキューブリックのピークであると述べていますが、確かにあの映画においても、映像の一秒一秒がそれだけで絵画、美術作品になるような構図なのであって、あれは中世ヨーロッパという舞台でしたが、この『2001年宇宙の旅』においては我々の現実を超えるという意味でのシュールレアリスム絵画にまで至っているのであって、シュールが好きな僕としてはこちらのほうにそのピークを、多くの方々と同じように感じるわけです。

HALも面白いですね。この後の時代に続くSFアニメでもなんでも、コンピューターの声をかちかちの機械音声にするものが多いわけですが、この映画ではそんな段階はひょいと飛び越えられていて、完璧に人間的になっている。これをすると、もう、あの映画に登場する人間の人間性なるものは剥奪されるわけです。あの映画において最も人間的な存在であると僕が感じたのは、ほかならぬ、冒頭部分の猿たちです。彼らが一番人間的で、宇宙船にまつわる人々の誰一人をとってもそれが人間である感じがしなかった。それは映画全体の設計もさりながら、あのHALが人間そのものであったことが要因の一つです。あれを機械的にしておくと、人間が人間として対比される。その方向性を完璧に回避してあのようなコンピューターにしたことで、人間性さえ剥奪された人間がそこに配置され、ひとつの純粋すぎるまでの純粋な空間が生み出されていました。

この作品を観ながら考えたことはそりゃあそれなりにあるのですけれども、映像的なことで言うと、最近の世の中にあふれるクリエイターなるものが、どうにも安っぽく、また軽薄に思われて仕方がなくなる、ということですね。キューブリック的居住空間、というと言い方は変ですが、この映画に出てくる椅子や机などはいかにも、今のクリエイターなる人々が好んで使いそうなデザインなんです。また、ひどくゆっくりとしたテンポで描かれる映像の構図やその色調などにも、キューブリックの亜流がいかに今の世に溢れているかが見て取れる。そしてそのどれもがキューブリックに勝てるわけもない。キューブリックが持っていた、真髄を持っていない。

なるほど、その意味でキューブリックのこの作品は、現代の我々にひとつの絶望をさえ与えるような気がするのです。2001年を、とうに過ぎた今にしても。
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人形と後姿が魅せた、あやういバランス

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 こういう映画っていうのは、どこをどう仕掛けてくるかわからない怖さみたいなものがあるんですね。最近の映画はいい意味でも悪い意味でも整っている、うまくなっているという感じがするんですけど、今回の作品はもっと攻撃的な感じがします、時代的なものですかね。うん、芸術に走っているわけじゃないのにちょっと妙なカメラワークをしてみたりとか、たとえばそれはもう、始まってからすぐの薬師丸のブリッジに象徴されていたと思いますね。この映画はこんな感じでいくで、ついてきてなという監督の意気込みが、あのブリッジに冒頭から示されていたように見受けました。

 最近でもドラマ化されていたみたいですけど、この映画の魅力ってたぶん、テレビドラマの文法では表現できないんですよ。女子高生がヤクザになるという突飛な設定がもとにあるので、ドラマにしても面白いだろうと思いきやそうではなくて、やはりその魅力は相米慎二の長回しや遠景からのショットがあってこそなんです。だからドラマの作法では収まらないんですね。

 なんやねん、というつっこみをしたくなる映画です。それが心地よくもあったり、これはどうなんやというのもあったり。細かいところですけど是非言っておきたいのは、ラスト近く、渡瀬恒彦が大門正明をおぶい、薬師丸とともに歩くシーン。そこに出てくるひとつの人形が僕にはものすごく面白く感じられた。あれは珍妙な、心に残るシーンです。一分程度なんですけど、画面の左側には流血した大門を背負う渡瀬、中央には彼らを見送る薬師丸の後姿、そして右側にはその人形。なんか、この映画を象徴するもうひとつのカットのように思えてね。本気さと馬鹿らしさが混在しているんです。主人公の薬師丸を視点にしながら、本気さと馬鹿らしさが左右にぐらついていく、この映画にはそういう有用な小物がちりばめられていました。

三國連太郎の登場するあのカルトめいたシークエンスは僕は嫌いでした。原作ではどうだったか知らないけれど、映画では浮きすぎていたというか、どうしてあそこにあんな感じのものが入るのかまるでわからなかった。いや、確かにそれはあの作品のカルト・ムービーらしさを際立たせるものであって、仮にあの道を回避して深刻で現実的なヤクザ劇にしたら、この映画の持ち味が浮き出てこないのかもしれないけれど、それにしてもまるでショッカーの基地みたいでしたから。猿の脳みそを食うとかいうあのくだりも、あのおっさんのぶっ飛んだ感を出したかったのかもしれないけれど、原作にあったとてそれを映像化するといかにもしつこい。もうちょっと緩和した形のほうが心地よかったです。しつこい味、というのがあのシーンの印象で、「でもそのしつこさがいい」のほうには行けなかった僕です。そこだけが難点でした。

結構ばらばら感のある映画ではあるんですけど、分解しているという印象はありません。やはりさすがの仕上がりというか、きちんとひとつの空気を構築していました。それは女子高生がヤクザの組長という珍奇な設定を、ちゃんと弁えていたからでしょう。危ないラインではあるんです。珍奇な設定というのはいわば現実から非現実の幅を大きくする舞台設定を意味していて、そのため遊び場がたくさんある分、遊びをしくじりやすい。しっとりとしたラブストーリーにし過ぎたり、どうでもええことに尺を割いたりとしてしまいがちだと思うんですけど、この映画はそういう愚を犯していない。薬師丸と渡瀬の関係もすごく心地いいですね。あの関係をちゃんとしたことがこの映画の大きな勝因の一つでしょう。あれをラブストーリーにしすぎると失敗なんですが、最後のように死体に口づけするくらいの間合いであったのがいい。その関係性はもしかしたら原作の勝利なのかもしれませんが、そちらは読んでいないのでなんともいえません。
「組長に合わせて事務所の感じを変えてみました」というシーンが劇中ありましたが、あの空気もいいです。安っぽくて、ちょっと汚くて、可愛らしすぎず、決してスタイリッシュではない。その中を渡瀬が雑な掃除をそれでも一生懸命しているところなど、絶品です。ヤクザでありながら聖家族的で、しかしヤクザの因業から逃れられぬゆえに一瞬でその幸福が崩壊する。そのあやういバランスがあるからこそ聖家族性が引き立つ。実に巧妙でした。

これはなかなかの作品だなあと思います。最近はいい映画にめぐり合うことが多く、非常に楽しいです。
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男はあの場所に来るべきであったのかどうか

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 アメリカン・ニューシネマというのは観たので言えば、『俺たちに明日はない』『イージーライダー』『タクシードライバー』など、有名どころくらいなんですけど、基本的に外れがないです。その中でも、『カッコーの巣の上で』は非常によかった。これはいいですね。でも、タイトルはどうなのでしょう。原作も原題もほとんど似た意味の英語ですけど、これはなかなか内容と繋がらないです。「カッコーの巣」が精神病院の隠喩と言われてもどうもぴんと来ません。『俺たちに明日はない』とか『明日に向かって撃て!』みたいなキャッチーな感じもないし、パッケージも引きが弱いです。僕などは予備知識がなかったので、田舎のほのぼの話なのかななどと思っていましたから。

内容はとてもいいです。これはなんというか、いろいろな意味が含まれていますね。安穏とした精神病院にジャック・ニコルソン演ずる一種荒くれた男がやってきて、そこをかき乱していく。学園もののテレビドラマとかで、今でもよく使われるパターンです。とある学校にぶっ飛んだ新任教師がやってきて云々という。でもそうしたドラマと違うのはやはりアメリカン・ニューシネマ的に、敗北のかおりが色濃いところです。ここには、彼は果たして善き訪れだったのか、という問いがあります。劇の最中、彼は精神病院の婦長や看護師たちに抗い、様々なことを仕出かします。ときには脱走劇を繰り広げたりして、それまでの状況では心開くことのなかった人々に笑顔をもたらしていく。中盤まで彼は、体制に抗う善き訪れとしての機能を果たしていくわけです。ところが最後、病棟にいた仲間の一人は彼の行いに賛同したがゆえに、自殺するという末路を迎える。では果たして主人公の男はあそこに来るべきだったのか、彼が来なければそれまでとなんら変わらない平和な日々は続いていたのではないのか。世界が外に開かれたがゆえに人々は幸福を享受したが、外の風景の訪れは同時に、それまでの内閉した世界の秩序を乱し、予測しなかった犠牲を生み出してしまった。結局、外からの訪れはその世界に飲み込まれてしまいます。他方、その訪れに心を揺らされた一人の男は、その訪れに最期をもたらし、己が外へと飛び出していって映画は終わる。明確な答えを出さないあの終わり方は、非常にいいなあと思いました。精神病院という限定空間がその構図の確かさを固めていたのもいいし、寡黙なインディアンの大男というのも気持ちいいところです。でも、考えてみると、あの後またしても病棟の人たちは静かな日々に戻るわけで、一度外からの訪れを見た者が果たしてそれまでの平和を取り戻せるかと言うと、難しいところなのかもしれない。こうなると、彼は善き訪れといえるのでしょうかね。そういうことを考えさせてくれるという点でもいいです。

精神病患者たちをコメディアンとして用いていたのもよかった。彼らの振る舞いは一種コメディアンのそれなんです。コメディというのは子供っぽい大人というのが沢山出てきて、それが物語を引っ掻き回すのが楽しいのですが、精神病患者たちもそういう面白さがあるんです。台詞がなくても、その振る舞いがいいというか、もちろんそうなれない人々もいるわけですが、その純粋さというのは、物語内において非常に機能性の高い装置になります。看護婦の帽子を被ったひげもじゃのお爺さんとか、ゲームのルールを無視する小男とかがいますが、ああいうのは面白いです。なんというか、それを精神遅滞の患者、精神病の患者と深刻に捉えるよりも、なかなか面白いコメディアンじゃないかと笑って受け入れられればそれでいいんです。芸能人でも、たとえばゲイを公言してそれを売り物にしている人たちがいますが、あれは正しい態度だと僕は思う。ゲイのタレントが男の俳優を好きだと言ってきゃあきゃあ騒ぎ、男が嫌がるという構図がバラエティのひとつの定番になっていますが、ああいう社会への溶け方はいいと思うんです。少なくとも、同性愛をカミングアウトしてなんちゃらというドキュメンタリーに見られるような在り方よりもずっと溶けやすいはずなんです。笑いって、そういう効果があるんですよ。それは面白いことに対する、笑いに対する敬意がなくては解せない立場なんですけどね。何かを笑うと、それを馬鹿にしているという風に捉えられることがありますけど、それは絶対に違うと思うんです。たとえばテレビで精神病患者や知的障害者を扱って、それを面白おかしく撮ったりすると、馬鹿にしているなんてクレームが来るのでしょう? それはもう本当に大きな間違いです。むしろそういうクレーマーのほうが、笑いというものを、もっと言えば人間の感性というものを馬鹿にしているという点で罪深いです。僕は誰に怒っているのでしょう?
でもまあ、笑いを解さずに本当に馬鹿にして笑う、どうしようもない馬鹿も世の中にはいるんですが。

話がそれました。もちろん、劇の最後に自殺した若者がいたように、あるいは劇中で錯乱する患者がいたように、笑い飛ばしてはいられない側面もある。その両面をちゃんと扱い、なおかつ精神病院というきわめて限定的な場所を基本的な舞台としたのもこの映画の勝因です。学校という舞台では無理ですし、刑務所という場所でも無理。精神病院というのが舞台設定としてなんとも素晴らしい。またひとついい映画に出会えました。ハッピーです。
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テンポの大事さというものを教えられました

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ずっと観ようと思っていたキアロスタミ作品、初めて観ました。
これはすごくいいです。なんというか、やっぱり映画のテンポというのはものすごく大事で、それは編集であったり台詞の間であったりワンカット中のアクションだったりというものによってつくられるものですけど、この映画の場合のテンポはすごくしっくり来ました。ストーリー自体は特別に何ということもないですよね。土に穴を掘って死のうとしているおっさんが、延々とその穴を埋める人間を探すだけの話ですから。でも、やっぱり映画ってストーリーがすべてではあり得ないわけで、こうしたきわめてシンプルな、シンプルすぎるほどにひねりのないストーリーがこの映画のゆっくりとしたテンポを助けているのです。紆余曲折ある物語もテンポの緩急調節力が要求されますが、一方でこうした簡素な筋においても同様に重要となってくるわけです。この映画のテンポがいいなあと決定的に思ったのは、博物館勤めのおっさんが長く喋り、その中でジョークを言うところです。外国でよくある形のジョークって、僕は笑ったことがないんですが、この映画のジョークは笑ってしまいました。それってやっぱり、オチとかネタとかのどうこうじゃなくて、テンポ、間なんですよ。

映像的テンポということで言えば、車中の助手席、運転席からのショットと、車外から車を風景の中に収めるショット。ここにも緩急がありますよね。車に乗っている人間を横の座席から撮る際、人物というまったく動かない被写体と、猛スピードで消えていく外の風景が対比されます。一方で、車外から車の動きを捉えれば、荒野の中を車がゆっくりと移動していくという構図になる。これを双方たっぷりとした間を置きながら交互に繰り返すことで、単なるドライブでも決して単調ではない、なおかつきわめて端整なシーンが出来上がるわけです。ドライブの最中、博物館のおっさんが主人公の自殺を食い止めようとして長々と説教をしていますが、この場面はここ最近で見た映画の中でも最も快感度の高いものでした。あまり耳慣れぬペルシア語で、少ししゃがれた声付きで、特別に目新しいことを言うでもないのですが、何故かずっと聴いていたいくらいの心地よさがあった。それが先ほど述べた、ジョークで笑ったということの要因でもあります。

決定的に、ここからどう転んでも嫌いにはならないな、と思ったシーンは、あの主人公の男がお茶目さを出したところです。博物館のおっさんに会いに行って、何をするのかと思ったら、「眠っているだけかもしれないので石を投げてくれ、体をゆすってくれ」などと言い出したので、これでもうオーケーでした。ずっと死のうとしていた男があんな風にお茶目さを出すのはいいですね。でも一方で、「結局穴に入ることはやめないけど」という姿勢が貫かれているのもわかるし、非常にいい。もっと言えば、心配していたはずのおっさんが、彼を呼びつけた主人公に対し、面倒くさそうに「今忙しいんだ」とさらりと言ってのけるところもいいです。「おまえ何しに来たんや」という突き放した感じがブラボーです。

他のキアロスタミを観たことのない初心者なのですが、大好きなカウリスマキにちょっと似ていたりもしますね。どうしようもない男の寡黙なストーリーで、間の取り方とかもそうだし。二人とも小津安二郎からの影響を認めているそうです。僕の場合、小津の最高傑作とも名高い『東京物語』を最初に観て全然アンテナに引っかからず、それ以来小津を敬遠し続けているのですが、彼のフォロワーである監督たちには惹かれます。ヴィム・ヴェンダースも、『パリ、テキサス』(1984)は後半ちょっと喋りすぎている気もしたんですがやっぱりその間の取り方はいいと思うし、もう一度ちゃんと小津を観なくちゃいけないのかもしれないなあと思っています。

『桜桃の味』に関して言うと、ラストのことがよく言われたみたいですが、僕も残念ながら「余計だったと思う派」です。映画監督であれば、誰でもやろうと思えばできることですからね、ああして壊してしまうのは。ジャッキー・チェンの映画にあるようなNGシーンとも違うし。こういうことを書くと、「いや、あのラストではこれこれこういう試みがなされていて」云々と言われるかもしれませんが、多分それはあの映画のみに通用する理屈じゃないでしょう。あの映画だからこそあのラストが必要だった、という風にはならないと思いますね。少なくとも最善の終わり方ではなかったように思います。

しかし総じて、非常にすばらしい映画でした。嬉しいですね、いい映画に出会えると。僕は世間の映画好きを自称する人々の中ではまだまだ全然映画を観ていないひよっこの部類ですが、へへん、ひよっこだからこそ、既に沢山観てきてしまった人たちがもう味わえない旨味にこれから出会えるんだい。というわけで、まあ、今日はこの辺で。
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「あるある映画」が意味づけるもの

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最近の学園ものの邦画には、田舎を舞台としたものが数多いようです。というより都会の中学高校というのは、映画ではほとんど描かれることがないように思います。話題になったものでいえば、「リリィ・シュシュのすべて」「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」「リンダリンダリンダ」「夜のピクニック」など、ある地方の田舎町、一領域を照らすことで物語世界を打ち立てることが多いようです。

妙といえば妙、道理といえば道理。
都会に住む学生も多いはずで、そこで生まれる物語も数多いはずなのに、何故田舎を舞台とすることが多いのかと考えれば、妙。学生という存在、その物語を照らすには夾雑要素が少ない世界のほうがやりやすいと考えれば、道理でしょう。また、田舎を舞台とすると、それぞれの観客の田舎時代のくすぐったさを演出することが出来ます。ああ、あんな感じの建物あったなあとか、ああ、あんな風な道よく通ったな、といったように、どこかしらのフックを提供しやすく、それは都会的なものと比べても人々の心に訴えやすいのです。

さて、今回の『リンダリンダリンダ』。これもまた地方都市が舞台。あらすじを語るのは他の誰かにお任せするとして、いきなり感想から書き始めましょう。

かなり、「あるある」的な部分に力を入れているなあという感じがしました。あるあるネタをちりばめてシーンを進めていますね。その点に関していうと枚挙に暇ありませんが、たとえば主人公たちの性格配置、キャラ設定からしてそうなのです。前田亜希が一番キャラが薄いのですが、うまい具合に可愛らしさを殺している。この人はもっと可愛く描こうと思えば描ける人なのでしょうけれど、メイクの感じなどがかなり没個性化され、汎用的な存在になっています。香椎由宇にしてもそうで、ちょっとむかつく顔なんです。学校の同級生を恋愛対象にしていない感じの尖った風情に「ああ、おるおる」と思ってしまいました。また、関根史織の、親しい相手に対してもテンションの低い感じというのもわかります。ここにペ・ドゥナをスパイスにしてバンドが駆動していくわけです。韓国人留学生、という設定を入れることで特異性を生んでいて、もしそれを剥いでしまうと本当に「あるある」で終わりかねなかったと思いますね。

この映画は「あるある」が集積されています。いや、厳密に言うと、「あるあるっぽさ」。リアリティという言葉ともちょっと違う。リアリティを持たせようとする努力がくどくなった形、とでも言えましょう。最初はそれがすごく心地よかったんです。冒頭のシーン、不美人の女子高生がカメラに語りかけるところ、撮影の男子があたふたしているところなど、「わかるわあ」と思いました。なんかこの、後々になって全てのことがこっ恥ずかしい記憶になるであろうところなどは、抜群でした。で、観ていくうちに、「そろそろええで」と少し思いました。例はいくらでも挙げられますが、ダブっている先輩が何故か声がやけにハスキーボイスだったり、「プリンを買おう」という仲間の女子高生らしい振る舞いに対し、関根史織が「千円超えちゃうじゃん」と言い、「デザートは?」という仲間たちに「うちのお母さんが寒天つくるから」と答えたり、甲本雅裕演ずる先生が廊下で生徒を呼び止めてぐずぐずになったり、兄ちゃんが電話している横で腕立てを始めていたり、男子生徒がクレープ屋の客商売なのに全然愛想よく対応できていなかったり、ペ・ドゥナの日韓交流の催しの部屋がもうどうしようもない内実だったり、主人公たちが本当にしょうもないことで笑いあったり、とにかくそういうことが集積されています。それで引っ張ったという感じがしますね。物語自体に大した抑揚がない中で、そういう「あるある」をおかずにして観客を飽きさせないように作っているという印象です。

この映画の重きはそこにこそあったと見るべきなのでしょう。四人でバンドを成功させよう、というのは実は彼女たちにとってそんなに大事じゃなかった気がします。そうでなければ、あんな風に四人揃って舞台の時間に寝過ごしたりしませんって。しかも前田亜希は恋の告白っていうイベントまであったわけで、あそこまでずっと、くどいほどの「あるある」を積んできたのに、あそこに来て「寝過ごしてハプニング」なんて仕出かしませんもん。ペ・ドゥナの歌も別に全然上手ではないわけで、あのバンド演奏はひとつの終局、物語推進のもの以上のものではなかったのではないでしょうか。彼女たちにとって「ブルーハーツ」は特段の意味を持っていない、ということがそれを裏付けてくれます。韓国人留学生を入れてきたならなおのことです。おそらくは意味もわからぬまま、「僕の右手」を口ずさんでいたのです。その意味でいうと逆説的に、鑑賞後すべてのシーンが意味づけられてきます。呆れるほどに意味のない振る舞いのひとつひとつが、後々包括的に意味づけられてくる。僕たちの記憶をくすぐってくる。青春の瞬間瞬間をうまく切り取っていると言えましょう。だから、この映画において「あるある」を感じられない人にはきついかもしれないですね。これの外国版があったら相当きついはずです。「あるある」と言えませんから。

韓国人留学生という設定なら「青空」あたりを歌ってくれると違う動きが生まれるなあ、とも思いましたが、どうやらそんな意味など考えてはいけない映画だったようですね。頭を空にして心地よくありし日を振り返るにはいい映画ではないでしょうか。
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美しいという褒め言葉を目にしますが、美しいってこういうことですか?

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好きと嫌い、まっぷたつに分かれる映画というのは沢山あるでしょうけど、この『ベニスに死す』はその種類の映画ではないでしょうか。持ち上げる人は名作だというだろうし、わからない人はわからないというしかないし。で、僕はといえば後者です。これのよさがまったくわかりませんでした。

 少なくともこれをして「芸術的だ」とかいう感じはしませんでした。むしろある意味でコメディですよ。臆病なホモストーカージジイのコメディ。そう思ってみると別の面白さがあると思いますけど、どうやらそれを狙っているわけではないのでね。何しろこのおっさんの最終的な目的がわからない。いつまでも主人公のおっさんがぐずぐずしているのをいらいらしながら観ていて、まあ終いにはだんだんそれが面白くもなってきたんですが、やはり僕好みではありません。

とある少年に究極的な美を見出した男が墜ちていく、みたいなことが書かれていますけど、これを仮にね、ベニスなんてところでやらずに日本のその辺の汚いところで、しかも大学教授でなくようわからんおっさんがやっていたらどうなんやと。間違いなくただの変態じじいですよ、こんなもん。それをね、なんや雰囲気でええように言うてるなあという気がしてならないんです。それなら結局見た目の話でしかないという風に思ったんです。この映画を褒めるときに「美しい」っていう言葉が使われやすいみたいですけど、「美しい」ってそういうことですか? 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という名フレーズがありますけど、美しいってこの映画よりもっと別のものに使う言葉のように思うんです。いや、映像的な美しさはわかりますよ、でも、それは映画というより映像としての話でね。映像と筋、その演出を踏まえてこその映画だと僕は思うんです。

こういうことを言うと、原作を読んでもいないのになんたらとか言われるかもしれませんけど、僕の大好きなとある方がおっしゃるように、「原作を読んでいないと語れない、そんな映画ならつくるな」ということでね。この映画だけで言えば、僕は観る前に原作の存在すら知らなかったんですけど、明らかに原作があってそれをなぞっている映画だなという感じがしました。起こること起こること全部断片的です。おっさんが伝染病にかかって死ぬ、というのも中途半端ですよね。なんであのおっさんだけが怯えているのかがまるでわからない。そういう病気にすごくかかりやすいのだということも言われていないし。観光で収益を得ている街だから伝染病を表ざたにできないのだ、みたいなことを言っていますけど、他の人たちは全然そんな風になっていないし、もうついていけないですよ。原作はどうか知らないけど、映画だけで言えば、「ベニスに『死す』言うてもうてるし、原作のこともあるし、死んで終わらないといけないからとりあえず伏線引いておこうか」みたいな感じがぷんぷんします。それと細かいところですけど、なぜあのおっさんはラストシーンで頭から血を流しているんですか? 病気のことはよくわからないので僕の無知のための疑問かもしれないけれど、喀血とかそういうのにしたほうが伝わりやすいと思うんですけどね。綺麗なところを撮るのは頑張ったけど、いかんせんそういう部分への配慮が足りないと思いました。

うん、確かに映像とか町並みは綺麗なんですよ、それはこの映画を褒める人たちに何の文句もないところです。そのために、わりと飽きずに見られたのは事実です。台詞が少ないのも僕は好きですから。でも、どうも映画が発される「臭気」がなかったんです。「臭気」って悪い意味じゃなくて、いい意味の「におい」ということです。もともと綺麗な町並みなんだから、それを綺麗にとったものを観て「綺麗だ」といっても仕方ないでしょう。それならたとえば黒沢明の『どですかでん』(1970)なんて、本当に汚い場所なのに美しく見えるという驚きがあって、そちらのほうがよほど好きですね。

こういうことを書くと、この映画を愛でる人々は嫌がるんでしょうけど、何を言われてももうこれは仕方がない。結局、映画でも何でもそういうことですからね。無知ゆえにわからないのだと言われるかもしれないけど、じゃあ知識があれば愛でられるかといえばそういうことでもないですし。まあ、誤謬などあれば素直に認めますけど。

うん、そんなところですかね。
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カルト映画になれたのに、なりきれなかった作品
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『スワロウテイル』は観始めてすぐ、その世界観に惚れました。「イェンタウン」という日本語、中国語、英語の混ざり合う空間は僕好みのにおいっぷりで、「これは下手なことをしない限り面白くなるだろう」と思いました。
 
が、結果的にいうと下手なことをしてくれたところも多く、その分だけどうにも心に残りにくい映画になりました。カルト映画になれたのに、なりきれなかったという印象ですね。まあ、別にカルト映画をつくってやろうとは思っていなかったでしょうけど、この世界観を活かして形作られているかといえば、どうにも足りなかったように思います。
 
 役者自体はおそらく90年代以降の邦画で最も充実したラインナップなのではないかと思っています。少なくとも個人的にはそうです。三上博史、渡部篤郎、山口智子という大好きな俳優のほか、桃井かおりもさすがの名演であり、CHARAという特殊な存在を中央に配したことで物語世界に拍車が掛かっていました。が、主人公の伊藤歩は微妙です。伊藤歩といえば僕にはどうしてもテレビドラマ『リップスティック』の不良キャラの印象が強くて、ああした役柄に違和感を覚えました。まあ、彼女がそのドラマに出たのはこの映画から数年後のことなので、それは僕の側の問題なのですが。

伊藤歩自体、というよりもそのキャラクター設定が世界の拡大を留めてしまったという感じを受けてしまうんです。あのいわば訳のわからない世界、どんな規則があるのかも明瞭でない場所では、確かにああいう、観客にとってのひとつの移入装置が必要なのもわかるんです。まともな人がいたほうがまともじゃないものが対比されますからね。ただ結果的に言えば、それは別に必要ではなかった。そこまで他の登場人物がぶっ飛んでいるわけでもないですから。だから要するに、伊藤歩が歩んだイェンタウン世界への融和と、三上博史やCHARAなどのようにイェンタウン世界で上昇しようとする動きが、どうにもかみ合っていなかったんです。どちらかにしてしまえばよかった気がするんです。融和物語か上昇物語か。どちらかに決めた後で、あらためて世界の多様性を示すことも可能だったのではないかと僕は思うのです。こうした世界観の場合、当然多元体描写のほうが面白くなるわけですが、融和物語を組み込むならもっと絡ませていかなければ世界観が活きてこない。それを蝶の刺青でどうこうしてみたり、刑務所に弁当を届けてみたり、どうでもいいことばかりに時間をかけています。野島伸司ドラマみたいでした。岩井俊二と野島伸司は親和性が高そうで、野島伸司のドラマも大好きですが、この世界では要らなかったんじゃないかなあ。あれをすることで、せっかく濃度の高いものになりそうなイェンタウン的特殊性が薄まってしまったように思えてなりません。あれではイェンタウンならではの出来事として成立しないんです。

ストーリーがなんちゃらということも公開当時言われたみたいですが、僕は上記のように言いつつ、本当はそんなものはどうでもいいんです。確かに最低限ストーリーを理解させてもらわないとデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』のような地獄を見るわけですが、この『スワロウテイル』の場合、ストーリー云々よりも、世界観の提示さえ全うなら僕は問題なく観られたんです。ただその世界観が十分じゃなかったんですね。いや、たとえばあのイェンタウン的猥雑、渡部のいる『あおぞら』的荒涼、そして時折見られる現代日本的整頓がごちゃごちゃになっているところとかはすごくいい。言語にしてもそうで、あれを聞いて僕は、きわめて日本的な映画だという印象を持ちました。しかし、その外見を支えるものがあまりなかった。

変な世界は変な世界できちんとしておいてほしいんです。その意味でいえば山口智子の役柄が引っかかります。江口洋介のリャンキの組織に追われて、CHARAと桃井が渡部の「あおぞら」に逃げてくる。渡部は多勢に無勢の絶体絶命の状況において、挑発的に銃をぶっ放す。どうなんねん、あかんやんけ、と観客が思う中、びっくりしました。ああいうのをデウス・エクス・マキナとでもいうのでしょうか。山口智子がバズーカで敵をすべてぶっ飛ばしてしまうんです。あれはいただけない。あれでいいなら何でもありになってしまう。イェンタウンのような変な世界を提示したなら、つまり秩序のわからない「なんでもあり」のような世界を提示するなら、一方できちんとその秩序を保たねばならない。それが「外見を支えるもの」です。「なんでもあり」の世界ほど秩序を保たないとならないはずなんです。

そろそろやめにしましょう。そういえば公開当時、子供が偽札を使う描写があったせいでR指定になったというのを何かで読みました。あんなもんはどうでもいいんです。ほな何かい、子供が真似するんかい。真似してあんな風に偽札の機能をはたせるんかい。どうせ千円損して終わりになるだけなんですから、あほな子供に見せてやってもいいんです。

二時間半というたっぷりした時間をとって、世界観を提示しつつ、結局それが岩井俊二的な穏やかさに悪い形で中和されてしまったという印象を受けました。
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カウリスマキは格好悪いから格好いいのさ

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池袋・新文芸坐にてデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』、アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』を鑑賞。

『インランド・エンパイア』は正直きつかった。訳のわからないものは嫌いではないが、この形では正直ものすごく疲れる。この映画の魅力がわからない人間はきっと何を言っても無駄であろうし、またこの映画の魅力がわかる人間の解説を聞いたところでおそらくその良さは解せないのだろう。かなり早い段階から「ストーリー」なる概念が意味をなさなくなるため、ついていけない僕としては、三時間はあまりにも長尺だった。「ああ、いつ終わるのだろう、もしかしたらこのまま永遠に終わらないのではないだろうか、永遠は言い過ぎとしても、このまま何年も映画が続き、気づいたときには『昭和生まれのじじい』などと揶揄されるくらいに年をとってしまうのではないか」という錯覚に囚われたのも事実で、置いてけぼりを食らった人間は途中で再乗車することが許されないような、そんな映画であった。わからないことばかりというか、この映画において読解できたことが少なすぎるため、これ以上は何も書けない。

さて、そんなわけで本記事のメインは『街のあかり』についてである。いやあ、さすがはカウリスマキである。三時間のリンチ、八十分のカウリスマキ、僕の中では断然後者の圧勝であった。これは大変に素晴らしい。僕のようなものにはものすごくしっくり来る映画である。といいつつ、別にお勧めしたりはしない。というのも、この映画に共感できる人間、この映画のよさをわかる人間は(リンチの作品がそうであるように)多分相当に少数派だからである。「社会」なるゲームを「処世術」とか「コミュニケーション能力」とかいう武器を使ってうまく進めている人には特に勧めない。そんな人たちにはどうせこの映画の魅力などわかるはずがないのだ。ヤンネ・フーティアイネン演ずる主人公は「処世術」も「コミュニケーション能力」もまったくないような、本当にどうしようもない男である。彼のその姿が実に僕にはしっくりと来た。高校生の太田光は太宰治を読みながら「自分のことが書いてある」と思い、90年代の若者は「エヴァンゲリオン」の碇シンジを見て「これは自分だ!」と思ったそうであるが、それでいうとこの主人公は僕にとってそのような存在である。あらすじをアマゾンから拝借する。

ヘルシンキの警備会社に勤めるコイスティネンは、同僚や上司に好かれず、黙々と仕事をこなす日々。彼には家族も友人もいなかった。そんな彼に美しい女性が声をかけてきた。ふたりはデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。しかし、実は恋人は彼を騙していた。彼女は宝石泥棒の一味だったのだ…。

あらすじには「美しい女性」とあるが別に美しくもない。フィンランドでは美人かもしれないが、日本人は彼女を美人だとは捉えないと思う。コイスティネンを陥れるハニートラップの役割を果たすのだが、その割には綺麗ではない。だが、そういうところがいいのだ。カウリスマキの優れているところのひとつである。別に美人ではないのだ。ソーセージを売っている、主人公にただ一人寄り添う女性も別に美しくない。だが、それが絶妙な味わいを醸しているのである。コイスティネンがハニートラップに掛かった理由は、むしろその女が美人ではないからこそ説得力を生む。美貌に惹かれたのではなく、偽りであったとしても自分に注目してくれた、そのことに惹かれたのである。その証左は、コイスティネンが女の正体を鏡越しに確信したシーンである。彼は窃盗団の一味であるという冤罪を着せられるのだが、絶対に女のことを警察にも話さず、有罪判決を受けて刑務所に入れられてしまう。その刑務所の中で、ほんの一瞬、おそらく劇中でただ一度の笑顔を彼は見せる。この笑顔のことを語り始めるとまた長くなるのでやめておくが、コイスティネンが彼女のことを警察に絶対に話そうとしなかった理由を僕なりに解釈すると、「彼女が犯罪者の一味であったとしても、そして自分を陥れたとしても、自分が彼女に恋をしたその気持ちだけは本当なのだ」というその精神ゆえである。裏切られたとか騙されたとか、普通の人間は憤るものだが、彼は違っていた。絶望したからではない。あまりのショックに落胆したからでもない。もしも彼女に対する怒りが彼の中に芽生えていたのだとしたら、どうして彼は犯罪者のボスを襲撃しようとしたのだ? 彼女への怒りがあるならば、彼女を殺そうとしたはずである。だが、彼はしなかった。自分が恋をしたそのことを、彼は信じていたのである。

「初恋の人というのは、恋をするということを教えてくれた人のことさ」

僕の言葉である。どこかのキャッチコピーで使ってもらいたいところである。コイスティネンの恋が初恋かどうかはわからないが、ともかく彼は彼女を恨んだりはしなかったのだ。僕が自分とコイスティネンを重ねあわせた理由はほかにもあって、彼が釈放後に始めた仕事が皿洗いだったということである。僕は逮捕されたことがないのでその点は関係ないが、僕もかつて皿洗いのバイトをしていたのである。そのための皿洗い機械、その工程などが実に僕の記憶をくすぐるものであった。ラストシーンも秀逸である。それまでコイスティネンにただ一人寄り添ってくれた女性がおり、彼はその彼女に対しても心を開こうとしなかったのだが、最後のカットで彼は彼女の差し伸べる手にそっと自分の手を重ねる。馬鹿な監督ならその後の会話なり何なりを描いてしまいかねないが、そこはカウリスマキ、当然わかってくれている。そんなことはしなくていいのだ。無駄に話をさせるべきではない。あの終わり方はまことにもって完璧である。犬が黒人少年とともにいるのもよかった。

そんなわけで、カウリスマキの傑作を観て、実に僕は気分がよいのである。
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