マジックのタネがわかれば、その鮮やかさに触れる。
d0151584_16580570.jpg
小野さんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
ニューシネマを現代風にアレンジした快作だと思います。
d0151584_16570215.jpg
2235さんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
面白いけど脚本をもう一歩。それで二十点は上がるはず。
d0151584_16573299.jpg
ponさんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
サイコパスってだれのこと?
d0151584_16505646.jpg
golow5060さんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
What is a wonderful life?
d0151584_16495354.jpg
zekiさんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。




More
[PR]
スパイシーなヘルシーメニューですね。
d0151584_16470119.jpg
豆村さんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
子供向けの発想を、大人にだって魅せるのがすごいのだ。
d0151584_16460609.jpg
notchさんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
コドモムケニツキ、ギャクあーるシテイ。

d0151584_16445915.jpg
しんぺーさんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
 衆議院議員選挙。
定数5減で、自公326なので、割合としては与党に微増という結果でありましたが、アホの次世代がぼろぼろ消えたのもあって、まぁ事前調査よりは悪くないのか、というのが個人的感想であります。思えば二年前の選挙の日には、あの神聖、恵比寿マスカッツの解散が発表されたという大事件がありましたので、あの頃に比べればぜんぜんましなのであります。

さて、ぼくは実はツイッターで個人的な公約を述べておったのです。覚えている人は少ないかも知れないですが、男子たるもの一度言ったことは守るのであります。

 それは何かというと、「自民が議席を減らしたら映画評を復活する」ということでありました。結果、自民は3つ減らしたので、これはもうやるしかなくなったのであります。

 年末年始はそれなりに忙しいのですぐにとは参りませんが、1月中にはやるのであります。まったく! 誰に頼まれたわけでもないけどこれはもうやるしかないんだ! 一人でくるくる回るんだ!

 しかし、ここでひとつ問題があります。ぼくは映画からずいぶん離れておりますため、何を観ればよいのかな、というのがよくわかりません。そこで、以前もやりました「リクエスト募集」をそのきっかけにしたく思っております。

レンタルで入手可能なDVDであれば、これは必ずリクエストにお応えします。
 何作でも結構です。
 dビデオに加入中なので、dビデオにあるものでもいいです。
 例によって、劇場公開中のものはやりません。
 リクエスト以外の自分セレクトのものも挟み込んでいく予定です。


と、いうわけで、「おまえ自分で言ったんだから公約守れ。政治家のことをどうのこうの言えなくなるぞ」と思われる方は、ぜひともリクエストくださいませ。

[PR]
インターネット上で差別的な発言を繰り返され、名誉を傷つけられたなどとして、在日朝鮮人の女性フリーライター・李信恵リシネさん(43)(大阪府東大阪市)が18日、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などに総額約2700万円の損害賠償を求め、大阪地裁に提訴した。
 李さん側の弁護士によると、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチ(憎悪表現)を巡り、個人が賠償請求する訴訟は異例という。
(『読売新聞』記事より抜粋)

 レイシズム、ヘイトスピーチにまつわる愚見はツイッターでもことあるごとに申し述べてきたのでありますが、今一度ここで整理しておきたいなあと考え、お話しをする次第なのでございます。

 といって、昨今の事情、情勢、あるいは近隣諸国との歴史的経緯などを総ざらえするのはさすがに手に余るのでありまして、話の力点としたい部分だけを述べるのであります。

 一般的な考えを申すのであれば、レイシズムは許すべきではありません。相手の人種、民族という属性をもって、罵倒することを許してはなりません。

 などというと、いやいや、向こうの国は反日教育を施し、反日政策を是としているのであるから、こちらも黙ってはおれぬという議論が起こるのですが、それならばその反日政策を行う政府(つまりは韓国政府、北朝鮮政府、中国政府)だけを叩けばよいのです。民族的な話ではないはずです。
 
 などというと、いやいや、その政府を支持しているのは民族なのであるから、民族、国民自体がよろしくないのだという議論が起こるのですが、それはとても乱雑な捉え方でありまして、政府の意思はイコール民族、国民の意思ではあり得ません。安倍政権の考えが日本人全員の考えと同じでないのと同じことであります。反日教育にしてみても、その教育にすべての国民が同意しているわけではないはずでありまして、それは日本を見ても同じこと。日教組の教育を受けたからと皆が皆、日教組的思想を受け継ぐわけはないのでありまして、教育それ自体が国民の思想であるというのは、まったくもっておかしな見方なのであります。ゆえにして、反日政策や反日教育をもって、民族そのものへの憎悪を抱くのは、あまりにも蒙昧な考えであろうと思うのであります。

 などといっているうちに前置きがどんどんと長くなるため、この辺にしましょう。
 さて、ことほどさようにレイシズムとは許されるべきものではありません。
 しかし他方で、ぼくは思うのです。レイシズムを、許してやろうと。
 さあ、ここからが本題なのであります。

 皆様の感情を逆撫でそうなことをあえて述べますが、ぼくは、「レイシズムを、ひとつの立場として認める」という考えを持ちます。

などというと、当然反論のために、皆様の指先が動き始めるのでしょうが、まあお待ちくださいませ。要点はここからでございます。

 以前「ゴキブリ考」の記事でも述べたのですが、レイシズムはひとえに、「嫌いから始まる」ものなのです。嫌う理由を尋ねればあれこれと出てきますが、それはすべて後付けであって、根本には「単に嫌い」という感情が居座っている。朝鮮人が嫌いだ、中国人が嫌いだという方々はまずはそれをお認めになるのがよろしかろうと思います。「嫌い」が先にあって、その「嫌い」という感情を補強するために、さまざまに情報を集め、時には虚偽すらも感情の補強に用いる。自分の感情に反する情報は排し、ただ「嫌い」を正当化するために必要なものを摂取する。すべての根本に、「嫌い」がある。

 そして、それは致し方ないことだとぼくは思います。人間は理性の動物であると同時に感情の動物でありますから、感情から出発するのも仕方のないことなのです。「レイシズムを認める」といった理由はまずここにあります。「嫌いなものを嫌いだと言うな」。そのような命令は自由権にもとるものでございます。

 さて、しかしここでぼくは立ち止まります。
 そもそも「レイシズム」とはどういうものであるのか。一般的な認識としては、「特定の人種、民族を差別する思想」のようなものでありましょう。ですがぼくの場合は少し違う認識なのです。レイシズムの本質はそこにはない。レイシズムの本質とはすなわち、「人種差別、民族差別がこの世にあることを、積極的に認める思想」なのです。

 この違いをおわかりでしょうか。
 思うに、レイシズムとは「差別する思想」ではないのです。「差別し、差別されることを受け入れる思想」なのです。なぜだか世間では後半が抜け落ちる。ぼくにはそれが不可思議でならない。

「誰かを差別する」ということは、「誰かに差別されてもかまわない」という意思の表明なのです。考えてみれば当たり前のことです。「俺はおまえを差別するが、おまえは俺を差別するな」などというのは、あまりにも子供じみた発想で、取るに足らない。語る必要もない。それでは「思想」の名に値しない。レイシズムを語るときには、むしろこの「誰かに差別されてもかまわない」のほうをこそ考えるべきなのです。

 だからぼくは言うのです。レイシズムを許容しろと。

さあ、そろそろ牙を剥きましょう。わかりやすくするために、会話形式でお届けします。

「俺は朝鮮人を差別するぞ。思想の自由だ。表現の自由だ」

「OKです。自由は許容されるべきです。ですが、レイシズムとは『差別する立場』であると同時に、『差別される立場』でもあります。差別する自由を認める代わりに、差別されることもまた、受け入れてもらわねばなりません」

「そ、そんなのは嫌だ。俺は差別したいんだ。差別されるのは嫌だ」

「子供ですかあなたは。それではあまりにもあなたに有利すぎる。あなたの差別を許しますので、あなたの身にたとえどんな不当な差別が降りかかっても文句を言ってはいけません」

「ふ、ふん。別にいいや」

「つまりあなたは、『差別される自由』を最大限行使できるのであり、差別が許されない社会においては、あなただけが唯一、差別の対象として扱われます。たとえば街中で、突然殴る蹴るの暴行を受けても、文句を言ってはいけません。あなたはレイシストであり、つまりは『不当な差別構造の存在を、受け入れる人間』です。とんだ茨の道ですが、あなたは自ら、そうありたいと願ったわけですから」

「ふ、ふん、じゃあ逆に、俺が街中で朝鮮人を殴る蹴るしてもいいわけだな」

「駄目です」

「なぜだ。話が通らないじゃないか」

「朝鮮人はレイシストではありません。その構造を受け入れていません」

「ふふふ、あいつらは反日政策をして反日教育で、日本人を差別していて……」

「あなたは本当に馬鹿だ」

「なんだと畜生、工作員! 在日乙! 必死www、ええと、それから」

「あなたはどうしてそうも自分中心なのです。いいですか、私たちはあなたを差別することができます。しかし裏を返せば、あなたのことしか差別できません。あなたは差別を一手に引き受けると先ほど表明しましたが、その対象はあくまであなた一人のこと。なぜあなたが、朝鮮人全体を差別していいのですか。あまりにも釣り合いが取れません」

「わ、わからないぞ。あ、そうだ、反日はお帰りください!」

「私たちはあなた一人しか差別できない。そのくせあなたは朝鮮人全体を差別すると言っている。それではあまりにもあなたに有利すぎる。と、そう言っているのです。それに、朝鮮人一人一人がレイシストかどうか、全員に調査したのですか。したはずはない。あなたはそのぼんやりとした目で、集団として見ているだけだ。レイシストでない可能性のある人間を差別するのは、ルールに反します。レイシストではない人間は、『差別される自由』を行使できないからです」

「そ、そんなの、それじゃああまりにレイシストが不利じゃないか。損じゃないか」

「ええ、しかし安心してください。あなたの立場は守られるべきです。あなたは世界で唯一、不当に差別されることを受け入れた人間です。あなたが大事にしたい差別構造を、私たちは全力で守ります。あなたは公道を歩いてはいけないし、公共の施設を利用してはいけないし、人権侵害にも反論してはいけません。それはあなたの意にも沿うはずです。あなたはそうやって、差別構造の存在を、この世に保全することができるのです。なんと素敵なことでしょう」

「じゃ、じゃあ俺も誰かを不当に差別してもいいんだな。半島へ帰れ」

「ええ、しかしそれはレイシスト同士に留めるべきでしょう。レイシストではない人を差別すれば、理に反します。繰り返しになりますが、レイシストではない人は差別されることを受け入れませんから、『朝鮮人を殺せ』などと公衆の面前で言ってはいけません」

「自由はどこへいった」

「お忘れですか。あなたは不当な被差別を自ら負うと宣言したのですよ。あなたから自由がなくなっても、それに反論することはできない。あなたに自由があるかどうか、あなたは決める権利を持ちません。あなたが望んだことじゃないですか。しかしそれは些細なことですよ。大事なのは、あなたが今から、差別され放題だということ。さあ、レイシズムを満喫しましょう!」

 おわかりですね。
「レイシズムを認める」とぼくが言ったのはこういうことです。
彼らは「差別の構造を守ろう」と言っている。それはすなわち、「不当な差別を受け入れる」と言っているに等しいのです。

 なぜそんなことを言うのかぼくにはまるでわかりませんが、まあ世の中には生粋のマゾヒストというのもいらっしゃるわけです。彼らの主張を守りましょうじゃありませんか。差別が許されないこの世の中で、唯一自らの意思で、自らへの差別を受け入れてくれるという彼ら。彼らの主張を守るとは、彼らを叩きつぶすことでもあります。彼らを叩きつぶすことは、彼らの望みでもあるわけですから、結果的には守ってあげることになるでしょう。その意味においてのみ、ぼくは言うのです。レイシズムを、許容してやろうと。

くくく。

[PR]
ぼくはもうついていけない、ということなんでしょう。

d0151584_19372320.jpg
 公開当時方々から絶賛の声があがって、うわ、こら難儀やな、乗れなかったらなんか嫌な感じになるな、と思って敬遠していたのですが、一応観ておこうと思って、まどかマギカ。

結論から言うと、個人的にはちょっときつかったです。乗れませんでした。これはですねえ、ぼくもおっさんになったなあと思いますね。あのきゃぴついてる感がそろそろきつくなってきたんです。カロリーが高いというか、胃もたれするというか、そんな感じです。大学生くらいの頃は、おじさんたちがいうところの「この年になると肉はもういいね。魚だね、うん」的な発言を完全に他人事として受け流していたのですが、なんかそれがわかるんです。「男子の夢想する、女子たちのお喋り」みたいなもんを観ているのがもう辛い。ラノベ的な、恋愛要素のないハーレム的部室感がきついんです。作品がどうのこうのじゃなくて、今のぼくには糖分が高すぎる。若者ならばまだしも、ぼくより上の世代の識者とか通人みたいな人がこれを観て耐えられるのがある意味羨ましいです。若々しいと思います。

あとはあの劇団イヌカレーによる描写もぼくには辛い。カロリーが高い。
 結局ぼくは、『哀しみのベラドンナ』に撃ち抜かれっぱなしなんです。あの抽象表現をどうしても思い出すので、今回のような足し算スタイルにはどうしても乗れなくなる。
 ここで前に述べたことです。そこから前に進めていない感じがしてそれが自分でも辛いんですけども、結局「昔感じたあの鮮烈さ」を超えてくるようなものじゃないと、エレクトしないんです。「あー、これは確かに凄いけれども、あのときのあれのほうが凄かったよなあ」になってしまう。

 正直なところ、偏狭と言われるのを覚悟で申すならば、「『哀しみのベラドンナ』に勝てるアニメ表現なんか無い」とさえ思ってしまうのです。理由は簡単で、あの作品が想像力に訴えてくるから。今日までのアニメ技術の発展による緻密な描き込み、高画質、高精細のどうたらこうたら。それは確かに凄いけれども、所詮はすべて視覚への訴え。『哀しみのベラドンナ』が違うのは、あえて視覚的要素を減らすことで、こちらの想像力に訴えてくるからなんです。足し算をいくらやられても、引き算をつきつめたもの以上の感動を得られないのです。

 で、どうでもよくなっちゃったんです。
 足し算をされればされるほど、ああ、どうでもいい世界のどうでもいい話だなあ、感が迫ってくる。その意味では『エヴァQ』で感じたものと同じです。「こいつらがどうなったところで俺はもうどうでもいい、何なんだこの世界は」という感覚が、キャンディなものを描かれれば描かれるほど強まってしまった。なんでこんなに、足し算をするんだろうって、冷めてしまった。チーズ! カマンベール! とか、あの辺のノリと作為性。

 若い人はいいと思うんです。若い人がこれを観て、おおお、と思うのはとても正しいと思う。ぼくも十代や大学生なら、あのほむらとマミの対決のシーンとかで興奮していたと思う。でも今のぼくは、なんかぺらぺらだなあ、と感じてしまう。「ああ、こいつらはどうせどっちも死なない。なぜならこの世界はたぶんなんでもありだし。仮に死んでも、何か理屈をつけて蘇ったりするし」と引いて観てしまう。「いるか? その格好つけたポーズ」なんて思ってしまう。作為性ばかりが目に付く鼻につく。

世界に入り込めなかったのは大きいです。『エンジェルウォーズ』を観たときの感覚にも近いです。「魔女がつくりだした世界なの!?」とか驚くのもよくわからない。そもそもあんな世界、見るからに現実でも何でもないから、どんな世界でもどうでもいい。

で、後半から終盤で、ほむらがキュウベエと一緒になって、この世界はどうたらこうたらということを言い出すのですが、乗れなかった人間としてはもうきついだけになってしまった。というか、テレビ版に遡って、このまどマギという作品がちょっと嫌いになってしまった。

テレビ版の最後で、まどかが世界を救って、でもみんなに忘れられて、みたいな結末を迎えていたのですけれども、これがあらためてちょっと引っかかってきたんです。というのも、実につまらないことを言いますけれども(既に散々言っている気もしますけれども)、ぼくには「世界なんか、救えない」という諦念があるからです。いや、それは違うかな、言い方としてはこうかな。「あの程度の描き方で、世界を救った救世主的な立ち位置を取られても、愛おしくない」と思ってしまう。

 世界なんか、この作品では描かれていないんです。身の回りとか、ごく限られた登場人物が、デフォルメされた舞台にいただけです。キュウベエが「地球外の存在、観測者」として出てきてぐうっと広げてはいたけれど、この作品には実世界における人々の営みや歴史の連なりのようなものがなく、あくまでもぺらぺらの世界があるだけに過ぎないので、それを救ったところでそれがなんなのか、と非常に冷めた物言いをしたくなる。

「みんながまどかを忘れる世界なんて嫌!」などと言ったところで、結局のところぼくたちは皆忘れられていく存在なのです。百年、千年、一万年の歴史を考えてみれば、ぼくたちなんてどのみち死ねば忘れられる。そもそもこの現実世界において、一人の人間の人生など、世界にとってなんでもないものです。どれだけ狭い範囲の話をしているのや、と思います。それで世界を変える変えないみたいな話をされてもなあ、です。それを何を子供じみたことを言っているのか。すべては光の中へ消えていくというのに、あまつさえ愛がうんぬんと言い出す。もう本当にどうでもよくなる。

 いや、ぼくは「忘却」にまつわる話を否定するわけではないんです。ただ、その規模の問題なんですね。「身の回りにおける忘却」ならばぐっと来る話になると思うんですけど、そこでどうして「世界」に飛んでしまうのか。結局はこの話もまたセカイ系的なものに感じられてならない。ごく限られた人間の間で交わされる話が、世界の命運を握っているかのように論じられる。

「叛逆の物語」というより、「ほむらちゃんのどうでもいい話」として感じられてしまったぼくは、いやはやつくづく乗り損ねたなあと感じます。別のタイミングで観ていたら、きっともっと違う感想もあったのでしょうけれど、率直に言えば上記のような感じ方になってしまったのであります。もっと建設的な見方をするべきなのは重々承知ですけれども、今のぼくにはあまりにハイカロリー、糖分高めでありました。

[PR]
他国の事情は知りませんが、日本で「嫌いなもの」のアンケートを採ったら一番手に来るのがゴキブリでしょう。そして「ゴキブリが好きですか、嫌いですか」と尋ねたら、99%近くの人が嫌いと答えるでしょう。

 はて、しかしなぜ人はゴキブリを嫌うのでしょう。かくいうぼくも素手で触れるかと言われれば、逡巡してしまいます。どうしてぼくを含めた多くの人々は、ゴキブリが苦手なのでしょう。

そもそも虫全般が苦手である、という人もいます。それならばまだ話はわかります。顔が見えないのでコミュニケートしづらい、という感覚もわかる。足が六本(以上)ある、羽が生えているなど、人類とは別種の変化を遂げたその姿形が、距離感を覚えさせるのもわかります。

 ここでの議題は、「カブトムシや蝶々なら愛でるのに、ゴキブリは嫌いである」というその差別意識なのです。

 本能的なものとは考えにくいのです。食用にしている文化圏もあるわけだし、「ゴキブリによって殺された」という話も聞きません。人間を殺す動物ならば他にもいくらでもいるし、病原体の媒介でいえばネズミや蚊のほうがよほど脅威です。ゴキブリにそれほど嫌われる理由があるとは思えないのです。

 おまえ自身の理由を考えてみたらよかろう、と言われそうです。ふむ、考えてみましょう。自己対話です。

「あの黒光りした様が嫌なのです」
「ふむ、しかしおまえの好きな色は黒ではなかったかね」
「あいつはちょっと茶色っぽいじゃないですか」
「茶色いものを嫌いなのか。ではチョコレートはどうだね」
「そういうことじゃないのです。チョコレートは食べ物ですから、比較材料としては不適切です」
「ふむ、ならば黒光りしていて茶色っぽい虫だから嫌いなのかね」
「そうです」 
「だったら白いゴキブリであれば問題ないのかね」
「部屋に白いゴキブリが出たらある意味普通のゴキブリ以上に怖いです」
「どうも色が理由だというのは少し怪しい気がするぞ」
「だいたい、あいつらは不潔じゃないですか。ゴミ捨て場や下水道などに生息しているじゃないですか」 
「ほう、だったら清潔な環境で飼育されたゴキブリなら触れるのかね」
「自信がありません」
「なぜかね」
「なぜでしょう。そうだ、あの触覚が嫌なのです。体と不釣り合いに長いあの触覚が微妙に動く様など、不気味に思われます」
「触覚がなければ平気かね」
「少しはマシな気もします」
「だったら君は、ゴキブリが嫌いとは言わずに、触覚が長い生き物が嫌いだと言えばいい。なぜそうゴキブリばかり嫌悪するんだね」
「あいつらはカサカサッと動くじゃないですか。あの動き方が嫌です」
「君は気づいているかね」
「何でしょう」
「君はさっきからゴキブリの特徴ばかりを述べている。そこに『嫌い』とくっつけているだけだ。それでは説明にならない。イヌが嫌いだという人がいたとして、四足歩行だから、ワンと鳴くから、全身に毛が生えているからと説明されても、ぴんと来ないだろう」
「はて、ではなぜぼくはそれらの属性を嫌っているのでしょう」
「そこに勘違いがあるのだよ」

 そう。ここにはおそらく認識の転倒があるのです。きっとぼくたちは「嫌い、という認識から始まっている」のです。親がゴキブリの出現に大騒ぎしたり、嫌なものとして扱われているのをテレビで見たり、ゴキブリホイホイの存在を知ったり。とにかく「ゴキブリ=嫌うべきもの」という認識を与えられ続けてきたのです。そしてそのあとから、理由付けをしているに過ぎないのです。合理的な理由があって嫌っている、わけではないのです(不潔だからという合理的理由がある、という人は、清潔なゴキブリなら触れるという人ですね。でもそれは不潔なものを嫌う理由であって、ゴキブリをことさらに嫌う理由にはならないのです)。

 ではなぜ日本人は文化的にゴキブリを嫌うようになったのか、という話ができればぼくも立派なもんですが、あいにく文化人類学には疎いのです。
 ぼくはこの議題を、ヘイトスピーチ問題に結びつけて考えたくなります。
 中国や韓国を強く嫌悪する人々と、ぼくたちがゴキブリを嫌う理由というのは、実は似ているのじゃないでしょうか。ここで言いたいのは当然、「中韓=ゴキブリ」などという話ではまったくありません。述べたいのは、「嫌いから始まっている」ということです。 理由は後付なのです。

だから、ヘイトスピーカーに対して、合理的な説得を図っても難しいような気がするのです。彼らの理屈や言葉を剝がして剝がして残るものはきっと、単純な叫びです。
「理由なんかどうでもいいんだ! とにかく自分は中国や韓国が嫌いなんだ!」
というものでしょう。嫌いなものは嫌いだ、というだけの話です。

 ぼくは彼らの罵倒を不当だと感じます。しかし、であるならばぼくは正当な理由をもってゴキブリを嫌悪していると、果たして言えるだろうか。そう考えると不安になってきます。もしかしたらぼくたちは、不当にゴキブリを差別しているのではないか? 好きになる必要はなくとも、他の虫と同じくらいに扱ってやってもいいのではないか?

 こう書くと、「外国人は人間だぞ。ゴキブリは虫じゃないか。同等に扱うのは乱暴だ」「ゴキブリを触れなくても誰も迷惑しないじゃないか。ヘイトスピーチは人を傷つけるんだ」と言われそうです。しかし、ぼくの言いたいことの力点はそこじゃない。問いたいのは、嫌悪するものを思い描くことで、ヘイトスピーカーの心性を理解できるんじゃないかということ。そして、果たしてぼくたちは差別をやめることができるのかということ。

 ヘイトスピーカーにやめろということはできる。でも、やめる側には難しいのかもしれない。ぼくたちにとってゴキブリを触ることが、難しいように。理由のない差別をやめるべきだというならば、ぼくたちも同じようにしなくちゃいけないのかもしれない。

 去年ぼくはナウシカの原作をがっつり読んで、虫への慈しみを覚えるようになりました。 ゴキブリだって懸命に生きているのです。
 何もぼくたちに嫌がらせをしようと台所に出現しているわけじゃない。「おなかがすいたなあ。食べ物無いかなあ」「あ、あった、巣に持って帰ろう、子供たちに食べさせなくっちゃ」。そう思っているとき、ばったりぼくたちに出会ってしまうだけなのです。
ぼくは時々本気で、「おまえは一匹のゴキブリよりも一生懸命生きているか?」と自分に問うてしまうほどなのです。

 さあ、そう考えたら触れそうだ。と、思いながらも、やはりためらう。
 ぼくはまだまだです。ゴキブリを平気で触れるようになったとき、「一段上の男」になれる気がするのですが、なかなか果たせません。
 さて、どうでしょう。あなたはゴキブリを触れるでしょうか。
「嫌うことをやめる」というのは、なかなかに難しいことなのかもしれません。

[PR]
 映画についての更新は休止中なのですが、世間の出来事について思ったことを書きたくなりました。今後も時たまそういうことがあるかもしれませんので、その際は気が向いたら読んでくらはい。


ろくでなし子さんという方は知りませんでした。今回の件で初めて知ったという方も多かろうと思われます。彼女は自分の性器の3Dプリンタ用データを頒布し、それが「猥褻電磁的記録」の頒布に当たるとして逮捕されたそうです。この件について、愚見を述べたいと思うのであります。

 思考の結論自体はまだ出ていないのですが、多少ネット上の情報を見聞して思うことには、「これをOKにしたら、裏ビデオもOKになるのではないか」ということです。

順を追って考えてみますに、まず排除すべきことは「芸術かどうか」という曖昧な議論です。芸術活動だからOK、というのは意味のない議論です。もしそれが通るなら、ぼくは今日から裸で街を歩いていいことになります。警察に咎められても、「これは芸術活動だ」で乗り切れるか。そんなはずはない。つまり、「芸術活動だから逮捕するな」というのは無意味な言い分です。この点について、過去の実績うんぬんというのもまた無意味です。ぼくが今から十年間、男性器のアートについてどんな活動をしてどんな実績を積んでも、裸で歩くことはできません。まずは、「芸術うんぬん」という議論を切り捨てます。

 ではなぜ逮捕されるのかと言えば、「猥褻物」を「頒布」したからです。「猥褻物を頒布してはいけない」という法律は必要なものであろうと思います。際限を設けることは社会にとって必要です。そこで問題となるのが、「猥褻物」とは何か、という線引きの問題です。

 猥褻なものの筆頭たるAV。これまでのAVでは様々な性的表現がなされてきましたが、「性器の無修正撮影」は今も昔も御法度です。肛門はよいのですが、性器は男女問わずアウトなのです。このラインが、逮捕に至る「猥褻物」か否かの完全な分かれ目です。たとえいかほどにくんずほぐれつの営みがなされても、いかほどに変態的な性的遊戯がなされようとも構わない。ただ、性器だけは映すなよ。これが警察による猥褻の線引きです。性器さえ映っていなければ、有償であっても可というわけです。この線引き自体に、ぼくは違和を覚えません。「どんなに淫らで変態的な行為でも構わない。その代わりに、性器だけは映すな」。この取引で、AV界と警察は渡り合ってきたのです。わかりやすい取り決めであると思います。

 では、女性器を模したオナホールはよいのか。男性器を模した彫刻など昔から溢れているではないか。といえば、これはよしとされているようです。つまり、「模したもの」であればよいのです。そのものでなければ、可なのです。

 ひとまず整理します。頒布すると逮捕に至る「猥褻物」とはすなわち、「性器そのもの」であると言えます。性器に似ていても、性器でなければいいのです。

では、「性器そのもの」であれば、逮捕されても文句は言えないのか。性器は「猥褻物」なのか。それはとてもデリケートな領域ですが、少なくともAV界はその線で渡り合ってきました。そうでなければ、これも猥褻、あれも猥褻となって、逆に表現の幅を狭められてしまうかもしれない。だからこそ、猥褻の対象を性器に絞り込んできたのです。そしてその線を越えた業者は逮捕されてきました。性器そのものが映っていますからね、文句は言えませんね、と。

 その線引き自体が不当である、性器が映っていてもいいじゃないか、という場合は、これまで裏ビデオとされてきたものも、よしとする必要があります。この点を留意して話を進めます。

 さて、ろくでなし子さんの件です。
 彼女は「自分の性器の3Dプリント用データ」を「不特定多数の人間に有償で」頒布しています。繰り返しになりますが、その意図や動機、実績などは無意味です。芸術活動のためかどうか、ということは何も意味がないのです(もしその理屈で許可できるなら、裏ビデオ業者も全員無罪放免です)。寄付してくれた人に限って渡している、という部分は弁護材料になりません。それが通るなら、その理屈で裏ビデオ業者も行けます。購入ではなく寄付なのだ、で通るものではありません。
 いよいよ本質的な部分に来ました。
「自分の性器の3Dプリント用データ」は「性器そのもの」に当たるかどうか、という議論です。はっきり言って重要な論点はここだけです。3Dプリンタという新規なものゆえに問題が複雑化しているように思われますが、それは既存の技術に置き換えて考えたほうがシンプルです。

2Dプリンタ、すなわち写真だったらどうなのか、と考えてみましょう。写真そのものではなく、ネガのほうがわかりやすい。つまり、今回の件はこれと同じです。

「自分の性器を映した写真のネガを、不特定多数の人間に売った」 

 さて、これは逮捕すべき「猥褻図画頒布」に当たるのかどうか。
 もうひとつ言うならば、「裏ビデオ」というのもいわば「データ」ですね。
 モニターで再生すれば性器が映るデータ。それを売ると、逮捕されるのです。
この路線で行けば、前例に照らして言えば、彼女の逮捕は正当であると言えます。

 しかし、3Dプリンタのデータは「性器そのもの」ではない、という立場に立つなら、この論は成り立ちません。彼女を擁護する人間はこの点に立脚して勝負する必要があります。彼女を擁護する人間の言い分は「あれは性器そのものではない」という立場を意味しています。問題は本当にこの一点です。

 中には、「あれは性器そのものだ。だが逮捕は不当だ」という人もいらっしゃるかもしれません。OK、であれば、ぜひ裏ビデオをも擁護してもらいたく存じます。いやあるいは、AVのモザイクを取っ払う方面の主張も重ねてお願い申し上げます。もちろん、別の「線引き」を提示する必要がありますが。

すごく嫌な言い方をしますが、AV界は今回の件を格好の試金石と見ているはずです。
「彼女の頒布したものは性器そのものではない。ネガやビデオデータとは異なる」という擁護派の主張が通るならば、AV界は新たなマーケットを生み出せる。すなわち、「有名女優の性器データを堂々と売れる」ことになるからです。元手が安く住む分、それなりに大きな利益が生まれることでしょう。くどいですが、それが芸術かどうかなんて話には何の意味もない。
 あるいは、女子大生やOLがちょっとしたこづかい稼ぎに、性器のデータを売るなんていう新たな地下マーケットもつくられることでしょう。顔を隠して匿名性を保持しつつ、顔以外の身体データを売って金を儲ける。そういったことも問題ないわけです。
 今回の件で彼女を擁護するのであれば、そういった可能性ももちろん許容する必要があり、そうした商品が定着しても一切問題ない、と宣言することになります。フェミニズム的に彼女を擁護する向きもあるようですが、この点ご一考いただくのがよろしかろうと思います。今ここで彼女を擁護すれば、性の商品化はいっそうその土壌を広めます。ぼくとしてはそれでも何も問題ないですが、フェミニスト的にどうなのかは疑問です。

彼女の逮捕が不当かどうか、ぼくにはわかりません。3D用データが性器そのものか、ぼくには結論できません。ただ、逮捕が不当であると主張する場合は、その影響も加味したうえでのほうが、よろしかろうと思います。

[PR]
女子供向けではないホラーとしてお薦めします。
d0151584_22405676.jpg



More
[PR]
ディズニーが生み出すキュートの全力を、見た気がします。
d0151584_23335871.jpg



More
[PR]
久々にどっぷりと入り込みました。
d0151584_06540399.jpg


More
[PR]
コーエン兄弟の直球
d0151584_00135235.jpg
 


More
[PR]
悲哀よりも何よりも、ただひたすら辛気くさいんだ。
d0151584_04545761.jpg




More
[PR]
凝縮されていないがゆえに、せっかくの熱が逃げまくっている。
d0151584_3425825.jpg



More
[PR]
マインド・コントロールについての興味深い一品
d0151584_10102819.jpg




More
[PR]
映画は無力じゃない、ということを教えてくれます。
d0151584_604061.jpg




More
[PR]
あなたの思い出を、超えましたか?
d0151584_5495021.jpg


いわゆるハリウッド映画にはぜんぜん興味なくなっちゃったなあ、とこの前書いて、実際に観てみたらどんなもんなのだろうかなあ、と思って、映画秘宝の昨年第一位、夏休み映画としても大反響だったらしい、『パシフィック・リム』。

 結論から先に書くと、うん、やっぱり駄目ですね、うん。

 いやいや、変な噛みつかれ方をされたくないので言っておきますと、作品が駄目なんじゃないんです。受け止めるぼくのほうがやっぱり、今まで通りにED状態なんです。ぜんぜんエレクトしない。昨年の夏は映画好きの皆さんがヒャッホーしていて、だったらぼくの映画インポテンツにも何かしらの効能が期待できるのではと思ったのですが、こりゃあどうにもなりません。みんなが絶賛するハリウッド映画を観てこれですから、他の種類の映画は別としても、こっち系に関しちゃあもう欲情しないニンゲンですね。ほとんど諦めに近い感覚です、ええ。

 町山さんにお聞きしたいですね、彼は本作を激賞しているんです。

 しかし一方では、こうも語っている。

 ぼくは断然後者の感覚で、どうにも本作ではすかっとなどしない。お聞きしたいです。実は以前、当ブログに町山さん本人と思われる方がコメントしてくれて、まあそのときはぼくがちょいと行きすぎた表現をしたためにお叱りを受けたって経緯があったんですけど、また何かで目に入ったら教えてほしいですね。後者的な立場から観て、『パシフィック・リム』はどうなんだってところをね。

 二時間超の映画を観ながらぼくが感じていたのは、やっぱり前に書いたことと同じでね。
「ああ、過去の感動に勝てないやあ」というものなんです。これを中学生くらいに観ていたらもっと違ったと思うんですけど、これじゃあエレクトできないんです。

 バーサス怪獣、あるいはロボットものということで言えば、ウルトラマンがあり、ガンダムがあり、エヴァンゲリオンがありですね。ロボット対怪獣に近しいものでいえばエヴァンゲリオンですけども、どうしてもあれと比べてしまうというか、観ながら繰り返しに感じたのは、ああ、エヴァってやっぱ凄かったよな、ということなんです。

 本作を激賞する方にお聞きしたいのは、「あれ? エヴァ観てるよね?」です。
 全部エヴァでやられてる感じがするんです。本作は二人で一つに乗るってアイディアで、それはエヴァにはないけれど、あの作品ではシンクロ率って概念が出てきてそれがとても画期的で、過去のトラウマでうまく乗れなくなるみたいなのもアスカががっつりやってるじゃないですか。暴走してしまうみたいなくだりもあったし、海中の戦いや深海に潜る話は対ガギエル戦とか「マグマダイバー」の回とか。あのカタルシスの思い出がずっと巡っていたんです。ああ、シンジがハプニング的にアスカと弐号機に乗って、ゼロ距離射撃でやっつけたものだよなあとか、あの火山の中でワイヤーが切れたときのアスカの諦めの表情は絶品だったなあとか。

 怪獣の造型にしても、うん、やっぱりねえ、使徒の思い出があるんです。
 あれで撃たれた世代ですよ、こちとら。怪獣と言えばウルトラシリーズがあって、でもその枠を明らかにはみ出した使徒が出てきて、それにびびらされた。ラミエルとかレリエルとか、あるいはバルディエルみたいなパターンとか。もしくは普通の戦いでも、イスラフェルを二体同時に撃破するみたいなね。エヴァが凄いのは、ウルトラシリーズ由来の怪獣的なものを踏まえつつ、そこから大きく崩してきたところ。考えられる魅力的なパターンを、後代の人間が困り果てるくらいにやってしまったところ。ああいうものの洗礼を受けているとねえ、ああ、なんかつまらないビジュアルだなあとどうしても思ってしまう。

中国を意識してのところなのか、基地に漢字表記が結構あったりしますよね。でも、あれもエヴァであったじゃないですか。新鮮でしたよ、明朝体の漢字がモニターに大写しになっていたりね。それまでの近未来描写とは一線を画しているというか、おお、こんな見せ方があるのかと本当に感心した。あれを思い出すとねえ、うん。

 書きながら見えてくる、という醍醐味を久々に感じながら書いているんですが、結局のところぼくは、「思い出を超えるもの」を求めているのですね。ゴジラやウルトラシリーズがあって、エヴァがあって、その枠をさらに超えるものを求めている。町山さん含め、本作を褒めている人は、「思い出の再来」に歓喜しているのかなあと感じます。かつて観たロボットアクション、怪獣アクションを、よくわかっているデル・トロが、ビッグバジェットかけてハリウッドでつくってくれたー、ひゃっほー的な。うーん、ぼくはそこまで成熟して、「いい大人」にはまだまだ慣れないなあと感じます。だってウルトラマンにはもっと感動したもの! エヴァには本当にびっくりさせられたもの! もひとついえば、ガンダムやその後のZガンダムが見せた構図の複雑さには、心底感心したもの!

 あれ、この感覚何かに似てるなあ、と観ながら感じたのは、『ロード・オブ・ザ・リング』ですね。あれもファンタジー映画界で激賞されて、代表格になっているけれど、ぼくにはぜんぜんぴんと来なかった。ファンタジーと言えばぼくの中で、ドラクエとFFが絶対的なものとして光り輝いているんです。FF6,魔大陸崩壊の影響で世界がぶっ壊れて、だけど再び立ち上がって夕焼けの中に飛空艇を飛ばしたあの日のこととか、えっ、ここはアレフガルドじゃないか、ということは、ここは、そうか、3の主人公こそがロトの勇者だったのか! みたいな世界への感動。遊び人だけが悟りの書なしでも賢者になれるというその心意気。FF9のビビ、えっ、君はつくられた存在だったのか、なんてことだ、えっ、まさかジタンまで! とか、あるいはドラクエ5、そうか、勇者とは自分のことではなく次の世代のことなんだなあというあのメッセージ。あの思い出に、ぜんぜん及ばなかったんです。

 忘れちゃったのかよ、とぼくは思う。
 あのときあんだけ感動したってのに、これで感動できるってのは何? っていう疑問が、申し訳ないけれどぼくにはある。
 
 町山さんが特電で触れていて、宮台さんがかつて述べていたことでもあるけれど、やっぱり映画体験は「観る前と観た後では世界の見方が違って見える」もので、そういうものこそがほしいんですね。かつて観たものはそうだった。今でも強く残っていて、観る前と観た後では、あるいはプレイする前とその後では、どこか何かが違っていた。世界の複雑さだったり、心底からの驚きがあったりした。本作でぼくはそれを感じることができませんでした。逆に皆さん、どこでそういったものを、お感じに? 過去に感じた鮮烈な感動はいずこへ?

 やや喧嘩腰だな、まずいな、久々で加減がわからなくなっているな。まあいいです。反響があったらそれはそれで悦ばしいのです。そのほうが逆にエレクトの手がかりを見つけられるかもしれません。

 嫌われついでにもうひとつ言うと、本作に限らず、「この作品は映画館で観るべき!」みたいな言い方にぼくはちいとも承服できないんです。ウルトラマンにしてもエヴァにしても数々のゲームにしても、取り立てて画質の優れてるわけじゃない14型テレビで、こちとら思い切り感動したんです。それにDVDでもVHSでも、いいものはいいんだよ、感動するものはするんだよ、たとえばAVがそうであるように! 本作を映画館で観ても、やっぱりぼくは大した感動はなかっただろうなと思う。散々述べた理由でね。
 
 ここまで読んでもらえばわかるとおり、ぼくは一切作品を悪く言ってはいないので、そこはわかってくださいませ。ただ、過去に観た作品のあの感動を超えないなあということです。どうなのでしょう。本作は皆さんの思い出を超えているのでしょうか。「だったら思い出の作品を観ていればいい」などと非建設的なことは言わないでいただきたい。それを超えるものを求める、という話ですから。むしろその台詞は、「俺たちの大好きなロボットアクションだぜ!」的な盛り上がりに対して向けられるものでしょうから。

『パシフィック・リム』は、あなたの思い出を、超えましたか?
[PR]
議題1.1

次に書くはずの「議題2」というのは実はなんというか身も蓋もない、それを言っちゃあおしめえよ的なところがあるので、その前にひとつ考えておきたい議がございます。

「映画を観る→感想を書いて考えを深める」という作業は今のぼくからはやや遠いので、ここはひとつ、「映画を外側から眺めてみよう」という試みなのであります。

 議題としては「映画はこの先、ゲームに勝てるのかい?」です。

 リュミエール兄弟が映画を発明してから100年以上が経っているわけで、映画というメディアはかなり完成されている=飽和しているように見受けるのですが、一方ゲームというメディアはまだまだ躍進中の時代です。

 というか、もはや映画を内包する段階に入ってしまっているんじゃないかと思います。

 いまや映画EDのぼくですが、youtubeでゲーム動画を観るとはまってしまうのです。
 実際にやらないのかというと、これはやりません。なかなか時間が取れないからです。いや、こう書くとまるで忙しい人ぶっているようなので言い直します。ひとたびゲームを始めるとどはまりしてしまうだろうから、やれないのです。ゲームならいくらでも時間を忘れてやってしまうたちなのです。そういうわけで、見知らぬ人のプレイを観て、我慢しているわけです。ちなみに言うと、実況付きは嫌いで、淡々とやっているのが好きです。著作権法とかそういうのは知りません。

 これがまためちゃめちゃ面白いのですね。もはやこれは映画以上じゃないのか! という感動さえ覚えてしまう。自分でプレイしたらさらに面白いのだろうと思うと、いまさら映画を観ようという気がどうにも失せてしまう、とまあこういう要因もあるのです。

 はっきり言って、映画というのはたいていが他人事です。アメコミヒーローが勢揃いしようが、ピクサーのキャラクターが可愛かろうが、他人事であります。ゲームも同じようですが、これは違いますね。やはり、自分が主人公を動かすことによる没入感というのは観ているだけのものとはぜんぜん違ってくる。自分がその世界に入っている、この主人公は自分だ、という同期感覚は間違いなく映画以上です。

 それにくわえ、今現在のPS3、PS4レベルとなるともはやゲーム中のムービーが映画そのものでありますから、こうなると単に観ているだけの映画というのは到底勝てないんじゃないか、とそんな気がしてしまうわけです。物語の傍観者より、物語の中に入るほうが面白いのは、当然のことなのです。

 もうひとつ言うと、おお、ここまで進化したのか! という感動がゲームにはまだまだ強いわけですね。これが映画にはない。映画の場合はむしろ一周回ってしまって、「こんなすごい映像だけど、結局CGだろ」と思ってしまう。逆にゲームだと、「おお、CGでここまでやれるのか!」と思う。こうして書くとかなりゲームびいきの面があるわけですが、ファミコンやゲームウォッチの頃からやってきた人間からすると、その進化に感動を覚えてしまうのは致し方ないのです。個人的には興味がないのですが、たとえばキネクトを駆使した、体を動かして進めていくタイプのゲームもある。いろいろな遊び方がまだまだ考えられるわけで、こうなるとSF映画やアクション映画、ホラー映画の類は果たして勝っていけるのかと、疑問になってしまいます。ミステリーなんかもそうですね。あとは恋愛ゲームなどにしても、さらに高度化すれば、恋愛映画を超えてしまうかもしれない。

言い方を変えるなら、たとえば何か映画を観たとして、「ああ、これゲームにしたらもっと面白くなりそうだな」などとも思えてしまう。その時点で、映画というのは果たして本当にこの表現に適したメディアなのか? という疑義申し立てができてしまう。映画というもののありがたみが、間違いなく薄れた時代にあるなあと思うのです。

ゲームの映画化、というのがもはやさっぱりありがたみのない時代になりました。今度は逆のほうにありがたみが出ていくんじゃないですかね。過去にも映画のゲーム化というのはありましたけど、たとえば今のクオリティで、『ダイ・ハード』とか『ロボコップ』とか『インディ・ジョーンズ』とかをつくったら、それこそ本家以上に没入してプレイできるものになるんじゃないか。そんな気がしてしまいます。

 あえて喧嘩腰の物言いをしてみるなら、「映画? 既にゲームに超えられたメディアじゃないか。映画はゲームになれないけど、ゲームはもう映画を内包しているよ」

 もちろんぼくはそうは言い切りません。今まで感動した映画も多くあるので、たやすく上のようなことは言い切らない。でも、そう囁くのよ、私のゴーストが。

 それでも映画を観る価値はあるのか? 特にアメコミものだのSFだのホラーだのといった、とっくにゲームに超えられたものを観る価値はあるのか? 確かに映画が帯びてきた物語性というものはある。でも、そんなものはもはやゲームだって持っている。尺が取れる分だけ、小ネタが挟みやすい分だけ、物語性はゲームのほうが深くなりさえする。さて、映画はゲームに勝てるのか? とこういう話になるわけであります。ハイクオリティなゲームは映画に比べれば少ないし、ゲームは時間も取られるし、という消去法的な理由で観ているに過ぎないのか、はたまたそうでないのか。

こういうことも考えると、またまた映画は遠くなるのですが、さていかがでしょう。
 映画を外から眺める試みとして、ゲームと対比したらこんな感じになってしまいました。
 ぜひとも、いやいや、映画を舐めるな、ゲームなどは到底及ばんよ、というお話をお聞かせ願えればありがたいなあと思います。

 下に示すのは、人のプレイを観ているだけで面白い! と思ったゲームの例であります。 MGS5がここにもうすぐ加わるだろうなあという予想が硬いです。


d0151584_1585769.jpg

d0151584_5444871.jpg

d0151584_1584737.jpg
d0151584_158322.jpg
d0151584_1581928.jpg

[PR]
はあ、ふう、半年以上ぶりなのでございます。
「映画評を書く」という行為が日常から消え去りまして、するってえともう再開するタイミングもねえなあ、いろいろ忙しいし、ということで、半年以上放置していたのでございます。

 先んじて申し上げますに、いまだ再開の目処は立てていないのでございます。理由は様々にございまして、ここで開陳すべきものもそうでないものもあるという次第なのであります。映画というものが、今のぼくにはいささか遠いものなのでございます。

 そこで今回は、皆々様にご相談したい議があるのでございます。いやいや、相談などと言うとこれはどうにも深刻ぶっている風でよろしくない。まあざっくり言うならば、ぼくは今現在こういう思想を持っているのだけれども、あなたはどうかね、あなたはどう映画に相対しているのかね、聞かせてくれろ、いや別に聞かせてくれなくてもいいけど、くらいのもんなのでございます。

 これまで通り、うろうろとした要点の見えにくい書き方は健在ですが、タイトルをつけるなら要するに、「今のぼくと映画の距離感」みたいなもんなのです。ええ、まあ。

議題その1。「ハリウッド的娯楽作品にはもう何の食指も動かなくなっちゃったのよ」

これなんですねえ。うん。
 なんかもう本当にどうでもよくなっているのです。どうしてかなあと突き詰めて考えていくと、前にも書いたことですが、「もはやあの頃のような感動など得られない」ということなんですね、要は、ええ。つまりですね、たとえばアメコミヒーローものとか、怪獣とロボットの激突とか、宇宙空間で重大なミッションとか、まあ何でもいいのですけれども、たとえばそういうものがありますね。で、すごい映画だとなれば、わっしょいわっしょいと皆がまあこうなる。しかしですね、どうなんでしょうか。皆さんは「あの頃のような感動」を得られているのでしょうか。

 ぼくなどはウルトラマンとか仮面ライダーとかが大好きな子供だったわけですね。
VHSテープの映像に釘付けになり、日曜の朝のテレビ放送ではライダーが敵を倒した余韻に浸り、エンディングテーマとともに飛び跳ねていたのです。見えない敵と決死の格闘を続けていたのです。音楽テープを買ってもらったとなれば、それがたとえ公式発売のものではない、どこのおじさんが歌っているのかわからないようなテープであっても、まるで厭わずにちゃぶ台の上からジャンプキックを繰り返していたのです。一言で言えば、全身で感染していた。自分は将来ウルトラマンか仮面ライダーになるのだと、本気で思っていた。

 あの頃の感動には到底及ばない、と今のぼくは思ってしまうのです。
 いくら映像技術が発展しても、ぼくは既に、「すごい映像技術だ」という感覚を持ってしまっている。あの頃はそんなことを考えもしなかった。張りぼてのビートルやホーク一号を、本物以上に信じていた。ああいう風に向き合うことはもう、二度とできそうにないと思うと、なんだかしゅんとしてしまうのです。皆さんはこの辺、どうなんだろうとすごく思う。元気よく映画評を書いていた頃の自分に訊いてみたいけど、彼はもういない。そして今のぼくにはわからない。ツイッターなどで見てみても、わあロボットが熱いぜとか、きゃあこのヒーローが格好いいわとかいう声は見られるけれど、どうなんでしょう。本当に皆さんはかつてのような、あの感染と呼ぶほかない感覚を保持できているのでしょうか。あるいは、それらは皆つまるところもの悲しい、「幼児期の再演」に過ぎないのでしょうか。

 フィギュアみたいなもんもそう思ってしまいますね。幼児期には、ウルトラマンのソフビ人形と本気で会話していたんです。大人になったらそんな気は起こらない。せいぜいが集めて並べて、その様子をカメラに収めたりして悦に入ったりして、そんな感じになるわけでしょう。「いやいやそんなことはない、自分は大事にしている」と言ってみても、本当にそうなのか。子供の頃は取り上げられただけで泣きじゃくっていたぜ。今は平気で家に置いていけるだろう、外で活動できるだろう? あの頃みたいな一体感は、もうないだろう? 自分がどう見られているかとか、自分をどう見せたいかとか、あいつより俺の方が詳しいとか、どうでもいいようなことに、足を取られているだろう?

こういう言い方というのは、蒙昧だなあと自分でも思うんです。「そんなことを言ったら新しく感動することなんて、できないじゃないか」「新鮮な気持ちでものを見られなくなったなんて、老いじゃないか」というのは、言われるまでもなく自分で感じていることなんです。でも、拭いきれない感覚として、ある。

 さて、今もなお映画好きでいる皆さんは、この辺のこととどう折り合っているのか。素朴に、知りたいと思います。言ってやりたいことはあるがコメント欄じゃまどろっこしいぜ、という場合はツイッターの方がアクティブなやりとりができますので、そちらでもありがたいです。映画を観るということは、あなたにとって何事であるのか。議題2はまた追って、そのうちお話しできればと思います。
[PR]
久々に、何の構えもなく、面白いと言えるアニメに出会いました。
d0151584_2104569.jpg


 落語ものの話は何かないかなと探していたらこれを見つけて、しかし内容的には落語ほとんど関係ないやんけ、であって、それでいてすこぶる面白かったアニメであります。昨今のテレビアニメは気が向いたら見るという程度でぜんぜん詳しくないのですが、かなり久々に、素直に面白いと思える逸品でありました。『エヴァ』にせよ『ハルヒ』にせよ『まどマギ』にせよ、あるいは『あの花』とか、最近で言えば『悪の華』『進撃の巨人』とかっていうのは、どうしても何かこう、こちらを構えさせるところがあるわけですね。作品が放つ「やったるで感」に、こちらも身構えをしてしまうような感じがある。そういうことを一切考えずに楽しめたのがこの『じょしらく』であります。

 原作はあの『悪の華』や『進撃の巨人』と同じ『別冊少年マガジン』に連載されているのですが(なんと連載は次号で終わりだとか)、あまり原作には興味が湧かない、というか、なるほどこれはアニメだからこそ良いな、と思える作品です。漫画表現の旨味をさらに引き出しているのではないかと思います。
d0151584_2245390.jpg

 タイトル通りに女子の落語家の話なのですが、なんと実際の落語はまるで出てきません。各話のタイトルは古典落語をもじっているのですが、その内容をトレースしたような展開になるでもなく、楽屋で五人の登場人物がだべっているだけなのです。彼女たちの落語家風景は冒頭にちょっと出るだけで、修業したり稽古したりみたいな部分はまったくないのです。言ってみればストーリーはないに等しく、落語の知識はまったく要らない。そしてこれを見ても一切落語には詳しくなれない。それくらい開き直っているのが逆によい。テレビ版では『サザエさん』よろしく、独立した三話構成になっています。
d0151584_225665.jpg

そういうものをなぜ褒め称えるのかね君は、というと、笑いのテンポがとてもよくできているのです。アニメの特性をフルに活かし、画で見せる、テンポで見せる、音で見せる、というのが非常にうまくまとまっている。テレビアニメでこれだけきちんと笑わせてくれるものを、ぼくは本当に久しく観ていなかった。観ている間、とても満ち足りた気分になります。
d0151584_2252297.jpg

初回のほうで、「このアニメは女の子の可愛さをお楽しみ頂くため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。」というのが出て、原作でもそのようになっているらしいのですが、それだけを切り出せばいわば「ガールズトーク」ですね。そんなもん、女子のおしゃべりなんざこの俺が楽しめるわけがないだろう、女同士が喋ってることなんざ一ミリたりともおもろないんじゃボケ、と、笑いに関しては男尊女卑大爆発の価値観を有しているぼくなのですが、これはね、演出次第でとても面白くなるわけですね。
d0151584_2253988.jpg

そう、このアニメは演出がとてもよくできている。こういうガールズトークならいくらでも観られる。世間の似たようなお喋り番組も、こういうものに演出を学んでみるとよいのではないでしょうか。と言っても、この表現はアニメじゃないと難しい。だからこそ、アニメという形式がとてもよく行かされた作品と言える。ストーリーで見せるもの、その世界観で見せるもの、キャラクターの魅力で見せるものなど様々ありますが、このアニメはキャラのよさもありつつ、演出で見せている。その意味で非常に正しい。
d0151584_2255260.jpg

 キャラづけも非常にうまく行っていますねえ。五人出てくる(というかそれ以外はほとんど出てこない)のですが、各人が各人の色をもって、まるでガキの使いのごとくに、各様のボケになる。ある者がボケならある者がつっこみになる。コントがいつでも即席される。この空間は非常によいものです。
d0151584_226235.jpg

時事ネタやメタネタ、オタクネタなどをふんだんに配合しています。しかもわりとおっさん向けのものもあるんですね。今の十代わからんやろ、みたいなのもあったりして楽しい。ただひとつのフレーズで『ブレードランナー』を入れてみたり、それでこちらをにやりとさせたり、その辺の小気味よさ。あるいは作画に文句を言った人物が雑な作画になるなどのメタネタ。ぼくが一番好きな漫画が『魔法陣グルグル』なのですが、あれの遊び方を彷彿とさせるものがありました。
d0151584_2261536.jpg

 どんどん褒めますけれど、各回三話あるうちの二話目が、楽屋ではなくて外に出るんです。浅草とか築地とか方々を散歩する話で、その土地ごとの歴史とか豆知識などを織り込んでくる。ここがとても好もしい。楽屋では着物を着ているキャラクターがその回ごとに違う私服で出てくるというアニメ的、美少女キャラ的快楽を混ぜ込んでいるのもとても真っ当。細かいことですけど、五人のうち四人は成人だという設定もいいんです。何かにつけてマーケティングのため、登場人物の設定を十代にしてしまう昨今ですが、そこと一線画してちゃんと成人にしておくのは大変よいです。
d0151584_0155846.jpg

d0151584_2262870.jpg

めっちゃ褒めとるな、という今回ですが、この『じょしらく』にはちょっとびっくりさせられたことがもうひとつある。アニメでは一切落語をやらないのですが、実はCD版というのがあるんです。そこでは創作落語がしっかり収録されているのです(ぼくは「にこさうんど」で発見したのですが)。惜しむらくはアニメ版の声優ではない起用がされているところで、おかげで一人分は聴くに堪えぬのですが(どれのことかは言わずもがな)、この音声版にははっとさせられた。というのも、これこそが声優という仕事の最も効果的な使い方であるまいか、と思ったからです。

 声優というのは声を多用に変えられるし、演技力もある。ということは、落語というメディア、特に音声で聴く落語には実は一番適した方々でもあるのです。この点においては本物の落語家以上かもしれない。なぜなら本物の落語家は舞台で身振り手振り顔つきなどで見せる部分も込みでのプロですからね。声優の持つ特性は、それと勝負できるんです。で、このCD版の創作落語がこれまた面白いのです。
d0151584_016948.jpg

 創作落語ってどうしても広まりにくいというか、やはり落語と言えば古典だよね、ということになりがちなわけです。喧噪きわまる現代社会と、江戸時代のはっつぁんくまさん、喜六や清八の生きた社会ではあまりにも違うのです。現代版の落語だと言ってつくっても、サラリーマンと上司の会話で古典落語のようなものはできやしない。ここに現代の創作落語の難しいところがある。でも、アニメ的世界の声優的演技によっては、その困難をひょいと飛び越えることができる。実際にできているのです。
d0151584_23385070.jpg

 この方面で広がったらさぞ面白いのに、というものが詰め込まれているのがこの『じょしらく』なのであります。この作品についてはけなすべきところが見当たらないというか、とてもよく完成されているのです。連載は終了するそうですが、ぜひに第二期のアニメ版を期待するものであります。最終回の終わり方もこれまたなんか、やたらと格好よかった。このアニメをつくった人たちのセンスに脱帽、という感じでございました。

[PR]
途中で観るのをやめようかと思った一方、ある意味、三作の中で一番好きです。
d0151584_015730.jpg


半分世捨て人みたいな生き方をしているため世間とは映画の歯車もまるで合わず、いまさら『エヴァQ』なのかよと言われそうですけれども、まあエヴァの『新』自体がいまさら感のあるものだったりもするのであって、DMMからやっと届いた『エヴァQ』を観たなり。
d0151584_03661.jpg

 公開時には盛り上がっていたわけですけれども、その盛り上がりにぼくはちょっと「?」を感じていたのですね。というのも、やはりエヴァというのは90年代的な背景あってのものであるなあと考えているからです。

 テレビ放送開始が95年10月で、95年と言えば阪神淡路の震災とオウム事件でめちゃくちゃだった年。なおかつ世紀末が迫ろうとしている中での「新世紀」ものであり、崩壊した世界うんぬんというモチーフも見事にはまり、思春期的もやもやを抱えるタイプの主人公、碇シンジの造型も新鮮だった。社会学者やら精神科医やらが分析してみたり、宗教的なモチーフを探る研究本が出てみたり、エヴァというのはそれまでのアニメとはやっぱり違うもの、画期的なものとして映っていたわけです。

 平たく言うなら、90年代後半、エヴァの時代というのが確かにあったよな、という感じがする。20世紀アニメ最後の大発明だった気がする。そのような背景を思う中で、2010年代に入ってエヴァで盛り上がっている奴というのは何なのだろう、というのが、どうしてもある。
d0151584_035799.jpg

 当時を知っていて今でもエヴァエヴァ言っている奴にはまだ言ってるのかよと思ってしまうし、今の十代がエヴァが好きだと言ったところで君らはもうゼロ年代以降の感性の持ち主だよねと思うし、今このタイミングでなぜエヴァなのだという感がどうしてもある。
d0151584_041358.jpg

などと言いつつも、観終えてちょっとだけ考えてみたときに、ああ、これはこれでよいのだ、という風になぜか思えてきたの巻き、なんですね、うむ。
d0151584_032560.jpg

正直なところ、途中で何度か観るのをやめようと思う瞬間があったんです。あまりにもどうでもよくなったので。知らない人たちがわんさか出てくるようになって、もう世界はめちゃくちゃになっていて、人物は合理的な行動を取れずにいて、一体どこで動力が稼働しているのかもわからない世界があって、もはや90年代的な空気などどこにもなくて。
d0151584_03405.jpg

 やっぱりもう、今までの枠内で語るのは無理なんでしょう。監督も新しいことをやりたいのでしょうね。知らない人が出てきたり、今までの設定ひっくり返したりするのを観て、これならまったく新しいアニメをつくったほうがいいんじゃないかとも思ったのですが、まあそうは言ってもそれでは制作費も出ない。エヴァという枠組みを利用しつつ、最大限新しいものを描き出そうとしていたわけです。観終えてから考えると、その苦労みたいなもんがちょっと伝わってくるのです。
d0151584_044285.jpg

 観ている間はカヲルとシンジの薔薇的くだりがあったり、真希波のノリが今回もまた鬱陶しかったり、もうこんな世界になっているのならどうでもええわ感満載だったのですが、観終えてみるとむしろ、「どうでもよすぎて好きになる」という作用が脳内に生まれたのですね。
d0151584_045531.jpg

ある意味で「ポニョ感」があるんです。「ポニョ感」というのは、『崖の上のポニョ』がそうであるように、あまり肩肘張らずにぼけえっと観てたらおもろいやん、ということです。正直言って世界の崩壊がもうインフレを起こしすぎているため、まともに観る気が失せてくるわけですね。あの中で必死扱いてアスカが暴れ回っても、いや頑張れば頑張るほどに絵空事感が大きくなってくる。だからこれはその絵空事感を捉えて楽しんでいればそれでいいのであって、かつてのエヴァが持っていたような世紀末的な何事かなど、もはや論じるべき作品ではないのです。
d0151584_051642.jpg

 だいたいにおいて人物たちの行動に合理性がないわけです。大人や渚に言いたいのは、「シンジにもっと説明したれよ」ということです。なんだか思わせぶりに、大事なことは言わないぜ的に振る舞いすぎていて、そのせいでシンジがいろいろ引き起こすことになりすぎなんです。
d0151584_052887.jpg

 作品の構成自体が、大きなツカミを持っているわけじゃないですか。みんなびっくりしたわけですよね。あれ、ぜんぜん違うことになっているぞと。なんでミサトたちがあんな感じになっているんだ、萌えキャラ要素が足されたりしているんだと。で、シンジはこっちの訊きたいことをいろいろ訊いてくれるんですけど、そこでもなんかいまひとつ核心に迫った答えをしてもらえへんなといううちにまたぶっ飛ばされていく。ゲンドウはゲンドウで彼にちゃんと説明したったらええのにまともに会話しようとしない。過去作ではその辺がうまいこと行っていたんですけど、世界観が刷新されているからものすごく気になってくる。
d0151584_054296.jpg

 東浩紀も指摘していましたけれど、あの地下深くに行ったときに、シンジが暴走する理由がもうぜんぜんわからない。情報強者たるカヲルが土壇場で「やめておくんだ」と言っているのに、アスカも精一杯止めているのに、単にカヲルについてきただけみたいなシンジが勝手なことをするんです。アスカはアスカでアホなんです。もっと説明したれよということですよね。「馬鹿じゃなくてガキね」みたいなことを言うんです。でも、それは仕方ないじゃないですか、シンジは何にもわからないんだから。だったら大人が善導したれよという話なのに、理由も説明しないまま力尽くで止めようとしているだけ。なんじゃこら、です。

 宇宙戦艦がどこでどう出来上がったんだみたいなのは後の話で説明するかもしれないけど、ああいう人物同士の非合理的行動というか、頭の悪い行動が大変に困る。あの異常な世界を生き延びた人間なのだからさぞ切れ者に違いないと思いきやまるで最善の行動を取れない。これではまるで、最高のクオリティのアニメができるのに人間の行動的合理性が描けない、制作者のメタファではないですか。

 でもね、ぼかあね、今述べたようなこともどうでもええやないかという感じになっているんです。ポニョ感に満ちあふれた作品として受け止めています。あれだけ世界を緻密につくってきたのにそんな感じでいくんや、というわけで、まともに考える気があまり起こらない。見方を変えればとても楽しい作品です。勝手にしやがれ感が満載です。というか、ぼかあ碇ゲンドウがひげそりか何かのCMで使われているのを観たときから、ああ、もう世界観を守っていく気とかないんや、あの『リング』の貞子を始球式に使うノリなんだ、と思って、半ばどうでもよくなっている。
d0151584_055350.jpg

 まったく皮肉ではなく、新作が楽しみです。あんなにもどうでもいいものを、あのクオリティでつくってくれるというのは、なかなかあるものじゃないのです。皆さんも、批評性がうんぬんとか言うのはやめて、ポニョを楽しむときのように、アホみたいな顔をして観るのがよろしかろうと思うのであります。カヲルくんとシンジくんの関係がたまらないのよね! とか、たとえばそんな人たちと同じノリで。あるいは金曜の夜に「バルス!」とか言えちゃう感じのノリで。まさしく、これぞ新劇場版という感じなのであります。ある意味において、これまでの新劇場版三作の中で、ぼくはいちばん好きです。
[PR]
ばかばかしさの果てまでも。
d0151584_18105136.jpg


ロメロゾンビの終焉、ということについて前回触れましたけれど、正確には終焉というよりも、「完全なベタ化」というほうがいいのかもしれません。つまり、出てきて怖い存在ではもはやあり得ず、それをいかに遊ぶかのほうに時代は動いているわけですね。『ショーン・オブ・ザ・デッド』によってそれを感じましたし、『ゾンビランド』もそう。あとは『デッドライジング』なんかはぼこぼこにされる存在になり果てている感もある。各種ゲームでは銃器でばんばん撃ち殺すだけの存在という色合いが強くなってきて、おいしいところはモンスター的なボスキャラに持って行かれたりしている。こうなってくると、「完全なベタ」であるロメロゾンビはそれをいかに調理するかという素材になっていまして、本作ではもうとうとうウンコまみれになってしまいました。
d0151584_1811435.jpg

 副題が「TOILET OF THE DEAD」の本作では下ネタが前回です。ウンコだのオナラだのが大好きな小学生あたりがよろこびそうな話ですね。ただ、いざ児童に見せればトラウマ映画化する可能性が高いので、親御様は配慮が必要であります。
d0151584_18115825.jpg

 筋立てとしてはゾンビものの定番です。山奥に出かけた若者たちがゾンビに襲われるというのが骨格。でも、そのゾンビはくみ取り式の便所の中から出てきたりするため、糞まみれになっているのです。彼らは寄生虫にとりつかれているのですが、寄生虫はなぜか尻から姿を現すのであり、ゾンビたちは尻を向けて襲ってきたりするのです。AVはスカトロ畑の出身たる、井口昇監督ならではのゾンビものであります。
d0151584_18121443.jpg

こう書いていくとなんと下品なのかしらと眉をひそめられそうですが、一方ではアイドル映画という側面もあって、主演の中村有沙の好演が光ります。『片腕マシンガール』の八代みなせもそうでしたが、井口監督は実はアイドル映画の優れた作り手であるなあと思いますね。とても可愛く撮れています。AVというのはある意味アイドル映画みたいなものですから、彼の本業と言えるのかもしれません。で、本作では本当にこの中村有沙さんが頑張ったなあと思いますね。正直、十八かそこらの可愛い女の子であれば拒否したくなるであろう場面もあるんですが、ぜんぜん逃げていないのです。とても偉い。何の必然もなく胸を晒しているんです。ぼくはその心意気に胸を打たれます。
d0151584_18122721.jpg

 これはAV女優を愛でるのと通じているんです。やっぱり、世間的には日陰の存在になるんですよ。で、広告だの何だのできらきらしている女優やらモデルやらのほうが憧れの眼で見られるわけじゃないですか。でも、違うよねと。彼女たちのほうがもっと晒すもん晒してぶつかってるよねと。
d0151584_1813388.jpg

 本作の中村有沙もそうです。世間的にはね、決して本作は大衆の支持を得るようなもんじゃないというか、言ってみりゃきわもんの部類ですよ。そりゃあオシャレなドラマだの純愛映画だのに出ているほうがずっと綺麗でウケもいいでしょうよ。でも、それが何だと。こういう映画で裸体を晒し、必然もなく片方の乳首を晒しながら戦い、あまつさえオナラでぶっ飛ぶような被写体となっている。その姿に打たれますよ。現在二十歳かそこらの彼女が今後どういう芸能活動をしていくか知らないし、その先で本作があるいは黒歴史的な扱いを受けることがあるかもしれない。冗談じゃないよ。これは一級のアイドル映画ですぜ旦那。
d0151584_18124875.jpg

 アイドル×ゾンビ映画の本作ですが、クライマックスではゾンビはやはり役目を終えてしまい、エイリアン映画になります。これはゾンビの発想としては別段目新しくはないですね。ゾンビをゾンビたらしめているのは寄生虫で、その寄生虫には親玉がいてそいつがボスとして立ちはだかるというわけです。で、寄生虫は戦隊ヒーローものに出てくる敵みたいになります。フェアに言えば正直な話、CGがすごいというわけでもなく、ああ、今の日本のこの規模の映画だとこれくらいのクオリティだよな、ううむ、というもんだったりはするのですが、有沙ちゃんがすごく頑張っているのでそれはもういいです。それにハリウッド的なやりかたでやっても太刀打ちは難しいのだから、そこはわりきって「変な表現で攻めてやる」という心意気を感じます。
d0151584_18131644.jpg

最後に敵として立ちはだかるのは優希という人で、この子と有沙ちゃんのキャットファイトもまた見物です。アイドル映画の醍醐味のひとつに、このキャットファイトというのがありますね。ここがきっちりつくられていると観ていて面白い。『バトルロワイアル』の灯台もいわばそういうことです。イメージだのなんだのがあるし実現が難しいものではあるんですけど、そろそろネタ切れ感が出てきているAKBなどは、キャットファイトイベントを仕掛けてみると面白いかもしれません。
d0151584_18133135.jpg

d0151584_18134695.jpg

他の役者の人、特に女優の人たちはなんというか、ひとつたがを外したなと思いますね。そこがとてもいいと思う。映画の中ではそれこそオナラをしまくるんです、ぶーぶー。あとは和式便器にまたがってお尻を晒したりね。そんなのって、女性としてはやっぱり嫌な部分じゃないですか。ある意味、性的な場面を演ずるよりも嫌なところがあると思うんです。でもそこを受け入れて演じきっていますからね。中村有沙ちゃんにいたっては、最後オナラのロケット噴射で空を飛ぶんです。昔の少年ギャグマンガみたいなことになります。こういうね、馬鹿すぎて誰も実写ではやろうとしなかったようなことを真っ向からやっているところ、そしてそれに挑む女優の様というのはとても感動的なものがあります。『片腕マシンガール』が「なんでもありの果てまでも」ならばこちらは「ばかばかしさの果てまでも」。こういうものは応援しなくてはいけません。
d0151584_18135419.jpg

 ウンコだのオナラだのそんなの嫌だな、若い女性がそんなのをしている姿は観たくもないなと思われるかもしれませんが、誰もが避けてきた部分に挑む様は感動的なのです。園子温監督が持つ魔法とはまた違う、井口昇マジックを、またも見せて頂きました。
[PR]
これもまた「ゾンデミック」の系譜。あるシーンの元ネタが気になるなど。
d0151584_22543585.jpg


ブードゥー教由来のゾンビというのは、「術師によって復活させられた奴隷的存在」という色合いが強いのですが、ここに「人間を襲う」という発想を加えたのがジョージ・A・ロメロで、ロメロは同時に「襲われた人間もまたゾンビになる」という感染の要素を加味しました。彼は生ける屍に「襲撃者」「感染者」という二つの要素を備え、現代までの主流なゾンビ像を造型したわけですね。

 映画に限らずゲームその他、世界で見れば既に何千単位でつくられているんじゃないかと思いますが、いまやゾンビというのは「蘇った死者」という属性が薄まって、「襲撃者」「感染者」という部分のみが重要視されているんじゃないかな、とも思います。

 というか、きょうびぼくたちがゾンビものに求めているゾンビ的部分というのは、もうずばりそこであろうとすら思うのですね。生ける屍ということはどうでもよくて、とにかく襲ってくる奴、しかも感染の危険がある奴、というこの二つの要素こそが現代におけるゾンビの本質といって差し支えないんじゃないかと思います。

 規模の大きな話にするときはそのほうがやりやすいんですよね。『ワールド・ウォー・Z』にしてもそういうことでしょう。ゲームで言えば『The Last of Us』もそうだし、そのほうがいろいろと都合の良い局面が出てきているわけです。本ブログで前々から「ロメロゾンビの終焉」について述べた来たのはそういうわけだったのです。

 ぼくはこのブログでも前々からゾンビ像について、「のろのろゾンビ」と「ダッシュゾンビ」の対比について書いてきました。そこでも、ダッシュゾンビのほうが好みであると書いてきたわけです。それはつまり、上記のようなわけなのですね。ロメロはダッシュゾンビは嫌いだと明言しているのですが、後続の作り手の多くが欲したのは「襲撃者」「感染者」のほうなのだろうと思います。死者がダッシュするのはおかしい、死後硬直もしているのだしのろのろ動くはずだ、と言うのなら、「だったら死者の部分は要らない」なんです。感染者でいいのです。そういうと「病気ならもっと体調悪そうにするはずだ」とか言われそうですが、「うるせえ、つまらないことを言うな」なんです。素早く動けたほうが面白くなる場合ってあるじゃん、ですから。リアリティがうんぬんということを言うのなら、ゾンビよりも凶暴化する感染者のほうがまだリアリティはあるんじゃないですかね、ふん。

現在では「ゾンビもの」と一言で言っても、それがロメロ的ゾンビを指すのかどうかが難しくなっています。ここはひとつ、非・ロメロ的ゾンビの出てくる作品を指す用語として、「ゾンデミックもの」を提唱しましょう。ゾンビ的ではあるけれどパンデミック性、感染者ニュアンスのほうが強い、という意味合いです。

その系譜をつくったのが『28日後...』でありザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』あたりですね。『28日後...』はゾンビではなく、「感染者」という部分を押し出した点で、ひとつの曲がり角を示したように思います。今回取り上げる『REC2』もその筋ですね。1についてはもう何年も前に取り上げております。近頃はゾンビもの、あるいは「ゾンデミックもの」を観ようと思っていて、いまさらながら2に手を出しました。

 全編がPOVなのは前作と同じです。もうそこが作品の命綱みたいになっていますね。違う言い方をすると、普通の撮り方ではもう何もないようなお話じゃないでしょうか。POVの美点は、ある場面にのみ集約されています。
d0151584_22553181.jpg

 ほとんどのシーンが、感染者に溢れたマンションの中で展開します。時間的には前作の直後から続いていて、「建物の中が大変なことになっているぞ、調査しろ」と特殊部隊隊員四名が乗り込み、専門家のおっさんが同行します。
d0151584_22554215.jpg

 1を観てずいぶん経つので虚を突かれたのですが、この映画はゾンビもの、感染者ものと思いきや、エクソシストものみたいになります。感染の専門家だと思われていたおっさんは実は神父で、教皇庁から特命を受けたらしいのです。この辺が一回ちょっとこの映画をぐだぐだにします。
d0151584_22555318.jpg

 おっさんの話によると、もともとの感染者はある少女で、そいつが悪魔に取り憑かれたのであり、是が非でもそいつの血液をゲットしてこれを解析、感染被害の拡大に対処しようということなのですが、もうなんだかよくわからない。「悪魔に取り憑かれた少女の血液を分析して感染を避ける取り組みに励もう」という目的がなんだかぶれぶれなんです。ウイルス的な何かなのか、呪い的なもんなのか。科学的に対処できるのか宗教的な方法が必要なのか。十字架をかざして対処したりしているので宗教的なのでしょうけれど、そこと「血液を採取せよ」みたいな任務の折り合いがすっげえ悪い。 
d0151584_2256334.jpg

はっきり言ってこのおっさんの言い分をごり押しするがために、物語上の説得力が大いに欠けるのです。任務だから最後までやり遂げるぞとうるさいのですが、どう考えても一旦逃げて体勢を立て直すべきだと思えてしまって、入り込めない。これは「追い込まれもの」の一番の基本だと思うのですが、「逃れようのない状況」をつくるのが土台じゃないですか。どうやっても逃れられないとわかって、さあどうしようという話になる。それが「とりあえず一旦逃げるという手があるやん」と思える段階でもう駄目なんです。嘘でもいいから、あのおっさんに「ちょっと無理っぽいんで一旦帰ります」みたいなことを言わせるべきなんです。で、無線機の向こうから「いや駄目だ。おまえは最後までやれ」みたいな声を届けさせるべき。あるいは絶対にやめられない事情があることを語らせるべき。それだけでもまともになる。それを怠る脚本というのがぼくにはもうわからない。
d0151584_22561646.jpg

 いいところはというと、終盤の「暗闇になると風景が変わる」というあれですね(あれと同じような手法を何かの映画で観た覚えがあるんですが、あいにく思い出せません。だれか教えてください)。あの場面はとても面白かったです。あの辺はもう条理とか理屈を飛び越えて、行ったれーという勢いを感じました。水の中に引きずり込まれたりね。あの方面で膨らませても面白いのになと思ったんです。「目的とする敵は暗闇の世界でしか確保できない」というのを押していけば、この映画は意義深いものになった気がする。そこのダークファンタジー感をもっと前に出せば、宗教的な云々も補強されたのに。

 うーん、先行作品で何かあった気がするんですけどねえ、なんだったかなあ。ゲームだったかなあ。これは気になるなあ。回答、大募集です。
d0151584_22563395.jpg

d0151584_22564513.jpg

あの場面に出会えただけでもこの映画を観てよかったなとは思えます。あとは全部ぐずぐずとも言えます。大体の話、ぼくはキリスト教的な神が悪魔を圧するという設定が気にくわないのです。十字架というものの権威性あるいは福音派的な傲慢が鼻についてなりません。いや、それならそれでいい。そっちをしっかりしてくれればそれはそれで受け入れます。ところがこの映画はラスト、え、何なの、寄生虫的な何かなのというこれまた中途半端なイメージを放り込んでくる。どれにしたいねん、という話なんですね。ウイルスなのか、寄生虫なのか、悪魔なのか。あれをオチに持ってこられても、「いや、どないやねん」に近いもんがある。
d0151584_22565440.jpg

 別段にお薦めするものではございませんが、あの暗闇シーンの元ネタをぜひとも思い出したい、ということで、是非観てもらってお教え願いたい次第でございます。
[PR]
ショットガンの出てくる映画は、ショットガンに頼る癖がある。
d0151584_23502624.jpg


気づけば二ヶ月以上放置しておりました。近頃は映画をほとんど観ない日々を送っているのでございます。映画とのふれあいを強いて挙げれば、『バトルロワイアル』を繰り返し観て、なんて完璧な映画なんだろうとつくづく思い直す、というくらいのものなのでございます。パクリ疑惑が醸された『ハンガーゲーム』などを観て、これはとんだ駄作だと飛び上がったりしたくらいなのでございます。あとは近頃ゾンビものを観ようと思っているので、誰か教えてください。

 ところで、『バトルロワイアル』がえらいのはその作品中に、サービス精神が溢れかえっている点でございます。あの辟易するほどの長さを誇る原作から、映画にとって何が必要で何が不要かを適切に選別し、抽出している。構成もかなり几帳面にできていて、様々な地獄巡りを楽しめる。栗山千明のシーンと、女子たちの灯台のシーンはくりぬきで観られます。限られた上映時間内で、あのようなシーンをあの辺でぶちこむというのも、構成の妙が光っております。ぜひとも再見をお薦めする次第なのでございます。
d0151584_6434860.jpg

 さて、ほしたら近頃のんはどうかいのう、ということで、似たようなテイストも香っている『悪の教典』でございます。原作を楽しんだので、なるほどここはこう切るか、こう編集するかとあれこれ考えながら観てみたのでございます。『海猿』のヒーロー伊藤英明にサイコパスを演じさせるあたり、三池監督はやはり悪趣味で良いなあと思ったのであります。

 伊藤英明扮する高校教師・蓮見が、担当するクラスの生徒の大虐殺に踏み切る話です。映画的に言うと、どう転んでもそこが見せ場になるわけですね。そこさえオッケーならこの映画はもうオッケーなのです。上下巻ある長い原作では蓮見の過去や人間性であるとか、それぞれの生徒の背景や内面などがたくさん描かれますが、それをすべて入れ込むのは無理。だとするならこの映画ではクライマックスの虐殺がいかに描かれるかが勝負になってきます。

 その話は後でするとして、前半から中盤に至る日常描写はどうかといえば、高校生の描き方などはちょうどいい案配であったなあと思います。
d0151584_6441167.jpg

 二階堂ふみがますます宮崎あおいに見える本作ですが、彼女のちょっとべたっとした声色などはとてもいい感じであります。この作品の醸すちょいと暗い雰囲気によく合っている。友人のちょっと声が低い女子もいいですね。あの子のあの感じはなんだか、すっげえちょうどいい。『ヒミズ』コンビの染谷将太の小生意気な感じも存分に発揮されており、原作と違ってほとんど出番のない養護教諭役、小島聖のうさんくさい感じなども、この作品のテイストに合っている。
d0151584_6442842.jpg

 学校描写、生徒描写の場合、リアルかどうかなんてことよりも、その映画のトーンにどれだけ合致しているかが大事だなと思いますね。ちゃんとその枠の中に収まった振る舞いができているか。そこを考えずに今時の高校生像みたいなもんに寄り添おうとすると駄目なんでしょうけれど、この作品の場合はトーンと人物の温度がちゃんと合っているし、その点には何の文句もないわけであります。生徒たちがどこかAKBくさいところなども、ある意味とても正しい。蓮見と肉体関係になる女子生徒などは、昔のアイドルみたいな顔でこれはこれでよろしい。

 作品が進んでいく中で、いくつかの事件が勃発します。蓮見の正体に触れるような人が死んだり、厄介者が排除されたりするわけですね。この辺はねえ、うん、ちょっと難しいところがありますね。気に掛かるのは、殺される人たちに、「端からの負け役くささ」が漲っているところです。文句を言いに来る父親とかね。こいつら殺されるんだろうなあ、ああ、やっぱりやられたなあというのがね、盛り上がりのための段取りくさい。映画的にはクライマックスがあって、そこに向かうまでの盛り上がりが必須になるわけですが、その過程でちょっと段取り化している。いざ殺すところもささっと終わらせてしまったり、見せなかったり。こいつ生き延びるのかな、どうなのかな、うわ、やられちゃった、というドライブがないので、一方向的になるんですね。
 
これがこの映画の最大の弱点である気がします。
d0151584_6445048.jpg
 
第三幕としての時間はたっぷり取ってあります。四十分くらいありますから。
でも、その間伊藤英明が徹頭徹尾余裕の攻めなんですね。ここがもったいないところなんです。一方向的になる。クライマックスも半ば段取り的になっている。
d0151584_6451111.jpg
 
山田孝之扮する教師は原作の二人の人物を足して二で割ったような感じなんですが、原作ではそれなりに格闘するんです。これってとても大事なことです。別に原作との異同なんてどうだっていい。純粋に映画としての話です。やはり、伊藤英明はどこかで一度は追い込まれるべきなんです。そうすることで、映画に波が生まれるんです。その波が興奮を生み出す。ところがこの映画では彼が着々と殺していくことになる。 なんであれだけの尺をとって、山田孝之をあっさり殺したのか。ここにこの映画の弱点すべてが集約されている気がします。
d0151584_6452237.jpg

複数視点化するこのシークエンスをテンポ良く移動しているし、あの校外に出た女子生徒のように、「最期の台詞を言い終えられないまま死ぬ」なんてところも小気味よい。でも、でも、いやあ、難しいのですねつくづく。この種のクライマックスはひとつ選択をミスっただけで高く上がっていたボルテージが下がる。あの東大を目指している少年がそうですよ。あの場面であんな台詞のやりとりを入れると、熱が逃げてしまう。それに、これがどうにもわからないんですけれど、(あ、ネタバレをしますよ。というかもうしまくっているけれど)
d0151584_6453737.jpg

 どうしてあの「生存者二名いました」の前の段階で、二階堂ふみたちが生き残っているとわかるようにしてしまったのか。あれ、原作だとちょっと曖昧なまま勢いで読ませてしまうみたいなところがあるんですが、映画ならばあの警察のシーンで初めて明かせばよかった。そうしないと観客の思考が伊藤英明の思考を追い抜いてしまうんです。あれは後でネタをばらすようにしてよかったはずなのに。
d0151584_6454873.jpg

 この映画に限ったことではないですが、「ショットガンの出てくる映画はショットガンの銃声に頼る」という癖をどうしても持っていて、それと格闘する必要があるのですね。 ショットガンは確かに映画を盛り上げる最高の道具の一つだし、であるがゆえにそれなりにクライマックスは楽しめる。けれど、けれど、けれど。
d0151584_6455960.jpg

 この映画のもうひとつの弱点は、野蛮さに欠けるところです。
 野蛮じゃない。だから、シーンが焼き付かない。あれだけの凶行を並べながらそれは致命的です。どうも理に落ちてしまう。そうかと思えば二階堂ふみの目にCGを入れたり余計なことをする。そうじゃない。この手の映画に大事なのは、焼き付くような一瞬です。
d0151584_646953.jpg

 それが漲っているのがたとえば『バトルロワイアル』の全シーンであり、たとえば『プライベート・ライアン』の序盤であり、たとえば幾多のゾンビ映画であり、たとえば『リング』のテレビから出てくる貞子であり、たとえば『悪魔のいけにえ』における朝焼けのレザーフェイスなのです。何かひとつあればもうこの映画は何だってよかったのに!

 総じて言うに、細部はおおむねよく配慮されているのですが、一番盛り上がるべきところで大事なものが決定的に欠けていた、という印象です。既に古い話ですが、AKBの人がこの映画を嫌いですと仰っていたそうです。しかし、大丈夫です。嫌わせてくれるほどのものではございません。人のこと嫌いになるってのは、それなりの覚悟しろってことだからな。
d0151584_6461828.jpg

[PR]
その陶酔感においてはマスカッツの方々を凌駕する。
d0151584_645112.jpg


 以前の記事でも述べましたとおりに、「マスカッツを愛するとはすなわち、マスカッツを超えるものを求めること」。というわけで、ぼくたちは新たな希望の依りしろを探すことが大事なのであります。そしてそのためにはAV女優のアイドルをどんどんと世に知らしめていくことがこれ大事であろうと思い、その種のキャンペーン記事でございます。映画評はどこへ行った、これではAV評ではないかね、もうおまえのブログは見ないぞ、と言われましょうが、映画評はそのうちやるので、今回はご勘弁願います。映画は放っておいてもみんな観るのです。マスカッツの種を広めるためなら、ブログの方針などどうでもよいのです。
d0151584_3212852.jpg

マスカッツの創生におきましては、蒼井そら様や麻美ゆま様、吉沢明歩様やRio様、あるいはみひろ様という存在が不可欠でございました。そうした超一線級の方の発掘が重要でございます。そうしたときにkarasmokerがなんとしても語らずにはおられないAV女優、第一弾。由愛可奈さんでございます。「ゆめかな」と読みます。
d0151584_3213997.jpg

由愛可奈さんの作品を網羅しているわけではぜんぜんないので、もっと魅力を語れる方もおられようかと思いますが、ぼくはこの作品を観て、おおう、これはちょいと、なかなか、おおう、と感銘を受けたのであります。
d0151584_3234157.jpg

構成はというと、インタビューと絡みを繰り返す形式でございます。両方ともがきちんと見所であって、彼女の素顔を活写しているのであります。
d0151584_3215553.jpg

 マスカッツの偉大なる功績として、AV女優が背負う陰を和らげたということがあります。人にばれてはいけない、なんて後ろめたく生きるのではなく、堂々とAV女優が光のもとに立った。自分の職業はAV女優である、というアイデンティティを誇らしいものとして認めさせた。あるネット番組の中で、かの吉沢明歩様がおっしゃっていた言葉を知る人があるかもしれません。彼氏にAVをやめてくれと言われたらどうするか? と尋ねられた彼女は、凛としてこう言い切りました。
「やめない。やめろと言われてやめるようなことはやっていない」
d0151584_322875.jpg

由愛可奈さんも、堂々とAV女優として生きていらっしゃるのが本作でわかります。ご両親には、デビュー前に既に話したとのことです。AV業界は広く深く、親にばれたのでやめるなどという方もいらっしゃいますし、そのほか職業の特殊性ゆえに人格的な支障を来すケースもあると聞きますが、彼女は自信の職業的アイデンティティを真っ当に保持しているようなのであります。実に頼もしいのでございます。
d0151584_3223798.jpg
 
 彼女を推さざるを得ないのは、セックスにおけるその心酔ぶりであります。これはAV女優にとってとても重要な要素です。こう言ってしまうとあれですけれど、マスカッツの方々は実はこの点が弱い。皆様は女優としての心得が十二分にあるがゆえに、見る限りそこまで自己を解放しない。「マスカッツのAVって抜けないよね」というネット上の声も多くありますが、原因の一つがこれでしょう。今回は詳述いたしませんが、これはエスワン系AV全般に見られる傾向ではないかと思います。
d0151584_3224772.jpg

その点において、由愛可奈さんは蒼井そら様をはじめとするマスカッツのほとんどの姐さんたちを既に凌駕している。そう見えるのはもちろん監督であるカンパニー松尾さんの手練手管があってこそとも言えますが、別の作品においても、由愛可奈さんの奔放さは時として半ば感動的ですらある。痴女的演技においても、ああ、ここまでの演技ができる女優は、マスカッツの中には誰もいないとまで思わせる。こういう方を目にすると、壇蜜ごときがエロスの代表格のように言われているメディア状況が、いかにゴミ同然のものであるかが知れましょう。あんなの、黒木香の足下にも及びやしねえじゃねえか。
d0151584_3225923.jpg

 由愛可奈さんのような方がたくさん出てくれば、種子の繁栄も夢ではないと思えます。
 吉沢明歩様やみひろ様と一緒にバラエティに出たりもしているので、その点でも有望株でございます。一方、普通の映画などでの演技は、トレーラーを観る限り、あまり優れたものではなさそうな気もします。彼女は女優ではなく、まさしくAV女優であると言えましょう。
d0151584_3232345.jpg

作品内容に踏み込んで評しておらぬではないかと言われそうですが、いい映画を観た後のレビウが時としてそうであるように、「うだうだ言うより観てもらった方が早い」と思ってなかなか書けないこともあるんですね。最初の男優との絡みはそれほど好みじゃないんですが、カンパニー松尾との暗い室内での絡みは絶品です。

今後も気になる女優を取り上げていきたいと思います。
d0151584_3231313.jpg

 ところで、この種の記事は何かに引っかかるんでしょうかね。
 18禁の映画はよくて、AVはいけないのかな?
[PR]
←menu