ある設定を根本的に変えていれば、素晴らしいものになったように思うのです。
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 放送当時、好事家の間で話題になり、今年の夏には劇場版が公開されるということで、伊集院がラジオでちょいと触れていたのもあって、観てみました。

 あらすじをざっくり言うと、不登校の男子高校生のところに、何年も前に死んだはずの少女が現れるところから始まります。彼女の訪れをきっかけに彼はかつての仲間たちと再会し、死んだ少女への思いを通して再び皆が心を交わし合っていく、みたいな話です。
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うーん、久々なので加減がわからん。いや、これはですね、ぼくにはちょいときついところもありました。その理由はもう完全に明白で、ヒロインたるめんまのキャラクターです。あれはねえ、もういい年をこいてくるときついですね。だからもう、ぼくみたいなもんは端からお呼びでないというか、めんまについていけない人間は観ちゃ駄目なのかもしれませんね。あんな風な萌え萌え幼女的な感じで来られると完全に引いてしまうのであって、あるいは『ハルヒ』における朝比奈みくるのようにキャラづけに何か批評性があるのかと思いきや最後までそうでもなく、めんまがきゃぴきゃぴするたびに心がささくれ立ってくるという不健康な状態で観てしまったので、その辺がどうもあれなんですね、はい。
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 同年に放送された『まどかマギカ』も序盤は萌え風味が鼻につくなと思いつつも、結構物語的な部分とか魔女戦の演出とかキュウべえの謎とかがあったのでよかったのですが、今回はめんまがねえ、うん、ここについては後でちょっと掘り下げます。
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 あとは「デレヤレの構図」ですね。これは思いつきの造語ですが、ラノベやアニメに広く観られる構図です。冴えない主人公のもとに突如現れた少女が無償の愛を捧げながらデレデレし、一方主人公は内心惹かれているにもかかわらず村上春樹由来の「やれやれ」な態度を取る。アニメでは『うる星やつら』のラムちゃんがその金字塔ですが、それをいまだにありがたがっている状況含めて、ちょっと辛かった。
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 観終えてみると、めんまに引きずられたというか、持って行かれた部分がかなりあるなーというのが気になります。主人公と四人の仲間たちが出てくるんですが、彼らの造型というか、物語面がちょっと弱いように思いました。悪く言うと記号的にも思える。確かにそりゃクールなイケメンが女装したりというフックはある。でも、観終えて振り返るに、彼らのことをあまり長くは覚えていないだろうな、と思えてしまう。特に、ぽっぽとつるこは役割的な描かれ方が大きく、彼らの内面に踏み入れない。最終回で感情が爆発するのですが、それまでの話で重しが充分に機能していない。ぽっぽなんかは特にそうでしたねえ。最終回前まで、賑やかしの安定キャラでずっと行っちゃった。あれはどこかで伏線を張っておくべきだった。
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いろいろと文句を垂れてしまい恐縮なのですが、めんまに引っかかり続けていた人間としてはずばりこう思うのですね。賛同を得られる見込みの少ない、元も子もないことを言いますね。

 ぼくね、これはね、めんまの姿を見せないほうがよかったのではないか? という風に思うんです。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! めんまはあんなに可愛らしいのに!」

 ええ、だからもうね、めんまが好きだという人は読んでも意味がない話をするので、切り上げてくれて結構です。でもぼくは観ながら、ああ、これ、めんまの姿が視聴者にも一切見えていなければ、それこそすごいアニメになったんじゃねえかなあっていうのがあるんです。

視聴者は最初からあのとてつもなく可愛いめんまが見えてしまうわけで、主人公とずっと目線を共有することになるんですけど、その分、仲間たちが見せる当初の不理解ぶりを一切共有できない。先ほど、仲間たちの造型について述べましたが、それと繋がる話です。
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 勝手なことをあれこれ続けますが、これ、作り方としては、せっかく十一話あるのだし、他のメンバーを主軸の視点にして数話つくったほうが、深まったんじゃないかって気がしてならないんです。視聴者にも見えないようにしてそのつくりにすれば、もっと彼らに寄り添えた。あ、ネタバレをしますね。知りたくない人はここでやめてくださいね。
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 ええと、続けます。
 そういうつくりにして、最後の最後にだけ姿を現せば、「みぃつけた!」が最高に活きた。あそこでみんなが見つけてもねえ、こっちは第一話からがんがん来られてますからねえ。「みぃつけた!」からの、消えてしまう、がぜんぜん活きないんです。その「夏の幻」感がない。まったく得られない。
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姿を見せずに声やものの動き、あるいは筆談でその存在を示す。それを視聴者も共有する。めちゃくちゃなことを言っているようですけど、これは実は最もアニメ的な表現の提案でもあるんです。というのはね、そのやり方は絶対に小説ではできない。やっても仕方がない。それに漫画でもできない。漫画ではものが動いたり声が聞こえたりをアニメほどアクティブには描けないですから。あるいは実写映画でもできない。実写映画でやったら、成長前のめんまと成長後のめんまの役者が変わるので、最後の場面を説得的には描けない。そう考えていくと、姿を一切現さなかったら、もっともっと深く刺さるものになったんじゃないかって気がしてしまうんです。

 事実、筆談で仲間たちがめんまの存在を知る場面がありますけど、あれなんかも、姿が一切見えないほうが鮮烈に映ってくるはずだし、ラスト近く、仲間へのメッセージとしてへたくそな字で書かれている文字も、『アルジャーノンに花束を』よろしく、「消えていく存在」の儚さが強まった。主人公には見えていていい。でも、視聴者が見えている必要はない。

めんまが高カロリーな萌え萌え幼女キャラで実在感を示してくる分、周りの仲間にしても、めんまの母の狼狽にしても、ちょっと滑稽に感じられてしまう。視聴者には完全に見えている分、彼らの感情の揺らぎをまったく共有できない。

 なんであんな萌え萌え幼女造型にしたんだろう、というのがものすごく引っかかる。そんなの腐るほどある。地味な見た目になるのを回避したかったのでしょうし、キャラ商売をするうえではそのほうがいいのもわかるんですが、「この話を形作る上で最も的確な方法だったのか? 視点構成だったのか?」というのがすごく疑問として残る。文句ついでに言うと、なんでめんまだけあんな西洋人的な感じなのか。ウィキによるとロシア人の血を引いているなんてことなんですが、その設定の必要理由が何もわからない。単に画的な華を添えたいのか? 透明感みたいなことを言いたいのか? いや、透明感ってキャラでもないわけですし、なんであんな風に妖精的な持って行き方にしたのか。精神的には子供のままなのに肉体は大人びている、みたいなところの媚び要素もあざとくて鼻につく。この話の良さを高めるうえで、本当にあのキャラ造型で正しかったのか? 日本人のコスプレイヤーは泣きを見るぜ。白人にやられたら勝てないぜ。

「正しいに決まってるし。てかめんま超可愛いじゃん。何文句つけてんの。イミフww」

おまえはいつまで読んでいるんだ。読まなくてよいと言ったのに。
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だからあれですね、結局こういう共感を得られそうもない提案をしているぼくのようなじじいは、対象年齢から外れているんです。ポケモンが懐かしゲームとして出てくる設定にしてもそうで、中高生が観て満足すればそれでよいのですね。逆R―20指定作品として設定してもよいのかもしれません。中高生向けのアニメにわざわざ当たりに行っているぼくが当たり屋なんです。どうかご容赦くださいませ。今後の更新は未定ですが、引き続き気まぐれにやっていこうと思います。それじゃあ今日は、この辺で。




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終わっちまったのか? まだ始まってもいない。

 気づけば二ヶ月以上滞らせておりました。
 この二ヶ月ほど映画は本当に数えるほどしか観ておらず、映画について語るよりもせねばならぬことに追われていたような感じでございます。また、映画から刺激を得ることにあまり魅力を感じなくなっておりまして、今もそれは継続中と言えばそうなのです。また調子が戻ったら立て続けに書き出すでしょうが、近況はそんなところであります。

 さて、我らが愛する恵比寿マスカッツは去る4月7日をもって解散いたしました。
 解散コンサートに馳せ参じたかといえば、ぼくは行っておりませぬ。といいますのも、解散発表後に行われたファンクラブ先行のチケット抽選。ここをぼくは逃したのです。マスカッツ解散のショックに見舞われ放心していたこと、認められぬと嘆き続けていたこと、マスカッツを継ぐ者を探してアンテナを伸ばしていたこと、仕事が忙しかったことなどが原因で、チケット抽選の機会を逸してしまったのですね。こうなるってえとS席の一番いい席などはもう見込みがなかろうというもんで、だったらもう、いいや、とこう思ったんです。もともとライブに通うタイプでもありませんのでね。

 と同時に、ぼくは思いました。どのみち、総合演出のマッコイ斉藤よりも最前列で観ることはできないのだと。たとえ最前列であっても、ぼくは観客という立場でしかあり得ず、どうしようもなく分け隔てられた壁のこちら側なのだと。この感覚は、多くのファンの方々とは違う部分じゃないかと思います。気の利いた合いの手や精一杯の応援で盛り上げる、という立場を自認する方はそれはそれで大変よろしかろうと思うのですが、ぼくにはそれが辛い。自分が愉しんだところで、マスカッツを広めることができない。ぼくにとっての理想は、マスカッツの種子が肥沃な大地で次々と芽吹くこと。その種の蒔き手になれなかったことが悔しくてならなかったのであります。

 行かなかったことは、後悔しております。しかし、単に悪い感情ではございません。
 聞くところによると、休養中の麻美ゆま様、そしてあの桜木凛様、そしてそしてみひろ様やかすみりさ様、KONANさんなども一緒に歌い踊ったということでございまして、なんと五時間の長尺で行われた模様です。ああ、それはさぞよいものであったろうなあと思います。その終わりにおいて、行かなかったのを存分に後悔させてくれる代物であったことは、むしろ悦ばしくさえ感じているのです。

そして同時に、こんなことを思います。自分にとってのマスカッツは、まだ終わっていないのだと。いや、まだ始まってもいないのだと。そう、ここでも既に述べております通りに、マスカッツは完全なグループではなかった。その証拠のひとつが、解散コンサートを武道館や国技館に断られていた、ということです。おそらくは、AV女優というその存在の特殊さゆえに、「伝統」なるもんを重んじになられる良識ある武道館の担当者の方などが、拒否なされたのでありましょう。ああ、なんて悔しい! マスカッツは結局、勝てなかったのです! 皆さん、思い出しましょう! 『おねだり!! マスカットDX』時代、番組の中で彼女たちは「武道館に立ちたい」という夢を述べ、小林Pに「武道館なんか行けるわけねえだろ!」と言われてしまった。戯れの一つではございますが、当時は、いつか行けるのではないか、とみんな願っていた。しかし、現実はどうでしょう。哀しくも小林Pの言ったとおりになってしまったのです!

 皆さん! マスカッツを愛する皆さん! 皆さんがすべきことは、マスカッツの解散で心に穴を開けることでもなければ、在りし日の番組を懐かしむことでもありません!
 彼女たちが叶えられなかった夢の続きを、我々が見続けることなのであります!
 マスカッツを愛するとはどういうことか。
 それは、マスカッツを超えるようなAV女優ユニットの創生を希うこと!
 マスカッツの叶えられなかった夢を叶える、別の存在を求めること!
 ご想像くださいませ。いつか、そんなユニットが生まれたとき、かつてのレジェンドとして、マスカッツが再び結集する姿を! ああ、今のこのユニットがあるのは、あのときマスカッツがあったからだよなと、心からそう思える日を! 
 マスカッツはまだ終わっちゃいない!
 その種子が実ったとき、もう一度マスカッツは輝くのです! 断じて、彼女たちを時代の徒花のようにしてはいけない。
 振り返ることはならぬのです!

懸命なる皆々様におかれましては、今後もマスカッツの彼女たちに匹敵するようなアイドルを、芳しきAVの大地において、見つけていくことがこれ肝要でございます。
 AだかKだかBだか知らねえが、あんなもんが俺たちの時代のアイドルだなんて、認めるわけにゃあいかねえ!
壇だか蜜だか知らねえが、あんなもんがエロスの代表だなんて、認められるわけがねえ! そういう思いを胸に、マスカッツの種子を撒くためにできることは何なのかを真摯に考え、日々を生き抜こうではありませんか。
 マスカッツを愛したなら、あんたの中に、種は宿っただろう?
 その種を、これからも、撒いていこうじゃあねえか。
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おもしろAV紹介の巻き、です。
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※当記事の内容は人によっては不快な気分になる恐れがあります。健全に育成されたい未成年者は読んではいけません。某アイドルグループが好きな人は面倒くさいので読まないでください。読んでも無視してください。

 丸刈りでわいのわいの言うているこのタイミングで放り込んでやれい! ということで、なんと今回はアダルトビデオの紹介でございます。いやあ、さすがにそれはまずいんじゃないか、何かしら利用規約的なものに引っかかるんじゃないかとはらはらしているのですが、その場合はぶうぶう言わずに引っ込めるので、なにとぞ御寛大な処置をお願いするのです、はい。

 おいちょっと待て、おまえはマスカッツが好きだったんじゃないのかおまえ、ということですが、はい、当然マスカッツが好きなのです。しかし、解散が近づくにつれまして、大事なのはマスカッツそれ自体よりも、その種子を継ぎうるものなのではないか、という思想も一方には生まれてくる次第でありまして、こういうものにも目を向けていこうじゃないかということであります。

 マスカッツはAV女優中心のユニットではあっても、AV女優だけのユニットではなかった。その点で不十分だった。ぼくは心の中で、純粋なAV女優ユニットの隆盛を待っているのであります。マスカッツなき後には、そういったものが出現してほしいと思うのであります。SOD含め既にそうしたグループはありますが、勢いを持つには至っていないのであります。今現在のAV界には、丸刈りちゃんなどよりもはるかによろしい逸材が揃っております。マスカッツの他にも、由愛可奈、成瀬心美、晶エリー、麻倉憂、希美まゆ、大槻ひびき、挙げだしたらきりのない逸材が多く揃っているのです。そういう部分に世間はもっと目を向けねばならぬのでございます。業界関係者の方々にはぜひ英断を期待するのでございます。
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 さて、本作はパッケージやタイトルからも明らかなとおり、AKBを完全にぱくっているのでございます。AVメーカーSODクリエイトが、「SOD国民的アイドルユニット」として打ち出し、楽曲までこさえているのでございます。これはなかなかに愉快なものなのでございます。

本作はどうやらAKBの番組を模したものらしく、ぼくはその番組を観たことがないのでどういうものかわからぬのですが、まあバラエティ番組っぽいノリでやっているわけです。AV=自慰行為にふけるものとだけ考えている人には、これはまるで違うのだぞと申し上げます。本当にバラエティ番組みたいな感じで進んでいくのです。その随所随所で明らかに常軌を逸したことが行われており、AVとしても成立しているのです。SODらしい悪ふざけが爆発しているわけです。
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 もともとSODという会社は高橋がなり社長がつくったもので、彼はテリー伊藤のもとで『元気が出るテレビ』をつくっていたのです。だからSODにはもともとバラエティの血が流れているわけで、こういう変なことをする面白いメーカーです。最近はDMM系に押されているのですが、こういうのを観ると、AV界の異端児としてのSODを強く感じます。
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 メンバーはというと、これはさすがにマスカッツや単体系女優ほどの可愛らしさというのはないのであって、エキストラとして出ているひな壇の人などは明らかにブスなのであって、SODはなんで単体をもっとこっちに回さないのかな、絶対もっと可愛らしい人がいるのになと思わずにはいられず、その点は残念であるのですが、まあメンバーも一昨年と去年とで入れ替わっているし、今後に期待、ということであります。超激似と謳っていますが、別に似てはいませんのでその点は了承する必要があります。琥珀うたは声も張るし前に出られるし、もっとバラエティ方面に打ち出してよいと思います。ユニット第二章で朝田ばななと椎名ひかるが抜けたのは残念なことであります。第三章での復帰を期待するのであります。
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 全体の構成としては、スタジオ収録のバラエティ番組っぽいミニゲームをして、罰ゲームをしての繰り返しなのですが、そのゲームや罰ゲームが、普通のバラエティ番組ではもう絶対にあり得ないことをやっているのです。お笑い芸人などが無茶をする企画とかDVDとかは邦洋問わずありますが、これはそれとも違っていて、まさしくAV女優にしかできないことをやっている。マスカッツもやらなかったこと、地上波ではあり得ないことをやっている、これがいいのであります。笑いながらチンコを立てる、奇妙奇天烈な内容なのであります。 
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わかりやすいところでいうと、「箱の中身は何だろな」という古典的なゲームがありますね。このDVDでは、その中身をチンコにしている。そしてそれを女優が、さも普通のバラエティのときのように、わかんなーいなどと言いながら触るわけです。これって、もしかしたらどこかの芸人のバラエティDVDにあるかもしれないですけど、絶対に地上波ではできないわけだし、芸人でもそれを咥えるまでには至らないわけです。よしんば咥えたとしてもそれは気持ち悪さをどうしても持ってしまうわけですが、こちらの場合はエロになる。こんなものは、なかなかあるものではない。
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バラエティ番組としてみれば、もうちょっと編集とかつくりこんだらええのに、というところもありますが、そこはいいです。二時間あるので間延びしますが、こういう野心的なものをつくってくれているので文句はありません。これ以後にも似たような作品があるんですが、そちらはちょっとエロに寄りすぎていて、こういう危ういバランスのものではないようです。

 恋愛禁止だ丸刈りだとごちょごちょ抜かしている世間に嫌気がさしているあなたは、こういう変なものを観て、笑い飛ばしてやればいいのです。
FUCK!!
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# by karasmoker | 2013-02-05 00:00 | Comments(0)
二時間かけて語られてもなあ、でした。
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 巨匠ポランスキー監督作で、受賞も多く、高評価の作品と見受けますが、ぼくにはどうもぴんと来なかったのが本音でございます。

 イギリスの元首相と、彼の自伝を書くことになったゴーストライターの話です。首相の名前は架空です。イラク戦争と思しき戦争にまつわる報道が出てくるのでいちばん近いのはトニー・ブレア元首相ということになるのでしょうが、イラク戦争に対するイギリスの政治的責任、とかそういう話にもあまりなっていかないので、それはそれ、「政治をめぐるサスペンス」みたいに観ればいいのですね。
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 ユアン・マクレガー扮するゴーストライターは、ピアース・ブロスナン扮する元首相と出会い、彼の自伝を書く作業を始めます。しかし、この首相が戦争時、捕虜の拷問に携わっていたぞ、という報道が出てきて、彼の身辺がにわかに騒がしくなります。そんな中でマクレガーは自分なりに元首相の過去をいろいろ調べ始めるのですが、その過程で首相の話したことと出来事のずれなどが発覚したり、前任のライターの不審死がきな臭いものに思えてきたりして、彼は「政治の裏」にどんどんと首を突っ込んでいくことになります。
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 うーん、ただこれねえ、中盤から「この程度の話になるなあ」感を覚えてしまうんですね。映画は二時間観るなら二時間の中で、やっぱりなんというか、何か考えの種がほしいんですね。もちろん、たとえ何も残らなくても二時間ばっちり愉しませてくれるものもいいんですけど、これはなまじ政治の裏の話とかしているんでねえ。だから、現実を忘れてその二時間を愉しめばよい、というものでもないし。そう考えると、政治に何の興味もないよ、という人ならいいのかもしれないですね。褒めているのはそういう人じゃないかなという気もしてしまいます。今のぼくは「ポランスキーのこの映像美学を観よ!」と言われても、そちらにはとんとインポテンツなので。

ネタバレーション警報。結末の話をしますね。
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 この映画に大きく絡んでくるのはCIAです。ざっくり言うと、CIAが(つまりはアメリカが)イギリスの政治を裏で操っているのだ! みたいな結末です。このマクレガーもそこを追及する形になっていくんですね。CIAと関係していると思しき人物が元首相との関係を隠していたりするし、その関係に触れたから前任者は死んだのだ、みたいなにおいをさせたりもするし。で、最後には、「首相の妻はCIAの人物だった!」というところでびっくりさせるみたいなね。
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この結末に至ったところで、ああ、やっぱりつまらない話になっちゃったな、と思ったんです。っていうかこの話って、日本人からすると、何の衝撃もない話じゃないですか。そんなこと言い出したら、こちとらずっとアメリカに操られているぞ! ってなもんですから。こちとら憲法も米国人製で、「戦力は、これを保持しない」はずだったのに、朝鮮戦争があって保持することになって、その結果違憲状態のまま半世紀以上が経過したぞ! この国の保守は親米がメインなんだぞ! なんか知らないけど親米的な内閣ほど長続きしてきた国だぞ! 日本の従米・属米をなめるな! ですから。だからねえ、イギリスがアメリカに操られているのだ! って言われてもねえ、なんです。
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そもそもぼくはどうもこの、「操ってる系」の話、「陰謀論的」とでも申しましょうか、この手の話が好きじゃないんですね。

 わかりやすいんですよ、陰謀論というのはね。この世界には絶大な影響力を持つ組織なりなんなりがあって、世界はその組織の考えで動いている、みたいなのってわかりやすいじゃないですか。でも、それはちょっと見方が拙い気がしてならないんです。実態なんて何もわからないぼくですが、要するにアメリカにせよCIAにせよ、抜群に手回しがうまい国家、組織だと思うんです。いくつものシナリオのシミュレーションがあって、どこがどう動いてもいいように早めに手回しをしている。相手がぼんやりしているうちに早めに動いて、自分たちがうまくやれる方向に仕向ける。そういうのがうまい国だと思うんです。

 その外交能力、処理能力にめちゃめちゃ長けているんだと思う。だからこそ、傍目からはすべて彼らの仕組んだことに見えてしまったりもする。アメリカがどこそこの国と実は裏で手を組んでいるんだ、とかいうのは、「手を組む」じゃなくて「手を回す」が正確なところじゃないかと思うんです。向こうの国がこう来たらこう返す、こう出てきたらこのように対処する、あちらがどのように動いてきてもこちらの国益を損なわないように準備しておく、みたいな構えがあるんだと思うんです。そういうことをまるで考えない人たちが「陰謀」という話に飛びつくんじゃないでしょうか。そこで考えるのをやめれば楽だから。

 この辺の話をすると膨らみますけど、政治的陰謀論って、「自分が不幸なのは世の中が悪いんだ」的な心性と結びつきそうなんですよね。誰々が悪いから自分は不幸だ、あの組織がこうだから自分は不幸だ。そう考えるとそこで楽になれるんです。でも、それはあまりにも単純だよねってことです。もちろん実際にそういう場合もあると思いますけど、こと国家同士の話になったときには、そんなに単純とは思えない。
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 陰謀論を膨らませてしまうのは、外交能力の無さを、あるいは自分の弱さを見ないようにするための、悲しい慰撫に見えたりもするんです。「仮面ライダーのいない、仮面ライダー的世界観」とでも申しましょうか。
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 映画から遠く離れました。そのうえでこの映画を考えるとね、やはりどうしても物足りない。ラスト、この映画における「衝撃の真実!」に触れた主人公が殺されたことを暗示して終わるわけですが、国家が個人の告発を握りつぶすなんて、もうそんなのいくらでもある話でしょう。政治運動をしただけで投獄される国だってあるわけです。そこをねえ、ラストに持ってこられてもねえ。敏腕きわまる国家の連中に対して、個人が闇雲に動いたらそうなるよ、というのは案の上の結果です。二時間以上あって、こちらの思考を何一つぶらしてくれない。
 
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 興味が湧くとすれば、この映画の結末に驚いたり満足したりしている人の頭の中です。 その人がどういう目線で、日頃政治というものを考えているのかには興味があります。 
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ぴんとこなければそれはそれで幸福。
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最新作を除いて、ここしばらくの園作品はずっと観ていたのですが、一本だけ観ないでいた作品です。特に理由はないのですが。

 いざ観てみるとゼロ年代の、『自殺サークル』『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』などの系譜にある作品だなあとつくづく思いました。いわゆるひとつの園ワールドが真っ当に体現されているなあと思うのでした。

 神楽坂恵演ずる貞淑な妻が娼婦へと変化していく話、というのが主軸です。富樫真演ずる娼婦(昼は大学教授)が、彼女を陰の世界へと引きずりこみます。一方、女性が被害者である猟奇殺人事件が起こっており、それを捜査する刑事として水野美紀がいます。この三者の動きで話が紡がれていくわけです。
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 リアリティは度外視、熱量で押す。というのが園子温のひとつの形です。園子温と増村保造の類似についてここで何度か述べていますが、どちらにも他の日本映画とは異質な、演劇的な空間があります。だからまず言っておくべきは、本作をしてリアリティうんぬんというのは、とても間違った見方であるということです。ぼくは園監督の作品を観ると、「マジック」という言葉が似合う監督であるなあとよく思うのですが、ひとつのマジカルな世界をつくりあげて、そこにどろどろとしたものをぶちこむのが彼の得意技だとぼくは捉えています。
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 その点について、ひとつの明確なサインをぼくは感知しましたね、ええ。
 というのはね、主人公の神楽坂恵。彼女は園監督の妻でもあるわけですが、他の多くの役者に比べて、演技が拙いところがある。序盤、ああ、やっぱりそうだ、なんで監督は妻であるこの女優にだけ、マジックを掛けられないんだろう、と思えてならなかった。
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 ところがある箇所で、ぼくはちょっと見方を変えることになります。
 彼女は潔癖的に厳格な夫と生活しているのですが、あるときパートを始めて外の世界に触れます。そしてAVにも触れます。そういう一連の中で、彼女は家の姿見の前で全裸になるのです。
 ここが面白い。彼女はパートであるスーパーの売り子のフレーズを、全裸のままで連呼し続けるのです。で、それがちょっと長いんです。これをぽんと放り込んでくる。このシーンがひとつの大きな契機です。この映画はこの変なトーンで行くからね、よろしくね、という宣言です。この場面で乗れないと、この映画に乗れないと思います。そういう意味では親切設計でもあります。

これね、うん、よくね、自分を解放する、みたいな言い方ってあるじゃあないですか。自分を解放してやりたいことをやろう、みたいなポジティブな言葉って、あるじゃあないですか。でもね、それとはちょっと違うんです。うーん、ここは書き方が難しいですね。
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 劇中、「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズが繰り返されます。田村隆一という詩人の『帰途』という詩の一節がくどいほどに繰り返される。これほど繰り返されるならば、ここにこの映画の主題のひとつがあるのは明白です。
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 などと言いつつ、ぼくは詩の読解にかけては大変不得手でありますゆえ、正しい読み解きには自信がないわけですが、ぼくなりに考えたのは、「言葉」というものがもたらす認識の拘束性です。富樫真も、彼女に感染した神楽坂恵も、この詩を何度となく繰り返す。それがヒントです。

 言葉とは何か。それは事物を認識するための道具です。同時に、人間はその事物に意味付けを行い、あるいは印象付けを行います。そしてもうひとつ、言葉の役割は、誰かとコミュニケーションをする際の道具であります。言葉をいっぱい覚えることによってぼくたちは様々なものを認識できるし、様々な形でコミュニケーションを行えるのです。

 しかし他方、言葉は認識を拘束してしまうものでもあります。ぼくたちは言葉に認識を拘束されることによって、その外側を見なくなる。言葉が通じることを当然と思って、言葉が通じないものに触れるのをやめてしまう。あえて乱暴なものいいをするなら、言葉というのは、ぼくたちを社会の内側に閉じ込めるものでもある。ぼくたちの認識は言葉によって広がりますが、一方言葉によって拘束されているわけです。 
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 言葉なんか覚えるんじゃなかった、と繰り返すこと。すなわち、言葉の呪縛から解かれようとすること。これを富樫真にせよ神楽坂恵にせよ希求しているわけです。ではなぜ言葉の呪縛から逃れようとするのか。言葉が自分と自分の認識を、社会の内側に閉じ込めるものであるからです。ではなぜ社会の内側に閉じ込められることを嫌がるのか。
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 劇中ではわかりやすい設定がなされていますね。神楽坂の場合は厳格な夫、富樫の場合はほとんどきちがいみたいな母親。これがひとつの重しになります。観客に対してわかりやすい設定と言えます。今までの自分を縛り付けていたものの象徴から逃れることと、社会から逃れることが通じます(すみません、もっと詳しく書けばいいのですが、すっげえ面倒くさいんです)。

 誤解されないようにしたいのですが、「社会の内側へ閉じ込められることを嫌う」というのは、たとえば尾崎豊的な「社会への反抗」ではない。社会への反抗は、既存の社会への反発に過ぎない。この映画が言っているのは「脱社会」のほうです。劇中とラスト、「ゴミを捨てに行った主婦が遠くへ行ってしまう」という話が出てくるのはそのことです。

 ではなぜ人は「脱社会化」を求めるのか、という話になりますが、それはちょっと、今のぼくには荷が重すぎるので、各々で考えてもらうほうがいいでしょう。生活が嫌になったとか、退屈だとか、そういう簡単な解釈で済むならたやすいのですが、それだけではない。「意味に還元されない世界への触知」とか「情動」とかの方面の話になってきます。それはあまりにも面倒くさいので、ここでこれ以上広げるのやめます。っていうか、ぼくにもそんなに手持ちがないし。
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 社会学者の宮台真司が「自分にとって映画は娯楽ではなく、アート。ではアートとは何か。それに触れる前と触れた後では、身の回りの世界を同じようには捉えられなくなるものだ」というようなことを言っていて、その感覚はよくわかる。彼が園子温を激賞するのもよくわかります。なんだか、感覚をぶらされるところがあるのです。だからこれを、娯楽映画を観る構えで観ようとすると(たくさんの映画を観ている人は時として見方が凝り固まっているものです)、ちょっと見方を間違えるんじゃないかと思います。

 とはいえ、ぼくとしても大いに賛美できない部分もあるにはあります。富樫真と神楽坂恵が大学のキャンパスでごちょごちょ話すところとか、水野美紀が廃屋で雨に打たれる妄想をするようなところは、やや映画の手つきに酔っているな、と思えてしまいます。

 あとはちょっと、中途半端にカットを切りすぎているようにも思いました。カットを切るのか切らないのか、その辺のこだわりがもうひとつぼくには見えなかった。たとえば神楽坂恵が富樫真と邂逅し、彼女を追って歩き回るシーンなどは、カットを切らずに長回しで追ったほうが、別の世界に足を踏み入れていく様を、実在感をもって描けたのでないか。それと、あのクライマックス。富樫が狂ったようにセックスするシーン。そしてピンクのボールをひょろっちい男が投げるあの場面。あれはもっと高速でカットを切ってもいいんじゃないかと思いました。観客の認識をぶらすには少し遅いように思えた。それこそペキンパー的な高速カットで追ったほうが、もっと訳がわからなくなったのに。

手つきに酔ったり、なまじうまくなったりすると、狂気とは離れてしまう。この映画にはもっともっともっと野蛮さがあればよかったのに、というのは残念なところです。かつての『うつしみ』みたいな野蛮さです。この映画に大事なのは野蛮さ。それがもうひとつ足りなかったという印象はあります。だから後半はちょっと、だれてもいた。
 
しかし総じて、最近の園子温作品の中では少なくなっていた、「狂い」を前に押し出そうとした作品として、面白く観ました。園子温はあまり観ていないけどビデオ屋で借りてみるか、という場合は、これと『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』、あるいは『ハザード』あたりと一緒に借りて、立て続けに観てみるとよいのではないでしょうか。
 
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コメディとして本当によくできています。記憶をめぐる話としてはもったいなさも感じます。
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毎度、映画について四の五の言うておりますけれども、映画は観る者の成熟度を試すようなところがこれあるのでございます。ある映画を観たときに、面白いつまらないと各々に誰しも感ずるものでありますが、ある映画をつまらぬと感じた場合はその映画の責任というよりも、自分の見識、審美眼、観察眼の未熟さゆえということも、往々にしてあるのでございます。

 などと言って書き出すと、これからこの映画を悪く言う前振りになってしまいそうですが、必ずしもそうではありませんで、とても楽しめたのでございます。しかし、今のぼくよりももっと人生経験を積み、過去が光の中に消え、それが美しく輝き始めるような境地に達しておれば、もっともっと楽しめたであろうなあとは思います。ぼくよりも上の世代の人はきっともっとびしびし来るんじゃないか。80年代に原体験のある人はもっと地肌でわかるんじゃないか、なんてところも多いのでございます。
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 高校時代とおばさんになった現在を交互に描いていくコメディタッチの作品でありまして、軽快なテンポは実に愉快なものでありました。エンターテインメントとしてはとてもよくできているなあと思いますね。七人の仲間たちという設定、離ればなれになった仲間たちを探していくという設定はわかりやすいし。高校時代と現在とでぜんぜん顔が違うな、という配役事情的な部分についても、「整形」を表に出して乗り切る。韓国ならではであるなあと思います。
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全編にわたってテンポがよく、べたべたの部分もよくはまっています。漫画的に頬を赤らめるようなシーンも許せてしまうというか、ああ、そのトーンで行くのね、そっちのほうがいいねと思える。学生運動に巻き込まれたシーンの軽快さは白眉でありました。
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ずうっと楽しく観られるのですが、四分の三くらいが過ぎると、何か引っかかるものがあるなあと感じられてきて、それは何だろうと考えていたのですが、わかりました。うむ、ぼくからすると、「この作り手は屈折していないなあ」と見えたんですね、屈折。

自分がそうだったから、というのが一番大きい理由なのですが、青春期を描いた作品となったときに、ぼくは何らかの屈折を求めてしまうたちなのです。屈折という言葉がわかりにくければ、「思春期のもんもん」と言ってもいい。別に性的なものを意味しているのではなくて、もっとなんというか、自分というものに悩み始める部分とか、しかしそれを言語化できずにうろうろする様とか、社会の歪みとかが見えてくるけれどどうしようもない夜とか、社会なんてどうせこんなもんだと髙をくくってその結果痛い目にあってのたうち回る様とか、そういう部分に「青春」を見るたちなのです。主人公の兄ちゃんやシンナー少女のほうに気持ち的には近いのですね。だからね、「いやいや、青春は楽しかったよ」と言える人は、この映画が徹頭徹尾楽しいだろうと思いますね。それはとても幸福なことです。幸福な人が観るとより幸福になれる映画です。
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 でも、この辺も冒頭で述べた「自分の成熟度」と関わる話でね、長くなるからしませんけど、もっと大人になったらまた違うことを言えるだろうな、とは思うんですね、うむ。

まあコメディが主体ですからね、その辺をごにょごにょ言うのも違うんだろうなとは思いますが、観終えてちょっと経つと、自分とこの映画の間にある大きな溝が見えてきてしまう面はありますね。映画自体について言うと、記憶がわりとみんな一緒に共有できちゃうんだね、というのが気になるところでもありました。
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 あの頃はああだったよね、こうだったよね、という話をするときに、「いやいや、自分はあの頃実はこうだったんだぜ」というのがあると、もっと深まるのになあとは思ったんです。時間が経ってわかることというか、時間が経ってるからこそ語れること、そういうのがあまりないんじゃないか、というのは気にかかった。わっかりやすい話で言うと、同窓会で出会った男女が、「当時、実はおまえのことが好きだったんだぜー」「えー、ぜんぜん知らなかったー」的なことって、あるじゃないですか。当時としては秘めたる思いを口にできず、布団の上でのたうち回った日々なのに、今となればあっさり言えちゃうよね、ぼくたちも年をとったね、的な時代の彼我。そういうもんがね、深まらないんですね。過去という美しい箱の中はしっかりと安定している感じ。それはぼくの求めているものと違ったんです。あるにはあるんですけどね、ハンサムな好青年とのくだり。でも、そういうところはわりと記号的なんですね。
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コメディのテンポを保つ以上、負の側面を記号的に処理するのはわかるんです。たとえばあの、ハンサム青年とクールビューティ・スジの逢瀬を、主人公が発見してしまうところですね。なんであんな、『殺人の追憶』なら完全に殺されているであろう林の中を歩いているんだ、ということは、言ってはならないのですね。負の部分はディレクターズカット版で入っていると宇多丸さんが言っていましたが、そこを切るのもわかる。それくらい、コメディとしてはよくできているんで、うむ、これはこれでいいわけですね。
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しかしそうと知れた上で、あえて二点ほど申し述べると、あのクールビューティ・スジに関するところです。
 仲間たちが楽しい日々を過ごして、連帯感ばりばりなんです。でも、スジはいつでもすかしているというか、一人だけテンションが低いんです。こういうキャラ付けはいいんです。というか、この映画のキャラ付け自体には何の文句もなくて、とてもよいのです。
 ただね、キャラ先行のところが強いんです。平たく言うと、なんでスジがあの面々とつるんでいるのか、どうもわからないところがあるんです。一匹狼っぽいおまえが、なんであんなハイテンションガールズと一緒にいるのだ? と言いたくなります。電車の中でも一人離れているんです。すかしすぎなんです。『リンダリンダリンダ』の香椎由宇もすかしていたけれど、しっかりチームの一員でしたし。
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 だからね、あのキャラの場合は、「ああ、こいつはこいつで感情表現がうまくはないけれど、ここにいるのが楽しいんだなあ」というのがほしいわけです。そういうツンデレな部分がないと、どうもこいつの話が終盤で重みを帯びない。で、さらに言うと、もしもその設定で押すのなら、あのシンナー少女のくだりはちょっと違うんです。
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「普段は何も言わない、仲間っぽくもないやつだけど、こいつは誰よりもチームを愛しているんだなあ」感が必要なのです。そしてそのためには、あのシンナー少女を圧倒するとか、クールに追い詰めるとかじゃなくて、熱いところを見せなくちゃなんです。圧倒的に不利な状況、でもチームを守るために戦うんだ的な展開があってこそ、あの寡黙キャラはもっともっと活きるのです。そのほうが、一員である感が絶対もっと出るのです。美貌で押すより、そっちのほうがいいと思うんですよねえぼかあ。
 まあ、それは好みの問題なのかもしれませんがね、はい。

でねえ、うーん、ラストですね、はい。この映画はね、ラストでメンバーの一人が死んでしまうんです。でも、そのメンバーは大金持ちで、友人たちに多大な遺産を残しているんです。ここはね、別にいいんです。結局金でハッピーエンドかい! などと言って、わりとここを突く人もいるようなんですけど、それは別に構わない。うん、この多幸感のある映画であれば、しんみり終わるよりもあれでいい。あのラストだからこそ、ダンスが活きるんです。だからあれはあれでいいのです。

問題はその後です。なぜ、おばさんになったスジを映したのです!
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この映画はおばさんになった主人公が旧友たちを集めていく話なんですけど、一人だけ見つからない仲間がいて、それがかつてのクールビューティ・スジです。で、ずっと見つからなくて、本当の最後の最後に、やっと出てくる。仲間たちが再会! というラストですね。
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ここはねえ、スジを映さないほうがいいと思いませんか? 知らないおばさんなんですよ、言ってしまえば、観客にすれば。観客にとってのスジは、あの若かりしクールビューティなんです。だからぼくは終わる直前、ああ、これは出さないほうがいいな、と明確に思った。でも、結局出しちゃった。あれはね、きっと、主人公の笑みで終わっていいんです。
 ぼくが求めたのはこういうラストです。五人がダンスを踊る。スジが来ないまま終わるのかと観客は心配する。で、誰かが部屋に入ってきたのがわかる。しかし正体は映さないでおく。そのまま主人公の顔にパンする。主人公が笑う。観客はそこで、「あ、来たんだな」とわかる。エンドロール。

このほうがいいと思うんです。ここがこの映画で一番残念なところでした。
ワンカットのあるとないとで大違いです。というのはね、あそこで観客の想像に対して開いたまま終わると、そのまま観客はその感情を持ち帰れるんです。で、学校を卒業してから会っていない友人に、各々が思いを馳せることができると思う。あいつ会っていないけど、今どんな感じなんだろう、どんなおじさんおばさんになっているんだろうと、顔を想像できる。わかりますかね? スジの顔を映さないからこそ、現実の観客個々人の記憶を、揺らすことができたはずなんです。この「想像に対しての開かれ」。それをあのラストは供給し得た。なぜそれをやらなかったんだろうと思ってならない。

 映画はとても面白かった。反面、「あれ? この監督はこんなに記憶を揺らしうる題材を描いておいて、記憶というものにそれほど興味がないのかな? 思想がないのかな?」と思うところがあります。それが感じられれば、ぼくはこの映画を激賞していたかもしれないのですがね。

 結構書きましたね。この辺にしておきましょう。ちなみに、かつての友人たちが集まる作品で言うと、ぼくが好きなのはジブリの『海がきこえる』です。あの作品がまた、観たくなりました。そんな感じで、今日はこれまで。
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この手の題材の映画としては、頭ひとつ抜けている印象です。
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 イタリアの犯罪組織カモッラの有様を描いた映画です。海外の犯罪組織というと、「マフィア」という名詞がいちばんよく使われるものだと思いますが、マフィアというのはもともとシチリアから発祥したものなのです。カモッラはナポリから生まれたものであって、別の組織なんですね。だから本来、マフィアというのは一般名詞ではなく、もともと固有名詞に近いのでしょう。マフィアはアメリカで勢力を広げたり、政界に影響力を持ったりなどするうちに、概念のような形になってしまったわけです。
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暴力団やマフィアについて書いてみようと思ったのですが、映画と離れたままかなり長くなるのでやめておきます。しかし、この映画を観たら、暴力団やマフィアが社会や世界にどのような影響を与えているのか、どういう背景をもとに生まれてきたかを考えたくなるはずです。「暴力団なんて法律で禁止して、なくしてしまえばいい!」「マフィアやカモッラみたいな組織は警察がもっと取り締まればいい!」なんて言いぐさが、本当に子供じみたものに過ぎないことを知らされます。
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 本作ではカモッラに関係する人々、関係せざるを得ないがたくさん出てきます。それはカモッラに入ることに憧れている少年であり、不良の二人組であり、組織と構成員家族のつなぎ手であり、産廃業者であり、洋服の仕立屋であります。このような複数スレッド進行が、いかに地域と組織が深く結びついてしまっているかを効果的に示します。
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それぞれに言及していると一日仕事になってしまうのでさすがにできませんが、これはとても巧みな設定であるなあと思います。子供から大人まで、どの世代がどのように関係してしまうのかを綺麗に映し出していると思います。憧れを抱く少年などには、『ジョニー・マッド・ドッグ』の少年兵に近い背景を見いだします。この世界が奪う者と奪われる者で成立しているならば、奪う者の側に回らぬ手はない。ぜひともそちらに回りたい。そんな世界観が植え付けられてしまうのでしょう。彼がその通過儀礼として銃で撃たれる場面などはとても印象的です。暴力はよくないなんて道徳は、目の前で銃撃が頻発する世界では、意味のない理想論に過ぎない。
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 産廃業者のくだりも見るべきものがあります。これは日本にも通じる話じゃないでしょうか(というか、ほぼ同じような話が日本でもあるのは、よく聞くところです)。この辺が社会のどうしようもないところだなと思いますね。たとえばある業者が産業廃棄物を出してしまう。これを処理するうえでコスト削減のため、別の業者に外注する。そうなると
安い値段で処理を請け負う業者にお鉢が回る。しかしその安さが可能なのはまともな化学的処理を経ずに投棄してしまうからであって、そういった話は闇社会の勢力の温床になる。表社会に生きるもともとの依頼人は、「処理はお任せしているので」と知らんぷりを決め込める。環境を悪化させるような投棄など駄目だ、行政は何をしているんだと言っても詮ない。じゃあ自治体が請け負いましょう、というほどの金もない。こういう連関は先進国、途上国問わず起こることです。
 この映画ではさらにひどくて、子供たちにトラックを運転させて廃棄させる様まで描かれています。どこが先進国やねん、という話です。
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複数のスレッドにおいて、最も組織と縁遠いはずなのは、真面目な仕立屋のおじさんです。何十年にわたり洋服をつくってきて、職場でも信頼厚いおじさん。しかし、彼もまた無縁ではいられない。このくだりはとても興味深いものがありました。
 彼は会社の上司が無茶な注文を引き受けてくるのでいっぱいいっぱいで、しかも上司が信頼の置ききれない人間なもんだから、給金がまともにもらえるかも不安でならない。そんなとき、彼の腕を見込んで近づいてくるのは、中国系移民の仕立て屋。中国人は彼に対して、技術を分けてくれと頼み、十分な報酬を約束する。彼はおそるおそる、彼の工場へと出向いていくのです。
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 聞くところによると、21世紀以降、ヨーロッパで中国移民の増加率が最も高いのはイタリアだそうです。細かい背景はわかりませんが、伝統的にマフィア勢力が強いイタリアならば、治安的な面で考えても、不法(?)入国者が入りやすい土壌があるというのはイメージしやすいところです。ヨーロッパにおける移民問題、というのを織り込んでくるあたり、ああ、この映画は本当に地で行ってるなあと感じます。で、仕立屋さんの行動がどうして問題なのかと言えば当然、会社の技術を他の業者に売っているからですね。それも中国系の就労ビザもあるんだかないんだかわからない連中に売っているとなれば、これは許し難い。そこで登場するのがカモッラで、上司が頼み込み、「あの中国人の連中うざいんで、困るんで、どうかよろしく」と言えば、これを屠りにかかるわけです。真面目な仕立て屋おじさんはそんな状況に絶望することになります。スカーレット・ヨハンソンもこれまたとんだ使われ方をしたものです。
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ぼくはナポリにもイタリアにも行ったことがないので、これがどれくらいにリアルなものなのかはわかりません。いや、現地に在住しているという人でも、これらの様相を熟知している人は少ないでしょう。それは日本のヤクザに関しても同じことです。
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 ただ、なるほどこれは確かに十分にあり得そうなことだ、と思わせるくらいに、泥臭いリアルさがあります。カモッラの構成員の人たちはちっとも格好よくない。任侠のにの字もそこには見出せない。三浦友和とか西田敏行が出てくる日本のヤクザ映画みたいに、ばちっと啖呵を切って格好よく決めるような有様もなく、ただ密やかに地域に溶け込み、そして浸潤しているのがわかる。アル・パチーノの演じたがごとき、組織の絆や家族との情愛みたいなもんもない。原作者はカモッラの報復から逃れるべく海外逃亡して保護されていると聞きますが、なるほどやばいものがここにはあるなと思わされる。まかり間違っても、テレビのロードショー枠では流せない。仁義なき戦い、どころか、そこには仁義なんて概念が端から無いかのような、乾いた世界が描かれています。
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ヤクザ映画、マフィア映画というのは数多くあるわけですし、ぼくはぜんぜん詳しい人間ではないですが、ちょっと頭一つ抜けている印象です。一切美化することなく、組織の内幕をドラマティックに描くなんてこともせず、いかに社会に溶け込んでしまっているかを、効果的に描き出しているように思えます。反面、こういうものを観ると、有名スターがいきっているヤクザ映画をあまり観る気にならなくなるので、その点でも注意が必要かもしれません。
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アメリカ、自由、共同体、その他。
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 とかくアメリカ映画といえばビッグバジェットのハリウッド映画。とりわけ2000年代後半以後はずっとアメコミヒーローものがその話題的中心を担っているように見受けるのですが、ぼくはそれよりも今回の作品のような、アメリカの深い部分を覗き込ませてくれるようなもののほうがずっと好みなのですね。特にこの数年は。

 余談ですが、アメコミヒーローものとかって、いまひとつ乗り切れない。興味が湧いてこない。なぜなのかなあと考えたら、わりと理由がはっきりしてきました。というのもね、ぼかあ幼少期、ウルトラマンや仮面ライダーが大好きだったんです。たとえば仮面ライダーの放送を観終えますね、するとぼくはテンションが上がりきって、エンディングテーマを聴きながら、まるでそれが何かの儀式であるかのように、戦うライダーの真似をして飛び回っていたんです。ちゃぶ台の上から何もない中空に向かってジャンプキックしていたのです。友達と遊ぶときも本気で自分をライダーやウルトラマンの化身と信じ、戦いに身を投じていたのです。身体的に感染していたわけです。そういう記憶があると、今更アメコミのヒーローで盛り上がりましょうと言われたって、とてもじゃないがあの頃みたいな熱量は自分の中で生み出せない。何々格好いい! とか言ったって、あの頃に抱いたウルトラマンやライダーへの憧れにはとてもじゃないが及ばない。それを思うと、アメコミヒーローとか、かなりどうでもよく感じられてくるわけですね。
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 さて、そうなるとやはりこうした、陰鬱とした地味な映画に学びを得たくなる。
 本作は山中に住むアメリカ白人、ヒルビリーの少女の話です。町山さんのWOWOWでの解説がとてもわかりやすいです。背景などがよくわかります。この映画を未見で、「ヒルビリー? 何それ?」と思われる方は、検索して解説を聴いてから観るとよいかもしれません。
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 ところで、ここ数年はオバマ大統領による医療保険制度改革が取りざたされています。世界を牽引する先進国の筆頭でありながら、国民皆保険制度を持たずにきたアメリカ。ではなぜアメリカは国民皆保険を実施せずに来たのか。
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 その背景には、アメリカが建国の旗印にした「自由」というものがあります。 アメリカにとって「自由」というのはとても重要な概念ですが、ざっくり言うにその政治的意味は、「国家が国民を縛ることがあってはならない」ということですね。だからこそ1791年に制定された憲法修正の第一条では「宗教、言論、集会の自由」が保障されているのだし、二条では「民兵の自由」、つまりは革命権が謳われているし、今でも銃は自衛のための不可欠な存在と考えられている。イギリスからの独立によって人工的に構築された国家ゆえに、もともとから「国家への不信」がプログラムされている。アメリカが断固として共産主義を許さずに来たのもひとつにはこのためです。
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そういう発想からすれば、国家が保険制度に入ることを強制するなんてあり得ない! という考えが右翼方面から出てくるわけです。それがいいものであれ悪いものであれ、そもそも国家が強制するのはよくない、というわけですね。

 そのような発想が底流している国は、一方で多様な民族、いまや三億の国民、広大な国土を有している。そうなってくると必然、いかに世界第一の国家であろうと、その施政からこぼれ落ちる人たちが出てくる。この映画で描かれているのはそんな社会の様相です。

この少女は幼い兄弟二人と、精神を煩った母を支えながら暮らしています。父はというと、家を担保に借金をして出て行ってしまったのです。サブプライムローンが記憶に新しいわけですが、貧乏な人たちが借金返済ができず、福祉制度も備わっていないとなれば、これはもうどうしようもない状況に追い込まれます。主人公の少女は行き場もないままに、家を売りに出さざるを得ないような形になるのです。その前になんとしても父親を捜し出さなくてはなりません。

 しかし、近所の人たちに父親のことを聞き回っても、みんな頑なに口を閉ざすんですね。 その様子があまりにもあからさまで、どうやら何かあったらしいとわかってくる。
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こうした、閉ざされた田舎というのは、万国共通なのだなあと思いますね。田舎というのはやっぱり狭い世界であるらしくて、独特の怖さみたいなもんがあります。かく言うぼくも田舎の生まれですが、その辺の怖さはそこはかとなく感じますね。旧友の結婚式で地元に帰って飲んだときも、既に地元で家庭を築くなどしている同級生が、「どこどこの誰々はああだこうだ」という話に花を咲かせたりしていた。うわあ、なんか、いろんなことがばればれでやっていかなあかんねんなあと、少し距離感を抱きました。東京で暮らしていると気づきにくいことです。「これからの時代と田舎における人間関係」というのには、文化人類学的な興味をそそられます。

ネタバレ速報。ういーん。
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 話が進むうちに、どうやらこの少女の父親は、村における掟を破ってしまったらしいとわかってきます。村における掟って。昔じゃないんだから。という感覚になったりもするのですが、そこでアメリカ社会ってもんがちょっと垣間見えますね。
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国家というものは信用できない、という国家においては、民族やその系譜などをよりどころにして、国家よりも小さく緊密な共同体が、大きな意味を保持する。その助けになるのはキリスト教ですが、本作でそうであるように、宗教など何の生活的救いにもならない。そうなってくると、個人個人は自分たちの生活を守るために共同体が必要で、そこでは掟というものがどうしても重要視される。その掟が犯罪にまつわるものになってしまっても、貧困が絡んでそこから抜け出すことができない。そう、おそらく、日本では既に昔話にしか出てこないような「村の掟」なるものが、今もってアメリカでは意味をなしているのでしょう。すごい話だなあと思います。そして、「そんなのはよくないよ、もっと福祉制度を充実させて」などと言っても通じないわけですから、これは根の深い話です。別の国家ですが、中国の田舎なんかも、もしかしたらこういう面があるんじゃないですかね。要因は当然ぜんぜん違ってくるでしょうけど、これは中国に置き換えても成立する話に思えます。中国とアメリカって実は似ていて、「国家を信用する」ことができない歴史があるんです。向こうは王朝や支配者層の変転というものがありますから。

 全体を通じて、かなり地味というか、話らしい話はぜんぜん膨らみません。親父はどこだ、親父には触れるなの繰り返しですからね。でも、最終的には結構えげつないことになるんですねえ。抑制したトーンでずっと来ていた分、あのチェーンソーの響きが重いんです。「うわあ、最悪やあ」のシーンです。あれはきついです。少女にしたら、「なんでこんなことになってるんだ」というほかない状況です。
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「地域の共同体」という言葉、概念の怖さがここにはあります。「共同体」とか「自治」とかっていうのには、相互扶助、もっと優しい言い方ならば「助け合い」という祝福の側面がありますね。日本でも、「昔はよかった。貧しかったけれど隣近所で互いが助け合って」みたいな言説がある。ただ他方、「隣近所の輪から抜け出せない地獄」という呪いの側面もあるわけです。まあ、今更言う必要もないことでしょうけれど、経済的な問題などによってその呪いが膿んでしまうと、こういうどうしようもない事態が発生してしまうわけです。そんなどうしようもなさをまざまざと見せつける作品でございました。
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 年が明けて2013年になりましたが、ぼくの映画に対する接し方はどうやらこのまま継続しそうです。すなわち、映画そのものよりも、映画を通して見えるもののほうに惹かれる、ということですね。何々格好いい! とか、誰々の演技がぁ、というのは、とりあえず過去の記事の中のものです。映画を観る以上は、学びを得ていきたいのですね。映画を観て、面白い面白くないというのはもういい。そんなことにぶうたれている大人なら、アニメに文句も言わず熱中する幼児のほうがよほどいい。そんな感じなんで、これからも大した数の読者を得られずに低空飛行だと思いますが、まあ、よろしければよろしくです。
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この映画はこういう風に観る。あるいは、ぼくたちと社会との関係について。
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昨年、ネット上で概して評判がよくなかった印象のある作品。ナイトウミノワさんがぼろくそに書いていたのが印象に残っていて、じゃあ観なくていいかなあと思っていたら、宮台真司が監督とのトークショーで肯定的な評価をしていたのを知って、うむ、こういう評価の分かれる作品は大好物だぞ、というわけで、『RIVER』。

 2008年の秋葉原通り魔事件をもとに着想したという映画です。主人公はその事件で恋人を亡くしたという設定の女性で、彼女が秋葉原の街をとぼとぼと歩く長回しの場面から幕を開けます。
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 といっても、事件のことについてはほとんど触れられないんですね。だから海外の人とかには何のことかわからないと思います。劇中では「あの事件」的なことでしか言及されず、事件の様子なども何も描かれず、観ている側の了解に委ねられている。

 悪く言えば、「あの事件のことを何も描いていないじゃないか」とこうなる。ただ、ぼくがそこで気になった点として、「あまりにもあの事件のことを描かなすぎている」というのがあります。この映画では本当にあの事件のことが何一つ描かれていない。ここまでやっていると、これは意図的な選択じゃないかと思うんですね。
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「実際の事件に誠実に向き合っていないんじゃないか」的な意見もわかるんですが、ぼくはそこで立ち止まる。じゃあ、事件に誠実に向き合う、あるいはそれを映画化する、それは一体どのような作法で果たされるべきなのか。ぼくにはよくわからなくなります。

 実際の事件をもとにした映画というのはたくさんありますね。たとえばわりと記憶に新しいところだと園子温監督の『冷たい熱帯魚』。あれは実際の愛犬家連続殺人事件をもとにしているわけですけど、あれはどうなのか? 細かい取材はしたかもしれないし、よくできている映画かもしれない。でも、そういう問題なのか? ぼくを含めあの映画を観た多くの人間は、「でんでんサイコー」的な感想を抱いた。でもちょっと待てよと。あれは本当の連続殺人犯がモデルだぞと。それをもとにした映画キャラクターに「最高!」って何だよと。それこそ実際の被害にあった人、遺族の人は、世間が「でんでんのあの殺人鬼はすごい迫力だね!」なんて言う言葉に、いい気持ちが絶対しないだろうと。それってどうなの? という問題がどうしても気になってくる。

 そう、土台事件と関わり合いのない人間が、誠実に向き合うとか綺麗事を言っても、たかが知れている話です。取材を綿密に行った、だから何だという話です。被害者に寄り添う? どのみち綺麗事。実際の事件をエンターテインメントに! マジで言ってるのか?
だったら、あえてその事件には深く触れない作法があり得てもいい。それはそれで事件に関する向き合い方の一つだろうと思ったのです。

 だって、所詮そうじゃないですか? ぼくたちは世間の痛ましい事件を見知るたびに心痛めたり何なりを繰り返す。でも、そのニュースが終わったらいつしか忘れて、自分の楽しみにうつつを抜かしている。街の風景は見事にその様を映し出している。ぼくたちは所詮、そういう存在です。であるならば、「ほんのいっとき誠実に向き合う」ことはそれもまた欺瞞かもしれない。であるならば、触れられぬものには触れない、しかしその周縁にたたずんで見えるものはきちんと見よう、というあり方もあっていいはずです。

 この主人公は恋人が好きだった街、恋人が死んだ街である秋葉原を彷徨する。何をどうしたらいいのかわからないままにさまよう。その中でいろいろなものに触れていく。ただ、どれを取っても自分の求めているものではないと知らされ続ける。世間は「おまえの傷なんて知らないよ」とばかりに動いている。だからこそ冒頭の長回しの最中、「街を作品にしているの」的な女性は彼女の傷に触れた瞬間、大いに戸惑い、寄り添うのをやめてしまう。
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登場する人物や場所にもそれなりの意味があるように思いました。メイド喫茶の様子を見てぼくは、「ああ、ここは幼稚園プレイを楽しむ場所なのだな」と思い至ったのですが、あれは現実の街を流離する彼女が触れる場所として、面白いと思いました。それと、なんか優しげな甘い歌を歌ってやがるな、というストリートミュージシャンの女性。その女性と主人公が川辺で話をする場面があるんですが、ここは笑ってしまった。なんてお花畑なことをだらだら喋っているんだろうって。そう、この映画では、自分がどう進むべきかわからずにいる主人公が、いつまでも現実に触れられずにいる様を、街の様子を通して描いているのです。彼女は現実に触れながら、「これは現実じゃないだろう、これも現実ではないだろう」という気がしてしまう。あるいは、現実自体がかなりしょぼくれたものであることを知らされてしまう(田口トモロヲの役はその象徴でもある)。
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そうやっている中に一人の青年に彼女は出会う。そして彼の故郷が震災の被災地であることを知らされる。これをきっかけに、彼女は彷徨から醒めることになります。
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秋葉原の事件をもとにして、被災地に話が行くなんて、何の関係があるのか。
 答えはひとつ。何の関係もありません。あるいはこう言える。何の関係もあるはずがない。ただ、何も関係がないがゆえに、この映画は成立し得る。

 秋葉原事件と震災に何の関係があるんだ、という問いは、映画を観る者に対して「あなたと映画の主人公に何の関係があるの? 何の関係もないのに何であなたは涙を流したりするの?」と問うのに似ています。そう、言われればその通り。まるで関係ない。にもかかわらず、ぼくたちは映画の中の人物に自分を重ね合わせたりする。

結局のところ、ぼくたちの人生など、自分とは本来無関係であるはずの数々のものに紡がれていくものです。目を閉ざし耳を閉ざし心を閉ざし生きていれば触れずにいられるもの、そのいくつかに、ぼくたちはいい意味でも悪い意味でも、人生を狂わされる。

この映画において、主人公は震災や被災者家族の青年と触れることによってのみ、自分の輪郭を規定できたんです。もう一度言いますが、そこには何の物語的必然もない。ですが、人生において物語的必然などあるわけがない。震災を利用している? はい、この映画は確かに震災を利用している。ですが、果たしてそれは責められるべきことなのか? だったら尋ねますが、貴方は自分の生において、自分と無関係なものを「利用」したことが、ただの一度もないのでしょうか? まさかとは思いますが、残忍な事件をもとにした映画を、娯楽として愉しんだことはないのでしょうね?

 意地悪なトーンになってしまいました。言いたいのはこういうことです。ぼくたちは自分と無関係なものの脅威にさらされ、自分と無関係なものに興味を惹かれ、自分と無関係なものによって日々を送っている。であるならば、その対象が何であっても、そこに前向きな道を見いだすことは、責められるべきではないのです。殺人事件の被害者が震災によって道を見いだすなんてあり得ない? なぜそう言える? 不条理な出来事によって傷をつくった人間が、不条理な出来事によって道を見いだすことは、何もおかしな話ではない。
この映画のモチーフの二つが無関係であることを、ぼくたちに責める資格はない。

 映画は手ぶれが多くて、被災地の場面ではとりわけそれがひどくなって酔いそうにすらなるんですけど、あれはあれで効果を生み出すためのものだろうという気もします。ただ淡々と、カメラをうまく動かしていたら、青年を客体として映すことになりすぎる。ひどく静かな光景の一方で、あの手ぶれが感情のぶれを演出するための方法だとしたなら、安易ではありますが演出的な意図はわかります。
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 序盤に比して後半、終盤は要らない台詞も多かったので、その辺はいまひとつ練れていなかったのかなあとも思いますね。ラストで主人公の女性が台詞を吐くのですが、あれは要らなかったと思います。路地の鏡に映って、「これが現実なの!」というのもくさすぎるんですが、まあ主題を伝えるためなんでしょう。それがわからない観客のための配慮なのでしょう。そこだけ浮き上がっているので、やりすぎかなとは思うのですが。

 事件や震災、というものをどう見るか、向き合うかによっても見方の分かれる作品なんじゃないかと思います。ただ、当事者でもないのならば、「真っ当に向き合う」みたいな考えがどこまでも戯れ言であるというのは、心得ておきたいものであります。
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いやあ、ゲームって本当にいいもんですねえ。

前回の続きです。個人的ベストテンですが、誰でも知っている有名作品ばかりです。

『スーパーロボット大戦F/完結篇』(PS バンプレスト 1998/1999)
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スパロボは友人の家で知って、小学校の頃などは一日中やっていたものです。スパロボをやって、外で遊んでというのがゴールデンコースでありました。ここからガンダムを覚えたりなどした世代なのです。いろんなロボットアニメを教わりました。マジンガーとかゲッターとかエルガイムとかビルバインとかね。実際にやったのは第三次、第四次、EX、それと本作とαまで。ああ、あとは「新」なんていう変わり種もありました。そんな中でも大ボリュームなのがこのFです。エヴァが初めて出たのもこれですね。はっきり言って終盤などはクソ難しくて即コンティニューなしでは進みようがなかったし、敵同士の撃ち合いを延々と見せられて手の出しようがないなどと、課題も多かった作品でありましたが、その分だけがっつりとやってしまったものであります。

『ファイナルファンタジーⅨ』(PS スクウェア 2000)
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FF枠としては9作目を推します。といっても、ぼくがやったのは4を途中までと、5を途中まで。がっつりやったのは6とあとこの9だけなんで、それほど深く接してきたわけではありません。7や8は世代的に触れていてもよさそうなものですが、主人公がホストくさいのを見て、まったく興味がなくなりました。あんなホストくさい主人公と旅をする気にはなりませんで、それは10以降でもそうなのです。
9がいいのは、キュートなファンタジー世界観をばっちり決めてくれているところです。頭身数の多いリアル系ホストキャラでいくより、断然こっちのほうがいい。それならもっとぼくはFFに注目するのに、と思ってしまいます。かつてのドット画が正しく成長した感じというか、ドット画の向こうに見ていた発展形はまさにこれだよと言いたくなる素敵なキュートさに充ち満ちていました。世界観がまったくもってぼく好み。世界崩壊という大イベントがある6も同じくらい推したいし、宿敵としてはクジャよりもケフカのほうが断然好みなのですが、9のキュートさに軍配を上げます。6が9的な形でリメイクされたなら、ぼくはそれを推すと思いますが、ううむ、微妙なところです。ぼくがファンタジー系映画にほとんど興味を持てないのはひとつに、この9のキュートな世界があるからです。こっちのほうが、ずっと飛び込んでみたい世界ですもの。

『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』(SFC/PS2 エニックス/スクウェア・エニックス 1992/2004)
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ドラクエシリーズのナンバリングタイトルは新作二作を除き、すべて手を出しております。VをきちんとやったのはPS2版のほうです。Ⅷについては後述しますが、個人的にVはシリーズの中でも一番の傑作ではないかと思っています。といいますのも、この作品は他のドラクエ、そして双璧をなすFFが十作以上出してもいまだやっていないことを、唯一やっているんですね。それは何かと言えば、主人公の一生を追うということ。一生と言ってもまあ老年などは描きませんが、子供の頃から成長して子供を持つ大人になるに至るまでを追っている。その過程での父との物語などを描きつつ、実に長い時間をその中で描いている。このアイディアは凄いです。
 Vに関して感動的なことがあと三つあります。ひとつには、勇者の証である天空のアイテムを装備できるのが主人公ではなく、その子供であるということ。この発想は凄い。普通ならば、プレイヤーがずっと育ててきた主人公を勇者にする、どんなゲームもそうする。でも、これは違う。本当に勇者たり得るのは自分ではなく、次の世代だという思想。なんて大人の考え方でしょう。しかもそれがいわば子供をターゲットにしたものでなされており、子供たちには「君たちが次の時代を担うんだぞ」というメッセージにもなっている。これはものすごく鮮やかな設定です。もっともっと褒められていいはずです。
 そして、妻を選ぶイベントがあること。幼少期の思い出があるビアンカと、金持ちの家の娘のフローラを選ぶわけです。なんて設定でありましょう! これも、子供の頃の思い出ゆえの結婚、みたいな閉じ方をしていないのですね。大人になったらなったで、まあ別の出会いもあるんだよ、というのが効いているじゃないですか。相手が金持ちのご令嬢だというのもなかなか攻めている設定です。一方のビアンカは一人山奥の村で、病気がちの老いた父(しかも実父ではない!)と密かに暮らしている身。なんという選択を子供のプレイヤーに迫るのでありましょう!
それとやっぱり外せないのは、モンスターを仲間にするということ。これはねえ、これは凄いんです。それまではね、いわば「導かれし者たち」が仲間だったんです。モンスターは外敵でしかなかった。でもこのVはそこを裏切ってきた。かつては敵でしかなかった山野の獣を、欠かせぬ友として旅を続ける。これは感動的な設定です。社会的な正しさもここにはあるように思いますね。一部の選ばれた人間だけが友ではない。敵対するものの中にもわかりあえる相手がいるはずだ、というメッセージがある。このドラクエV以上に、意味的に優れた設定を持つRPGを、ぼくは他に知りません。
 
『実況パワフルプロ野球11』(PS2 コナミ 2004)
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パワプロは’97、98、99、そしてこの11をやっています。ハードやなんかで数え方が違うんですね。パワプロ枠として一番やったのがたまたま11だったということですので、12を買っていたら12と言うかもしれません。パワプロはやっぱり外せないのです。野球ゲームというと「ファミスタ」がありますけどちょっと前の世代のものという印象で、今だと同じ人気タイトルの「プロ野球スピリッツ」がありますがこれはリアルもので好みではない。それと何より大きいのはサクセスモードですね。サクセスモードはめちゃめちゃやりました。回数を重ねていけば大体同じようなことになるんですけど何度もやってしまうという、まさにゲーム=麻薬的な快感を覚えさせる優れたシステムでありました。野球ゲームと育成シミュレーションのまさしき融合、というのは言わずもがなですね。

『メタルギアソリッド3』(PS3 コナミ 2004) 
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はい、これまた王道中の王道です。PS版の一作目の体験版が、確かパワプロの97だったか98だったかに同梱されていて、それをやってみたら面白そうで購入、というのが出会いだったと思います。以来、一作目、二作目、そしてこの後の四作目と楽しんできましたが、ぼくはナンバリング最新タイトルの4よりも、この3こそが傑作だと思っています。1も2も、敵地の建物に乗り込んでの話で、狭いと言えば狭い空間だったわけですが、この3ではジャングルはあるわ高地はあるわと広がっていて、ムービーシーンのクオリティも本当に映画級のものになっていた。これは感動的でした。相当やりこんだ覚えがありますね。ケロタンを全部撃ってステルスを獲得したり、敵兵をからかって遊んだり。
 MGSの面白さなんて誰しもが語っているところでしょうけれど、とりわけぼくが感動したのは、あのジ・エンド戦です。ボスキャラが複数出てくるのですが、その中の一人が老人スナイパーのジ・エンドという敵なんです。で、一般的に言ってボスキャラというのは、言ってみれば限定空間の中で、さあ殺し合うぞと向き合うわけじゃないですか。勇ましい音楽とかが流れてね。このゲームでも大体はそうなんですけど、このジ・エンドは違うんです。広い森の中で、どこにいるかわからないんです。まったく対戦中という感じがしないというか、音楽も何もない。ただ、静かな森の中で、どこかわからない遠くのほうから狙撃してくる。敵が見えない緊張感。こんなボス戦は見たことがない。
 で、ぼくが震え上がったのはこのときです。ジ・エンドがどこにいるかわからないので、ぼくもスネークを操作して、スナイパーライフルを装備して、スコープを覗き込むわけですね。で、どこだどこだと遠くの狙撃地点を探すわけです。しかし一向に見つからないわけです。すると、ジ・エンドの声がすぐ間近で聞こえる。えっ、と思った瞬間、カメラがズームアウトして、すぐ背後で銃を向けられているのがわかる。で、撃たれてジ・エンド。これは本当にびびりました。同時に、なんてすごいアイディアだろうと思った。これがあるだけでもこのゲームは押せる、というくらいです。
 出来の良さ、ストーリーの面白さは言うまでもない。4も好きですが、実際の歴史を踏まえてみたり、森でサバイバルをするなどの要素を加えてみたりという点などを考慮すると、やっぱりこちらが最高傑作という風に思います。

ここまで十選。

延長戦!

『ドラゴンクエストⅧ 空と海と大地と呪われし姫君』(PS2 スクウェアエニックス2004)
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ドラクエ5のすごさは書いたとおりですけど、いちばん時間を費やしたのはこの8です。8はもう本当に感動的です。ぼくはこの8があるので、9も10もやる気がしないんです。7から8の発展って、すごいと思うんです。それまでのドラクエには、空がなかったんです。上から見る形ですから。でもこの8は立体的そのもので、世界中を旅して回るわけじゃないですか。あの鳥山明の画の世界を旅して回るその快楽。だから9がDSになるとか聞いたときはもうがっくりでした。この8のままで行ってくれていいのに。ネット通信とか要らないから、8の世界をもっともっと広げていけばいいのに。この8の世界は本当に動き回っていて気持ちがいい。動き回るだけで気持ちがいいゲームって、傑作だと思うんです。そんな風に思わせてくれる作品でした。

『SIREN2』(PS2 ソニー 2006)
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実はこれは実際にプレイしたことがありません! ネットのプレイ動画で見ただけです。理由は怖いからです。ぼくは映画にも小説にも漫画にもびびりませんが、ホラーゲームには大びびりの人間なのです。ホラーゲームより怖い映画なんて、ぼくは見たことがないです。それくらい怖いんです。『バイオハザード』って、もともとがアメリカ風じゃないですか。でも、こちらは純日本的。しかも土着の日本って感じ。どこかで見たことがあるようなド田舎の景色。その敵の視界を手がかりに動き回るというのもすごいし、動かすキャラクターがか弱い少女で一切攻撃ができないとかの縛りもえげつない。実際にプレイすることはできないへたれものですが、観ているだけでこれはすごく怖くて面白いゲームだな、と思わせてくれる作品。これより怖いゲームってあるかってくらい、ぼくはこの世界観が怖いですねえ。

あとは『みんなのゴルフ』とか『ワンダと巨像』とかも入れたいところですが、きりがなくなるのでこの辺で。皆さんも自分の思い出のゲームを考えてみるとよいでしょう。いろいろと記憶の扉が開くんじゃないかと思うし、それは映画よりももっと体感的なものでありうるかもしれません。
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テレビゲームについての記事です。

 映画を観る、語る気持ちにならぬ状態が続いております。今回は趣向を変えまして、個人的「テレビゲーム・オールタイムベストテン」をやってみます。映画ではオールタイムベストテンというのはよくありますが、ゲームではあるのでしょうか。寡聞にして知りませんで、やってみたら面白いんじゃないかと、まあそんな気まぐれでございます。ぼくにとってゲームというのはほとんど麻薬的なものがあります。やったら確実にはまるのであって、その愉しさは映画の比ではないとさえ思うのであって、ゆえにそうそうやるものではないと決めております。しかし人生の中で、がっつりはまったものはそれなりにあるのでして、そういうものを並べてみようじゃないかと、まあこういうわけでございます。

 ぼくが所有してきたゲーム機はというと、ファミコンに始まり、スーパーファミコン、PSの1、2、3。そして、実家の母が何かの懸賞で当てたけれど使いようがないからという理由でもらったWii。セガやマイクロソフトにはぜんぜんお世話にならずに来たのであります。

 わりと王道のものが多いというか、知る人ぞ知る! みたいなのはありません。べたべたやな、と思ってもらってよいです。なにしろ小中の頃はそれほど多く買えないから当てにいきますし、金銭的に余裕で買えるようになったらなったで別のことに時間を割かねばならぬからそれほどいろいろ手は出せないしというわけで、そんなコアなものにはいかなかったのです。

 ゲームと言っても広いですからね。一本も被らない人もいれば、結構被る方もいるでしょうか。寸評を挟みつつ見ていきましょう。順位付けは困難なので、発売年順に書いていきます。

『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(SFC 任天堂 1991)
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言わずと知れた人気シリーズですが、ぼくはこの前作も後の作品もやっておらず、この一本だけです。「ファンタジー」というものに生まれて初めて触れたのは、もしかしたらこれかもしれないなあと思います。そして、幼かったぼくは謎解きができず、攻略本というものに初めて頼ったのもこれでした。これはなるほど、人気が出るよなあと今にして思いますね。ゲームバランス、システム、シナリオ、謎解きの快楽含めて、ほとんど言うことなしと言える一本じゃないでしょうか。で、怖い場面はきちんと怖くつくってあるんですね。霧の立つ深い森の中とか、豪雨の沼地とか、本当に怖かった。適度に怖かった。その中を主人公リンクを動かし、えいやっと飛び込んでいく。このテレビゲーム的快楽。そして一方で、穏やかな場面はほっと安心できるつくりになっている。その緩急。姫を救い出して世界を魔の手から救うのだ! という直球的なシナリオもわかりやすくていいし、音楽もいい。でも、こう書いていると思いますね。今、ゼルダをやっても、あの頃のような冒険はもうできないだろうなあって。それくらいに鮮やかに、残っていますね。小四の頃に引っ越していった樋口くんは、あの頃のことを覚えているかなあ。

『ヒーロー戦記 プロジェクト・オリュンポス』(SFC バンプレスト 1992)
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当時のぼくはウルトラマンと仮面ライダーに魅せられまくっていたのでして、「将来、自分はきっとウルトラマンか仮面ライダーになるに違いない」と素朴に信じていたのでして、とにかくこの二つが大好きで、その夢の共演が果たされた正統派RPGです。その二つとガンダムの夢のコラボです。当時はガンダムを知りませんで、あまりその存在をよくわからずにプレイしていましたが、ガンダムも知った上でこのゲームをしていたら、精通もしていないのにエクスタシーを感じていただろうと思います(あほ)。これをきっかけに「グレイトバトル」や「バトルドッジボール」など、いわゆる「コンパチヒーロー」シリーズが大好きになりましたが、その中でも一番の良作、傑作じゃないかと思います。小ネタも満載だし、各シリーズのエピソードもふんだんに盛り込んでいます。主人公はウルトラセブン、仮面ライダーブラック(RX)、そしてガンダム(ニューガンダム)です。この辺もいいんですねえ。ウルトラマンじゃなくてウルトラセブンを入れてくるあたりが、もう本当によくわかっている。世代的にブラックにはまったので、これもありがたかった。
 他にもサブキャラとして各シリーズの仲間たち、敵たちがいっぱい出てくるんです。これより後に『ガイアセイバー』や『スーパーヒーロー作戦』などの同種のRPGがリリースされましたが、もう圧倒的にこの『ヒーロー戦記』のほうがよくできている(というか、後の二つはゲームバランスが悪すぎる)。中盤で仲間がバラバラになってしまうエピソードなどもあるし、ラスボスにも驚きがあるし、シナリオもすばらしい。これは傑作だと思いますね。

『大貝獣物語』(SFC ハドソン 1994)
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 考えているといろいろ浮かんできてどれにするか迷ったのですが、これを入れることにしました。ファンタジックな正統派RPGです。当時、ぼくの周りには「コロコロコミック派」と「コミックボンボン派」がいて(「ジャンプ派」「マガジン派」などが出てくる前の幼い頃ですね)、ぼくは後者でした。『コミックボンボン』と『デラックスボンボン』はぼくが人生で唯一購読した漫画雑誌です。あの雑誌はカプコンやバンダイなどとタイアップしていて、それらのゲームを題材にした漫画がよく載っていました。その中のひとつがこの『大貝獣物語』。漫画につられて買ってみたらとても面白いゲームでした。
 書きながら気づくのですけれども、ぼくはとにかくゲームにキュートなものを求めてしまうたちなのですね。というか、大人っぽいものへの抵抗というか恐怖というか、そういうのもあったのです。出てくるキャラクターが可愛らしかったし、世界観もよかった。今にして思うと、ボリュームもかなりの量なのです。かなり長い。でもその分だけ、世界にどっぷりと浸かって愉しんだという記憶があります。
 それにしても、繰り返しになりますが、こうして書いていると当時はなんと無邪気にゲームを楽しめたのだろうと思いますね。余計なことを考えずにゲームの世界に浸っていた。それはもう無類の愉しさだった。もうそんなことはないんだろうなあと思うと、少し寂しくなったりもするのでありました。

『不思議のダンジョン2 風来のシレン』(SFC チュンソフト 1995)
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これはねえ、この不思議のダンジョンというのはねえ、ゲームとしての設計の妙という点では、古今東西のゲームを集めてきても、五指に入るんじゃないですかねえ。それくらい美しいゲームだと思います。非常によくできている。
 ダンジョンに入って進行していくんですが、敵とプレイヤーはまるで将棋みたく、一ターンごとに動くわけです。で、そのダンジョンというのは毎回違う迷路みたいなもので、落ちているアイテムも毎回替わる。だから毎回新鮮な気持ちでゼロから始められるし、毎回毎回で違う悩み方をする。運の要素、つまりは不確定要素に充ち満ちたゲームで、これは大変な発明じゃないかと思います。一作目のトルネコにもはまりましたが、オリジナル世界であるこのシレンは仲間やアイテムといったシステムが大幅に広がり、世界としてとても豊かになっています。褒め言葉として言えるのは、「やられ方が実に豊富」なんですね。いろんなやられ方がある。まさかここでというところでやられたり、すべてが順調にいっていたのにたった一度の判断ミスでぼろぼろになったり、時には即死したり。トルネコでの出来事としてですが、「難敵に向かってラリホーの杖を振ったら、その敵と自分の間に見えない敵がいて、杖の効果が反射してしまって、眠りに落ちて、ぼこぼこにされて、死ぬ」なんてことがあったときには、ショックと感動が一挙に襲ってきました。そういうものに充ち満ちている不思議のダンジョンシリーズ。トルネコでもいいのですが、独自の世界観とゲームの幅の広がりの点で、シレンを挙げておこうと思います。

『チョロQ3』(PS タカラ 1998)
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レースゲームの代表格と言えば、何なのでしょう。『グランツーリスモ』とか、『リッジレーサー』とか、あるいは『マリオカート』がそれに当たるのでしょう。ぼくはリアル方面にまったく興味が湧かなかったので前者の二つには触れたこともなく、『マリオカート』はSFC版こそ友人のものを一緒にやったりしましたが(思えば幼かったあの頃はぼくの人生における実に淡いモテ期。)、それほどがつんとは来なかった。そんなぼくが好きだったのがこのチョロQシリーズです。1~3と、「ワンダフォー」までやりました。チョロQと言ってもぜんまい仕掛けでなく、普通のレースカーとして登場するんですが、チョロQが時速百キロ以上で走ったりする馬鹿っぽさがとてもキュートに思えたのです。船とか飛行機の作品もありますが、「それはもうチョロQじゃない」と醒めました。大ジャンプするコースがあったり、水の中を走ったり、変なコースを走ったりというのは、後の『マリオカートWii』などよりずっと早くこのゲームでなされているのです。チョロQシティというのがあって、そこを冒険するような楽しみも加味されており、とても面白かった作品です。

後半は次回。
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始祖の死を終焉とするのは、信者の態度ではないのだよ。

 またマスカッツの話かよと思われそうなところですが、映画の話を淡々と始めるほど冷静なたちではないのでございます。今、政治の話とマスカッツの話以外、いったい何を話せばいいというのです。

 マスカッツは解散を発表しましたが、それをもって終焉と考えるのはずいぶんと偏狭な話でございます。むしろぼくたちはその後の、さらなる大物を待ちわびる必要があるのでございます。それがマスカッツを超えるものであることを願うのでございます。

 解散を契機に考えてみるに、マスカッツというのは完全体とはほど遠かったのであります。AV女優を中核としたユニットではありましたが、AV女優のみによって完成されたものではまったくなかった。メンバーの半数近くをグラビアアイドルが占めていたのです。
 
 実を言えばぼくはそのことが不満でならなかった。グラビアアイドルをメインとした企画などが行われるたび、「そっちはどうでもいい。もっとAVチームを映せ」と思っていたのです。このブログでも、再三にわたってAV女優を祭り上げてきた一方、グラビアアイドルには言及しなかったというのは、そういうわけであります。AV女優至上主義者でございます。

 むろん、グラビアアイドルにも意義はあった。単体としては市場で日の目を見なかった者を取り込むことで、マスカッツは拡大した。しかし、結果としてAV女優メンバーを超えるような存在は、ついぞ出てくることがなかった。理想的な布陣とはほど遠かったのであります。マスカッツの新人加入はAV女優に限定してほしいと、ずっと思っていたのです。

であるならば、ぼくはマスカッツ以上のものを求めたく思うのでございます。
 ご想像くださいませ。AV業界が一丸となり、単体女優の精鋭を結集してグループを結成し、それが既存アイドル界に殴り込む姿を。それはなんと香しき光景でありましょう。マスカッツなきあとでマスカッツを超えるものを求めるとは、つまりそういうわけでございます。マスカッツの解散を単に嘆き悲しむ者は、マスカッツの本義を理解しておらぬのでございます。かつて、メンバーである西野翔様は、テレビ番組に出演したとき、「恵比寿マスカッツはAV女優の夢なんです!」と高らかに叫びました。これは「AV女優がマスカッツに入ることを夢見ている」という意味ではありません。「マスカッツには、AV女優の夢が込められている」ということでございます。

 そういうわけで、ぼくたちは心折れることなく、次の可能性を模索する必要がございます。マスカッツを継ぐ者を、探していく必要があるのです。始祖の死をもって終焉とするのは、信仰する者の態度ではあり得ぬのです。

 さしあたって見つかるのは、AKBを堂々とぱくる「SOD国民的アイドル」であります。これがまた、アイドルソングとしてはかなりよい。初めはただのパクリじゃないかと軽視しておりましたが、いざ聴いてみると、曲としてのよさはなかなかのものがあります。AKBの元曲よりいいのです。面白い試みであります。古きSODが持っていた革命の遺伝子に期待するのであります。大槻ひびきさんなんて人は、とても可愛らしいのであります。
 





 そして他に挙げられるのはアリスJapanの仕掛ける「ありすた~ず」です。マスカッツの主要メンバーの多くもこのアリスからAVデビューとしている。新人発掘界の猛者であります。その意味では、このアリスJapanにも、マスカッツの残した種子は息づくことができるのではないかと期待しております。ちなみに、一時期マスカッツにいた優希まことさんがいます。


 もうひとつは「BRW108」というもので、これはしかしよくわかりません。マスカッツのメンバーも一員とされているようなのですが、全体としての活動歴はなく、いわばゆるい連合体のようなものなのでしょう。しかし、このような連合体を中心として、マスカッツの種子が受け継がれていくのは有意なことであります。「PINKEY」というユニットが組まれてCDデビューもしているようですが、前者に比べるとアイドル楽曲的快楽にはずいぶんと乏しいのが難点であります。

 かように、いまだマスカッツに比べれば小さなものばかりでありますし、個々での躍進はさほど期待できぬのが現実でございますが、「種子は受け継がれるべきもの」という思想に基づき、今後も活動を見守っていくのでございます。そして現段階で当然第一に願うべきは、マスカッツのメンバーを中心とする新しいユニットの結成。純粋なるAV女優ユニットとしての再生。希志あいの様や瑠川リナ様などの野心に期待するものでございます。
 いずれにしろ求められるのは、蒼井そら様のような突破的存在。これが今のAV業界にはいない。そこが難しい状態です。マスカッツの誰かがそうなってくれるのを希いながら、
とりあえずはこの辺で。
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 恵比寿マスカッツの来年四月解散が発表されるにいたりまして、ここに思うところを述べる次第でございます。

 解散発表と、衆議院議員選挙ならびに東京都知事選挙が同日であったことは、ある意味でとてもありがたかったのであります。どちらも好ましからぬ結果ゆえに、日を隔てていれば二度落ち込むことになっていたかもしれぬわけでして、このように両方の出来事が重なり、なんだかもうどうでもよくなるような気分になれたのは、不幸中の幸いでございます。

 十六日に行われたコンサートでは、事前に既に「重大発表がある」と告知されており、よもやよもやと幾分の覚悟はあったものの、それが現実化するとは思わず、ただ驚いたのであります。心にぽっかりと穴が空いた気分であります。

 以前より、マスカッツには両義的な思いを抱えておりました。
 ひとつには、もどかしさでございます。
「おねだりマスカットSP」を観ると、なぜこんな企画で、なぜこんな編集で、なぜあのメンバーを差し置いてこのメンバーでと時折いぶかしくなったり、あるいは憤りたくなる面もございました。自分を作り手に加えてくれたならもっと面白くできるのに、もっと映すべきものを映せるのにと思いながら、その週の放送を観終えること多々でありました。
 
 そしてそう思わずにいられぬのは、グループ自体がさらに大きな可能性を秘めていたゆえであります。メンバーの過半を占めるAV女優、その存在。彼女たちには芸人にもその辺のアイドルにも立ち入れぬ領域へと踏み込める、特異な身体性が宿っていた。前の記事で述べましたように、他のアイドルがすべて「聖女」であるのに対して、「売女」という側面を宿していた(逆走!)。
 それは人々の価値観を揺るがせるに十分なものなのであります。アイドルがたたき売りする処女幻想、それを堂々とぶち壊す存在。人々がひた隠しにする欲望、押し込めている欲望を、体現しながら生きる肉体。とかく賤業に観られがちなAV女優を、表の世界へと放つ依りしろ。彼女たちは保守的な秩序に立ち向かいうる存在だったのであります。

 しかし、まるで世間が思い切り反動に傾いたのとリンクするかのように、このたびの知らせが届いた。たまたまの偶然に過ぎぬことでありましょうが、選挙の結果とも重なるような出来事なのであります。

 大変に残念なことであります。自分事以外で、こんなにも残念に思うのは、そうそうあることではございません。

 ことによっては、拡大路線を目指せるのではと夢想しておりました。
 単体AV界には続々と有望なアイドルが生まれている。彼女たちを取り込み、代謝を繰り返すことによって、AV界そのものがアイドル界に殴り込めるような勢力になってくれるのではないかと、夢を見ておりました。そしてマスカッツはその中核を担う恒久機関たりうるのではないかと、夢を見ておりました。闇が光を喰う。その瞬間を希うものでありました。それが、なんたるかな。夢半ばの凶報。

 総合演出を番組開始当初より務め続けたマッコイ斉藤氏は「絶頂期に解散させたかった」と表向きの理由を語ってはおりますが、それはおかしな話でございます。僭越ながら申し上げるに、絶頂期など何も迎えてはおらぬのです。スポーツチームで花形選手が全盛期を終えようと、そのチーム自体は続けられるはずなのです。かつての四番やエースがその勢いを無くすことがあったとて、希志あいの様、瑠川リナ様のような大型ルーキーを今後も取り入れることによって、チームは上昇の可能性を多分に孕んでおるのです。そりゃあ一期メンバーも年をとるし、今後の身の振り方を考えることもありましょう。しかし、だからといって、せっかくつくりあげた尊い中核を、放棄する必要がありましょうか。AKBの可能性はしょせんAKBの発展で終わり。ももクロの可能性はしょせんももクロの発展で終わり。しかし、マスカッツはそうではなかった! その向こうには、もっと大きな可能性があった! 既存の秩序と価値観と勢力構図を一変させる種子がそこにはあった! 肥沃なる大地に芽吹いた瑞々しいみのり、あるいはその中心となる大樹。それを捨てるとはいかなる暴挙でありましょう!

 とはいえ、むろん、そこにはやむを得ぬ事情もあったことでありましょう。ぼくの知るべくもない業界的事情があるのでありましょう。もしも仮に、解散までの期間で、これが覆ることがないというのであれば、ぼくたちは次の種子を探す必要がございましょう。マスカッツの開拓した大地を継ぐ者、その訪れを待ちましょう。日本の政治が党派の枠組みを超え、よりよき未来を実現する日を待つかのごとく、DMM、SOD、アリスJapan、h.m.p、桃太郎映像、KMPなどが結集してユニットをつくり、既存のアイドルを打ち破るような一大勢力となる日を待ちましょう。

 ともかくも、まだすぐの解散というわけではございません。四月以降に新たな枠組みがあり得るし、マスカッツを範とする野心的な仕掛け手が出現するとも限りませんし、あるいはすべてが杞憂に終わり、活動は継続され、「あの頃ぼくらはひどく若かったよね」と今日の日を振り返ることができるかもしれません。

本当に答えが出るその日まで、ぼくたちはともにある日々を愛でようではありませんか。
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うまいことやっていますねえ、「アイドル=聖女」の枠組みの中で。
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 つまるところ、宗教たるものはその信者にとって一等尊いものであり、信仰せぬ者においてはほとんどどうでもよい代物なのでございまして、ぼくなどにはもう一ミリとも響かぬものであったというのは、致し方のないことなのであります。しかしなんでも、最近では元メンバーの方がなんとあのイエス・キリストを超越なされたということで、だったらもういっそのことオバマもロムニーも蹴散らして大統領になればよかったのにと思いもするのですが、そこまで言うなら観ておこうと思って、観てみたの。

 ただですね、申したとおりに、この映画はある種の宗教映画でございますから、異教徒のぼくがどうのこうの言うのも唇寒い話なんですね。その信者の方々が満足されていればいいわけです。非常に話を続けにくい状態であります。変に絡まれるのも、面倒くさいだけです。

 異教徒なりに思うのは、「うまいことやっているなあ」ということですね。表だけではなく裏も見せまっせと。観る者に「おお、これが裏か」と思わせる。宇多丸さんは、「アイドル映画の臨界点だ!」とおっしゃっていますが、要するに、「AKBに惹かれる程度の人たち、を満足させる程度に、裏」なんです。うまいことやっています。さすがですね。

 たとえばあの選挙のくだりですね。誰が何位だ何位だ、一位だ二位だと。で、華々しいあのステージの裏ではこんなことがあったのだと。そういうのをファンは観たいわけで、そのニーズにきちんと応えているんです。うまくやっています。ただ、ぼくは異教徒ですので、一位とか二位とかってことがもうどうでもいいわけです。何をこの人たちはそんなことに熱くなっているのかな、とぽかんとするのです。

 ツタヤに行くとポップに「ジャンル:戦争ドキュメンタリー」とか書いてあったり、宇多丸さんもそんなようなことを言ったり、あるいはこのグループが「社会現象」として語られたりする。そこまで言われると困ってしまいます。当然本当の戦争はそんなものではあり得ないわけですし、世界でも昨今政変ラッシュが続き、日本でも与党が変わろうとしている。そちらのほうに重きを置いて社会を眺めている人間からすると、何を熱くなっているのかまるでわからない。オバマとロムニーの戦いには注目しました。都知事選にも衆議院選挙にも注目します。中東情勢にも注目します。現実社会のことですからずっと重いわけです。そんな時代にあって、「これはもはや戦争ドキュメンタリーですよ!」みたいなことを言われても、ねえ?

 ぜんぜん関係ないようですけど、大統領選とか自民党の動きとかを眺めながら、近頃は右翼と左翼について考えたりしていて、三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地での演説などを動画で観たんですね。すると、ぐうっと胸に迫るものがやはりあるわけです。その思想はどうあれ、ああこの人は本気の本気で日本を憂い、行動に出たんだなと感じ入るものがある。そういうのを観ていると、「票数は愛です!」「うおーっ」みたいなのは、ねえ?


(ちなみに、ぼくは憲法の改正は条文によっては実行されるべきであろうと思っていますが、今の自民党程度の草案には賛成できません。)


こういうことを言うと、アイドルに浮かれることを悪く言っているように思われそうですね。でもそうではありません。異教徒と申し述べたように、ぼくはぼくで恵比寿マスカッツを信奉しております。恵比寿マスカッツ信者の切り口で、ちょいと話します。


 恵比寿マスカッツは主要メンバーがAV女優であります。彼女たちは普通のアイドル的活動をしながらも、その一方ではAVに出演している。ペニスを咥えヴァギナを舐められ、涎を垂らし小便を垂れ、アナルを露わにしファックに喘いでいる。そんな姿を堂々と見せている彼女たちは既に、十分すぎるほどに十分な「裏」を見せているわけです。恋愛禁止だと処女幻想を振りまくなど、彼女たちには端からあり得ない作法です。 

信者としては、その振れ幅に魅せられる。彼女たちは単なる聖女ではない。聖女と売女の両面を露わにした、類い希なる存在として顕れている。そういうものに魅せられている人間からすると、あまりにもどうでもよいものに見えてしまうのです。 
 世の人々は聖女を崇め、売女を誹る。彼女たちはその誹りをも覚悟の上で、その裸体を晒している。その心意気を買わずして何が日本男児でありましょう!

 こういう異教徒にとってみれば、傷つきながら夢を見られても、どうでもいいとしか言えぬのです。マスカッツの作品それ自体が持つドキュメンタリー性に比べれば、と思ってしまうのです。けなしているのではまったくありません。聖女を聖女として崇めたいのなら、どうぞどうぞご覧になって頂くのがよろしかろうと思います。
 ただひとつ、確か、イエス・キリストは人類の原罪をその一身に背負い、人々は彼を信ずることで神からの赦しを得るのだろうと思うのですが、この文脈に照らすならば、AKBの元メンバーがキリストであろうとは信じられません。AKBはこの映画をもってしても、「アイドル=聖女」の枠組みをなお遵守し続けているのです。

 恵比寿マスカッツは己が売女として石を投げられることをも覚悟しながら、僕たちの下卑た欲望を肯定し、生を肯定する存在なのであります。「おまえたちが生を受けたのは、かような営みがあってこそなのだ」と教えてくれるのであります。最初の人類たるエヴァは知恵の樹の実を食べ、裸体に恥ずかしさを覚え、楽園を追放された。であるとするなら、原罪を背負いながらも陰部を露わにするマスカッツの営みは、ヤハウェへの挑戦であり、サタンとの融和であり、原罪の超克なのであります!

 そろそろ何を言っているのか、自分でもよくわからなくなってきましたが、まあ、もうなんでもいいや、ええと、(適当に締めておいたほうがいいな、そうだな、よし)、

 AKBと恵比寿マスカッツをこれ以上引き比べるようなことにならぬように、どちらでもないこのユニットのPVで、平和的に締めましょうか。

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真実は嘘よりも、本当に尊いのか?

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1950年代のアメリカのテレビ番組で実際に起こった出来事をもとにしているようですが、これは今もってなお意味のある題材だと思います。こういう社会派劇みたいなのは好きです、ええ。

 出演者二人が対決するクイズ番組。勝者には高額賞金が与えられる。しかしその裏では話題作りのための八百長が行われており、それをめぐって関係者たちの攻防がなされる。とまあそんな内容なのですが、つまりいわゆる「やらせ」というやつですね。ぼくは元来テレビっ子なもんで、テレビ番組を題材にしている時点で結構興味を惹かれたりしたのです。
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現在までの日本で言うと、やっぱり時を経るにつれてテレビのパワーというのは落ちてきているわけでして、それはむろんネットの普及と発展が大きいわけですけれども、ネットがテレビの裏側を暴き立てるようになったのも主因のひとつですね。ひとたびテレビ番組で不祥事なりなんなりが起こったりすれば一気にネットで広まって、というのは数多いわけでして、テレビ局は相当な苦慮を強いられているようであります。
 もちろん、ネットがあるからこそ明るみに出ることもあるのですが、こと娯楽としてのテレビという点では、ずいぶんと萎縮を余儀なくされているのでしょう。

 2ちゃんねるの元管理人ひろゆき氏が「嘘を嘘と見抜けない人には使うのは難しい」みたいなことを言ったのが広く伝わっていますけれど、ことテレビについて言えば、「嘘を嘘として楽しめる人が少なくなった」のかもしれません。騙されないようにしよう、という知的警戒心それ自体は重要なものですが、一方で何かにつけてやらせだなんだというのも狭量な話だと思います。
 ひとつ覚えているのは、ぼくが中学生くらいの頃に好きで観ていたTBSの『ガチンコ!』があります。TOKIOが見届け人で、ボクサーになりたい不良とか大学に行きたい不良とかを熱血講師が指導する、みたいな番組で、ドキュメンタリーっぽい演出でした。 これに対して一部の週刊誌がやらせだというのを暴いたことがあったのですが、ぼくはなんだか興ざめしてしまったのを覚えています。それはあの番組が「ガチンコ」でなかったことに対してではないのです。「わざわざ騒ぎ立てるなよ、野暮だな」ということなんですね。こっちはマジックを楽しんでいるのに、そのタネがわかったと騒いでいる人がいたら醒めるじゃないですか。ディズニーランドで楽しんでいる人に向かって、「ミッキーの中には人がいるんだよ」なんて言うのは野暮じゃないですか。プロレス観戦で、「台本があるんでしょ」は野暮でしょう。それに近しいものを感じたのです。

 ただ、週刊誌に理がないわけではない。状況や対象によっては、「王様は裸だ!」と言わねばならないときもあるでしょうし、その辺は難しいところ。長くなりましたが、その辺の難しさをきっちり描いている映画として、とても見応えがあります。
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 映画はわざと負けるよう指示された出演者の告発に始まり、そこに法律家が目をつけ、真実を暴いてやるぞとテレビ局や制作者、スポンサーに挑んでいきます。八百長で勝利し、話題の人となったのはハンサムな大学教授で、彼と法律家の攻防が主軸です。
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 映画自体はドラマをきっちりと撮る堅実なタッチでありまして、彼らの駆け引きこそがこの映画の最大の見所のわけですが、この映画が偉いのは、決して一方的な善悪に収まっていないところなんです。テレビ局やスポンサーという巨悪! 真実を暴く痛快劇! になっていない。社会の複雑さを描いているのが大変好もしいです。
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 眉毛の太い法律家役のロブ・モローはその中でも真実を暴こうとする立場にいて、観る側は彼を応援するようなつくりではあるのですが、そこに閉じていないんですね。他の人々の立場とかも斟酌できるつくりなんです。これはそうたやすくないぞ、と観ながら思うのです。
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 たとえば八百長で負けにさせられるジョン・タトゥーロがいますが、後半明らかになるように、彼も答えを教えてもらってきたんです。それで何でもない貧乏ユダヤ人だった彼は一応賞金を手にしてきたんです。でも彼は八百長で負けを強制されたと怒る。この辺なんかも、彼をただの無垢な被害者にしていないグッドポイントです。おまえはおまえで甘い汁吸ってる側にいたじゃないか、と言われても仕方のない立場にいる。
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 テレビ局やスポンサーも自分たちなりの道理を持っている。あれがやらせであったとして、何がいけないんだ? と問うてくるわけです。視聴者は最強スターが出ていれば喜んでみるし、それが人々に知識を持たせようとする動機付け、教育効果に繋がるし、冠スポンサーは売り上げが伸びて万々歳だし、何がいけないんだ?
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 こうしたオトナの問いに対して、「だってそれは真実じゃないもの!」と反駁することはできる。現に八百長でスターになる前のハンサム教授、レイフ・ファインズは良心からその誘いを断ろうとする(カントなら何て言うかな? とインテリっぽく)。

 ただ、観ながらふと思う。真実って何なんだろうと。それを暴くことは果たして人のためになるのだろうか? そんなことを思うのです。
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 いろんな人が言っていることですけど、たとえば事故で最愛の我が子を亡くし、悲しみに暮れる母親がいたとします。彼女の前に二人の人間が現れたとします。一人は現実主義的で、科学的に証明されていない死後の世界などまるで信じない人間。もう一人は霊界と交信ができるというスピリチュアルな人間。彼女を救えるのはどちらなのかといえば、「天国では息子さんがあなたにこう言っていますよ」云々と語る後者のほうかもしれません。彼はインチキかもしれませんが、現実よりもそんな嘘が人を救うことだってある。

 これは単純化した例ですけど、先ほどの手品の例のように、「どうだい、嘘を暴いてやったぜい」という「真実主義」が必ずしも人を幸福にするとは限らないのです。

 この映画はそんな現実を見せます。
 ラスト、ファインズは法廷に立ち、真実を語るのですが、結局のところ彼ひとりが社会的な地位を失い、テレビ局の人たちはのうのうと次の仕事を始めることが示唆される。
 ロブ・モローは確かに真実を明るみに出しました。しかし、真実主義者の本当の敵はまた次の嘘をいくらでも生み出せる。彼は中途半端な形でしか真実主義を遂行できず、結果一人の人間は職を追われた。
「テレビには嘘がある」ことを示したという点では、意義があった。何もかもを鵜呑みにしちゃ行けないよという教訓を与えたでしょうし、人々は多少賢くなったことでしょう。でも、それは果たしてよきことなのか、ここは難しさを孕んでいるように思えてなりません。
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 なんだか社会哲学めいて参ります。
「嘘のない社会は、いい社会か?」

 ぼく一人では到底語りようのないテーマに想到させる映画でした。
 ここはひとつ、『クイズ・ショウ』にあやかって、大きなクエスチョンを投げて終わりましょう。
 どうですか?
 皆さんは、嘘によって救われたことが、ただの一度もありませんか?
 強者による嘘や隠蔽は許せない! としても、強者の嘘や隠蔽によって今の不自由ない生活が成立していると考えたことは、一度もありませんか?

 お相手はkarasmokerでした。また、この時間にお会いしましょう。
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マスカッツのイベントに行くの巻き。または、微熱の時代を夢見て。
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 当ブログで恵比寿マスカッツを布教し続けているぼくでありますが、実際にライブ等の現場に出向いたのはDVD発売イベント一回のみでありまして、あまり生で観ることに興味がなかったのですけれども、池袋のサンシャインシティに来たるとあって、ここはもろに生活圏の範囲内でありますので、これはさすがに行かなあかんなというわけで馳せ参じたのであります。今日は「karasmoker、マスカッツのミニライブに行くの巻き」として、普段と趣向を変えてのライブレポート的なものにするのでございます。

 会場は池袋サンシャインシティ内の地下、噴水広場でございまして、優先観覧スペースに入るため朝の十時からのチケット取りに出向き、夕方に再び現地に赴いたのであります。なにしろ家から徒歩五分なので楽ちんなのであります。

 噴水広場は上階まで吹き抜けになっておりまして、買い物客がふらっと観るなどということもこれ可能で、言ってみれば無料なのですけれども、優先スペース+握手会に参加するにはCDを三枚お買い上げ頂くという話なのであります。その手の商法にはいくぶん否定的な思想を持つ者でありますが、CDは三パターンありますし、優先スペース、握手会、ポスターのための料金と考えればまあ道理も通るのでございます。

 普通のライブ会場と違って、なにしろ開放的商用空間の最中にあるものでございますから、どうにもくすぐったい感じもあるのでございました。ぼくが参じた優先スペースは「濃い衆」に溢れており、上階にいる「何かやっているらしいのでまあ観てやろうか」というくらいの人たちから見下ろされるのであります。言ってみればファンも観られている構図なのであります。

 優先スペースに入れたのは80番目で、前方四列目くらいの位置でありました。噴水広場自体が広くないので、大きなコンサート会場などよりもはるかに至近の距離で観ることができたのであります。

 登場メンバーには欠けもございましたが今回主役の吉沢明歩様をはじめといたしまして、半数以上のメンバーが参加とあり、豪華な布陣だったのでございます。惜しむらくは蒼井そら様や希崎ジェシカ様、そしてそして桜木凛様がいらっしゃらぬということでありますが、それでもCD販促イベントの千秋楽とありまして、出てほしい方々のほとんどがいらっしゃったというのは誠にもっての慶事なのでございます。

 メンバー一人一人からのコメントがあって後、「親不孝ベイベー」「ハニーとラップ」「ロッポンポン☆ファンタジー」「逆走 ♡ アイドル」「スプリングホリデー」の五曲が披露されたのであります。

 ぼくはこうしたイベントに不慣れでありまして、何もかもが新鮮に映り、怒濤のごとく時間が過ぎたのでございます。すぐ前にいた人は熱心なファンでございまして、曲の合いの手、振り付け、声援などが堂に入ったものであり、一方ぼくはそれになんとかついていくというので精一杯。マスカッツもさりながら熱心な応援の方々に圧倒されたというものでございます。

 ここに及んでぼくは自分の心中に小さな化学変化を感知したのでありました。
 始まる前、周囲の顔見知りのファン同士があれこれ喋っているのを見るにつけ、「どうも自分とは違う種類の方々だ」と距離を取って眺めていたのですけれども、優先スペースでそうした濃い衆の方々といると、上階ですかした感じで眺めている連中よりも、ずっと親近感が湧いたのでありました。

 たとえばかけ声ひとつ取ってみましても、拍手を取ってみましても、上階の物見遊山の人々は反応乏しく(正面は除く)、むしろ優先スペースの熱狂者たちを嗤っている風にも思えたのですが、ぼくの前方の方などはそんな連中など構いもせずにマスカッツに情熱を傾けていたのであり、「おお、ことによっては上方でゆったり観ようかなどと考えてもおったけれど、この熱狂スペースでよかったのであるなあ」と思えたのであります。

 その後に行われた握手会でありますが、いやはやあまりの眩しさゆえに、「正視に耐えぬ」のでありました。我ら人類が太陽を直視できぬのと同じように、ぼくはマスカッツの方々のまばゆさに打たれ、一瞬顔を見た後、ついつい俯いてしまうのでありました。

 何を着ていけばいいのか迷ったぼくは、「彼女たちに謁見申し上げるにあたり、平服では非礼であろう。このうえはスーツで参らん」と思い至りまして、スーツにニット帽という我ながら奇妙な格好で出向いたのでした。なぜニット帽かといえば、これはぼくなりに背後の観客に気を遣ったのであります。ぼくの逆立った髪が背後の方の観覧を阻害することがあってはならぬ、という理由なのであります。しかし結果として逆立つ髪が帽子を押し、余計膨らんでいたというのが後ほどにわかりまして、反省するところであります。
 握手会の際、スーツ姿に反応してくれた篠原冴美様と、「ありがとうございました」の後に一言「お気をつけて」と添えてくれた麻美ゆま様には一層の情愛を向けるものと決めたのでございました。麻美ゆま様の優しさはやはりただならぬものであると感じ入ったのでありました。

 先ほど、「そのまばゆさ故に、至近での正視はこれ難し」と申しましたが、こうしたメンタリティは古来、日本人が天皇に向けて感じたものと似ているのであります。むろん、天皇陛下とマスカッツを同一線上で物語るなどは不敬でございまして、そうした意味合いではないのですが、まあこれは言葉の綾、もののたとえでございます。

 しかしここでぼくは、「スーツで参る」というのは作法のひとつとしてありなのではないか、と思うのでありました。そんなことを考えていたのはぼくだけのようでして、他の方は皆平服でありましたが、これはどうにもひとつ、敬意が足りぬのではないでしょうか。なんというか、「謁見申し上げる」という意識があってもよいのでございます。そしてかような、ファン以外の人々も観覧するなどという局面においては、ファンの皆々がスーツで参じることによって、「おおう、その辺の小娘アイドルのオタクとはぜんぜん違うな、マスカッツのファン層は」とびびらせることもこれ可能であり、そうしたことがひいてはマスカッツの社会的ステータスをより向上させる運びになるのではないかとさえ思うのであります。

 などと言いつつ、これは半分以上しゃれですので、マジで反論するなどの無粋な真似はなさらないようお願い申し上げます。

 ここまでの文面で、どうもこいつはアイドルを愛でるという感覚を放棄しているのではないか、変なほうに行っちゃってるんじゃねえか、とお思いの方もおられましょうが、それはまさにマスカッツが他のアイドル風情とは違うということを意味するのであります。
 
 イベント冒頭、リーダーの希志あいの様がおっしゃっておられましたように、マスカッツは長年の音楽活動においても、歌番組にもほとんど呼ばれず、出たとしても深夜のみで、ゴールデンにも一切出られないような状況なのです。これは言わずもがな、彼女たちの主要メンバーがAV女優であるということでテレビ局が軒並みびびっているわけでございます。また、世間の目においても「AV女優」は日陰の存在と思われている節はいまだ強く、なんならアイドルや女優などよりも格が下であるなどという観念も根強いのであります。

 これは甚だしく遺憾であります。世の男子諸兄はその多くがAV女優のお世話になっているではないですか。彼女たちに快楽を与えてもらっているではないですか。

 ならばリスペクトをしないほうがおかしいのであります。ぼくはそうした不当な観念、不当な建前に強い違和感を覚えるのであり、マスカッツはそれに抗する最高の組織体なのであります。かつてキング牧師は黒人と白人が同じ食卓につくことを夢見ましたが、AV女優と一般の女優が同じ映画やドラマで共演する、ゴールデンの歌番組を彩ることは、マスカッツの向こうにある夢なのでございます。そうしたカオティックなメディア状況が現出したとき、ペドフィリアの欲望と処女幻想にまみれた蒙昧なアイドル時代は終わりを告げましょう。価値観は崩壊し、ぐちゃぐちゃになり、「成熟の時代」などと言って老境にさしかからんとする日本は再び「微熱の時代」を迎えることになりましょう。テレビは再び、あの輝かしき20世紀の活況を取り戻すことでありましょう。

 あえて申し上げるならば、秋元グループにも、ピンクの三つ葉にも、「時代を逆撫でる」ことなどできやしないのであります。それが唯一可能なのは、恵比寿マスカッツなのであります。賢明なる方々はもうお目覚めの頃合いでございましょう。これ以上の多言は蛇足であります。

 楽しみはしましたが、今後もぼくはあまり現場に出向くことはないでしょう。それは今日の熱狂的な方々にお任せすればそれでよいなあと思い、ぼくのすべきことではないという思いを強くしたのであります。ぼくが予約して取れるであろう席は、蒙の啓かれるべき新たな方々にお譲りいたしましょう。今後も折に触れて、もっぱらこのブログなどにおいて、密かなエヴァンジェリストの役を担っていこうと思った、そんなイベントでございました。


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この手の映画には哀しさがほしいのです。
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原題『Out of Rosenheim』
 1980年代終わりの日本(おそらくは東京)でミニシアターブームを引き起こしたと言われている作品です。前から名前だけは知っていたのですが、どんなもんかいのうと思って観てみました。

 タイトルにあるバグダッドカフェとは映画に登場するモーテルの名前ですが、舞台はアメリカの砂漠地帯で、観るところイラクとは何の関係もありません。何か深い意味があるのかもしれませんが、これはむしろ日本の街角にもあるような、「喫茶 パリ」とか「スナック モンテカルロ」とか「ホテル イスタンブール」とかそんな感じの店名だと捉えたほうが、むしろ風合いを感じられるようにも思います。

大まかな印象から言うと、これはもう風合いをどれだけ感じたかということに尽きるんじゃないですかね。ぼくは実はそれほどぴんとは来なくて、方々のレビウを散見したのですけれど、どれもこれも映画の印象を褒めているようなものばかりです。1980年代終わりの東京では、なんかこれを褒めたほうがもてるんじゃないか、少なくとも『ロボコップ』とかを愛でるよりはるかにもてるに違いない、と思った男が続出したことでしょう。かく言うぼくだって、たとえばその時代に大学生だったりして、小粋なガールを連れて映画を観に行ったとなれば、無理矢理にでも褒めまくってハイセンスを気取ったに違いないのです。
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ストーリーはというと、ドイツからアメリカに来ての道中、太ったおばさんが夫と仲違いし、一人バグダットカフェに泊まるところから始まっていきます。このモーテルを仕切っているのはいつでもぷんすか怒っている黒人の面長おばさんで、急に訪れたドイツおばさんを怪しんだりもするのですが、いつしか打ち解けて家族ともどもハッピッピー、という映画です。
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 大した出来事が起こらず、日常の変化を淡々と追っていくような映画、でいうと、ぼくはここで幾度も述べているとおり、アキ・カウリスマキが好きなんです。風合いということでいえば彼の描き出す世界がなぜだか妙にしっくりと来るのでして、それをちょいと思い出したりもしました。で、それと引き比べるのは違うのだろうと思いつつ、どうしてアキ・カウリスマキがぴんと来てこの映画はそんなにぴんと来ないのかなというと、これはわかりました。うん。
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 あのー、うん、この映画は哀しくないんです。
 ぼくが惹かれなかったのはそこですね。哀しい感じがどうも足りない。
 別にこの映画が悪いんじゃなくて、というか一部で絶大な支持を得てすらいるわけで、この映画はこれでいいのだと思うのですが、ぼくにはもっと哀しみがほしいなと思ったんです。
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 わりと事がとんとん運んでいくんです。最初はぎすぎすしていたモーテルの中、そして素性知れずで怪しまれていたドイツ人女性、そういう初期設定があるのに、彼女がとんとん受け入れられていって、最終的にはモーテルで手品ショーを開いて大盛況、老人男性とも恋が芽生えて、結婚して永住権も獲得できちゃうのかな、という展開。寂しい風景があるにもかかわらず、哀しみが足りない。
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 これはそういう映画じゃないんだ、哀しみなんか要らないんだ、と仰る方はそれでよいのですけれど、別の言い方をすれば、背景がないんです。主人公のドイツ人女性にしても、彼女がどんな人間でどういう生を歩んできたのかが見えないのです。
 冒頭、アップテンポなカットで刻んで、彼女が夫と別れる場面を描くのですが、なんであんな描き方なのか、あの手法がどういう効果を生み出すのかがぼくにはよくわからなかったんです。
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 いやそりゃ確かに、激しい口論と喧嘩があって、けばけばしいメイクとぴちぴちの服装をまとってという部分で彼女のある種の荒みが描かれ、それをあの場所で癒されていくような展開というのもわかるんですけど、そこで気にかかってしまうのが主題歌の『Calling You』です。なんかちょっと幻想的な感じなんです。あの主題歌はすばらしいですね、というレビウがちらほら見受けられたのですが、ぼくにはこれまたわからなかったです。まあ、それがわからないというのは、つまりぼくがこの映画の魅力、よい見方を決定的にお見それしているということなのかなと思いますが、あの仰々しい、神々しい感じの曲と僻地における彼らの日常がどうシンクロしているのか。ぼくにはわからないのでした。
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 などと言いつつも、確かにずうっと観ていられる映画ではあるんです。風邪気味でぼうっとしていたのもあるかもしれませんが、なんだかずっと観ていられました。その点で言うと、この映画の風合いが自分にはびびびっと来たぞ、という人の気持ちもわからなくはありません。
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 ぼくはこうした映画に対して、「哀しみのおもり」を求めてしまう。もちろん、寂しげにピアノを弾き続ける少年や、彼がつくってしまったという赤子の泣き声などは哀しみを担うものであるけれど、そこはそんなに膨らむこともなく、マジックショーシーンは多幸感に充ち満ちていたりして、哀しくない。そんな感じでした。

自分の感じ方を確かめる意味でも、観てみるとよいのではないでしょうか。
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戦争の悲痛さや愚かしさよりも、虚しさを感じました。
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原題『Cross of Iron』
 町山さんがオールタイムベストワンにしていて、サム・ペキンパー監督で、ずっと前から観ようと思っていた映画なのですが、新しく発売されたDVDの字幕がひどいという評判が定着しているようで、敬遠しておりました。ツタヤで発見したので借りました。

 字幕は確かに不自然というか、最適な訳とはかけ離れているという印象でありました。「誰々が、誰々が」みたいな主語の連続が随所で出てきたり、自動翻訳みたいな箇所があったりなどして困ってしまい、英語の聞き取りも不十分な身の上とありまして、細かい部分はたぶんよくわかっていないのだろうなあと思います。
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 また、観る前に歴史についてもう少し覚えておくべきだったなあという箇所もあり、観終えてから方々の解説サイトを回り、なんとか意味がわかったぞみたいなところもあるため、今日はいつも以上に底の浅いことしか書けそうにありません。とても細かく批評しているサイトなどもいくつもあるようなので、そちらに行くべきであります。なんとなく知りたい人だけ読めばよいのです。

 第二次世界大戦の、ドイツとソ連の戦いの一幕を描いた作品です。しかし、戦時下のドイツと言ってもこの映画では、ナチスの影はかなり薄いというか、ナチスに反目するドイツ軍人が主人公なのです。主演はジェームズ・コバーンです。

邦題からはわかりませんが、原題は『Cross of Iron』といって、鉄十字勲章を指します。これはプロイセン王国時代から続くドイツ軍の勲章だそうで、ナチスの鉤十字などよりずっと由緒あるものなのです。この原題からして、非ナチスの映画、ドイツ軍人が全員ナチスの手先だったわけじゃないんだぞというのが示されています。

 サム・ペキンパーの映画はこれまで8作くらいは観ているのですが、大体において特有の「もったり感」があります。他の映画にはない、「もーん」とした感じがあるのです。なんというか汗臭く土臭く、砂まみれで乾いたような印象を与えるのです。この映画もまさにそうで、独ソ戦の様子が美化ゼロの風合いで描かれています。
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両軍の戦闘シーンは『ワイルドバンチ』でも観られた高速カットで描かれ、くらくらさせられます。何が何だかわからなくなってくる、というのがそのまま当てはまります。特に本作の場合、両軍の見た目をわかりやすく分けたりなんてことはないし、どちらも土と泥で汚れているような状態ですから、わわわわわと圧倒させられるのですね。これは戦争シーンの描写としてとても正しいと思います。何が何だかわからないままに敵がやってきて味方がやられて敵を殺してまた味方がやられてという極限的な状況は、むしろ「何が何だかわからない」からこそ写実的に描かれていると思うのです。観客に臨場感を与える演出として大変効果的であるなあと感服いたします。
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 主人公のコバーンと対比的に描かれるのはマクシミリアン・シェル演ずる上官で、彼は勇敢なコバーンとは対照的に、自分の勲功にこだわりながらも決して力強くない存在として出てきます。コバーンと彼がCross of Ironそのものについて語る場面は印象的で、コバーンは勲章など要らないと言い、一方でシェルは十字勲章を尊んでやまぬのです。
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シェルは貴族出身の軍人として出てくるのですが、この辺もこの映画が非ナチス的な軍人たちの物語として生きてくるところですね。そもそもナチスは労働者たちに支持されて台頭してきたのであって、かつての帝政のもとで重んじられていた貴族としては、あまり気分がよろしくない。伝統あるドイツ国防軍もナチスの下に位置づけられてしまい、それでもなお、貴族として、軍人として勲章がほしい。この、階級や所属と一体化してしまった自己像というのは、決して遠い国の昔のものではないと思うのです。
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 コバーンはそれに真っ向から相対する。彼は彼でナチスを嫌っていて、だからいっそう立ち位置が微妙です。彼が戦う相手はソ連で、自分はドイツの側に属しているのだけれども、かといってナチスのために生きることなどできず、軍のために生きることもできず、勲章で自分を誇るような生き方もできない。妻に「あなたは戦争が好きなんだわ」と言われても何も言わず、怪我が完治せぬままに戦場に出向く。彼は彼で何をどうして生きればよいのかわからずにいるように思えるのです。疲れ切ったようなあの表情からも。
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 とかく戦争には愛国だなんだと大義がつきものですが、この映画はそんなものを唾棄しているように見受けます。勲功は馬鹿らしいし、国を仕切っているやつらはもっと馬鹿らしい。戦い抜いてはみたものの、味方と思っていた連中が自分に銃を向けてくる。映画公開はベトナム戦争が終わった後のことで、ペキンパー流の反戦の表現が絶品なのです。サイトを巡ると、この映画は反ナチスの映画だ、と書いているものがあったのですが、違うでしょう。ペキンパーがこの時代にわざわざ反ナチスを撮る必要はないし、だからこそこの映画ではむしろナチス色はとても薄められているのです。ナチスというわかりやすい悪役をあえて脇に置いたことが、この映画をより強いものにしているのです。

だからラストに、ドイツの劇作家、詩人のブレヒトの警句が置かれるのです。

Don't rejoice in his defeat, you men
 For Though the world stood up and stopped the bastard,
 The bitch that bore him is in heat again

"the bastard"とはヒトラーのことでしょうが、この警句の要点は、「ヒトラーは死んだが、彼を生み出したものはまた首をもたげているぞ」ということで、なるほどまさしく米ソは戦いを始めるわけです。そして「彼を生み出したもの」は、今もなお生きているわけです(蛇足ですが、それは特定の国家や団体ではあり得ません)。
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戦争の悲痛さとか愚かさとかそういうものよりも、強い「虚しさ」を感じさせる映画でございました。
反戦映画の金字塔としては、語弊を承知であえて言うなら、『まぼろしの市街戦』が愚かしさを、『ジョニーは戦場へ行った』が悲痛さを、そしてこの『戦争のはらわた』が虚しさを顕現しているように思います。
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饒舌な劇ですが、語ってほしい部分にはいかんせん寡黙で。
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パトリック・ウィルソン演ずる男がエレン・ペイジ演ずる少女と出会い系サイトで知り合い、あれなことをしてやろうと思ったら逆にどえらい目に遭わされるという、そんなお話です。日本のオヤジ狩りにヒントを得たそうで、パッケージからも明らかなとおりに「赤ずきん」が元ネタでしょう。

 本作は一言で言うに、エレン・ペイジを観る映画なのかなと思いますね。短髪で生娘っぽい外見の彼女がその実サイコパス的な言動に走るその様が本作の見所でして、後に彼女が『スーパー!』に起用されたのもむべなるかなと思います。
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 なぜ彼女がパトリック・ウィルソンをひどい目に遭わせるか、その本音の本音の部分はどうも語られずじまいのようなのですが、要するに彼が出会い系で若い少女を捕まえるようなロリコンであり、過去にもそんなことをしているのであり、であるならば制裁をくらわせてしかるべきであるからやってしまえと、まあそんな感じなのです。
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 ほぼ全編二人の会話劇です。二人のスリリングな駆け引きがこの映画の肝なのです。饒舌な劇でありまして、エレン・ペイジに虐められたいという諸兄にはもはやこれ以上の映画はないのであります。一方で、彼がロリコンであるという部分は台詞でちろちろ語られるのがもっぱらであり、こいつがどんな人間かもうひとつよくわからないなあというのもあって、そこまで入り込めはしませんでした。
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 二人が男の家で織りなす会話劇、なおかつ男は身体の自由を奪われて大変な状況、であるにもかかわらず、どうにも二人の本音が見えてこない印象がありました。そこがねえ、うん、この映画のひとつ弱いところではあります。
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 ロリコン野郎をぶちのめせ映画であるのだとして、こいつのロリコンぶりがあまり見えてこないんです。そこが弱いのです。いや、別に、そういう写真だの映像だのを出してこいというんではないんです。むしろ必要だったのは、彼が己のそういう無様な一面、口にするのも憚られるような欲望をぶちまけるシーンがなかったことです。
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 なぜこの映画はそこをかわすのか、あるいは用いないのか。それがないからどうにも芯が弱くなる。男は少女に睾丸除去を迫られて、「なんでもするから助けてくれ!」と懇願する。いわば極限状態です。にもかかわらず、こいつの醜い面が最後まで出てこない。
 
 なんかね、一人、失踪中の少女がいるらしいんです。で、この男がやったんじゃないかと言って少女は攻撃を加えるわけです。その辺は真相が藪の中というか、最後まで男は否認するんです。そういうやりとりがあるのは構わない。だったらなぜそのくだりで、この男の他の罪、ロリコン的趣味の告白をさせない? それをさせたほうが像がくっきりとしてくるのに。
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 いや、それをすると男が悪者っぽくなり、少女が正義の執行者のように見えて、映画のバランスが崩れるのだ、というかもしれない。でも、そうやって本音を交わし続けているから、この二人の劇の熱が高まっていかないんです。なんかよくわからない二人がずーっと戦っている感じになります。

 この映画では男の睾丸除去というのがひとつの山場になります。そこら辺の直接的な描写はふせられています。それは全く構わないというか、この映画ではグロ描写は別に必要ない。それでいい。しかし、その分だけ二人の会話から生まれる熱にもっと傾注しなくちゃいけないし、そのためには二人の正体なり本音なりにもっと迫らなくちゃいけない。顔のアップが多いのに、二人の深い部分が見えない。せめて、男のほうはそれをすべきだったと思うんです。エレン・ペイジの謎さはキープしてもいいけれど、男のほうはもっと明かしてほしいわけです。

 二人の駆け引き、どっちが攻めるか守るかの揺れというのは確かによくできていて、その部分のサスペンス感はあります。そこはいいのです。そこがいいのでこの映画はそれでよし、ということもできる。一方で、もったいなさも感じます。
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あるいはこれは観る者の年齢、性別等々によって、ずいぶんと見方が異なる映画なのだろうなあとも思います。たとえばこのエレン・ペイジと同世代の少女が観たら、パトリック・ウィルソンは単に悪い他者でしょうから、ある種の痛快さを得て終わるかもしれません。反面、ロリコン男には胸くその悪い結末でありましょう。十代のアイドルを信奉している人たちに見せるとどよーんとするかもしれません。どちらでもない人間からすると、もっと踏み込んでくれればいいのに、と感じるのであります。
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 ちょっと、「観客のご想像に任せるよ」の部分が多すぎるかなというのが大きいです。こっちは想像したいんだけど、それにしたってもうちょい鮮明にするところがないと想像できないよ、と言いたくなるんですね。

 この映画が自分にはよくわかったぞ、この映画は深い部分でこういうことを言うているのだぞ、というのがあったら教えてほしい一本でございました。
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ものの良し悪しって何なのでしょうかね。
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 好事家の間で話題を生んだドキュメンタリー作品です。なかなか考えを揺らせる作品でありまして、よい映画でございました。

 バンクシーというのは正体不明のグラフィティアーティストでありまして、街角の壁にいろんなアートを描いている人です。政治的メッセージ性のある作品なども描いていて、世界的な注目を集めているようです。

 映画はバンクシー監督名義になっているのですが、少しややこしいのは、映画自体の始まりが彼ではない、ということです。最初はティエリーというカメラ好きのおっさんのハンディカムから始まって、彼がいろんなグラフィティアーティストの活動を追いかけるのです。バンクシー自身が出てくるのはずいぶんと後で、最初のほうはぜんぜん絡んでいないんです。このティエリーというおっさんの話でもある、というかそちらの話になっています。ティエリーというおっさんがバンクシーと接触したことで、バンクシー監督による作品が生まれた、そんな珍しい構造なんです。
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 本作を観て誰もが感ずることは、アートって何やねん、という問いでしょう。全編がこれをめぐるお話と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 
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 グラフィティアーティストといって、まあ街角に勝手に描くわけです。違法行為だから見つからないように夜な夜なささっと描いて逃げたりするんですね。日本の街角でも変な落書きみたいなのが方々にあったりします。
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 それ自体がどうやねん、というのもありますね。知らない人の建物に勝手に描きまくって、それがアートなのだ、どうだ、と言われても、ぼくはそれを消す仕事をしている人のことを考えてしまったりもします。消すの大変だろうなあ、とかね。自分で描いて、自分で消していたらまだいいんですけど、言っちゃえば描きっぱなしですからね。穏やかな町並みの中に、手前勝手に表現活動されてもうっとうしいだけやで、みたいなのを感じる部分もあります。
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 うん、それはあるかなー。いや、バンクシーみたいにね、政治的な意見の表明としてやっている分には、意味があるというか、わかるんです。言論よりもわかりやすく人々に伝わるというのは間違いなくあるし。ただ、それを芸術表現だみたいにしているのを観ると、なんか違うんちゃうかな、という気もしてしまう。

 そもそもの話、ぼくはアート感度が大変低い人間であります。もし人にアートの話をされてもきついもんがあります。ただ、この映画はアートの中身うんぬんよりも、その外側。受け取る側に突きつけてくるものがあるので、とても刺激的です。芸大や美大の人とか、アート関連で飯を食おうという人は観ておくべき作品だと思います。

 バンクシーを追いかけていたおっさん、ティエリーですが、バンクシーから自分でアートをつくりなさいと言われます。これは別に彼に才能があると思ったからではなく、ティエリーが自分でつくった記録映画が、ぜんぜん駄目だったからなのです。バンクシーは、「自分の作品はすぐになくなってしまうし、映像として記録に残るのもよかろう。ティエリー、ちょうどいいからおまえの映像を編集して映画にしてよ」と言ったのですが、これがまるきりどうしようもないので、とりあえず彼にアート制作を勧めたようなものなのです。
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 ここからが面白くて、ティエリーは自分でいろいろ始めだして、大きな個展を開くぞ、という話になるんですけど、そのアートの中身はといえばどうにも無個性というか、自分の内側から生み出したものじゃねえじゃん、っていうかぱくったりとかしまくってんじゃん、みたいなものになっているのです。
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 ただ、これまた面白いのは、彼の個展は結構評価されるんです。勧めた責任上、バンクシーも名前を貸したりしており、彼の名前があるならということで人が集まって、作品が高値で買われるようになるのです。

 さあ、ここがこの映画の大変興味深いところですね。じゃあ、アートってのは何なのだね、という話です。本物のアートとか、偽物のアートとか、そんな言い方がそもそも何を指し示すものなのか。それがわからなくなるのです。
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 いや、アートに限りません。映画もそうだし、小説も、演劇も、音楽も、テレビ番組も、なんでもそうです。何をもってぼくたちは良し悪しの判断をしているのか。
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 いちばんわかりやすいのは数字ですね。数字が出るということはそれだけ多くの人に評価されているということでもあるし、だとするならそれはよい作品なんじゃないかと言える。でも、数字だけで表せるほど単純なものであるはずもない。
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 映画ブログですから映画産業でいうとわかりやすいでしょうね。テレビ局制作の映画が興収の上位を占めると。でも、多くの映画好きからすればそんなものは観るに値しないといわれる。でも、事実として多くの観客はそれを観て面白いと感じている。だったら、良し悪しって何なんだろうね、ということです。

 そのお金によって救われる人が出てきたらもっと事態は複雑です。劇中、アーティストとしてどうやねん、と思われるところの多いティエリーですが、事実彼は大金を手にしている。そのお金を、たとえばですよ、慈善事業に寄付していたりなんてことがあるとするなら、本物のアートうんぬんと言いつつも密かに闇夜街角でごちょごちょやっているだけの人よりも、ずっといいのかもしれない。この映画ではそういう描写はまったくないんですけど、そこを一カ所でもぽんと放り込んだら、観客の認識はもっと揺るがされることになったでしょう。

 アートは内発的に生みだされたものがすばらしいとか、独自のスタイルを確立してこそのものだとか、そういう言説というのは確かにそれらしく聞こえはする。ただ、どうなんでしょうね。受け取る側が満足しているならそれでいいじゃん、っていうか受け取る側に支持されるものがいいもんなんじゃないの? だって、おまえ一人がいくら自分の内面だの経験だのをごちょごちょ言ったってそれは結局おまえ自身のものに過ぎないしさ、そんなのよりみんなが楽しめるものを生み出していたらそれでいいんじゃねえの? という話にもなってくるんです。
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 この辺のことはぼく自身がずうっとずうっと考えていることでもある。
 ぼくは昔から人を笑わせるのが好きだったんです。一時は本気でお笑い芸人になろうと思ったこともあるし、今だってテレビの芸人を観ているともどかしさを感じたりする。でも、ここが微妙なところで、好きではあるけれど、得意かどうかというとぜんぜん話が違うんです。ぼくが面白いと思ったことが、人に伝わらなかったりするんです。逆に、ぼく自身はぜんぜん面白いと感じてなくて、まあこれくらいで人は笑うのかな、程度のことを言うと、むしろそちらがウケたりする。そのたびにぼくは感じる。周りが笑っているからそれはそれでいいんだけど、ぼくはぜんぜん面白くないんだよなと。そうなったとき、ぼくはどうしようもない気持ちになる。
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 そうなったら、ウケているほうが正しい、と思わざるを得ないんですね、その場では。でも、それはぜんぜんぼく自身の中からのものじゃなくて、むしろどこかの流行のギャグだのちょっと変な言い方だのをアレンジしたものに過ぎない。じゃあそれは、この映画で言うところの、本当のアートではないから駄目なのか。そうじゃないだろうと思うんです。
現に、それが受け入れられているから。だから辛いというのもある。

 話はまとまりようもありませんが、この映画はいろいろ問いかけてきます。じゃあオリジナリティって何やねん、とかね。最初のほうに出てくるスペースインベーダーのアーティストにしたって、インベーダーのあれってもともと日本のタイトーがつくったんちゃうんか、そしたらティエリーと何が違うねんとかね。バンクシーがグアンタナモの囚人の人形を置くくだりでも、あれがアートなのかえというのもあるし。

 話はアートに限ることなく、かなり広範囲にわたる話題を引き出す映画だと思います。 観た後に、内容から考えさせられることをいろいろと語らせたくさせます。
芸術関係の人とか、これから知人の個展やなんかに出かけようという人は、ぜひ観ておくとよいと思いますね。
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監督のアホさが炸裂している作品は観ていて気持ちがよいのです。
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 SFというジャンルには興味がありますけれど、ぼくが関心を抱くのは現代の延長上に想像できるような未来もの、その中に出てくるガジェットの数々などのほうで、宇宙戦争的なものにはあまり惹かれず、その方面はガンダムなどアニメのほうがむしろ好きなのです。みんな大好き『スターウォーズ』にもちっとも興味が無く、エピソード4と1しか観ていないような人間であります。

 本作は原作がハインラインの『宇宙の戦士』ということなのですが、刊行されたのが1959年。世界大戦が終わった後の冷戦期、宇宙進出競争が東西陣営で行われていた時代です。 宇宙ものSFが華やいだのはやはりこの米ソ対立、宇宙競争のたまもので、今よりも宇宙に対する希望が大きかった時代と言えましょう。その流れは70年代、80年代まで続き、それが『スターウォーズ』、『ガンダム』の製作、ヒットの要因と言えましょう。両者ともが戦争というモチーフを中核に据えているのも道理なのです。

 そういった時代から離れて97年、がっつりとした宇宙戦争もの映画です。戦争、とは言っても、相手は人間ではなく虫のエイリアン。まったく言語も通じない怪獣みたいな存在です。怪獣ものとして楽しめるところが多分にあり、アメリカSFと東宝映画が出会った、みたいな作品です。
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冷戦も終わってソ連崩壊、ロシアは宇宙開発どころか経済がやばい、という時代でもあるので、その辺の緊張感はなく、とにかくエイリアンをやっつけるぞ、というまっすぐな映画です。ヴァーホーベンの悪趣味を炸裂させるにはちょうどよい内容と言えましょう。
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 ウィキによると、本作はナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』のパロディであるとのことで、劇中の世界は統一政府によって支配されているらしく、ニュース映像も兵隊さん万歳みたいな内容で、軍の人たちの一部はナチスそっくりのユニフォームを着ています(ちなみに上画像の鷲の紋章(ロゴ)はナチス特有のものではまったくなく、鷲マークはドイツの伝統ある国章ですから、ナチスと同一視するのは誤りです)。
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でもそんなことはお構いなしじゃい、政治的な細かいことは要らんのじゃい、という感じで映画は進み、主人公が地球防衛軍みたいなところに属し、敵との戦いに繰り出していくのです。
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 ところで、近頃はアメコミものが人気だし、SF映画も勢いがあるのかなという風に思うのですが(新作追っかけにまったく興味がないのでわかりません)、最近の映画でこんな思い切りのよいシーンはあるのかいな、というくらい、ヴァーホーベンがやりたい放題やっている感があります。
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 なんというか、むき出しなんですね。兵士が死ぬシーンなんかでも、人体が無様に散るんです。これがまあ本当に無様で、滑稽ですらあるのです。どちらかというと、SFとか戦争とかいうより、スプラッターものに近いんですね。感傷とかそんなのはぜんぜんなくて、ヴァーホーベンが「やっちまえ!」と吠えている様が浮かびます。『ロボコップ』とか『トータルリコール』とかでもそうですけど、ヴァーホーベン監督はリアリティうんぬんよりも、「この画おもろいやないけ! どかーんとやったらええねん!」という勢いを感じる監督で、ジョン・カーペンターに似ているなあとも思います。CG加工とか特殊メイクとか照明とか次第によって、もっとリアリティある画にはできるけれど、そんなのはいいんだ、この画がいいんだ、というのを確かに持っている感じがして大変よいのです。
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 活劇的面白さは十分で、主人公が巨大な甲虫の背に乗るシーンなどはPS2『ワンダと巨像』のような快楽もあるのであり、敵の虫が大群をなして襲ってくる様はあほみたいでこれまた面白い。
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 正直なところ、この映画はもうそっち押しがんがんの映画です。そもそもあの星に歩兵隊で攻め入るところが戦略としてどうなのやというのがあります。核ミサイルとかをがんがん打ち込んだほうがいいんじゃないかと言いたくなりますが、そんなのは知らないんだ、白兵戦のほうが盛り上がるんだからそれでいいんだ、現に面白いだろう、という力押しが圧巻です。原作だともっと説明があるのでしょうけれど。
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 反面、戦争パート以外はヴァーホーベン監督はそんなに力を入れてないんかな、と感じるところもあります。軍に入隊した若者たちの日常みたいなパートとか、恋愛パートみたいなのがありますが、そこはもう別にそんなにあれです(何なのだ)。しかしそんな中でも攻撃型演出健在で、たとえば戦争訓練のシーンで上官が新兵を締めるくだりはやっぱり少しやりすぎたりするんです。
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 あと面白いのは、新兵たちがシャワーを浴びるシーンですね。男女が普通に同じ場所でシャワーを浴びている。これはまあ、未来の世界では性差とかそんなのはないのだ、的なことなのかもしれませんが、どちらかというと単純にパイオツサービスなんじゃないかという気もします。
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 思いついたままにだらだら書くいつものスタイルで続けますが、ラストはラストでちょっとイってる感じの終わり方ですね。普通この手の、戦争で味方ががんがん死んで、艱難辛苦乗り越えて敵をやっつける映画の場合、主人公はラストには疲労困憊、心身ぼろぼろで任務を成し遂げたりするものですが、この映画では敵の巨大な虫を捕獲したら、みんなで取り囲んで勝ちどきを上げるんです。やったぞー、さいこーみたいな。死んだ人をほとんど顧みることもないままに笑顔なのです。しかもナウシカのオウムに似ているボス虫の口が、明らかに女性器に似ているし。最終的にそこに棒をぶち込むし。
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 そんなこんなで、ほとんどアホ丸出しで爆走しているところが魅力的な作品であります。監督がやりたい放題やっている映画、という感じがする作品は(本当はもっとやりたかったのでしょうけれど)、観ていて面白いものです。
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タイトルが逆説的に照らし出す、世界の複雑さ。
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 多視点・時系列ばらしものといえば90年代のタランティーノが最も有名であろうと思いますし、近頃の日本映画では内田けんじ監督などが注目を集めているわけでありますが、この方式には確かにパズルが組み合わさるような快楽があるのでして、伏線の張り方なども多岐に富むため、ぼくはわりと好きな手法ではあるのですが、『21グラム』は一種独特の感覚を残す映画でありました。
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 ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロが軸を担い、それぞれの物語が展開していきます。時系列通りに言うと、デル・トロがナオミ・ワッツの家族をひき逃げしてしまい、彼女の夫が脳死状態になり、心臓病を患っていたショーン・ペンに心臓移植が行われ、三者の人生が交わっていく、というような話です。今述べたのはあくまでも骨子の部分のみで、それ以外の部分なども含め、時系列をばらした形で話が進みます。
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 かなり細かく裁断されているので、ぼうっとしているとよくわからなくなりそうな映画でもありますね。その点で、観る者に緊張を強いるつくりとも言えます。あまりひとつひとつのシーンをじっくり長く続けたりもしないんですよ。で、こちらはこちらで何か時間的な仕掛けがめぐらされているのでは、と思ったりもするので、身構えを崩せずに観ることになります。気楽に映画を楽しみたいな、という人にはぜんぜん薦めません。
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 時間軸をばらす手法を取り入れた意味について、宮台真司は以下のように述べています。
「時系列を寸断する意図はあまりにも自明である。他でもない『特別な困難さえ無ければ…』というリグレットを効果的にキャンセルするためだ。」(『<世界>はそもそもデタラメである』より) 

 これはどういうことか。反対に時系列を寸断しなかった場合を考えてみるとわかりやすいでしょう。もしも時系列通りに、わかりやすく話が進行していたらどうか。ひき逃げ事件とそれが引き起こす事件の連鎖を時間の通りに映せば、「あの出来事によって運命が狂った」「あの事件さえなければ平穏でいられた」という感覚がどうしても観ている側に生まれる。しかし、世の出来事はそう単純ではないよ、というわけです。
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 ぼくは常々、「人間万事塞翁が馬」という感覚を持っているので、この辺の感じがよくわかります。何がよきことで何が悪いことなのか、それはまったくわからない。そしてもうひとつ、時間は確かに因果関係を生み出し、ぼくたちはその中で生きてはいるけれど、その因果関係とてまた自分の意思や境遇ひとつによるものではなく、他者との連関の中に存在するということ。こういう感覚を内在させて観ていると、わかりにくい話ではまったくないのです。
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 えてして映画というのは、登場人物への共感によって話を理解することができるし、自分に引きつけて観ることができる。いちばんわかりやすいのは正義と悪の二元論的な話で、正義の主人公に肩入れして観ることによって、彼が悪を打倒していく様を観ることによって、観る者はカタルシスを得るし、世界観を安定できる。
 多くの映画は観客が主人公に感情移入することで、その物語を共有するという形式をとるわけです。
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ところがこの映画はそれをキャンセルする。細かい裁断によって、観客は十分な移入の機会さえも与えられないわけです。そして同時に、題材が題材であるだけに、他の時系列ばらしものの多くが持つようなパズル的快楽、それによるエンターテインメント的な愉快さとも距離が置かれている。世の中の複雑さを描き出すための優れた形式であるとぼくは思いました。
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タイトルの『21グラム』というのは、ウィキに依りますと、「20世紀初期のアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った、魂の重量を計測しようとした実験に由来する。」そうです。なんでも、人は死ぬ瞬間に体重が21グラムほど軽くなるのだそうで、それが魂の重みなのではないか、というようなことが言われたりしたようです。

 このタイトルは逆説的に映画を照らすように思います。21グラムという単語から率直に連想できることは何かといえば、「定量的で、軽量」ということです。静的で、数字で示すことができて、なおかつ実に小さなものに過ぎないですね、21グラム。

 しかしこの映画で起きることはそれとは真逆です。まるで計量不能だし、単純化できないし、些細なことではあり得ない。時系列をばらすことでより、そうした世界のありようが見えてくるわけです。 
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 具体的な中身、詳細に入れずにいてあれなのですけれど、なまじ立ち入ると大変なのです。なにしろいろいろと繋がっているわけで、易々と切り出せないところが大きいのです。

 ひとつだけわりと輪郭のはっきりしたところを言うなら、デル・トロのくだりです。彼はかつてはやさぐれきった男だったようなのですが、福音派に入信しており、地元の不良にも神の意思を説くような人間になっています。彼は清く生きようとしていたわけですね。ところがそんな彼がひき逃げを起こしてしまう。これは神という、いわば「世界を単純化するための装置」をも溶かしてしまうような設定です。彼はもしかしたら神を信じずに生きていれば、それはそれで幸せだったかもしれない。清く正しく生きて「いなければ」、あのひき逃げを起こさずにいられたかもしれない。清く正しく生きていなければ、あんな風に深い後悔の念に襲われずにいられたかもしれない。ただ、そんなことはすべて今となってはありえないイフに過ぎない。

 世界の複雑さを照らすために、神を信ずる男を入れたのは大変効果的であったなあと思います。そして彼は彼で別に、根っからの信仰者じゃないところもポイントですね。それ以前のまったく別の生を想像させる設定にしたのも、奥深いところでありましょう。

「人間万事塞翁が馬」、この感覚を常日頃持っていると、しっくり来る映画なのではないかと思います。そうでない人は、これまたまったく別の映画ですが、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』あたりと併せて観ると、世の捉え方が一回ぐちゃっとするような感覚を得られるのではないかと思います。この辺で。
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壮大ではあるけれど、設定や演出が追いついていないのです。
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『戦国自衛隊』が面白かったので、同じ大作角川映画ということで観てみました。キャストも千葉真一、夏八木勲、渡瀬恒彦など、あの映画の主役たちがこぞって出演しています。本作の主役は草刈正雄です。 
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 小松左京原作で、『日本沈没』などがそうであったように、これまた極端で壮大なスケールのお話です。世界的にウイルスが流行し、ほとんどの人類が死滅してしまうのです。残されたのは極寒地域、南極の人たちだけで、彼ら南極部隊の運命やいかに、ということなのです。
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 世界が破滅する話というのは、たとえば巨大隕石が衝突したり、大規模地殻変動が起こったりなどという設定で語られたりしますが、ウイルスが最もリアリティのある題材じゃないかと思います。本作では生物兵器が漏洩したことで感染が始まるんですが、これなどもその種のテロが危惧される昨今において、現実味のある話と言えるのではないでしょうか。テロやウイルス、感染とは違うけれど、放射能の問題とも通じている部分があります。
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 世界の破滅、というテーマは冷戦時代、核競争の時代においてやはりある程度にリアルなものであったのでしょう。本作でも米ソのミサイルが大きな脅威として位置づけられており、それがウイルスと相まって世界を終局へ追い込んでいってしまうのです。

本作はそうした点で、王道を行っている作品と言えます。病原体と戦争は、大量死を招く二大要因として歴史上不動の位置を占めているわけですから、誰が観てもわかりやすい内容なのです。

 映画としては当時高く評価されたのでしょうかね。今観ると、うーむ、これはいろいろと詰めなくちゃいけないところがあったんじゃなかろうか、ああ、さすがに資金の及ばぬところがあったのだな、というのが散見されて、入り込めぬところも多かったです。
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大変な感染状況だというのに、医者がマスクをしていないのはなぜなのでしょう、というのもあります。大統領も戒厳令下の自衛隊もしていない。その辺が緩いんです。必死で防備しまくっている。けれど防げない、という感じがしないのです。
 街の人たちや行政側があまりにもあまりにも無策なのもいただけません。なんでもいいと思うんです。たとえば、どれくらい効果があるのかもわからないままに消毒薬が街中に散布されている、とかね。街中が消毒薬で不気味な色になっている、みたいなね。そういう様子を描き出せば、より混乱が説得力を持てたはずなのです。南極ロケに多額がかかったそうですが、そこよりも他の部分にお金を費やすべきだったのではないかと思います。
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あと、これは予算制約上やむを得なかったのでしょうけれど、世界中の都市で人が大量死している、というのを、街の遠景と字幕で済ませる、というのはちょっとしょうもないです。あそこはもっとニュース映像っぽくしてかまびすしく見せたりとか(そういうシーンはありましたがあくまで序盤だけでした)、もしくはせっかくアメリカ大統領執務室を用意したんだから、そこが飛び交う情報と鳴り止まない電話でしっちゃかめっちゃかになっているとか、なんでもいいからもっと「どえらい感」が必要だった。そのうえで、何万人死亡なんて字幕を乗っけずに、ただ街の死んだ風景を映したほうが、混乱と寂寥の落差が出てきたはずです。うん、何万人死亡、みたいなのをあの字幕で表すよりもっと方法があったんじゃないかと思ってしまいます。
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 もちろんこれは三十年以上前の日本映画。ですので、その後洗練を経てきたハリウッド映画などを基準に物語るのはあれですけれど、やはり今観るとそういう穴がぼこぼこ見つかってくるわけなのですね。

 そうした演出の部分はおくとしても、地震のくだりがありえないタイミングの良さで、興ざめします。いちいち説明するのはおっくうなのですが、ある重要な場面で、もうご都合主義的としか言いようのないタイミングで地震が起きるのです。草刈正雄を一人にするためにいちばん手っ取り早いんですけど、もう少し脚本を詰めるなりなんなりは絶対必要だったでしょう。なんであんなことを。
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 日本や南極やアメリカやといろんな場面に話を向けて、海外ロケもふんだんにやって、世界規模の話だというところでまあ観られるのですけれど、基本的なところの穴が多すぎるのでちょっと辛いです。うん、重点が分散していたんですね。草刈正雄とオリビア・ハッセーの物語を作る段取りなら、最初の多岐川裕美のくだりはばっさり切って、日本の混乱は別の切り口で見せることができたし、渡瀬恒彦も結局よくわからないことになりました。原作があっての話でしょうけど、そこは思い切れなかったのでしょうか、うーむ。夏八木勲と千葉真一に至ってはせっかく出てきたのにほぼ何もせずにフェード・アウトです。
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 テーマの壮大さはすごいんです。戦争と病原体によるカタストロフ、というのはいい。でも、それを支えるだけの強度が物語自体になかった、設定も演出も随所ゆるゆるだった。だからかなりの竜頭蛇尾映画という風に見えてしまうんですね。今これを観る意義、というのは、ぼくにはあまり感じられなかったのでありました。もったいなさを強く感じる映画でございました。
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おなかいっぱいにしてやるぞ、という作り手の心意気に感動。
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「あぁ、それ観てなかったんだ」シリーズ。リメイクもされている有名作品ですが、観ておりませんでした。

 原作小説やリメイク版はまったく触っていないので、その辺との比較をしつつ話を進めるような真っ当な真似はできぬのですが、これは大変面白く観ました。映画を観ながら久々に、おおう、わあ、と声を上げる体験をしたのでした。

 活劇として大変よくできていると思いました。黒澤をはじめとする戦国活劇に敬意を払いつつ、自衛隊という存在を映画に落とし込む。日本で戦争映画といえばやはり太平洋戦争ものになりますし、そうでなくても自衛隊の敵は大怪獣だったりするわけで、そのどちらでもないこの見せ方はシュールさと相まって実に映画として面白かった。時代考証うんぬんは正確ではないところも多々あるようですけれどもね、うん、そこはこの映画ではつついてもあまり実りがないんじゃないですかね、うむうむ。
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 千葉真一率いる20余名の自衛隊の部隊が、戦車やヘリ、船もろとも戦国時代にタイムスリップしてしまいます。これは映画のかなり早い段階からそうなるのでして、現代での平和な日常みたいなもんとかは省かれます。ぼくはせっかちなので、このような早々とした展開は好きですね。『バトル・ロワイアル』が好きなのは、もう冒頭からまがまがしさばりばりで行くところ。変なアイドリングをだらだらせずに、さっさと戦国時代の武将の一団と接触します。武将は後の上杉謙信、長尾影虎で、夏八木勲が演じています。
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 見せたいものが非常にはっきりしているのがとてもいいです。とにかくサービス精神に溢れている。敵からの急襲を受けたり、仲間割れが起きたり、ある軍勢に荷担して敵をやっつけたり、やってほしいことを全部やってくれています。おなかいっぱいにして帰らせてやるぞ、という作り手の意気込みが感動的なのであります。
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 部隊の中で、渡瀬恒彦がリーダー千葉真一に反目しています。どうやら過去に何かあったらしく、原作では語られているのでしょうが、映画では台詞でちょいと説明があるくらいで回想などもありません。もしかすると原作ファンには不評かもしれなくて、「あの過去を描かないと二人の確執が引き立たない!」的なことがあるかもしれないけれど、原作を知らぬ立場で言うなら、ぜんぜん問題ないです。この映画は『バトル・ロワイアル』に似ています。あれもこれも、いきなり不条理な場所に放り込まれて命を狙われる羽目になっているのです。で、大事なのはその空間での活劇のほうで、過去のごちょごちょは要らないのです。変に背景を造型して現実味を持たせようとすると、土台非現実的なこの物語がゆらゆらしてしまいかねない。だったら火薬も血糊もなんでもござれで、ばしばしやってくれてよいのです。もちろん背景の意味合いとかを読み取りたくもあるけれど、そこに重点を置くと今度は映画の濃度が低下しかねないのです。
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 で、その渡瀬が千葉のもとから勝手に抜け出し、俺たちの好きにやるぜと言って、その時代の女性を誘拐してレイプするなど好き放題やり始めます。これは自衛隊の協力をほとんど仰げなかったのが吉と出ているように思います。もしもこの映画が自衛隊からたくさん協力してもらっていたら、あんな風に自衛隊員を悪く描くことはできなかったのではないですかね。そこの思い切りがよい。いいこちゃん映画になっていない。

 やっぱりですね、たくさんの人間が不条理で危険な状況に置かれたとなれば、闇の部分というか、負の側面というか、そういうのをきちっと描いてほしいわけですね。そんな品行方正にやれないだろう、ひどいことを始める奴も出てくるだろう、という部分があることで、人間がよく描かれるわけです。その点で渡瀬は素敵なヒールでした。そしてこの映画はドンパチ活劇と見えながら、最後には暗い部分をちゃんと描く。あっぱれです。
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 重火器や戦車を要する自衛隊と、戦国の軍隊との戦い。
 ここはとても白熱するものがあって、日本映画でも屈指なのではないかと思います。非常に贅沢に描かれていると思いました。で、攻めと引きのバランスもいいんです。自衛隊側が手榴弾や機関銃で一斉に掃射したかと思いきや、今度は数で圧倒的に勝る敵方に押されたり、そうかと思えば戦車で突き進んだりして、ところが敵は敵で燃えさかる炎を積んだ荷車をぶつけて必死に応戦。互いが全力でぶつかりあっている様子が真摯に描かれております。武田信玄の軍と戦うくだりは活劇的快楽が十二分です。
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 別の映画を引くなら、『ブラックホーク・ダウン』もちょっと連想したんですね。あれもすごい映画でしたが、あれと似ているところがあるんです。というのは、不条理な中で目的もわからずにただ戦い続けるほかない、というのがあるんです。千葉真一は夏八木勲と仲良くなって、互いの戦功を約束しあってうんぬんみたいなのがあるにはあるけど、他の連中は非現実的な状況におかれて、ただ仲間同士が手を取り合って、何が目的なんだかわからないままに目の前の敵を倒すことにのみ全力を尽くしている。
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 活劇的な魅力が大きいのでそちらに持って行かれるけれど、ふと思うわけです。何のために戦っているんだ? というね。一応の理屈はつけられるんですよ。自分たちが天下を取って歴史を改変したら、その歴史の異常によって再び時空間に異変が生じ、帰れるんじゃないか、みたいなね。でも、そんなの気休めの理屈っぽくしか響かない。だから何のための戦いなのか、よくわからない。
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 話はそれますが、『ブラックホーク・ダウン』なんかもその辺に感じ入りました。あれはソマリア内戦におけるPKOの介入を描いていますが、平和をもたらすために来たはずなのに、現地人は自分たちを見るや即座に殺しに来る。そんな中で目的がわからなくなる。はて、いったい何のために戦っているんだ? というね。お国のためとか家族を守るためとかそんな大義もない。ただ、戦わないと命を落とすから戦う。戦争の中で起こる意味の消失。その辺の不条理感も、映画に濃さをもたらしているように思います。
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 本筋とは関係ない、ちょっとした部分もぼくは好きでした。夜這いをするシーンとかね。ああいう、戦士としてではない、生身の男としての下卑た部分をちゃんと描いているのは信頼できる。それと、一切喋らない女性と隊員との恋ですね。あの辺はなんだか強引に持って行った感もあるんですけど、そんな中で女性に一切喋らせないのはよかった。あれね、喋らせるとあの展開の変さが気づかれちゃうんです。一切喋らせないことで、なんか最後まで雰囲気で持って行けちゃうんですね。あの辺は今の映画が見習ってよいところじゃないでしょうか。雰囲気でごまかしきった感があります。ごまかしきったので、いいです。
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 最後もいいですねえ。
 千葉真一がね、自衛隊のあり方に疑問を投げるようなシーンがあるんです。もとの時代に行ってもどうせ戦うことなんかないんだ、この時代だからこそ戦いに生きることができるんだ、みたいな。戦争に憑かれた男に成りはてるんです。でも、生き残った隊員が苦しそうに言うんです。「俺は嫌だっ。女房や子供がいるあの昭和の時代に戻りたいっ。あの平和な時代が大好きだっ」みたいなことを言うんです。これね、なんら修辞のない率直な思いとして、いいなと思うんです。「平和な時代が大好きだっ」っていうのが、なんか、すごく響いたんです。

 途中途中、現代の風景が挟まったりするんですが、それもくどくどしくなく、短く効果的に入っていました。現代の風景で、お祭りみたいなシーンで、戦国時代の戦いの様子を催しでやっていますみたいな場面があって、なんだかちょっと鳥肌が立つような、言いしれぬ気分になったりしたんです。劇中でも、敵の軍を見ながら隊員がぼそっと、「あの中に自分のご先祖がいたりするのかなあ」とか言ったりする。押しの演出一辺倒ではぜんぜんなく、ふっと引く瞬間を作り出す。なかなかの芸当であるなあと感じ入りました。

演出で引っかかったのは一点。音楽ですね。なぜだか妙に甘い音楽を流すんです。あれはあの時代としてはありだったんでしょうかね。今観ると、「なんでこの状況で英語の歌やねん」と言いたくなるところもあり、奇異な感じでした。まあ、それはそれでカルト映画的な要素になっているとも言えるのですけれども、

 とても見応えのある傑作でした。未見の方にはぜひにぜひにと申し上げましょう。
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叙情も感傷も、何の救いにもならない中で。
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映画というのは多くの場合、自分たちの価値観や生活を相対化して捉えさせるものでありますが、アフリカを舞台にしたものだとその感覚をいっそう強く抱くのであります。
 リベリア内戦を題材にした少年兵の話ですが、こういうのを見ると、ああ、日本とは本当に生ぬるく、そして幸福な国であるなあと感じます。また、少年兵という存在は紛争の起こる限りにおいて、おそらく絶えようのないものなのだろうなあとも思うのですね。

 複数国間での戦争であれば、もっぱら国の軍部によって統率された正規軍によって戦いが行われるものですが、内戦となるとそうはいかない。なにしろ政府軍対非正規軍、レジスタンスの争いになるので、普通の民間人が戦争を始めてしまう。その中で、子どもという存在も駆り出されてしまうわけですね。いや、というより、子どもや十代の若者たち自身が、進んでそこに身を投じていったりするわけです。日本のアニメその他では、十代の若者が戦いに身を投じるような作品が何かと人気になりますが、実際にそんなことをしたらこんなことになるぞ、というのがよくわかるお話です。
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 タイトルの『ジョニー・マッド・ドッグ』とは映画に登場する少年の呼び名で、彼らは仲間内でニックネームをつけて呼び合っています。「ノーグッドアドバイス」とか「バタフライ」とか「プッシーキャット」などと言い合っている。これなどはキャラ好きの日本人からするとどこか格好よく思えたりするし、ギャング的なものへの憧れを惹起するし、コードネームのような華々しさを帯びても聞こえますが、劇中、それとは違う背景がふっと語られますね。彼らはそもそも自分のしっかりとした名前を持っていなかったりする。いつしか集団の中に入り、自分を示すアイテムや何かを見つけ、それを名前にする。裏を返せば、彼らが名前を持てるのはただ、その集団の中でのみのことでもある。これは少年兵を考えるときに重要なことなんじゃないかと思います。あるいは家族から引き離され、強制的に加入させられる者もいる。そのとき、新たな人格を否応なく付与されてしまうわけです。
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彼ら少年兵は劇中、悪逆の限りを尽くします。冒頭からいきなり、田舎の村を政府軍のスパイ呼ばわりして虐殺し、強奪し、街に人影を見れば見境なく因縁をつけ、場合によっては殺す。なんてひどい奴らなんだ、と思うのは簡単だけれどそうではない。彼らにとっては、それこそが自分の存在を承認してくれる行いなんですね。日本の十代の若者でもある意味では似たようなところがあるのでしょう。不良的な集まりだったら、悪いことをするのが格好いいみたいになったり、それで根性があると見なされて尊敬されたりするわけです。その点ではまったく遠いものではない。
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 ただ、少年兵の場合が深刻なのは、彼らがそれ以外の承認手段を一切持っていないということです。なにしろ国はぐちゃぐちゃ、教育も麻痺し、道徳を得る機会など与えられていない。そして安穏としていたらいつ殺されるかわからない。だから被害者にならないためには加害者になるのが最善の方策。そう信じるしかない。そんな中で一人だけいい子ちゃんになることはできない。そんなことをしたら自分も殺されるかもしれない。そうやっているうちにいつしか、自分の行動に疑念を持たなくなる。

 輪を掛けて深刻なのは、彼らを利用する大人によって、彼らが承認されるという構造です。教育者のいない中で、「おまえは政府軍を殺せばよい」「政府軍を殺せば一人前」「そうすれば幸せになれる」と教わり、麻薬をもらって快楽を覚えてしまえば、もはや抜け出すのは至難でしょう。思考力も心的規制も弱い十代だからこその直情さも相まって、彼らは何のためらいもなく戦渦のうちに飛び込んでいくのです。

映画に登場する少年兵たちは、なんと実際の元少年兵なのだそうです。彼らは幸いにして渦の中から抜け出せたわけですが、現実問題として、そこから抜け出せないまま大人になっていく人も数多いのでしょう。そうなってくると、その人たちがまた次の世代の少年兵を生み出したり、内戦の火種を大きくしたりを繰り返していく。アフリカ映画が放つ、「アフリカという場所のどうしようもなさ」を思います。
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 この映画には日本や欧米の映画のような感傷がありません。ジョニーとは別の映画の軸として、一人の少女が出てきます。映画はこの両者を追っていく構成なのですが、この少女はいわば内戦の一方的な被害者で、住処を追われてしまうのです。
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 彼女には両足をなくした父親がいるのですが、彼がどうして両足をなくしたのかは語られない。そして彼女には母がいないようなのですが、それすらも顧みられることはない。まるで、そんなのはありふれたことであって、ひとつひとつの事情を物語るまでもないというかのように説明が省かれているのです。彼女には幼い弟がいて、彼を引き連れて逃げ出すのですが、彼とはぐれてしまいます。そして、このエピソードも結局は未回収になるのですが、少女が感傷に浸るような描写はない。
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「叙情など贅沢品に過ぎない」と言ったのはキム・ギドクですが、この映画はその言葉を地でいきます。叙情も感傷も、何の救いにもならない。ただ、状況に対処することで精一杯。彼らは自分の内面を語る言葉すら満足に持ってはいない。だからこそ、見ている側はひとつひとつの背景を想像することになります。
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 この映画にはまともな救いが何一つありませんし、カタルシスもないです。ですが、この映画はそのような結末を迎えるよりほかにないし、物語が終わったかのように見せるならばそれは欺瞞でしかないでしょう。実に真っ当な終わり方だと思います。ぼくたちの生ぬるくて幸福な生活を相対化させる作品として、観てもらいたい一本でございます。
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美容整形について思うところ。映画自体は面白く観ました。
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 鈴木由美子の漫画が原作だそうですが、設定や内容はそれとはまるきり違うものなのだそうです。それならオリジナル脚本だと言い張ってもよさそうなものですが、「いや、もともとはあの漫画から着想したので」ときっぱり表明しているのはとても潔いですね。その姿勢は映画の内容とも通じていると思います。整形美人になる主人公のお話です。

韓国の整形文化については広く言われていることですが、ぼくの考えとして美容整形に肯定的か否定的かと言われれば、一応は肯定的であると申し上げましょう。というより、論理的に考えたときに、美容整形を否定することはできなくなるからです。一席ぶちましょうか。

 まず、前提として、人は顔の美醜で人を判断してしまう生き物だということです。この社会において、その前提に疑義を呈することはできません。現に顔の美醜によって人気者は生まれ、化粧品市場は潤い、経済は動いているのですし、顔の美醜によって恋愛問題は生じるわけです。美醜の問題は、たとえば貨幣経済がそうであるように、人間という存在にとって絶対的なものではない。しかし、貨幣経済がそうであるように、現代の社会から切り離すことはできぬものなのです。

外見によって人は人を差別します。美人はもてはやされ、不美人はそっぽを向かれる。男の場合もそう。それがどの程度に露骨であるか、個々人の価値観や考え方によってもちろん度合いは異なりますが、人はどうしても外見で人を差別するのです。こと、恋愛などという場面においては特にそうでしょう。拭いがたくあるものです。

 であるならば、なぜ不美人は美人によって、いつまでも富を収奪され続けなくてはならないのか。なぜ不美人は美人との生来的格差を是正してはならないのか。過激な物言いをするならば、整形の否定とは、被差別者をいつまでも被差別的境遇に置いておいて構わないとする、きわめて危険な思考だとも言えるのであります。

 ここまで言うと、いやそんなことはないと思われる方もおられましょうが、ではお尋ねしましょう。あなたは対人関係において、こと恋愛の局面において、顔の美醜を価値基準としてまったく設定していないと、本当に言えるのでしょうか。もし言えないとするなら、あなたはまさしく美醜による差別心を持っているわけです。美男美女から迫られたら受け入れるけれど、醜男醜女なら受け入れない。これは差別なのです。

 それを悪いと言っているのではなく、先に述べるとおり、人はそういう生き物なのです。だから、被差別者が被差別的境遇から抜け出そうとする投資を、否定することはできないのです。その否定はほとんど人権の侵害行為なのです。

それでもなお、「いやいや、自分は一切外見で差別しない。顔の善し悪しはまったく価値基準にない」としたうえで、整形を否定する人がいるかもしれません。しかし、それは自己矛盾です。外見や顔がどうあろうと人を差別しないということは、他人の顔に一切のこだわりを持っていないということです。顔の形に一切こだわりを持たないのに整形を否定する、これは矛盾そのものです。だって、どうでもいいわけでしょう、顔というもの自体に何の興味もないわけでしょう、だったら否定する必要がないじゃない、という話です。

まだ書けます。こうしたぼくの考えに対して、「親からもらった顔に」云々、「顔はその人の人生の履歴書であってそれを変えるような考え方は」云々という道徳的アプローチで反論することも可能です。しかし、そんな意見に対しては、「それはおまえの個人的な感覚だろう」で終わりです。社会的に、道徳的に、というのならば、批判すべきは整形をする個人ではなく、この社会です。美醜によって人を判断するという、人間が持つ動物的、非理性的価値観を温存する社会。それに対しての反論ならばわかる。そういう人は整形を否定しても意味がないので、「社会の皆さん、顔の美醜で判断するのはやめましょう」と呼びかけるべきなのでしょう。

 かような理由をもちまして、ぼくは整形に肯定的です。

 と、言いつつも、ここで立ち止まる。社会的評価に対して、顔の美醜が占める割合が大きくなれば、人々の知的ありようは変化してしまうのではないか。わかりやすく言うなら、整形や美容のために掛けるコストの分だけ、他の方面への知的涵養、感性的涵養は果たされなくなってしまうのではないか。そういう危惧があります。現に、日本の書籍市場における売れ筋はダイエットや美容の本。これが日本の大人たちの興味なのかと思うと、やはり憂いたくはなる。その点では、整形に対する疑問符が取れない。

ここに矛盾がある。個人にとっての幸福の追求は、決して社会全体の成熟を意味しない。個人個人がよきものを得ていったとき、社会がよき場所になるとも思えない。
 何も難しい話じゃない。人を見た目で判断するな、と言いつつ、ぼくたちは人を見た目で判断する。その矛盾を常に既に抱えている。

整形を肯定する場合には、この矛盾に対する内省が必要なのであろうと思います。

 さて、やっとこさ映画に入ります。
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 この映画は「歌はうまいけどデブでブスな女性」が全身整形を施し、美女に生まれ変わるという筋立てです。歌はうまいけど外見がアレなので、美人な歌手の「ゴーストシンガー」として歌い続けている女性が、イケメンプロデューサーへの恋心から整形を決意し、持ち前の歌唱力で堂々と表舞台に立つのです。
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 コメディテイストの本作。笑い自体はベタベタです。怒っていた人が相手が美人だとわかるや態度が豹変したり、美人になった主人公に見とれて男がバイクから転げ落ちたり、整形前と別人だと思った友達がまったく気づかずギャグになったりと、結構ベタベタなんです。音楽の使い方もえらい古いなーと思うくらい、その辺はもう古典的な感じです。ただ、見せ方、間、切り取り方が上手なので、素直に面白く観ることができました。ストーリーラインでも伏線の機能がしっかりしているので、感心するところ多々です。
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 整形美人ものって、わかりやすくサスペンス構造です。ばれるんじゃないか、はらはら、という引っ張りが効くので、物語の緊張感も持続できる。くわえて、途中でライブシーンのような盛り上がりも入れている。とてもうまいバランスです。劇中、主人公がBlondieの「Maria」という曲を歌うのですが、Coccoのようでもあり、ぼくのヘビロテになりました。

 語りたい場面が多いのですが(いい映画の条件ですね)、ぼくは美人になった主人公に一目惚れした、出前持ちの男のくだりが好きです。彼は彼女をつけ回して盗撮をしているのですが、それを彼女の恋人である音楽プロデューサーに見つかってどやされます。しかし、その恋人を彼女は制するんですね。「好きな相手に近づきたくても近づけない気持ちがあなたにわかるの?」みたいなことを言って。ここはいいなあと思いました。彼女はかつて自分がそうだったから、いわゆる恋愛弱者の気持ちがわかるわけです。ともすればストーカーを肯定するようなシーンでもありますけど、かつて弱い立場にいたからこそわかってやれることがある、というのを示す点、非常によかった。
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 これね、整形美人でいい気になって、ファンの男を鼻にも掛けないみたいな冷たい態度をとらせることもできるんです。簡単に言うと、「外見は綺麗になったけど心は……」みたいにすることもできる。外見重視の話だとそっちに行きがちなんじゃないかとも思う。でも、そっちにはいかなかった。えらいっ。あのシーンはそういう意味でも重要な場面なんです。
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さて、なりすましサスペンスではその正体を暴こうとする敵の存在が大事で、この映画ではかつて主人公の歌声を利用していた、いわば「もうひとりの嘘の歌姫」的な女性が出てきます。彼女は主人公が消えてしまい、ゴーストシンガーがいないとあって窮地。そこで主人公を怪しみ、いろいろと仕掛けてきます。
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 この人がねえ、悪者になりすぎてしまっている部分もあって、でも、そこは仕方がないのかなあ。主人公を応援させるにはこいつを悪者にするのは仕方ないか、うーん。こいつはこいつで可哀想なんですよある意味。外見は整形で何とかなるけど、歌の才能はなんともならないとあって、そこでの問題も含んでいる存在なんです。ただ、そこまで丁寧に描くと話の軸がぶれるし、難しいですね。悪者としての役割はしょうがないところでしょう。
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ネタバレ警報。ういーん。

 最終的に、主人公はスターの位置に上り詰めるのですが、満員の聴衆を前に、整形を告白します。その要因が痴呆のお父ちゃん。お父ちゃんとのくだりがもっと濃密でもいいかな、そのほうが効果的かなとも思う一方、あれを最後のきっかけに持って行ったのは好きです。自分を偽り続ける限り、お父ちゃんを大切にできない。そんな生き方をするくらいなら、この地位を捨てたほうがましだというシーン。
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 で、この映画がさすが韓国だなというのは、その後も彼女はスターであり続けるんですね。整形でもいいじゃないか、と明るいエンディングになる。ここは韓国的態度ですねえ。日本はいまさら『ヘルタースケルター』を映画化して、整形の悪イメージを保持したりしているけれど、なんと向こうの国の映画ではラスト、不美人の友達が「私も全身整形する!」と言い出して終わるんですから。

 前半長々とぼくは「整形肯定論」を述べましたが、それは「整形推奨論」とは違います。ですので、ここまで整形ばりばりサイコーの終わり方で来られると、おお、そこまで言うのか、韓国はすげえとこまでいってんな、とびびったりもするんですが、安易な否定論的結末に比べれば百万倍マシです。アンチもいる、というのを最後に示してもいるし、その点のバランス感覚があります。

ただ、書きながら思いましたが、整形肯定論とは言っても、40代、50代、60代となるとちょっと別ですぼくは。その年までなったら、「美醜から解脱しろよ」あるいは、「20代、30代のような顔!とか言って若さにしがみつくなよ」とは思います。その年ならその年なりのものを磨けるんちゃうんか、と言いたくなります。それが知性や感性の成熟というものでありましょう。うん、若さにしがみつく整形は嫌ですね。それは美醜とはまた別の問題です。ショウビズの世界での整形はぜんぜんオーケーだと思います。

なんかどの辺からコメントが飛んでくるかわからない記事になってちょいとびくびく。ご意見もお待ちしておりますよ。
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これまたひとつの未来へ。
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 初号機hmz-t1が発売されたのが一年前で、長らくの品薄状態が続き購入を控えていたのですが、このたび二号機が発売されると知り予約。13日発売と言われていたのがなんと二日前倒しの11日に届き、晴れて入手の運びであります。新作レビウをてんで行わぬ当ブログにありまして、新作機器のレビウをしようと思います。

 ヘッドマウントディスプレイ。頭部に装着して映像、ゲームなどを楽しむことができるというきわめて未来的なアイテムなのです。初号機を持っていないぼくなので、比較はできぬのですけれど、まずは装着感の話からしていこうと思います。

 ぼくはメガネっ子なので、裸眼の人よりは若干レンズとの距離感があるのかなあとも思います。メガネ無しだと見えないのかと言えばこれはその通りで、画面がぼやけてしまいます。致命的な問題ではまったくないのですが、裸眼の人のほうがよりいっそう快適に装着できるのは間違いないかなあと思います。
 
 未体験の方にわかるように申しますと、視界を覆われるといっても、完璧に周囲が見えなくなるというわけでは決してありません。メガネのあるなしにかかわらず、レンズと眼球の間にはわずかな距離があるのでして、視界下部は覆われません。双眼鏡を覗き込むようなスタイルとは違うということです。ですので、これを装着している間は手元の飲みものが見えぬとか、そういう問題はあまり気にしなくてもよいのです。

 こう書くと、なんだ、完璧に視界を覆うんじゃないのかと思われるかもしれませんが、一応ゴム製のパットみたいなのが付属されていて、それをつけると外部の光はほぼ遮断されます。しかし、この機器に一点の注文をつけるならそこで、このゴム製パットはなんとも「つけにくく、とれやすい」代物です。なのでぼくはつけていません。特にメガネっ子の場合、メガネの縁に引っかかるなどして邪魔になります。

 ですので、これは部屋を真っ暗にして楽しむのがより効果的であります。外部の光をなくしてしまうと、大画面が目の前に広がって見えます。

 さて、見え方ですけれども、これまさに映画館的であると言って差し支えないのではないでしょうか。大きなスクリーンの劇場で最前列、ほどではないのですが(というかそんなサイズは要らない)、映画館で後部の座席に座るくらいなら、よほどこちらのほうが感覚的に大きく思えるのは、間違いないのです。映画館級(あるいはそれをも凌駕するくらい)の大画面を、横たわりながら楽しめます。ベッドで仰向けになって、天井を見上げる体勢でも観られます。
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 目は疲れないのか、というとこれはそれなりに疲れます。今のところ15歳以下の視聴には制限がかかっているようでもあって、これをずうっと観ていると確かに疲れてくる感じはあります。しかしそれは慣れの問題なのかも知れませんし、裏を返せばそれほどの迫力があるという証明でもあります。ただ少なくとも今の段階では、どんな映画もこの機器で観ることにしよう、とまでは思いません。また、おでこの部分にパットがついているのですが、そのせいでおでこが痛くなったりもします。強めに締めるとそういうことになります。ですがぼくはそれをもってこの機器を悪し様に言う気にはならず、むしろもっと快適な見方があるのではないかと模索したくなります。

 さて、本機器の特性の一つとして、ブルーレイならびに3Dを堪能できるということがあります。ブルーレイの画質がクリアなのは言うまでもないとして、皆さんが気になる3Dの効果はどうかというと、これはですね、はっきり言ってですね、「ソフト側の問題」に帰着するところが多分にあります。

 3Dの効果を存分に活かしているものとそうでないものでは、やはり差が出ます。たとえばぼくは二本ほどこれでAVを観たのですけれども、撮り方によっては十分な立体感で、女優のカメラ目線に緊張してしまうような場面もあります。また他方、うまく活かしていない作品の場合は、なんでそんな撮り方をするんだ、ぜんぜん3Dを活かせないじゃないか、というのもあるのです。しかし、効果的なシーンはいくつも確認されたのであり、作り手側の工夫によって、もっと期待ができるのは間違いないのであります。そして、基本的なこととして、大きな画面でAVを観るという小さくも永い男の夢は、存分に果たされているのであります。ポテンシャルを感じる機器なので、もっともっとと望んではしまうものの、はっきり言ってぼくはこの機器の入手によって、大画面テレビをほしいと思うことは未来永劫ないのではないかとさえ思うのであります。PS3のゲームもやってみましたが、これ以上のサイズでゲームをしたいという欲望は生まれ得ず、満足を得てしまったのであります。

作品によって違いがあるんです。画面の周囲は黒いので、たとえばAVの場合、もうちょっと没入感が得られるようにできないかとも思う。他方、ど迫力の映画のシーンなどは、大きすぎて画面の右端と左端を同時に目で追えないくらいでもある。欲を言うなら、画角や大きさを調節できる機能が実装されてほしいと思います。

 いずれにせよ、大きなポテンシャルを感じる、未来に期待を抱かせる機器であることは疑いのないところであります。ちなみにお値段は、ぼくが購入したところでは69100円とまだ高い。しかしこの登場によって、既に初号機は値崩れを起こしているわけで、広まっていくのも時間の問題じゃないでしょうか。
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 さて、このhmz-t2は未来を想起させます。今後この機器はもっと軽量化、小型化していくでしょう。そして、たとえばエグザイルであるとか、イケイケガールがしているような、視界を完全に覆うタイプのサングラスに近しいものになっていくでしょう。電子機器の小型化の歴史を考えれば、これはかなり固い線だと思います。思えばぼくたちは20年前、カセットテープ入りのウォークマンをしていたのです。いまや数センチ四方のipodnanoに何万曲も入るのです。そういう技術革新は今後も進んでいくはずです。
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 ナノテクノロジーによって、コンタクトレンズにAR技術が導入される研究、というのも現代では進んでいます。それが実現する頃には当然メガネに実装されているでしょうし、将来のメガネはこのhmz-t2の機能を当たり前に兼ね備えたものになるでしょう。そしてその頃には当然、今のhmz-t2の機能や見え方が、なんとも貧弱なものとして映っていることでしょう。

 またそのとき、映画館は今の役目を終えているでしょう。新作映画は配信によって公開され、どこにいてもどんな時間でも新作の映画が観られる時代が来るでしょう。単館系映画館の有名どころ、シアターNが閉館になるそうですが、そうしたことは今後も起こっていくでしょう。「単館」自体が死後になるかも知れません。

 しかしそれは悪いことではない、と、旧作映画ブロガーのぼくは思う。
 1月の記事で既に述べたことですが、映画館という場所は言ってみればいまや、「映画館のある地域に住む、ごく一部の人たちにのみ特権的に与えられた施設」に過ぎない。新作の映画で盛り上がれるのは都市の人間に過ぎない。それを全国津々浦々に解放できるわけです。また都市の人にしたって、観たい映画があるけどちょっと遠いし、日に一回しか上映分がないんだよね、観に行けないや、ということもなくなるのです。huluあたりがそのうちその種のサービスを始めても、なんら驚くに当たりません。

 そしてそれは作り手にとってもいいことでしょう。せっかく映画を作っても、渋谷の単館でしか上映されない、あるいはほとんど映画館でかけることができない、なんてこともなくなる。アクセシビリティの絶対的上昇によって、観てくれる人の絶対数は間違いなく増える。

 これは映画だけに留まりません。たとえば舞台、演劇もそうです。演劇は映画以上に閉じられていて、いくら芸能人がテレビで舞台公演の宣伝をしたところで、地方の人間は観に行きたくても行けない。しかし配信が進んでいけば、それはなくなる。というか事実、閉じられていたものがネットに解放される流れはずっと続いている。

 将来ぼくたちはヘッドマウントディスプレイの子孫をかけ、「今公開中の映画、演劇」なんてものをいつでもどこでも観られるようになる。余談ですが、その操作法については、グーグルが研究を進めています。グーグルは指輪型のウェアラブルコンピュータで指先の動きを感知し、レンズモニターと連動して操作するというスタイルを研究しているようです。他のやり方もあることでしょう。
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 かようなことで、このhmz-t2は、未来の種となる製品に相違ないのであります。いまやアップルなどの外国企業に席巻されている先端通信機器市場ですが、この登場によって、ぼくはSONYに一票を投じておきたいと思います。

 
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# by karasmoker | 2012-10-15 00:00 | Comments(6)






お久しぶりでございます。
 恵比寿マスカッツの新曲『逆走 ♡ アイドル』のPVが解禁になりましたので、予告通りに一応の再開をするのであります。

書きためてある在庫もございますゆえに、しばらくの間は二日に一回ペースでの更新を行う予定でございます。皆様のご反応が糧となりますゆえ、どうぞお気軽に、思ったことを書き込むなどしていただければありがたいのでございます。

 また、ちょうどこの折りに、ぼかあSONYのヘッドマウントディスプレイ二号、hmz-t2を購入いたしまして、その辺の話もしていければと思うのでございます。アイホンやアイパッドなどの新しもんにはこれぽちも興味を示さぬぼくですが、本製品には強く惹かれるものこれありまして、ここに映画新時代を見るのであります。以前にもここで述べました映画の未来像についてなど、今一度愚考をしたためようかとも思います。

そのうちにまた気まぐれで休止することでありましょうが、それまでの間、またよろしくご愛顧願えればと思います。ではまた明日にでも。
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# by karasmoker | 2012-10-14 00:00 | Comments(4)








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夢見るじいさんのロードムービーってのは、素敵ですなあ。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

アンソニー・ホプキンス主演で、実在したバイク乗り、バート・マンローという人のことを題材にした映画です。「インディアン」というのはバイクの車種のことであり、マンローは1000cc以下のオートバイで世界記録を樹立した人なのだそうです。
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 特に男の場合、十代後半くらいからバイクに興味を持つ人というのも世間には結構多いようなのですが、ぼくはぜんぜんでした。ぼくが人生の中で最もバイクに近づいたのはむしろ幼子の頃、仮面ライダーに熱狂していた時代であって、この映画ではあのライダーのようなエンジン音がとどろいていて、なんだか懐かしくもあったのでした。
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 ホプキンスは世界記録を夢に見て旧式バイクの整備にいそしむのですが、この辺はちょっと『グラン・トリノ』っぽくて好きでした。このブログで『グラン・トリノ』を評したのは日本公開時のことで、その頃はぜんぜんよさがわかっていなかったんですが、いやあ、読み返すと不明を恥じるというか、「若かったのう」というような記事であって、見方が成熟してからやっとわかるような映画というのは、やっぱりあるのですね。自分も日に日におっさんへと近づいていくわけですが、そうなればなるほどおっさん映画への思い入れも強くなるのであって、ホプキンスがぼろ小屋で旧式バイクを大事にしているのを観ると、ああ、このおっさんの人生がここにはあるのだなあ、という風に思えてくるわけです。
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で、彼はニュージーランドにいるので、記録レースに参加するためにアメリカに渡るのですが、その道中の様子がロードムービー、まさしくこれぞ一期一会という案配で描かれていきます。ニュージーランドからアメリカに来たおじいさんがアメリカで右往左往する、というのがなかなか面白くて、個人的にはおかまの人との一期一会が好きでした。あとは地元の暴走族連中が餞別をくれるところですね。この映画に出てくるのはほとんどみんないい人ばかりですけれど、まあこの映画ではそれでよいのです。
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 ロードムービーというジャンルが基本的に好きなのですけれど、それはなぜかと考えてみるに、それが人生のメタファとして映ってくるからなのでしょう。人生は旅にたとえられるものですが、ロードムービーのつくりは、他の種類の映画よりも、人生に近いんです。そのこころは、「何が大事で、何が大事じゃないかはわからない」。そして、「一寸先がどうなるかは、まるでわからない」ということですね。そしてアメリカ映画というのは実にロードムービーがよく似合う。
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 その目的として、記録レースに出るわけですが、ニュージーランドからはるばるよく来たね、ということでもてはやされます。一方で、彼のバイクは旧式で笑いものになるくらいなので、「こんなんじゃレースには出せない、死んだらどうするんだ」という主催者側の意見も出てくるんですが、彼は「死んだらそれも本望」という気概で、終始明るく振る舞います。こういう生き方には格好良さを感じます。「ここで死んでも悔いはない」という瞬間に出会うために、人は生きていくのかもしれません。ホプキンスのバイクが最後に横転し、彼の片足は熱のために大やけどを負うんですが、その瞬間の彼の満足な表情を見よ、ですね。
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 深い話ができなくて恐縮ですけれど(なにしろ映画評を書くモチベーションが大幅に下がってしまったのです)、とてもよい映画だったと思います。
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 さて、今回をもちまして当ブログは数ヶ月間ほどお休みいたします。どれくらいの長さになるかわかりませんが、短くとも涼しくなるまでは更新がないことと思われます(恵比寿マスカッツにビッグニュースがあればそのときは別です。恵比寿マスカッツ主演の映画ができたら即論評します。誰かつくれ)。映画以外の出来事、実際の世の中の出来事のほうに興味を奪われているのが今年に入ってからずっと続いていることで、今は劇映画自体をもうほとんど観ようとさえ思わなくなっているのです(リクエストをいただいて刺激をもらったわけですが、結局のところ、続けてもなあ、という感じになりました)。まあ、今回でやめるぞ、というほどの覚悟もないし、別に言い切る必要もないのですが、ともかくしばらくは戻ってこないのです。コメントいただけたら返事はしますが、映画の話をされてもノリが悪くなってしまうであろうことをご了承くださいませ。

というわけで、しばしのお別れ。
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