表層の部分ではなく、彼の思想について考え出すと、ぼくたちは無辜なのかという不安が生まれる。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Rampage』
 このパッケージだとハリウッドアクションっぽく見えてしまうのですが、ぜんぜんそんなのではなく、世間でいうところのいわゆる「パラサイトシングル」が大量無差別殺人を行う話です。歴史上でも、現在の世界でも実際に起こっている出来事の類ですが、それをさらに大規模にしたような内容です。

 ウーヴェ・ボルという監督のことはぜんぜん知りませんでしたが、なんでもゲーム原作の映画化などをしてその出来により大変な不評を買い、かなり嫌われている監督でもあるようです。ただ、この映画についてはそんなに悪くないというか、作品の出来それ自体は十分飽かずに観られるものだったと思いました。時間も90分に満たないし。
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 常識的な感覚で観たら、唾棄すべき類のものだと思います。なにしろまともに自立しようとしない若者が自家製アーマーを着込み、ただただ街の人々を殺しまくるのです。しかも、追い込まれて精神的に錯乱しているようなわけでもなく、俺は自分なりの思想をもってやっているんだぜ的なところが輪を掛けて腹立たしいのでありまして、しかし腹立たしさを覚えさせるということはこの映画がそれなりによくできていた、ということでもあるわけです。
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 ドイツ・カナダ制作ということですが、アメリカの田舎が舞台です。主人公は人生がうまくいかない多くの人間がそうであるように、世間に対して鬱屈を抱えていて、「行動を起こしてやる」みたいなことで大量殺人に走るんですね。まず最初に警察署を爆破したところがミソで、それによって街の治安機能を麻痺させ、やりたい放題に殺しまくるわけなのです。

 あんなうだつのあがらないやつがあんな爆薬をつくれるのか、警官の銃が効かない一方で身軽に動けるあんなアーマーは軍隊でも持っていないんじゃないか、そうした装備一式を取りそろえて銃まで所持するその金をいったいどこから調達したのか、街の中にも銃を所持している人はいるだろうのにあまりにも主人公にやられ放題じゃないか、などといろいろ思うところもあるわけですが、「こいつはどこまでやるつもりなのだ?」と思わせつつ殺人の限りを尽くすので、先が気になるのですね。こいつがむかついてならないのですが、それもまた引っ張りになるわけです。スプラッタ系の猟奇殺人ものだと、まだ一人一人の被害者の残虐描写に時間を割いたり、そのインパクトに頼ったりするわけですが、この映画だとなんとも軽々しく人々が殺されてしまう。その点に、この映画の持つ不快さの鍵があるような気がします。
 
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 殺人鬼なりなんなりが出てくる映画って、変な話、まだ安心できるのはその殺人鬼が「狂っている」あるいは「人格を持たないモンスター化している」からなんですね。でも、この映画の主人公は自分なりの考えを持ってしまっている。それはつまり、人の命をなんとも思わず、むしろ「人口を減らせば長期的に見れば世界のためになるじゃん!」という口実を見つけてしまっているということです。この映画で軽々しく無辜の人々が殺されることと、彼の考えは一致しているわけです。彼は命をなんとも思っていないどころか、むしろ積極的に減らすべきだと考えている。
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 もちろん、そんな思想を受け入れられるわけはない。端的に言って、物事を単純化しすぎた頭の悪いやつです。しかし、現実として、こういう物事を単純化して自分を正義とみなす馬鹿、というのは相当数いるのでしょう。ぼくは彼が虚構的な存在に思えなかったんです。というのも、たとえばぼくと彼の間に、どんな垣根があるのか?
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 おいおい、穏やかじゃないぞ。

 いやいや、違うのです。ただ、こう考えてみましょう。
 彼は顕在的大量殺人者ですが、じゃあぼくたちは果たして、まったくの無辜と言えるのか?
たとえば、タイムリーな話題で恐縮ですが、生活保護受給の問題でいえば、仮に受給要件が厳格化されたり、給付水準を引き下げたり、資格のあるはずの人がもらえない事態が発生するなどした場合、その結果として死に至るケースが出た場合、厳格化を推進した人、その方向性に賛同した人は、果たして無辜なのか? そのとききっと、そんな人は現場に責任を押しつけるという行動に出るでしょう。自分は悪くない、自分は国や地方の財政を健全化させる必要があると思って賛成しただけだうんぬんと言うでしょう。さて、本当に無辜なのか? いや、もしかすると、「自分には責任がないと言えるくらいに間接的な形で」人の死に関わっているんじゃないか?

言い出せばいくらでもきりのない話です。どんな戦争であれ、その戦争を支持した人々は、他人の死に対して何の責任もないのか? 戦争が始まれば兵士は死ぬ可能性が十分にあるし、その戦場となる場所の一般市民にもまず間違いなく犠牲者が出る。戦争が何なのかわかっていればそれは当然織り込み済みのはずで、そのうえで戦争を支持することは、殺人への関与ではないのか?
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 もちろん、支持した市民が法的に裁かれることはない。あってはならない。自衛のための戦争というものだってあるし、相手を殺さなければ自分が殺される局面というものも考えられる。一概に言える話じゃない。ただ、一概に言えないからこそ、まったくの無辜という立場が取れるのか? という疑念が生まれる。
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 長々と映画から離れて恐縮ですが、彼の思想はまったく現実には存在しない、虚構的なものだとは言い切れない。程度の差こそあれ、自分たちの利のために相手のことなど案じない、という生き方は、たびたび選択されている。そして場合によっては、それが合法であるがゆえに、たちの悪いものなのかもしれない。

 回りくどいようなので、刺激的な文言で短く言ってみるなら、「ぼくたちは皆、潜在的な殺人者じゃないのか?」ということです。たとえばぼくたちが持っている財産を半分でも貧しい人に寄付すれば、その人は死なずに済むかも知れない。ぼくたちが消費を増やせば景気がよくなって、生活保護うんぬんの世知辛い話も吹き飛ぶかも知れない。でも、それはできない。なぜなら、「自分には自分の生活があるし、今後の経済がどうなるかもわからないし、自分の財産を人に譲るなんてできない」からです。つまり、人は自分のことでせいいっぱいなのです。しかしこれは言ってみれば、カルネアデスの板です。自分の命を守るために人を見殺しにしても罪に問われない。自分の生活の満足のために、社会に無関心でいても罪にはならない。そのときぼくは思う。ぼくたちは所詮、浮くための板を必死で守ろうとしているだけじゃないのか? その横で死を迎える者を自分のために見殺しにしている潜在的殺人者じゃないのか?

 こうしたことを考えていくと、「人類のために人口を減らすよ」という彼の究極的な思想を、果たしてどのように否定できるのか? 実はこれは『逆襲のシャア』におけるシャアの思想でもあるんですね。地球の人類は愚かしくも地球を破壊し続けている。制裁が必要だ、という彼の思想に通じているのです。その話をし出すともう収拾がつかないのでやめます。

 表面的に観れば、鬱屈した糞みたいな奴の大量殺人映画、まったく胸くその悪い作品、ということはできる。しかし、その背後にある(たとえ馬鹿げているとしても彼が語る)考えを聞くと、はて、と思い悩んでしまうところがある。これは政治哲学的な領域にも踏み込んでしまいそうな話なんです。虐殺は最悪だ、と言いつつ、国家は戦争を散々繰り返してきたわけです。

 なんだよ、もっと映画の中身についてレビウをしろよ、と思われたらすみません。この前にも述べたとおりに、ぼくは今、映画について、「あのシーンはいいよねー」的話よりも、こういうことを語りたくなるのです(だから休止するのです)。映画なんてのは観れば誰だって感想の一つくらい出るものなんですから、それはあなたが勝手に感じればよいこと。ぼくはそこから映画外に踏み出したくなってしまうのです。

 まあ、そんなところなのです。
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以前観たときはわからなかったのですが、今観るとよくわかるんです。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ずっと前に観たときはぜんぜんぴんと来ずにいたのですが、そのときは集中して観ていなかったらしく内容もかなり忘れまくっていて、あらためて観てみればなんとも味わいのある作品でありました。やっぱり、年齢やら知識やらによって、映画の見方というのは変わってくるものなのですね。観る機会を与えていただきありがたく思います。

『ガタカ』のスペルは「Gattaca」で、DNAにおける基本塩基四つの頭文字を組み合わせた造語です。劇中では主人公の勤める会社名を指しています。
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 この映画の世界では遺伝子診断がものすごく発達しており、男女の産み分けや出生前診断は当たり前になっているのですが、イーサン・ホーク演ずる主人公はその種の診断を受けずに生まれており、寿命が30歳前後であろうという過酷な運命を担っています。
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 そうした遺伝子診断は職業選択にも大きな影響を与えております。彼は宇宙開発の会社に勤めているのですが、そこは遺伝子的に、まあ言ってみれば「優等」な人間でない限り、入れない場所なのです。しかしなんとか宇宙に行ってみたいと願う彼はその種のプロにお願いし、優等な遺伝子を持つ人間に接触し、その人になりすまして会社に入るのです。
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 映画自体はアクションがあるわけでもなく、めざましく未来的なガジェットに溢れているわけでもなく、近未来的なオフィスの中が舞台の、まあどちらかといえば地味な作品でしょう。だからSFと聞いて『スターウォーズ』とか『トランスフォーマー』とか、宇宙の戦艦がやってきてどんぱちみたいなのをイメージする人にしてみれば、娯楽性に乏しく映るかも知れません。昔のぼくはそういう風に思ってあまりちゃんと観られていなかったんですね。でも、今のぼくにはこの手の話のほうがずっといい。この映画は宇宙開発時代の話なのに、宇宙のビジョンはほとんど出てこない。星空がせいぜいです。でも、それでいい。それがいいのです。
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 お話としては、主人公が任務として憧れの宇宙に行くまでの間に、彼の身分詐称がばれてしまうのではないか、という「なりすましもの」的どきどきが引っ張りになります。なにしろ髪の毛一本から即座に身分が割れかねない状況なのです。彼は垢が出ないように毎朝体を丹念にこすったり、キーボードの埃をこまめに掃除したりを繰り返し、とにかく気を遣い続けます。ところがそれが至らずに彼の「不適合な」身体の欠片が発見され、さあ、どうなるのか、ということなのです。
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 構造としては、歴史上でもたくさん発生してきたことに近しいです。差別があって、主人公は身分を偽って暮らしていて、でもそれがばれそうになって、というものですから、たとえば黒人奴隷が脱走して市民として暮らそうとしているとか、ユダヤ人がナチスに隠れて暮らしているとか、キリシタンが幕府に隠れてイエスを崇めたりとか、そういう対・差別のなりすましもの。しかしそこに遺伝子や宇宙というわかりやすく未来的な要素を入れてきたことで、スタンダードにして新しい作品になっている。
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 ただ、遺伝子による差別、というのは何も新しいわけではなくて、実を言えば黒人差別ってそういうことですね。黒人としての遺伝子を持つ人を、その形質によって差別しているわけですから。だからこれはきわめて古典的な差別問題を扱っているとも言える一方で、それが今後の社会で何かの形で起こりうるのではないか、という想像もさせてくれます。
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 もちろん、今後の社会で、遺伝子そのものによって社会的な被差別を受けるということはまずないでしょう。しかし、ゲノム研究がさらに進んでいけば、この映画のように出生前診断による産み分けが広がることは十分に予測できる。いや、というか、既に起こっている。「出生前診断」でググればそんな例はいくらも出てきます。これは今後の社会における非常な難題です。胎内の子どもを検査したら高い確率で難病になる、そういう遺伝子を持っているとわかった。さて、生むべきか、中絶するか。これはもう、ちょっとやそっとで語れるテーマじゃないです。ぼくは今のところ、回答を避けるほかありません。

企業にしても、優秀な人材を募りたいと思ったら、その種の検査を取り入れるところが出てくるかも知れない。法的に規制を受ける可能性は高いですが、技術が進んで時代が移り変われば、たとえば健康診断で遺伝子診断の結果を出しなさいと言われることもあるでしょう。そこで「30歳で難病発症率が高い」などということがわかり、それが就職や役職に影響を与えるなんてことも、十分考えられる。NASAが「最も現実的なSF映画」に認定したのもわかります。
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 この映画の優秀は、宇宙開発といういまだ不確定要素の大きすぎる分野については、周到に言及を避けているところです。それはあくまでも背景、遠景としての機能にとどめている。それはあくまでも未来と主人公の希望の象徴とするにとどめ、彼自身の物語に焦点を当てている。いや、ここが宇宙であることもまた肝要なのでしょう。劇中、下半身不随の男が出てきて、主人公は彼と取引をすることで「適正な」身分を手に入れるのですが、主人公が彼に向かって言うのです。「宇宙に行ったら、車いすを使わなくてもいいんだぞ」と。これはこの映画の影を大きくする一言です。地球は重力に縛られている、たくさんの規則や、障害や生まれ持った差別に満ちている。しかし、宇宙はそうじゃない。なるほど、見えました。主人公が宇宙に惹かれた理由にも説得力があるというものです。彼はどうしようもない差別を帳消しにする場所として、宇宙に惹かれていたのかも知れません。この映画における宇宙は、未来を表す背景だけではなかったのですね。

 そうなると、他方、海というものもまた意味をなす。そこには社会的差別はない。遺伝子が何だ、自分のほうが泳げるんだ、という主人公の兄への対抗心。彼にとって、宇宙や海はとても意味のあるものだったわけです。
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 がちゃがちゃした要素がないので、物足りなさを感じる人がいるかもしれません。ほら、映画って、がちゃがちゃした要素に面白みを覚えたりもするものじゃないですか。だからそういうのがほしい人向きではないかも知れないけれど、必要なこと、この映画で表せることを過不足なくやっていると思いました。あの殺人事件はその中でもやや過激すぎる出来事ですが、物語を進めるうえでは意味があるし、おかず機能も担っていたのでしょう。
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 以前にはちゃんと味わい切れていなかった作品でしたが、あらためて観て良さがわかりました。これはリクエストいただいたからこそのことでありまして、ありがたく思います。最後の医者のくだり、ぼかあ、好きですねえ、うむうむ。

 この映画はですね、なんというか、グミとかファンタが好きな子どもには薦めませんが、塩辛いつまみとともにウイスキーを飲む良さがわかるような人には、わかると思います。ええ、お薦めいたします。
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昔のコメディの上品さ。戦時中にこれがつくれる余裕。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『To Be or Not to Be』
 今回で450件目の記事を迎えた当ブログでありますが、今日までにリクエストいただきました作品、今回分を含めた残り4本を持ちまして、一度お休みしようと思います。近頃の記事の傾向でもおわかりの通り、ぼくはここしばらくずっと、映画それ自体について語るよりも、映画から読み取れることを考えたいと思っているのです。つまり、映画以外のことを考えたりする時間をもっと取りたいのです。ここ数ヶ月のぼくの興味はざっくり言えば政治、経済、国際情勢、歴史、哲学、政治哲学、テクノロジー、社会などのほうに向いておりまして、これからもそちらのほうでもっと知識を蓄えたり、考えを深めたりしたく思うのです。ゆえに、あと4本でこのブログは当面お休みします。短くとも9月くらいまでの間は更新しなくなると思います。読者の方には申し訳ないのですが、とりあえず、ご報告までに。
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 さて、『生きるべきか死ぬべきか』です。
第二次世界大戦初頭の頃のお話で、ナチス侵攻を受けたポーランドが舞台のコメディです。こうした種類の映画というのは当世ほとんど観られないものですね。今ではナチスというものが既に散々語り尽くされたか、もしくは映画でも散々に利用され尽くしたようなところがあるし、映画内における悪の組織としてデフォルメされたりしている。一方で、歴史的な評価は極悪の権化として固まっているわけで、あまりライトな描き方もできないし、おそらくされるべきでもない、という状況でしょう。
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 この映画は1942年公開でナチスばりばりの頃ですが、まだ歴史的な評価も定まっていないとあって、風刺的な意味合いが強く残っているものであります。しかし、えらい時代といえばえらい時代ですね。悪逆の限りを尽くすナチスが実在している一方で、「ハイル・ヒトラー」のあの敬礼をギャグっぽく描いている。ルビッチはドイツ出身らしいのですが、どういう目線でこの映画をつくったのか、気になるところです。前にも書いたことですが、戦時中にこういう映画がつくれるアメリカには、そりゃあ勝てないわ、と思わされます。チャップリンの『独裁者』もそうですけど、本当にやばかったらこんな映画はできないでしょうし、こういうものを娯楽映画の中でつくりこんでしまう余裕がすごいです。ヨーロッパと地理的に離れているというのも精神的要因かも知れないけど、それにしても、じゃないですか。
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 冒頭からわかりやすいギャグを入れ込んできますね。掴みとしてもグーなのです。これはコメディだぞ、というのがばっちりわかって、掴みはオーケーです。ナチスの芝居をしている人たちが「ハイル・ヒトラー!(ヒトラー万歳!)」の敬礼を交わすのですが、それがまた機械的で、ヒトラーの芝居をする人は「ハイル・マイセルフ!(自分万歳!)」と返したりする。構造も細部も面白さを蓄えているんですね。
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 で、コメディの常道であるところの「なりすまし」をフルで用いている。で、なりすましものはやっぱり、ばれたらやばい、ということが必須になるわけですが、この映画ではナチスが敵に当たるわけで、なりすましのハラハラ感がいちばんわかりやすく効いてくる。なりすましものとはつまりスパイものですが、チャップリンの『独裁者』とともに、これはその後の映画の、ひとつの教科書になっているんじゃないでしょうか。

考えてみると、ナチス潜入以上のスパイものってのはなかなかつくりがたいところがあるようにも思いますね。スパイ大活躍時代と言えば冷戦下でしょうけれど、あくまで冷戦状態ですし、この時代のナチスほどの迫力はない。そのうえで深刻にも描けるし、あのわかりやすい制服やしるしによって、コメディ的にも用いることができる。ナチスというのは最悪の集団なんですが、一方では映画の実りにおいてきわめて重要で、映画は娯楽メディアとして、ねじくれたもんをもっているなあと思ってしまいます。うん、ナチスやヒトラーという存在は、ちょっとやそっとじゃ語れない側面を持っているんですね。
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今の時代で映画を作るとなると、どうしても規模をそれなりに見せようとしたりなんなりされてしまいますけど、この時代のこういう映画は人々のやりとりだけを簡潔に描きますね。その中でいかに密度を上げるか、という方向になっている。これは映画として美しいと思います。昔のコメディが持つ上品さって、あるよね。と言いたくなります。余計なショットも小ネタみたいなギミックも、しゃらくさいサプライズも過激なブラックジョークもない上品さというのが間違いなくあって、変な話ですが、昔のもののほうがずっと洗練されていると感じることが時として確かにある。1930~40年代をハリウッド黄金期と位置づける人がいるのもわかるような気がします。もちろん、映画はいろいろな要素をその時代に応じて取り入れていくわけで、たとえばANCは古くさくなったハリウッドのスタジオ製映画に反旗を翻して生まれたわけで、その後も特撮やCGなどで映画は百花繚乱の時代を迎えたわけですが、ことコメディにおいては、昔のもののほうが構えずに素直に笑えることが多いのです。
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 そうした流れが映画の中で潰えた、わけでは決してないとは思うんです。それほど観ていないので詳しくは言えないのですが、いわゆるラブコメはまだ昔のコメディの伝統が息づいている部分じゃないかなとは思うのですね。そう考えると、日本ではもっぱらOL層をターゲットにしていると思われる「邦題が十文字以上系」ラブコメなども、もっと評価されてしかるべきものなのかも知れません(ただ、観ていないし、しばらく劇映画を観る気もないので、その辺はあくまでも印象論です)。
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 ああ、また今日も細かい内容について踏み込んだレビウをしなかった。いや、まあ、映画の内容なんてものは観ればわかる話なんで、いちいち文章化する必要もないんじゃないかと、そんな風に思ったりもするのです。ドイツのポーランド侵攻、とかについて話したらいよいよ映画のレビウじゃなくなってしまいますし、映画の外形、古い映画の印象などをだらだら語るより今はないのです。古い映画はどうも、という人は、コメディから観始めるといいのではないでしょうかね。とりあえず、そんなところであります。
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韓国的闇づかいも十分な娯楽作。韓国映画の充実期を示すひとつの好例。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ぼくは劇場に行かないたちなので、皆さんより遅れて話題作を観るわけですが、公開時にはツイッターのTL上でも結構賑わっておりましたね。しかしまあ、タイトルのアジョシというのは「おじさん」みたいな意味らしいのですが、韓国映画がときどきやるこのほとんど投げやりみたいなタイトルは逆に面白いですね。『グエムル 漢江の怪物』も原題では単に「怪物」だけらしいし、『シークレットサンシャイン』も(別の意味合いを引っかけているのかもしれないけど)単に地名の「密陽」ですから。『息もできない』にいたっては「糞蠅」です。

 さて、おじさんというにはいささか格好よすぎるウォンビンが主演のバイオレンスアクション映画ですが、これは娯楽作品としては言うことなしでいいんじゃないでしょうか。個人的には映画の娯楽性というものへの感度が鈍っているのですけれど、アクションシーンの迫力とか細かい部分の見せ方とか、日本映画との差を感じてなりません。

 ただ、今の日本でこういう映画を撮れるかというと、映画産業うんぬんとは別に、社会状況的に難しいというのもあるでしょうね。日本的成熟、いい意味でも悪い意味でも落ち着いている日本にあっては、なかなかこの映画のような題材から話を作っていくのには無理がある。以前レビウした『スプリング・フィーバー』でも述べたアジア的活気。とりわけ韓国の場合はいまだ地続きの北国と緊張状態にあるとあって、暴力表現にも生々しさが宿りやすいのでしょう。アジア的生々しさが随所にあります。警察がどやどや踏み込んできているのに、ばばあがラーメンをすすって睨みつけたり。
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 この映画に限らず、韓国映画でよく観られる風景として、近代的な風景と土着的な路地の落差、というのがありますね。一方では金持ちがプール付きの豪邸で女性を侍らせたり、クラブで踊り狂ったり、最新の携帯機器を使いこなしているかと思えば、日本では昭和の映画でしかお目にかかれぬような汚くて薄暗い、古い家屋の建ち並ぶ路地があったりする。これは欧米の映画でもなかなか観られぬ類のもので、日本だと今度は寂れた田舎っぽいほうに振れたりしてしまう。ひとつの物語の中に、都市の中に新旧が入り混じり合う風景は、映画にとって大きな財産でしょう。だから、いずれ開発が進めば、韓国映画にも今のような土着さは多分出せなくなる。その意味で韓国映画は幸福な時代をいまだ保持していると言えましょう。
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 映画に入っていくなら、闇づかいが実によい、ということです。あの闇はもう欧米も日本も醸せない類じゃないかと思わせる。家の中の、生活臭にまみれた空間に映える暗がり。あれは韓国映画の強み、大きな武器です。今の日本映画にはほとんどできない。それは映画制作力どうこうではなく、時代的に日本は既に、あの暗がりに説得力が宿らなくなっている。ああいうものを観るにつけ、「日本映画は韓国映画に比べて駄目ね~」的言説は(過去にぼくも述べてしまっていることですが)、映画を単純に論じすぎているという気がしてくる。社会状況の問題と併せみて論じるべきなのでしょう。ポン・ジュノ監督が言っていた意味がわかります。
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 ああいう風景が、血みどろ劇に厚みを持たせるんだと思う。またそれますが、南アフリカを舞台にした『第9地区』で、バラックに住むエイリアンたちがやけに実在感を帯びていたのもそこで、個々の出来事や存在はその風景との調和で説得力を左右される。韓国映画ではあの薄暗い土間、何が潜んでいるかわからないような路地、ああいうものを背景にすることで、血しぶきひとつとっても見事な画になるのです。だから逆に、明るいシーンだと日本映画みたいな薄さが出ていたりもする。一人の男を拷問する場面があるんですけど、あれは大手の日本映画っぽくて、虚構性が際だってしまう。でも、気になったのはそれくらいです。
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 いつになったら内容に触れるんだ、最近のおまえはいつもそうだ、と言われそうですが、いやあ、だって、ウォンビンが格好いいとかそんなのは、もう散々言い尽くされているでしょうし、いいじゃないですか。そういうのが読みたい人はどうぞ「ウォンビン格好いいよねーレビウ」をお巡りください。
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 内容に触れますと、別段物語自体には目新しさはないのです。ウォンビンがキム・セロン演じる少女を救い出すために頑張る話です。骨格自体を切り出しちゃうと、この映画の魅力はちゃんと伝わらないんじゃないでしょうかね。敵はわかりやすすぎるくらいわかりやすい悪役ですし。でも、あんなわかりやすい悪役、誰がどう見ても悪い奴を出してくるってのも潔いなあと思いますね。なにしろ臓器売買のために平気で人さらいをして人殺しをして、子どもに覚醒剤の合成か何かをさせて、ほとんどショッカーの域です。でもそこまで行くのもあっぱれな話です。いや、それが適当な感じだったら駄目ですけど、悪い奴は徹底して悪いのだ、という風に持って行くのは、いまどきなかなかできるもんじゃないです。そこに子どもをもろに絡ませている露悪趣味はさすがの韓国映画節です。
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 で、昔の東映映画みたいな、宿命のライバルテイストもちょっと入れてくるんですね。あれなども面白い。敵の組織に腕利きがいるんですけど、こいつは最後にあるひとつの大事なことをして、そのうえでなおウォンビンと対峙する。絶対有利の状況なのにあえて銃を捨てて、ナイフで挑む。これはなんだか時代劇っぽいじゃないですか。まさしく『用心棒』ってな案配です。組織とかどうでもいい。おまえを倒すほうが大事だ、というね。
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 演出の細部は好きなところが多いし、全部は語れませんね。これは観た人それぞれ、何かしらあるんじゃないでしょうか。ぼくがいいなと思ったのは終盤です。ウォンビンが敵のボスを追うんですけど、敵は車に乗って逃げようとする。このとき、ウォンビンは銃で車を狙うんですけど、ちゃんとタイヤを狙うんですね。ここはえらいです。ぼくが銃と車の出てくる映画でいつも疑問に思うのは、「なぜタイヤを狙わないんだ.車体ばっかり狙うんだ」ということで、逃げる車の的確な狙撃目標はやっぱりタイヤでしょう。で、相手の動きをちゃんと止めるわけです。
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 その後もよい。敵のボスは防弾ガラスの車に乗っているから、銃で撃っても殺せないと。そうしたときウォンビンは、あくまでガラスの一カ所を執拗に狙うんですね。考えてみれば当たり前のやりかたですけど、この執拗さがいい。地味で実効的でよい。これ、敵が車からうぎゃーとか言って逃げ出すより、はるかにはるかにいいじゃないですか。

結末・ネタバレーション警戒速報。結末に触れます。

 最後はどっちでもいいと思った。死んでしまっているでもありかなと思った。そしてそれは映画としてすごいと思って観ていました。この映画の場合、最後に少女を救えても救えなくても、どちらでもいける。ただ、やっぱりちゃんと救ったほうが絶対に収まりがよくて、あの腕利き用心棒にも深みが出る。韓国映画のことだから、あの目玉は本当に少女のものだ、みたいなえげつなさで攻めてくるかとも考えましたが、そこはかわしておいていいところですね。ちゃんと終わってよかったと思います。

 これはいいんじゃないでしょうか。けなしどころはあるでしょうかね。細かいところをつついていけば何なりとあるでしょうけど、そこに気を取られるのはもったいないと思います。お薦めいたします。
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彼は彼だけにできる仕事を果たしたのです。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 アカデミー賞作品ですね。わりと賛否が分かれているのでしょうか。英国王の史実に基づくものですが、歴史的事実に違いがあるんじゃないかなんてことも言われているようですし、英国王室という題材が題材だけに脚色にも気を遣うところがあったのでしょう。時は第二次世界大戦前、というきわめて政治的に不安定な時期を舞台にしており、それがゆえに評価が分かれる部分もあるようです。

 イギリス史や英国王室史に明るくないので、その辺のアレへの深い言及はまったくできぬのですけれども、まあ行きましょう。主人公はコリン・ファース演じるイギリス王ジョージ6世、劇中では即位する前の時期から描かれます。彼は吃音症を抱えていて、大事なスピーチの席でもうまく声が出せない有様。それをなんとかするのじゃい、というような話と、王位継承時のあれこれが描かれています。
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映画の時代は1930年代後半、戦争前夜のきな臭い頃合いですが、政治的な話は後半までほとんど出てきません。ジョージ6世が王としてスピーチをちゃんとできるのかどうか、に焦点が当てられています。
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 これはこの映画の作りとしては正しいと思います。というのも、王にとってスピーチはとても重要な行為だからです。裏を返すと、外国との政治的な駆け引きに王は参加できない。それは当然首相をはじめとする政治家の仕事であって、王が口出しすることではないわけです。「君臨すれども統治せず」なわけです。
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 ではなぜ王室が重要なのかと言えば、それは国家の権威の象徴、国家の伝統を代表するものとして大切なわけで、求められるのは威厳です。だからこそ、スピーチがとても重要になる。特にテレビもなく、ラジオしかない時代ですから、その存在を国民に示すうえではある意味今以上にスピーチが大事。劇中でもヒトラーが出てきますが、彼がドイツ国民から支持された大きな要因として、彼が演説の名手だったことが挙げられるわけです。実際の政治に携わることができず、それでいて国家の権威を示すべき立場にある王としては、スピーチの正否は死活問題だったのですね。
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 映画では第二次世界大戦の開始に際し、国民を勇気づけるスピーチを放送するところがクライマックスになります。で、スピーチがうまくいってよかったね、ということで話が終わる。宇多丸さんの評のリスナーメールでは、ここを怒っている人もいるようです。今から戦争が始まるってのに、そんなのんきな結論でいいのか、ということのようです。
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 うーん、そこはどうなんだろう、うーん。
 じゃああのときの彼に何ができたのかってことですけど、王には政治的権限なんかほとんどないに等しいわけでしょう? あのとき反戦のメッセージを放っていればよかったのか? 彼の立場ではそれはできなかったでしょう。ナチスやファシスト党のような勢力がばきばき出てきているときに、反戦を訴えたってしょうがない状況があったわけで、その中で彼に尽くせるベストはもはや、スピーチを立派に遂げる、そうしてイギリスの人々を勇気づけることしかなかったんじゃないかと思うんです。それは人々を戦争に駆り立てる行為だ、というかもしれないけど、じゃあどうするんだって。ナチスみたいなとんでもないやつらが明らかに脅威的になっていて、協定結んでも破ってきて、形式上は軍の最高司令官だとしても実質は何もできない王に、何ができたのか。それでも反戦メッセージを訴える? 言うのはたやすいけれど、そんなこと言い出して国に混乱が起きている間に攻め込まれて殺されるぜ?  フランスだけで南北からのファシズム勢力を迎え撃たせればよかったの? イギリスがいたってフランスは占領されちゃったわけで、交戦しないのにも無理があったでしょう。ジョージ6世についての細かい話はそんなに知らないけれど、彼は彼のベストを尽くしたんじゃないのでしょうか。それは今振り返れば異論はあるかも知れないけれど、そのときその時代のその立場の人間じゃないんだから、わからないって。

 王は前線に出るわけでもなく、安全地帯にいるというかもしれないけど、そんなことはないでしょう。国家の威信を背負う立場です。政治家みたいにやめれば済むわけじゃないし、いや、やめることは形式上できたかも知れないけど、父が死んで、その後即位した兄貴が変なやめ方しちゃってるから自分まで立て続けになんて絶対できない。そいつだけが背負っているもんってのがあるわけで、安全地帯でも何でもない。ある意味、最前線です。彼は彼なりに、国家の威信を守るっていう仕事を果たした。その後の戦争うんぬんとは別の話です。
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 もちろんこのときの状況は日本とは無縁ではないし、だから日本人としてこの映画のスピーチにいい評価を与えるのはいかがなものか的なこともわかるんですけど、じゃあ三国同盟を結んだナチスドイツの側に立った映画ならいいのかっていうとそんなわけもないし、むしろこれはどちらの立場でどうのではなく、国家の威信を守らんとして、自分にできることをやり遂げようとした人の話として観たほうが、実りがあるんじゃないですかね。そのとき、吃音症の克服は個人レベルの小さなものではなくなります。死活問題たるスピーチの前に立ちはだかる、大きな大きなものなんです。そういう立場のことを考えることなんて日頃ないわけで、この映画を観た甲斐もあるというものです。国家というものを大事に思う人ほど、この映画の意義は感じられるんじゃないでしょうかね。単に吃音症を克服した感動話だって観るのは、いくら感動したとしても矮小化しすぎでしょう。
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 言語療法士を演じたジェフリー・ラッシュとの掛け合いのテンポよく、飽かずに観られました。実際の細かいところには違いもあるようなんですが、この映画で彼が免許も資格も何もない男として出てきたのはいい対比になりました。彼は第一次世界大戦で、今で言うPTSDを発症した兵士たちの治療に努めた過去があるという話をして、ここなどは権威あるが経験のない王と、権威は何もないが経験のある男のコンビという対照的な関係があってよい。ヘレナ・ボナム・カーターの存在感もちょうどいい。
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 なんか戦争がらみの拙い議論を展開してしまい、聡明な方から叱責を受けそうで怖々しているところもあるのですが、ぼくはこの映画はよいと思いました。映画自体のレビウにしては映画からそれすぎている感もあるやもしれないのですが、映画自体よりもそこから膨らませられることを考えることに今のぼくの力点はございまして、まあアカデミー賞ですしレビウはそこかしこにあるでしょうし、ご勘弁願いたく存じます。
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十代の方がご覧になればよいのでしょう。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回の『スカイ・クロラ』もそうですけど、大人が観るにはいささかナイーブすぎる、もしくは甘味がきつすぎるような映画ってのがありますわね。クオリティは大人が観てもすばらしいと思えるけど、その内容はもう二十代以上には通用しないんじゃないかみたいな作品というのがあります。しかし原恵一監督と言えば子ども向けど真ん中のあの『クレヨンしんちゃん』をむしろ大人のほうが泣けてしまう地平に持って行くという前人未踏の離れ業を成し遂げているので、どうかいな、と思って観たわけですが、ううむ。
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 冒頭は死後の世界から始まります。そこでは主人公の姿は明かされず、とにかく彼が既に死んでいること、そして生前の記憶もなく自分が誰なのかもわかっていないことが示される。その一方で、「あなたはもう一度人生をやり直してもらいます」と案内人みたいな少年に言われ、「自殺を図った小林真という少年に乗り移りなさい。彼は魂が抜けているから」と指示を出されます。主人公は自分が誰かもわかっていないので、「え? それは誰? 見知らぬ相手に乗り移るの?」的なことになって、そこから話が始まります。主人公は自分が誰だったのかもわからぬまま小林少年に乗り移り、小林少年としての生活を始める、とこのようなわけなのです。
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 さっそくネタをばらしにかかりたいのですが、その前に声優の件に触れます。原監督の前作『カッパのクゥと夏休み』のときもぼくは苦言を呈していたのですが、今回は輪を掛けてノイズに感じました。主演の子は前作でカッパのクゥを演じていて、その演技についてもぼくはぶう垂れていたわけですが、今回は彼がメインで、うん、ちょっと、どうなんですかね。その役がミスキャストかどうかってことは、突き詰めれば個人的な感覚でしかないわけで、そうとわかったうえで言いますけど、この主人公の少年には合っていない声じゃないですかね。仮にそうでなくても、演技がへたくそじゃないですかね。声優がへたくそだって思うことはあまりないんですけど、これは強烈に感じました。なんでこの子を二回連続で、メインで扱ったんでしょう。芸能事務所の意向なのか、はたまた二回連続ってことは監督もしくはプロデューサーの意向か。いや、監督にせよ声優の子にせよ、いい人なんだろうなと思います。声優としてすんごく頑張っていて、監督もそのがんばりを見て今回も起用したのでしょう。だから出来はどうでもいいんでしょうね。人と人との温かいつながりがあるじゃないですか、それでいいです、もう。

 あとは有名な俳優なりタレントを使うと制作費が上がるから、仮に声優業界の畑がやせ細ろうとも、麻生久美子演じる母親がずうっと麻生久美子そのものであり続けたとしても、それでいいんでしょう。舞台にせよ映像にせよ、役者は表情と身体を用いて表現するものだから、声優に比べて声色の微妙な調整をする技術に長けているわけではなく、そのための訓練をしてきたわけでもなく、ゆえにキャラクターと声との間にどうしようもない距離があったとしても、それはいいんでしょう。そんなことにこだわるほうが馬鹿げているんでしょう。だったらもういっそのこと、顔も何も麻生久美子や南明奈や宮崎あおいや高橋克実に似せてみたらどうですかね。そのほうがもっと集客が見込めるはずです。だって、突き詰めたらそういうことなわけでしょう? 彼らの名前や存在が集客になるって考え方でいくわけでしょう。だったらいいじゃないですか、そのほうがカラフルで。

 さて、余計な悪態はこの辺にしたいのですが、今日はちょっと辛口になりそうな気配です。リクエスト作に辛口はなるべく避けたい、それは今回のリクエスト作評当初から申してきたことですが、これはちょっと、どうなんでしょう。だから先に申したとおり、これは十代向けだと思います。二十代以上はきついと思う。だから十代の人は、じじいがうぜえこと言っている、と思ってくれればよいのです。十代の純真無垢な心に突き刺さる快作なんだと思うんですたぶん!
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 早めにネタをばらしますと、この死んだ主人公、正体は誰なのだ? ということをひとつの引っ張りにしたいのでしょうかね。あれはもうぜんぜんオチになっていなくて、構造上あの少年と同一であるってことしかないんです。もうそれ以外の回答がない。そこはばれているのに、ばらさない感じでいこうとしているから、随所随所無理が出てくる。これはちょっときつい脚本です。
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自分が誰かわかっていなくて、この小林少年に何の思い入れもない、というところからスタートする半年間なんですが、結局この主人公の魂の正体は小林少年なんです。そういう結末なんです。つまり、自分が自分だと気づいていなかったって話です。
 でも記憶がなくて、自分だとわかっていなくて、何の思い入れもない、と。そのくせ、母親が不倫していた過去にやたらむかついていると。この辺がねえ、扱い決めかねている感がすっごいするんです。おまえは過去を知らんことになってるんちゃうんかと。だったらもっと客観的な感じで、「あんたがそんなんだから息子は死んだんだ」みたいなことを言わせちゃったりすればいいのに。それと、友達ができるくだりですね。あれにしたって、「友達はいいなあ」みたいなことになりますけど、過去のないやつが自分の正体すらおぼつかない状態で、そんな風になりますかね。正体不明で自己同一性を保てずにいるということで行きたいのか、自殺をはかった小林少年で行きたいのか、そこがどうもねえ、「正体が小林少年だってことは後でばらす」という意識が働いているせいなのか、ちゃんと描けていないように思えるんです。

 相手の過去を知らないはずなのに妙に相手の過去を不快に感じる。自分の履歴がないはずなのに自分事として感じる。好意的に解釈すれば、彼の中にある無意識の記憶がそうさせたのだ、みたいなことは言える。でも、だったらそこは観客に先にばらしちゃっていいと思うんです。小林少年が自殺して、でも本人はそれを忘れて生まれ変わったような気分でいる、という構造のほうが、つまり観客を主人公に対して情報優位にしておいたほうが、彼の内面の動きの見通しが格段に良くなる。この映画では主人公の正体が不明ということに一応はなっているので、観客も主人公のことがわからない。わからないのに勝手なことをいろいろするし、演技もへたくそだから、彼に移入できない。
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 あとは、宇多丸さんが言うところの「テーマを台詞で言っちゃう問題」ですね。テーマを台詞で言うってのは、それが描き切れていないことを作り手が認めているに近いんじゃないか、という気がしてならない。いや、それをアクティブな会話で表現したり、互いに口論させて観客に考えさせる、とかそういう形式ならいいんですけど、あの美術室のシーンなんかで、「カラフルでいいんだよ」みたいなことを言わせるのはきつい。あの南明奈はあの後も、「そうだ! ひろかはカラフルなんだ! これからも援交してカラフルな洋服を買うんだ!」となりそうで心配です。彼女は金がほしいとやつれているようにも見えず、わりとノリノリでやっちゃってる感があります。それとも、本作はジュン・スチュアート・ミルの提唱した愚行権を大幅に認める、リベラリズム的思想を称揚するものなのでありましょうか。それとぼくは一人称を自分の名前で呼び、単語的に会話することで幼児性をアピールし、それをカワイイに繋げようとする連中がほぼ無条件に嫌いなのです。つまりこのひろかちゃんを好きになれなかったので、勝手にせえとしか思えなかったのであります。
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 人様のブログを参考にすると、本作は原作が98年出版で、援交も今とは違う状況下に置かれていたようです。エアマックス狩りもそうしたことなんでしょう。でも、うん、あの、ケータイを普通に持っているんですよ、友達のいない中学生の小林少年が。だからこれは2010年のものとしてやっぱり観るべきなんでしょう。だったら援交の話はもっと脚本の段階で練るべきでしょう。練る気もないなら、ちょっと別のもんに置き換えたりなんなりすべきでしょう。2010年になっても援交をしている少女たちに向けてのメッセージが「カラフルでいいんだ」かよ。まさしく新自由主義のゼロ年代を文化的にまで体現したような思想でありまして、これを退廃と呼ぶのは時代錯誤なのでございましょう。
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 人物造型が中途半端なわりに、風景を妙に写実的に描いているのもよくわからなかったところです。風景を写実すればするほど、人物の薄さが際だってくる。しかも役者の顔が見えてキャラとしての自立性が奪われた状態で、です。あの二子玉界隈をめぐるくだりは何なのでしょう。あれもね、記憶がないっていうところを何か活かすのかなと思ったんです。それもしない。というか、記憶がないという設定はあの場合、むしろ邪魔。
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 記憶があれば、自分はこの町で育ったのに、ぜんぜんこの町のことを知らなかったんだな、という話に持って行けて、そこから記憶の尊厳と事実性の話に持ち込めたのに、『オトナ帝国』の原監督ならそれができたはずなのに、この脚本ではそんなことをかすめさえしない。単に、友達っぽい少年との交流という部分に矮小化してしまう。
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「カラフルでいいんだ」「生きていればそれでいいんだ」的なメッセージを受けて感動するほど、もうぼくは無邪気じゃなくなっている。とすれば、この映画からぼくは何を学びましょう。日常の風景がカラフルに見えてくる、ような感覚も得られなかったし、役者のやりとりから何かを得るにもさすがにノイズが大きすぎた。ちょっと、ちょっと、ちょっと今回の作品はきつかったです。見いだそうとする行為をノイズにかき消され続けました。ぼくは有益なものを何も読み取れなかった。お気に入り作品でしたら申し訳ない。
 帰り道のコンビニでフライドチキンを食べて肉まんを分け合って、ああ、友達っていいものだなあ、と思えるような若さを持った人たちには、お薦めしましょう。そして、この映画を観て豊かな気持ちになれるとしたら、そのほうがきっといいのです。そのほうが健全なんでしょうきっと。ぼくは駄目でした。申し訳ありません。
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若者のうんぬんをごちゃ混ぜしすぎているように思います。
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小野さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 宇多丸さんがシネマハスラーで酷評していたので、それじゃあまあ観なくてもよいか、別の人の説得力ある論評も目にしないし、とスルーしておりました。

 やっぱり映画を二時間なら二時間かけて観るとなれば、そこから何かを導き出したいと思うわけでありまして、なんとかこの作品から得られる学びを、と考えているのですが、ぐうむ、ぐうむ。宇多丸さんの指摘はもうその通りなんですねえ。でも、だからそこはもう避けて通らないと、何も見えてこないかなあと思う。原作は読んでいないのですが、どれくらい異同があるのでしょう。
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 SF的な要素がある、戦闘機乗りの話です。主人公たちはキルドレと呼ばれており、年をとらない、つまり肉体的外傷のない限りは永遠に生きられる存在、という設定です。で、この世界では戦争がないらしく、しかし世の中の人は戦争を求めるのだ的なことが言われていて、主人公たちはいわば戦争ショーみたいな感じで、戦闘機に乗るのです。じゃあ死なないのかと言えばそうではなくて、撃墜されると死ぬのです。
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 監督は現代の閉塞的な感覚を抱いた若者へうんぬん、ということを意図していたらしいのですが、ぼくはそこはもう、自分に引きつけるのは無理です。自意識におぼれるような時代は終えてしまったし、思春期的な悩みにはかわいげとうっとうしさしか感じません。いや、もちろん違う映画だったらそこはそれで感じるものもあるだろうけど、この映画から若者のなんちゃらを言われても無理です。学生さんに任せます。
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 ただ、そういう意味で言うと、菊地凛子の声は弁護できます。菊地凛子の声がね、若い戦闘機乗りの上司みたいなあのキャラクターには合っていなくて、彼女がしゃべり出すたびにぼくは笑ってしまって、なんか『花子さんがきた』の花子さんみたいだな、少なくともあの寒色系のキャラと彼女の声はミスマッチだな、と思っていたけど、なるほどわかった。結局、このキャラには自意識化膿系女子学生みたいなところがたぶんにあるわけで、だとすると菊地凛子のべたっとした声も合っている。この菊地凛子の声と台詞は、ぼくにうざさを感じさせてやまない自意識化膿系の女っぽいのですね。
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若者うんぬんはどうでもいいとして、得意な設定が何を表したがっているのか、そこからどんな実りが得られるのかを考えてみたいわけですけれども、ひとつには「戦争のない世界」という設定ですね。なるほどこれを、今の日本社会に重ね合わせようとそういうことなのでしょう、ふむ。そして、「キルドレ」ですが、この設定が微妙なのは、「平穏に暮らしていれば永遠に死なない」、それでいて「戦争ショーの前線にいるので明日にも死ぬかもしれない」という引き裂かれたようなものであるからです。そういう存在を仮想することがぼくにはうまくできないので、ここが困ったところです。なおかつ、中盤であるキャラクターが、自分は自分の過去の記憶に自信がないのだうんぬんと言い出して、あれ、ちょっとまた違う部分の話持ってきたなあ、記憶がどうたらって言われ出すとまたややこしいことになるぞ、と思わずにはいられず、大変困りますね。ちょっとクローンみたいな方向に行っちゃってる。そんなさっぱり意味のわからない存在がまさか「現代の若者」であるわけもないし、いや、というかもうこの時点で、監督には若者像みたいなもんがきちっとできあがっていないんじゃないか、なんか訳のわからない存在に見えてしまっているんじゃないか、と思えてしまうのです。これを見て、「おおう、このキルドレたちはまさしく俺のことだ、私のことだ」と思う若者がいるのでしょうか。どんなやつやねん、と思うのです。ちょっと抽象度を上げすぎているんじゃないかなあと思うんです。若者へのメッセージがどうたらっていうならわかりやすくすればいいのに、ちょっと抽象的、あるいはメタフォリカルすぎる。

 と、ここまでが素直な意見。で、最大限弁護するモードに入って書くなら、この映画は「繰り返される日常の憂鬱」に対する言及なんですね。戦争のない世界で戦争に荷担し続ける無意味な繰り返し、自分の存在が固有性を欠いたまま、また別のもので代替されてしまう憂鬱と、その繰り返し構造がもたらす憂鬱。そして「死なない」と「すぐ死ぬ」の狭間で、代替可能で固有性のない自分を抱えたまま生きることで、生と死が不分明なままで生きることの憂鬱。ラストの主人公のモノローグもそこに関連する。そうしたものがあるからこそ、主人公はラスト、その繰り返しの大きな象徴であるところの敵のエース機を打ち倒そうとする。それは日常の繰り返しからの大きな離脱行為であり、そこには固有性を獲得せんとするオリジナルな営みがあり、それは繰り返しを強いるようなシステムへの反逆でもある。本来システムへの反逆はもっと違う方法をとるべきであろうけれども、ぼくたちは小さく、個人でシステムに対抗することは困難、であるがゆえに、せめてその象徴たりうるものを見つめ、そこにぶつかろうとすることは諦めてはならないのであります。
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 なーんてことは書けるんですが、この映画は自意識と戦争と生と死、なんてところまで射程を広げすぎているがために、相当混濁したものになってしまっている。

 いや、ああ、うん、でも、いいのかな、これはこれで。
 思春期の頃の悩みってのは、そういうものが混濁しているものですからね。ろくに知識もないのに戦争だの社会だのについて考えるし、だから変に単純化してしまったりするし、しかし一方では自意識の問題、自分はいったい何者なんだってことを悩んだりするし、で、だけどその辺にはどうとも折り合いがつけきれずに、もやーんとするもんだし。下手に鮮明であるよりも、若者は自分でも整理できぬような混沌とした思いを抱えているのだ、この映画の構造自体が若者の悩みの構造のメタファたりえているのだ、とか言えるんですかね。知らないけど。でも、この映画はそんな混沌とした悩みを持つ若者が見ても、意味がわからないんじゃないでしょうか。あるいはもやっとした自意識の一つを補強するか。

 すっごい歩み寄らないと学びの種が得られないです、ぼくの場合は。この映画がちょっとだけ言ったことを、「そうそうそう」と言って引き継いで、こっちが膨らませてあげる必要があるという印象です。ただ、これはもう2012年には通じないんじゃないですかねえ。2000年代前半あるいは1990年代後半ならまだ理解が得られたかもしれないけど、ちょっともう今の時代のものではない感じがします。10年後、20年後に「00年代後半までに日本に充ち満ちていた空気を代弁している」的なことを誰かが言い出しそうな作品で、「いや、こんなんじゃないけど」と言いたくなる作品じゃないでしょうか。
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 日常にもやっと感を抱くのはぼくだってそりゃああるけれど、ちょっともはや共感できない類のもの。学生さんにお薦めしておきます。
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有名な傑作ですから、語ることがありません。未見の人は読まないように。
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bang_x3よりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


 原題『Witness for the Prosecution』
「アガサ・クリスティー原作、ビリー・ワイルダー監督の傑作法廷ミステリー」というその一文だけでもうこの映画は済ませてもいいような気もするのですが、そうもいかぬので書き散らしていきましょう、知る人ぞ知る名画、『情婦』です。
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 オチが有名な映画というと、たとえば「ここは地球だったのか!」であるとか、「実はあの人が幽霊だったのか!」とかが最も有名なところで、個人的に好きなのは「真ん中の死体が犯人だったなんて!」とか「すべては過去の映像だったのか!」あたりですが(さて、何の映画でしょう)、本作もそこはまったく引けを取らないですね。だから、難しいですね、これを語れというのはどうも、うーん、やっぱりまだ観ていない人には多少気を遣いたいんですけどねえ、いや、でも、リクエストいただいたbang_x3さんはご覧になっているのでしょうし、もうばらしていきますね。観ていない人は読まない方がいいです。本作に関してはそういう風に言っておきます。はい、もう、ぼくは知らない。すぐ下の行で結末を書きますよ。細かい流れとかもあまりちゃんと書かないから、観てからじゃないと何を話しているのかわからないですよ。



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 簡単に言うと、「おまえ、やってたんかい!」ですね。
これは実にいい線をついています。法廷ものではもうこれ以上簡潔なオチをつけることはできないでしょう。ミステリーのフーダニットものだと、よくあるのが「善意の案内人が実は犯人」とか「探偵の依頼人が実は犯人」とか「信じていた人物が犯人」とか「犯人はヤス」とかがあるわけですけど(あれ?)、本作はその王道をばちっと決めている一方で、観る者の意識をそこには向けない、という惚れ惚れするテクニックでかわしてくるわけです。
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 原作を未読なので映画の話になるわけですが、映画では弁護士のチャールズ・ロートンが主な視点を担うので、観客は無意識に彼を応援するわけです。なんとか依頼人の無実をはらしてやりたいと思う弁護士に移入し、どうやって裁判に勝つか、という目線になってしまう。アル中という設定で、真面目ばりばりでもない太っちょですから、自然と愛らしいキャラクターとして受け入れてしまい、それが自然と、タイロン・パワーを信じることにもなってしまう。持って行き方が大変に巧い。
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物語の常道の逆を行く、というのも大きいですね。やっているはずがない、と自然に思ってしまうし、またそう思いたいという観客の心理がある。タイロン・パワーはそこを二重で破ってくるわけですね。「本当はやってたのか」「そうなんだよ、この妻と組んで、一芝居打ったってわけさ」「愛する夫のためですもの」からの、「でもさ、俺、おまえのこともだましてるんだよね」「えっ!」です。勝つのが到底無理だろうというところからひっくり返して、それがさらにさらに、ですから、気持ちのいいこと請け合いです。
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 今の時代ではもう通用しないような話なのでしょうが、くどくどしいこともなく、観客の興味をずっと持続させ、裁判も二転三転する。これはもうぼくがこれ以上褒める必要がないです。あまり書くことがないと言ってもいいでしょう。どうしようかな。逆にこの映画の悪いところを考えてみても、なんかどうでもいいようなことしか思いつかないし。
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 みんながいいと言っている映画なので、もうぼくは言うことがないんですね。評価の分かれる作品ならやりようもあるし、メッセージのある作品ならそこを読み取ろうと思うのですがそこを突くタイプでもなさそうだし、法律うんぬんについてはまるきり門外漢だし。言うなれば、「評するまでもない。傑作だ」というところです。bang_x3さん、ぼくはいったい何を語ればいいのでしょうかっ(訊いちゃったよおい)。
 はい、普通にお薦めいたしまする。
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表面的な怖さはあるけれど、内面を揺らせる怖さは何もなかったです。
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軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『The Girl Next Door』
 1950年代に実際にあった事件をもとに、ジャック・ケッチャムが原作を書いており、その映画化であります。長い原作を90分に収めるとこんな感じになってしまうのだなあ、というもんがあります。

 隣の家の少女が虐待を受けている、という少年の目線からの話なんですが、前半は不穏感が漂い、母親の強権的な感じ悪さもよく、なかなかよいのではないか、と思ったのですが、ちょっとしょぼしょぼん、としてしまったように思います。
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 隣の家の少女には妹もいて、二人して縁戚から引き取られたような立場で、もともとの家の男子たちや母親からはどうも疎まれている、あるいは男子たちには性の対象に見えてしまう、というところの危うさもあるわけですけれども、描写それ自体で言うと、どうも各人の内面が軽んじられている節が強く、わるもんはわるもんにしか見えず、それじゃあちょっと単純じゃないか、という風に思いました。
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 思春期の男子が抱える危うさ、というのはこの映画でもっと描かれるべきだと思うんですが、それがないんですね。もったいない。そして、虐待に荷担している子供らの逡巡みたいなもんもほとんどない。この映画の構造は簡単で、要はあの母親の怖さに頼っているんです。母親の嫌な感じは確かによく出ていました。でも、深みはない。母親はこれじゃあ単に嫌な奴です。いや、この母親はこの母親で何か辛い過去があって、それでああやって歪んでしまったのだな、とは思うし、ぼくはそこでなんとかあの母親の弁護士になりたいわけですが、これじゃあ彼女の抱えるもんがわからない。嫌な感じは絶品! うん、それはわかった。問題はその奥でしょうということです。そこを観たいのに、何もないんです。野村芳太郎の『鬼畜』を観ましょう。
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 この母親と子どもたちには別々の動機がある。子どもたちは劇中、エロ本を見たり覗こうとしてみたり、体を触りたがったりするわけで、その辺の行為それ自体は描かれる。ただ、それが記号的な行為に過ぎなくなっている。至極残念です。男子たちが寝室に集っているシーンで、「女性の裸体を初めて見た」という話をする。だったら、なぜその瞬間の怖じ気と興奮を描かない? 彼らの表情や目線に間を割かない? そこを描くことで、思春期の彼らが抱えるより危ないもんがあぶりだされたはずなのに。
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 虐待描写の嫌さ、というのは、一個の映画としては十分成立しているものだったと思います。だから、この虐待描写は本当に陰惨たるもんだ、と思う人がいてもおかしくはない。でも、こういう表現は今の時代、本当に難しいと思います。なにしろ、ぼくたちは既に、ネットなどを通していろいろなものを見て、いろいろなものを知っている。実際の凄惨な事件から想像する怖さ、実際の虐待事件の画像から想像する怖さ、そういうものを知っていると、この映画の虐待描写を褒めることはできません。こんなもんじゃねえだろ、と思わされる実際の出来事は、既に世の中に溢れている。それを忘れてこの映画の虐待描写に怯えるほど、もう若くはないのです。
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 で、主人公の少年にしても、この映画の描き方だと、「早く警察に行って匿名の通報をしろ」と言いたくなってしまう。警察に言いたいけど言えない、両親に言いたいけど言えない、そういう要素がないんです。その辺の逡巡が描かれていない。父親と話すときでもそぶりを見せず、「暴力は駄目だぞ」みたいなことを言われてそれきりの始末。
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 この映画はもっとここをこうすれば、というのがわりと多くあります。そしてそこを膨らませることで(あるいは変えることで)、もっと実りあるものになる。そこから読み取れるものもきっとある。でも、それらを捨象してしまっているがために、単に胸くその悪いものになっています。じゃあちゃんと胸くそ悪いならそれはそれでいいのに、そうでもない。この映画で何を映したかったの? 何を語りたかったの? と素朴に疑問です。表面的な怖さはある。だけど、内面を揺らせるような怖さは何一つ感じられなかった。うーん、これは本当、描写の問題です。90分しかないからしょうがない、という風には言えるんですけど、もっと長くていいから、もっと各種の描写を掘り下げてほしい、と思わずにはいられない作品でございました。 
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格好いいのはわかった。それで、何なのでしょう?
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ロキタさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 今年には2もつくられるとのことですが、もともとアメコミにはてんで関心のないぼくとしてはスルーだった本作です。うーん、これはちょっと困りました。

 ぼくはこのブログを続ける中で、自分の映画の見方が確実に変わってきているなというのを感じております。最近はそれがやや極端にもなっていて、要するに「娯楽的に面白いかどうかは、二の次」ということです。極言すれば、娯楽的に面白いかどうかなどどうでもいい。いや、さすがにそれは言い過ぎかとも思うのですが、ぼくにとっていい映画とはつまり、語りがいのある映画、語ることで見えてくるものがありそうな映画、ということなのです。だって、娯楽作品として面白いかどうかなんて、結局個人の感じ方ですからね。説得してどうなるもんでもないし、そこを語ることの意味があまり見えなくなった。そういうのは、他の皆さんにお任せしたいというのが正直なところです。などと言いつつ、かわいらしい女優などが出てきたらどうせきゃっきゃ言うのですけれども。
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 さて、『シン・シティ』ですが、アメコミ原作で、モノクロの中にパートカラーをふんだんに配合しているのが画的な特徴です。これなあ、これはもう好みの問題だろうからなあ。これこれこういう理由で駄目なのだ、とかそういうことでもないんですねえ。
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 メイキングやインタビューなどを観ると、監督のロドリゲスやタランティーノが、「この画は最高にクールだぜ!」みたいな感じで喋っているのであり、まあアメコミの雰囲気を保持する上ではパートカラーとモノクロの多用によって奥行きをあえて欠落させ、人物をマテリアルに際だたせるというのは効果的な手法であろうとは思うのでして、それが「なるほど超クールだぜ!」と思う人には何の文句もないのですけれど、そのクールでヴィヴィッドな表現ゆえに薄さが際だち、あれだけの技巧を凝らしながらも黒澤明が『天国と地獄』で見せた一瞬のパートカラーの鮮やかさ、強さには及ばぬとも思うのであって、結局のところは「お好きな人はどうぞ」というくらいしか言うことがないのです。
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 映像で冒険したり、いろんな表現を試みるのはどんどんやってほしいと思います。そういう中からびっくりするようなもんが生まれてくるのだろうし、その意味でこの映画はがんがん攻めているとは思うので、本当、お好きな人はどうぞ、です。
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 ぼくには合わないな、というのが、ラストの一場面に凝縮されています。
 ブルース・ウィリスが自殺するんですけど、そのワンカットを、なんというのですかね、シルエット風というか、モノトーンの切り絵みたいな感じで表すんです。ああ、これだなとぼくは思いました。結局この映画では、ブルース・ウィリスが生きようが死のうが、ジェシカ・アルバを救おうがどうなろうが二の次なんです。スタイリッシュなビジュアルとして見せるのが最初にあって、その中にいる人々がどうなろうが映画をスタイリッシュかつクールに見せるためのコマに過ぎない。ぼくはそういうものに興味がない。
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 いや、簡単に言うと、趣味の合わないファッションをずーっと薦められている感じなんです。このシャツ超いけてるよね、このジャケットマジ格好いいよね、てかこの靴とかマジやばくね? とずーっと言われているけど、いやあ、趣味が合わないなあ、としか思えない感じ。で、外見が格好いいのはわかったけど、そろそろ実のある話しない? と言いたくなるんですが、え? でもほら、俺むずかしー話とかちょー苦手な人じゃん? てか踊ってたほうが楽しくね? あ、あの娘ちょー胸でかくね? え、マジいい女じゃね? 普通に。みたいな。うわあ、ノリが合わねえ、という。
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 だから、ノリがあった人はそれでいいんじゃないでしょうか。それとも、この映画だからこそ、あの表現だからこそ語れるものが何かあったのか。ぼくの読解力ではそこが見て取れなかった。その意味では惨敗。監督が三人いて、アメコミ原作のオムニバスで、画のクールさに力入れて、で、何が語られたのか? ぼくにはわからなかったんです。教えてください。この映画については、本当に何もわからなかった。あの色にもきっと意味があるのでしょう。それが見えない。いや、意味なんかなくて、単に格好いい色だからとか言うんだったら、もう本当にどうでもいい。ぼくの知識ではあの色をあのように配置した意味がわからない。
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 どうも、馬が合わない作品でございました。どうも申し訳ありません。
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個人的にはさほど、とはいうものの、ぼくより年長者の世代にはもっと感じ入るものがあるのかも。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 中国映画です。リクエスト作品は本当にいろんな国に分かれていて、それだけでも面白い現象であるなあと思います。今回までに取り上げたのはイタリア、フランス(合作でベルギー)、オーストリア、香港、日本、アメリカ、そしてまだイギリス、韓国が控えており、アニメ映画もぽつぽつ入っている。皆様のご厚意によってか偶然かわかりませんが、おかげさまで万国の風土に触れられるのでございます。

 さて、ロウ・イエという監督のことは知りませんでしたが、天安門事件を扱った映画を過去に撮っており、そのために中国本土での映画撮影を禁じられているそうです。南京を舞台としているのですが、今回の映画もゲリラ撮影の場面が数多いとのことであります。

しかしまあ一見してみて、なかなかに何を言うたらええんのかいのうと頭を悩ます作品でもございました。ふうむ、先に言っておくと、ぼくにはよくわかりませんでした。しかし、なんとかして美点を見いださんとするのが現在の当ブログの方針でありますので、書きながら見つけられたらいいなあと思いつつ、踏み込んで参りましょう。

 「愛」「自由」というものが本作では重要な要素であるらしく、登場人物たちはまさしく奔放に愛を交わしていくのであります。その主軸となりますのが同性愛。しかも結婚している男が別の男と逢瀬を重ね、その男がまた別の男と体を重ね、なおかつその男は別の女性ともチュウをしているなどとあって、なんかぐちゃぐちゃであるなあ、という状況なのです。
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 ぼく一人の感想ではなかなかむずい、ということでネット上をサーフすると、宮台真司先生がヒントをくれます。いわく「『スプリングフィーバー』、つまり『春の嵐』というタイトルが示すとおり、今の南京だからこそできる、というものに充ち満ちている。」「日本も'96年くらいまでは微熱感が街中に満ちていて、それがいろんなことを可能にしていた」とのこと。この辺から考えていきたいと思います。
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 今、2012年という位置から過去を振り返ったときに、90年代なら90年代の、80年代なら80年代の野蛮さ、放埒さというものが実にうらやましく感じられることが多々あります。ぼくも多少の分別がつくくらいには大人になって、ゆえに過去の時代に目をやることも多くなった。そうしたとき、80年代や90年代の日本が持っていたその時代特有の輝きというものが、猛烈に眩しく思える瞬間がある。その時代、ぼくはまだ子どもだった。だから自分の青春を振り返って、体感的な懐かしさを覚えているのではない。当時の東京などぼくは知らないし、ただブラウン管越しにぼんやりとその遠景を眺めるばかりだった。でも、当時の映像が焼き付いている。そしてその野蛮さに、憧れを覚えるのです。
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 そうした視点でこの映画をもう一度眺めると、なるほどこの映画からは今の日本とは明らかに異質なものが見えてくる。だからこの映画を登場人物たちの関係性それ自体だけで観ると見方がやせ細ってしまう。この映画が今の中国という場所を舞台にしているのも大事です。日本の高度経済成長期並みのGDP成長率を背景にしつつ、いまだ性的表現含めた各種の検閲を強く敷かれている不思議の国、中国。そんな中にあって、何をどのように生きていけばいいのかわからぬまま生きている連中の姿は、日本のそれとは似て非なるものです。あれは現在の日本映画の風景では撮れない。絶対、もっと乾いてしまう。そのくせ絶対、もっと湿っぽくなる。
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 印象的だったのは、登場する女性の一人が、コピー製品の工場で働いているところですね。工場長は明らかに彼女をものにしたがっているのですが、そんな折りに警察当局の手入れがあって、大騒ぎになってしまう。こういう場面を今の日本映画で観られることなど、まずあり得はしない。
 中国という国が先進国基準の著作権法観念を無視し、好き勝手に海賊製品を流通させているという実態は、確かにぼくたち日本人から見れば問題が多い。しかし、ぼくは以前から、そこにある野蛮なエネルギーを思ってやみません。思えば20世紀の日本にもそんな類の製品は流通していた。どこのおっさんが歌っているのかわからないウルトラマンの曲のカセットがあったし、何のヒーローだかわからないソフビ人形があったし、縁日では「特殊なえさで育てた」というカラーひよこがいて、中に一万円札が入っているけれど絶対に釣れない重さになっている水風船があって、「騙したもんがちじゃい」と言い切る粗暴さがあったし、騙されたほうも騙されたほうで「ちきしょう、一杯食わされたぜ」と笑える鷹揚さがあった。
 注意してほしいのですが、中国が行っているような不正コピー流通を肯定しているのではありません。しかし、真っ向から否定する気にもなれない。そこには確かに、未成熟な社会だけが放つ粗野な魅力がある。清濁併せのんで、生き馬の目を抜いて、しかしお上にばれたら何もかもおじゃんというような中に生きる人々。
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 そんな風景の最中にあって、しかし性的にはマイノリティで、なおかつそんなマイノリティたちに振り回される女がいて、どうしたらいいかわからなくて、というその生き様には、成熟した日本からは既に失われたように思える濃密さが見て取れる。
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 と、そんなことが言えるんじゃないでしょうかね、うむうむ。
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 などと言いつつも、じゃあおまえはそれをしかと受け止めたのかよおまえ、と言われたらまあそこはどうもぼんやりとしていて、けだるさが色濃く出ているなあと感じてしまうところも多々あり、なんならもっといききったったらええのに、と思うところもないではなかったですね。以前、別の方に紹介してもらった崔洋一監督の『犬、走る』という映画があって、そのときはぴんと来ないところもあったのですが、今思うにあの映画における日本の風景や岸谷五朗の粗暴さは、90年代的な、アジア的な熱気を体現するものであったなあと思います(『月はどっちに出ている』にも言えます)。
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 この映画を「愛」という視点で見ると、どうもぼくにはうまく見えてこない。また、「自由」というのとも違っている。そしてなおかつ、アジア的な熱気に充ち満ちているというのも違う。その意味で、宮台先生言うところの、「自分がこのタイトルを訳すとしたら、『微熱感』とするだろう」というのは腑に落ちる。韓国映画もそうですが、アジアの映画には今の日本映画では表しようのない風景に遭遇することがあります。戦後の時代に思いを馳せ、自分の中でおぼろげに映える過去の野蛮さを思い起こしながらこの映画を観ると、また違うのではないでしょうか。その意味では、実はこの映画は、若者にはあまりぴんと来ない。ぼくも実はそれほどぴんと来ていない。おっさん、おばさんが観ると、もっと深く共感できるものがあるんじゃないでしょうか。
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 まあ、そんなところであります。
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わかろうとすることを諦めずに、しかしわかった気にはならぬように。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 リクエストいただいたものは、自分でレンタルしようとは思わなかったであろう作品が多く、大変刺激になります。自分では幅を取って選んでいるつもりでも、やはり無意識に似たようなものを選んだりしてしまうわけで、名前も知らなかったような作品を観られるのは実にありがたいことであります。ゴールデン・ウィークが終わり、今までより若干ペースが落ちてしまうであろうことをお許し願いたいのですが、今後も残りのリクエスト作を取り上げていくのであります。

 本ブログは旧作がメインでありますが、皆様もまた、ほう、そのような映画があるのか、と思ってもらえば幸いでございます。あるいは、観なくてもいいかと思っていたがそんなに言うなら観てやろう、と思われるのも嬉しいことでございます。映画情報と言うと雑誌などはもとより、ツイッターのTLももっぱら新作のことに溢れているのでありましょうから、ぼくは皆様の助言を受けつつ、古い傑作を掘り起こしてゆければと思うのであります。

 さて、『切腹』です。昨年に三池崇史監督によりリメイクされたようですが、例によって観ておりません。三池監督と言えば『十三人の刺客』のリメイクが傑作として記憶に新しいのですが、『切腹』のリメイクは果たしてもとの作品を超えられたのでありましょうか。いやはや、これを超えるのはなかなかに難しいのではと思わされる、すごい作品でありました。主演の仲代達也は生涯の出演作で一番好きだと答えているらしく、ウィキによると小林監督も「自作のうちで最も密度が高い」とおっしゃったそうです。

 仲代達也演ずる浪人が、井伊家の江戸屋敷を訪ねるところから始まります。彼は仕官していた御家が取りつぶしになり、ろくに職にも就けぬので、生き恥晒すよりいっそ武士として潔く切腹したい、しかし武士としての誇りを守りたいし、その辺の名もなき場所で死ぬのも情けないものがあるから、なにとぞ御当家の敷地を貸してほしい、とこんなことを言い出します。
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 しかし三國連太郎演ずる家老は、「死ぬ気もないのにそんなことを言って、こっちの同情を買うとかして、金をもらおうとか思ってるやつが結構いるんだよね」というようなことを言い、「そういえばこの前も、そんな風なやつがいたんだよね」と、仲代より前に屋敷に来た、一人の若者の話を始めます。このように、「切腹志願」にやってくる武士というのが、実際の歴史の中でも多発していたそうです。さて、仲代はいかなる思いを持って、この屋敷にやってきたのでありましょうか。
 
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 本作の特徴として、展開がどうなるのか読めぬところの面白み、というのが強うございます。ゆえに、未見の方は読む前に観ていただくことを、推奨するものでございます。ここからは観た人向けに語りますね。リクエスト作ということもありますしね。
 
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 ここの語り方は抜群にうまい、というか、ぼくは作り手の術中にもろにはまりました。
 もうぼくはこの時点で持って行かれていたのです。くわあ。
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仲代が凛としたたたずまいで座し、三國は「よからんやつが多いのよ」と話す。そして、彼の話に登場する石浜明がいるわけですが、ここでぼくは笑ってしまったのです。というのも、ぼくは石浜明演ずる若者=「金目当ての不届きもん」という三國の誘導にまんまと乗せられていたために、石浜が無思慮な道化者のように思え、毅然とした屋敷の武士たちとの態度の落差、あるいは仲代との落差が滑稽で間抜けに思え、彼が腹を切るに至るまでの間、「うわあ、やっちゃったなあこいつはぁ」と、軽々しい気持ちで観ておったのです。「やくざをなめてた若者」みたいに捉えておったのです。そこから、見事にひっくり返されました。おまえこそ思慮が狭い! と仲代達也にしかりつけられた思いであり、はっとしたのでありました。
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 仲代が「介錯は誰それにお願いしたい」と言って、あれ? その人いないの? おかしいねえ、となっていく様などは、ミステリ的快楽もあるのですね。そして三國が怒って「やってしまえ!」となって一触即発、それに対して「まあ待て! 話を聞きやがれ!」と仲代。ふうと落ち着いて話し出して回想。緊張と緩和のつくりとしても実に美しい。白州の上で切腹刀を前にして話すこの状況それ自体が緊迫的でもあり、構図、構成がすばらしい。

で、仲代と石浜の過去が語り出されるわけじゃないですか。くわあ、そんな事情があったのか、と思わずにはおられなかったです。ぼくは序盤で、石浜を軽んじて笑っていた。だからこそ、彼の背景を知ったときに、もうこの話をどうしたって見届けずにはおれぬという気持ちになったわけです。
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 語りとして非常に秀逸だと思うのは、石浜が切腹したくないと言い出したとき、「一両日待ってくれ、必ず戻ってくるから待ってくれ」と言うところ。あれを観たときぼくは、「びびってしまったのだな。そして戻ってくると言いつつも戻ってこないという魂胆なのだな。なんだか情けなくて可笑しい姿であるな」と、井伊家目線を共有してしまっていた。ところが、仲代はそこを喝破する。「武士が一両日待ってくれと言うからには、何かよほどの理由があってのことだろう、それをくみ取ってやろうともしないとは!」と。
 もうひとつありますね。あの竹光のところです。あれを観てぼくは「端から死ぬ気のないような、半端ものの武士なのだな」と思ってしまった。しかし、実際はぜんぜん違っていた。この伏線と種明かしはミステリ的である一方、普通のミステリでもなかなかお目にかかれない、実に哀しくも含蓄のあるものでありました。
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 本作は、うかつにも井伊家目線に立って観ていた者を、殴りつけてくる。こうした映画は最近いくつも観ていて、要は「人にはそれぞれ事情があるんだ」ということで、ぼくはそういう学びを得ていたはずなのに、まんまと井伊家目線に立っていた。ああ、もう、本当にぼくは粗忽者であります。仲代の話だと思い込むあまりに、石浜のことをちゃんと考えていなかったのです。
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 ぼくたちは何かにつけて人の人生を評して、ああすればいいのに、こうすればよかったのに、普通に考えたらそんなことあり得ない、普通の感覚ならこうするはずだ、みたいなことを言うけれど、それはやっぱ、遠くから観ている無責任な立場なんですね。この映画では仲代と三國の重々しくも白熱するやりとりが交わされるけれど、仲代の言葉がもう、本当に突き刺さってくる。ぼくたちはついつい、わかった気になる。いや、それを言い出せば今この瞬間のぼくとて同じこと。しかし、「わかった気になってんじゃねえよ」という心得は、常に誰しもに必要なものであろうと、感じ入るのであります。多くのメディアはぼくたちをわかった気にさせる。そして日常の中においてもまた、何かをわかったようにして振る舞う。そのほうが楽だからです。でも、わかってはいないのでしょう。ぼくがわかっている「本当のこと」など、果たして十指に及ぶのでしょうか? そういう風に、認識をぐらつかせます。
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そして本作では、潔く誇り高い武士像というものにも強い疑いを投げかけます。こういうことは歴史上、おそらくものすごくたくさんあったんでしょうね。今、偉人だとされているような人だったり偉業とされる出来事であったりしても、本当のところどうなのかわからない。美談とされる出来事もまた、嘘で塗り固められているのかもしれない。特に昔などは、武家が発表したらもうそれは事実として記録されてしまうわけだから、時が過ぎれば歴史の中に消えていくばかりで、「本当のこと」に触れることは永久にできない。
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 むろん、本当のことがわからないと言って、何も決められないというのでは歴史も社会も関係も成り立たない。ぼくたちはとりあえずひとつひとつのことに対して、「それが本当のことだ」という認識の印鑑を押すしかない。でも、その多くは結局、「そういうことにする」という認識上の処理にしか過ぎない。そしていつしか、「認識の印鑑」それ自体は誤謬のないものだと思い込む。数々の誤謬に晒されながらも、愚鈍にも。そして気づけば「客観的」などと言いつのる。
 であるとするならばぼくたちが取るべき認識の作法は、「わかろうとすることを諦めずに、しかしわかった気にはならない」という、とても不安定なものなのでありましょう。
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『切腹』は物語的な面においても、そこで語られることの語られ方においても、すばらしい作品であると思います。
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映画について語るよりも、映画から考えたくなることをだらだら。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


『攻殻機動隊』の映像作品には押井守監督の劇場版二作と、神山健治監督のテレビシリーズがあるんですが、どちらも必見であります。ぼくはテレビシリーズのほうが好きだ、という話は既に過去にしていまして、『攻殻機動隊』の記事を書いたりもしましたが、いかんせんこの『イノセンス』についてはめちゃしんどいなあと思い、スルーしておりました。

 最近の日本アニメのすごさを示す作品を挙げよ、と言われたらぼくは『千と千尋の神隠し』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破』、そしてこの『イノセンス』の三つをとりあえず挙げます。映像のすごさということでいうなら、この三つは群を抜いている感じがします。その中でも『イノセンス』はちょっと異質というか、どこまで凝るねん、というくらいに凝っていますね。これはもう観ていただくよりほかにありません。
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 本作は人形をモチーフに、人間と身体についてのお話をかましてきます。難しい話は苦手だ、という人は避けておくのが吉でしょう。映像はすごさばりばり、かつ哲学的議論ばりばり。しかもそこにSF的要素がばりばり噛んでくる。『GHOST IN THE SHELL』の続編に当たるので内容的にもハイコンテキストだし、いちげんさんへの親切さには実に乏しいとも言えます。映画について問題点を挙げるとするなら、多くの引用からなる台詞が、ストーリーから浮き上がっているところじゃないかと思います。目を盗んだり義体技術が用いられたり、攻殻機動隊的ギミックが今回も見受けられ、哲学的な問いをいくつも投げはするものの、その投げた問いに呼応するだけのストーリー的強度は乏しい。そんな風に感じたのであります。

 内容について語るのは、うーん、しんどい。
 この映画で引っかかる問いかけはといえば、
「なぜ人は自分の似姿であるところの人形をつくるのか?」
「人間と機械の違いは自明なのか?」
「人はどのようにして自分のリアリティを保ちうるのか?」
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 映画について語るとき、映画から離れてしまうのが最近のぼくのクセですが、今回も離れてしまいます。しかし、この映画について真剣に考えるとなると、映画内だけで語ることは、ぼくには難しいのであります。
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 日常の話をしましょう。たとえばぼくは「適当な雑談」をするのがすごく苦手です。いちいち困ってしまうのです。ある発言に対して、どう切り返すのが適切か、いちいち考える。そして単純なイエス・ノーに終わらぬよう言葉を添えて、毒味を抜いたユーモアなるものを少しだけ配合して、できるだけ愛想よく笑顔を浮かべて、相手の発言から次の枝を導けるようにヒントをくりぬいて、興味もないのにその話題を振って、できるだけ自分の話や主張を抑制して、その末に思い浮かぶ適当な候補を発話に繋げる。実に大変なのです。

 そんなとき、ぼくはいつも戸惑う。ぼくは自分自身の思想に基づいて喋っているのではなく、今までに得てきた記憶の中から、無害なものを選び取り、それを音声言語に加工しているだけではないのか。ぼくの口から出る言葉は著作権の切れた体のいい典型に過ぎず、それはぼくによって生み出されたものではあり得ず、ぼくはこの喉を通して、無難で廉価でウェルメイドな鋳型からできた借り物の言葉を、ただ流動させているだけなのではないか。ぼくは規定のプロトコルにしがみついているだけの、オリジナリティなど欠片さえもありはしない、日本的空気の規格品を演じようとしているのではないか。

長々とさも高邁そうなことを述べて恐縮でございますが、要するにぼくは日常の中で、自分が「当たり障りのない会話をする機械」のように思えてしまう瞬間に、たびたび遭遇するのであります。いつか、自分よりも当たり障りのない会話ができる人工知能ができるのではないかとさえ思います。ぼくには、人間と機械の違いが自明であると、思いがたいのであります。
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 自分の言葉がオリジナルなものではない、というのは、この映画において重要です。この映画のトグサやバトーらは、電脳によって脳内にコンピュータ検索機能があり、ネット空間から言葉を拾ってくることができる。その言葉で会話をしている。そして周りにある言葉の多くはその人自身から発せられたものというより、単に組織の一部としての命令や役割的言辞の数々に過ぎない。だとするなら、ぼくたちの言動の多くが文脈に依拠して発されるものだとするなら、ぼくたちは機械とどんな違いがあるのか?
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 人間とは何か、という問いが難しく思え、機械とは何かという問いは簡単に思える。では、あらためて問う。機械とは何か? 広辞苑によれば「①しかけのある器具。からくり。②外力に抵抗しうる物体の結合からなり、一定の相対運動をなし、外部から与えられたエネルギーを有用な仕事に変形するもの」とあります。さて、特に②について、人間と何が違うのか? 映画の中でも物語られるように、人間の構造を科学的に分解していけば、機械となんら変わらないという事実に至ってしまう。その組成物が金属か蛋白質か程度の違いでしかない。行動のランダムさ、デタラメさにも結局のところ選択肢の限界があり、物理的限界もある。ゆえにランダムに数字を並べる機械と、本質的違いはない。その性能的違いがあるに過ぎない。
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 しかし、まだ人間には重要な砦がある。それは心です。しかし、心の実在が証明されたことなどいまだかつてない。ぼくもあなたも原理的に、永久に、他人に心があることを証明することはできない。それはつまり、たとえば「私には心があります」と明言する機械に対して、それを否定する術をぼくたちは持たないということです。その機械が「自分には心がある」と言い出したとします。そして殺人事件の報道を見て「哀しいですね」と言ったり、こちらが外に出かけようとしたとき「自分も行きたい」と言ったりしたなら、そこに心が不在だと言うことはできるのでしょうか。何故に? 生物ではないから? じゃあ生物とは何? 人間とは何? 脳とは何? ただの蛋白質や脂質やの集積と、そこに流れている電気信号の連続でしかないのではないか?

もちろん、ぼくたちはさしあたりそのようなことに悩む必要なく人生を過ごすことができる。しかし、それもまたたかだかひとつの時代のひとつの文化なるものに守られただけの、脆弱な価値観によるものでしかないのではないか。そしてぼくたちはある種の蒙昧さによって、自分の像を保持しようとしているのではないか。

 わーわーわーわーわーわーわーわー。

 収拾がつかなくなりそうです。
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 ところで、劇中で出てくるガイノイドは後のアメリカ映画『サロゲート』でより人間に近しいものとして出てきますが、実はああした類の(石黒浩氏いうところの)ジェミノイド研究は、それほど世界的には進んでいないとも聞きます。なぜかというに、端的に言えば経済的なコストパフォーマンスの問題があるのではないでしょうか。それに力を注ぐくらいならば、ネットやAR研究に力を注いだほうが商業的実りがあるし、物質的な大量生産も必要ない。軍事的な面で見ても、劇中ではガイノイドの大群が出てきますが、ガイノイド、人間が効果を発揮するのはもっぱらゲリラ的な面においてであり、それに注力するよりはミサイルの精度を上げたり兵士の装備の機能を高めたほうがよほど安い。そういうところがあるんじゃないっすかね、わかんないっすけど(おきまりの投げやり)。

 未来について、そして未来にまつわる哲学について能書きを垂れるのはそれなりに面白いのであります。映画についてぜんぜん語っておらんではないか、もっと「あの映像はすごいっすねー」とか「愛くるしいバゼットハウンドや、危機的状況の象徴としての鳥の群れは、あれこそが押井印っすよねー」とか、そんな話をすればよいのではないか、と言われそうですが、ぼくはそこは今は興味ないのであります。

 ぼくが映画に求めるのは映画から発される問いであり、それによって考えを紡ぐことなのであります。ああ、なんとかそれなりに頭よさげなことを書けたのではないでしょうか。あるいは頭よさげに見せているからこそ頭が悪そうに見えるかも知れませんが、ええいままよ、ここまでじゃい。終わり。
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同性愛を考えるよい入り口となりましょう。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回は人種差別にまつわる映画でしたが、奇しくも今度は同性愛差別のお話です。
 タイトルの「ミルク」とは、実在したサンフランシスコの市政委員、ハーヴィー・ミルク(1930-1978)のことです。彼は自らがゲイであることを公表し、同性愛者の人権運動に尽力した人物なのです。同性愛者の人権に関しては、ウィキペディアのLGBT史年表やLGBTにまつわる権利などの記述が充実しているので、そちらを参照してもらえばよいでしょう(LGBTと言われて何のことかわからない人は調べるのがよいでしょう)。

 同性愛差別は人種差別、民族差別とはまた違う切り口が必要となる問題です。それはやはり、トピックそのものが「性愛」というナイーブな部分に重なっているからであり、なかなか語りにくい、語られにくい、というのがあるわけですね。真っ向から語るとまたえらく大変になりそうなので、映画に言及しつつ進みましょう。
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サンフランシスコという場所は当時のアメリカでもゲイの集まりやすい地区であったらしく、ミルクはそこでカメラ屋を営むことにします。次第に広がり、盛り上がっていくゲイ・コミュニティの一方で、ゲイに対して差別的な警官の取り締まりなどに遭遇し、政治的に声を上げねばならぬと思い立ったのです。映画では彼がサンフランスシスコに来てから暗殺されるまでの数年間を描いており、実際の1970年代の風景がところどころに挟み込まれます。
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 ただ、表立って声を上げると、その分軋轢を生むのが世の習いです。それまではひっそりとしていたからいいものの、そんなに堂々とされちゃあ困るんだ、という人たちも出てくるわけですね。同性愛者の権利を認めるか否かをめぐって、政治的なぶつかりが生まれていくのです。
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日本では表立って同性愛差別をするということはないものの、そこは持ち前の「空気」の文化で、公言することもしない傾向が強いんじゃないかと思います。ただ、同性愛を差別することはないものの、じゃあ同性婚を認めているかと言えばこれは別で、欧米の国々は軒並み法律を整備しているのに反し、なかなか議論が進んでいない様子です。これについては地域差を見てみると結構違いがあって、先進国とされる国では同性結婚を認めるか、ないしはパートナーシップ法やシビル・ユニオン法(婚姻とは同等ではないものの、それに付随する権利の一部または大部分を認める法律)があるのに対し、東欧、中南米、アフリカ、アジアは認めている国のほうが断然少ない。まあ途上国の場合は、それ以外に定めるべき法律があったり、あるいはイスラム圏では教えとしてそもそもアウトというのもあるため、同性愛は成熟社会で問題にされること、という性質があるのかもしれません。
 日本でなぜ認められていないのか、まあいろいろな理由があるのでしょうが、最も大きなもののひとつには憲法の問題があるのでしょう。憲法では婚姻について「両性の」合意が必要なものとしているので、同性婚を認めるとなるとここに引っかかります。日本では過去一度も憲法改正は行われていませんので、ここからひっくり返すのは難しいのでしょう。正式な婚姻ではないパートナーシップ法の導入が現実的ですが、議論はあまり進んでいないようです。

一方、アメリカという国はいちいち決めなくちゃいけないんですね。これはアメリカが共同体であるというより、組織体としての性質が強いというのが大きな要因でありましょう。移民が多く、人種も様々。であるとするなら、生き方に関わることは逐一人々の意見を聞いて決める必要がある。だから人々はそのたびに自分の思想を明確にする必要に迫られます。「あなたは同性愛の権利を認める? 認めない?」という問いに真っ向から晒される。そうしたことを繰り返して、自分が組織体の一員であることを国民が意識する。その最たるものが大統領制です。日本にはない作法であります。

長々と映画とそれたようなことを書いているようですが、この映画を観るにあたっては、その辺のことを考えておきたいものなのであります。
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映画の中では、ショーン・ペン演ずるミルクの近辺よりも、政治的な戦いの様子がメインで描かれますね。同性愛者の差別の現場よりも、実際のニュース映像などを交え、同性愛を認めない政治家や有名人の声が対立軸として明確に描かれる。だから、生のやりとりそれ自体から考える種類の映画とは違います。ゲイを特殊なものとして感じさせないつくりがなされているのですね。
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ぼくは彼を追ったドキュメンタリーについては未見で、どういう人なのか細かいところはわからないんですけど、わりと簡単に性的な交渉を持っちゃう感じがしますね、あれはいいんでしょうか、ああいう人だったんでしょうか。最初に出会って長く暮らす相手もすれ違いざまのナンパだし、途中では明らかに葉っぱか何かをやっている感じの若者を連れ込んですぐにやっちゃいます。特に後半の場合は、既に身の回りにも支援者がわりといる状況で、相手がいないってわけでもなかろうに、すぐにやっちゃう。これ、異性愛の映画だったら、なんじゃこいつは、と思われそうです。映画全体が、「同性愛だっておかしな人たちじゃないんだ」という方向に進んでいる反面で、「それにしても軽いなおい」という印象を観客に抱かせてしまいそうですが、どうなんでしょうか。あれは映画的に、ちょっと危ない場面にも見えるんですが、何か他の意味があるのかなあ。
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 ただ、でも、同性愛は異性愛に比べれば、迫害されているのもあって、近しい者に親密さを増すというのはあるんでしょうかね。ゆっくりと慎重に愛を深めるとかいうんじゃなくて、お互いがそうだとわかったらもうオープンに、やることやっちゃえ、みたいな部分もあるんでしょうか。うーん、でもまあそれは人それぞれなのだろうし、うーん。
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実際のニュース映像が挟み込まれるのですが、アメリカは本当にはっきりとものを言いますね。イエスかノーかのお国柄なんてことも言われますが、堂々と「同性愛は害悪!」みたいなことを言うでしょう。今でも「進化論は嘘!」とか言っている人もいるわけですから、なるほどこれはある程度ちゃんとルール決めしないと国がえらいことになるなあ、と思わされます。
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 結局、同性愛がなぜ嫌われるのかっていうと、前回の記事で語ったことでもあるし、劇中でも出てくるけど、それまで抱いていた価値観を揺るがされるからなんですね。人の認識は楽をしたがるものだし、これはよいもの、悪いものと決めておくほうが苦労がない。なので、男は女と、女は男と、それ以外は認めません! と言い切ったほうが絶対に楽で、社会的にもそのほうがややこしくなくてよい、という主張があるわけです。宗教的な理由もそこに足されるわけですね。ミルクを殺した政治家にしても、自分の生活がうまくいかないってこともあるんでしょうが、それまでの価値観を粉々にされたというのがあったのでしょう。
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 前回の人種差別ものもそうですが、この辺の話はそう易々とまとまりがつかないですね。うまいことこの映画の美点であるとか、映画内の話にまとめたいとも思うけれど、どうしても実世界の状況なんかについても触れたくなるし、それを始めるともうだらだらと収拾がつかなくなるし。まだぜんぜん語りきっていないんですけど、これ以上書くといよいよ長くなりそうなので、ひとまずこの辺にさせてもらいます。

 うまく語れるときとそうでないときがあるので、これでいいのだろうかと考えてしまうことが多いです。なので、リクエストしてくれた方もそれ以外の方でも、あの映画のあの場面はどう思った? あの場面について触れてくれよ、と個別に言ってもらうのもぜんぜんありです。しばらくすると細かい部分については忘れてしまうでしょうから、気になった場合はお早めにどうぞ、今日はこれまで。
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ダイレクトなメッセージを放つ、真っ当な反人種差別映画だと思います。
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砂ぼうずさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

観終えてからしばらく、どういう方向で行こうかなあと書きあぐねて、差別というものについてぼんやりと考えていました。日本は人種差別についてはほとんどない国だと思うんです。というより、白人のコミュニティや黒人のコミュニティというものがそもそも(ぼくの知る限りでは)ほぼないので、人種間の軋轢自体が表立っては来ない。民族差別は多少あるのでしょうね。実際の人間関係はどうかわからないけれど、ネット上の言葉を見れば、日本には民族差別の感情が存在していると言わなくてはならない、残念ですが。
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 ただ、自分に引きつけて考えてみたときに、まあぼくは少なくとも自分の意識する限りにおいて、民族差別意識も人種差別意識もないのですが、差別意識自体がないかというと、そこはどうなんだろうと思いますね。たとえば美人な女性とそうでない女性の間に、まったく差を感じないかと言えば、それは違います。この感覚は差別なんですかね?

 もちろん、その種の言説を日常で放つようなことはしないし、接する際の態度にも一応違いはないし、自分が傷つけられた記憶があるから人を傷つけることは絶対にしませんけれども、美人な女性を見たときの脳波と、そうでない女性を見たときの脳波には間違いなく違いが出ているわけです。態度に違いはない、などと書きましたが、愚かしく若かりし頃などには、たとえば飲み会などで、可愛い女の子ばかりに話しかけて、そうでない子には目もくれないということをやってしまいましたもの。
「だからおまえはもてないんだ」
 む! 誰だおまえは! なんだと! 畜生、その通りだからぐうの音も出ない!
 ぎゃふん!
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 ええと、耳の奥に響く幻聴を無視して話を続けますと、あのー、人はね、これはもう、顔で区別してしまいますね、これは差別ということと同じではないかも知れないけれど、まったく別のものだとも言い切れないと思うんですね。で、じゃあ、なんでぼくたちは顔で人を区別してしまうのか?

これからは私見ですゆえ、何の学術的裏付けも知らぬゆえ、どこかで吹聴して馬鹿にされても知りませんが、まあちょいとした論を展開しましょう。
 なぜ人は顔にこだわるのか、についてです。
 
 人間は進化の過程で、個体識別の機能を発達させたわけです。いろいろなものを食べるようになったり、道具を使ったりするようになると、必然的に個体識別能力が要求されるわけですね。で、互いの姿形をも識別するわけですが、人間の場合動物界で唯一、衣服をまとうようになった。他の動物ならば毛並みが立派だとか、背中の模様が鮮やかだとかで識別できるけれど、人間の場合その道は絶たれて、顔で互いを区別するようになったのです。で、それでもまだ、体のたくましさとか、女性で言えば乳房の大きさとか、体つきで区別する部分もあったわけですが、だんだんと社会や文化が成熟してくるにつれ、動物的なたくましさだけが価値を担うことは少なくなっていった。日本でも時代によっては、顔のよしあしよりも、いかに巧く和歌が詠めるかのほうが大事だなんて文化もあった。そういう変遷を経る中で現代、対面コミュニケーションでは身だしなみのよさとかそういうものを抱えつつ、顔で個体識別をはかるのが最も簡単な方法だということになったわけですね。

 で、なぜ顔のよしあしを感じるのか、ですけれども、個体を識別するだけでは脳に負担がかかってしまうからだと思うんです。生存戦略上、何が自分にとって価値があるのかないのか、脳は決める必要がある。栄養のある木の実と毒のある木の実を判別しなくてはならない。脳にできるだけ負担を掛けずに、迅速に生存戦略上の価値判断を果たすためには、外見で識別した後、価値のあるなしを即座に決めるのが合理的なんですね。つまり、ぼくたちは好むと好まざるとに関わらず、無意識に美醜の判断を取ってしまう。

 で、これを社会にまで広げてみます。どういう顔が美しいとされるかは文化ごとに違いがあるとしても、美しい顔というのは大体決まっていて、そう認められた人がモデルやアイドルになるわけです。これも脳が楽をするための判断でしょう。何が美しいと感じるのかばらばらであっては、自分をよく見せようとするうえでも判断に迷うわけです。また、何を美しいと感じるのか、自分一人で決めるよりも、多数の合意があったほうが判断しやすい。皆がうまそうに食べている木の実はうまいのだろう、と認識がしやすくなる。自分で判断しなくていいのはいちばん楽です。

 そんなわけで、人は顔にこだわるんじゃないでしょうかね、うむ。
 
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 いい加減映画の話をしろ、ということですが、差別は今述べたようなこととすごく密接に関連していると思うんです。要するに、ぼくたちは何かで価値判断しないとやっていられない。そしてその極端な表れが人種差別なんですね。差別を撤廃する、というのは法律や制度としては可能でも、文化や個人の感覚のせいで難しいわけです。ぼくたちの中には個体識別機能が基盤として存在していて、無意識に価値判断を行うようにできている。わかりやすく言うなら、大多数の人間は差別感情の種を脳に埋め込んだまま生まれてくる。そして経済や社会の土壌は、いくらでもそれを発芽しうるようにできている。育て方や天候の具合で、いくらでも生長するんです。だから差別は仕方がない、などということではありませんが、差別を他人事として考えるのは、差別と自分とを不当に切り離す行為であると言いたいのであります。ぼくたちの中にある差別の種をどう発芽させないようにするか、自分事として引きつけながらどう社会的に芽を摘むかが大事であって、差別はよくない! ではどうにもならないってことですね。差別は知性の欠如と恐怖心が大きな原因であろうと思うのですが、これを社会的に除去するには教育と経済の不均衡是正が必要なので、差別撲滅だけを訴えることに実効性はあまりないんじゃないかと思います。いや、あまりないっていう言い方は良くないですね。社会運動は実を結んだりしているわけだし。うーん、うーん、もうそろそろやめておきましょうか。

 さて、ここからやっと本当に映画の話です。 
本作はエドワード・ノートン演ずるネオナチの男が黒人を殺し、刑務所の中で改心して戻ってくるまでの様子と、彼の影響でネオナチになった弟の話が二つの主軸を担います。

映画全体にひりひりした感じがつきまとい、緊張感が保たれたまま劇が進んでいくのはとてもよかったと思います。差別自体がよくないことなので、よかったという言い方は多分に語弊があるのですが、まあ見せ方として優れているということです。
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 ノートンは現在の場面ではかつての思想を捨てたよき人として現れ、回想場面ではごりごりの差別主義者として登場する。これを交互に織りなすことによって、映画には強い張りが生まれます。そしてこれは、差別が制度上はなくなった今でも差別は残っているのだという、実世界の現状とシンクロしますね。これがね、時系列順に、ノートンがだんだんと差別をしなくなっていく様子だけを描いていたら、どこかしら欺瞞性が感じられたと思うんですけど、この構成にしたことで観客は差別を現在進行形のものとしても受け止めることができる。秀逸な作りだと思います。テンポもいい。
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 彼が差別主義者になったのはもともと、父の黒人不信の教えと、父を黒人に殺されたという出来事が直接的な理由として描かれます。教育と体験。そして、そこから翻るに至ったのは、刑務所での黒人との交友体験、そして自分と同じ白人からの暴行によるものです。
ノートン自身は体験によって、弟のエドワード・ファーロングは兄からの伝達=教育によって、自分の思想を改めるに至ります。
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 教育と体験が差別感情を左右する、という構成については、やや平凡なものを感じてしまいます。そんなのは日本でも既にあったことですしね。鬼畜米英を憎めと教育されてきたけれど、いざ戦争が終わって会ってみたら意外とアメリカ人はいい人じゃないか、みたいなことはあったわけで、だからこそここまでアメリカ文化が広まったわけでしょう。そして、人種的対立を経てここまでやってきたアメリカでの考えにしては、いささか物足りないものを感じるのも事実です。あの国はもっと深い思索を経てきたと思うんですが、ぼくにはそこまで読み取れませんでした。
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 もっとも、そうは言いつつも、教育と体験以外に人の心を改めるものはないのだ、という強い結論に至ったというのなら別です。そしてこの映画はその両面を見据えて設計されているとも思いますね。ダイレクトなメッセージ機能は十分に有しています。
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 つくりとしては、わかりやすい因果応報譚でもあります。相手に悪いことをしたら自分にも返ってくるのだぞ、ということです。そして、実はこの映画は終わっていないですからね。ノートンがあの後で、果たしてどういう生き方ができるのか、観客はいやがおうにも考えることになります。だから映画の中に閉じていない。この映画はあくまでも現実に寄り添いながら進んでいるのですね。そう考えると、妙にこねくり回すことなく、人種差別の状況について、真っ向からぱしっと描いているというこの映画の強さが見えてきます。
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 人種差別に関する映画の、ひとつの模範型としてお薦めできるのではないでしょうか。
 映画に関係ない部分が長くなってしまい申し訳ありませんが、ひとまずこの辺にさせてもらいたいと思います。
 
ちなみに……ネオナチのでぶちんがバンを運転中に歌っている歌は「リパブリック讃歌」が原曲。これは黒人による歌であり、黒人奴隷解放を訴えたジョン・ブラウンを称える歌にもなっているため、ネオナチの人間が歌うのは変。ネオナチでぶちんの馬鹿さ、歴史への無知を表したシーンとも読める。
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正義の実現はカタルシスになるけれど、個人的にはもっと突っ込んでほしいとも思いました。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Murder in the First』
結構前にお薦めいただいていたのですが、すっかりと失念しておりました。映画をご紹介いただく場合、「おすすめ」だと忘れたままにしてしまったり、あるいはぴんと来なかったら書かずにスルーする可能性もあるので、「この映画観て記事書きなよ、書けばいいじゃん、おまえみたいなやつは」とお思いの方は(なぜそんなにぶっきらぼうなのか)、「リクエスト」と書いてもらうと、一応書かねばならぬという気になります。今後のご参考にしてください。

さて、『告発』ですけれども、ケヴィン・ベーコン、クリスチャン・スレーター主演で、アルカトラズ刑務所を題材にしたお話です。アルカトラズ島にはもともと南北戦争の際、南軍のサンフランシスコ湾侵入を防ぐために北軍が設置した要塞があったのですが、1861年に軍事刑務所として正式に指定されたそうです。途中から連邦刑務所として管轄が変わったのですが、1963年の閉鎖に至るまで100年以上にわたり、アメリカにおける代表的な刑務所のひとつとして機能していたようであります。アメリカの治安を守るうえでのアピールにも使われていたらしく、アル・カポネやマシンガン・ケリーといった有名な犯罪者も収容されていたのであります。

 しかし、じゃあ収容されていた囚人が誰も極悪な犯罪者だったかというとそうではないようで、比較的軽い罪の犯罪者も送られていたらしいのですね。高い維持費の一方で、空き部屋があってはならぬという事情もあって、誰も彼もが殺人犯とかそんなのじゃなかった、ということのようです。
 
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 囚人のケヴィン・ベーコンは貧しい境遇にあった男で、少年時代、妹のために五ドルを盗んで収監されます。そして脱獄を図るのですが捕まってしまい、ほとんど光のない独房の中でなんと三年間の懲罰を食らうことになったのです。
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 しかも看守からの暴行は当たり前のように行われており、心神喪失状態になって、受刑者の一人を殺してしまいます。その受刑者は自分と同じに脱獄を図ったのですが、別の犯罪者を密告した見返りに懲罰を免れ、他の囚人と同じく普通の監房生活を送っていたので、ケヴィン・ベーコンは憎々しく思って、衝動的にやってしまったのです。
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 その裁判をあらためてやらなきゃいけない、ということになって弁護士のクリスチャン・スレーターに出会うのですが、その過程でアルカトラズのひどい虐待が暴かれていき、「告発」され、やがてアルカトラズ自体が閉鎖されていくと、まあこのようなお話です。
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 実話をもとにつくられたとのことですが、今よりも人権意識のない時代でしょうし、まあ本当にこれに近しいことはあったんだろうなあと思わされます。現代においてだって、イラク戦争時のアブグレイブ刑務所みたいなことがあったわけですからね。
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 犯罪者にまつわる話は最近幾度か語ったりしているんですけれど、うーん、この辺は一本調子で語るのがやっぱり難しいですねえ。

 映画自体はね、うん、今のぼくにはやや単純に映るところもあります。ケヴィン・ベーコンが演じた役の設定としては、貧しい境遇で妹のためにわずかばかりの金を盗み、ひどい虐待を受ける、ということなので、観ている側としては単純に、可哀想だなと思いますよね。それで、スレーターが頑張って彼を支えて、人道的な社会へと前進していきました。悪しき環境が絶たれましたってなもんなんですけど、うーん、うん。
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 広く受けいれられるための映画としてはそれでいいんですよ。そのほうが観客のウケもいいだろうし、カタルシスをもたらすかもしれない。この映画はこれでいい。だからこの映画のつくりに文句を言うぼくがひねくれているんです。そう思ってもらうのが穏当です。

 ぼくはもう一歩突っ込んで考えてしまう。あのケヴィン・ベーコンが、たとえばもっとひどい罪を犯したという設定だったらどうなのか。ぼくたちはベーコンやスレーターに感情移入できただろうか。そこまでいくと、この映画はもっと深い部分に澱を残せたと思ってしまうんです。

 いや、わかります。この映画で描かれていた重要なことのひとつは、たとえ社会に混乱を起こし、自分の立場が危うくなるとしても、正義のために戦うべきなんだというメッセージでもあります。劇中でも、スレーターに依頼が回ってきたとき、「この裁判はどうせ負け戦だから」みたいなことを周りに言われるんです。賢い大人は、「まあ変に粋がらなくていいからさ、うまいことやりなよ」みたいな感じのわけです。スレーターはそうじゃいけないと思って奮闘するんですね。

 だからこの映画では、たゆまぬ正義を実現する姿のよさってものを見て取るのが感動的な解釈で、そういう風に観るのがきっと正しいのでしょう。しかし、今のぼくはもうちょっとこねくり回したものを求めてしまっているんですね。

 正義ってじゃあなんやねん、ということも考えてしまう。考えたくなる。さっきの話と繋がるんですけど、ベーコンがもともと殺人犯か何かだったら、周りは応援していただろうか。殺人犯でも人道的な扱いを受けるべきだ、という論調は生まれていただろうか。殺人犯なのだからひどい目にあっても構わない、いやむしろそうすることが正義なのだ、みたいな話もあったんじゃないか。そうすると、「たゆまぬ正義」のようなわかりやすく清いものではなく、「何が正義かはわからないけれど、自分はこれが正義だと思うんだ。そして、それを貫くんだ」というものが見えてきたんじゃないか。
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 何度も書いてアレですけど、この映画はそういう映画じゃないのはわかっているんです。 ただ、構図として単純に見えてしまう。あれだと、検事役のウィリアム・H・メイシーがただの邪魔者に見えてしまうし、まあ誰だってベーコン、スレーターを応援しちゃうでしょう。
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 この辺の話は他にいい映画があるもので、どうもそっちと比較するところもでてきてしまいました。信ずる正義を実現する話ってことだと、『セルピコ』とか『フィクサー』とかが好きで、あの映画って、「てめえ、マジでつぶすぞ」があったんです。主人公が頑張れば頑張るだけ、「おめえつぶすからな」って周りから威嚇されていた。だから、それでも頑張る姿が余計に感動的だった。あとは『ロンゲスト・ヤード』です。これは同じ監獄もので、あの映画でも「囚人の犯罪歴が弱い、もしくは描かれない」というところはあったものの、「ここで戦わなきゃ一生後悔する。たとえ、失うものがどんなに大きくても」というところで強い芯があった。本作のスレーターはねえ、そこが弱くてねえ。ちょこちょこ言われたりはするんですけど、「だったらマスコミにばらしますんで」みたいにかわしちゃったりするし。スレーターはあの後も普通に弁護士稼業できるんだろうし。っていうか、結構儲かっていくだろうし。
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 個人的には引っかかってしまいましたが、よい映画だとは思いますし、飽くことなく観られました。なんだかんだ言っても、じゃあ自分であのスレーターのようなことができるかと言われたら難しいわけですし、たゆまぬ正義のために頑張る姿は、とても尊いものであります。
 こんなところで、おしまい。
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この映画が語る深い部分に、ぼくは立ち入りようがないですね。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 阪神大震災から十五年後の一日、神戸の街で偶然出会った二人の男女のお話です。お話、というよりも、夜歩きの様子、というほうが合っているのでしょうか。当時の記憶を物語りながら、追悼集会の開かれる場所まで歩いていきます。もとはNHKのドラマだったのですが、反響の大きさから再編集して映画化したそうです。

 阪神大震災の頃、「こども」であったぼくですが、実家は関西地方でもなく、遠景としての記憶しかないのが正直なところです。昨年の大地震でも身内に被害もなく、その辺のことを当事者的に物語ることはぼくにはできません。なので、ちょっと書き方が難しいですね。
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 主人公は森山未來と佐藤江梨子で、彼らは実際に被災体験があるらしいですね。劇中では別の人物として出てくるので、その辺の虚実に違和感を覚えるところも最初はありましたが、まあそこにこだわる意味は無かろうということで、気にならなくなりました。全編ハンディで照明も弱めで、生っぽい感じはよく作用していたと思います。これをがっつりドラマ仕立てにしていたら虚構感が際だっていたでしょうし、ドキュメンタリックな語りがうまくはまっていました。長回しも効果的です。

 実在感があってよかったですね。二人の対照的な感じと、ああ、おるおる、こういうのはおるなあ、という実在感。森山未來は現実的というかシニカルというか、あまり感情を表立って出さないタイプの男を好演しており、佐藤江梨子は佐藤江梨子で、ある意味では佐藤江梨子のままのところもあるのですが、こういうやつはいるなあ、と思うに十分でございました。随所随所のちょっとした会話だったり何なりが効いていますね。
ところで、佐藤江梨子は子ども時代、神戸で長く暮らしていたそうですが、あの神戸弁というのはネイティブの方からするとどうなんでしょう。ぼくはネイティブでも何でもないですが、テレビなどで聞き慣れている関西弁よりも標準語っぽいイントネーションが随所に入り交じっている気がして、ちょっと変な感じもしました。いや、それを悪いというのではなくて、むしろぼくはそこがよいのだと思えた。十五年ぶりに帰ってきた神戸、という設定で、神戸の感じが抜けて東京っぽくなっているんだなあと思えて、そこは実在感に繋がったのです。
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 居酒屋シーンがあるんですが、秀逸なくだりがありますね。震災の時に、震災に乗じてというかなんというか、まあ普段では考えられない高値で商売をするやつがいたという話になります。焼き芋を一本二千円で売っていたとかね、これは他のところでも聞いたことのある話です。で、佐藤江梨子は「今でも許せない」みたいになるんですけど、そこで森山未來がかわしてくる。「それは需要と供給の関係上仕方のないことだ」っていうんですね。ある意味でナイーブなところですが、この映画は切り込んでくる。森山未來は親父がそれで儲けたという自分自身の話をするんですが、それで一挙に関係が崩れる。大きなぶつかりを序盤でかましてきたのはこの脚本全体で見ると、とても効果的でした。それが後々の語りを引き出すフックにもなっています。
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 全編を通して、実際の過去の映像を持ち出す場面は一カ所を除いてほとんどなく、あくまで語りで伝えていく。そこは作り手の良心的なところというか、鋭いところであります。この映画において実際の映像は要らない。ただ、記憶を物語ることで、想像させるのがよいのですね。いろんな昔話を二人が語るのですが、それを映像化した瞬間にフィクション性が際だってしまう。だから、絶対にそれはしない。劇中、佐藤江梨子がある人物のもとに出向く場面でも、その家の中は一切映さない。フィクションの領分をわきまえているように思えました。普通の劇映画では、回想シーンがはまされるのが常で、それが効果を果たす映画ももちろん多いわけですが、こうした虚実の入り交じるような映画においては、回想シーンは要らない。おっさんと喋るシーンも要らない。それをすると二人のつくりだす空気は一瞬で壊れる。実に正しい判断だと思います。 
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 この映画から震災にまつわるような話を引き出すことは、ぼくには難しいですね。当事者ではないぼくが何を言っても、というところがあるし、それは去年の地震にしてもそうです。
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 津田寛治が森山の勤める会社の上司だか先輩だかで出てくるんですけど、あの人はぜんぜん震災のことを他人事として受け止めている。神戸には何の思い入れもなく、建築の仕事も震災の記憶なしに語る。二人に感情移入したり、当事者として記憶を持っている人からすると、あの津田寛治は嫌な役に思えるでしょうけれど、この映画をナイーブにしすぎないという点では重要な重しだったとも思います。 ぼくたちは何かにつけて鈍感にならざるを得ない。妙な敏感さで寄り添うことは多かれ少なかれ欺瞞であるほかない。この映画は人間関係のバランス感覚が非常にいいと思いました。
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 象徴的な場面があります。佐藤江梨子が、震災で亡くした友達の家の近くまで来て、行こうかどうしようかと半泣きで悩む。森山は簡単に、「行ったらええやん」と言う。それに対して佐藤が「他人事だからって!」とわめくと、森山は冷静に「まあ、他人事だからね」とこれまた簡単に言います。これは面白いと思った。森山もまた震災当事者であるのに、震災にまつわることであっても、他人事だと受け流す。今日たまたま出会った相手だ。他人事だ。このあたりの距離感。この辺が実在感を高めてきますね。この二人はもう出会わないんじゃないか、と思わせるところもいい。この種の映画が持つ領分のわきまえ、それをしっかりと持っているように見受けました。
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三者の立ち位置を用意しているのは脚本設計上の大きな美点です。震災の記憶を強く語る佐藤江梨子、被災したけれどちょっと引いている目線の森山未來、震災の実体験を持たない津田寛治。この三層をつくったのは作り手の大変優れたところでしょう。
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 この映画を観て、何かがわかったような気にはぼくはなれないですね。どう感じたと問われても非常に難しいです。歯切れのいいことは何も言えませんし、ぜひお薦めしますという類のもんでもないんです。去年、震災があったことも鑑みて、なんとも言いようがないというのが正直なところです。うん、今回については、この映画はこうじゃ、と言えぬままに、逃げるようにして終わらせていただければと思います。
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奇想てんこ盛り。だけどこの主人公はぼくたちよりも切なく。
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皇帝ペンギン飼育係さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『神探』
 リクエスト作は頂いた順に取り上げるようにしているのですが、奇しくも非アメリカ映画が続き、しかもあまり国が被らずに来ていますね。イタリア、フランス、オーストリア、日本と来て、今回は香港映画です。香港映画はこのブログでほとんど取り上げていないのではないでしょうか。ブルース・リー、ジャッキー・チェンという二大スターくらいはなんとか押さえていこうと思っているのですけれど、記事として書く気にはならないというか、いまさらぼくなどがブルース・リーの魅力とかを語ったところで、ねえ? もっとがっつりはまっている人は多いわけですから、映画秘宝界隈の人たちにお任せしましょう、しょこたんとかに。

 さて、ジョニー・トーという監督については宇田丸さんのラジオで知り、傑作と謳われる『ザ・ミッション 非情の掟』と『エグザイル/絆』を観たのですが、なんだかぼくの好きな感じとは違うのう、と思って遠ざかっていました。

 振り返って考えてみるに、ぼくは特定のジャンルや監督について、アツアツになって愛好するということをほとんどしない人間であります。映画好きの方の中にはたとえばゾンビ映画が大好きだとか、香港ノワールに惹かれてやまぬという人も多いように見受けるのですが、ぼくはそういうのがない。アニメなどはわりと好きですけれど、世間にはものすごく愛好している人も多いわけで、そうした人らに比べればすごく好きだというわけでもないし詳しくもない。強いて挙げるならば、「この映画には人の生き様が描かれておるのう」と、ぐうっとなるような作品が好きと言えるわけですが、それをジャンルとして提示されると違う。あとは社会や人生のあり方について読み取らせてくれる作品が好きですね。今のぼくは、以前と比べて、「単純に面白い映画」というものにあまり興味がなくなっている。新作を追いかける趣味が全くない、というのもその辺りに関係していそうです。

 この作品は単純に面白さを追求したぶっ飛び映画かな、と思いきや、書いているうちに、ん、そうでもないな、もっと自分たちに引きつけて観られるところもあるな、と思い至ります。
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「MAD探偵」という通り、主人公は結構、相当いっちゃってる感じの元刑事です。存在しない人間が見えていたり、人の内面が見えるのだと言ったりします。いっちゃってるだけじゃなくて特殊能力もあり、事件が起きればその犯人や被害者と同じ行動を取ることによって真相を突き止め、解決に導くということもできてしまいます。
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「七人の容疑者」ということですけれど、これは本当に七人いるわけではなく、ある刑事の失踪事件について、同僚の刑事がどうやら犯人らしいということになって、そいつの内面には七人の人格が潜んでいるぞ、とそういうことなのです。いっちゃってる主人公には、その犯人と思しき刑事が七人の人間に見えるんですね。このビジュアルは面白かったです。
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 以前、『ブラックスワン』を評したとき、「幻覚はそれを見ている当人の目線に限定して描くほうがいいんじゃないか」と書いたのですが、本作では序盤はわりと忠実にそこが守られます。後半になるとそうでもなくなるんですが、まあこれくらい大胆に描くならもういいでしょう。ビジュアル優先で面白くわかりやすくいくのがいいのです。
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 相手の姿が、実際のそれと異なって映る、というアイディアはこの作品の彩りにおいて相当大事で、それがなければ結構地味な映画になっていたでしょうね。このアイディアは何か元ネタがあるんでしょうか。もちろん、幻覚を見る系の映画では過去にいくらもありますけれど、ここまで大胆にやってのけた例は知りません。トイレのシーンなんかは面白いですね。主人公と容疑者がもみ合いになるんですけど、主人公から見ると相手が七人に見えて、その人格同士でまたもみ合ったりしている。内面の葛藤をこのような形で描くってのは新鮮でした。惜しむらくはそれがクライマックスにほとんど活かされないことですね。ビジュアルの面白さはあったけれど、この七人の人格というのが効いていませんでした。もっとも、時間的にタイトだし、他にも要素があるので、その点は仕方ないかも知れません。

 短い中に奇想てんこ盛り、というタイプの映画です。90分弱の映画ですから、人格が人間の形で見える、というアイディアで押してもいいのに、主人公が犯人や被害者の行動を取ることで真相に気づく、というのも入っている。この辺はキング原作、クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』、日本で言えば漫画『サイコメトラーEIJI』のあたりにヒントがあったんじゃないでしょうか。事件に関係するものに触れるとその過去が見える、というやつです。それをもっと大胆に描いていますね。被害者がスーツケースに入れられて殺された事件を調査するときは「自分をスーツケースに入れて階段から落とせ」と言ってみたりするんです。ああ、でも、なんかもっと直接に近い元ネタもありそうだなあ。
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 内面が見えて相手の気持ちが読み取れる、というのはテレパスですけれど、この映画はテレパスだったりサイコメトリーだったりという、既に使われているオカルト的アイディアをもっと先鋭的に、ビジュアル的に詰めていったわけですね。そこが人々に面白さを感じさせる要因であろうと思います。
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 見えるものは見せる、という部分にこだわり、内面問題に固着しないのもテンポをよくする工夫であって、たとえば主人公の抱える問題を、恋人の話に集約していたのがポイントの一つでしょう。こういう変わった主人公の映画の場合、どうしても事件よりもその人自身のことに興味がいったりするわけで、どうして狂ったんだとかこいつはどういう内面を抱えているんだとかを考えたくなりますけれど、その部分は恋人、元妻とかのあたりに集めておいたのですね。彼は既に存在しない妻の幻影と一緒にいようとするんですけど、最終的にそこから脱する。そこで彼自身の物語というのも重しとして機能させておく。その辺のバランスも気を遣っているんです。自分だけに見えている相手、というのもこれまた昔からあるようなアイディアですけど、いろんな奇想の中のひとつに位置づけているので、話の綾になります。

 主人公を演じたのはラウ・チンワンという人で、香川照之と柳葉敏郎を足したような顔ですけれど、この眼力も魅力ですね。いっちゃってる感が病的に映らず、はじけてる感じが出てきて、あまりナイーブな方面にいかない。一方で、この主人公の孤独みたいなもんもよく描かれていたように思います。もともとはゴッホのイメージが最初にあったそうなんですが、この主人公は孤独なんですね。飯を一人で何度も頼んで黙々と食うシーンとかも印象的です。それに、結局は頭がおかしいやつだと思われて、仲間の刑事に撃たれてしまうあたりとかね。あの辺には哀愁を感じます。やっとこさ妻の幻影というくびきから解放されて別の人生が見いだせるのかと思いきや、そして自分なりに頑張って敵を追い詰めたと思いきや、仲間に疑われてやられる、というのは哀しいもんがあります。
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 考えてみると、多かれ少なかれぼくたちにも似たところがあるんかな、とも思いますね。この主人公は簡単に言えば「狂っている」と言えて、自分と切り離してみられるかも知れないけれど、まったく遠いものでもないと思うんです。彼は相手の人格が見えたり、過去の愛の幻影に縛られたりするんですけど、それって自分の身に置き換えてもあることじゃないですか? 人と接したときに相手がどんな人物かが初対面でなんとなくわかってしまったりとか、素敵な相手がいるのに過去に好きだった人のイメージに引っ張られてうまく接することができなかったりとかね。それと、自分では一生懸命やったつもりなのに、人にわかってもらえなくて、憂き目を見たり。作品では狂気や特殊能力として大いにデフォルメされてはいるけれど、その中心には自分たちとなんら変わらない内面問題、関係問題があるってのが、この映画をただのクレイジーな物語にさせていない重要な要素であろうと思いますね。
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 ふむ、まあ、ふむ、そんなところでありましょうか。面白く観ました。お薦めします。

 
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アップがしつこい。男のケツも映せないならセックスシーンなんて撮っちゃいけない。
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小野さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 実はこの作品は原作小説を過去に取り上げています。当ブログで唯一の小説評で、そのときに、小説評はこらかなりしんどいなあと思ってやらないことにしたんです。やりたいとも思いつつ、映画と比べてどうもしっくりくるやり方が見つからないんですね。なので、今後も映画一本で、ああ、あとは恵比寿マスカッツ関連で(ぼくはいつまでも言うぞ)、続けて参りたいと思います。

で、大まかなところはそのときの評で書いたことで事足りるところもあるんですが、まあ、とりあえず書き出してみましょう。

妻夫木聡と深津絵里の逃避行劇がメインです。妻夫木は出会い系サイトで知り合った満島ひかりを殺してしまい、捜査の手が自分に伸びていることを知ります。深津絵里とは満島と同じく、過去に出会い系で知り合った仲なのですが、偶然そのタイミングで再会を果たし、哀しき逃避行が始まる始まる、という案配なのであります。

 正直な話、「大企業協賛系」映画というのはあまり期待しても仕方のないところもありまして、まあ卒のない二時間ドラマを観せていただければそれで結構、という部分もあるわけでして、だからこそたとえば「こんな不遇な役に妻夫木、深津の美男美女コンビは合わない」などと言いたくはないのですが、言いたくないと言ってあげているこのぼくに、どうしてこの映画はこういうことをするんでしょう。
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 まずはよくないと思ったところを挙げていきます。別にこの映画に限りませんが、顔のアップが多すぎるんです。宇田丸さんは「ラストの顔のアップがカタルシス」みたいなことを言っていてぼくは首をかしげるのですが、この映画はむしろ引きの画を多用すべきでしょう。どうやら「地方の閉塞感」みたいなことを褒め言葉にあげている人がいるんですが、いやいや、もっとそういうのを感じさせる映画はあるし、むしろこの映画はその美点を積極的に殺してしまっている。

 舞台は佐賀県とか長崎県とかその辺なのですが、地方の寂寥を映し出すなら、もっと引きの画で撮る必要があるでしょう。ああ、これは寂しい場所だなあ、と感じさせてこそ、出会い系にすがり何かを求める人々の悲しさが出るんです。この映画に描かれている地方は寂しくない。いや、満足に描かれてすらいない。なぜか。役者の顔のアップばかり撮っているからだ!
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 引きの画で撮ったほうが、絶対寂しく映るはずなんです。そのことで、ああ、こいつらはちっぽけだなあ、と思う。そのちっぽけさが彼らを引き立てる。ちっぽけなやつらが、ちっぽけなやつらなりに見いだしたちっぽけな答えのその無様さ。その無様さによってこちらに訴えかけられるものがある。ところがこの映画はやたらと妻夫木、深津のアップ、アップ、アップ。違うでしょう。部屋に二人でいるときは引いて撮らなきゃ。深津が一人でケーキを食ってるシーンもそう。背中から撮らなきゃいけない。全体を通して、人物に寄りすぎている。全体を通して、もっと引くべきです。イカの目を映している場合じゃないんだよ。

 演出はいいところもあるんですけど、悪目立ちします。悪いところは書いておかないと気が済まないというたちの悪い性分なもんで、先に書きます。
 たとえば妻夫木と深津が初めてラブホテルに入るシーン。ここで妻夫木が深津に金を渡します。深津は受け取る気がないのですが、妻夫木は出会い系のクセみたいなもんで、渡してしまうんです。ここね、その渡した金をアップで映すんです。で、二人が映る構図をその後に映す。違う。これは逆だ。まずは妻夫木が深津に金を渡すカットを引いて撮るべきです。その行為が、行為性が、妻夫木演ずる男の悲しさ、不器用さ、二人の間の気まずい時間を描き出すはずで、紙幣のアップはその後に挟み込めばいい、二秒くらいね。それで余韻を残せばいい。こういうわかりやすさ重視演出のところが、映画じゃなくてドラマなんですね。最初はまあええやないかと思っていたんですが、やっぱり目についてしまいます。
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 あとはまあ、セックスシーンですねえ。高橋ヨシキさんがテレビ番組で『八日目の蝉』を評したとき、「乳首を死守したいなら映画女優になるな」という名言を放ったのですが、それを借りて言うなら、「男のケツも映せねえならセックスシーンなんか撮るな」です。
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 いいです、仕方ないんです。深津絵里さんや事務所が乳首を死守したいならそれでいい。そこにこだわったりはしない。ただ、妻夫木のケツは映せ! と言うと、にわかにゲイ疑惑が浮上しそうですが、そうではありません。正常位でケツを映すことによって、セックスのピストン運動がちゃんと映るのです。そしてその行為の野蛮さ、無様さが際だち、悲しさも含めた二人の交わりに味わいが生まれる。韓国映画はそういうことをちゃんと知っている。ところがこちらはそれさえもしない。日本映画では女優が乳首を死守するだけではなく、男優がケツを死守します。それで結局また顔のアップアップアップ。だったらセックスシーンなんか撮らなきゃいいのに。深津絵里・カヴァードウィズ赤いシーツは、ださすぎる。
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ことほどさように演出的不備が目立ちます。音楽も過剰でした。ここ一番で流せばいいのに、やたらとしっとり音楽を使いますね。過剰にカットを割るのも気になる。まさしく空気をカットしている場面が見受けられる。本当にわかりやすい親切設計。

 さて、物語的な面はどうかというと、要するにこれは男女の逃避行劇です。アメリカンニューシネマ、ANCで何度も描かれた話ですから、ある意味すごく挑戦的なんです、過去にいくらでも名作があるのでね(まあANCにあった「反抗」の要素がないので、余計に弱いんですが)。で、ANCは荒野やアメリカの風景をふんだんに描くわけですが、まあそれをする気も本作にはないとして、気にかかるのは二人の間に悦びが見いだされない点ですね。
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 やっぱり、この二人でいる時間の尊さの描写って必要なんです。自分の人生は満たされないものではあるけれど、この二人でいる時間は幸せだなあ、と思わせる描写。それが乏しいんです。些細なことでいいんですよ。いやむしろ些細なことのほうがいい。些細なことなのに思い切り笑ったり、暗い気持ちでいたはずなのにふとしたことが可笑しくて笑いが止まらなくなったり、子供じみた遊びに興じたり、何でもいい。それが二人の時間を支えるはず。こいつらはちっぽけで、すごくちっぽけな幸せを重んじている。その様が逆説的に尊く、感動的に映る。そういうことがあり得た。それが実際はどうか。あのどうしようもないセックスシーンと、足湯と、ラストの朝日がせいぜい。時間的制約からバックボーンを十分に描けないなら、二人の間の細やかなやりとりを固めなきゃいけないのに、始終暗い影。それじゃあ、ねえ? 深津に背景がないので、なんならラストの首締めを効果的にするなら、自殺願望か何かを持っているような役どころにしてもよかったんじゃないか、とちょっと考えました。自殺願望、あるいは自暴自棄な色をちょっと入れておくと、ラストはもうちょい厚くなった気もするんですが、うむ、まあ、それはあくまで思いつきです。
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 いいな、と思ったところも書いておかねばなりません。よかったのは満島ひかりと岡田将生の車中のシーン、それと樹木希林です。車中のやりとりってのは撮れる構図が限られるのですが、だからこそ余計な演出が入らずにすんでいた。二人のやりとりはいいです、嫌な感じがよく出ていました。それと樹木希林の力はすばらしい。この映画を支えました。ちょっと他に類を見ないお方です。少なくとも樹木希林が出ている限りはおかしなことにはなりませんでした。漢方薬売りが原作同様、結局記号的にしか描かれないのは残念でしたが。
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 映画から何かを読み取りたい、学び取りたい、と思って観るようにしているんですが、反面教師的な事柄ばかりが浮かんでしまいましたね。で、宇田丸さんも言及していたんですが、原作の時点で既にテーマ的な掘り下げが足りないんじゃないか、というのは同意するところです。悪人とはどういうもんなんだ、一面的な見方ではその人を語り得ない、とかその辺のもろもろはねえ、この原作や映画からあらためて教わるまでもない、というか、この作品だけが放てるものとしては弱いんですね。ラスト、妻夫木が逮捕されてから深津に「やっぱりあの人は悪人なんですよねえ」と呟かせ、観客に問いかけようという魂胆なのでありましょうが、悪人譚っていう分野としては、弱いです。町田康の『告白』とかを読んだほうがいいです。それと、そういう映画はここでいくらも紹介してきましたし。

 言いたいことはわかる。でも、言いたいことを掘り下げるための周辺が足りていない。 だからこちらとしては、学びじろが乏しい。演出もださい。

 酷評してしまいましたが、小野さんはお気に召さなかった作品ということで一応安心して書かせてもらいました。好きになりたいと思って観たのですが、ちょっと無理でした。
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この映画には、共感も風合いも不要なわけです。
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世田谷の男さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 ミヒャエル・ハネケはぼくにとって、その魅力を最も感知しにくい監督の一人です。何か深い感じはえらい醸しとるな、とは思うのですけれど、じゃあどこがどうええねんと言われたらわからない。強敵ハネケであります。リクエストを頂いたとき、うわちゃあ、と思ったのが正直なところであります。

 前回『白いリボン』を取り上げたときの反省も踏まえまして、なんとかその美点、あるいは批評性というものを読み取ろうくみ取ろうと頑張って観たのですが、観終えたときには口ぽかんでありました。やばい、わからん、と思ったのでした。しかし幸いなことにハネケ本人のインタビューが収録されていたために、多少はふむふむとも思ったのでありました。
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ストーリーはというと、終盤手前までは何もないにも等しいのであって、最終的には家族が一家心中をしてしまうという、ただそれだけのことなのであります。これはなかなか、さてどうしたもんでありましょう。
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 白状しますと、自分であれこれ導き出すのは難儀きわまりなかったため、映画評サイトをいくつか散見いたしました。すると、さすが他の方は見方が深いですね、この映画の美点、細部における意味などを拾い上げているものが多く見受けられました。なので、先に言っておきましょう。他のサイトを読むのがお薦めです!
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しかしそれを言っちゃあおしまい、身も蓋もない、それでいいのかおまえ、ということなのでなんとかひねくり出しますと、本作にはわかりやすい見所がございまして、それはなんといっても終盤の器物損壊のくだりです。家族は心中を遂げる前に、家にあるもの一切合切を鈍器で打ち壊し、はさみで切り刻み、破壊の限りを尽くすのです。これはハネケの国、オーストリアで実際に起こった出来事であるらしく、その辺の嫌な感じはいかんなく表現されていると言えましょう。

 そこから逆算してこの映画を見つめ直すと、行為の集積がおぞましく思えるところも見えてくるのですね。本作には確かに、観る者を不安な気持ちにさせるような訴えかけがあります。今までハネケ作品では『ファニーゲーム』『隠された記憶』『白いリボン』を観たことがあるのですが、その中ではいちばん好きですね。言い忘れていましたが、本作はハネケの長編デビュー作で、デビュー作らしいむき出しの野蛮さがありました。

 行為の集積とは何かということですが、本作の特徴としては、過剰な接写が挙げられます。とにかくいろいろと寄って撮りすぎている。印象に残るのは人物の顔よりもむしろ、彼らが単に家事を行ったりするその行為であって、序盤では顔が持つ人称性を逸したまま、しばらく淡々とその行為だけが描写されます。
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 ただの日常的行為が、結末から逆算しておぞましく見えてくる。そして日常の認識にも、揺らぎを与えるように思えてくる。これはいい映画の条件のひとつと言えます。映画評論も行う社会学者、宮台真司は、「映画は自分にとって娯楽ではなくアート。アートというのはつまり、その映画を観る前と観た後で身の回りの世界が違って見えてくるような、そんな体験をさせるものだ」というようなことを言っていて、本作ではその一端を味わうことができます。

話はややそれるようですが、ぼくは外出するとき、たいていの場合イヤホンをしていて、音楽やらラジオのポッドキャストやらを流しています。何も流していないこともありますが、およそいつでもイヤホンをしているんです。そう言うと奇異に思われるかも知れませんが、そうしないと不安な気持ちになってしまい、やや大げさな言い方をするなら、精神的な安定が保てるかどうかちょっと心配になるのです。

理由は何か。風景や行為がもたらす退屈さや、あるいは真逆に多すぎる刺激に対して、耐えがたく感じるからなのです。よくわかりませんか? でも、前者ならば多くの方にわかってもらえるでしょう。日常の行為がもたらす退屈さに、ぼくたちは耐えかねてしまうのです。そうでなければ、電車の中であれだけ多くの人々がケータイをのぞき込んでいるはずがない。多くの人は電車の中で、ケータイをのぞき込んではメールやツイッターをチェックし、また別の人は本を読み、別の人はゲームに興じている。なぜか。いちばん簡単で素直な答えは、「退屈だから」。なるほどそれはその通り。ではなぜ退屈が嫌なのか。

 退屈がなぜ嫌なのか、についての普遍的回答をぼくは知りませんが、ぼくなりに思うのは、「退屈は人を不安に陥れるから」です。なぜ不安になるのか。人は退屈であるとき、自分が今なしている行為と直接に向き合うことになってしまう。たとえば電車に乗って会社に向かっている。そのとき、人の身体はある場所からある場所へと、運ばれているに過ぎない。たとえばコンビニで買い物をするとき、レジのバーコードチェックを待っているとき、人はただ待っているに過ぎない。そうしたことの数々は、人々に行為そのものの意味を意識させる。行為そのものの意味を意識するということは、大げさでなく、自分の人生というものと向き合うことになっていきます。

わかるかなあ、わかるかなあ、もっとわかりやすく書きたいんだけど、ちょっと大変なんだよなあ。

 イヤホンの話でいうと、退屈とは真逆の、多すぎる刺激に対する防護策、というのもあるんです。ぼくは仕事に行くときなど、池袋の自宅から電車に乗って移動することが多いのですが、そうなると人混みにぶつかりますね。すると、ふいに不安になる瞬間に遭遇します。「なんて多い人の数だ!」って。これだけ多くの人がいて、互い互いの人生に関わることもなく生きて、そしてぼくはこの中の誰とも仲良くも理解し合うこともできなくて、あれ、なんで、なんでこんなに人がいっぱいいるんだ、うわあ、という気持ち。人間、他人という存在が無数にいることそれ自体への不安、恐怖。こう書くとなんだかやばい感じがしなくもないんですが、こういう感覚、わっかんねえかなあ。その感覚に陥らぬために、イヤホンで意識的に鈍感さを保っているところがあるんです。
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 長々とそれましたが、『セブンス・コンチネント』はそうしたことに思い巡らすと、結構わかってくるような気もします。この映画では、意味づけをさせないくらいの接写によって、ただ行為自体をむき出しにする。実はぼくはこの次の記事で、ある映画について、アップばっかり撮ってんじゃねえよ、とけなすことになるのですが、それとは明確に違う。このアップには意味がある。引きの画で撮ると、その行為には意味が生まれてしまうけれど、あえて手元ばかりを映したりすることで、モノ、行為を意味と切り離してしまう。それはぼくを不安に陥れる。せっかく意味をつけてきた出来事の数々、その集積が、崩されるような気持ちになる。人はその行為ひとつひとつをなんとか意味づけることで、自分を保っているのだと気づかされる。以前、松本人志がラジオでこんなことを言っていたのをふと思い出しました。
「人間って、えらそうなこと言ったりやったりなんやしてるけれども、考えたらうんこ運んでるだけやで。ある場所からある場所へ、うんこ持って行ってるだけ」
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家族は心中する際、家の中にあるありとあらゆるものを破砕します。それが家具であろうと、思い出の品々であろうと関係なく、すべてを壊す。きわめつけはトイレに紙幣を流すところ。監督によると、このシーンは観客に不快を引き起こすものであったそうですが、それもよくわかる。紙幣とはぼくたちの社会生活における意味の象徴です。トイレに紙幣を流すということは、ぼくたちが約束しあっている社会の意味を、無くしてしまうことに他なりません。意味を瓦解させてしまうんです。家族が心中した理由は描かれませんが、家族の死には説得力が宿る。徹底して意味を瓦解させたとき、人は生の理由を失う。
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書きながらようやっと見えてきました。書く前には、「でも、なんだかんだ言ってもこの映画には、その映画空間が持つ風合いってものがまるでねえんだよなあ」と思っていたんですが、なるほど、わかりました。この映画には風合いは要らない。あってはならない。風合いがあったら、行為がむき出しにならない。この映画は雰囲気とか風合いとかそういうものをすべて捨て去っているんですね。ああ、なるほど、ハネケが少しわかったように思います。

 書くことで見えてくる、という体験をさせてもらいました。強敵ハネケの攻略を、自分なりの形でやってみたのであります。『セブンス・コンチネント』は、実は観ないほうがいい映画かも知れません。日々の生活、その行為の意味がそがれ、不安を招来させてしまうような映画です。面白いかと聞かれると面白くありませんが、日々の行為の中に不安を宿す人には、暗い気持ちを与えてくれるんじゃないかと思います。
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今日は変わった映画評。前半では褒めていないのに、後半では視点を変えて評価しています。
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OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Calvaire』
『変態村』という邦題はもう小学生がつけたみたいなアホさがありますが、原題はラテン語で「ゴルゴタの丘」という意味だそうです。フランス・ベルギー製作で、アメリカのB級スプラッタみたいなものを予想すると大きく裏切られますね。かく言うぼくもこの邦題に印象を引っ張られまして、はてさてどう書いていけばいいものか、と悩んでしまいます。ぼくはぴんと来なかった映画についてはあまり記事を書く気にならないので、もしもリクエストいただかなければ書かずにスルーしていたでしょう。どう評していいのか困っているのが正直なところです。
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 変態村というからには、山奥の土人的な連中が淫蕩の限りを尽くしたり、外からの訪問者を拷問しては哄笑しているのかな、と思いきやそんなトーンは終盤近くまでほとんど出てこず、もっぱら流しの歌手である主人公の青年と、彼が滞在することになった山小屋のおっさんの話がメインになります。このおっさんがおかしなことをして、青年がえらい目に遭うわけですね。村では獣姦している場面も出てきますが、クライマックスまではおあまり触れないようになっています。 
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おっさんは最初、善意の存在のように登場するんですけど、途中から変貌します。ただ、「げへへ、おまえを苦しめて殺してやるぜ」的なわかりやすいアメリカンタイプではなく、「おまえはわしの妻なのだ」と青年を縛ってしまうのです。このおっさんは妻を過去に失っていて、その妻と同一視してしまうというわけなのです。
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 うーん、ここら辺はよくわからないところですね。ヨーロッパ的なのかわかりませんが、少なくとも非アメリカ的なのは確実で、ここで観客の何割かを結構おいてけぼりにする感じがあります。最初のうちはおっさんは普通に、外からやってきた青年として彼を遇していたんです。それがどうして途中から彼が死んだ妻であるという認識に変わったのか、というのがもうひとつよくわからない。
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 まあ、要は「狂気」みたいなことなのでしょうけど、うーん、狂気なあ。正直、ここでも狂った人物の出てくる話はいくつも取り上げているんですけど、これで狂気……うーん、狂気なら狂気でいいんですけど、もっと煮詰めてほしいというか、中途半端な狂い方というか、そこはもうこっちがくみ取ってくみ取ってしなきゃいけないところなんですかねえ。

 監督のインタビューで『サイコ』に影響を受けたみたいなことを言っていて、なるほどあれもノーマン・ベイツが死んだ母親の人格を自分に取り入れてしまっているというような、狂気の一種を描いていたわけですけれども、本作の狂気にもそこは似たところがあるわけです。まったく見知らぬ若い男性を、自分の死んだ妻と同一視するわけですからね。
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 ただ、ぼくとしては、もうちょっとそこは丹念に描いてほしかった。その狂気をもっとちゃんと観たかったんです。物語演出的に言うなら、ふりが弱いと思いました。ふりということでいうと、犬を探し続ける息子はいいんですよ。いなくなったものをひたすら探し続けている彼の存在の不気味さは立っている。でも、そこで事足りてはいないはずで、あのおっさんが死んだ妻の影をいまだに探し続けている、というのがもっと必要だったんじゃないか。少なくとも、あの歌に感動したというのでは足りないでしょう。

 ただ、そんなことを書きながらあれなんですけど、本作の場合、ぼくは監督のやりたいことがぜんぜん読み取れないというのがあります。たとえば序盤であの慰問コンサートのくだりを入れてきた意図は何か。あのくだりとメインの舞台の出来事がどう繋がるのか。白状しますが、ぼくには読解できていません。先般お断りしていたとおり、わからない映画にはもうわからないとしか言いようがないのです。
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 後半、よくわからないダンスシーンが入るんですけど、監督インタビューで、「あの場面は超現実の極みだよ」みたいなことをおっしゃられていて、端的に言ってぼくにはついていけないところがありました。超現実って言われても、です。食卓のシーンなんかも、ああ、観客に狂ったシーンみたいに見せたいんだろうなあというのはわかったんですけれど、別に際だって強烈なわけでもないですしねえ。その後の俯瞰撮影は面白かったけれど、全体を通して映像的快楽があったのはあの俯瞰撮影のところくらいなんです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、ここまで書いて、その後一時間くらい考えて、このままじゃならぬと思いました。と言いますのも、やっぱりその映画を観たからには何かしらの学びを得たいわけです。人から教えられた映画をけなすのは実に簡単なことです。変な話ですが、今回、ぼくはリクエスト作の良さをちゃんと見つけられたら勝ち、できなかったら負け、と勝手に自分で決めているのです。と、いうわけで、後半はまったく別のトーンで、この映画を褒めます。

実質、映画評二本立てみたいなもんです。別の人が書いたんじゃないか、「karasmokerは二人いる説」浮上、と言われるのもやぶさかではありませんが、別段他の方の映画評を参考にしたわけでもなく、自分の考えで書いています。
 それでは、二本目に参りましょう。

 振り返ってみるに、本作を土人の大暴れを楽しむ映画として観てはならないのでしょう。もしそういう映画だとすれば、主人公が男性であることに引っかかりを感じます。あのおっさんが主人公を自分の妻だと思いこむ。そのくだりがあるなら、主人公が女性のほうが絶対に理解しやすい。でも、そうなってはいないわけです。一方、この映画は冒頭、主人公が唇に紅をさすシーンから始まる。舞台に立つためのメイクなのですが、一般的に見て女性のなす行動です。

 この映画では、性別というものが壊れている。山奥に住む人々が獣姦を楽しんでいるのもそのひとつ。この映画では性別が意味をなしておらず、重要なのは愛する相手の欠落です。息子が最愛の犬をいつまでも探し続けているというのもそのひとつですし、そうやって見ていけばおっさんが主人公の青年を妻と同一視するという、異常な心情もまだ理解の範疇に入るように思います。おっさんは青年に女装させる。一方で、髪を乱雑に刈り込んでしまう。これは青年を女性に見立てる行為としては一見矛盾しているけれど、それはつまり、おっさんは決して、青年を女性に見立てようとしているわけではないということです。この映画における死んだ妻、グロリアという女性は、おっさんや村人にとっての失われた尊い存在であり、その代替物をこいねがう彼らにとって姿形の違いはなんら問題ではない(豚の鳴き声が響く中で獣姦ができる人々です)。そして、来訪者というものそれ自体が、彼らの欠損した世界を埋めるためのよりしろとして、機能していたわけです。
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 おっさんや村人は欠損した世界に生きていたのですが、主人公の存在はその欠損を彼らに自覚させてしまった。おっさんのみならず村人までが主人公を我がものにしようとしたのはそのためです。あのダンスシーンは、「この映画を普通のまなざしで見つめるな」というサインでもあったのかも知れません。あのシーンのダンスも、普通は男女で行われてしかるべきものです。彼らは同性愛者だったのか。違う。彼らにとって性的区別には意味がない。彼らにとって大事だったのは存在と不在の二分法に過ぎない。不在を感知したとき、彼らはその不在を埋めようと、怒り狂って存在のもとに走ったわけです。
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 ゴルゴタの丘、そこはキリストを磔にした、ある意味で死の象徴とも言える場所。しかし、その死がなかったなら再生の奇跡もまたあり得なかった。であるとするならば、ゴルゴタは絶望の場所であり、同時に希望を宿した場所であるとも言えるのではないでしょうか。だからこそラストシーンが意味をなします。ラスト、猛り狂って主人公を殺しに来たはずの男が、自分の死を目前にして言う。「愛していた」と。そして主人公に願う。「愛していたと言ってくれ」と。ここに及び、蒙昧の極みにいた山奥の村人は、愛という感情を思い出すに至る。主人公は村人たちにとっての愛のよりしろ、愛を再び感じ、その魂の救済を得るためのよりしろとして存在していたと言えるのです。
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 と、まあそんなことがこの映画については言えましょう。
 正直言って、素直に書いたのは前半のほうです。後半のほうは無理矢理持ち出してきた感も否めません。しかし、たとえ無理矢理にでもその美点を見いだそうと苦慮することで、映画の見方を広げてみたいとも思うのでありました。世にも奇妙な映画評になったように思うのですが、まあリクエストいただいていなければ何の感想も抱かずにスルーしていたに違いなく、この試みもまたなされずにいたことでありましょう。感謝いたします。

 とりあえず、こんなところなのでございます。
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詰め込みすぎて各要素が印象に残りませんでした。ハリウッドリメイクに期待します。
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bang_x3さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Ne le dis à personne』
 前回イタリア映画を評したわけですが、お次はフランス映画です。どうしても日米が中心となる本ブログ、ぼくの好みとしては、ヨーロッパ映画はあまり手が出ないところもあり、フランスからも遠のいていました。フランス映画が持つある種のこってり感を、無意識に遠のけていたのかもしれません。

 ぼくの抱くイメージとして、今回の映画などを観てもはっきりしたのですが、フランス映画ってどうもこってりしているんですね。料理にたとえると、あんかけみたいなとろみがある印象です。脂っぽさとはまた違うんですけど、アメリカ映画ほどからっともしていないし、スマートでもない。ドイツ、スペイン、イタリアの映画にもないこってり感を覚えます。

本作『唇を閉ざせ』はベン・アフレックを監督にハリウッドリメイク、なんてことらしいのですけれど、アメリカでつくられたらぜんぜん違う風合いになるだろうというのもさりながら、わりと脚本も変えてくるんじゃないですかね。少なくともハリウッドでは絶対こんな映画はつくらない。理由は簡単で、あまりにもいろいろと詰め込んでいるものだから、ハリウッド的な脚本の合理性とは対極にあるのです。

 いろいろと詰め込まれている理由はひとえに、原作小説の要素をなるべく盛り込もうとしたからではないですかね。でも、原作小説を持つ映画にありがちなこととして、結局何を見せたいのか、それを見せるためにどの部分を押してどの部分を引くのか、が見えづらくなっている気がしました。なんていうか、要素の強弱がどうも把握しづらい。そのせいでサスペンスが持つ娯楽性が出にくくなっている気がしました。
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 で、内容についてなんですが、これは謎が明かされていくような話でもあるんで、一応未見の方にも気を遣いつつ話すと、ちょっと難しいですね。主人公は最愛の妻と仲むつまじく過ごしていたのですが、あるとき暴漢に襲われ、妻も殺されてしまいます。ところがその八年後、一通のメールが届き、そのリンク先の映像には死んだはずの妻の姿が映されていた、とまあこの辺から話が転がるわけですね。
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 で、いろいろな人が出てくるわけです。なぜか妻の存在を追っている謎の集団みたいなのが出てきたり、妻と過去に接触した人間が殺されたり、その容疑者として主人公が警察に追われたり、いろいろと出てくる。
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 ただ、どうもひとつひとつが頭に残りにくかったです。
 いろいろ詰め込んでいるから、さらっと台詞で済まされることが多かったりするし、しかもわりといっぺんにいろいろ喋ったりするために、あれ、何がどういうことなのだっけ、と戸惑うことがありました。わかりやすいところでいうと、序盤、主人公のもとに警察がやってきて、「奥さんが昔殺された場所の近くで、先頃二つの別の死体が出てきたんです。奥さんの件と何か関係があるかも知れません」みたいなことを言います。でも、この「二つの死体」は刑事の口からさらっと言われるのと、新聞記事として二秒くらい映るだけで、その映像は出てこない。作り手としては、「はい、ここでこういうことを言っています。後々の展開にも筋は通っています」ということなのだろうけど、印象に残らないんです。

印象に残らないということでいうと、主人公を襲う謎の集団、その親玉、動機、その周辺です。やっぱりミステリー、サスペンスの醍醐味ってひとつに、「ああ、あいつがこうだったのかあ!」とか、「ああ、あれがここで効いてきてこうなるのかあ!」というものだと思うのですけれど、その快楽が実に乏しい。要するに伏線ということですね。要素はばらまいているんですけど、印象に残らなければ伏線として機能しない。二つの死体もそういうことです。まあ、「印象」というものそれ自体が個人的な感覚ですから、いやいや自分には十分印象的に映ったぞという方もおられましょうが、ぼくには詰め込みすぎて複雑化して、描くべきことを絞れずにいた気がしてならないのです。

それより印象に残ってくるのは、R&BみたいなBGMががんがんのシーンだったり、移民たちのいざこざだったり、そういうほうなんですねえ。あの辺にこってり感を覚えます。で、そこでも詰め込みよったなあというのがあって、主人公を助ける白人のおっさんですね。あれ、動機弱くないかなあ、あそこまでするってのは、どうも腑に落ちないというか、もうちょい説得力あってもええのに、なんです。原作ではあるのかも知れないけれど、強引にぎゅぎゅっと詰め込んだ感が非常に強いです。
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クライマックスはある人物と主人公の対峙するシーンなんですけれど、ここもしゃべりが長くて、いろんなことを言うので、正直ぼくは流れを追うのがしんどかったです。ああ、この人の話だとこの人物が鍵を握っているのね、でも、その人物について今までぜんっぜん描写されてこなかったから、あいつだったのかあ感がないんだよね、ということです。 変な例えですけど、学校でも職場でも、自分がそこに来る前にいた人の話をされている気分ってわかりませんか? 周りの人にとっては知り合いでも、自分は知らないみたいな。
「ほら、一昨年の夏にさ、タマさんが石黒さんに怒られてさ」「ああ、タマさんねえ。だってもともと石黒さんとタマさんってあんまり合わなかったじゃないですか」「だけどタマさんってわりといい加減っつうか、仕事荒いとこあったじゃん。石黒さん、タマさんがいないときに結構文句言ってたもん」「ああ、はいはい(笑)」
みたいなことを自分以外の人同士で延々と話されて、自分だけが(うわあ、俺、タマさんも石黒さんも知らねえ。ついていけねえ、面白くねえ)みたいな気分になるあの感じです。

 映画でも、実はこいつがこんなことを! 的なのがあるんですけど、そいつの話それまでぜんぜん出てこなかったじゃん。もっと手前で、そいつのいい感じエピソード放り込んでおかないと、あっと驚くことにはなり得ないじゃん。で、そいつがいる前提であれこれ話されても、あとはもうごちゃごちゃするじゃん、っていうね。どんでん返しっていうかオチっていうか、そのための印象づけが果たされていない。同じことばっかり書いているようですが。

 けなしトーンになるのは避けたいのが本音です。だから、情報をさくさく飲み込んでいける人、カットの切り替えの早い映画が好きな人にはお薦めと言いたいところです。そして個人的な見方でいうなら、もっとシナリオの要点を絞って、描写も無駄を省いて、ハリウディッシュに仕上げるほうが面白くなるんじゃないか、という風に思いました。ここはやっぱりハリウッド的なわかりやすさ、それが支える娯楽性に惹かれてしまう。あれだけ情報量詰め込んで中心をくっきりともさせないで、その結果どんな美点が生まれたのか。何を訴えたいのか。恥ずかしながらぼくには見いだせませんでした。
 bang_x3さんには前回『モンガに散る』をお薦めいただいたにもかかわらずその良さがわからず、今度こそはと思って臨んだのですが、ぼくにはわからなかった。この映画の良さ、むしろお教え頂きたく存じます。そういう意味では、他の方々にもぜひご覧になって頂きたいですね。「いや、ぜんぜんありじゃないか?」という方に学ばせてほしいのが本音なのです。この脚本はまだまだ面白くなる余地が多分にあるとぼくは思う。削るべきところと強調すべきところの配合によっては、その見せ方次第によっては、おう、面白い映画だ、とぼくは言っていたと思うんです。だからリメイクする価値もあると思いますね。
 未見の方はご覧になって頂いて、自分の感じ方、サスペンス劇の捉え方を確認してみるのも一興ではないでしょうか。
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言葉が世界を開いたら。
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軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 タイトルはイタリア語で、「郵便配達人」の意のようです。イタリア映画はもう久しく観ていなかったのですが、なかなかに良い風味の香る作品でございました。

 話はというと、ノーベル文学賞を受賞したチリの詩人、パブロ・ネルーダ(1904-1973)の史実に基づくものだそうです。パブロ・ネルーダは共産党員だったのですが、祖国のチリで共産党が非合法化され、イタリアに亡命することとなりました。彼はカプリ島というところに滞在し、そのときの出来事が土台になっているようです。

 とはいっても、主人公となるのはネルーダではなく、島に住む一人の男、マリオ・ルオッポロです。彼は漁師の息子なのですが、郵便配達人の仕事をすることになり、このパブロ・ネルーダと交流を深めていくのです。

 ネルーダはその詩才ゆえ世界中にファンがおり、世界から日々多数のファンレターが届きます。それをルオッポロが届けにいくのですが、彼は彼でそんな有名人のネルーダに興味を持ち、自分も詩を書いてみたいと言っていろいろと教えを請うのです。
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 この辺の感じがまず素敵であるなあと思いました。
 この映画に出てくる島は文字の読み書きができる人がほとんどいないという設定で、ルオッポロも多少読めるといったくらい。そんな男が、「自分も詩を書きたい」と思うその心は、それだけで少なからず感動的なものがあります。
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 恥ずかしながらぼくは、ネルーダという詩人のことは本作を観るまで知らずにおり、当然その詩も読んだことがないような野暮天なのですが、彼は比喩の名手として有名だったそうです。劇中でも、「隠喩とはどういうものなのか」をルオッポロに教えたりします。
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 これは映画という表現ですので、詩のすばらしさであるとかネルーダの詩の文学性とかを伝えるようなことは難しいわけですね。その意味で、この作品が比喩というものをその象徴として用いたのは、実に的確だったと思います。ところで皆さん、「比喩」というのは、言葉の表現においていったいどういう効果を持つものでしょうか。文章や詩作の中で比喩とはどのような機能を有するのでしょうか。

 などと言いつつ、ぼくはことさら文学に詳しいわけでもなんでもないのですが、比喩というのは一般に、「異化効果」というものを持つと言われています。異化効果というのは簡単に言うと、「見慣れたもの、既に知っているものに対して、別の見方をさせる効果」です。

 たとえば今あなたがご覧になっているパソコンないしはケータイなどのディスプレイ、それは既に見慣れたものでありましょうが、たとえばそれを「世界の窓」などと隠喩的に表現してみることで、ああ、なるほどこのパソコン一つで、自分は世界の有り様を眺めることができるし、外の世界に触れることができるのだな、とあらためて感じられたりするわけですね。比喩はそれまで当たり前に捉えていたもの、なんとなく眺めたりしていたものを、ただ目や耳で捉えるのとは違うやり方で捉え直すことができる方法なのです。

 これは本作にとって重要です。なぜなら、ルオッポロはまさしくそのことによって、世界をあらたな目で見つめ直すことになったからです。彼は詩によってこの世界を記述する人と出会い、その人に触れて比喩を知ることによって、今まで自分が見ていた世界は別の様相を持ちうるのだと気づく。そして、「この世界はものみな隠喩なのではないか」なんて、すごく鋭いことを言ったりするのです。ネルーダはルオッポロに、世界を記述する言葉を与えたのです。それは、「もう一度世界に触れる見方」を与えたことでもあります。
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ルオッポロは島に住む一人の女性、ベアトリーチェに恋をします。彼は新たなる目で彼女に出会い、彼女の美しさに惹かれたのです。しかし、アプローチするにもどうしていいかわからないルオッポロは、ネルーダに助けを求めます。彼女をうっとりさせるような詩を書いてほしいと。ですがネルーダは当然拒絶します。自分の言葉で書かないと意味がないからですね。ただ、ルオッポロはなんとかベアトリーチェに振り向いてほしいので、ネルーダの詩から言葉を借りて彼女の心に訴えます。ベアトリーチェはそんなロマンティックな言葉を掛けられたことがないのでしょう、ルオッポロに惹かれるようになります。
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 ルオッポロはネルーダの詩をぱくったのか。何かにつけてパクリだ著作物の無断引用だとかまびすしい昨今でありますが、この映画にそんな概念を当てはめるのは無粋でしょう。ルオッポロにはまだ、言葉がなかったんです。だから言葉を借りたのです。これは考えてみれば当たり前のこと。ぼくたちの振る舞いやふれあいはすべて、模倣からしか始まりません。「まなぶ」は「まねぶ」であるように、ルオッポロは世界を記述する言葉を、なんとかまねようとしていたのですね。
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 そんなこんなでベアトリーチェと結ばれることになったルオッポロですが、それでハッピーなんて話じゃない。彼の世界の見方は既に変わり始めていた。それは、街にやってくる政治家に向けて放たれました。今まで見ていた世界は、当たり前のものではないのかも知れない。政治家や偉い人々に搾取される世界、平気で約束を反故にされる世界を、黙って受け入れる以外の方法があるのかも知れない。そう考えたのかどうか、映画では明示的ではありませんが、ぼくにはそのように見て取れました。

 ねたばれがんがん。
 




 ルオッポロは最終的に、政治活動に参加して命を落とします。
 なぜ彼は政治活動に参加したのか。共産主義者ネルーダに惹かれたからか、政治家に嘘をつかれてむかついたからか。それも理由。しかし、もうひとつの重要な理由は、彼が、今までとは異なる世界の見方を獲得したからであろうと、ぼくは思います。自分も、言葉によって世界を動かすことができるのかもしれない。なぜなら、自分の世界は言葉によって変わったのだから。そうして彼は労働者代表の演説に向かい、混乱に巻き込まれるのです。
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 かつてはネルーダの詩作を真似たルオッポロですが、終盤では自分の言葉ではなく、自分が生まれ育った島の、自然の音をテープに吹き込みます。当たり前に聞いていたはずの音が、みずみずしく聞こえることを感じたのです。彼の世界は彼なりの方法で、開かれていったのでした。彼が郵便配達人をしていたという設定もいいですね。最初は言葉を運ぶだけだった彼が、言葉を放つことを知り、世界は言葉だけで触知できないというところまで至る。

 ただ、それがよかったのかどうかはわからない。これまさに人間万事塞翁が馬。もしかしたら彼は世界を開かれぬほうがよかったのかもしれない。そうすればもっと長生きできたのかもしれない。しかし、それであればベアトリーチェと結ばれることもきっとなかった。ラスト、浜辺に立つネルーダ同様に、観ている側もまたただ立ち尽くすしかないような気分にさせられます。

 インターネットで思いつきの軽率な言葉を瞬時に世界に放てる時代になりましたが、こういう映画はこちらを不安の中に陥れますね。あるいはその不安は希望の表れかも知れないけれど、いずれにせよゆらゆらした気分になる。何かを発することの怖さ、強烈さ、大切さをオリヴァー・ストーンの『トーク・レディオ』に教えられますが、それとはまったく別の形で、まったく別のこととして、言葉というものに対する何事かを教えられます。

「言葉というものに対する何事か」。けっ、曖昧な言葉だ。こうして適当な言葉に甘えるのだ。まだまだ、まだまだであるなあと、感じ入る次第でございます。
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記事にしてほしい映画をお寄せください。
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世間はもうすぐゴールデン・ウィークでございます。「ゴールデン・ウィーク」とはもともと映画会社である大映によってキャンペーンされたものなのであります。そんな由来にあやかりまして、というわけでもないのですけれど、昨夏に行いましたリクエスト募集を再びやってみたいと思います。なにしろ別にゴールデン・ウィークにさしたる予定もなく、というかむしろそんな時期には出かけたくないよね逆に、どこも混むしね、いやそりゃ一緒に旅行に行こうよなんていう恋人の一人もいれば別よ、そりゃどこかしら出かけてこましたろとも思うだろうけどさ、別にいないしさ、けっ、なんだいなんだい、もうこうなったらやたけただ、池袋を闊歩するアベックにひしゃくで糞尿をぶんまき、「これがほんとの黄金週間だぜ! けけけけけっ!」などと笑って逃げだし、お縄頂戴の憂き目を見てやる! 

 というのもどうかと思うのであって(早く話を進めろ)、ええと、なんだっけ、そう、別にこれと言ってあれな予定もないし、今のところ観たいDVDもちょっと見つからずにいるような状態でもあって、ここはひとつ、リクエスト募集をしてみようじゃないか、ということなのです。

 昨夏に多くの方々よりリクエストを頂きまして、自分ではセレクトしないような作品にも触れられることが出来、大変ありがたく思っております。なので今回も前回同様、皆様からこの映画を評せよというものを募りまして、その記事を書こうと思っておる次第であります。実はリクエストにつきましてはいつ頂いても結構なものとして構えておったのですが、最近は頂けることも多くなく、そろそろかまってちゃんモードになりつつあるので、あらためて募りたいと思うのであります。この機会をご利用頂きたいのでございます。

 しかし!
 ぼくは昨夏におきまして、反省すべき重大な間違いを犯してしまいました。
 といいますのも、皆様が善意から、この映画が面白いよとお薦めくださったものを、まあなんていうんですかね、かまってもらって調子に乗っちゃったのかな、関西風に言うといちびったっていうのかな、ちょけたっていうのかな、つまり、お薦め頂いたものを、俺は本音で行くぜみたいになって、けなしたりしてしまったのですね。これは今でもどうも、申し訳ないと思っているのですね。

 しかし!
 あの頃のぼくとは違います。ここ数ヶ月の記事でその違いがわかる、かどうかはわかりませんけれども、ぼくは以前と比べて、その映画から何が読み取れるのかを考えつつ、積極的に観ていこうとしているのです。ゆえに、前のような失態は犯さぬよう努める、前のような愚行には至らぬ所存でございます。むろん、引っかかった点やよくないと思った点などを書くことはありましょうが、建設的な見方をするように心がけ、けなして終了、みたいなことは決してしないようにしたいと考えています(ただし、難解な映画などについての読み解きなどは、わからないときはわからないので、そのときはすみません)。 
「どんな駄目な映画にもいいところはある。それを見つけるのが映画評論家の仕事だ」と、あの故・淀川長治氏もおっしゃったとかおっしゃらないとか。淀川先生のような立派な評論はできずとも、やっぱりいいところを見つけたいと思いますね、うむうむ。

 ただし!
 中にはどうしても合わない映画、というのが出てくるかもしれません。
 なので、これをけなすのは許せん! というものについては避けてもらうのが吉です。 思い出の映画とか薦められてもぼくはその思い出を共有していないので共感できぬことになる可能性大です。
 そんなわけで、「評価に迷っている、評価の割れている映画」「評判はいいけどどうも自分的には駄目な映画」「評判悪いからたとえ悪く言われても受け流せるけど自分は好きな映画」などがちょうど良いと思われます(めんどくせえやつだな)。みんなが駄目だと言っていて自分も駄目だと思うようなテレビ局系などはちょっと困ってしまいますが……。

 そして!
 ここなのですけれども、基本的にはDVDの出ているものでお願いしたいところです。 読者の方はお気づきの通り、当ブログは旧作がメインです。ぼくは映画が好きですが、映画館に行く趣味がなく、しかもゴールデン・ウィークの混み合った映画館に行くってのはエネルギーを大量に消費してしまう行為なのです。ゆえにDVDの出ているもの且つレンタル可能なもの(その場合は新作でも構いません)でお願いしたいと思います。ものによっては既に観てしまっていて記事にするにはぜんぜんぴんと来なかったようなものも寄せられるかもしれませんが、せっかくですし、まあなんとかします。

受付期間(などというようなものはあってないようなもんですが)は、一応5月6日くらいまでとしておきます。

 さて、一人で勝手に盛り上がっておいてぜんぜんリクエストされない、という最悪のパターンもありえるため怖いところですが、まあそのときはそのときです。ぜんぜんリクエストが集まっていないな、と思われることがあったら、お一方で何作もリクエストしてもらって構いません。いっぱい集まるようなことがあったらさしあたり一作までとさせてもらいますが、前回の失態もあるし、そんなに集まらないかもしれないし、わからないです。
 
 忘れた頃にレビウが載りますので、どうぞこの機会に。
 初めての方もお気軽にどうぞ(ただまあ一応、当ブログがどんな感じなのかくらいはわかっておいてくらはいね。本当のいちげんさんじゃあ困ってしまいまっせ)。
 あなたの映画ライフのお役に立てればと思っております。
 リクエスト頂いたものは基本的にすべて記事にしようと思っています。
コメント欄↓にご希望の作品名をお寄せください。
 それでは、リクエストをお待ちしております。
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今ぼくのいる場所が、探してたのと違っても。
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 黒澤明を取り上げるのは実に久しぶりのことで、しばらく観ずにいました。黒澤作品は初期と晩期は『姿三四郎』と『八月の狂騒曲』くらいであまり観ていないのですけれども、有名どころは大体観ています。『醜聞』から『乱』までのいわば円熟期のものは観ているのですが、その中で唯一観ていないのが『デルス・ウザーラ』で、これがぜんぜんレンタルできません。東宝が関わっていないのが大きいのでしょう。アマゾンでも出品者が高値をつけている状態です。ちなみに中でも好きな作品は『羅生門』、『どですかでん』、『乱』といったところです。『七人の侍』や『蜘蛛巣城』や『生きる』がすばらしいなんてことは、ぼくなどが言う必要はありますまい。

さて、黒澤明が大活躍した50年代、60年代の中でなぜかずっと観ずにいた『赤ひげ』です。なぜかこの作品を観ようという気にならなかったのですね。医者の話というのがどうもぴんと来なくて、後回しにし続けていたわけなのですが、いざ観てみるとこれは黒澤作品の中でもかなり好きな部類でした。黒澤作品で好きなのは? と訊かれたときの回答のひとつにしたいと思います。
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 舞台は江戸時代の小石川養生所、ここは無料の医療施設で、徳川吉宗が行った享保の改革の際に設置されました。主人公は若い医師を演ずる加山雄三と、「赤ひげ」と呼ばれる所長の三船敏郎です。養生所にやってきた加山雄三は最初、「こんなところに勤めるのは嫌だ、自分はもっと高い地位につくために今まで勉強してきたんだぞ」とすねてしまうのですが、そこで過ごす日々の中で、次第に考えを改めていくのであります。
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 三時間ある映画なのですが、ほとんど飽くことなく観終えました。そして、黒澤作品で涙したのはこれが初めてかも知れません。これは泣けました。もともとは山本周五郎の連作短編が原作で、いろいろなエピソードが入っているのですが、それぞれ見せ方がうまいんですね。もちろん原作から落とされた要素というのもあるんでしょうけど、原作にはない話が後半を担っていたりして、この後半の「おとよ」の話でぼかあ泣いたね、うむ。
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 時代劇、というとどうしてもチャンバラ、侍を連想しがちだと思うし、それもまた黒澤明の功績あるところなのでしょうけれど、こういうチャンバラの出てこない昔の話って、『どん底』とかもそうですけど、「うわあ、えらい時代やあ」感が強く出ますね。特に医者の話だと、病人がそりゃあ出てくるわけで、うわあ、この時代はきつかったやろなあ、というのも随所にあります。侍が刀を振り回す話だと、格好良さに見せ場が持って行かれがちだと思うんです、殺陣の見事さとかね。でも、この手の話はむしろ、限定された状況の中で、それでも生きていく人たちの生き様みたいなもんが胸にしみるのでありますね。
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 冒頭の部分で既にぼくは持って行かれていたのですね。小石川養生所は無料だから、貧民たちがたくさんやってくるわけです。で、待合室みたいな場所でぎっちぎちになってただ、待っている。何もせずに、じっと待っている。今でも途上国ならばある光景なのでしょうけれど、江戸時代の医療レベルを考えればねえ、もうどうしようもないことは今よりも多かったはずですしね。で、今みたいに患者様扱いされることもなく、医者が「こんなくさいやつら」みたいなことを平気で言うわけです。なんやねんこの状況、というのがまず描かれて、それでぐいっと引き込まれました。
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  加山雄三が最初すねているんですが、そこから自分の無力さとか弱さとかを知って、だんだんと周囲に溶け込んでいく流れが素敵です。なんて言うのでしょう、そういうことって、あるよね。たとえばこの四月にね、受験で志望校に落ちて、第二志望、第三志望の学校に行ったって人もいるのでしょう。就職もそうでしょう。既に大人でも、そういう過去をお持ちの人もいるわけです。でも、今思えばそこが自分にとって尊い場所だったっていう経験はあるでしょうしね。その意味でこの話には人生がございますね、うむ。
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 医者の話だから暗い場面ばかりかというとそうでもなくて、たとえば三船敏郎がごろつきどもを打ちのめすシーンもあり、サービスも用意しています。しかし三船は医者でありまして、自分で相手の骨を折っておきながら、「医者が骨を折るなんて! こういう乱暴はよくない!」と怒ったように言ったりして、笑ってしまいます。

細かいところの良さを言い出すとめちゃ長くなりそうなので、ここはやっぱり後半の「おとよ」のくだりを話しておくべきでしょう。おとよは宿場の遊女屋に住まわされていた少女なのですが、まあ性的サービスをするには幼い年であり、なおかつ虐待をうけているような状況で、見かねた三船、加山が彼女を引き取ります。しかし、おとよはその悲しい境遇から心を病んでいるような有様で、加山はなんとか彼女をまともにしてやりたいと苦闘するのです。
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 ぼくはみんなに愛されているような子供が出てくると嫌になるのですが、反面、こいつぜんぜん大事にされていなかったんだなあ、というようなのが出てくると大変弱いですね。中盤でも、根岸明美演ずる貧しい女性と、その子供たちが出てくるのですが、悲しいやつらが出てくるともうちょっと、くうっ、となります。
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構成としていいなあと思うのは、加山がかつて自分が養生所に来たときのことを悔やむ場面と、このおとよが心を開いていくくだりを絡ませているところですね。ここでがががっと揺さぶってきます。おとよの出てくるシーンはどこもいいです。

おとよがね、少しずつ打ち解けていくんですけど、養生所で働く周りのおばさんたちとはどうもうまく行っていなくて、「なんだい無愛想な子だよ」みたいに扱われているんです。で、あるとき炊事場に泥棒少年が現れて大騒ぎになるんですが、おとよはそれを見て見ぬふりするんです。すると当然おばさんたちは「泥棒が入っているのにそしらぬふりかいこの子は」となるわけですが、その後ですね、その後におばさんの一人がある状況に遭遇し、号泣することになるんですが、そのくだりなどは絶品でした。
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 やっぱりね、「悲しい目にあったやつだけがわかってやれること」ってのがあるんですね。何かを断罪したりレッテルを貼って決めつけたりすることはたやすいし気持ちのいいことかもしれないけれど、違うだろうって。そいつにはそいつにしかない事情ってのがあるんだろうって。おとよが少年を見逃したときに大体展開がわかって、ばっちりその通りだったので、これまた、くうっ、でした。

『4分間のピアニスト』のときに書いたことともちょっと関連するんですけど、たとえば犯罪者に対する、こういうものの言い方ってありますね。
「幼少の頃にひどい目にあって、それで世間に恨みを感じて犯行に及んだっていうけど、でもそんな体験をしてもまともに生きている人だっているんだ。許されないことだ」みたいな言い方。うん、確かにそうなんです。辛いことがあっても立ち直って、公正に生きている人はいっぱいいる。でも、そいつにしかない事情ってのはやっぱりあるんです。抽象的な言い方だけれど、同じ星空を見たときに、星の輝きに魅せられるやつもいれば、その星々の間に広がる闇のほうが焼き付くやつだっているわけです。
 はっきりと明言しておきますが、ぼくは何も犯罪の加害者をむやみに擁護するつもりはありません。人としてやってはならないことはそりゃあありますし、その分の裁きはしっかりと受けるべきでしょう。しかし、メディアに流れる犯罪事件について、細かい事情も知らずに断罪するような真似はしたくないし、するべきではないと言いたいわけです。「過熱報道で無辜の人を断罪するマスゴミめ」みたいなことを一方で言いつつも、真偽不明のネット情報、週刊誌ゴシップに飛びつく奴があふれかえっているような昨今は、特に。

話を映画に戻す戻す。
 注文をつけるなら、おとよの口調がちょっと上品すぎますね。もっと下品でもいいし、なんなら訛っていてもいいはずなのに、妙にしっかり喋りすぎていて、これは残念です。あと、中盤で死にゆく人がいるのですが、この人の回想のくだりが長いです。なにしろ回想の中の人物がそれまた回想してその回想シーンが流れたりするので、これは文法的にちょっとどうやねん、というのはありました。

 気になったのはそれくらいです。最後もいいんですよ、「死んだほうが幸せだった」なんてことを医者の話なのに持ち出してきて、でもそれにうまい答えが見つからずにいる、というのは、いいもやもやです。
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 まだまだ書けることはいくらでもありまして、序盤に出てくる危ない女性の話も書きたいし、終始格好いい三船敏郎についても書きたいのですが、まあご覧になっていただければぼくなどがこれ以上述べる必要はありますまい。はい、お薦めであります。
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この映画が好きだという人は、すこやかにお育ちでありましょう。
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原題『Bring It On』
 チアリーダーのお話で、結構評価も高いようです。ぼくはキルスティン・ダンストが苦手だ、という話をしたら人に薦められて、もしかしたら好きになれるかもしれぬという期待もあって観てみました。

 しかし、いやはや、どうもぼくはキルスティン・ダンストの魅力がわかりません。『スパイダーマン』シリーズもそれで観ていないくらいなんです。どう観てもヒーローに守られるヒロインの面じゃねえだろ、と感じてしまうのですね。この人が似合うのは、「第一次世界大戦で受難する女性」とかそんなのだと思うんです。ウィキによるとドイツ系、スウェーデン系ということですし、その辺の役柄だったらぴったりだろうなと思うんです。ヨーロッパ映画の顔です。なのでねえ、うーん、どうしてこの人がチアリーダーの映画の主人公なのだろう、と思わざるを得なかったのですね。
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 映画はというと、健康的なアメリカン・ティーンのお話でした。まあ健康的であります。ジョックとクイーンビーだけが出てくる映画で、なおかつ彼らがジョックでありクイーンビーであろうということが描かれない点で、なんとも健康的であります。ジョックとクイーンビーの意味がわからない人は調べてみましょう。
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 太陽さんさん、元気はつらつみたいな映画ですが、それはそれでよろしくて、だったらやっぱ北欧系のキルスティン・ダンストじゃねえんじゃねえの? と思えてならなくて、うーん、どうなんですかねえ、もっと別の人がいたんじゃないかなあと、それこそあんなにたくさんいるんだから、もっといたんじゃねえの感が強いです。

 それこそかつてのゴールディ・ホーンとかね、キャメロン・ディアスとかね、クリスティーナ・リッチとかね、そのタイプを求めてならなかったですねぼかあ。もういっそのこときらっきらした青春像で良くて、そしたらぼくも素直にあげあげになったのです。あるいはまあ逆に、薄味系の顔を持つエレン・ペイジ的な路線の子を引っ張ってくるとかね、それはそれでありじゃないっすか。キルスティン・ダンストは北欧系なのに高カロリーな顔立ちなのです。
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 この映画はなんというか、観る者の「青春時代」に対する記憶をちょっとくすぐってきますね。人間性を試してくるところがあります。ぼくなどは高校時代、ジョックにもなれずクイーンビーとのおつきあいなど想像だにできずという人間であり、それでも大学に行ったら合コンだのサークルだのを楽しめるんじゃないかしら、と期待していたのですが、生活する中で愕然としたのですね。「ぼくにはそもそも、そういうものを楽しむセンス自体がないのだ」と。なんていうんでしょう、たとえるなら、みんなが甘い甘いと言って食べているお菓子があるとして、ぼくもそれをちょっとはかじってみたのです。でも、さっぱり甘味を感じられなかったわけです。甘味感知細胞がなかったのです。これはちょっと辛いもんがありました。

 そういう人間からすると、この映画は眩しくてやれないです。映画自体はテンポもいいし、小事件をちょこちょこ放り込んでくるし、政治的にも正しいし、よくできていました。だから申し上げたとおり、健康的なアメリカであって、たとえば『トーク・レディオ』のバリー・シャンプレーンに魅せられた夜の住人にはややきつい。
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 政治的に正しいのは、あのアフリカ系のチームを放り込んできたところですね。それでいてアフリカ系チームのバックグラウンドも描き、主人公チームとの関係も最終的にはいい感じになり、相手に花を持たせる。うわあ、正しく乗り切ったなあ、とある意味で惚れ惚れいたします。
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 この映画を真正面から好意的に捉える人は、いい人だと思いますね。「好きな映画は何ですか?」「『チアーズ!』です」と答える人とは付き合っておいて損はないでしょう。反面、このような青春像を幻想としてしか捉えられなかった、という自覚のある人には、どこかこうむずがゆさがあると思います。特にぼくはすぐこの前に『4分間のピアニスト』を観ていて、あんな風なぎりっぎりの中で炸裂するもんを観てしまっていたので、彼らのチアリーディングのはつらつさには、おうおう、よろしおまんな、といくぶん醒めた目線を禁じ得ぬのですね。
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 いや、でも、繰り返しになりますが、これがキルスティン・ダンストじゃなかったらぼくはうまくだまされてあげあげになっていたかもしれません。あー、でもそれはやっぱり大きいなあ。それは大きいっすねえ。

 なんか誰のためにもならないような記事になってしまいました。読んで損した分の時間は返せません、どうもすみません。まあ、そんな回もありますな、今日はこの辺で。
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月並みですが、芸術の力ってものを感じました。
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 振り返ってみるにぼくは「師弟もの」感度が高くない人間です。お師匠と弟子の特訓とか因縁とかって、あんまりぐっとくる主題じゃないんですね。カンフー映画感度も高くないし。強いて挙げればゲームの『MGS3』でしょうか。でもあれも「師弟もの」というくくり方は違う気もするし、何か熱いのがあったら教えてくらはい。

 さて、そんなぼくですが、『4分間のピアニスト』はよかったですね。これはいいんじゃないでしょうか。ピアノ教師のおばあさんと、ピアノの才能を持つ囚人の女の子の話なのですが、結構感じ入るものがありました。
 
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 当ブログではドイツ映画は数えるほどしか取り上げていなくて、ドイツ映画感度は低い人間です。そしてピアノ、クラシックの類となるとこれはもうわからんちんもいいところで、「クラシックの曲」というお題で山手線ゲームをやらされたら二周目でアウトになります(それはいったい何人でやっているのか)。そしておばあさんと女の子の話と言われてもこれまたあんまり興味を引かれるものでもないんですが、この映画はそうしたぼくの死角をびびっと突いてきた感があります。
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囚人の女の子はハンナー・ヘルツシュプルングという人が演じているのですが、これははまり役でした。ものすごくいい感じのズベ公ぶりでした。可愛すぎず、凶暴さと野卑さがあって、それでいて演奏シーンの表情はめちゃ格好いい。同じ監獄もので、『リップスティック』というフジテレビのドラマがあったのですが、あれの広末っぽい感じもありました。顔はぜんぜん似ていないんですけど、声がちょっと似ています。あのドラマにおける広末と重なってこれまた高ポイントです。
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 ピアノ教師のおばあさんは役名がトラウデ・クリューガーといって、実際にいた人だそうです。演じたのはモニカ・ブライプトロイという人で、おじいさんにも見えます。このよぼよぼのおばあさんがズベ公をあやしていく関係が、なんともどうもいい感じだったんです。

 人間関係とか来歴とかは、結構曖昧に残されているところがあるんですね。で、冷たく投げ出されているところもあって、その辺のぼんやりした感じは非アメリカ映画的でもあって、これはこれで味わいなのですね。たとえばあの看守のおっさんがそうなんです。看守のおっさんは序盤でヘルツシュプルングに暴行を受けて、それ以後彼女を憎んだりもするんですけど、このおっさんの造型が面白いんです。物語的な意味で言えば、主人公の敵対者みたいな位置づけなんですけど、反面、クイズ番組に出演しているシーンがあったり、娘を大事にするような描写があったり、なんかただの悪い奴でもないんですね。かといってそうしたエピソードは物語それ自体には関わっていなくて、この切り取り方は変で面白い。
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 アメリカ映画は良くも悪くも設定に合理的なところがあるから、仮にこれがアメリカだったらあそこで看守の娘は出してこないと思うんです。いや、あの娘は「正式なお辞儀はできるの?」という部分で伏線になるので出すかも知れないけど、仮にアメリカ映画だった場合、もう少しあの親子関係をわかりやすく描き出すと思うんです。でもそれをしない。その分、なんやねん、あのおっさん、と妙に気になるところが出てくる。この曖昧さを残してくるのがなんだか好きですね。観た人はわかると思うんですけど、冷静に考えたら、あのおっさんは後々処罰される可能性があるんですよ、終盤であんなことをすると。でも、それを顧みずにあんなことをしているでしょう? あの辺がねえ、「ちょっと気になるおっさん」なんですねえ。
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おばあさんの過去が随所で挿入されるんですが、説明無く放り込んでくるカットがいくつかあって、ここもいい。うん、最近は気づけばアメリカ映画ばかり観ていたので、非アメリカ映画的なタッチの演出、わかりやすさよりも違和感で攻めてくる演出が新鮮に感じられました。あのおばあさんの過去も曖昧です。でも、心地よい曖昧さでした。そこはそんなに詳しく言わんでええやん、ほのめかす感じでいこうや、と監督が考えたのなら、ぼくにはばっちりはまりました。この映画はおのおのの過去や背景について、たくさん語ってくれなくていい。女の子の過去ももやっとしているでしょう、親父との関係とかね。でも、もやっとしていていいんです。これについては断言する。もやっとしていていい。
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つくづく映画というのは本当に奥が深いなあと思いますね。語ったほうがいいこと、描写したほうがいいことと、そうでないことの垣根って、ものすんごい微妙です。その配合を誤れば冗長になったり食い足りなくなったりするのであって、いい映画はそのバランスを巧みにとり、そうでない映画はいつの間にかしくじっている。要は編集と脚本の問題になるんでしょうけれど、これは奥が深いテーマですよ。深すぎて今のぼくには到底語り得ないです。そこを語れればこのブログももうちょいしゃきっとするのでしょう。はい、精進いたします。
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 ピアノ演奏シーンもよかったですねえ。やっぱり、女の子がクラシックに収まっていかないところがいいじゃないですか。師匠のおばあさんはクラシックが大好きで、「低俗な音楽なんて演奏するな」と言うんですけど、女の子は言うことを聞かない。考えてみれば、あのズベ公がクラシックなんて弾くのはぜんぜん合っていないわけで、大人しくマイ・フェア・レディになったら最悪なんですけど、見事にその方向を回避しています。

 あのー、結構危険というか、取り扱いの難しい内容なんですよ。クラシックが好きで品のいいおばあさんが、囚人でやんちゃな女の子にピアノを教えるとなると、大人しく仕上げて更正するみたいになりかねないわけです。でも、絶対そっちにはいかない映画ですね。権威の中に回収しない。
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 おばあさんの過去として語られるものがそうで、彼女はたぶんにアウトサイダーなんですね。かつてナチスという権力によって友人を殺され、自らは同性愛者であり、最終的にはピアノを演奏させるべくごろつきの力を借りて女の子を脱走させる。正式のお辞儀を要求したり、正統なクラシックを愛したりする反面で、そういういわば普通ではない側面も持っている。この辺の揺らぎがすばらしいのです。

 「人間」というものについて観ながらあれこれ考えさせられる。
 たとえば、こういうものの言い方ってあるじゃないですか。
「元不良が更生して美談みたいに扱われることがたまにあるけど、あれって変だよな。だって、ずっと真面目に生きてきたやつのほうが絶対偉いじゃん」みたいな言い方。
 さて、果たしてそうなのか。
 ずっと真面目に生きてきたやつは人に迷惑を掛けていない点で偉いけれど、別の見方をするなら、ただ周りに流されて唯々諾々と楽な道を歩んだだけじゃないのか。声をあげるべきときにあげることもなく、戦いを避けてきただけじゃないのか。また、不良のほうにだって、そうやって生きていくほかない境遇があったんじゃないのか。真面目に生きられたやつは偶然そうやって安穏と生きる道があったからいいけれど、そうじゃないやつだっていっぱいいるわけで、世の中に牙をむかなくちゃやっていけない事情だってあったんじゃないのか。

 囚人の彼女の過去が部分的にしか語られないので、たとえばそんな風なことも考えてみたりしました。ただ黙々と囚人生活を送っていればよかったのか。彼女はあの場面で、脱走しないほうがよかったのか。おばあさんは彼女を脱走させないほうがよかったのか。あのラストの演奏は、生まれないほうがよかったのか。そうじゃないだろう、と思わせるラストです。

 あのラストはネットにアップされるくらいに圧巻のものでしたね。あれはちょっと予想だにしなかったというか、まさかあんな演奏法があるなんてと度肝を抜かれました。あのパフォーマンスはめちゃ格好いいですね。ああいうのを観ると、月並みもいいところですが、「芸術の力」みたいなものを感じます。あの一瞬が、人生を支えてくれるんじゃないかと思わせますもの。
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 これはびびっと来るもんのあった映画でした。お薦めいたします。
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笑いを尊ぶ人にお薦めします。
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 ぼくは人を笑わせようとする人が主人公の映画にどうもぐっときてしまうんですね。
有名なところで言えば『キング・オブ・コメディ』がそうですし、去年観た映画のベスト5にしました『パッチ・アダムス』もそう。あと、映画好きにはことごとくスルーされている感じの松本人志監督『さや侍』も好き。あとはチャップリンの『独裁者』もその系統だと感じています。チャップリンの『街の灯』なんかも、女性になんとか笑顔をもたらそうという映画ですね。だからこそ切なさが宿るというのもあって、笑いという要素がギャグとは別のひとつの軸として描かれると、ぼくはどうにもほろっとしてしまう。
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『パンチライン』はスタンダップコメディをする青年とおばさんが主人公で、それぞれをトム・ハンクス、サリー・フィールドが演じています。監督は『オーメン』などの脚本も手がけたデヴィット・セルツァーという人です。
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 日米の笑いの違いとして、日本ではスタンダップコメディというものがほとんど広まらないですね。日本では漫才やコントがメジャーだし、ピン芸でも純粋に漫談と言えるものはぜんぜん出てこない。もちろん芸人が一人でトークをするようなものもあるけれど、スタンダップコメディとはまったく別種のものでしょう。その違いの核にあるのがおそらく、「ジョーク」という概念ですね。日本には「ギャグ」はあっても「ジョーク」はない。ぼくの述べる「ジョーク」というのは「固有性のない、ごく短い笑い話」くらいの意味合いですが、こういうものは日本ではなぜかちっとも流行らない。

 アメリカ以外の諸外国はどうなんでしょうね。アジアとかヨーロッパは。その辺の知識はまるでないんですけれども、アメリカの場合にジョークという文化が根付いたのは、お互いが人種や民族、背景を異にする国だというのが大きいのではないでしょうか。お互いに背景が違うし、どういうコミュニケーションをつくっていけばいいかに悩んだとき、ジョークというのはちょうどいい潤滑油になるのでしょう。人種ネタや民族ネタが多かったりするのも、互いが自虐的にネタにしあったり、背景を共有したりするのに役立つというのがあるのではないでしょうかね。あるいは背景が不透明な分、会話の中でボケていくのが難しい場合に、ジョークという形式でパッケージングすると笑いを生みやすいという理由もありそうです。

 笑いの分析をするのは楽しいのでいつまでも続けてしまいそうですが、映画はというとそんなジョークを武器に舞台に立つ人のお話。医学生崩れのトム・ハンクスが、主婦でコメディエンヌを目指すサリー・フィールドに指南する形で関係が生まれていきます。
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 サリー・フィールドは三人の子持ちの主婦という設定なのですが、ぼくとしては珍しく、すっとこの種のキャラクターに感情移入できました。やっぱり笑いを志す人物だというのが大きいのだと思います。彼女は家事や夫の不理解に悩まされながらも、笑いの舞台で活躍することを願っているのです。
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『パッチ・アダムス』のときにも書きましたが、笑いというのは生の肯定なのです。人を笑わせたいと思うとき、人はその相手の笑顔を欲し、またその笑いを生むことで自分の感性を信じることができる。彼女が誰かを笑わせたいと願う姿は、活き活きと生きたいと願う姿そのもので、だからこそ自然と応援してしまうのです。
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 この映画でいいなと思ったのは、彼女の夫の立ち位置ですね。ジョン・グッドマンが演じているのですが、この夫は夫で、彼女のことをちゃんと愛しているんです。「人を笑わせる才能が無くっても、家族は皆君のことを愛しているよ」なんて台詞をさらっと入れてくるあたりに、おお、と思わされます。観ているとしばらくは、あれ、夫はちょっと敵対者っぽくなるんかな、と思うのですが、そうじゃないんですね。サリー・フィールドが変な髪型になったくだりで、ああ、この夫はええ夫やな、とはっきりわかる。シニカルな対応もせずに、真面目にしっかりしているんです。グッドマンです。
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 トム・ハンクスが彼女に惚れてしまうんですが、あの辺はどうなんかな、というのはありました。まあ、関係に綾をつけたいというのがあったんでしょう。単に支援者だったりしても平坦なんで、ちょっと危うい要素も入れて、それが彼女と夫のつながりをくっきりさせるという効果もあったのでしょう。だからあれはあれでまあよいのです。
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 それと、これは小さなエピソードがぽろぽろ入っている映画ですね。たとえばトム・ハンクスの父親が舞台を見に来る場面。トムは医学生崩れで、厳格な親父には自分の境遇をいまひとつ誇れずにいたりして、それで舞台でもすべってしまう。あのエピソードがまるきり回収されずに放り出されてしまったのはいささか難点ではあるのですが、言ってみれば若手芸人に過ぎない彼の、自分を誇れずにいる姿を描いているのは、これはこれでありなのです。人を笑わせたいって強く願っているのに、それで身を立てたいって思うのに、それがなかなか果たせずにいるのは、そりゃ、辛いもんです、うん。

笑いに携わる人々の光と影みたいなもんも端々で描いているんですね。おじいさんのくだりもそうです。映画ではクライマックスに、テレビ番組の出演を賭けたコンテストが開かれるんですが、コメディアンとして舞台に立ってきた一人のおじいさんは、そこに選ばれないんです。「未来のスターを発掘するものだから、あんたは出られないよ」みたいになるんです。これはこれで切ない。あのおじいさんのエピソードをもっと観たい気もしました。あまり背景が描かれないからもったいない部分です。

 で、おじいさんは失意して落ち込んじゃって、で、哀しい負け惜しみを言うんですね。「自分は昔、ラスベガスのショーで優勝して、エド・サリバンの番組にも出たんだ。このコンテストで優勝して番組に出たって、あれに比べればぜんぜんたいしたことないんだ」みたいなことを言うんです。このおじいさんのくだりはほとんどそれきりに放り出されるんですけど、なんか、切ないです。こういうのをぽんと入れてきます。エピソードが回収されない分だけ、観終えた後に余計哀しくなってくるところもありますね。
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 そういった悲喜こもごもがありつつも、映画は進んでいきます。ところどころ未消化な部分も目立つ作品ではありますが、観終えた後で、笑いを巡るあれこれに思いを馳せてしまいますね。映画自体は1988年のスタンダップコメディを描いた作品とあって、英語も不十分なぼくは十分に笑いを理解できていないところもあるんですが、そういうのはあまり気になりません。笑わせようとする人と、その場所があるだけで、伝わってきますから。この映画を観る際の注意としては、劇中のジョークで笑えないとかそういうのを気にしないことですね。そんなのどうでもいいことです。もっと大きな目で笑いというものを捉えてほしいと思いますね。

人に薦めるかでいえば、人を選んで薦めます。笑いというものについて、ちょっと踏み込んで考える人には薦めたいです。観ている途中で思い出したのですが、爆笑問題の太田光がこの映画について短い文章を書いていて、あらためて読んでみると「笑いに尊敬の気持ちを持っている人がつくった映画だ」というようなことを言っています。笑える映画を観たい、という人向きではありませんが、笑いを大事にしたいと思っている人には観てもらいたいと思いますね。
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ポスト冷戦構造を予見している作品
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 監督は『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・バダムですが、あの映画は心に残る一本であります。何かというとあの映画は「きらびやかなディスコで踊るトラボルタ」のイメージで語られるものでありますが、そのときの記事でも書きましたとおり、あの映画で大事なのは土曜日の夜ではない。狂騒と魅惑の土曜日を終えたあと、日曜を過ぎて、さて次の月曜日からをどう生きていこうか、という真面目なお話なんですね。若い頃に観ておくべき作品の一つと言えましょう。

 さて、『ウォー・ゲーム』です。今から30年も前の映画で、その内容や描写から強く時代性を感じる作品でありました。主人公の少年はパソコンいじりが得意で、学校のコンピュータにハッキングして自分の成績を書き換えてしまうような男の子なのですが、彼がふとしたことから宇宙防衛司令部の核ミサイル制御システムみたいなもんにアクセスしてしまい、実際の核戦争にまで発展するんじゃないか、こらえらいこっちゃ、という話です。
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高校生の少年がいくら特殊なパスワードを見つけたからと言っても、そんなたいそうなシステムにアクセスできるわけないじゃないか、核ミサイル制御システムがそんな簡単に外部からの侵入を許すわけないじゃないか、というのもね、まあ時代が時代のご愛敬ってなもんでしょう。なにしろ今から30年前にトリップして、パソコンの話をしたところで、普通の人々は何のこっちゃわからないでしょうからね。企業や官庁などは別としても、人々の感覚からすれば、「なんかコンピュータってのはすごいんだな」くらいの時代でしょう。日本にはインターネットがなかった時代ですし、コンピュータウィルスという概念さえ世界にあったんだかなかったんだかという頃です。
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そうは言いつつ、ぼくなどには実のところ、ハッキングやクラッキングというものが今世の中でどれくらいのもんになっているんだか、まるで見当もつきません。アノニマスなんて集団がどれくらいの破壊力を持っているのか、サイバー攻撃なんてものが戦争で用いられることがあるのか、この辺はさっぱりわからんちんです。
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 ただ、この映画で用いられた「外部からシステムを動かす」というアイディアはその後の映画でいろいろと利用されてきたわけで、その点面白い作品であるなあと思います。それとも何かこの映画にも元ネタがあるのでしょうかね。この映画で描かれていることは、実は冷戦崩壊後の世界をもちょっと予見している節がありますね。
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 この映画の時代は1983年で、まだ米ソ冷戦が続いていた頃です。劇中でも米ソの対立が主軸となっていて、米軍の宇宙防衛司令部の人々はソ連からミサイルが発射されるのではと戦々恐々としています。
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『ウォー・ゲーム』というのはその名の通りで、劇中で主人公の少年がアクセスしたプログラムは、まるでゲームのごとく、米ソの戦争をシミュレーションし始めます。そのプログラムがそのまま司令部のシステムに影響してしまい、司令官はじめ職員たちは「ソ連がミサイル攻撃を仕掛けてくるぞ!」「レーダーに反応があるぞ!」とてんやわんやになるのです。本当は何もないのですが、まさかそんなプログラムがあるとは知らない彼らは、本当に攻撃されるのではと怯え始めるわけです。
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 米ソの時代がはるか昔となった現代ですが、『ウォー・ゲーム』は興味深い構図を描き出します。といいますのも、米ソの時代というのはつまり、超大国がそのシステムを揺るぎなく保持できた時代でもあるわけです。確かに米ソは互いに脅威を感じていた。ただその対立はつまり、明確な敵を描き得た、ということでもありました。アメリカはソ連を相手にすればそれでよかった。
 ですが、冷戦が終結して911を迎えるとそうはいかなくなった。どこにいるのかもわからないテロリストが相手になってしまった。『ウォー・ゲーム』はそこが面白い。この映画で本当に脅威だったのはソ連じゃない。そして実はコンピュータの暴走でもない。脅威なのは「個人が強大なシステムを脅かせる」ということです。もちろん現実的に考えて一人のクラッカーが国防を左右することはできないでしょうが、超大国に比べれば遥かに小さな集団でも、手段如何によって超大国を相手取れてしまう、ということです。今のところ、テロリストの手に核が渡ったなんて映画みたいな出来事は起こっていないようですが、それでも北朝鮮程度の国力で、核を持つだけで周辺国をびくびくさせられる。『ウォー・ゲーム』は、一個の「安定した」米ソ対立時代から、脅威が拡散する時代への変化を予見したものと言えるのではないでしょうか。
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とはいえ、今もなお当時と同じように、核抑止の時代です。イスラエルにしろイランにしろ北朝鮮にしろ、「核」があるとないとじゃ大違い、の時代です。映画では「相互確証破壊」の考えが描かれ、「結局そんなことやっても勝者はいないんだ」というメッセージがもたらされますし、超大国同士が核戦争をやるメリットはない、とひとまずは言える。でも、もう超大国の論理では立ち行かなくなっていますので、あの頃よりも深刻化しているとも思うのですね。飛行機でビルに突っ込む連中にメリット、デメリットの話はできない。イスラエルとイランをめぐる核保有の論議、アフガンの泥沼と相まって、うん、ちょっとこの先何がどうなるってのがね、読めない読めない。
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 なんか堅苦しい話になりますなあ。堅苦しいわりに無知なもんで中身がないですなあ。

 まあ、こうした映画を通しまして、世界の動きに思いをめぐらせるというのは、個人として必要なことなんじゃないかしら、とは思います。正直な話、ぼくは架空の、ファンタジーなどの戦争物とかってぜんぜん興味がないんですね。架空の世界でなんとか国となんとか国が戦ってどうたらってのはもう心底どうでもいい。そういうのはテレビゲームで十分。今のぼくは、現実の世界に引きつけてでないと映画をうまく観られない、楽しめない、という状態です。映画を映画として愛でる、ということができなくなりました。その意味でぼくはたとえば「映画クラスタ」とかそんなのとはやっぱり距離を置き続けていくわけなのでした。おしまい。
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あらためてご紹介

 いやあ、映画について語る気がしない日々であります。ぼかあ年に幾度かこういう風になります。そう思うとコンスタントに映画の感想をアップしている方々というのは本当にすごいですね。

 映画は観ていないわけじゃあないんですけれども、どうもレビウをしたためたくなるような作品には出会っておらず、もとい、レビウを通して見方を深めようという気にならず、最近は恵比寿マスカッツのことばかり考えていますね。

うん、ぼくがここで映画を紹介したりするのはひとつに、こんな映画を観てこういう風に思ったのでぜひあなたも観てください、という布教的な意味合いがあるわけですけれども、その点で言うと、ぼくは今どんな映画を薦める気にもならず、なぜなら恵比寿マスカッツをまず皆々様に知っていただき、そして恵比寿マスカッツを盛り上げていこうじゃないかというほうが強いのであって、このうえはkarasmokerは映画評を書く人ではなく、「恵比寿マスカッツのエヴァンジェリスト」として認識してもらいたいとさえ思うのですね。

そんなわけで、恵比寿マスカッツの回です。これを数ヶ月にいっぺんくらい挟まないとストレスがたまります。映画の話ばかりするのは窮屈でなりません。恵比寿マスカッツを知らなかった人には知っていただきたく思います。以前からぼくがガン推ししているから知ってはいるけどスルーし続けている、という人はいい加減目を覚ますべきなのです。なにしろこのぼくがですよ、冷静な洞察ときわめて鋭い批評眼で映画を評し続けているこのぼく様ちゃんが、こんだけ推してるわけだから良いに決まっているのです。大人しくファンクラブに入るべきなのです。

そもそも恵比寿マスカッツがその産声を上げたのは今からちょうど4年前、2008年の4月のことであります。テレビ東京の『おねがい!マスカット』という番組の中で結成されたのです。番組は現在『おねだり!!マスカットSP』という名前で、途切れることなくついに5年目に突入したのであります。

 現在のメンバーは4月から入った人も加え、総勢31名を数えます。そのうちの16名がAV女優であります。このAV女優という存在について云々するのはもはや飽きましたので多くは語りませんが、ぼくはAV女優を主要メンバーとするこのグループにとにかく惚れ惚れしているのであります。

 女性はおくとして、男子諸兄の皆様におかれましては、常日頃お世話になっている方が多かろうと思います。お世話になっているのだから応援すべきなのです。実に簡明な理路であります。また、それとは別に、AV女優という生き方には一種の尊敬を覚えるのであります。世間には「乳首を死守したい映画女優」がごまんといますが、あんな連中に騙されてはいけません。また、「処女幻想をばらまいて飯を食おうとするアイドル」もごまんといますが、これまた目くらましの女狐なのであります。もっとAV女優という存在の尊さを見つめなくてはなりません。男子の沽券、ひいては国家存亡に関わります(関わらない)。

 さて、恵比寿マスカッツを知らずしてこの記事を読んでいる貴方は幸福であります。なにしろ今からこのぼくが恵比寿マスカッツの主要メンバーであるところのAV女優たちについてご紹介していくからであります。ついに貴方も啓蒙の時を迎えるに至りました。そのことをぼくは祝福します。恵比寿マスカッツを知り、その魅力を感じることによって、貴方の汚れきった魂は浄化され、澱みきった眼は澄み、腐りきった耳は福音によって癒され、人生の導きを得ることでありましょう。そしてその暁には、「そうだ、あのとき私を目覚めさせてくれたのは、あのkarasmokerという方だった。あの人に是が非でも大金を渡したい。財産分与を本格的に検討したい」などと考えてもらい、実際に振り込むなどしてくれることがあれば、ぼくはもうそれだけで満足であります。

 ここからは実際のAVのパッケージをご覧に入れつつ、16名のご紹介を始めたいと思います。有害だわ、PTAの会長さんに連絡しなくっちゃだわ、そして教育委員会とマスコミ各社にこの紊乱きわまる記事を告発しなくっちゃだわという品行方正な奥様方がいらっしゃいましたら、もう二度と来ないでください。あなたのためにブログを続けることはありません。

麻美ゆま
 二代目リーダーにして番組の元気印。2005年のデビウ以降AV界のトップを走り続けております。この方の笑顔に癒されたる諸兄は数知れぬのであります。
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吉沢明歩
こんなにもお美しい方が他にいらっしゃるでありましょうか。その輝かしき美貌は他のメンバーさえをも惚れ惚れとさせてしまうのでありまして、吉沢明歩を愛でることはもはや我々が太陽を欲するのと同じことなのであります。
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Rio
 番組での活躍度は計り知れず、エースであることは誰もが認めるところであります。正直なところ、麻美、吉沢、Rioの三人だけでもはや他のアイドルグループの小娘などすべて凌駕しているのであります。

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蒼井そら
 今現在のAVアイドル文化、その急先鋒としてゼロ年代を駆けたのがこの蒼井そらであります。現役AV女優でありながらバラエティなどにも出演し、風穴を開けた功績は高く評価されるべきものであり、そりゃあ四千年の歴史を誇る中国の民も惹かれずにはおれぬのであります。
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初音みのり
 どこか冷たい目を持ちながらも野蛮さを備えるのであります。トップグループを張るタイプとは異なるものの、彼女の存在、不在によって華やぎはまるで異なるのであります。

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西野翔
 バラエティ的振る舞いを十分に会得している一方で、どこか影があるのもまた魅力であります。同じグループに所属するメンバーでありながら吉沢明歩に崇敬の目を送るという、「なんやその立ち位置」というような奇妙さに笑わされるのであります。

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佐山愛
 番組内ではデブと揶揄されたりもしますが、セクシーダイナマイツであります。間近で実際のボディを拝見することができたなら、ぎんぎんのふにゃふにゃになってしまうこと請け合いでありましょう。
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小川あさ美
 ボディコンワンレンがグンバツに似合う一方で、中国の高級娼婦のような妖艶さを持ちつつ、馬鹿であるところがこれまた面白いのであります。
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 以上が番組開始当初より在籍する面々であります。言うなれば新選組における試衛館道場の志士たちと言えましょう。そこに以下の方々が加わることによって、恵比寿マスカッツは他に類を見ない不世出のグループとなったのであります。

桜木凛
 二期生の星であります。キャンディーズのランちゃんを彷彿とさせる素敵さがありまして、そのキュートな声にめろめろなのであります。

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希崎ジェシカ
見た目からとんがっている感じかいな、と思いきや、こらええ子やないけ、と思わされるのであります。イタリア人のクォーターで、他のメンバーにはない異風の香りもまた独特の魅力を放っているのであります。

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かすみ果穂
 グループのバラエティ戦力値を大きく引き上げるのが彼女であります。スパロボでいうところのグランゾン的な頼もしさがあります。彼女なしに番組は立ちゆかぬといっても過言ではないでしょう。

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瑠川リナ
 非常に独特な魅力を感じるのであります。単に可愛いアイドルなどごまんといるのでありますが、ちょっとクセのある可愛さがあり、しかしその魅力をひとたび感知すればめろめろなのであります。静止画やジャケ写では伝わらないキュートさに溢れております。
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希志あいの
 麻美ゆまに次ぐ三代目、現リーダーであります。瑠川リナと同時に加入したことによって、このグループの戦力値を大いに高めました。かすみ果穂とともに下ネタをがんがんぶっこんでいく点も実にたくましく素敵なのであります。

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里美ゆりあ
 この方の加入もまた番組にとっての大きな起爆剤になりました。この美貌の一方で、非常に自由な振る舞いが面白く、もう里美ゆりあが喋るだけでおもろいやんけ、の域に達しているのであります。
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春菜はな
 四月からの新加入であります。未知数であります。
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安城アンナ
 四月からの新加入であります。未知数であります。

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 いかがでありましょう。錚々たる面々とはまさにこのことでありまして、小娘アイドルどもとは格が違うと言わざるを得ません。これでもまだ全メンバーの半数です。どうでしょう。もう恵比寿マスカッツを推す以外に貴方に何ができるというのでしょう。
 男子諸兄が尊ぶべきアイドルグループは他にありません。
 これはもう、そういうことなのです。
 さあ、貴方も恵比寿マスカッツを愛でるのです。そして、この世の真実というものに気づくのです。その後、ここが肝心ですが、貴方に真実の道を示したのはこのkarasmokerであるということをよく肝に銘じるのです。家賃を払う必要はありません。私を信じていれば大丈夫です。お布施は貴方のお気持ちで結構でございます。皆様は百万、二百万といった金額をお納めくださいますが、これもまた信心の表れというものでございましょう。お布施に関してご不明な点があれば、ご相談いただければと思います。
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