饒舌な劇ですが、語ってほしい部分にはいかんせん寡黙で。
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パトリック・ウィルソン演ずる男がエレン・ペイジ演ずる少女と出会い系サイトで知り合い、あれなことをしてやろうと思ったら逆にどえらい目に遭わされるという、そんなお話です。日本のオヤジ狩りにヒントを得たそうで、パッケージからも明らかなとおりに「赤ずきん」が元ネタでしょう。

 本作は一言で言うに、エレン・ペイジを観る映画なのかなと思いますね。短髪で生娘っぽい外見の彼女がその実サイコパス的な言動に走るその様が本作の見所でして、後に彼女が『スーパー!』に起用されたのもむべなるかなと思います。
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 なぜ彼女がパトリック・ウィルソンをひどい目に遭わせるか、その本音の本音の部分はどうも語られずじまいのようなのですが、要するに彼が出会い系で若い少女を捕まえるようなロリコンであり、過去にもそんなことをしているのであり、であるならば制裁をくらわせてしかるべきであるからやってしまえと、まあそんな感じなのです。
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 ほぼ全編二人の会話劇です。二人のスリリングな駆け引きがこの映画の肝なのです。饒舌な劇でありまして、エレン・ペイジに虐められたいという諸兄にはもはやこれ以上の映画はないのであります。一方で、彼がロリコンであるという部分は台詞でちろちろ語られるのがもっぱらであり、こいつがどんな人間かもうひとつよくわからないなあというのもあって、そこまで入り込めはしませんでした。
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 二人が男の家で織りなす会話劇、なおかつ男は身体の自由を奪われて大変な状況、であるにもかかわらず、どうにも二人の本音が見えてこない印象がありました。そこがねえ、うん、この映画のひとつ弱いところではあります。
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 ロリコン野郎をぶちのめせ映画であるのだとして、こいつのロリコンぶりがあまり見えてこないんです。そこが弱いのです。いや、別に、そういう写真だの映像だのを出してこいというんではないんです。むしろ必要だったのは、彼が己のそういう無様な一面、口にするのも憚られるような欲望をぶちまけるシーンがなかったことです。
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 なぜこの映画はそこをかわすのか、あるいは用いないのか。それがないからどうにも芯が弱くなる。男は少女に睾丸除去を迫られて、「なんでもするから助けてくれ!」と懇願する。いわば極限状態です。にもかかわらず、こいつの醜い面が最後まで出てこない。
 
 なんかね、一人、失踪中の少女がいるらしいんです。で、この男がやったんじゃないかと言って少女は攻撃を加えるわけです。その辺は真相が藪の中というか、最後まで男は否認するんです。そういうやりとりがあるのは構わない。だったらなぜそのくだりで、この男の他の罪、ロリコン的趣味の告白をさせない? それをさせたほうが像がくっきりとしてくるのに。
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 いや、それをすると男が悪者っぽくなり、少女が正義の執行者のように見えて、映画のバランスが崩れるのだ、というかもしれない。でも、そうやって本音を交わし続けているから、この二人の劇の熱が高まっていかないんです。なんかよくわからない二人がずーっと戦っている感じになります。

 この映画では男の睾丸除去というのがひとつの山場になります。そこら辺の直接的な描写はふせられています。それは全く構わないというか、この映画ではグロ描写は別に必要ない。それでいい。しかし、その分だけ二人の会話から生まれる熱にもっと傾注しなくちゃいけないし、そのためには二人の正体なり本音なりにもっと迫らなくちゃいけない。顔のアップが多いのに、二人の深い部分が見えない。せめて、男のほうはそれをすべきだったと思うんです。エレン・ペイジの謎さはキープしてもいいけれど、男のほうはもっと明かしてほしいわけです。

 二人の駆け引き、どっちが攻めるか守るかの揺れというのは確かによくできていて、その部分のサスペンス感はあります。そこはいいのです。そこがいいのでこの映画はそれでよし、ということもできる。一方で、もったいなさも感じます。
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あるいはこれは観る者の年齢、性別等々によって、ずいぶんと見方が異なる映画なのだろうなあとも思います。たとえばこのエレン・ペイジと同世代の少女が観たら、パトリック・ウィルソンは単に悪い他者でしょうから、ある種の痛快さを得て終わるかもしれません。反面、ロリコン男には胸くその悪い結末でありましょう。十代のアイドルを信奉している人たちに見せるとどよーんとするかもしれません。どちらでもない人間からすると、もっと踏み込んでくれればいいのに、と感じるのであります。
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 ちょっと、「観客のご想像に任せるよ」の部分が多すぎるかなというのが大きいです。こっちは想像したいんだけど、それにしたってもうちょい鮮明にするところがないと想像できないよ、と言いたくなるんですね。

 この映画が自分にはよくわかったぞ、この映画は深い部分でこういうことを言うているのだぞ、というのがあったら教えてほしい一本でございました。
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ものの良し悪しって何なのでしょうかね。
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 好事家の間で話題を生んだドキュメンタリー作品です。なかなか考えを揺らせる作品でありまして、よい映画でございました。

 バンクシーというのは正体不明のグラフィティアーティストでありまして、街角の壁にいろんなアートを描いている人です。政治的メッセージ性のある作品なども描いていて、世界的な注目を集めているようです。

 映画はバンクシー監督名義になっているのですが、少しややこしいのは、映画自体の始まりが彼ではない、ということです。最初はティエリーというカメラ好きのおっさんのハンディカムから始まって、彼がいろんなグラフィティアーティストの活動を追いかけるのです。バンクシー自身が出てくるのはずいぶんと後で、最初のほうはぜんぜん絡んでいないんです。このティエリーというおっさんの話でもある、というかそちらの話になっています。ティエリーというおっさんがバンクシーと接触したことで、バンクシー監督による作品が生まれた、そんな珍しい構造なんです。
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 本作を観て誰もが感ずることは、アートって何やねん、という問いでしょう。全編がこれをめぐるお話と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 
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 グラフィティアーティストといって、まあ街角に勝手に描くわけです。違法行為だから見つからないように夜な夜なささっと描いて逃げたりするんですね。日本の街角でも変な落書きみたいなのが方々にあったりします。
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 それ自体がどうやねん、というのもありますね。知らない人の建物に勝手に描きまくって、それがアートなのだ、どうだ、と言われても、ぼくはそれを消す仕事をしている人のことを考えてしまったりもします。消すの大変だろうなあ、とかね。自分で描いて、自分で消していたらまだいいんですけど、言っちゃえば描きっぱなしですからね。穏やかな町並みの中に、手前勝手に表現活動されてもうっとうしいだけやで、みたいなのを感じる部分もあります。
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 うん、それはあるかなー。いや、バンクシーみたいにね、政治的な意見の表明としてやっている分には、意味があるというか、わかるんです。言論よりもわかりやすく人々に伝わるというのは間違いなくあるし。ただ、それを芸術表現だみたいにしているのを観ると、なんか違うんちゃうかな、という気もしてしまう。

 そもそもの話、ぼくはアート感度が大変低い人間であります。もし人にアートの話をされてもきついもんがあります。ただ、この映画はアートの中身うんぬんよりも、その外側。受け取る側に突きつけてくるものがあるので、とても刺激的です。芸大や美大の人とか、アート関連で飯を食おうという人は観ておくべき作品だと思います。

 バンクシーを追いかけていたおっさん、ティエリーですが、バンクシーから自分でアートをつくりなさいと言われます。これは別に彼に才能があると思ったからではなく、ティエリーが自分でつくった記録映画が、ぜんぜん駄目だったからなのです。バンクシーは、「自分の作品はすぐになくなってしまうし、映像として記録に残るのもよかろう。ティエリー、ちょうどいいからおまえの映像を編集して映画にしてよ」と言ったのですが、これがまるきりどうしようもないので、とりあえず彼にアート制作を勧めたようなものなのです。
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 ここからが面白くて、ティエリーは自分でいろいろ始めだして、大きな個展を開くぞ、という話になるんですけど、そのアートの中身はといえばどうにも無個性というか、自分の内側から生み出したものじゃねえじゃん、っていうかぱくったりとかしまくってんじゃん、みたいなものになっているのです。
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 ただ、これまた面白いのは、彼の個展は結構評価されるんです。勧めた責任上、バンクシーも名前を貸したりしており、彼の名前があるならということで人が集まって、作品が高値で買われるようになるのです。

 さあ、ここがこの映画の大変興味深いところですね。じゃあ、アートってのは何なのだね、という話です。本物のアートとか、偽物のアートとか、そんな言い方がそもそも何を指し示すものなのか。それがわからなくなるのです。
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 いや、アートに限りません。映画もそうだし、小説も、演劇も、音楽も、テレビ番組も、なんでもそうです。何をもってぼくたちは良し悪しの判断をしているのか。
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 いちばんわかりやすいのは数字ですね。数字が出るということはそれだけ多くの人に評価されているということでもあるし、だとするならそれはよい作品なんじゃないかと言える。でも、数字だけで表せるほど単純なものであるはずもない。
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 映画ブログですから映画産業でいうとわかりやすいでしょうね。テレビ局制作の映画が興収の上位を占めると。でも、多くの映画好きからすればそんなものは観るに値しないといわれる。でも、事実として多くの観客はそれを観て面白いと感じている。だったら、良し悪しって何なんだろうね、ということです。

 そのお金によって救われる人が出てきたらもっと事態は複雑です。劇中、アーティストとしてどうやねん、と思われるところの多いティエリーですが、事実彼は大金を手にしている。そのお金を、たとえばですよ、慈善事業に寄付していたりなんてことがあるとするなら、本物のアートうんぬんと言いつつも密かに闇夜街角でごちょごちょやっているだけの人よりも、ずっといいのかもしれない。この映画ではそういう描写はまったくないんですけど、そこを一カ所でもぽんと放り込んだら、観客の認識はもっと揺るがされることになったでしょう。

 アートは内発的に生みだされたものがすばらしいとか、独自のスタイルを確立してこそのものだとか、そういう言説というのは確かにそれらしく聞こえはする。ただ、どうなんでしょうね。受け取る側が満足しているならそれでいいじゃん、っていうか受け取る側に支持されるものがいいもんなんじゃないの? だって、おまえ一人がいくら自分の内面だの経験だのをごちょごちょ言ったってそれは結局おまえ自身のものに過ぎないしさ、そんなのよりみんなが楽しめるものを生み出していたらそれでいいんじゃねえの? という話にもなってくるんです。
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 この辺のことはぼく自身がずうっとずうっと考えていることでもある。
 ぼくは昔から人を笑わせるのが好きだったんです。一時は本気でお笑い芸人になろうと思ったこともあるし、今だってテレビの芸人を観ているともどかしさを感じたりする。でも、ここが微妙なところで、好きではあるけれど、得意かどうかというとぜんぜん話が違うんです。ぼくが面白いと思ったことが、人に伝わらなかったりするんです。逆に、ぼく自身はぜんぜん面白いと感じてなくて、まあこれくらいで人は笑うのかな、程度のことを言うと、むしろそちらがウケたりする。そのたびにぼくは感じる。周りが笑っているからそれはそれでいいんだけど、ぼくはぜんぜん面白くないんだよなと。そうなったとき、ぼくはどうしようもない気持ちになる。
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 そうなったら、ウケているほうが正しい、と思わざるを得ないんですね、その場では。でも、それはぜんぜんぼく自身の中からのものじゃなくて、むしろどこかの流行のギャグだのちょっと変な言い方だのをアレンジしたものに過ぎない。じゃあそれは、この映画で言うところの、本当のアートではないから駄目なのか。そうじゃないだろうと思うんです。
現に、それが受け入れられているから。だから辛いというのもある。

 話はまとまりようもありませんが、この映画はいろいろ問いかけてきます。じゃあオリジナリティって何やねん、とかね。最初のほうに出てくるスペースインベーダーのアーティストにしたって、インベーダーのあれってもともと日本のタイトーがつくったんちゃうんか、そしたらティエリーと何が違うねんとかね。バンクシーがグアンタナモの囚人の人形を置くくだりでも、あれがアートなのかえというのもあるし。

 話はアートに限ることなく、かなり広範囲にわたる話題を引き出す映画だと思います。 観た後に、内容から考えさせられることをいろいろと語らせたくさせます。
芸術関係の人とか、これから知人の個展やなんかに出かけようという人は、ぜひ観ておくとよいと思いますね。
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監督のアホさが炸裂している作品は観ていて気持ちがよいのです。
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 SFというジャンルには興味がありますけれど、ぼくが関心を抱くのは現代の延長上に想像できるような未来もの、その中に出てくるガジェットの数々などのほうで、宇宙戦争的なものにはあまり惹かれず、その方面はガンダムなどアニメのほうがむしろ好きなのです。みんな大好き『スターウォーズ』にもちっとも興味が無く、エピソード4と1しか観ていないような人間であります。

 本作は原作がハインラインの『宇宙の戦士』ということなのですが、刊行されたのが1959年。世界大戦が終わった後の冷戦期、宇宙進出競争が東西陣営で行われていた時代です。 宇宙ものSFが華やいだのはやはりこの米ソ対立、宇宙競争のたまもので、今よりも宇宙に対する希望が大きかった時代と言えましょう。その流れは70年代、80年代まで続き、それが『スターウォーズ』、『ガンダム』の製作、ヒットの要因と言えましょう。両者ともが戦争というモチーフを中核に据えているのも道理なのです。

 そういった時代から離れて97年、がっつりとした宇宙戦争もの映画です。戦争、とは言っても、相手は人間ではなく虫のエイリアン。まったく言語も通じない怪獣みたいな存在です。怪獣ものとして楽しめるところが多分にあり、アメリカSFと東宝映画が出会った、みたいな作品です。
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冷戦も終わってソ連崩壊、ロシアは宇宙開発どころか経済がやばい、という時代でもあるので、その辺の緊張感はなく、とにかくエイリアンをやっつけるぞ、というまっすぐな映画です。ヴァーホーベンの悪趣味を炸裂させるにはちょうどよい内容と言えましょう。
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 ウィキによると、本作はナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』のパロディであるとのことで、劇中の世界は統一政府によって支配されているらしく、ニュース映像も兵隊さん万歳みたいな内容で、軍の人たちの一部はナチスそっくりのユニフォームを着ています(ちなみに上画像の鷲の紋章(ロゴ)はナチス特有のものではまったくなく、鷲マークはドイツの伝統ある国章ですから、ナチスと同一視するのは誤りです)。
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でもそんなことはお構いなしじゃい、政治的な細かいことは要らんのじゃい、という感じで映画は進み、主人公が地球防衛軍みたいなところに属し、敵との戦いに繰り出していくのです。
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 ところで、近頃はアメコミものが人気だし、SF映画も勢いがあるのかなという風に思うのですが(新作追っかけにまったく興味がないのでわかりません)、最近の映画でこんな思い切りのよいシーンはあるのかいな、というくらい、ヴァーホーベンがやりたい放題やっている感があります。
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 なんというか、むき出しなんですね。兵士が死ぬシーンなんかでも、人体が無様に散るんです。これがまあ本当に無様で、滑稽ですらあるのです。どちらかというと、SFとか戦争とかいうより、スプラッターものに近いんですね。感傷とかそんなのはぜんぜんなくて、ヴァーホーベンが「やっちまえ!」と吠えている様が浮かびます。『ロボコップ』とか『トータルリコール』とかでもそうですけど、ヴァーホーベン監督はリアリティうんぬんよりも、「この画おもろいやないけ! どかーんとやったらええねん!」という勢いを感じる監督で、ジョン・カーペンターに似ているなあとも思います。CG加工とか特殊メイクとか照明とか次第によって、もっとリアリティある画にはできるけれど、そんなのはいいんだ、この画がいいんだ、というのを確かに持っている感じがして大変よいのです。
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 活劇的面白さは十分で、主人公が巨大な甲虫の背に乗るシーンなどはPS2『ワンダと巨像』のような快楽もあるのであり、敵の虫が大群をなして襲ってくる様はあほみたいでこれまた面白い。
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 正直なところ、この映画はもうそっち押しがんがんの映画です。そもそもあの星に歩兵隊で攻め入るところが戦略としてどうなのやというのがあります。核ミサイルとかをがんがん打ち込んだほうがいいんじゃないかと言いたくなりますが、そんなのは知らないんだ、白兵戦のほうが盛り上がるんだからそれでいいんだ、現に面白いだろう、という力押しが圧巻です。原作だともっと説明があるのでしょうけれど。
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 反面、戦争パート以外はヴァーホーベン監督はそんなに力を入れてないんかな、と感じるところもあります。軍に入隊した若者たちの日常みたいなパートとか、恋愛パートみたいなのがありますが、そこはもう別にそんなにあれです(何なのだ)。しかしそんな中でも攻撃型演出健在で、たとえば戦争訓練のシーンで上官が新兵を締めるくだりはやっぱり少しやりすぎたりするんです。
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 あと面白いのは、新兵たちがシャワーを浴びるシーンですね。男女が普通に同じ場所でシャワーを浴びている。これはまあ、未来の世界では性差とかそんなのはないのだ、的なことなのかもしれませんが、どちらかというと単純にパイオツサービスなんじゃないかという気もします。
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 思いついたままにだらだら書くいつものスタイルで続けますが、ラストはラストでちょっとイってる感じの終わり方ですね。普通この手の、戦争で味方ががんがん死んで、艱難辛苦乗り越えて敵をやっつける映画の場合、主人公はラストには疲労困憊、心身ぼろぼろで任務を成し遂げたりするものですが、この映画では敵の巨大な虫を捕獲したら、みんなで取り囲んで勝ちどきを上げるんです。やったぞー、さいこーみたいな。死んだ人をほとんど顧みることもないままに笑顔なのです。しかもナウシカのオウムに似ているボス虫の口が、明らかに女性器に似ているし。最終的にそこに棒をぶち込むし。
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 そんなこんなで、ほとんどアホ丸出しで爆走しているところが魅力的な作品であります。監督がやりたい放題やっている映画、という感じがする作品は(本当はもっとやりたかったのでしょうけれど)、観ていて面白いものです。
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タイトルが逆説的に照らし出す、世界の複雑さ。
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 多視点・時系列ばらしものといえば90年代のタランティーノが最も有名であろうと思いますし、近頃の日本映画では内田けんじ監督などが注目を集めているわけでありますが、この方式には確かにパズルが組み合わさるような快楽があるのでして、伏線の張り方なども多岐に富むため、ぼくはわりと好きな手法ではあるのですが、『21グラム』は一種独特の感覚を残す映画でありました。
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 ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロが軸を担い、それぞれの物語が展開していきます。時系列通りに言うと、デル・トロがナオミ・ワッツの家族をひき逃げしてしまい、彼女の夫が脳死状態になり、心臓病を患っていたショーン・ペンに心臓移植が行われ、三者の人生が交わっていく、というような話です。今述べたのはあくまでも骨子の部分のみで、それ以外の部分なども含め、時系列をばらした形で話が進みます。
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 かなり細かく裁断されているので、ぼうっとしているとよくわからなくなりそうな映画でもありますね。その点で、観る者に緊張を強いるつくりとも言えます。あまりひとつひとつのシーンをじっくり長く続けたりもしないんですよ。で、こちらはこちらで何か時間的な仕掛けがめぐらされているのでは、と思ったりもするので、身構えを崩せずに観ることになります。気楽に映画を楽しみたいな、という人にはぜんぜん薦めません。
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 時間軸をばらす手法を取り入れた意味について、宮台真司は以下のように述べています。
「時系列を寸断する意図はあまりにも自明である。他でもない『特別な困難さえ無ければ…』というリグレットを効果的にキャンセルするためだ。」(『<世界>はそもそもデタラメである』より) 

 これはどういうことか。反対に時系列を寸断しなかった場合を考えてみるとわかりやすいでしょう。もしも時系列通りに、わかりやすく話が進行していたらどうか。ひき逃げ事件とそれが引き起こす事件の連鎖を時間の通りに映せば、「あの出来事によって運命が狂った」「あの事件さえなければ平穏でいられた」という感覚がどうしても観ている側に生まれる。しかし、世の出来事はそう単純ではないよ、というわけです。
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 ぼくは常々、「人間万事塞翁が馬」という感覚を持っているので、この辺の感じがよくわかります。何がよきことで何が悪いことなのか、それはまったくわからない。そしてもうひとつ、時間は確かに因果関係を生み出し、ぼくたちはその中で生きてはいるけれど、その因果関係とてまた自分の意思や境遇ひとつによるものではなく、他者との連関の中に存在するということ。こういう感覚を内在させて観ていると、わかりにくい話ではまったくないのです。
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 えてして映画というのは、登場人物への共感によって話を理解することができるし、自分に引きつけて観ることができる。いちばんわかりやすいのは正義と悪の二元論的な話で、正義の主人公に肩入れして観ることによって、彼が悪を打倒していく様を観ることによって、観る者はカタルシスを得るし、世界観を安定できる。
 多くの映画は観客が主人公に感情移入することで、その物語を共有するという形式をとるわけです。
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ところがこの映画はそれをキャンセルする。細かい裁断によって、観客は十分な移入の機会さえも与えられないわけです。そして同時に、題材が題材であるだけに、他の時系列ばらしものの多くが持つようなパズル的快楽、それによるエンターテインメント的な愉快さとも距離が置かれている。世の中の複雑さを描き出すための優れた形式であるとぼくは思いました。
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タイトルの『21グラム』というのは、ウィキに依りますと、「20世紀初期のアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った、魂の重量を計測しようとした実験に由来する。」そうです。なんでも、人は死ぬ瞬間に体重が21グラムほど軽くなるのだそうで、それが魂の重みなのではないか、というようなことが言われたりしたようです。

 このタイトルは逆説的に映画を照らすように思います。21グラムという単語から率直に連想できることは何かといえば、「定量的で、軽量」ということです。静的で、数字で示すことができて、なおかつ実に小さなものに過ぎないですね、21グラム。

 しかしこの映画で起きることはそれとは真逆です。まるで計量不能だし、単純化できないし、些細なことではあり得ない。時系列をばらすことでより、そうした世界のありようが見えてくるわけです。 
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 具体的な中身、詳細に入れずにいてあれなのですけれど、なまじ立ち入ると大変なのです。なにしろいろいろと繋がっているわけで、易々と切り出せないところが大きいのです。

 ひとつだけわりと輪郭のはっきりしたところを言うなら、デル・トロのくだりです。彼はかつてはやさぐれきった男だったようなのですが、福音派に入信しており、地元の不良にも神の意思を説くような人間になっています。彼は清く生きようとしていたわけですね。ところがそんな彼がひき逃げを起こしてしまう。これは神という、いわば「世界を単純化するための装置」をも溶かしてしまうような設定です。彼はもしかしたら神を信じずに生きていれば、それはそれで幸せだったかもしれない。清く正しく生きて「いなければ」、あのひき逃げを起こさずにいられたかもしれない。清く正しく生きていなければ、あんな風に深い後悔の念に襲われずにいられたかもしれない。ただ、そんなことはすべて今となってはありえないイフに過ぎない。

 世界の複雑さを照らすために、神を信ずる男を入れたのは大変効果的であったなあと思います。そして彼は彼で別に、根っからの信仰者じゃないところもポイントですね。それ以前のまったく別の生を想像させる設定にしたのも、奥深いところでありましょう。

「人間万事塞翁が馬」、この感覚を常日頃持っていると、しっくり来る映画なのではないかと思います。そうでない人は、これまたまったく別の映画ですが、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』あたりと併せて観ると、世の捉え方が一回ぐちゃっとするような感覚を得られるのではないかと思います。この辺で。
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壮大ではあるけれど、設定や演出が追いついていないのです。
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『戦国自衛隊』が面白かったので、同じ大作角川映画ということで観てみました。キャストも千葉真一、夏八木勲、渡瀬恒彦など、あの映画の主役たちがこぞって出演しています。本作の主役は草刈正雄です。 
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 小松左京原作で、『日本沈没』などがそうであったように、これまた極端で壮大なスケールのお話です。世界的にウイルスが流行し、ほとんどの人類が死滅してしまうのです。残されたのは極寒地域、南極の人たちだけで、彼ら南極部隊の運命やいかに、ということなのです。
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 世界が破滅する話というのは、たとえば巨大隕石が衝突したり、大規模地殻変動が起こったりなどという設定で語られたりしますが、ウイルスが最もリアリティのある題材じゃないかと思います。本作では生物兵器が漏洩したことで感染が始まるんですが、これなどもその種のテロが危惧される昨今において、現実味のある話と言えるのではないでしょうか。テロやウイルス、感染とは違うけれど、放射能の問題とも通じている部分があります。
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 世界の破滅、というテーマは冷戦時代、核競争の時代においてやはりある程度にリアルなものであったのでしょう。本作でも米ソのミサイルが大きな脅威として位置づけられており、それがウイルスと相まって世界を終局へ追い込んでいってしまうのです。

本作はそうした点で、王道を行っている作品と言えます。病原体と戦争は、大量死を招く二大要因として歴史上不動の位置を占めているわけですから、誰が観てもわかりやすい内容なのです。

 映画としては当時高く評価されたのでしょうかね。今観ると、うーむ、これはいろいろと詰めなくちゃいけないところがあったんじゃなかろうか、ああ、さすがに資金の及ばぬところがあったのだな、というのが散見されて、入り込めぬところも多かったです。
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大変な感染状況だというのに、医者がマスクをしていないのはなぜなのでしょう、というのもあります。大統領も戒厳令下の自衛隊もしていない。その辺が緩いんです。必死で防備しまくっている。けれど防げない、という感じがしないのです。
 街の人たちや行政側があまりにもあまりにも無策なのもいただけません。なんでもいいと思うんです。たとえば、どれくらい効果があるのかもわからないままに消毒薬が街中に散布されている、とかね。街中が消毒薬で不気味な色になっている、みたいなね。そういう様子を描き出せば、より混乱が説得力を持てたはずなのです。南極ロケに多額がかかったそうですが、そこよりも他の部分にお金を費やすべきだったのではないかと思います。
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あと、これは予算制約上やむを得なかったのでしょうけれど、世界中の都市で人が大量死している、というのを、街の遠景と字幕で済ませる、というのはちょっとしょうもないです。あそこはもっとニュース映像っぽくしてかまびすしく見せたりとか(そういうシーンはありましたがあくまで序盤だけでした)、もしくはせっかくアメリカ大統領執務室を用意したんだから、そこが飛び交う情報と鳴り止まない電話でしっちゃかめっちゃかになっているとか、なんでもいいからもっと「どえらい感」が必要だった。そのうえで、何万人死亡なんて字幕を乗っけずに、ただ街の死んだ風景を映したほうが、混乱と寂寥の落差が出てきたはずです。うん、何万人死亡、みたいなのをあの字幕で表すよりもっと方法があったんじゃないかと思ってしまいます。
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 もちろんこれは三十年以上前の日本映画。ですので、その後洗練を経てきたハリウッド映画などを基準に物語るのはあれですけれど、やはり今観るとそういう穴がぼこぼこ見つかってくるわけなのですね。

 そうした演出の部分はおくとしても、地震のくだりがありえないタイミングの良さで、興ざめします。いちいち説明するのはおっくうなのですが、ある重要な場面で、もうご都合主義的としか言いようのないタイミングで地震が起きるのです。草刈正雄を一人にするためにいちばん手っ取り早いんですけど、もう少し脚本を詰めるなりなんなりは絶対必要だったでしょう。なんであんなことを。
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 日本や南極やアメリカやといろんな場面に話を向けて、海外ロケもふんだんにやって、世界規模の話だというところでまあ観られるのですけれど、基本的なところの穴が多すぎるのでちょっと辛いです。うん、重点が分散していたんですね。草刈正雄とオリビア・ハッセーの物語を作る段取りなら、最初の多岐川裕美のくだりはばっさり切って、日本の混乱は別の切り口で見せることができたし、渡瀬恒彦も結局よくわからないことになりました。原作があっての話でしょうけど、そこは思い切れなかったのでしょうか、うーむ。夏八木勲と千葉真一に至ってはせっかく出てきたのにほぼ何もせずにフェード・アウトです。
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 テーマの壮大さはすごいんです。戦争と病原体によるカタストロフ、というのはいい。でも、それを支えるだけの強度が物語自体になかった、設定も演出も随所ゆるゆるだった。だからかなりの竜頭蛇尾映画という風に見えてしまうんですね。今これを観る意義、というのは、ぼくにはあまり感じられなかったのでありました。もったいなさを強く感じる映画でございました。
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おなかいっぱいにしてやるぞ、という作り手の心意気に感動。
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「あぁ、それ観てなかったんだ」シリーズ。リメイクもされている有名作品ですが、観ておりませんでした。

 原作小説やリメイク版はまったく触っていないので、その辺との比較をしつつ話を進めるような真っ当な真似はできぬのですが、これは大変面白く観ました。映画を観ながら久々に、おおう、わあ、と声を上げる体験をしたのでした。

 活劇として大変よくできていると思いました。黒澤をはじめとする戦国活劇に敬意を払いつつ、自衛隊という存在を映画に落とし込む。日本で戦争映画といえばやはり太平洋戦争ものになりますし、そうでなくても自衛隊の敵は大怪獣だったりするわけで、そのどちらでもないこの見せ方はシュールさと相まって実に映画として面白かった。時代考証うんぬんは正確ではないところも多々あるようですけれどもね、うん、そこはこの映画ではつついてもあまり実りがないんじゃないですかね、うむうむ。
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 千葉真一率いる20余名の自衛隊の部隊が、戦車やヘリ、船もろとも戦国時代にタイムスリップしてしまいます。これは映画のかなり早い段階からそうなるのでして、現代での平和な日常みたいなもんとかは省かれます。ぼくはせっかちなので、このような早々とした展開は好きですね。『バトル・ロワイアル』が好きなのは、もう冒頭からまがまがしさばりばりで行くところ。変なアイドリングをだらだらせずに、さっさと戦国時代の武将の一団と接触します。武将は後の上杉謙信、長尾影虎で、夏八木勲が演じています。
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 見せたいものが非常にはっきりしているのがとてもいいです。とにかくサービス精神に溢れている。敵からの急襲を受けたり、仲間割れが起きたり、ある軍勢に荷担して敵をやっつけたり、やってほしいことを全部やってくれています。おなかいっぱいにして帰らせてやるぞ、という作り手の意気込みが感動的なのであります。
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 部隊の中で、渡瀬恒彦がリーダー千葉真一に反目しています。どうやら過去に何かあったらしく、原作では語られているのでしょうが、映画では台詞でちょいと説明があるくらいで回想などもありません。もしかすると原作ファンには不評かもしれなくて、「あの過去を描かないと二人の確執が引き立たない!」的なことがあるかもしれないけれど、原作を知らぬ立場で言うなら、ぜんぜん問題ないです。この映画は『バトル・ロワイアル』に似ています。あれもこれも、いきなり不条理な場所に放り込まれて命を狙われる羽目になっているのです。で、大事なのはその空間での活劇のほうで、過去のごちょごちょは要らないのです。変に背景を造型して現実味を持たせようとすると、土台非現実的なこの物語がゆらゆらしてしまいかねない。だったら火薬も血糊もなんでもござれで、ばしばしやってくれてよいのです。もちろん背景の意味合いとかを読み取りたくもあるけれど、そこに重点を置くと今度は映画の濃度が低下しかねないのです。
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 で、その渡瀬が千葉のもとから勝手に抜け出し、俺たちの好きにやるぜと言って、その時代の女性を誘拐してレイプするなど好き放題やり始めます。これは自衛隊の協力をほとんど仰げなかったのが吉と出ているように思います。もしもこの映画が自衛隊からたくさん協力してもらっていたら、あんな風に自衛隊員を悪く描くことはできなかったのではないですかね。そこの思い切りがよい。いいこちゃん映画になっていない。

 やっぱりですね、たくさんの人間が不条理で危険な状況に置かれたとなれば、闇の部分というか、負の側面というか、そういうのをきちっと描いてほしいわけですね。そんな品行方正にやれないだろう、ひどいことを始める奴も出てくるだろう、という部分があることで、人間がよく描かれるわけです。その点で渡瀬は素敵なヒールでした。そしてこの映画はドンパチ活劇と見えながら、最後には暗い部分をちゃんと描く。あっぱれです。
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 重火器や戦車を要する自衛隊と、戦国の軍隊との戦い。
 ここはとても白熱するものがあって、日本映画でも屈指なのではないかと思います。非常に贅沢に描かれていると思いました。で、攻めと引きのバランスもいいんです。自衛隊側が手榴弾や機関銃で一斉に掃射したかと思いきや、今度は数で圧倒的に勝る敵方に押されたり、そうかと思えば戦車で突き進んだりして、ところが敵は敵で燃えさかる炎を積んだ荷車をぶつけて必死に応戦。互いが全力でぶつかりあっている様子が真摯に描かれております。武田信玄の軍と戦うくだりは活劇的快楽が十二分です。
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 別の映画を引くなら、『ブラックホーク・ダウン』もちょっと連想したんですね。あれもすごい映画でしたが、あれと似ているところがあるんです。というのは、不条理な中で目的もわからずにただ戦い続けるほかない、というのがあるんです。千葉真一は夏八木勲と仲良くなって、互いの戦功を約束しあってうんぬんみたいなのがあるにはあるけど、他の連中は非現実的な状況におかれて、ただ仲間同士が手を取り合って、何が目的なんだかわからないままに目の前の敵を倒すことにのみ全力を尽くしている。
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 活劇的な魅力が大きいのでそちらに持って行かれるけれど、ふと思うわけです。何のために戦っているんだ? というね。一応の理屈はつけられるんですよ。自分たちが天下を取って歴史を改変したら、その歴史の異常によって再び時空間に異変が生じ、帰れるんじゃないか、みたいなね。でも、そんなの気休めの理屈っぽくしか響かない。だから何のための戦いなのか、よくわからない。
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 話はそれますが、『ブラックホーク・ダウン』なんかもその辺に感じ入りました。あれはソマリア内戦におけるPKOの介入を描いていますが、平和をもたらすために来たはずなのに、現地人は自分たちを見るや即座に殺しに来る。そんな中で目的がわからなくなる。はて、いったい何のために戦っているんだ? というね。お国のためとか家族を守るためとかそんな大義もない。ただ、戦わないと命を落とすから戦う。戦争の中で起こる意味の消失。その辺の不条理感も、映画に濃さをもたらしているように思います。
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 本筋とは関係ない、ちょっとした部分もぼくは好きでした。夜這いをするシーンとかね。ああいう、戦士としてではない、生身の男としての下卑た部分をちゃんと描いているのは信頼できる。それと、一切喋らない女性と隊員との恋ですね。あの辺はなんだか強引に持って行った感もあるんですけど、そんな中で女性に一切喋らせないのはよかった。あれね、喋らせるとあの展開の変さが気づかれちゃうんです。一切喋らせないことで、なんか最後まで雰囲気で持って行けちゃうんですね。あの辺は今の映画が見習ってよいところじゃないでしょうか。雰囲気でごまかしきった感があります。ごまかしきったので、いいです。
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 最後もいいですねえ。
 千葉真一がね、自衛隊のあり方に疑問を投げるようなシーンがあるんです。もとの時代に行ってもどうせ戦うことなんかないんだ、この時代だからこそ戦いに生きることができるんだ、みたいな。戦争に憑かれた男に成りはてるんです。でも、生き残った隊員が苦しそうに言うんです。「俺は嫌だっ。女房や子供がいるあの昭和の時代に戻りたいっ。あの平和な時代が大好きだっ」みたいなことを言うんです。これね、なんら修辞のない率直な思いとして、いいなと思うんです。「平和な時代が大好きだっ」っていうのが、なんか、すごく響いたんです。

 途中途中、現代の風景が挟まったりするんですが、それもくどくどしくなく、短く効果的に入っていました。現代の風景で、お祭りみたいなシーンで、戦国時代の戦いの様子を催しでやっていますみたいな場面があって、なんだかちょっと鳥肌が立つような、言いしれぬ気分になったりしたんです。劇中でも、敵の軍を見ながら隊員がぼそっと、「あの中に自分のご先祖がいたりするのかなあ」とか言ったりする。押しの演出一辺倒ではぜんぜんなく、ふっと引く瞬間を作り出す。なかなかの芸当であるなあと感じ入りました。

演出で引っかかったのは一点。音楽ですね。なぜだか妙に甘い音楽を流すんです。あれはあの時代としてはありだったんでしょうかね。今観ると、「なんでこの状況で英語の歌やねん」と言いたくなるところもあり、奇異な感じでした。まあ、それはそれでカルト映画的な要素になっているとも言えるのですけれども、

 とても見応えのある傑作でした。未見の方にはぜひにぜひにと申し上げましょう。
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叙情も感傷も、何の救いにもならない中で。
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映画というのは多くの場合、自分たちの価値観や生活を相対化して捉えさせるものでありますが、アフリカを舞台にしたものだとその感覚をいっそう強く抱くのであります。
 リベリア内戦を題材にした少年兵の話ですが、こういうのを見ると、ああ、日本とは本当に生ぬるく、そして幸福な国であるなあと感じます。また、少年兵という存在は紛争の起こる限りにおいて、おそらく絶えようのないものなのだろうなあとも思うのですね。

 複数国間での戦争であれば、もっぱら国の軍部によって統率された正規軍によって戦いが行われるものですが、内戦となるとそうはいかない。なにしろ政府軍対非正規軍、レジスタンスの争いになるので、普通の民間人が戦争を始めてしまう。その中で、子どもという存在も駆り出されてしまうわけですね。いや、というより、子どもや十代の若者たち自身が、進んでそこに身を投じていったりするわけです。日本のアニメその他では、十代の若者が戦いに身を投じるような作品が何かと人気になりますが、実際にそんなことをしたらこんなことになるぞ、というのがよくわかるお話です。
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 タイトルの『ジョニー・マッド・ドッグ』とは映画に登場する少年の呼び名で、彼らは仲間内でニックネームをつけて呼び合っています。「ノーグッドアドバイス」とか「バタフライ」とか「プッシーキャット」などと言い合っている。これなどはキャラ好きの日本人からするとどこか格好よく思えたりするし、ギャング的なものへの憧れを惹起するし、コードネームのような華々しさを帯びても聞こえますが、劇中、それとは違う背景がふっと語られますね。彼らはそもそも自分のしっかりとした名前を持っていなかったりする。いつしか集団の中に入り、自分を示すアイテムや何かを見つけ、それを名前にする。裏を返せば、彼らが名前を持てるのはただ、その集団の中でのみのことでもある。これは少年兵を考えるときに重要なことなんじゃないかと思います。あるいは家族から引き離され、強制的に加入させられる者もいる。そのとき、新たな人格を否応なく付与されてしまうわけです。
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彼ら少年兵は劇中、悪逆の限りを尽くします。冒頭からいきなり、田舎の村を政府軍のスパイ呼ばわりして虐殺し、強奪し、街に人影を見れば見境なく因縁をつけ、場合によっては殺す。なんてひどい奴らなんだ、と思うのは簡単だけれどそうではない。彼らにとっては、それこそが自分の存在を承認してくれる行いなんですね。日本の十代の若者でもある意味では似たようなところがあるのでしょう。不良的な集まりだったら、悪いことをするのが格好いいみたいになったり、それで根性があると見なされて尊敬されたりするわけです。その点ではまったく遠いものではない。
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 ただ、少年兵の場合が深刻なのは、彼らがそれ以外の承認手段を一切持っていないということです。なにしろ国はぐちゃぐちゃ、教育も麻痺し、道徳を得る機会など与えられていない。そして安穏としていたらいつ殺されるかわからない。だから被害者にならないためには加害者になるのが最善の方策。そう信じるしかない。そんな中で一人だけいい子ちゃんになることはできない。そんなことをしたら自分も殺されるかもしれない。そうやっているうちにいつしか、自分の行動に疑念を持たなくなる。

 輪を掛けて深刻なのは、彼らを利用する大人によって、彼らが承認されるという構造です。教育者のいない中で、「おまえは政府軍を殺せばよい」「政府軍を殺せば一人前」「そうすれば幸せになれる」と教わり、麻薬をもらって快楽を覚えてしまえば、もはや抜け出すのは至難でしょう。思考力も心的規制も弱い十代だからこその直情さも相まって、彼らは何のためらいもなく戦渦のうちに飛び込んでいくのです。

映画に登場する少年兵たちは、なんと実際の元少年兵なのだそうです。彼らは幸いにして渦の中から抜け出せたわけですが、現実問題として、そこから抜け出せないまま大人になっていく人も数多いのでしょう。そうなってくると、その人たちがまた次の世代の少年兵を生み出したり、内戦の火種を大きくしたりを繰り返していく。アフリカ映画が放つ、「アフリカという場所のどうしようもなさ」を思います。
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 この映画には日本や欧米の映画のような感傷がありません。ジョニーとは別の映画の軸として、一人の少女が出てきます。映画はこの両者を追っていく構成なのですが、この少女はいわば内戦の一方的な被害者で、住処を追われてしまうのです。
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 彼女には両足をなくした父親がいるのですが、彼がどうして両足をなくしたのかは語られない。そして彼女には母がいないようなのですが、それすらも顧みられることはない。まるで、そんなのはありふれたことであって、ひとつひとつの事情を物語るまでもないというかのように説明が省かれているのです。彼女には幼い弟がいて、彼を引き連れて逃げ出すのですが、彼とはぐれてしまいます。そして、このエピソードも結局は未回収になるのですが、少女が感傷に浸るような描写はない。
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「叙情など贅沢品に過ぎない」と言ったのはキム・ギドクですが、この映画はその言葉を地でいきます。叙情も感傷も、何の救いにもならない。ただ、状況に対処することで精一杯。彼らは自分の内面を語る言葉すら満足に持ってはいない。だからこそ、見ている側はひとつひとつの背景を想像することになります。
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 この映画にはまともな救いが何一つありませんし、カタルシスもないです。ですが、この映画はそのような結末を迎えるよりほかにないし、物語が終わったかのように見せるならばそれは欺瞞でしかないでしょう。実に真っ当な終わり方だと思います。ぼくたちの生ぬるくて幸福な生活を相対化させる作品として、観てもらいたい一本でございます。
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美容整形について思うところ。映画自体は面白く観ました。
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 鈴木由美子の漫画が原作だそうですが、設定や内容はそれとはまるきり違うものなのだそうです。それならオリジナル脚本だと言い張ってもよさそうなものですが、「いや、もともとはあの漫画から着想したので」ときっぱり表明しているのはとても潔いですね。その姿勢は映画の内容とも通じていると思います。整形美人になる主人公のお話です。

韓国の整形文化については広く言われていることですが、ぼくの考えとして美容整形に肯定的か否定的かと言われれば、一応は肯定的であると申し上げましょう。というより、論理的に考えたときに、美容整形を否定することはできなくなるからです。一席ぶちましょうか。

 まず、前提として、人は顔の美醜で人を判断してしまう生き物だということです。この社会において、その前提に疑義を呈することはできません。現に顔の美醜によって人気者は生まれ、化粧品市場は潤い、経済は動いているのですし、顔の美醜によって恋愛問題は生じるわけです。美醜の問題は、たとえば貨幣経済がそうであるように、人間という存在にとって絶対的なものではない。しかし、貨幣経済がそうであるように、現代の社会から切り離すことはできぬものなのです。

外見によって人は人を差別します。美人はもてはやされ、不美人はそっぽを向かれる。男の場合もそう。それがどの程度に露骨であるか、個々人の価値観や考え方によってもちろん度合いは異なりますが、人はどうしても外見で人を差別するのです。こと、恋愛などという場面においては特にそうでしょう。拭いがたくあるものです。

 であるならば、なぜ不美人は美人によって、いつまでも富を収奪され続けなくてはならないのか。なぜ不美人は美人との生来的格差を是正してはならないのか。過激な物言いをするならば、整形の否定とは、被差別者をいつまでも被差別的境遇に置いておいて構わないとする、きわめて危険な思考だとも言えるのであります。

 ここまで言うと、いやそんなことはないと思われる方もおられましょうが、ではお尋ねしましょう。あなたは対人関係において、こと恋愛の局面において、顔の美醜を価値基準としてまったく設定していないと、本当に言えるのでしょうか。もし言えないとするなら、あなたはまさしく美醜による差別心を持っているわけです。美男美女から迫られたら受け入れるけれど、醜男醜女なら受け入れない。これは差別なのです。

 それを悪いと言っているのではなく、先に述べるとおり、人はそういう生き物なのです。だから、被差別者が被差別的境遇から抜け出そうとする投資を、否定することはできないのです。その否定はほとんど人権の侵害行為なのです。

それでもなお、「いやいや、自分は一切外見で差別しない。顔の善し悪しはまったく価値基準にない」としたうえで、整形を否定する人がいるかもしれません。しかし、それは自己矛盾です。外見や顔がどうあろうと人を差別しないということは、他人の顔に一切のこだわりを持っていないということです。顔の形に一切こだわりを持たないのに整形を否定する、これは矛盾そのものです。だって、どうでもいいわけでしょう、顔というもの自体に何の興味もないわけでしょう、だったら否定する必要がないじゃない、という話です。

まだ書けます。こうしたぼくの考えに対して、「親からもらった顔に」云々、「顔はその人の人生の履歴書であってそれを変えるような考え方は」云々という道徳的アプローチで反論することも可能です。しかし、そんな意見に対しては、「それはおまえの個人的な感覚だろう」で終わりです。社会的に、道徳的に、というのならば、批判すべきは整形をする個人ではなく、この社会です。美醜によって人を判断するという、人間が持つ動物的、非理性的価値観を温存する社会。それに対しての反論ならばわかる。そういう人は整形を否定しても意味がないので、「社会の皆さん、顔の美醜で判断するのはやめましょう」と呼びかけるべきなのでしょう。

 かような理由をもちまして、ぼくは整形に肯定的です。

 と、言いつつも、ここで立ち止まる。社会的評価に対して、顔の美醜が占める割合が大きくなれば、人々の知的ありようは変化してしまうのではないか。わかりやすく言うなら、整形や美容のために掛けるコストの分だけ、他の方面への知的涵養、感性的涵養は果たされなくなってしまうのではないか。そういう危惧があります。現に、日本の書籍市場における売れ筋はダイエットや美容の本。これが日本の大人たちの興味なのかと思うと、やはり憂いたくはなる。その点では、整形に対する疑問符が取れない。

ここに矛盾がある。個人にとっての幸福の追求は、決して社会全体の成熟を意味しない。個人個人がよきものを得ていったとき、社会がよき場所になるとも思えない。
 何も難しい話じゃない。人を見た目で判断するな、と言いつつ、ぼくたちは人を見た目で判断する。その矛盾を常に既に抱えている。

整形を肯定する場合には、この矛盾に対する内省が必要なのであろうと思います。

 さて、やっとこさ映画に入ります。
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 この映画は「歌はうまいけどデブでブスな女性」が全身整形を施し、美女に生まれ変わるという筋立てです。歌はうまいけど外見がアレなので、美人な歌手の「ゴーストシンガー」として歌い続けている女性が、イケメンプロデューサーへの恋心から整形を決意し、持ち前の歌唱力で堂々と表舞台に立つのです。
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 コメディテイストの本作。笑い自体はベタベタです。怒っていた人が相手が美人だとわかるや態度が豹変したり、美人になった主人公に見とれて男がバイクから転げ落ちたり、整形前と別人だと思った友達がまったく気づかずギャグになったりと、結構ベタベタなんです。音楽の使い方もえらい古いなーと思うくらい、その辺はもう古典的な感じです。ただ、見せ方、間、切り取り方が上手なので、素直に面白く観ることができました。ストーリーラインでも伏線の機能がしっかりしているので、感心するところ多々です。
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 整形美人ものって、わかりやすくサスペンス構造です。ばれるんじゃないか、はらはら、という引っ張りが効くので、物語の緊張感も持続できる。くわえて、途中でライブシーンのような盛り上がりも入れている。とてもうまいバランスです。劇中、主人公がBlondieの「Maria」という曲を歌うのですが、Coccoのようでもあり、ぼくのヘビロテになりました。

 語りたい場面が多いのですが(いい映画の条件ですね)、ぼくは美人になった主人公に一目惚れした、出前持ちの男のくだりが好きです。彼は彼女をつけ回して盗撮をしているのですが、それを彼女の恋人である音楽プロデューサーに見つかってどやされます。しかし、その恋人を彼女は制するんですね。「好きな相手に近づきたくても近づけない気持ちがあなたにわかるの?」みたいなことを言って。ここはいいなあと思いました。彼女はかつて自分がそうだったから、いわゆる恋愛弱者の気持ちがわかるわけです。ともすればストーカーを肯定するようなシーンでもありますけど、かつて弱い立場にいたからこそわかってやれることがある、というのを示す点、非常によかった。
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 これね、整形美人でいい気になって、ファンの男を鼻にも掛けないみたいな冷たい態度をとらせることもできるんです。簡単に言うと、「外見は綺麗になったけど心は……」みたいにすることもできる。外見重視の話だとそっちに行きがちなんじゃないかとも思う。でも、そっちにはいかなかった。えらいっ。あのシーンはそういう意味でも重要な場面なんです。
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さて、なりすましサスペンスではその正体を暴こうとする敵の存在が大事で、この映画ではかつて主人公の歌声を利用していた、いわば「もうひとりの嘘の歌姫」的な女性が出てきます。彼女は主人公が消えてしまい、ゴーストシンガーがいないとあって窮地。そこで主人公を怪しみ、いろいろと仕掛けてきます。
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 この人がねえ、悪者になりすぎてしまっている部分もあって、でも、そこは仕方がないのかなあ。主人公を応援させるにはこいつを悪者にするのは仕方ないか、うーん。こいつはこいつで可哀想なんですよある意味。外見は整形で何とかなるけど、歌の才能はなんともならないとあって、そこでの問題も含んでいる存在なんです。ただ、そこまで丁寧に描くと話の軸がぶれるし、難しいですね。悪者としての役割はしょうがないところでしょう。
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ネタバレ警報。ういーん。

 最終的に、主人公はスターの位置に上り詰めるのですが、満員の聴衆を前に、整形を告白します。その要因が痴呆のお父ちゃん。お父ちゃんとのくだりがもっと濃密でもいいかな、そのほうが効果的かなとも思う一方、あれを最後のきっかけに持って行ったのは好きです。自分を偽り続ける限り、お父ちゃんを大切にできない。そんな生き方をするくらいなら、この地位を捨てたほうがましだというシーン。
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 で、この映画がさすが韓国だなというのは、その後も彼女はスターであり続けるんですね。整形でもいいじゃないか、と明るいエンディングになる。ここは韓国的態度ですねえ。日本はいまさら『ヘルタースケルター』を映画化して、整形の悪イメージを保持したりしているけれど、なんと向こうの国の映画ではラスト、不美人の友達が「私も全身整形する!」と言い出して終わるんですから。

 前半長々とぼくは「整形肯定論」を述べましたが、それは「整形推奨論」とは違います。ですので、ここまで整形ばりばりサイコーの終わり方で来られると、おお、そこまで言うのか、韓国はすげえとこまでいってんな、とびびったりもするんですが、安易な否定論的結末に比べれば百万倍マシです。アンチもいる、というのを最後に示してもいるし、その点のバランス感覚があります。

ただ、書きながら思いましたが、整形肯定論とは言っても、40代、50代、60代となるとちょっと別ですぼくは。その年までなったら、「美醜から解脱しろよ」あるいは、「20代、30代のような顔!とか言って若さにしがみつくなよ」とは思います。その年ならその年なりのものを磨けるんちゃうんか、と言いたくなります。それが知性や感性の成熟というものでありましょう。うん、若さにしがみつく整形は嫌ですね。それは美醜とはまた別の問題です。ショウビズの世界での整形はぜんぜんオーケーだと思います。

なんかどの辺からコメントが飛んでくるかわからない記事になってちょいとびくびく。ご意見もお待ちしておりますよ。
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これまたひとつの未来へ。
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 初号機hmz-t1が発売されたのが一年前で、長らくの品薄状態が続き購入を控えていたのですが、このたび二号機が発売されると知り予約。13日発売と言われていたのがなんと二日前倒しの11日に届き、晴れて入手の運びであります。新作レビウをてんで行わぬ当ブログにありまして、新作機器のレビウをしようと思います。

 ヘッドマウントディスプレイ。頭部に装着して映像、ゲームなどを楽しむことができるというきわめて未来的なアイテムなのです。初号機を持っていないぼくなので、比較はできぬのですけれど、まずは装着感の話からしていこうと思います。

 ぼくはメガネっ子なので、裸眼の人よりは若干レンズとの距離感があるのかなあとも思います。メガネ無しだと見えないのかと言えばこれはその通りで、画面がぼやけてしまいます。致命的な問題ではまったくないのですが、裸眼の人のほうがよりいっそう快適に装着できるのは間違いないかなあと思います。
 
 未体験の方にわかるように申しますと、視界を覆われるといっても、完璧に周囲が見えなくなるというわけでは決してありません。メガネのあるなしにかかわらず、レンズと眼球の間にはわずかな距離があるのでして、視界下部は覆われません。双眼鏡を覗き込むようなスタイルとは違うということです。ですので、これを装着している間は手元の飲みものが見えぬとか、そういう問題はあまり気にしなくてもよいのです。

 こう書くと、なんだ、完璧に視界を覆うんじゃないのかと思われるかもしれませんが、一応ゴム製のパットみたいなのが付属されていて、それをつけると外部の光はほぼ遮断されます。しかし、この機器に一点の注文をつけるならそこで、このゴム製パットはなんとも「つけにくく、とれやすい」代物です。なのでぼくはつけていません。特にメガネっ子の場合、メガネの縁に引っかかるなどして邪魔になります。

 ですので、これは部屋を真っ暗にして楽しむのがより効果的であります。外部の光をなくしてしまうと、大画面が目の前に広がって見えます。

 さて、見え方ですけれども、これまさに映画館的であると言って差し支えないのではないでしょうか。大きなスクリーンの劇場で最前列、ほどではないのですが(というかそんなサイズは要らない)、映画館で後部の座席に座るくらいなら、よほどこちらのほうが感覚的に大きく思えるのは、間違いないのです。映画館級(あるいはそれをも凌駕するくらい)の大画面を、横たわりながら楽しめます。ベッドで仰向けになって、天井を見上げる体勢でも観られます。
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 目は疲れないのか、というとこれはそれなりに疲れます。今のところ15歳以下の視聴には制限がかかっているようでもあって、これをずうっと観ていると確かに疲れてくる感じはあります。しかしそれは慣れの問題なのかも知れませんし、裏を返せばそれほどの迫力があるという証明でもあります。ただ少なくとも今の段階では、どんな映画もこの機器で観ることにしよう、とまでは思いません。また、おでこの部分にパットがついているのですが、そのせいでおでこが痛くなったりもします。強めに締めるとそういうことになります。ですがぼくはそれをもってこの機器を悪し様に言う気にはならず、むしろもっと快適な見方があるのではないかと模索したくなります。

 さて、本機器の特性の一つとして、ブルーレイならびに3Dを堪能できるということがあります。ブルーレイの画質がクリアなのは言うまでもないとして、皆さんが気になる3Dの効果はどうかというと、これはですね、はっきり言ってですね、「ソフト側の問題」に帰着するところが多分にあります。

 3Dの効果を存分に活かしているものとそうでないものでは、やはり差が出ます。たとえばぼくは二本ほどこれでAVを観たのですけれども、撮り方によっては十分な立体感で、女優のカメラ目線に緊張してしまうような場面もあります。また他方、うまく活かしていない作品の場合は、なんでそんな撮り方をするんだ、ぜんぜん3Dを活かせないじゃないか、というのもあるのです。しかし、効果的なシーンはいくつも確認されたのであり、作り手側の工夫によって、もっと期待ができるのは間違いないのであります。そして、基本的なこととして、大きな画面でAVを観るという小さくも永い男の夢は、存分に果たされているのであります。ポテンシャルを感じる機器なので、もっともっとと望んではしまうものの、はっきり言ってぼくはこの機器の入手によって、大画面テレビをほしいと思うことは未来永劫ないのではないかとさえ思うのであります。PS3のゲームもやってみましたが、これ以上のサイズでゲームをしたいという欲望は生まれ得ず、満足を得てしまったのであります。

作品によって違いがあるんです。画面の周囲は黒いので、たとえばAVの場合、もうちょっと没入感が得られるようにできないかとも思う。他方、ど迫力の映画のシーンなどは、大きすぎて画面の右端と左端を同時に目で追えないくらいでもある。欲を言うなら、画角や大きさを調節できる機能が実装されてほしいと思います。

 いずれにせよ、大きなポテンシャルを感じる、未来に期待を抱かせる機器であることは疑いのないところであります。ちなみにお値段は、ぼくが購入したところでは69100円とまだ高い。しかしこの登場によって、既に初号機は値崩れを起こしているわけで、広まっていくのも時間の問題じゃないでしょうか。
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 さて、このhmz-t2は未来を想起させます。今後この機器はもっと軽量化、小型化していくでしょう。そして、たとえばエグザイルであるとか、イケイケガールがしているような、視界を完全に覆うタイプのサングラスに近しいものになっていくでしょう。電子機器の小型化の歴史を考えれば、これはかなり固い線だと思います。思えばぼくたちは20年前、カセットテープ入りのウォークマンをしていたのです。いまや数センチ四方のipodnanoに何万曲も入るのです。そういう技術革新は今後も進んでいくはずです。
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 ナノテクノロジーによって、コンタクトレンズにAR技術が導入される研究、というのも現代では進んでいます。それが実現する頃には当然メガネに実装されているでしょうし、将来のメガネはこのhmz-t2の機能を当たり前に兼ね備えたものになるでしょう。そしてその頃には当然、今のhmz-t2の機能や見え方が、なんとも貧弱なものとして映っていることでしょう。

 またそのとき、映画館は今の役目を終えているでしょう。新作映画は配信によって公開され、どこにいてもどんな時間でも新作の映画が観られる時代が来るでしょう。単館系映画館の有名どころ、シアターNが閉館になるそうですが、そうしたことは今後も起こっていくでしょう。「単館」自体が死後になるかも知れません。

 しかしそれは悪いことではない、と、旧作映画ブロガーのぼくは思う。
 1月の記事で既に述べたことですが、映画館という場所は言ってみればいまや、「映画館のある地域に住む、ごく一部の人たちにのみ特権的に与えられた施設」に過ぎない。新作の映画で盛り上がれるのは都市の人間に過ぎない。それを全国津々浦々に解放できるわけです。また都市の人にしたって、観たい映画があるけどちょっと遠いし、日に一回しか上映分がないんだよね、観に行けないや、ということもなくなるのです。huluあたりがそのうちその種のサービスを始めても、なんら驚くに当たりません。

 そしてそれは作り手にとってもいいことでしょう。せっかく映画を作っても、渋谷の単館でしか上映されない、あるいはほとんど映画館でかけることができない、なんてこともなくなる。アクセシビリティの絶対的上昇によって、観てくれる人の絶対数は間違いなく増える。

 これは映画だけに留まりません。たとえば舞台、演劇もそうです。演劇は映画以上に閉じられていて、いくら芸能人がテレビで舞台公演の宣伝をしたところで、地方の人間は観に行きたくても行けない。しかし配信が進んでいけば、それはなくなる。というか事実、閉じられていたものがネットに解放される流れはずっと続いている。

 将来ぼくたちはヘッドマウントディスプレイの子孫をかけ、「今公開中の映画、演劇」なんてものをいつでもどこでも観られるようになる。余談ですが、その操作法については、グーグルが研究を進めています。グーグルは指輪型のウェアラブルコンピュータで指先の動きを感知し、レンズモニターと連動して操作するというスタイルを研究しているようです。他のやり方もあることでしょう。
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 かようなことで、このhmz-t2は、未来の種となる製品に相違ないのであります。いまやアップルなどの外国企業に席巻されている先端通信機器市場ですが、この登場によって、ぼくはSONYに一票を投じておきたいと思います。

 
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# by karasmoker | 2012-10-15 00:00 | Comments(6)






お久しぶりでございます。
 恵比寿マスカッツの新曲『逆走 ♡ アイドル』のPVが解禁になりましたので、予告通りに一応の再開をするのであります。

書きためてある在庫もございますゆえに、しばらくの間は二日に一回ペースでの更新を行う予定でございます。皆様のご反応が糧となりますゆえ、どうぞお気軽に、思ったことを書き込むなどしていただければありがたいのでございます。

 また、ちょうどこの折りに、ぼかあSONYのヘッドマウントディスプレイ二号、hmz-t2を購入いたしまして、その辺の話もしていければと思うのでございます。アイホンやアイパッドなどの新しもんにはこれぽちも興味を示さぬぼくですが、本製品には強く惹かれるものこれありまして、ここに映画新時代を見るのであります。以前にもここで述べました映画の未来像についてなど、今一度愚考をしたためようかとも思います。

そのうちにまた気まぐれで休止することでありましょうが、それまでの間、またよろしくご愛顧願えればと思います。ではまた明日にでも。
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# by karasmoker | 2012-10-14 00:00 | Comments(4)








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夢見るじいさんのロードムービーってのは、素敵ですなあ。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

アンソニー・ホプキンス主演で、実在したバイク乗り、バート・マンローという人のことを題材にした映画です。「インディアン」というのはバイクの車種のことであり、マンローは1000cc以下のオートバイで世界記録を樹立した人なのだそうです。
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 特に男の場合、十代後半くらいからバイクに興味を持つ人というのも世間には結構多いようなのですが、ぼくはぜんぜんでした。ぼくが人生の中で最もバイクに近づいたのはむしろ幼子の頃、仮面ライダーに熱狂していた時代であって、この映画ではあのライダーのようなエンジン音がとどろいていて、なんだか懐かしくもあったのでした。
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 ホプキンスは世界記録を夢に見て旧式バイクの整備にいそしむのですが、この辺はちょっと『グラン・トリノ』っぽくて好きでした。このブログで『グラン・トリノ』を評したのは日本公開時のことで、その頃はぜんぜんよさがわかっていなかったんですが、いやあ、読み返すと不明を恥じるというか、「若かったのう」というような記事であって、見方が成熟してからやっとわかるような映画というのは、やっぱりあるのですね。自分も日に日におっさんへと近づいていくわけですが、そうなればなるほどおっさん映画への思い入れも強くなるのであって、ホプキンスがぼろ小屋で旧式バイクを大事にしているのを観ると、ああ、このおっさんの人生がここにはあるのだなあ、という風に思えてくるわけです。
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で、彼はニュージーランドにいるので、記録レースに参加するためにアメリカに渡るのですが、その道中の様子がロードムービー、まさしくこれぞ一期一会という案配で描かれていきます。ニュージーランドからアメリカに来たおじいさんがアメリカで右往左往する、というのがなかなか面白くて、個人的にはおかまの人との一期一会が好きでした。あとは地元の暴走族連中が餞別をくれるところですね。この映画に出てくるのはほとんどみんないい人ばかりですけれど、まあこの映画ではそれでよいのです。
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 ロードムービーというジャンルが基本的に好きなのですけれど、それはなぜかと考えてみるに、それが人生のメタファとして映ってくるからなのでしょう。人生は旅にたとえられるものですが、ロードムービーのつくりは、他の種類の映画よりも、人生に近いんです。そのこころは、「何が大事で、何が大事じゃないかはわからない」。そして、「一寸先がどうなるかは、まるでわからない」ということですね。そしてアメリカ映画というのは実にロードムービーがよく似合う。
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 その目的として、記録レースに出るわけですが、ニュージーランドからはるばるよく来たね、ということでもてはやされます。一方で、彼のバイクは旧式で笑いものになるくらいなので、「こんなんじゃレースには出せない、死んだらどうするんだ」という主催者側の意見も出てくるんですが、彼は「死んだらそれも本望」という気概で、終始明るく振る舞います。こういう生き方には格好良さを感じます。「ここで死んでも悔いはない」という瞬間に出会うために、人は生きていくのかもしれません。ホプキンスのバイクが最後に横転し、彼の片足は熱のために大やけどを負うんですが、その瞬間の彼の満足な表情を見よ、ですね。
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 深い話ができなくて恐縮ですけれど(なにしろ映画評を書くモチベーションが大幅に下がってしまったのです)、とてもよい映画だったと思います。
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 さて、今回をもちまして当ブログは数ヶ月間ほどお休みいたします。どれくらいの長さになるかわかりませんが、短くとも涼しくなるまでは更新がないことと思われます(恵比寿マスカッツにビッグニュースがあればそのときは別です。恵比寿マスカッツ主演の映画ができたら即論評します。誰かつくれ)。映画以外の出来事、実際の世の中の出来事のほうに興味を奪われているのが今年に入ってからずっと続いていることで、今は劇映画自体をもうほとんど観ようとさえ思わなくなっているのです(リクエストをいただいて刺激をもらったわけですが、結局のところ、続けてもなあ、という感じになりました)。まあ、今回でやめるぞ、というほどの覚悟もないし、別に言い切る必要もないのですが、ともかくしばらくは戻ってこないのです。コメントいただけたら返事はしますが、映画の話をされてもノリが悪くなってしまうであろうことをご了承くださいませ。

というわけで、しばしのお別れ。
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表層の部分ではなく、彼の思想について考え出すと、ぼくたちは無辜なのかという不安が生まれる。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Rampage』
 このパッケージだとハリウッドアクションっぽく見えてしまうのですが、ぜんぜんそんなのではなく、世間でいうところのいわゆる「パラサイトシングル」が大量無差別殺人を行う話です。歴史上でも、現在の世界でも実際に起こっている出来事の類ですが、それをさらに大規模にしたような内容です。

 ウーヴェ・ボルという監督のことはぜんぜん知りませんでしたが、なんでもゲーム原作の映画化などをしてその出来により大変な不評を買い、かなり嫌われている監督でもあるようです。ただ、この映画についてはそんなに悪くないというか、作品の出来それ自体は十分飽かずに観られるものだったと思いました。時間も90分に満たないし。
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 常識的な感覚で観たら、唾棄すべき類のものだと思います。なにしろまともに自立しようとしない若者が自家製アーマーを着込み、ただただ街の人々を殺しまくるのです。しかも、追い込まれて精神的に錯乱しているようなわけでもなく、俺は自分なりの思想をもってやっているんだぜ的なところが輪を掛けて腹立たしいのでありまして、しかし腹立たしさを覚えさせるということはこの映画がそれなりによくできていた、ということでもあるわけです。
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 ドイツ・カナダ制作ということですが、アメリカの田舎が舞台です。主人公は人生がうまくいかない多くの人間がそうであるように、世間に対して鬱屈を抱えていて、「行動を起こしてやる」みたいなことで大量殺人に走るんですね。まず最初に警察署を爆破したところがミソで、それによって街の治安機能を麻痺させ、やりたい放題に殺しまくるわけなのです。

 あんなうだつのあがらないやつがあんな爆薬をつくれるのか、警官の銃が効かない一方で身軽に動けるあんなアーマーは軍隊でも持っていないんじゃないか、そうした装備一式を取りそろえて銃まで所持するその金をいったいどこから調達したのか、街の中にも銃を所持している人はいるだろうのにあまりにも主人公にやられ放題じゃないか、などといろいろ思うところもあるわけですが、「こいつはどこまでやるつもりなのだ?」と思わせつつ殺人の限りを尽くすので、先が気になるのですね。こいつがむかついてならないのですが、それもまた引っ張りになるわけです。スプラッタ系の猟奇殺人ものだと、まだ一人一人の被害者の残虐描写に時間を割いたり、そのインパクトに頼ったりするわけですが、この映画だとなんとも軽々しく人々が殺されてしまう。その点に、この映画の持つ不快さの鍵があるような気がします。
 
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 殺人鬼なりなんなりが出てくる映画って、変な話、まだ安心できるのはその殺人鬼が「狂っている」あるいは「人格を持たないモンスター化している」からなんですね。でも、この映画の主人公は自分なりの考えを持ってしまっている。それはつまり、人の命をなんとも思わず、むしろ「人口を減らせば長期的に見れば世界のためになるじゃん!」という口実を見つけてしまっているということです。この映画で軽々しく無辜の人々が殺されることと、彼の考えは一致しているわけです。彼は命をなんとも思っていないどころか、むしろ積極的に減らすべきだと考えている。
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 もちろん、そんな思想を受け入れられるわけはない。端的に言って、物事を単純化しすぎた頭の悪いやつです。しかし、現実として、こういう物事を単純化して自分を正義とみなす馬鹿、というのは相当数いるのでしょう。ぼくは彼が虚構的な存在に思えなかったんです。というのも、たとえばぼくと彼の間に、どんな垣根があるのか?
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 おいおい、穏やかじゃないぞ。

 いやいや、違うのです。ただ、こう考えてみましょう。
 彼は顕在的大量殺人者ですが、じゃあぼくたちは果たして、まったくの無辜と言えるのか?
たとえば、タイムリーな話題で恐縮ですが、生活保護受給の問題でいえば、仮に受給要件が厳格化されたり、給付水準を引き下げたり、資格のあるはずの人がもらえない事態が発生するなどした場合、その結果として死に至るケースが出た場合、厳格化を推進した人、その方向性に賛同した人は、果たして無辜なのか? そのとききっと、そんな人は現場に責任を押しつけるという行動に出るでしょう。自分は悪くない、自分は国や地方の財政を健全化させる必要があると思って賛成しただけだうんぬんと言うでしょう。さて、本当に無辜なのか? いや、もしかすると、「自分には責任がないと言えるくらいに間接的な形で」人の死に関わっているんじゃないか?

言い出せばいくらでもきりのない話です。どんな戦争であれ、その戦争を支持した人々は、他人の死に対して何の責任もないのか? 戦争が始まれば兵士は死ぬ可能性が十分にあるし、その戦場となる場所の一般市民にもまず間違いなく犠牲者が出る。戦争が何なのかわかっていればそれは当然織り込み済みのはずで、そのうえで戦争を支持することは、殺人への関与ではないのか?
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 もちろん、支持した市民が法的に裁かれることはない。あってはならない。自衛のための戦争というものだってあるし、相手を殺さなければ自分が殺される局面というものも考えられる。一概に言える話じゃない。ただ、一概に言えないからこそ、まったくの無辜という立場が取れるのか? という疑念が生まれる。
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 長々と映画から離れて恐縮ですが、彼の思想はまったく現実には存在しない、虚構的なものだとは言い切れない。程度の差こそあれ、自分たちの利のために相手のことなど案じない、という生き方は、たびたび選択されている。そして場合によっては、それが合法であるがゆえに、たちの悪いものなのかもしれない。

 回りくどいようなので、刺激的な文言で短く言ってみるなら、「ぼくたちは皆、潜在的な殺人者じゃないのか?」ということです。たとえばぼくたちが持っている財産を半分でも貧しい人に寄付すれば、その人は死なずに済むかも知れない。ぼくたちが消費を増やせば景気がよくなって、生活保護うんぬんの世知辛い話も吹き飛ぶかも知れない。でも、それはできない。なぜなら、「自分には自分の生活があるし、今後の経済がどうなるかもわからないし、自分の財産を人に譲るなんてできない」からです。つまり、人は自分のことでせいいっぱいなのです。しかしこれは言ってみれば、カルネアデスの板です。自分の命を守るために人を見殺しにしても罪に問われない。自分の生活の満足のために、社会に無関心でいても罪にはならない。そのときぼくは思う。ぼくたちは所詮、浮くための板を必死で守ろうとしているだけじゃないのか? その横で死を迎える者を自分のために見殺しにしている潜在的殺人者じゃないのか?

 こうしたことを考えていくと、「人類のために人口を減らすよ」という彼の究極的な思想を、果たしてどのように否定できるのか? 実はこれは『逆襲のシャア』におけるシャアの思想でもあるんですね。地球の人類は愚かしくも地球を破壊し続けている。制裁が必要だ、という彼の思想に通じているのです。その話をし出すともう収拾がつかないのでやめます。

 表面的に観れば、鬱屈した糞みたいな奴の大量殺人映画、まったく胸くその悪い作品、ということはできる。しかし、その背後にある(たとえ馬鹿げているとしても彼が語る)考えを聞くと、はて、と思い悩んでしまうところがある。これは政治哲学的な領域にも踏み込んでしまいそうな話なんです。虐殺は最悪だ、と言いつつ、国家は戦争を散々繰り返してきたわけです。

 なんだよ、もっと映画の中身についてレビウをしろよ、と思われたらすみません。この前にも述べたとおりに、ぼくは今、映画について、「あのシーンはいいよねー」的話よりも、こういうことを語りたくなるのです(だから休止するのです)。映画なんてのは観れば誰だって感想の一つくらい出るものなんですから、それはあなたが勝手に感じればよいこと。ぼくはそこから映画外に踏み出したくなってしまうのです。

 まあ、そんなところなのです。
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以前観たときはわからなかったのですが、今観るとよくわかるんです。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ずっと前に観たときはぜんぜんぴんと来ずにいたのですが、そのときは集中して観ていなかったらしく内容もかなり忘れまくっていて、あらためて観てみればなんとも味わいのある作品でありました。やっぱり、年齢やら知識やらによって、映画の見方というのは変わってくるものなのですね。観る機会を与えていただきありがたく思います。

『ガタカ』のスペルは「Gattaca」で、DNAにおける基本塩基四つの頭文字を組み合わせた造語です。劇中では主人公の勤める会社名を指しています。
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 この映画の世界では遺伝子診断がものすごく発達しており、男女の産み分けや出生前診断は当たり前になっているのですが、イーサン・ホーク演ずる主人公はその種の診断を受けずに生まれており、寿命が30歳前後であろうという過酷な運命を担っています。
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 そうした遺伝子診断は職業選択にも大きな影響を与えております。彼は宇宙開発の会社に勤めているのですが、そこは遺伝子的に、まあ言ってみれば「優等」な人間でない限り、入れない場所なのです。しかしなんとか宇宙に行ってみたいと願う彼はその種のプロにお願いし、優等な遺伝子を持つ人間に接触し、その人になりすまして会社に入るのです。
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 映画自体はアクションがあるわけでもなく、めざましく未来的なガジェットに溢れているわけでもなく、近未来的なオフィスの中が舞台の、まあどちらかといえば地味な作品でしょう。だからSFと聞いて『スターウォーズ』とか『トランスフォーマー』とか、宇宙の戦艦がやってきてどんぱちみたいなのをイメージする人にしてみれば、娯楽性に乏しく映るかも知れません。昔のぼくはそういう風に思ってあまりちゃんと観られていなかったんですね。でも、今のぼくにはこの手の話のほうがずっといい。この映画は宇宙開発時代の話なのに、宇宙のビジョンはほとんど出てこない。星空がせいぜいです。でも、それでいい。それがいいのです。
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 お話としては、主人公が任務として憧れの宇宙に行くまでの間に、彼の身分詐称がばれてしまうのではないか、という「なりすましもの」的どきどきが引っ張りになります。なにしろ髪の毛一本から即座に身分が割れかねない状況なのです。彼は垢が出ないように毎朝体を丹念にこすったり、キーボードの埃をこまめに掃除したりを繰り返し、とにかく気を遣い続けます。ところがそれが至らずに彼の「不適合な」身体の欠片が発見され、さあ、どうなるのか、ということなのです。
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 構造としては、歴史上でもたくさん発生してきたことに近しいです。差別があって、主人公は身分を偽って暮らしていて、でもそれがばれそうになって、というものですから、たとえば黒人奴隷が脱走して市民として暮らそうとしているとか、ユダヤ人がナチスに隠れて暮らしているとか、キリシタンが幕府に隠れてイエスを崇めたりとか、そういう対・差別のなりすましもの。しかしそこに遺伝子や宇宙というわかりやすく未来的な要素を入れてきたことで、スタンダードにして新しい作品になっている。
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 ただ、遺伝子による差別、というのは何も新しいわけではなくて、実を言えば黒人差別ってそういうことですね。黒人としての遺伝子を持つ人を、その形質によって差別しているわけですから。だからこれはきわめて古典的な差別問題を扱っているとも言える一方で、それが今後の社会で何かの形で起こりうるのではないか、という想像もさせてくれます。
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 もちろん、今後の社会で、遺伝子そのものによって社会的な被差別を受けるということはまずないでしょう。しかし、ゲノム研究がさらに進んでいけば、この映画のように出生前診断による産み分けが広がることは十分に予測できる。いや、というか、既に起こっている。「出生前診断」でググればそんな例はいくらも出てきます。これは今後の社会における非常な難題です。胎内の子どもを検査したら高い確率で難病になる、そういう遺伝子を持っているとわかった。さて、生むべきか、中絶するか。これはもう、ちょっとやそっとで語れるテーマじゃないです。ぼくは今のところ、回答を避けるほかありません。

企業にしても、優秀な人材を募りたいと思ったら、その種の検査を取り入れるところが出てくるかも知れない。法的に規制を受ける可能性は高いですが、技術が進んで時代が移り変われば、たとえば健康診断で遺伝子診断の結果を出しなさいと言われることもあるでしょう。そこで「30歳で難病発症率が高い」などということがわかり、それが就職や役職に影響を与えるなんてことも、十分考えられる。NASAが「最も現実的なSF映画」に認定したのもわかります。
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 この映画の優秀は、宇宙開発といういまだ不確定要素の大きすぎる分野については、周到に言及を避けているところです。それはあくまでも背景、遠景としての機能にとどめている。それはあくまでも未来と主人公の希望の象徴とするにとどめ、彼自身の物語に焦点を当てている。いや、ここが宇宙であることもまた肝要なのでしょう。劇中、下半身不随の男が出てきて、主人公は彼と取引をすることで「適正な」身分を手に入れるのですが、主人公が彼に向かって言うのです。「宇宙に行ったら、車いすを使わなくてもいいんだぞ」と。これはこの映画の影を大きくする一言です。地球は重力に縛られている、たくさんの規則や、障害や生まれ持った差別に満ちている。しかし、宇宙はそうじゃない。なるほど、見えました。主人公が宇宙に惹かれた理由にも説得力があるというものです。彼はどうしようもない差別を帳消しにする場所として、宇宙に惹かれていたのかも知れません。この映画における宇宙は、未来を表す背景だけではなかったのですね。

 そうなると、他方、海というものもまた意味をなす。そこには社会的差別はない。遺伝子が何だ、自分のほうが泳げるんだ、という主人公の兄への対抗心。彼にとって、宇宙や海はとても意味のあるものだったわけです。
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 がちゃがちゃした要素がないので、物足りなさを感じる人がいるかもしれません。ほら、映画って、がちゃがちゃした要素に面白みを覚えたりもするものじゃないですか。だからそういうのがほしい人向きではないかも知れないけれど、必要なこと、この映画で表せることを過不足なくやっていると思いました。あの殺人事件はその中でもやや過激すぎる出来事ですが、物語を進めるうえでは意味があるし、おかず機能も担っていたのでしょう。
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 以前にはちゃんと味わい切れていなかった作品でしたが、あらためて観て良さがわかりました。これはリクエストいただいたからこそのことでありまして、ありがたく思います。最後の医者のくだり、ぼかあ、好きですねえ、うむうむ。

 この映画はですね、なんというか、グミとかファンタが好きな子どもには薦めませんが、塩辛いつまみとともにウイスキーを飲む良さがわかるような人には、わかると思います。ええ、お薦めいたします。
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昔のコメディの上品さ。戦時中にこれがつくれる余裕。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『To Be or Not to Be』
 今回で450件目の記事を迎えた当ブログでありますが、今日までにリクエストいただきました作品、今回分を含めた残り4本を持ちまして、一度お休みしようと思います。近頃の記事の傾向でもおわかりの通り、ぼくはここしばらくずっと、映画それ自体について語るよりも、映画から読み取れることを考えたいと思っているのです。つまり、映画以外のことを考えたりする時間をもっと取りたいのです。ここ数ヶ月のぼくの興味はざっくり言えば政治、経済、国際情勢、歴史、哲学、政治哲学、テクノロジー、社会などのほうに向いておりまして、これからもそちらのほうでもっと知識を蓄えたり、考えを深めたりしたく思うのです。ゆえに、あと4本でこのブログは当面お休みします。短くとも9月くらいまでの間は更新しなくなると思います。読者の方には申し訳ないのですが、とりあえず、ご報告までに。
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 さて、『生きるべきか死ぬべきか』です。
第二次世界大戦初頭の頃のお話で、ナチス侵攻を受けたポーランドが舞台のコメディです。こうした種類の映画というのは当世ほとんど観られないものですね。今ではナチスというものが既に散々語り尽くされたか、もしくは映画でも散々に利用され尽くしたようなところがあるし、映画内における悪の組織としてデフォルメされたりしている。一方で、歴史的な評価は極悪の権化として固まっているわけで、あまりライトな描き方もできないし、おそらくされるべきでもない、という状況でしょう。
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 この映画は1942年公開でナチスばりばりの頃ですが、まだ歴史的な評価も定まっていないとあって、風刺的な意味合いが強く残っているものであります。しかし、えらい時代といえばえらい時代ですね。悪逆の限りを尽くすナチスが実在している一方で、「ハイル・ヒトラー」のあの敬礼をギャグっぽく描いている。ルビッチはドイツ出身らしいのですが、どういう目線でこの映画をつくったのか、気になるところです。前にも書いたことですが、戦時中にこういう映画がつくれるアメリカには、そりゃあ勝てないわ、と思わされます。チャップリンの『独裁者』もそうですけど、本当にやばかったらこんな映画はできないでしょうし、こういうものを娯楽映画の中でつくりこんでしまう余裕がすごいです。ヨーロッパと地理的に離れているというのも精神的要因かも知れないけど、それにしても、じゃないですか。
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 冒頭からわかりやすいギャグを入れ込んできますね。掴みとしてもグーなのです。これはコメディだぞ、というのがばっちりわかって、掴みはオーケーです。ナチスの芝居をしている人たちが「ハイル・ヒトラー!(ヒトラー万歳!)」の敬礼を交わすのですが、それがまた機械的で、ヒトラーの芝居をする人は「ハイル・マイセルフ!(自分万歳!)」と返したりする。構造も細部も面白さを蓄えているんですね。
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 で、コメディの常道であるところの「なりすまし」をフルで用いている。で、なりすましものはやっぱり、ばれたらやばい、ということが必須になるわけですが、この映画ではナチスが敵に当たるわけで、なりすましのハラハラ感がいちばんわかりやすく効いてくる。なりすましものとはつまりスパイものですが、チャップリンの『独裁者』とともに、これはその後の映画の、ひとつの教科書になっているんじゃないでしょうか。

考えてみると、ナチス潜入以上のスパイものってのはなかなかつくりがたいところがあるようにも思いますね。スパイ大活躍時代と言えば冷戦下でしょうけれど、あくまで冷戦状態ですし、この時代のナチスほどの迫力はない。そのうえで深刻にも描けるし、あのわかりやすい制服やしるしによって、コメディ的にも用いることができる。ナチスというのは最悪の集団なんですが、一方では映画の実りにおいてきわめて重要で、映画は娯楽メディアとして、ねじくれたもんをもっているなあと思ってしまいます。うん、ナチスやヒトラーという存在は、ちょっとやそっとじゃ語れない側面を持っているんですね。
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今の時代で映画を作るとなると、どうしても規模をそれなりに見せようとしたりなんなりされてしまいますけど、この時代のこういう映画は人々のやりとりだけを簡潔に描きますね。その中でいかに密度を上げるか、という方向になっている。これは映画として美しいと思います。昔のコメディが持つ上品さって、あるよね。と言いたくなります。余計なショットも小ネタみたいなギミックも、しゃらくさいサプライズも過激なブラックジョークもない上品さというのが間違いなくあって、変な話ですが、昔のもののほうがずっと洗練されていると感じることが時として確かにある。1930~40年代をハリウッド黄金期と位置づける人がいるのもわかるような気がします。もちろん、映画はいろいろな要素をその時代に応じて取り入れていくわけで、たとえばANCは古くさくなったハリウッドのスタジオ製映画に反旗を翻して生まれたわけで、その後も特撮やCGなどで映画は百花繚乱の時代を迎えたわけですが、ことコメディにおいては、昔のもののほうが構えずに素直に笑えることが多いのです。
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 そうした流れが映画の中で潰えた、わけでは決してないとは思うんです。それほど観ていないので詳しくは言えないのですが、いわゆるラブコメはまだ昔のコメディの伝統が息づいている部分じゃないかなとは思うのですね。そう考えると、日本ではもっぱらOL層をターゲットにしていると思われる「邦題が十文字以上系」ラブコメなども、もっと評価されてしかるべきものなのかも知れません(ただ、観ていないし、しばらく劇映画を観る気もないので、その辺はあくまでも印象論です)。
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 ああ、また今日も細かい内容について踏み込んだレビウをしなかった。いや、まあ、映画の内容なんてものは観ればわかる話なんで、いちいち文章化する必要もないんじゃないかと、そんな風に思ったりもするのです。ドイツのポーランド侵攻、とかについて話したらいよいよ映画のレビウじゃなくなってしまいますし、映画の外形、古い映画の印象などをだらだら語るより今はないのです。古い映画はどうも、という人は、コメディから観始めるといいのではないでしょうかね。とりあえず、そんなところであります。
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韓国的闇づかいも十分な娯楽作。韓国映画の充実期を示すひとつの好例。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ぼくは劇場に行かないたちなので、皆さんより遅れて話題作を観るわけですが、公開時にはツイッターのTL上でも結構賑わっておりましたね。しかしまあ、タイトルのアジョシというのは「おじさん」みたいな意味らしいのですが、韓国映画がときどきやるこのほとんど投げやりみたいなタイトルは逆に面白いですね。『グエムル 漢江の怪物』も原題では単に「怪物」だけらしいし、『シークレットサンシャイン』も(別の意味合いを引っかけているのかもしれないけど)単に地名の「密陽」ですから。『息もできない』にいたっては「糞蠅」です。

 さて、おじさんというにはいささか格好よすぎるウォンビンが主演のバイオレンスアクション映画ですが、これは娯楽作品としては言うことなしでいいんじゃないでしょうか。個人的には映画の娯楽性というものへの感度が鈍っているのですけれど、アクションシーンの迫力とか細かい部分の見せ方とか、日本映画との差を感じてなりません。

 ただ、今の日本でこういう映画を撮れるかというと、映画産業うんぬんとは別に、社会状況的に難しいというのもあるでしょうね。日本的成熟、いい意味でも悪い意味でも落ち着いている日本にあっては、なかなかこの映画のような題材から話を作っていくのには無理がある。以前レビウした『スプリング・フィーバー』でも述べたアジア的活気。とりわけ韓国の場合はいまだ地続きの北国と緊張状態にあるとあって、暴力表現にも生々しさが宿りやすいのでしょう。アジア的生々しさが随所にあります。警察がどやどや踏み込んできているのに、ばばあがラーメンをすすって睨みつけたり。
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 この映画に限らず、韓国映画でよく観られる風景として、近代的な風景と土着的な路地の落差、というのがありますね。一方では金持ちがプール付きの豪邸で女性を侍らせたり、クラブで踊り狂ったり、最新の携帯機器を使いこなしているかと思えば、日本では昭和の映画でしかお目にかかれぬような汚くて薄暗い、古い家屋の建ち並ぶ路地があったりする。これは欧米の映画でもなかなか観られぬ類のもので、日本だと今度は寂れた田舎っぽいほうに振れたりしてしまう。ひとつの物語の中に、都市の中に新旧が入り混じり合う風景は、映画にとって大きな財産でしょう。だから、いずれ開発が進めば、韓国映画にも今のような土着さは多分出せなくなる。その意味で韓国映画は幸福な時代をいまだ保持していると言えましょう。
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 映画に入っていくなら、闇づかいが実によい、ということです。あの闇はもう欧米も日本も醸せない類じゃないかと思わせる。家の中の、生活臭にまみれた空間に映える暗がり。あれは韓国映画の強み、大きな武器です。今の日本映画にはほとんどできない。それは映画制作力どうこうではなく、時代的に日本は既に、あの暗がりに説得力が宿らなくなっている。ああいうものを観るにつけ、「日本映画は韓国映画に比べて駄目ね~」的言説は(過去にぼくも述べてしまっていることですが)、映画を単純に論じすぎているという気がしてくる。社会状況の問題と併せみて論じるべきなのでしょう。ポン・ジュノ監督が言っていた意味がわかります。
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 ああいう風景が、血みどろ劇に厚みを持たせるんだと思う。またそれますが、南アフリカを舞台にした『第9地区』で、バラックに住むエイリアンたちがやけに実在感を帯びていたのもそこで、個々の出来事や存在はその風景との調和で説得力を左右される。韓国映画ではあの薄暗い土間、何が潜んでいるかわからないような路地、ああいうものを背景にすることで、血しぶきひとつとっても見事な画になるのです。だから逆に、明るいシーンだと日本映画みたいな薄さが出ていたりもする。一人の男を拷問する場面があるんですけど、あれは大手の日本映画っぽくて、虚構性が際だってしまう。でも、気になったのはそれくらいです。
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 いつになったら内容に触れるんだ、最近のおまえはいつもそうだ、と言われそうですが、いやあ、だって、ウォンビンが格好いいとかそんなのは、もう散々言い尽くされているでしょうし、いいじゃないですか。そういうのが読みたい人はどうぞ「ウォンビン格好いいよねーレビウ」をお巡りください。
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 内容に触れますと、別段物語自体には目新しさはないのです。ウォンビンがキム・セロン演じる少女を救い出すために頑張る話です。骨格自体を切り出しちゃうと、この映画の魅力はちゃんと伝わらないんじゃないでしょうかね。敵はわかりやすすぎるくらいわかりやすい悪役ですし。でも、あんなわかりやすい悪役、誰がどう見ても悪い奴を出してくるってのも潔いなあと思いますね。なにしろ臓器売買のために平気で人さらいをして人殺しをして、子どもに覚醒剤の合成か何かをさせて、ほとんどショッカーの域です。でもそこまで行くのもあっぱれな話です。いや、それが適当な感じだったら駄目ですけど、悪い奴は徹底して悪いのだ、という風に持って行くのは、いまどきなかなかできるもんじゃないです。そこに子どもをもろに絡ませている露悪趣味はさすがの韓国映画節です。
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 で、昔の東映映画みたいな、宿命のライバルテイストもちょっと入れてくるんですね。あれなども面白い。敵の組織に腕利きがいるんですけど、こいつは最後にあるひとつの大事なことをして、そのうえでなおウォンビンと対峙する。絶対有利の状況なのにあえて銃を捨てて、ナイフで挑む。これはなんだか時代劇っぽいじゃないですか。まさしく『用心棒』ってな案配です。組織とかどうでもいい。おまえを倒すほうが大事だ、というね。
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 演出の細部は好きなところが多いし、全部は語れませんね。これは観た人それぞれ、何かしらあるんじゃないでしょうか。ぼくがいいなと思ったのは終盤です。ウォンビンが敵のボスを追うんですけど、敵は車に乗って逃げようとする。このとき、ウォンビンは銃で車を狙うんですけど、ちゃんとタイヤを狙うんですね。ここはえらいです。ぼくが銃と車の出てくる映画でいつも疑問に思うのは、「なぜタイヤを狙わないんだ.車体ばっかり狙うんだ」ということで、逃げる車の的確な狙撃目標はやっぱりタイヤでしょう。で、相手の動きをちゃんと止めるわけです。
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 その後もよい。敵のボスは防弾ガラスの車に乗っているから、銃で撃っても殺せないと。そうしたときウォンビンは、あくまでガラスの一カ所を執拗に狙うんですね。考えてみれば当たり前のやりかたですけど、この執拗さがいい。地味で実効的でよい。これ、敵が車からうぎゃーとか言って逃げ出すより、はるかにはるかにいいじゃないですか。

結末・ネタバレーション警戒速報。結末に触れます。

 最後はどっちでもいいと思った。死んでしまっているでもありかなと思った。そしてそれは映画としてすごいと思って観ていました。この映画の場合、最後に少女を救えても救えなくても、どちらでもいける。ただ、やっぱりちゃんと救ったほうが絶対に収まりがよくて、あの腕利き用心棒にも深みが出る。韓国映画のことだから、あの目玉は本当に少女のものだ、みたいなえげつなさで攻めてくるかとも考えましたが、そこはかわしておいていいところですね。ちゃんと終わってよかったと思います。

 これはいいんじゃないでしょうか。けなしどころはあるでしょうかね。細かいところをつついていけば何なりとあるでしょうけど、そこに気を取られるのはもったいないと思います。お薦めいたします。
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彼は彼だけにできる仕事を果たしたのです。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 アカデミー賞作品ですね。わりと賛否が分かれているのでしょうか。英国王の史実に基づくものですが、歴史的事実に違いがあるんじゃないかなんてことも言われているようですし、英国王室という題材が題材だけに脚色にも気を遣うところがあったのでしょう。時は第二次世界大戦前、というきわめて政治的に不安定な時期を舞台にしており、それがゆえに評価が分かれる部分もあるようです。

 イギリス史や英国王室史に明るくないので、その辺のアレへの深い言及はまったくできぬのですけれども、まあ行きましょう。主人公はコリン・ファース演じるイギリス王ジョージ6世、劇中では即位する前の時期から描かれます。彼は吃音症を抱えていて、大事なスピーチの席でもうまく声が出せない有様。それをなんとかするのじゃい、というような話と、王位継承時のあれこれが描かれています。
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映画の時代は1930年代後半、戦争前夜のきな臭い頃合いですが、政治的な話は後半までほとんど出てきません。ジョージ6世が王としてスピーチをちゃんとできるのかどうか、に焦点が当てられています。
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 これはこの映画の作りとしては正しいと思います。というのも、王にとってスピーチはとても重要な行為だからです。裏を返すと、外国との政治的な駆け引きに王は参加できない。それは当然首相をはじめとする政治家の仕事であって、王が口出しすることではないわけです。「君臨すれども統治せず」なわけです。
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 ではなぜ王室が重要なのかと言えば、それは国家の権威の象徴、国家の伝統を代表するものとして大切なわけで、求められるのは威厳です。だからこそ、スピーチがとても重要になる。特にテレビもなく、ラジオしかない時代ですから、その存在を国民に示すうえではある意味今以上にスピーチが大事。劇中でもヒトラーが出てきますが、彼がドイツ国民から支持された大きな要因として、彼が演説の名手だったことが挙げられるわけです。実際の政治に携わることができず、それでいて国家の権威を示すべき立場にある王としては、スピーチの正否は死活問題だったのですね。
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 映画では第二次世界大戦の開始に際し、国民を勇気づけるスピーチを放送するところがクライマックスになります。で、スピーチがうまくいってよかったね、ということで話が終わる。宇多丸さんの評のリスナーメールでは、ここを怒っている人もいるようです。今から戦争が始まるってのに、そんなのんきな結論でいいのか、ということのようです。
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 うーん、そこはどうなんだろう、うーん。
 じゃああのときの彼に何ができたのかってことですけど、王には政治的権限なんかほとんどないに等しいわけでしょう? あのとき反戦のメッセージを放っていればよかったのか? 彼の立場ではそれはできなかったでしょう。ナチスやファシスト党のような勢力がばきばき出てきているときに、反戦を訴えたってしょうがない状況があったわけで、その中で彼に尽くせるベストはもはや、スピーチを立派に遂げる、そうしてイギリスの人々を勇気づけることしかなかったんじゃないかと思うんです。それは人々を戦争に駆り立てる行為だ、というかもしれないけど、じゃあどうするんだって。ナチスみたいなとんでもないやつらが明らかに脅威的になっていて、協定結んでも破ってきて、形式上は軍の最高司令官だとしても実質は何もできない王に、何ができたのか。それでも反戦メッセージを訴える? 言うのはたやすいけれど、そんなこと言い出して国に混乱が起きている間に攻め込まれて殺されるぜ?  フランスだけで南北からのファシズム勢力を迎え撃たせればよかったの? イギリスがいたってフランスは占領されちゃったわけで、交戦しないのにも無理があったでしょう。ジョージ6世についての細かい話はそんなに知らないけれど、彼は彼のベストを尽くしたんじゃないのでしょうか。それは今振り返れば異論はあるかも知れないけれど、そのときその時代のその立場の人間じゃないんだから、わからないって。

 王は前線に出るわけでもなく、安全地帯にいるというかもしれないけど、そんなことはないでしょう。国家の威信を背負う立場です。政治家みたいにやめれば済むわけじゃないし、いや、やめることは形式上できたかも知れないけど、父が死んで、その後即位した兄貴が変なやめ方しちゃってるから自分まで立て続けになんて絶対できない。そいつだけが背負っているもんってのがあるわけで、安全地帯でも何でもない。ある意味、最前線です。彼は彼なりに、国家の威信を守るっていう仕事を果たした。その後の戦争うんぬんとは別の話です。
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 もちろんこのときの状況は日本とは無縁ではないし、だから日本人としてこの映画のスピーチにいい評価を与えるのはいかがなものか的なこともわかるんですけど、じゃあ三国同盟を結んだナチスドイツの側に立った映画ならいいのかっていうとそんなわけもないし、むしろこれはどちらの立場でどうのではなく、国家の威信を守らんとして、自分にできることをやり遂げようとした人の話として観たほうが、実りがあるんじゃないですかね。そのとき、吃音症の克服は個人レベルの小さなものではなくなります。死活問題たるスピーチの前に立ちはだかる、大きな大きなものなんです。そういう立場のことを考えることなんて日頃ないわけで、この映画を観た甲斐もあるというものです。国家というものを大事に思う人ほど、この映画の意義は感じられるんじゃないでしょうかね。単に吃音症を克服した感動話だって観るのは、いくら感動したとしても矮小化しすぎでしょう。
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 言語療法士を演じたジェフリー・ラッシュとの掛け合いのテンポよく、飽かずに観られました。実際の細かいところには違いもあるようなんですが、この映画で彼が免許も資格も何もない男として出てきたのはいい対比になりました。彼は第一次世界大戦で、今で言うPTSDを発症した兵士たちの治療に努めた過去があるという話をして、ここなどは権威あるが経験のない王と、権威は何もないが経験のある男のコンビという対照的な関係があってよい。ヘレナ・ボナム・カーターの存在感もちょうどいい。
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 なんか戦争がらみの拙い議論を展開してしまい、聡明な方から叱責を受けそうで怖々しているところもあるのですが、ぼくはこの映画はよいと思いました。映画自体のレビウにしては映画からそれすぎている感もあるやもしれないのですが、映画自体よりもそこから膨らませられることを考えることに今のぼくの力点はございまして、まあアカデミー賞ですしレビウはそこかしこにあるでしょうし、ご勘弁願いたく存じます。
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十代の方がご覧になればよいのでしょう。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回の『スカイ・クロラ』もそうですけど、大人が観るにはいささかナイーブすぎる、もしくは甘味がきつすぎるような映画ってのがありますわね。クオリティは大人が観てもすばらしいと思えるけど、その内容はもう二十代以上には通用しないんじゃないかみたいな作品というのがあります。しかし原恵一監督と言えば子ども向けど真ん中のあの『クレヨンしんちゃん』をむしろ大人のほうが泣けてしまう地平に持って行くという前人未踏の離れ業を成し遂げているので、どうかいな、と思って観たわけですが、ううむ。
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 冒頭は死後の世界から始まります。そこでは主人公の姿は明かされず、とにかく彼が既に死んでいること、そして生前の記憶もなく自分が誰なのかもわかっていないことが示される。その一方で、「あなたはもう一度人生をやり直してもらいます」と案内人みたいな少年に言われ、「自殺を図った小林真という少年に乗り移りなさい。彼は魂が抜けているから」と指示を出されます。主人公は自分が誰かもわかっていないので、「え? それは誰? 見知らぬ相手に乗り移るの?」的なことになって、そこから話が始まります。主人公は自分が誰だったのかもわからぬまま小林少年に乗り移り、小林少年としての生活を始める、とこのようなわけなのです。
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 さっそくネタをばらしにかかりたいのですが、その前に声優の件に触れます。原監督の前作『カッパのクゥと夏休み』のときもぼくは苦言を呈していたのですが、今回は輪を掛けてノイズに感じました。主演の子は前作でカッパのクゥを演じていて、その演技についてもぼくはぶう垂れていたわけですが、今回は彼がメインで、うん、ちょっと、どうなんですかね。その役がミスキャストかどうかってことは、突き詰めれば個人的な感覚でしかないわけで、そうとわかったうえで言いますけど、この主人公の少年には合っていない声じゃないですかね。仮にそうでなくても、演技がへたくそじゃないですかね。声優がへたくそだって思うことはあまりないんですけど、これは強烈に感じました。なんでこの子を二回連続で、メインで扱ったんでしょう。芸能事務所の意向なのか、はたまた二回連続ってことは監督もしくはプロデューサーの意向か。いや、監督にせよ声優の子にせよ、いい人なんだろうなと思います。声優としてすんごく頑張っていて、監督もそのがんばりを見て今回も起用したのでしょう。だから出来はどうでもいいんでしょうね。人と人との温かいつながりがあるじゃないですか、それでいいです、もう。

 あとは有名な俳優なりタレントを使うと制作費が上がるから、仮に声優業界の畑がやせ細ろうとも、麻生久美子演じる母親がずうっと麻生久美子そのものであり続けたとしても、それでいいんでしょう。舞台にせよ映像にせよ、役者は表情と身体を用いて表現するものだから、声優に比べて声色の微妙な調整をする技術に長けているわけではなく、そのための訓練をしてきたわけでもなく、ゆえにキャラクターと声との間にどうしようもない距離があったとしても、それはいいんでしょう。そんなことにこだわるほうが馬鹿げているんでしょう。だったらもういっそのこと、顔も何も麻生久美子や南明奈や宮崎あおいや高橋克実に似せてみたらどうですかね。そのほうがもっと集客が見込めるはずです。だって、突き詰めたらそういうことなわけでしょう? 彼らの名前や存在が集客になるって考え方でいくわけでしょう。だったらいいじゃないですか、そのほうがカラフルで。

 さて、余計な悪態はこの辺にしたいのですが、今日はちょっと辛口になりそうな気配です。リクエスト作に辛口はなるべく避けたい、それは今回のリクエスト作評当初から申してきたことですが、これはちょっと、どうなんでしょう。だから先に申したとおり、これは十代向けだと思います。二十代以上はきついと思う。だから十代の人は、じじいがうぜえこと言っている、と思ってくれればよいのです。十代の純真無垢な心に突き刺さる快作なんだと思うんですたぶん!
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 早めにネタをばらしますと、この死んだ主人公、正体は誰なのだ? ということをひとつの引っ張りにしたいのでしょうかね。あれはもうぜんぜんオチになっていなくて、構造上あの少年と同一であるってことしかないんです。もうそれ以外の回答がない。そこはばれているのに、ばらさない感じでいこうとしているから、随所随所無理が出てくる。これはちょっときつい脚本です。
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自分が誰かわかっていなくて、この小林少年に何の思い入れもない、というところからスタートする半年間なんですが、結局この主人公の魂の正体は小林少年なんです。そういう結末なんです。つまり、自分が自分だと気づいていなかったって話です。
 でも記憶がなくて、自分だとわかっていなくて、何の思い入れもない、と。そのくせ、母親が不倫していた過去にやたらむかついていると。この辺がねえ、扱い決めかねている感がすっごいするんです。おまえは過去を知らんことになってるんちゃうんかと。だったらもっと客観的な感じで、「あんたがそんなんだから息子は死んだんだ」みたいなことを言わせちゃったりすればいいのに。それと、友達ができるくだりですね。あれにしたって、「友達はいいなあ」みたいなことになりますけど、過去のないやつが自分の正体すらおぼつかない状態で、そんな風になりますかね。正体不明で自己同一性を保てずにいるということで行きたいのか、自殺をはかった小林少年で行きたいのか、そこがどうもねえ、「正体が小林少年だってことは後でばらす」という意識が働いているせいなのか、ちゃんと描けていないように思えるんです。

 相手の過去を知らないはずなのに妙に相手の過去を不快に感じる。自分の履歴がないはずなのに自分事として感じる。好意的に解釈すれば、彼の中にある無意識の記憶がそうさせたのだ、みたいなことは言える。でも、だったらそこは観客に先にばらしちゃっていいと思うんです。小林少年が自殺して、でも本人はそれを忘れて生まれ変わったような気分でいる、という構造のほうが、つまり観客を主人公に対して情報優位にしておいたほうが、彼の内面の動きの見通しが格段に良くなる。この映画では主人公の正体が不明ということに一応はなっているので、観客も主人公のことがわからない。わからないのに勝手なことをいろいろするし、演技もへたくそだから、彼に移入できない。
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 あとは、宇多丸さんが言うところの「テーマを台詞で言っちゃう問題」ですね。テーマを台詞で言うってのは、それが描き切れていないことを作り手が認めているに近いんじゃないか、という気がしてならない。いや、それをアクティブな会話で表現したり、互いに口論させて観客に考えさせる、とかそういう形式ならいいんですけど、あの美術室のシーンなんかで、「カラフルでいいんだよ」みたいなことを言わせるのはきつい。あの南明奈はあの後も、「そうだ! ひろかはカラフルなんだ! これからも援交してカラフルな洋服を買うんだ!」となりそうで心配です。彼女は金がほしいとやつれているようにも見えず、わりとノリノリでやっちゃってる感があります。それとも、本作はジュン・スチュアート・ミルの提唱した愚行権を大幅に認める、リベラリズム的思想を称揚するものなのでありましょうか。それとぼくは一人称を自分の名前で呼び、単語的に会話することで幼児性をアピールし、それをカワイイに繋げようとする連中がほぼ無条件に嫌いなのです。つまりこのひろかちゃんを好きになれなかったので、勝手にせえとしか思えなかったのであります。
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 人様のブログを参考にすると、本作は原作が98年出版で、援交も今とは違う状況下に置かれていたようです。エアマックス狩りもそうしたことなんでしょう。でも、うん、あの、ケータイを普通に持っているんですよ、友達のいない中学生の小林少年が。だからこれは2010年のものとしてやっぱり観るべきなんでしょう。だったら援交の話はもっと脚本の段階で練るべきでしょう。練る気もないなら、ちょっと別のもんに置き換えたりなんなりすべきでしょう。2010年になっても援交をしている少女たちに向けてのメッセージが「カラフルでいいんだ」かよ。まさしく新自由主義のゼロ年代を文化的にまで体現したような思想でありまして、これを退廃と呼ぶのは時代錯誤なのでございましょう。
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 人物造型が中途半端なわりに、風景を妙に写実的に描いているのもよくわからなかったところです。風景を写実すればするほど、人物の薄さが際だってくる。しかも役者の顔が見えてキャラとしての自立性が奪われた状態で、です。あの二子玉界隈をめぐるくだりは何なのでしょう。あれもね、記憶がないっていうところを何か活かすのかなと思ったんです。それもしない。というか、記憶がないという設定はあの場合、むしろ邪魔。
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 記憶があれば、自分はこの町で育ったのに、ぜんぜんこの町のことを知らなかったんだな、という話に持って行けて、そこから記憶の尊厳と事実性の話に持ち込めたのに、『オトナ帝国』の原監督ならそれができたはずなのに、この脚本ではそんなことをかすめさえしない。単に、友達っぽい少年との交流という部分に矮小化してしまう。
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「カラフルでいいんだ」「生きていればそれでいいんだ」的なメッセージを受けて感動するほど、もうぼくは無邪気じゃなくなっている。とすれば、この映画からぼくは何を学びましょう。日常の風景がカラフルに見えてくる、ような感覚も得られなかったし、役者のやりとりから何かを得るにもさすがにノイズが大きすぎた。ちょっと、ちょっと、ちょっと今回の作品はきつかったです。見いだそうとする行為をノイズにかき消され続けました。ぼくは有益なものを何も読み取れなかった。お気に入り作品でしたら申し訳ない。
 帰り道のコンビニでフライドチキンを食べて肉まんを分け合って、ああ、友達っていいものだなあ、と思えるような若さを持った人たちには、お薦めしましょう。そして、この映画を観て豊かな気持ちになれるとしたら、そのほうがきっといいのです。そのほうが健全なんでしょうきっと。ぼくは駄目でした。申し訳ありません。
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若者のうんぬんをごちゃ混ぜしすぎているように思います。
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小野さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 宇多丸さんがシネマハスラーで酷評していたので、それじゃあまあ観なくてもよいか、別の人の説得力ある論評も目にしないし、とスルーしておりました。

 やっぱり映画を二時間なら二時間かけて観るとなれば、そこから何かを導き出したいと思うわけでありまして、なんとかこの作品から得られる学びを、と考えているのですが、ぐうむ、ぐうむ。宇多丸さんの指摘はもうその通りなんですねえ。でも、だからそこはもう避けて通らないと、何も見えてこないかなあと思う。原作は読んでいないのですが、どれくらい異同があるのでしょう。
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 SF的な要素がある、戦闘機乗りの話です。主人公たちはキルドレと呼ばれており、年をとらない、つまり肉体的外傷のない限りは永遠に生きられる存在、という設定です。で、この世界では戦争がないらしく、しかし世の中の人は戦争を求めるのだ的なことが言われていて、主人公たちはいわば戦争ショーみたいな感じで、戦闘機に乗るのです。じゃあ死なないのかと言えばそうではなくて、撃墜されると死ぬのです。
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 監督は現代の閉塞的な感覚を抱いた若者へうんぬん、ということを意図していたらしいのですが、ぼくはそこはもう、自分に引きつけるのは無理です。自意識におぼれるような時代は終えてしまったし、思春期的な悩みにはかわいげとうっとうしさしか感じません。いや、もちろん違う映画だったらそこはそれで感じるものもあるだろうけど、この映画から若者のなんちゃらを言われても無理です。学生さんに任せます。
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 ただ、そういう意味で言うと、菊地凛子の声は弁護できます。菊地凛子の声がね、若い戦闘機乗りの上司みたいなあのキャラクターには合っていなくて、彼女がしゃべり出すたびにぼくは笑ってしまって、なんか『花子さんがきた』の花子さんみたいだな、少なくともあの寒色系のキャラと彼女の声はミスマッチだな、と思っていたけど、なるほどわかった。結局、このキャラには自意識化膿系女子学生みたいなところがたぶんにあるわけで、だとすると菊地凛子のべたっとした声も合っている。この菊地凛子の声と台詞は、ぼくにうざさを感じさせてやまない自意識化膿系の女っぽいのですね。
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若者うんぬんはどうでもいいとして、得意な設定が何を表したがっているのか、そこからどんな実りが得られるのかを考えてみたいわけですけれども、ひとつには「戦争のない世界」という設定ですね。なるほどこれを、今の日本社会に重ね合わせようとそういうことなのでしょう、ふむ。そして、「キルドレ」ですが、この設定が微妙なのは、「平穏に暮らしていれば永遠に死なない」、それでいて「戦争ショーの前線にいるので明日にも死ぬかもしれない」という引き裂かれたようなものであるからです。そういう存在を仮想することがぼくにはうまくできないので、ここが困ったところです。なおかつ、中盤であるキャラクターが、自分は自分の過去の記憶に自信がないのだうんぬんと言い出して、あれ、ちょっとまた違う部分の話持ってきたなあ、記憶がどうたらって言われ出すとまたややこしいことになるぞ、と思わずにはいられず、大変困りますね。ちょっとクローンみたいな方向に行っちゃってる。そんなさっぱり意味のわからない存在がまさか「現代の若者」であるわけもないし、いや、というかもうこの時点で、監督には若者像みたいなもんがきちっとできあがっていないんじゃないか、なんか訳のわからない存在に見えてしまっているんじゃないか、と思えてしまうのです。これを見て、「おおう、このキルドレたちはまさしく俺のことだ、私のことだ」と思う若者がいるのでしょうか。どんなやつやねん、と思うのです。ちょっと抽象度を上げすぎているんじゃないかなあと思うんです。若者へのメッセージがどうたらっていうならわかりやすくすればいいのに、ちょっと抽象的、あるいはメタフォリカルすぎる。

 と、ここまでが素直な意見。で、最大限弁護するモードに入って書くなら、この映画は「繰り返される日常の憂鬱」に対する言及なんですね。戦争のない世界で戦争に荷担し続ける無意味な繰り返し、自分の存在が固有性を欠いたまま、また別のもので代替されてしまう憂鬱と、その繰り返し構造がもたらす憂鬱。そして「死なない」と「すぐ死ぬ」の狭間で、代替可能で固有性のない自分を抱えたまま生きることで、生と死が不分明なままで生きることの憂鬱。ラストの主人公のモノローグもそこに関連する。そうしたものがあるからこそ、主人公はラスト、その繰り返しの大きな象徴であるところの敵のエース機を打ち倒そうとする。それは日常の繰り返しからの大きな離脱行為であり、そこには固有性を獲得せんとするオリジナルな営みがあり、それは繰り返しを強いるようなシステムへの反逆でもある。本来システムへの反逆はもっと違う方法をとるべきであろうけれども、ぼくたちは小さく、個人でシステムに対抗することは困難、であるがゆえに、せめてその象徴たりうるものを見つめ、そこにぶつかろうとすることは諦めてはならないのであります。
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 なーんてことは書けるんですが、この映画は自意識と戦争と生と死、なんてところまで射程を広げすぎているがために、相当混濁したものになってしまっている。

 いや、ああ、うん、でも、いいのかな、これはこれで。
 思春期の頃の悩みってのは、そういうものが混濁しているものですからね。ろくに知識もないのに戦争だの社会だのについて考えるし、だから変に単純化してしまったりするし、しかし一方では自意識の問題、自分はいったい何者なんだってことを悩んだりするし、で、だけどその辺にはどうとも折り合いがつけきれずに、もやーんとするもんだし。下手に鮮明であるよりも、若者は自分でも整理できぬような混沌とした思いを抱えているのだ、この映画の構造自体が若者の悩みの構造のメタファたりえているのだ、とか言えるんですかね。知らないけど。でも、この映画はそんな混沌とした悩みを持つ若者が見ても、意味がわからないんじゃないでしょうか。あるいはもやっとした自意識の一つを補強するか。

 すっごい歩み寄らないと学びの種が得られないです、ぼくの場合は。この映画がちょっとだけ言ったことを、「そうそうそう」と言って引き継いで、こっちが膨らませてあげる必要があるという印象です。ただ、これはもう2012年には通じないんじゃないですかねえ。2000年代前半あるいは1990年代後半ならまだ理解が得られたかもしれないけど、ちょっともう今の時代のものではない感じがします。10年後、20年後に「00年代後半までに日本に充ち満ちていた空気を代弁している」的なことを誰かが言い出しそうな作品で、「いや、こんなんじゃないけど」と言いたくなる作品じゃないでしょうか。
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 日常にもやっと感を抱くのはぼくだってそりゃああるけれど、ちょっともはや共感できない類のもの。学生さんにお薦めしておきます。
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有名な傑作ですから、語ることがありません。未見の人は読まないように。
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bang_x3よりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


 原題『Witness for the Prosecution』
「アガサ・クリスティー原作、ビリー・ワイルダー監督の傑作法廷ミステリー」というその一文だけでもうこの映画は済ませてもいいような気もするのですが、そうもいかぬので書き散らしていきましょう、知る人ぞ知る名画、『情婦』です。
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 オチが有名な映画というと、たとえば「ここは地球だったのか!」であるとか、「実はあの人が幽霊だったのか!」とかが最も有名なところで、個人的に好きなのは「真ん中の死体が犯人だったなんて!」とか「すべては過去の映像だったのか!」あたりですが(さて、何の映画でしょう)、本作もそこはまったく引けを取らないですね。だから、難しいですね、これを語れというのはどうも、うーん、やっぱりまだ観ていない人には多少気を遣いたいんですけどねえ、いや、でも、リクエストいただいたbang_x3さんはご覧になっているのでしょうし、もうばらしていきますね。観ていない人は読まない方がいいです。本作に関してはそういう風に言っておきます。はい、もう、ぼくは知らない。すぐ下の行で結末を書きますよ。細かい流れとかもあまりちゃんと書かないから、観てからじゃないと何を話しているのかわからないですよ。



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 簡単に言うと、「おまえ、やってたんかい!」ですね。
これは実にいい線をついています。法廷ものではもうこれ以上簡潔なオチをつけることはできないでしょう。ミステリーのフーダニットものだと、よくあるのが「善意の案内人が実は犯人」とか「探偵の依頼人が実は犯人」とか「信じていた人物が犯人」とか「犯人はヤス」とかがあるわけですけど(あれ?)、本作はその王道をばちっと決めている一方で、観る者の意識をそこには向けない、という惚れ惚れするテクニックでかわしてくるわけです。
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 原作を未読なので映画の話になるわけですが、映画では弁護士のチャールズ・ロートンが主な視点を担うので、観客は無意識に彼を応援するわけです。なんとか依頼人の無実をはらしてやりたいと思う弁護士に移入し、どうやって裁判に勝つか、という目線になってしまう。アル中という設定で、真面目ばりばりでもない太っちょですから、自然と愛らしいキャラクターとして受け入れてしまい、それが自然と、タイロン・パワーを信じることにもなってしまう。持って行き方が大変に巧い。
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物語の常道の逆を行く、というのも大きいですね。やっているはずがない、と自然に思ってしまうし、またそう思いたいという観客の心理がある。タイロン・パワーはそこを二重で破ってくるわけですね。「本当はやってたのか」「そうなんだよ、この妻と組んで、一芝居打ったってわけさ」「愛する夫のためですもの」からの、「でもさ、俺、おまえのこともだましてるんだよね」「えっ!」です。勝つのが到底無理だろうというところからひっくり返して、それがさらにさらに、ですから、気持ちのいいこと請け合いです。
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 今の時代ではもう通用しないような話なのでしょうが、くどくどしいこともなく、観客の興味をずっと持続させ、裁判も二転三転する。これはもうぼくがこれ以上褒める必要がないです。あまり書くことがないと言ってもいいでしょう。どうしようかな。逆にこの映画の悪いところを考えてみても、なんかどうでもいいようなことしか思いつかないし。
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 みんながいいと言っている映画なので、もうぼくは言うことがないんですね。評価の分かれる作品ならやりようもあるし、メッセージのある作品ならそこを読み取ろうと思うのですがそこを突くタイプでもなさそうだし、法律うんぬんについてはまるきり門外漢だし。言うなれば、「評するまでもない。傑作だ」というところです。bang_x3さん、ぼくはいったい何を語ればいいのでしょうかっ(訊いちゃったよおい)。
 はい、普通にお薦めいたしまする。
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表面的な怖さはあるけれど、内面を揺らせる怖さは何もなかったです。
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軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『The Girl Next Door』
 1950年代に実際にあった事件をもとに、ジャック・ケッチャムが原作を書いており、その映画化であります。長い原作を90分に収めるとこんな感じになってしまうのだなあ、というもんがあります。

 隣の家の少女が虐待を受けている、という少年の目線からの話なんですが、前半は不穏感が漂い、母親の強権的な感じ悪さもよく、なかなかよいのではないか、と思ったのですが、ちょっとしょぼしょぼん、としてしまったように思います。
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 隣の家の少女には妹もいて、二人して縁戚から引き取られたような立場で、もともとの家の男子たちや母親からはどうも疎まれている、あるいは男子たちには性の対象に見えてしまう、というところの危うさもあるわけですけれども、描写それ自体で言うと、どうも各人の内面が軽んじられている節が強く、わるもんはわるもんにしか見えず、それじゃあちょっと単純じゃないか、という風に思いました。
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 思春期の男子が抱える危うさ、というのはこの映画でもっと描かれるべきだと思うんですが、それがないんですね。もったいない。そして、虐待に荷担している子供らの逡巡みたいなもんもほとんどない。この映画の構造は簡単で、要はあの母親の怖さに頼っているんです。母親の嫌な感じは確かによく出ていました。でも、深みはない。母親はこれじゃあ単に嫌な奴です。いや、この母親はこの母親で何か辛い過去があって、それでああやって歪んでしまったのだな、とは思うし、ぼくはそこでなんとかあの母親の弁護士になりたいわけですが、これじゃあ彼女の抱えるもんがわからない。嫌な感じは絶品! うん、それはわかった。問題はその奥でしょうということです。そこを観たいのに、何もないんです。野村芳太郎の『鬼畜』を観ましょう。
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 この母親と子どもたちには別々の動機がある。子どもたちは劇中、エロ本を見たり覗こうとしてみたり、体を触りたがったりするわけで、その辺の行為それ自体は描かれる。ただ、それが記号的な行為に過ぎなくなっている。至極残念です。男子たちが寝室に集っているシーンで、「女性の裸体を初めて見た」という話をする。だったら、なぜその瞬間の怖じ気と興奮を描かない? 彼らの表情や目線に間を割かない? そこを描くことで、思春期の彼らが抱えるより危ないもんがあぶりだされたはずなのに。
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 虐待描写の嫌さ、というのは、一個の映画としては十分成立しているものだったと思います。だから、この虐待描写は本当に陰惨たるもんだ、と思う人がいてもおかしくはない。でも、こういう表現は今の時代、本当に難しいと思います。なにしろ、ぼくたちは既に、ネットなどを通していろいろなものを見て、いろいろなものを知っている。実際の凄惨な事件から想像する怖さ、実際の虐待事件の画像から想像する怖さ、そういうものを知っていると、この映画の虐待描写を褒めることはできません。こんなもんじゃねえだろ、と思わされる実際の出来事は、既に世の中に溢れている。それを忘れてこの映画の虐待描写に怯えるほど、もう若くはないのです。
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 で、主人公の少年にしても、この映画の描き方だと、「早く警察に行って匿名の通報をしろ」と言いたくなってしまう。警察に言いたいけど言えない、両親に言いたいけど言えない、そういう要素がないんです。その辺の逡巡が描かれていない。父親と話すときでもそぶりを見せず、「暴力は駄目だぞ」みたいなことを言われてそれきりの始末。
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 この映画はもっとここをこうすれば、というのがわりと多くあります。そしてそこを膨らませることで(あるいは変えることで)、もっと実りあるものになる。そこから読み取れるものもきっとある。でも、それらを捨象してしまっているがために、単に胸くその悪いものになっています。じゃあちゃんと胸くそ悪いならそれはそれでいいのに、そうでもない。この映画で何を映したかったの? 何を語りたかったの? と素朴に疑問です。表面的な怖さはある。だけど、内面を揺らせるような怖さは何一つ感じられなかった。うーん、これは本当、描写の問題です。90分しかないからしょうがない、という風には言えるんですけど、もっと長くていいから、もっと各種の描写を掘り下げてほしい、と思わずにはいられない作品でございました。 
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格好いいのはわかった。それで、何なのでしょう?
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ロキタさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 今年には2もつくられるとのことですが、もともとアメコミにはてんで関心のないぼくとしてはスルーだった本作です。うーん、これはちょっと困りました。

 ぼくはこのブログを続ける中で、自分の映画の見方が確実に変わってきているなというのを感じております。最近はそれがやや極端にもなっていて、要するに「娯楽的に面白いかどうかは、二の次」ということです。極言すれば、娯楽的に面白いかどうかなどどうでもいい。いや、さすがにそれは言い過ぎかとも思うのですが、ぼくにとっていい映画とはつまり、語りがいのある映画、語ることで見えてくるものがありそうな映画、ということなのです。だって、娯楽作品として面白いかどうかなんて、結局個人の感じ方ですからね。説得してどうなるもんでもないし、そこを語ることの意味があまり見えなくなった。そういうのは、他の皆さんにお任せしたいというのが正直なところです。などと言いつつ、かわいらしい女優などが出てきたらどうせきゃっきゃ言うのですけれども。
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 さて、『シン・シティ』ですが、アメコミ原作で、モノクロの中にパートカラーをふんだんに配合しているのが画的な特徴です。これなあ、これはもう好みの問題だろうからなあ。これこれこういう理由で駄目なのだ、とかそういうことでもないんですねえ。
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 メイキングやインタビューなどを観ると、監督のロドリゲスやタランティーノが、「この画は最高にクールだぜ!」みたいな感じで喋っているのであり、まあアメコミの雰囲気を保持する上ではパートカラーとモノクロの多用によって奥行きをあえて欠落させ、人物をマテリアルに際だたせるというのは効果的な手法であろうとは思うのでして、それが「なるほど超クールだぜ!」と思う人には何の文句もないのですけれど、そのクールでヴィヴィッドな表現ゆえに薄さが際だち、あれだけの技巧を凝らしながらも黒澤明が『天国と地獄』で見せた一瞬のパートカラーの鮮やかさ、強さには及ばぬとも思うのであって、結局のところは「お好きな人はどうぞ」というくらいしか言うことがないのです。
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 映像で冒険したり、いろんな表現を試みるのはどんどんやってほしいと思います。そういう中からびっくりするようなもんが生まれてくるのだろうし、その意味でこの映画はがんがん攻めているとは思うので、本当、お好きな人はどうぞ、です。
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 ぼくには合わないな、というのが、ラストの一場面に凝縮されています。
 ブルース・ウィリスが自殺するんですけど、そのワンカットを、なんというのですかね、シルエット風というか、モノトーンの切り絵みたいな感じで表すんです。ああ、これだなとぼくは思いました。結局この映画では、ブルース・ウィリスが生きようが死のうが、ジェシカ・アルバを救おうがどうなろうが二の次なんです。スタイリッシュなビジュアルとして見せるのが最初にあって、その中にいる人々がどうなろうが映画をスタイリッシュかつクールに見せるためのコマに過ぎない。ぼくはそういうものに興味がない。
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 いや、簡単に言うと、趣味の合わないファッションをずーっと薦められている感じなんです。このシャツ超いけてるよね、このジャケットマジ格好いいよね、てかこの靴とかマジやばくね? とずーっと言われているけど、いやあ、趣味が合わないなあ、としか思えない感じ。で、外見が格好いいのはわかったけど、そろそろ実のある話しない? と言いたくなるんですが、え? でもほら、俺むずかしー話とかちょー苦手な人じゃん? てか踊ってたほうが楽しくね? あ、あの娘ちょー胸でかくね? え、マジいい女じゃね? 普通に。みたいな。うわあ、ノリが合わねえ、という。
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 だから、ノリがあった人はそれでいいんじゃないでしょうか。それとも、この映画だからこそ、あの表現だからこそ語れるものが何かあったのか。ぼくの読解力ではそこが見て取れなかった。その意味では惨敗。監督が三人いて、アメコミ原作のオムニバスで、画のクールさに力入れて、で、何が語られたのか? ぼくにはわからなかったんです。教えてください。この映画については、本当に何もわからなかった。あの色にもきっと意味があるのでしょう。それが見えない。いや、意味なんかなくて、単に格好いい色だからとか言うんだったら、もう本当にどうでもいい。ぼくの知識ではあの色をあのように配置した意味がわからない。
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 どうも、馬が合わない作品でございました。どうも申し訳ありません。
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個人的にはさほど、とはいうものの、ぼくより年長者の世代にはもっと感じ入るものがあるのかも。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 中国映画です。リクエスト作品は本当にいろんな国に分かれていて、それだけでも面白い現象であるなあと思います。今回までに取り上げたのはイタリア、フランス(合作でベルギー)、オーストリア、香港、日本、アメリカ、そしてまだイギリス、韓国が控えており、アニメ映画もぽつぽつ入っている。皆様のご厚意によってか偶然かわかりませんが、おかげさまで万国の風土に触れられるのでございます。

 さて、ロウ・イエという監督のことは知りませんでしたが、天安門事件を扱った映画を過去に撮っており、そのために中国本土での映画撮影を禁じられているそうです。南京を舞台としているのですが、今回の映画もゲリラ撮影の場面が数多いとのことであります。

しかしまあ一見してみて、なかなかに何を言うたらええんのかいのうと頭を悩ます作品でもございました。ふうむ、先に言っておくと、ぼくにはよくわかりませんでした。しかし、なんとかして美点を見いださんとするのが現在の当ブログの方針でありますので、書きながら見つけられたらいいなあと思いつつ、踏み込んで参りましょう。

 「愛」「自由」というものが本作では重要な要素であるらしく、登場人物たちはまさしく奔放に愛を交わしていくのであります。その主軸となりますのが同性愛。しかも結婚している男が別の男と逢瀬を重ね、その男がまた別の男と体を重ね、なおかつその男は別の女性ともチュウをしているなどとあって、なんかぐちゃぐちゃであるなあ、という状況なのです。
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 ぼく一人の感想ではなかなかむずい、ということでネット上をサーフすると、宮台真司先生がヒントをくれます。いわく「『スプリングフィーバー』、つまり『春の嵐』というタイトルが示すとおり、今の南京だからこそできる、というものに充ち満ちている。」「日本も'96年くらいまでは微熱感が街中に満ちていて、それがいろんなことを可能にしていた」とのこと。この辺から考えていきたいと思います。
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 今、2012年という位置から過去を振り返ったときに、90年代なら90年代の、80年代なら80年代の野蛮さ、放埒さというものが実にうらやましく感じられることが多々あります。ぼくも多少の分別がつくくらいには大人になって、ゆえに過去の時代に目をやることも多くなった。そうしたとき、80年代や90年代の日本が持っていたその時代特有の輝きというものが、猛烈に眩しく思える瞬間がある。その時代、ぼくはまだ子どもだった。だから自分の青春を振り返って、体感的な懐かしさを覚えているのではない。当時の東京などぼくは知らないし、ただブラウン管越しにぼんやりとその遠景を眺めるばかりだった。でも、当時の映像が焼き付いている。そしてその野蛮さに、憧れを覚えるのです。
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 そうした視点でこの映画をもう一度眺めると、なるほどこの映画からは今の日本とは明らかに異質なものが見えてくる。だからこの映画を登場人物たちの関係性それ自体だけで観ると見方がやせ細ってしまう。この映画が今の中国という場所を舞台にしているのも大事です。日本の高度経済成長期並みのGDP成長率を背景にしつつ、いまだ性的表現含めた各種の検閲を強く敷かれている不思議の国、中国。そんな中にあって、何をどのように生きていけばいいのかわからぬまま生きている連中の姿は、日本のそれとは似て非なるものです。あれは現在の日本映画の風景では撮れない。絶対、もっと乾いてしまう。そのくせ絶対、もっと湿っぽくなる。
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 印象的だったのは、登場する女性の一人が、コピー製品の工場で働いているところですね。工場長は明らかに彼女をものにしたがっているのですが、そんな折りに警察当局の手入れがあって、大騒ぎになってしまう。こういう場面を今の日本映画で観られることなど、まずあり得はしない。
 中国という国が先進国基準の著作権法観念を無視し、好き勝手に海賊製品を流通させているという実態は、確かにぼくたち日本人から見れば問題が多い。しかし、ぼくは以前から、そこにある野蛮なエネルギーを思ってやみません。思えば20世紀の日本にもそんな類の製品は流通していた。どこのおっさんが歌っているのかわからないウルトラマンの曲のカセットがあったし、何のヒーローだかわからないソフビ人形があったし、縁日では「特殊なえさで育てた」というカラーひよこがいて、中に一万円札が入っているけれど絶対に釣れない重さになっている水風船があって、「騙したもんがちじゃい」と言い切る粗暴さがあったし、騙されたほうも騙されたほうで「ちきしょう、一杯食わされたぜ」と笑える鷹揚さがあった。
 注意してほしいのですが、中国が行っているような不正コピー流通を肯定しているのではありません。しかし、真っ向から否定する気にもなれない。そこには確かに、未成熟な社会だけが放つ粗野な魅力がある。清濁併せのんで、生き馬の目を抜いて、しかしお上にばれたら何もかもおじゃんというような中に生きる人々。
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 そんな風景の最中にあって、しかし性的にはマイノリティで、なおかつそんなマイノリティたちに振り回される女がいて、どうしたらいいかわからなくて、というその生き様には、成熟した日本からは既に失われたように思える濃密さが見て取れる。
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 と、そんなことが言えるんじゃないでしょうかね、うむうむ。
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 などと言いつつも、じゃあおまえはそれをしかと受け止めたのかよおまえ、と言われたらまあそこはどうもぼんやりとしていて、けだるさが色濃く出ているなあと感じてしまうところも多々あり、なんならもっといききったったらええのに、と思うところもないではなかったですね。以前、別の方に紹介してもらった崔洋一監督の『犬、走る』という映画があって、そのときはぴんと来ないところもあったのですが、今思うにあの映画における日本の風景や岸谷五朗の粗暴さは、90年代的な、アジア的な熱気を体現するものであったなあと思います(『月はどっちに出ている』にも言えます)。
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 この映画を「愛」という視点で見ると、どうもぼくにはうまく見えてこない。また、「自由」というのとも違っている。そしてなおかつ、アジア的な熱気に充ち満ちているというのも違う。その意味で、宮台先生言うところの、「自分がこのタイトルを訳すとしたら、『微熱感』とするだろう」というのは腑に落ちる。韓国映画もそうですが、アジアの映画には今の日本映画では表しようのない風景に遭遇することがあります。戦後の時代に思いを馳せ、自分の中でおぼろげに映える過去の野蛮さを思い起こしながらこの映画を観ると、また違うのではないでしょうか。その意味では、実はこの映画は、若者にはあまりぴんと来ない。ぼくも実はそれほどぴんと来ていない。おっさん、おばさんが観ると、もっと深く共感できるものがあるんじゃないでしょうか。
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 まあ、そんなところであります。
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わかろうとすることを諦めずに、しかしわかった気にはならぬように。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 リクエストいただいたものは、自分でレンタルしようとは思わなかったであろう作品が多く、大変刺激になります。自分では幅を取って選んでいるつもりでも、やはり無意識に似たようなものを選んだりしてしまうわけで、名前も知らなかったような作品を観られるのは実にありがたいことであります。ゴールデン・ウィークが終わり、今までより若干ペースが落ちてしまうであろうことをお許し願いたいのですが、今後も残りのリクエスト作を取り上げていくのであります。

 本ブログは旧作がメインでありますが、皆様もまた、ほう、そのような映画があるのか、と思ってもらえば幸いでございます。あるいは、観なくてもいいかと思っていたがそんなに言うなら観てやろう、と思われるのも嬉しいことでございます。映画情報と言うと雑誌などはもとより、ツイッターのTLももっぱら新作のことに溢れているのでありましょうから、ぼくは皆様の助言を受けつつ、古い傑作を掘り起こしてゆければと思うのであります。

 さて、『切腹』です。昨年に三池崇史監督によりリメイクされたようですが、例によって観ておりません。三池監督と言えば『十三人の刺客』のリメイクが傑作として記憶に新しいのですが、『切腹』のリメイクは果たしてもとの作品を超えられたのでありましょうか。いやはや、これを超えるのはなかなかに難しいのではと思わされる、すごい作品でありました。主演の仲代達也は生涯の出演作で一番好きだと答えているらしく、ウィキによると小林監督も「自作のうちで最も密度が高い」とおっしゃったそうです。

 仲代達也演ずる浪人が、井伊家の江戸屋敷を訪ねるところから始まります。彼は仕官していた御家が取りつぶしになり、ろくに職にも就けぬので、生き恥晒すよりいっそ武士として潔く切腹したい、しかし武士としての誇りを守りたいし、その辺の名もなき場所で死ぬのも情けないものがあるから、なにとぞ御当家の敷地を貸してほしい、とこんなことを言い出します。
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 しかし三國連太郎演ずる家老は、「死ぬ気もないのにそんなことを言って、こっちの同情を買うとかして、金をもらおうとか思ってるやつが結構いるんだよね」というようなことを言い、「そういえばこの前も、そんな風なやつがいたんだよね」と、仲代より前に屋敷に来た、一人の若者の話を始めます。このように、「切腹志願」にやってくる武士というのが、実際の歴史の中でも多発していたそうです。さて、仲代はいかなる思いを持って、この屋敷にやってきたのでありましょうか。
 
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 本作の特徴として、展開がどうなるのか読めぬところの面白み、というのが強うございます。ゆえに、未見の方は読む前に観ていただくことを、推奨するものでございます。ここからは観た人向けに語りますね。リクエスト作ということもありますしね。
 
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 ここの語り方は抜群にうまい、というか、ぼくは作り手の術中にもろにはまりました。
 もうぼくはこの時点で持って行かれていたのです。くわあ。
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仲代が凛としたたたずまいで座し、三國は「よからんやつが多いのよ」と話す。そして、彼の話に登場する石浜明がいるわけですが、ここでぼくは笑ってしまったのです。というのも、ぼくは石浜明演ずる若者=「金目当ての不届きもん」という三國の誘導にまんまと乗せられていたために、石浜が無思慮な道化者のように思え、毅然とした屋敷の武士たちとの態度の落差、あるいは仲代との落差が滑稽で間抜けに思え、彼が腹を切るに至るまでの間、「うわあ、やっちゃったなあこいつはぁ」と、軽々しい気持ちで観ておったのです。「やくざをなめてた若者」みたいに捉えておったのです。そこから、見事にひっくり返されました。おまえこそ思慮が狭い! と仲代達也にしかりつけられた思いであり、はっとしたのでありました。
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 仲代が「介錯は誰それにお願いしたい」と言って、あれ? その人いないの? おかしいねえ、となっていく様などは、ミステリ的快楽もあるのですね。そして三國が怒って「やってしまえ!」となって一触即発、それに対して「まあ待て! 話を聞きやがれ!」と仲代。ふうと落ち着いて話し出して回想。緊張と緩和のつくりとしても実に美しい。白州の上で切腹刀を前にして話すこの状況それ自体が緊迫的でもあり、構図、構成がすばらしい。

で、仲代と石浜の過去が語り出されるわけじゃないですか。くわあ、そんな事情があったのか、と思わずにはおられなかったです。ぼくは序盤で、石浜を軽んじて笑っていた。だからこそ、彼の背景を知ったときに、もうこの話をどうしたって見届けずにはおれぬという気持ちになったわけです。
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 語りとして非常に秀逸だと思うのは、石浜が切腹したくないと言い出したとき、「一両日待ってくれ、必ず戻ってくるから待ってくれ」と言うところ。あれを観たときぼくは、「びびってしまったのだな。そして戻ってくると言いつつも戻ってこないという魂胆なのだな。なんだか情けなくて可笑しい姿であるな」と、井伊家目線を共有してしまっていた。ところが、仲代はそこを喝破する。「武士が一両日待ってくれと言うからには、何かよほどの理由があってのことだろう、それをくみ取ってやろうともしないとは!」と。
 もうひとつありますね。あの竹光のところです。あれを観てぼくは「端から死ぬ気のないような、半端ものの武士なのだな」と思ってしまった。しかし、実際はぜんぜん違っていた。この伏線と種明かしはミステリ的である一方、普通のミステリでもなかなかお目にかかれない、実に哀しくも含蓄のあるものでありました。
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 本作は、うかつにも井伊家目線に立って観ていた者を、殴りつけてくる。こうした映画は最近いくつも観ていて、要は「人にはそれぞれ事情があるんだ」ということで、ぼくはそういう学びを得ていたはずなのに、まんまと井伊家目線に立っていた。ああ、もう、本当にぼくは粗忽者であります。仲代の話だと思い込むあまりに、石浜のことをちゃんと考えていなかったのです。
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 ぼくたちは何かにつけて人の人生を評して、ああすればいいのに、こうすればよかったのに、普通に考えたらそんなことあり得ない、普通の感覚ならこうするはずだ、みたいなことを言うけれど、それはやっぱ、遠くから観ている無責任な立場なんですね。この映画では仲代と三國の重々しくも白熱するやりとりが交わされるけれど、仲代の言葉がもう、本当に突き刺さってくる。ぼくたちはついつい、わかった気になる。いや、それを言い出せば今この瞬間のぼくとて同じこと。しかし、「わかった気になってんじゃねえよ」という心得は、常に誰しもに必要なものであろうと、感じ入るのであります。多くのメディアはぼくたちをわかった気にさせる。そして日常の中においてもまた、何かをわかったようにして振る舞う。そのほうが楽だからです。でも、わかってはいないのでしょう。ぼくがわかっている「本当のこと」など、果たして十指に及ぶのでしょうか? そういう風に、認識をぐらつかせます。
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そして本作では、潔く誇り高い武士像というものにも強い疑いを投げかけます。こういうことは歴史上、おそらくものすごくたくさんあったんでしょうね。今、偉人だとされているような人だったり偉業とされる出来事であったりしても、本当のところどうなのかわからない。美談とされる出来事もまた、嘘で塗り固められているのかもしれない。特に昔などは、武家が発表したらもうそれは事実として記録されてしまうわけだから、時が過ぎれば歴史の中に消えていくばかりで、「本当のこと」に触れることは永久にできない。
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 むろん、本当のことがわからないと言って、何も決められないというのでは歴史も社会も関係も成り立たない。ぼくたちはとりあえずひとつひとつのことに対して、「それが本当のことだ」という認識の印鑑を押すしかない。でも、その多くは結局、「そういうことにする」という認識上の処理にしか過ぎない。そしていつしか、「認識の印鑑」それ自体は誤謬のないものだと思い込む。数々の誤謬に晒されながらも、愚鈍にも。そして気づけば「客観的」などと言いつのる。
 であるとするならばぼくたちが取るべき認識の作法は、「わかろうとすることを諦めずに、しかしわかった気にはならない」という、とても不安定なものなのでありましょう。
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『切腹』は物語的な面においても、そこで語られることの語られ方においても、すばらしい作品であると思います。
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映画について語るよりも、映画から考えたくなることをだらだら。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


『攻殻機動隊』の映像作品には押井守監督の劇場版二作と、神山健治監督のテレビシリーズがあるんですが、どちらも必見であります。ぼくはテレビシリーズのほうが好きだ、という話は既に過去にしていまして、『攻殻機動隊』の記事を書いたりもしましたが、いかんせんこの『イノセンス』についてはめちゃしんどいなあと思い、スルーしておりました。

 最近の日本アニメのすごさを示す作品を挙げよ、と言われたらぼくは『千と千尋の神隠し』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破』、そしてこの『イノセンス』の三つをとりあえず挙げます。映像のすごさということでいうなら、この三つは群を抜いている感じがします。その中でも『イノセンス』はちょっと異質というか、どこまで凝るねん、というくらいに凝っていますね。これはもう観ていただくよりほかにありません。
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 本作は人形をモチーフに、人間と身体についてのお話をかましてきます。難しい話は苦手だ、という人は避けておくのが吉でしょう。映像はすごさばりばり、かつ哲学的議論ばりばり。しかもそこにSF的要素がばりばり噛んでくる。『GHOST IN THE SHELL』の続編に当たるので内容的にもハイコンテキストだし、いちげんさんへの親切さには実に乏しいとも言えます。映画について問題点を挙げるとするなら、多くの引用からなる台詞が、ストーリーから浮き上がっているところじゃないかと思います。目を盗んだり義体技術が用いられたり、攻殻機動隊的ギミックが今回も見受けられ、哲学的な問いをいくつも投げはするものの、その投げた問いに呼応するだけのストーリー的強度は乏しい。そんな風に感じたのであります。

 内容について語るのは、うーん、しんどい。
 この映画で引っかかる問いかけはといえば、
「なぜ人は自分の似姿であるところの人形をつくるのか?」
「人間と機械の違いは自明なのか?」
「人はどのようにして自分のリアリティを保ちうるのか?」
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 映画について語るとき、映画から離れてしまうのが最近のぼくのクセですが、今回も離れてしまいます。しかし、この映画について真剣に考えるとなると、映画内だけで語ることは、ぼくには難しいのであります。
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 日常の話をしましょう。たとえばぼくは「適当な雑談」をするのがすごく苦手です。いちいち困ってしまうのです。ある発言に対して、どう切り返すのが適切か、いちいち考える。そして単純なイエス・ノーに終わらぬよう言葉を添えて、毒味を抜いたユーモアなるものを少しだけ配合して、できるだけ愛想よく笑顔を浮かべて、相手の発言から次の枝を導けるようにヒントをくりぬいて、興味もないのにその話題を振って、できるだけ自分の話や主張を抑制して、その末に思い浮かぶ適当な候補を発話に繋げる。実に大変なのです。

 そんなとき、ぼくはいつも戸惑う。ぼくは自分自身の思想に基づいて喋っているのではなく、今までに得てきた記憶の中から、無害なものを選び取り、それを音声言語に加工しているだけではないのか。ぼくの口から出る言葉は著作権の切れた体のいい典型に過ぎず、それはぼくによって生み出されたものではあり得ず、ぼくはこの喉を通して、無難で廉価でウェルメイドな鋳型からできた借り物の言葉を、ただ流動させているだけなのではないか。ぼくは規定のプロトコルにしがみついているだけの、オリジナリティなど欠片さえもありはしない、日本的空気の規格品を演じようとしているのではないか。

長々とさも高邁そうなことを述べて恐縮でございますが、要するにぼくは日常の中で、自分が「当たり障りのない会話をする機械」のように思えてしまう瞬間に、たびたび遭遇するのであります。いつか、自分よりも当たり障りのない会話ができる人工知能ができるのではないかとさえ思います。ぼくには、人間と機械の違いが自明であると、思いがたいのであります。
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 自分の言葉がオリジナルなものではない、というのは、この映画において重要です。この映画のトグサやバトーらは、電脳によって脳内にコンピュータ検索機能があり、ネット空間から言葉を拾ってくることができる。その言葉で会話をしている。そして周りにある言葉の多くはその人自身から発せられたものというより、単に組織の一部としての命令や役割的言辞の数々に過ぎない。だとするなら、ぼくたちの言動の多くが文脈に依拠して発されるものだとするなら、ぼくたちは機械とどんな違いがあるのか?
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 人間とは何か、という問いが難しく思え、機械とは何かという問いは簡単に思える。では、あらためて問う。機械とは何か? 広辞苑によれば「①しかけのある器具。からくり。②外力に抵抗しうる物体の結合からなり、一定の相対運動をなし、外部から与えられたエネルギーを有用な仕事に変形するもの」とあります。さて、特に②について、人間と何が違うのか? 映画の中でも物語られるように、人間の構造を科学的に分解していけば、機械となんら変わらないという事実に至ってしまう。その組成物が金属か蛋白質か程度の違いでしかない。行動のランダムさ、デタラメさにも結局のところ選択肢の限界があり、物理的限界もある。ゆえにランダムに数字を並べる機械と、本質的違いはない。その性能的違いがあるに過ぎない。
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 しかし、まだ人間には重要な砦がある。それは心です。しかし、心の実在が証明されたことなどいまだかつてない。ぼくもあなたも原理的に、永久に、他人に心があることを証明することはできない。それはつまり、たとえば「私には心があります」と明言する機械に対して、それを否定する術をぼくたちは持たないということです。その機械が「自分には心がある」と言い出したとします。そして殺人事件の報道を見て「哀しいですね」と言ったり、こちらが外に出かけようとしたとき「自分も行きたい」と言ったりしたなら、そこに心が不在だと言うことはできるのでしょうか。何故に? 生物ではないから? じゃあ生物とは何? 人間とは何? 脳とは何? ただの蛋白質や脂質やの集積と、そこに流れている電気信号の連続でしかないのではないか?

もちろん、ぼくたちはさしあたりそのようなことに悩む必要なく人生を過ごすことができる。しかし、それもまたたかだかひとつの時代のひとつの文化なるものに守られただけの、脆弱な価値観によるものでしかないのではないか。そしてぼくたちはある種の蒙昧さによって、自分の像を保持しようとしているのではないか。

 わーわーわーわーわーわーわーわー。

 収拾がつかなくなりそうです。
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 ところで、劇中で出てくるガイノイドは後のアメリカ映画『サロゲート』でより人間に近しいものとして出てきますが、実はああした類の(石黒浩氏いうところの)ジェミノイド研究は、それほど世界的には進んでいないとも聞きます。なぜかというに、端的に言えば経済的なコストパフォーマンスの問題があるのではないでしょうか。それに力を注ぐくらいならば、ネットやAR研究に力を注いだほうが商業的実りがあるし、物質的な大量生産も必要ない。軍事的な面で見ても、劇中ではガイノイドの大群が出てきますが、ガイノイド、人間が効果を発揮するのはもっぱらゲリラ的な面においてであり、それに注力するよりはミサイルの精度を上げたり兵士の装備の機能を高めたほうがよほど安い。そういうところがあるんじゃないっすかね、わかんないっすけど(おきまりの投げやり)。

 未来について、そして未来にまつわる哲学について能書きを垂れるのはそれなりに面白いのであります。映画についてぜんぜん語っておらんではないか、もっと「あの映像はすごいっすねー」とか「愛くるしいバゼットハウンドや、危機的状況の象徴としての鳥の群れは、あれこそが押井印っすよねー」とか、そんな話をすればよいのではないか、と言われそうですが、ぼくはそこは今は興味ないのであります。

 ぼくが映画に求めるのは映画から発される問いであり、それによって考えを紡ぐことなのであります。ああ、なんとかそれなりに頭よさげなことを書けたのではないでしょうか。あるいは頭よさげに見せているからこそ頭が悪そうに見えるかも知れませんが、ええいままよ、ここまでじゃい。終わり。
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同性愛を考えるよい入り口となりましょう。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回は人種差別にまつわる映画でしたが、奇しくも今度は同性愛差別のお話です。
 タイトルの「ミルク」とは、実在したサンフランシスコの市政委員、ハーヴィー・ミルク(1930-1978)のことです。彼は自らがゲイであることを公表し、同性愛者の人権運動に尽力した人物なのです。同性愛者の人権に関しては、ウィキペディアのLGBT史年表やLGBTにまつわる権利などの記述が充実しているので、そちらを参照してもらえばよいでしょう(LGBTと言われて何のことかわからない人は調べるのがよいでしょう)。

 同性愛差別は人種差別、民族差別とはまた違う切り口が必要となる問題です。それはやはり、トピックそのものが「性愛」というナイーブな部分に重なっているからであり、なかなか語りにくい、語られにくい、というのがあるわけですね。真っ向から語るとまたえらく大変になりそうなので、映画に言及しつつ進みましょう。
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サンフランシスコという場所は当時のアメリカでもゲイの集まりやすい地区であったらしく、ミルクはそこでカメラ屋を営むことにします。次第に広がり、盛り上がっていくゲイ・コミュニティの一方で、ゲイに対して差別的な警官の取り締まりなどに遭遇し、政治的に声を上げねばならぬと思い立ったのです。映画では彼がサンフランスシスコに来てから暗殺されるまでの数年間を描いており、実際の1970年代の風景がところどころに挟み込まれます。
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 ただ、表立って声を上げると、その分軋轢を生むのが世の習いです。それまではひっそりとしていたからいいものの、そんなに堂々とされちゃあ困るんだ、という人たちも出てくるわけですね。同性愛者の権利を認めるか否かをめぐって、政治的なぶつかりが生まれていくのです。
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日本では表立って同性愛差別をするということはないものの、そこは持ち前の「空気」の文化で、公言することもしない傾向が強いんじゃないかと思います。ただ、同性愛を差別することはないものの、じゃあ同性婚を認めているかと言えばこれは別で、欧米の国々は軒並み法律を整備しているのに反し、なかなか議論が進んでいない様子です。これについては地域差を見てみると結構違いがあって、先進国とされる国では同性結婚を認めるか、ないしはパートナーシップ法やシビル・ユニオン法(婚姻とは同等ではないものの、それに付随する権利の一部または大部分を認める法律)があるのに対し、東欧、中南米、アフリカ、アジアは認めている国のほうが断然少ない。まあ途上国の場合は、それ以外に定めるべき法律があったり、あるいはイスラム圏では教えとしてそもそもアウトというのもあるため、同性愛は成熟社会で問題にされること、という性質があるのかもしれません。
 日本でなぜ認められていないのか、まあいろいろな理由があるのでしょうが、最も大きなもののひとつには憲法の問題があるのでしょう。憲法では婚姻について「両性の」合意が必要なものとしているので、同性婚を認めるとなるとここに引っかかります。日本では過去一度も憲法改正は行われていませんので、ここからひっくり返すのは難しいのでしょう。正式な婚姻ではないパートナーシップ法の導入が現実的ですが、議論はあまり進んでいないようです。

一方、アメリカという国はいちいち決めなくちゃいけないんですね。これはアメリカが共同体であるというより、組織体としての性質が強いというのが大きな要因でありましょう。移民が多く、人種も様々。であるとするなら、生き方に関わることは逐一人々の意見を聞いて決める必要がある。だから人々はそのたびに自分の思想を明確にする必要に迫られます。「あなたは同性愛の権利を認める? 認めない?」という問いに真っ向から晒される。そうしたことを繰り返して、自分が組織体の一員であることを国民が意識する。その最たるものが大統領制です。日本にはない作法であります。

長々と映画とそれたようなことを書いているようですが、この映画を観るにあたっては、その辺のことを考えておきたいものなのであります。
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映画の中では、ショーン・ペン演ずるミルクの近辺よりも、政治的な戦いの様子がメインで描かれますね。同性愛者の差別の現場よりも、実際のニュース映像などを交え、同性愛を認めない政治家や有名人の声が対立軸として明確に描かれる。だから、生のやりとりそれ自体から考える種類の映画とは違います。ゲイを特殊なものとして感じさせないつくりがなされているのですね。
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ぼくは彼を追ったドキュメンタリーについては未見で、どういう人なのか細かいところはわからないんですけど、わりと簡単に性的な交渉を持っちゃう感じがしますね、あれはいいんでしょうか、ああいう人だったんでしょうか。最初に出会って長く暮らす相手もすれ違いざまのナンパだし、途中では明らかに葉っぱか何かをやっている感じの若者を連れ込んですぐにやっちゃいます。特に後半の場合は、既に身の回りにも支援者がわりといる状況で、相手がいないってわけでもなかろうに、すぐにやっちゃう。これ、異性愛の映画だったら、なんじゃこいつは、と思われそうです。映画全体が、「同性愛だっておかしな人たちじゃないんだ」という方向に進んでいる反面で、「それにしても軽いなおい」という印象を観客に抱かせてしまいそうですが、どうなんでしょうか。あれは映画的に、ちょっと危ない場面にも見えるんですが、何か他の意味があるのかなあ。
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 ただ、でも、同性愛は異性愛に比べれば、迫害されているのもあって、近しい者に親密さを増すというのはあるんでしょうかね。ゆっくりと慎重に愛を深めるとかいうんじゃなくて、お互いがそうだとわかったらもうオープンに、やることやっちゃえ、みたいな部分もあるんでしょうか。うーん、でもまあそれは人それぞれなのだろうし、うーん。
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実際のニュース映像が挟み込まれるのですが、アメリカは本当にはっきりとものを言いますね。イエスかノーかのお国柄なんてことも言われますが、堂々と「同性愛は害悪!」みたいなことを言うでしょう。今でも「進化論は嘘!」とか言っている人もいるわけですから、なるほどこれはある程度ちゃんとルール決めしないと国がえらいことになるなあ、と思わされます。
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 結局、同性愛がなぜ嫌われるのかっていうと、前回の記事で語ったことでもあるし、劇中でも出てくるけど、それまで抱いていた価値観を揺るがされるからなんですね。人の認識は楽をしたがるものだし、これはよいもの、悪いものと決めておくほうが苦労がない。なので、男は女と、女は男と、それ以外は認めません! と言い切ったほうが絶対に楽で、社会的にもそのほうがややこしくなくてよい、という主張があるわけです。宗教的な理由もそこに足されるわけですね。ミルクを殺した政治家にしても、自分の生活がうまくいかないってこともあるんでしょうが、それまでの価値観を粉々にされたというのがあったのでしょう。
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 前回の人種差別ものもそうですが、この辺の話はそう易々とまとまりがつかないですね。うまいことこの映画の美点であるとか、映画内の話にまとめたいとも思うけれど、どうしても実世界の状況なんかについても触れたくなるし、それを始めるともうだらだらと収拾がつかなくなるし。まだぜんぜん語りきっていないんですけど、これ以上書くといよいよ長くなりそうなので、ひとまずこの辺にさせてもらいます。

 うまく語れるときとそうでないときがあるので、これでいいのだろうかと考えてしまうことが多いです。なので、リクエストしてくれた方もそれ以外の方でも、あの映画のあの場面はどう思った? あの場面について触れてくれよ、と個別に言ってもらうのもぜんぜんありです。しばらくすると細かい部分については忘れてしまうでしょうから、気になった場合はお早めにどうぞ、今日はこれまで。
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ダイレクトなメッセージを放つ、真っ当な反人種差別映画だと思います。
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砂ぼうずさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

観終えてからしばらく、どういう方向で行こうかなあと書きあぐねて、差別というものについてぼんやりと考えていました。日本は人種差別についてはほとんどない国だと思うんです。というより、白人のコミュニティや黒人のコミュニティというものがそもそも(ぼくの知る限りでは)ほぼないので、人種間の軋轢自体が表立っては来ない。民族差別は多少あるのでしょうね。実際の人間関係はどうかわからないけれど、ネット上の言葉を見れば、日本には民族差別の感情が存在していると言わなくてはならない、残念ですが。
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 ただ、自分に引きつけて考えてみたときに、まあぼくは少なくとも自分の意識する限りにおいて、民族差別意識も人種差別意識もないのですが、差別意識自体がないかというと、そこはどうなんだろうと思いますね。たとえば美人な女性とそうでない女性の間に、まったく差を感じないかと言えば、それは違います。この感覚は差別なんですかね?

 もちろん、その種の言説を日常で放つようなことはしないし、接する際の態度にも一応違いはないし、自分が傷つけられた記憶があるから人を傷つけることは絶対にしませんけれども、美人な女性を見たときの脳波と、そうでない女性を見たときの脳波には間違いなく違いが出ているわけです。態度に違いはない、などと書きましたが、愚かしく若かりし頃などには、たとえば飲み会などで、可愛い女の子ばかりに話しかけて、そうでない子には目もくれないということをやってしまいましたもの。
「だからおまえはもてないんだ」
 む! 誰だおまえは! なんだと! 畜生、その通りだからぐうの音も出ない!
 ぎゃふん!
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 ええと、耳の奥に響く幻聴を無視して話を続けますと、あのー、人はね、これはもう、顔で区別してしまいますね、これは差別ということと同じではないかも知れないけれど、まったく別のものだとも言い切れないと思うんですね。で、じゃあ、なんでぼくたちは顔で人を区別してしまうのか?

これからは私見ですゆえ、何の学術的裏付けも知らぬゆえ、どこかで吹聴して馬鹿にされても知りませんが、まあちょいとした論を展開しましょう。
 なぜ人は顔にこだわるのか、についてです。
 
 人間は進化の過程で、個体識別の機能を発達させたわけです。いろいろなものを食べるようになったり、道具を使ったりするようになると、必然的に個体識別能力が要求されるわけですね。で、互いの姿形をも識別するわけですが、人間の場合動物界で唯一、衣服をまとうようになった。他の動物ならば毛並みが立派だとか、背中の模様が鮮やかだとかで識別できるけれど、人間の場合その道は絶たれて、顔で互いを区別するようになったのです。で、それでもまだ、体のたくましさとか、女性で言えば乳房の大きさとか、体つきで区別する部分もあったわけですが、だんだんと社会や文化が成熟してくるにつれ、動物的なたくましさだけが価値を担うことは少なくなっていった。日本でも時代によっては、顔のよしあしよりも、いかに巧く和歌が詠めるかのほうが大事だなんて文化もあった。そういう変遷を経る中で現代、対面コミュニケーションでは身だしなみのよさとかそういうものを抱えつつ、顔で個体識別をはかるのが最も簡単な方法だということになったわけですね。

 で、なぜ顔のよしあしを感じるのか、ですけれども、個体を識別するだけでは脳に負担がかかってしまうからだと思うんです。生存戦略上、何が自分にとって価値があるのかないのか、脳は決める必要がある。栄養のある木の実と毒のある木の実を判別しなくてはならない。脳にできるだけ負担を掛けずに、迅速に生存戦略上の価値判断を果たすためには、外見で識別した後、価値のあるなしを即座に決めるのが合理的なんですね。つまり、ぼくたちは好むと好まざるとに関わらず、無意識に美醜の判断を取ってしまう。

 で、これを社会にまで広げてみます。どういう顔が美しいとされるかは文化ごとに違いがあるとしても、美しい顔というのは大体決まっていて、そう認められた人がモデルやアイドルになるわけです。これも脳が楽をするための判断でしょう。何が美しいと感じるのかばらばらであっては、自分をよく見せようとするうえでも判断に迷うわけです。また、何を美しいと感じるのか、自分一人で決めるよりも、多数の合意があったほうが判断しやすい。皆がうまそうに食べている木の実はうまいのだろう、と認識がしやすくなる。自分で判断しなくていいのはいちばん楽です。

 そんなわけで、人は顔にこだわるんじゃないでしょうかね、うむ。
 
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 いい加減映画の話をしろ、ということですが、差別は今述べたようなこととすごく密接に関連していると思うんです。要するに、ぼくたちは何かで価値判断しないとやっていられない。そしてその極端な表れが人種差別なんですね。差別を撤廃する、というのは法律や制度としては可能でも、文化や個人の感覚のせいで難しいわけです。ぼくたちの中には個体識別機能が基盤として存在していて、無意識に価値判断を行うようにできている。わかりやすく言うなら、大多数の人間は差別感情の種を脳に埋め込んだまま生まれてくる。そして経済や社会の土壌は、いくらでもそれを発芽しうるようにできている。育て方や天候の具合で、いくらでも生長するんです。だから差別は仕方がない、などということではありませんが、差別を他人事として考えるのは、差別と自分とを不当に切り離す行為であると言いたいのであります。ぼくたちの中にある差別の種をどう発芽させないようにするか、自分事として引きつけながらどう社会的に芽を摘むかが大事であって、差別はよくない! ではどうにもならないってことですね。差別は知性の欠如と恐怖心が大きな原因であろうと思うのですが、これを社会的に除去するには教育と経済の不均衡是正が必要なので、差別撲滅だけを訴えることに実効性はあまりないんじゃないかと思います。いや、あまりないっていう言い方は良くないですね。社会運動は実を結んだりしているわけだし。うーん、うーん、もうそろそろやめておきましょうか。

 さて、ここからやっと本当に映画の話です。 
本作はエドワード・ノートン演ずるネオナチの男が黒人を殺し、刑務所の中で改心して戻ってくるまでの様子と、彼の影響でネオナチになった弟の話が二つの主軸を担います。

映画全体にひりひりした感じがつきまとい、緊張感が保たれたまま劇が進んでいくのはとてもよかったと思います。差別自体がよくないことなので、よかったという言い方は多分に語弊があるのですが、まあ見せ方として優れているということです。
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 ノートンは現在の場面ではかつての思想を捨てたよき人として現れ、回想場面ではごりごりの差別主義者として登場する。これを交互に織りなすことによって、映画には強い張りが生まれます。そしてこれは、差別が制度上はなくなった今でも差別は残っているのだという、実世界の現状とシンクロしますね。これがね、時系列順に、ノートンがだんだんと差別をしなくなっていく様子だけを描いていたら、どこかしら欺瞞性が感じられたと思うんですけど、この構成にしたことで観客は差別を現在進行形のものとしても受け止めることができる。秀逸な作りだと思います。テンポもいい。
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 彼が差別主義者になったのはもともと、父の黒人不信の教えと、父を黒人に殺されたという出来事が直接的な理由として描かれます。教育と体験。そして、そこから翻るに至ったのは、刑務所での黒人との交友体験、そして自分と同じ白人からの暴行によるものです。
ノートン自身は体験によって、弟のエドワード・ファーロングは兄からの伝達=教育によって、自分の思想を改めるに至ります。
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 教育と体験が差別感情を左右する、という構成については、やや平凡なものを感じてしまいます。そんなのは日本でも既にあったことですしね。鬼畜米英を憎めと教育されてきたけれど、いざ戦争が終わって会ってみたら意外とアメリカ人はいい人じゃないか、みたいなことはあったわけで、だからこそここまでアメリカ文化が広まったわけでしょう。そして、人種的対立を経てここまでやってきたアメリカでの考えにしては、いささか物足りないものを感じるのも事実です。あの国はもっと深い思索を経てきたと思うんですが、ぼくにはそこまで読み取れませんでした。
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 もっとも、そうは言いつつも、教育と体験以外に人の心を改めるものはないのだ、という強い結論に至ったというのなら別です。そしてこの映画はその両面を見据えて設計されているとも思いますね。ダイレクトなメッセージ機能は十分に有しています。
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 つくりとしては、わかりやすい因果応報譚でもあります。相手に悪いことをしたら自分にも返ってくるのだぞ、ということです。そして、実はこの映画は終わっていないですからね。ノートンがあの後で、果たしてどういう生き方ができるのか、観客はいやがおうにも考えることになります。だから映画の中に閉じていない。この映画はあくまでも現実に寄り添いながら進んでいるのですね。そう考えると、妙にこねくり回すことなく、人種差別の状況について、真っ向からぱしっと描いているというこの映画の強さが見えてきます。
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 人種差別に関する映画の、ひとつの模範型としてお薦めできるのではないでしょうか。
 映画に関係ない部分が長くなってしまい申し訳ありませんが、ひとまずこの辺にさせてもらいたいと思います。
 
ちなみに……ネオナチのでぶちんがバンを運転中に歌っている歌は「リパブリック讃歌」が原曲。これは黒人による歌であり、黒人奴隷解放を訴えたジョン・ブラウンを称える歌にもなっているため、ネオナチの人間が歌うのは変。ネオナチでぶちんの馬鹿さ、歴史への無知を表したシーンとも読める。
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正義の実現はカタルシスになるけれど、個人的にはもっと突っ込んでほしいとも思いました。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Murder in the First』
結構前にお薦めいただいていたのですが、すっかりと失念しておりました。映画をご紹介いただく場合、「おすすめ」だと忘れたままにしてしまったり、あるいはぴんと来なかったら書かずにスルーする可能性もあるので、「この映画観て記事書きなよ、書けばいいじゃん、おまえみたいなやつは」とお思いの方は(なぜそんなにぶっきらぼうなのか)、「リクエスト」と書いてもらうと、一応書かねばならぬという気になります。今後のご参考にしてください。

さて、『告発』ですけれども、ケヴィン・ベーコン、クリスチャン・スレーター主演で、アルカトラズ刑務所を題材にしたお話です。アルカトラズ島にはもともと南北戦争の際、南軍のサンフランシスコ湾侵入を防ぐために北軍が設置した要塞があったのですが、1861年に軍事刑務所として正式に指定されたそうです。途中から連邦刑務所として管轄が変わったのですが、1963年の閉鎖に至るまで100年以上にわたり、アメリカにおける代表的な刑務所のひとつとして機能していたようであります。アメリカの治安を守るうえでのアピールにも使われていたらしく、アル・カポネやマシンガン・ケリーといった有名な犯罪者も収容されていたのであります。

 しかし、じゃあ収容されていた囚人が誰も極悪な犯罪者だったかというとそうではないようで、比較的軽い罪の犯罪者も送られていたらしいのですね。高い維持費の一方で、空き部屋があってはならぬという事情もあって、誰も彼もが殺人犯とかそんなのじゃなかった、ということのようです。
 
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 囚人のケヴィン・ベーコンは貧しい境遇にあった男で、少年時代、妹のために五ドルを盗んで収監されます。そして脱獄を図るのですが捕まってしまい、ほとんど光のない独房の中でなんと三年間の懲罰を食らうことになったのです。
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 しかも看守からの暴行は当たり前のように行われており、心神喪失状態になって、受刑者の一人を殺してしまいます。その受刑者は自分と同じに脱獄を図ったのですが、別の犯罪者を密告した見返りに懲罰を免れ、他の囚人と同じく普通の監房生活を送っていたので、ケヴィン・ベーコンは憎々しく思って、衝動的にやってしまったのです。
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 その裁判をあらためてやらなきゃいけない、ということになって弁護士のクリスチャン・スレーターに出会うのですが、その過程でアルカトラズのひどい虐待が暴かれていき、「告発」され、やがてアルカトラズ自体が閉鎖されていくと、まあこのようなお話です。
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 実話をもとにつくられたとのことですが、今よりも人権意識のない時代でしょうし、まあ本当にこれに近しいことはあったんだろうなあと思わされます。現代においてだって、イラク戦争時のアブグレイブ刑務所みたいなことがあったわけですからね。
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 犯罪者にまつわる話は最近幾度か語ったりしているんですけれど、うーん、この辺は一本調子で語るのがやっぱり難しいですねえ。

 映画自体はね、うん、今のぼくにはやや単純に映るところもあります。ケヴィン・ベーコンが演じた役の設定としては、貧しい境遇で妹のためにわずかばかりの金を盗み、ひどい虐待を受ける、ということなので、観ている側としては単純に、可哀想だなと思いますよね。それで、スレーターが頑張って彼を支えて、人道的な社会へと前進していきました。悪しき環境が絶たれましたってなもんなんですけど、うーん、うん。
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 広く受けいれられるための映画としてはそれでいいんですよ。そのほうが観客のウケもいいだろうし、カタルシスをもたらすかもしれない。この映画はこれでいい。だからこの映画のつくりに文句を言うぼくがひねくれているんです。そう思ってもらうのが穏当です。

 ぼくはもう一歩突っ込んで考えてしまう。あのケヴィン・ベーコンが、たとえばもっとひどい罪を犯したという設定だったらどうなのか。ぼくたちはベーコンやスレーターに感情移入できただろうか。そこまでいくと、この映画はもっと深い部分に澱を残せたと思ってしまうんです。

 いや、わかります。この映画で描かれていた重要なことのひとつは、たとえ社会に混乱を起こし、自分の立場が危うくなるとしても、正義のために戦うべきなんだというメッセージでもあります。劇中でも、スレーターに依頼が回ってきたとき、「この裁判はどうせ負け戦だから」みたいなことを周りに言われるんです。賢い大人は、「まあ変に粋がらなくていいからさ、うまいことやりなよ」みたいな感じのわけです。スレーターはそうじゃいけないと思って奮闘するんですね。

 だからこの映画では、たゆまぬ正義を実現する姿のよさってものを見て取るのが感動的な解釈で、そういう風に観るのがきっと正しいのでしょう。しかし、今のぼくはもうちょっとこねくり回したものを求めてしまっているんですね。

 正義ってじゃあなんやねん、ということも考えてしまう。考えたくなる。さっきの話と繋がるんですけど、ベーコンがもともと殺人犯か何かだったら、周りは応援していただろうか。殺人犯でも人道的な扱いを受けるべきだ、という論調は生まれていただろうか。殺人犯なのだからひどい目にあっても構わない、いやむしろそうすることが正義なのだ、みたいな話もあったんじゃないか。そうすると、「たゆまぬ正義」のようなわかりやすく清いものではなく、「何が正義かはわからないけれど、自分はこれが正義だと思うんだ。そして、それを貫くんだ」というものが見えてきたんじゃないか。
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 何度も書いてアレですけど、この映画はそういう映画じゃないのはわかっているんです。 ただ、構図として単純に見えてしまう。あれだと、検事役のウィリアム・H・メイシーがただの邪魔者に見えてしまうし、まあ誰だってベーコン、スレーターを応援しちゃうでしょう。
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 この辺の話は他にいい映画があるもので、どうもそっちと比較するところもでてきてしまいました。信ずる正義を実現する話ってことだと、『セルピコ』とか『フィクサー』とかが好きで、あの映画って、「てめえ、マジでつぶすぞ」があったんです。主人公が頑張れば頑張るだけ、「おめえつぶすからな」って周りから威嚇されていた。だから、それでも頑張る姿が余計に感動的だった。あとは『ロンゲスト・ヤード』です。これは同じ監獄もので、あの映画でも「囚人の犯罪歴が弱い、もしくは描かれない」というところはあったものの、「ここで戦わなきゃ一生後悔する。たとえ、失うものがどんなに大きくても」というところで強い芯があった。本作のスレーターはねえ、そこが弱くてねえ。ちょこちょこ言われたりはするんですけど、「だったらマスコミにばらしますんで」みたいにかわしちゃったりするし。スレーターはあの後も普通に弁護士稼業できるんだろうし。っていうか、結構儲かっていくだろうし。
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 個人的には引っかかってしまいましたが、よい映画だとは思いますし、飽くことなく観られました。なんだかんだ言っても、じゃあ自分であのスレーターのようなことができるかと言われたら難しいわけですし、たゆまぬ正義のために頑張る姿は、とても尊いものであります。
 こんなところで、おしまい。
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この映画が語る深い部分に、ぼくは立ち入りようがないですね。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 阪神大震災から十五年後の一日、神戸の街で偶然出会った二人の男女のお話です。お話、というよりも、夜歩きの様子、というほうが合っているのでしょうか。当時の記憶を物語りながら、追悼集会の開かれる場所まで歩いていきます。もとはNHKのドラマだったのですが、反響の大きさから再編集して映画化したそうです。

 阪神大震災の頃、「こども」であったぼくですが、実家は関西地方でもなく、遠景としての記憶しかないのが正直なところです。昨年の大地震でも身内に被害もなく、その辺のことを当事者的に物語ることはぼくにはできません。なので、ちょっと書き方が難しいですね。
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 主人公は森山未來と佐藤江梨子で、彼らは実際に被災体験があるらしいですね。劇中では別の人物として出てくるので、その辺の虚実に違和感を覚えるところも最初はありましたが、まあそこにこだわる意味は無かろうということで、気にならなくなりました。全編ハンディで照明も弱めで、生っぽい感じはよく作用していたと思います。これをがっつりドラマ仕立てにしていたら虚構感が際だっていたでしょうし、ドキュメンタリックな語りがうまくはまっていました。長回しも効果的です。

 実在感があってよかったですね。二人の対照的な感じと、ああ、おるおる、こういうのはおるなあ、という実在感。森山未來は現実的というかシニカルというか、あまり感情を表立って出さないタイプの男を好演しており、佐藤江梨子は佐藤江梨子で、ある意味では佐藤江梨子のままのところもあるのですが、こういうやつはいるなあ、と思うに十分でございました。随所随所のちょっとした会話だったり何なりが効いていますね。
ところで、佐藤江梨子は子ども時代、神戸で長く暮らしていたそうですが、あの神戸弁というのはネイティブの方からするとどうなんでしょう。ぼくはネイティブでも何でもないですが、テレビなどで聞き慣れている関西弁よりも標準語っぽいイントネーションが随所に入り交じっている気がして、ちょっと変な感じもしました。いや、それを悪いというのではなくて、むしろぼくはそこがよいのだと思えた。十五年ぶりに帰ってきた神戸、という設定で、神戸の感じが抜けて東京っぽくなっているんだなあと思えて、そこは実在感に繋がったのです。
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 居酒屋シーンがあるんですが、秀逸なくだりがありますね。震災の時に、震災に乗じてというかなんというか、まあ普段では考えられない高値で商売をするやつがいたという話になります。焼き芋を一本二千円で売っていたとかね、これは他のところでも聞いたことのある話です。で、佐藤江梨子は「今でも許せない」みたいになるんですけど、そこで森山未來がかわしてくる。「それは需要と供給の関係上仕方のないことだ」っていうんですね。ある意味でナイーブなところですが、この映画は切り込んでくる。森山未來は親父がそれで儲けたという自分自身の話をするんですが、それで一挙に関係が崩れる。大きなぶつかりを序盤でかましてきたのはこの脚本全体で見ると、とても効果的でした。それが後々の語りを引き出すフックにもなっています。
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 全編を通して、実際の過去の映像を持ち出す場面は一カ所を除いてほとんどなく、あくまで語りで伝えていく。そこは作り手の良心的なところというか、鋭いところであります。この映画において実際の映像は要らない。ただ、記憶を物語ることで、想像させるのがよいのですね。いろんな昔話を二人が語るのですが、それを映像化した瞬間にフィクション性が際だってしまう。だから、絶対にそれはしない。劇中、佐藤江梨子がある人物のもとに出向く場面でも、その家の中は一切映さない。フィクションの領分をわきまえているように思えました。普通の劇映画では、回想シーンがはまされるのが常で、それが効果を果たす映画ももちろん多いわけですが、こうした虚実の入り交じるような映画においては、回想シーンは要らない。おっさんと喋るシーンも要らない。それをすると二人のつくりだす空気は一瞬で壊れる。実に正しい判断だと思います。 
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 この映画から震災にまつわるような話を引き出すことは、ぼくには難しいですね。当事者ではないぼくが何を言っても、というところがあるし、それは去年の地震にしてもそうです。
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 津田寛治が森山の勤める会社の上司だか先輩だかで出てくるんですけど、あの人はぜんぜん震災のことを他人事として受け止めている。神戸には何の思い入れもなく、建築の仕事も震災の記憶なしに語る。二人に感情移入したり、当事者として記憶を持っている人からすると、あの津田寛治は嫌な役に思えるでしょうけれど、この映画をナイーブにしすぎないという点では重要な重しだったとも思います。 ぼくたちは何かにつけて鈍感にならざるを得ない。妙な敏感さで寄り添うことは多かれ少なかれ欺瞞であるほかない。この映画は人間関係のバランス感覚が非常にいいと思いました。
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 象徴的な場面があります。佐藤江梨子が、震災で亡くした友達の家の近くまで来て、行こうかどうしようかと半泣きで悩む。森山は簡単に、「行ったらええやん」と言う。それに対して佐藤が「他人事だからって!」とわめくと、森山は冷静に「まあ、他人事だからね」とこれまた簡単に言います。これは面白いと思った。森山もまた震災当事者であるのに、震災にまつわることであっても、他人事だと受け流す。今日たまたま出会った相手だ。他人事だ。このあたりの距離感。この辺が実在感を高めてきますね。この二人はもう出会わないんじゃないか、と思わせるところもいい。この種の映画が持つ領分のわきまえ、それをしっかりと持っているように見受けました。
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三者の立ち位置を用意しているのは脚本設計上の大きな美点です。震災の記憶を強く語る佐藤江梨子、被災したけれどちょっと引いている目線の森山未來、震災の実体験を持たない津田寛治。この三層をつくったのは作り手の大変優れたところでしょう。
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 この映画を観て、何かがわかったような気にはぼくはなれないですね。どう感じたと問われても非常に難しいです。歯切れのいいことは何も言えませんし、ぜひお薦めしますという類のもんでもないんです。去年、震災があったことも鑑みて、なんとも言いようがないというのが正直なところです。うん、今回については、この映画はこうじゃ、と言えぬままに、逃げるようにして終わらせていただければと思います。
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奇想てんこ盛り。だけどこの主人公はぼくたちよりも切なく。
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皇帝ペンギン飼育係さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『神探』
 リクエスト作は頂いた順に取り上げるようにしているのですが、奇しくも非アメリカ映画が続き、しかもあまり国が被らずに来ていますね。イタリア、フランス、オーストリア、日本と来て、今回は香港映画です。香港映画はこのブログでほとんど取り上げていないのではないでしょうか。ブルース・リー、ジャッキー・チェンという二大スターくらいはなんとか押さえていこうと思っているのですけれど、記事として書く気にはならないというか、いまさらぼくなどがブルース・リーの魅力とかを語ったところで、ねえ? もっとがっつりはまっている人は多いわけですから、映画秘宝界隈の人たちにお任せしましょう、しょこたんとかに。

 さて、ジョニー・トーという監督については宇田丸さんのラジオで知り、傑作と謳われる『ザ・ミッション 非情の掟』と『エグザイル/絆』を観たのですが、なんだかぼくの好きな感じとは違うのう、と思って遠ざかっていました。

 振り返って考えてみるに、ぼくは特定のジャンルや監督について、アツアツになって愛好するということをほとんどしない人間であります。映画好きの方の中にはたとえばゾンビ映画が大好きだとか、香港ノワールに惹かれてやまぬという人も多いように見受けるのですが、ぼくはそういうのがない。アニメなどはわりと好きですけれど、世間にはものすごく愛好している人も多いわけで、そうした人らに比べればすごく好きだというわけでもないし詳しくもない。強いて挙げるならば、「この映画には人の生き様が描かれておるのう」と、ぐうっとなるような作品が好きと言えるわけですが、それをジャンルとして提示されると違う。あとは社会や人生のあり方について読み取らせてくれる作品が好きですね。今のぼくは、以前と比べて、「単純に面白い映画」というものにあまり興味がなくなっている。新作を追いかける趣味が全くない、というのもその辺りに関係していそうです。

 この作品は単純に面白さを追求したぶっ飛び映画かな、と思いきや、書いているうちに、ん、そうでもないな、もっと自分たちに引きつけて観られるところもあるな、と思い至ります。
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「MAD探偵」という通り、主人公は結構、相当いっちゃってる感じの元刑事です。存在しない人間が見えていたり、人の内面が見えるのだと言ったりします。いっちゃってるだけじゃなくて特殊能力もあり、事件が起きればその犯人や被害者と同じ行動を取ることによって真相を突き止め、解決に導くということもできてしまいます。
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「七人の容疑者」ということですけれど、これは本当に七人いるわけではなく、ある刑事の失踪事件について、同僚の刑事がどうやら犯人らしいということになって、そいつの内面には七人の人格が潜んでいるぞ、とそういうことなのです。いっちゃってる主人公には、その犯人と思しき刑事が七人の人間に見えるんですね。このビジュアルは面白かったです。
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 以前、『ブラックスワン』を評したとき、「幻覚はそれを見ている当人の目線に限定して描くほうがいいんじゃないか」と書いたのですが、本作では序盤はわりと忠実にそこが守られます。後半になるとそうでもなくなるんですが、まあこれくらい大胆に描くならもういいでしょう。ビジュアル優先で面白くわかりやすくいくのがいいのです。
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 相手の姿が、実際のそれと異なって映る、というアイディアはこの作品の彩りにおいて相当大事で、それがなければ結構地味な映画になっていたでしょうね。このアイディアは何か元ネタがあるんでしょうか。もちろん、幻覚を見る系の映画では過去にいくらもありますけれど、ここまで大胆にやってのけた例は知りません。トイレのシーンなんかは面白いですね。主人公と容疑者がもみ合いになるんですけど、主人公から見ると相手が七人に見えて、その人格同士でまたもみ合ったりしている。内面の葛藤をこのような形で描くってのは新鮮でした。惜しむらくはそれがクライマックスにほとんど活かされないことですね。ビジュアルの面白さはあったけれど、この七人の人格というのが効いていませんでした。もっとも、時間的にタイトだし、他にも要素があるので、その点は仕方ないかも知れません。

 短い中に奇想てんこ盛り、というタイプの映画です。90分弱の映画ですから、人格が人間の形で見える、というアイディアで押してもいいのに、主人公が犯人や被害者の行動を取ることで真相に気づく、というのも入っている。この辺はキング原作、クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』、日本で言えば漫画『サイコメトラーEIJI』のあたりにヒントがあったんじゃないでしょうか。事件に関係するものに触れるとその過去が見える、というやつです。それをもっと大胆に描いていますね。被害者がスーツケースに入れられて殺された事件を調査するときは「自分をスーツケースに入れて階段から落とせ」と言ってみたりするんです。ああ、でも、なんかもっと直接に近い元ネタもありそうだなあ。
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 内面が見えて相手の気持ちが読み取れる、というのはテレパスですけれど、この映画はテレパスだったりサイコメトリーだったりという、既に使われているオカルト的アイディアをもっと先鋭的に、ビジュアル的に詰めていったわけですね。そこが人々に面白さを感じさせる要因であろうと思います。
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 見えるものは見せる、という部分にこだわり、内面問題に固着しないのもテンポをよくする工夫であって、たとえば主人公の抱える問題を、恋人の話に集約していたのがポイントの一つでしょう。こういう変わった主人公の映画の場合、どうしても事件よりもその人自身のことに興味がいったりするわけで、どうして狂ったんだとかこいつはどういう内面を抱えているんだとかを考えたくなりますけれど、その部分は恋人、元妻とかのあたりに集めておいたのですね。彼は既に存在しない妻の幻影と一緒にいようとするんですけど、最終的にそこから脱する。そこで彼自身の物語というのも重しとして機能させておく。その辺のバランスも気を遣っているんです。自分だけに見えている相手、というのもこれまた昔からあるようなアイディアですけど、いろんな奇想の中のひとつに位置づけているので、話の綾になります。

 主人公を演じたのはラウ・チンワンという人で、香川照之と柳葉敏郎を足したような顔ですけれど、この眼力も魅力ですね。いっちゃってる感が病的に映らず、はじけてる感じが出てきて、あまりナイーブな方面にいかない。一方で、この主人公の孤独みたいなもんもよく描かれていたように思います。もともとはゴッホのイメージが最初にあったそうなんですが、この主人公は孤独なんですね。飯を一人で何度も頼んで黙々と食うシーンとかも印象的です。それに、結局は頭がおかしいやつだと思われて、仲間の刑事に撃たれてしまうあたりとかね。あの辺には哀愁を感じます。やっとこさ妻の幻影というくびきから解放されて別の人生が見いだせるのかと思いきや、そして自分なりに頑張って敵を追い詰めたと思いきや、仲間に疑われてやられる、というのは哀しいもんがあります。
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 考えてみると、多かれ少なかれぼくたちにも似たところがあるんかな、とも思いますね。この主人公は簡単に言えば「狂っている」と言えて、自分と切り離してみられるかも知れないけれど、まったく遠いものでもないと思うんです。彼は相手の人格が見えたり、過去の愛の幻影に縛られたりするんですけど、それって自分の身に置き換えてもあることじゃないですか? 人と接したときに相手がどんな人物かが初対面でなんとなくわかってしまったりとか、素敵な相手がいるのに過去に好きだった人のイメージに引っ張られてうまく接することができなかったりとかね。それと、自分では一生懸命やったつもりなのに、人にわかってもらえなくて、憂き目を見たり。作品では狂気や特殊能力として大いにデフォルメされてはいるけれど、その中心には自分たちとなんら変わらない内面問題、関係問題があるってのが、この映画をただのクレイジーな物語にさせていない重要な要素であろうと思いますね。
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 ふむ、まあ、ふむ、そんなところでありましょうか。面白く観ました。お薦めします。

 
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