ディズニーが生み出すキュートの全力を、見た気がします。
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久々にどっぷりと入り込みました。
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コーエン兄弟の直球
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悲哀よりも何よりも、ただひたすら辛気くさいんだ。
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凝縮されていないがゆえに、せっかくの熱が逃げまくっている。
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マインド・コントロールについての興味深い一品
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映画は無力じゃない、ということを教えてくれます。
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あなたの思い出を、超えましたか?
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いわゆるハリウッド映画にはぜんぜん興味なくなっちゃったなあ、とこの前書いて、実際に観てみたらどんなもんなのだろうかなあ、と思って、映画秘宝の昨年第一位、夏休み映画としても大反響だったらしい、『パシフィック・リム』。

 結論から先に書くと、うん、やっぱり駄目ですね、うん。

 いやいや、変な噛みつかれ方をされたくないので言っておきますと、作品が駄目なんじゃないんです。受け止めるぼくのほうがやっぱり、今まで通りにED状態なんです。ぜんぜんエレクトしない。昨年の夏は映画好きの皆さんがヒャッホーしていて、だったらぼくの映画インポテンツにも何かしらの効能が期待できるのではと思ったのですが、こりゃあどうにもなりません。みんなが絶賛するハリウッド映画を観てこれですから、他の種類の映画は別としても、こっち系に関しちゃあもう欲情しないニンゲンですね。ほとんど諦めに近い感覚です、ええ。

 町山さんにお聞きしたいですね、彼は本作を激賞しているんです。

 しかし一方では、こうも語っている。

 ぼくは断然後者の感覚で、どうにも本作ではすかっとなどしない。お聞きしたいです。実は以前、当ブログに町山さん本人と思われる方がコメントしてくれて、まあそのときはぼくがちょいと行きすぎた表現をしたためにお叱りを受けたって経緯があったんですけど、また何かで目に入ったら教えてほしいですね。後者的な立場から観て、『パシフィック・リム』はどうなんだってところをね。

 二時間超の映画を観ながらぼくが感じていたのは、やっぱり前に書いたことと同じでね。
「ああ、過去の感動に勝てないやあ」というものなんです。これを中学生くらいに観ていたらもっと違ったと思うんですけど、これじゃあエレクトできないんです。

 バーサス怪獣、あるいはロボットものということで言えば、ウルトラマンがあり、ガンダムがあり、エヴァンゲリオンがありですね。ロボット対怪獣に近しいものでいえばエヴァンゲリオンですけども、どうしてもあれと比べてしまうというか、観ながら繰り返しに感じたのは、ああ、エヴァってやっぱ凄かったよな、ということなんです。

 本作を激賞する方にお聞きしたいのは、「あれ? エヴァ観てるよね?」です。
 全部エヴァでやられてる感じがするんです。本作は二人で一つに乗るってアイディアで、それはエヴァにはないけれど、あの作品ではシンクロ率って概念が出てきてそれがとても画期的で、過去のトラウマでうまく乗れなくなるみたいなのもアスカががっつりやってるじゃないですか。暴走してしまうみたいなくだりもあったし、海中の戦いや深海に潜る話は対ガギエル戦とか「マグマダイバー」の回とか。あのカタルシスの思い出がずっと巡っていたんです。ああ、シンジがハプニング的にアスカと弐号機に乗って、ゼロ距離射撃でやっつけたものだよなあとか、あの火山の中でワイヤーが切れたときのアスカの諦めの表情は絶品だったなあとか。

 怪獣の造型にしても、うん、やっぱりねえ、使徒の思い出があるんです。
 あれで撃たれた世代ですよ、こちとら。怪獣と言えばウルトラシリーズがあって、でもその枠を明らかにはみ出した使徒が出てきて、それにびびらされた。ラミエルとかレリエルとか、あるいはバルディエルみたいなパターンとか。もしくは普通の戦いでも、イスラフェルを二体同時に撃破するみたいなね。エヴァが凄いのは、ウルトラシリーズ由来の怪獣的なものを踏まえつつ、そこから大きく崩してきたところ。考えられる魅力的なパターンを、後代の人間が困り果てるくらいにやってしまったところ。ああいうものの洗礼を受けているとねえ、ああ、なんかつまらないビジュアルだなあとどうしても思ってしまう。

中国を意識してのところなのか、基地に漢字表記が結構あったりしますよね。でも、あれもエヴァであったじゃないですか。新鮮でしたよ、明朝体の漢字がモニターに大写しになっていたりね。それまでの近未来描写とは一線を画しているというか、おお、こんな見せ方があるのかと本当に感心した。あれを思い出すとねえ、うん。

 書きながら見えてくる、という醍醐味を久々に感じながら書いているんですが、結局のところぼくは、「思い出を超えるもの」を求めているのですね。ゴジラやウルトラシリーズがあって、エヴァがあって、その枠をさらに超えるものを求めている。町山さん含め、本作を褒めている人は、「思い出の再来」に歓喜しているのかなあと感じます。かつて観たロボットアクション、怪獣アクションを、よくわかっているデル・トロが、ビッグバジェットかけてハリウッドでつくってくれたー、ひゃっほー的な。うーん、ぼくはそこまで成熟して、「いい大人」にはまだまだ慣れないなあと感じます。だってウルトラマンにはもっと感動したもの! エヴァには本当にびっくりさせられたもの! もひとついえば、ガンダムやその後のZガンダムが見せた構図の複雑さには、心底感心したもの!

 あれ、この感覚何かに似てるなあ、と観ながら感じたのは、『ロード・オブ・ザ・リング』ですね。あれもファンタジー映画界で激賞されて、代表格になっているけれど、ぼくにはぜんぜんぴんと来なかった。ファンタジーと言えばぼくの中で、ドラクエとFFが絶対的なものとして光り輝いているんです。FF6,魔大陸崩壊の影響で世界がぶっ壊れて、だけど再び立ち上がって夕焼けの中に飛空艇を飛ばしたあの日のこととか、えっ、ここはアレフガルドじゃないか、ということは、ここは、そうか、3の主人公こそがロトの勇者だったのか! みたいな世界への感動。遊び人だけが悟りの書なしでも賢者になれるというその心意気。FF9のビビ、えっ、君はつくられた存在だったのか、なんてことだ、えっ、まさかジタンまで! とか、あるいはドラクエ5、そうか、勇者とは自分のことではなく次の世代のことなんだなあというあのメッセージ。あの思い出に、ぜんぜん及ばなかったんです。

 忘れちゃったのかよ、とぼくは思う。
 あのときあんだけ感動したってのに、これで感動できるってのは何? っていう疑問が、申し訳ないけれどぼくにはある。
 
 町山さんが特電で触れていて、宮台さんがかつて述べていたことでもあるけれど、やっぱり映画体験は「観る前と観た後では世界の見方が違って見える」もので、そういうものこそがほしいんですね。かつて観たものはそうだった。今でも強く残っていて、観る前と観た後では、あるいはプレイする前とその後では、どこか何かが違っていた。世界の複雑さだったり、心底からの驚きがあったりした。本作でぼくはそれを感じることができませんでした。逆に皆さん、どこでそういったものを、お感じに? 過去に感じた鮮烈な感動はいずこへ?

 やや喧嘩腰だな、まずいな、久々で加減がわからなくなっているな。まあいいです。反響があったらそれはそれで悦ばしいのです。そのほうが逆にエレクトの手がかりを見つけられるかもしれません。

 嫌われついでにもうひとつ言うと、本作に限らず、「この作品は映画館で観るべき!」みたいな言い方にぼくはちいとも承服できないんです。ウルトラマンにしてもエヴァにしても数々のゲームにしても、取り立てて画質の優れてるわけじゃない14型テレビで、こちとら思い切り感動したんです。それにDVDでもVHSでも、いいものはいいんだよ、感動するものはするんだよ、たとえばAVがそうであるように! 本作を映画館で観ても、やっぱりぼくは大した感動はなかっただろうなと思う。散々述べた理由でね。
 
 ここまで読んでもらえばわかるとおり、ぼくは一切作品を悪く言ってはいないので、そこはわかってくださいませ。ただ、過去に観た作品のあの感動を超えないなあということです。どうなのでしょう。本作は皆さんの思い出を超えているのでしょうか。「だったら思い出の作品を観ていればいい」などと非建設的なことは言わないでいただきたい。それを超えるものを求める、という話ですから。むしろその台詞は、「俺たちの大好きなロボットアクションだぜ!」的な盛り上がりに対して向けられるものでしょうから。

『パシフィック・リム』は、あなたの思い出を、超えましたか?
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議題1.1

次に書くはずの「議題2」というのは実はなんというか身も蓋もない、それを言っちゃあおしめえよ的なところがあるので、その前にひとつ考えておきたい議がございます。

「映画を観る→感想を書いて考えを深める」という作業は今のぼくからはやや遠いので、ここはひとつ、「映画を外側から眺めてみよう」という試みなのであります。

 議題としては「映画はこの先、ゲームに勝てるのかい?」です。

 リュミエール兄弟が映画を発明してから100年以上が経っているわけで、映画というメディアはかなり完成されている=飽和しているように見受けるのですが、一方ゲームというメディアはまだまだ躍進中の時代です。

 というか、もはや映画を内包する段階に入ってしまっているんじゃないかと思います。

 いまや映画EDのぼくですが、youtubeでゲーム動画を観るとはまってしまうのです。
 実際にやらないのかというと、これはやりません。なかなか時間が取れないからです。いや、こう書くとまるで忙しい人ぶっているようなので言い直します。ひとたびゲームを始めるとどはまりしてしまうだろうから、やれないのです。ゲームならいくらでも時間を忘れてやってしまうたちなのです。そういうわけで、見知らぬ人のプレイを観て、我慢しているわけです。ちなみに言うと、実況付きは嫌いで、淡々とやっているのが好きです。著作権法とかそういうのは知りません。

 これがまためちゃめちゃ面白いのですね。もはやこれは映画以上じゃないのか! という感動さえ覚えてしまう。自分でプレイしたらさらに面白いのだろうと思うと、いまさら映画を観ようという気がどうにも失せてしまう、とまあこういう要因もあるのです。

 はっきり言って、映画というのはたいていが他人事です。アメコミヒーローが勢揃いしようが、ピクサーのキャラクターが可愛かろうが、他人事であります。ゲームも同じようですが、これは違いますね。やはり、自分が主人公を動かすことによる没入感というのは観ているだけのものとはぜんぜん違ってくる。自分がその世界に入っている、この主人公は自分だ、という同期感覚は間違いなく映画以上です。

 それにくわえ、今現在のPS3、PS4レベルとなるともはやゲーム中のムービーが映画そのものでありますから、こうなると単に観ているだけの映画というのは到底勝てないんじゃないか、とそんな気がしてしまうわけです。物語の傍観者より、物語の中に入るほうが面白いのは、当然のことなのです。

 もうひとつ言うと、おお、ここまで進化したのか! という感動がゲームにはまだまだ強いわけですね。これが映画にはない。映画の場合はむしろ一周回ってしまって、「こんなすごい映像だけど、結局CGだろ」と思ってしまう。逆にゲームだと、「おお、CGでここまでやれるのか!」と思う。こうして書くとかなりゲームびいきの面があるわけですが、ファミコンやゲームウォッチの頃からやってきた人間からすると、その進化に感動を覚えてしまうのは致し方ないのです。個人的には興味がないのですが、たとえばキネクトを駆使した、体を動かして進めていくタイプのゲームもある。いろいろな遊び方がまだまだ考えられるわけで、こうなるとSF映画やアクション映画、ホラー映画の類は果たして勝っていけるのかと、疑問になってしまいます。ミステリーなんかもそうですね。あとは恋愛ゲームなどにしても、さらに高度化すれば、恋愛映画を超えてしまうかもしれない。

言い方を変えるなら、たとえば何か映画を観たとして、「ああ、これゲームにしたらもっと面白くなりそうだな」などとも思えてしまう。その時点で、映画というのは果たして本当にこの表現に適したメディアなのか? という疑義申し立てができてしまう。映画というもののありがたみが、間違いなく薄れた時代にあるなあと思うのです。

ゲームの映画化、というのがもはやさっぱりありがたみのない時代になりました。今度は逆のほうにありがたみが出ていくんじゃないですかね。過去にも映画のゲーム化というのはありましたけど、たとえば今のクオリティで、『ダイ・ハード』とか『ロボコップ』とか『インディ・ジョーンズ』とかをつくったら、それこそ本家以上に没入してプレイできるものになるんじゃないか。そんな気がしてしまいます。

 あえて喧嘩腰の物言いをしてみるなら、「映画? 既にゲームに超えられたメディアじゃないか。映画はゲームになれないけど、ゲームはもう映画を内包しているよ」

 もちろんぼくはそうは言い切りません。今まで感動した映画も多くあるので、たやすく上のようなことは言い切らない。でも、そう囁くのよ、私のゴーストが。

 それでも映画を観る価値はあるのか? 特にアメコミものだのSFだのホラーだのといった、とっくにゲームに超えられたものを観る価値はあるのか? 確かに映画が帯びてきた物語性というものはある。でも、そんなものはもはやゲームだって持っている。尺が取れる分だけ、小ネタが挟みやすい分だけ、物語性はゲームのほうが深くなりさえする。さて、映画はゲームに勝てるのか? とこういう話になるわけであります。ハイクオリティなゲームは映画に比べれば少ないし、ゲームは時間も取られるし、という消去法的な理由で観ているに過ぎないのか、はたまたそうでないのか。

こういうことも考えると、またまた映画は遠くなるのですが、さていかがでしょう。
 映画を外から眺める試みとして、ゲームと対比したらこんな感じになってしまいました。
 ぜひとも、いやいや、映画を舐めるな、ゲームなどは到底及ばんよ、というお話をお聞かせ願えればありがたいなあと思います。

 下に示すのは、人のプレイを観ているだけで面白い! と思ったゲームの例であります。 MGS5がここにもうすぐ加わるだろうなあという予想が硬いです。


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はあ、ふう、半年以上ぶりなのでございます。
「映画評を書く」という行為が日常から消え去りまして、するってえともう再開するタイミングもねえなあ、いろいろ忙しいし、ということで、半年以上放置していたのでございます。

 先んじて申し上げますに、いまだ再開の目処は立てていないのでございます。理由は様々にございまして、ここで開陳すべきものもそうでないものもあるという次第なのであります。映画というものが、今のぼくにはいささか遠いものなのでございます。

 そこで今回は、皆々様にご相談したい議があるのでございます。いやいや、相談などと言うとこれはどうにも深刻ぶっている風でよろしくない。まあざっくり言うならば、ぼくは今現在こういう思想を持っているのだけれども、あなたはどうかね、あなたはどう映画に相対しているのかね、聞かせてくれろ、いや別に聞かせてくれなくてもいいけど、くらいのもんなのでございます。

 これまで通り、うろうろとした要点の見えにくい書き方は健在ですが、タイトルをつけるなら要するに、「今のぼくと映画の距離感」みたいなもんなのです。ええ、まあ。

議題その1。「ハリウッド的娯楽作品にはもう何の食指も動かなくなっちゃったのよ」

これなんですねえ。うん。
 なんかもう本当にどうでもよくなっているのです。どうしてかなあと突き詰めて考えていくと、前にも書いたことですが、「もはやあの頃のような感動など得られない」ということなんですね、要は、ええ。つまりですね、たとえばアメコミヒーローものとか、怪獣とロボットの激突とか、宇宙空間で重大なミッションとか、まあ何でもいいのですけれども、たとえばそういうものがありますね。で、すごい映画だとなれば、わっしょいわっしょいと皆がまあこうなる。しかしですね、どうなんでしょうか。皆さんは「あの頃のような感動」を得られているのでしょうか。

 ぼくなどはウルトラマンとか仮面ライダーとかが大好きな子供だったわけですね。
VHSテープの映像に釘付けになり、日曜の朝のテレビ放送ではライダーが敵を倒した余韻に浸り、エンディングテーマとともに飛び跳ねていたのです。見えない敵と決死の格闘を続けていたのです。音楽テープを買ってもらったとなれば、それがたとえ公式発売のものではない、どこのおじさんが歌っているのかわからないようなテープであっても、まるで厭わずにちゃぶ台の上からジャンプキックを繰り返していたのです。一言で言えば、全身で感染していた。自分は将来ウルトラマンか仮面ライダーになるのだと、本気で思っていた。

 あの頃の感動には到底及ばない、と今のぼくは思ってしまうのです。
 いくら映像技術が発展しても、ぼくは既に、「すごい映像技術だ」という感覚を持ってしまっている。あの頃はそんなことを考えもしなかった。張りぼてのビートルやホーク一号を、本物以上に信じていた。ああいう風に向き合うことはもう、二度とできそうにないと思うと、なんだかしゅんとしてしまうのです。皆さんはこの辺、どうなんだろうとすごく思う。元気よく映画評を書いていた頃の自分に訊いてみたいけど、彼はもういない。そして今のぼくにはわからない。ツイッターなどで見てみても、わあロボットが熱いぜとか、きゃあこのヒーローが格好いいわとかいう声は見られるけれど、どうなんでしょう。本当に皆さんはかつてのような、あの感染と呼ぶほかない感覚を保持できているのでしょうか。あるいは、それらは皆つまるところもの悲しい、「幼児期の再演」に過ぎないのでしょうか。

 フィギュアみたいなもんもそう思ってしまいますね。幼児期には、ウルトラマンのソフビ人形と本気で会話していたんです。大人になったらそんな気は起こらない。せいぜいが集めて並べて、その様子をカメラに収めたりして悦に入ったりして、そんな感じになるわけでしょう。「いやいやそんなことはない、自分は大事にしている」と言ってみても、本当にそうなのか。子供の頃は取り上げられただけで泣きじゃくっていたぜ。今は平気で家に置いていけるだろう、外で活動できるだろう? あの頃みたいな一体感は、もうないだろう? 自分がどう見られているかとか、自分をどう見せたいかとか、あいつより俺の方が詳しいとか、どうでもいいようなことに、足を取られているだろう?

こういう言い方というのは、蒙昧だなあと自分でも思うんです。「そんなことを言ったら新しく感動することなんて、できないじゃないか」「新鮮な気持ちでものを見られなくなったなんて、老いじゃないか」というのは、言われるまでもなく自分で感じていることなんです。でも、拭いきれない感覚として、ある。

 さて、今もなお映画好きでいる皆さんは、この辺のこととどう折り合っているのか。素朴に、知りたいと思います。言ってやりたいことはあるがコメント欄じゃまどろっこしいぜ、という場合はツイッターの方がアクティブなやりとりができますので、そちらでもありがたいです。映画を観るということは、あなたにとって何事であるのか。議題2はまた追って、そのうちお話しできればと思います。
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久々に、何の構えもなく、面白いと言えるアニメに出会いました。
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 落語ものの話は何かないかなと探していたらこれを見つけて、しかし内容的には落語ほとんど関係ないやんけ、であって、それでいてすこぶる面白かったアニメであります。昨今のテレビアニメは気が向いたら見るという程度でぜんぜん詳しくないのですが、かなり久々に、素直に面白いと思える逸品でありました。『エヴァ』にせよ『ハルヒ』にせよ『まどマギ』にせよ、あるいは『あの花』とか、最近で言えば『悪の華』『進撃の巨人』とかっていうのは、どうしても何かこう、こちらを構えさせるところがあるわけですね。作品が放つ「やったるで感」に、こちらも身構えをしてしまうような感じがある。そういうことを一切考えずに楽しめたのがこの『じょしらく』であります。

 原作はあの『悪の華』や『進撃の巨人』と同じ『別冊少年マガジン』に連載されているのですが(なんと連載は次号で終わりだとか)、あまり原作には興味が湧かない、というか、なるほどこれはアニメだからこそ良いな、と思える作品です。漫画表現の旨味をさらに引き出しているのではないかと思います。
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 タイトル通りに女子の落語家の話なのですが、なんと実際の落語はまるで出てきません。各話のタイトルは古典落語をもじっているのですが、その内容をトレースしたような展開になるでもなく、楽屋で五人の登場人物がだべっているだけなのです。彼女たちの落語家風景は冒頭にちょっと出るだけで、修業したり稽古したりみたいな部分はまったくないのです。言ってみればストーリーはないに等しく、落語の知識はまったく要らない。そしてこれを見ても一切落語には詳しくなれない。それくらい開き直っているのが逆によい。テレビ版では『サザエさん』よろしく、独立した三話構成になっています。
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そういうものをなぜ褒め称えるのかね君は、というと、笑いのテンポがとてもよくできているのです。アニメの特性をフルに活かし、画で見せる、テンポで見せる、音で見せる、というのが非常にうまくまとまっている。テレビアニメでこれだけきちんと笑わせてくれるものを、ぼくは本当に久しく観ていなかった。観ている間、とても満ち足りた気分になります。
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初回のほうで、「このアニメは女の子の可愛さをお楽しみ頂くため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。」というのが出て、原作でもそのようになっているらしいのですが、それだけを切り出せばいわば「ガールズトーク」ですね。そんなもん、女子のおしゃべりなんざこの俺が楽しめるわけがないだろう、女同士が喋ってることなんざ一ミリたりともおもろないんじゃボケ、と、笑いに関しては男尊女卑大爆発の価値観を有しているぼくなのですが、これはね、演出次第でとても面白くなるわけですね。
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そう、このアニメは演出がとてもよくできている。こういうガールズトークならいくらでも観られる。世間の似たようなお喋り番組も、こういうものに演出を学んでみるとよいのではないでしょうか。と言っても、この表現はアニメじゃないと難しい。だからこそ、アニメという形式がとてもよく行かされた作品と言える。ストーリーで見せるもの、その世界観で見せるもの、キャラクターの魅力で見せるものなど様々ありますが、このアニメはキャラのよさもありつつ、演出で見せている。その意味で非常に正しい。
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 キャラづけも非常にうまく行っていますねえ。五人出てくる(というかそれ以外はほとんど出てこない)のですが、各人が各人の色をもって、まるでガキの使いのごとくに、各様のボケになる。ある者がボケならある者がつっこみになる。コントがいつでも即席される。この空間は非常によいものです。
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時事ネタやメタネタ、オタクネタなどをふんだんに配合しています。しかもわりとおっさん向けのものもあるんですね。今の十代わからんやろ、みたいなのもあったりして楽しい。ただひとつのフレーズで『ブレードランナー』を入れてみたり、それでこちらをにやりとさせたり、その辺の小気味よさ。あるいは作画に文句を言った人物が雑な作画になるなどのメタネタ。ぼくが一番好きな漫画が『魔法陣グルグル』なのですが、あれの遊び方を彷彿とさせるものがありました。
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 どんどん褒めますけれど、各回三話あるうちの二話目が、楽屋ではなくて外に出るんです。浅草とか築地とか方々を散歩する話で、その土地ごとの歴史とか豆知識などを織り込んでくる。ここがとても好もしい。楽屋では着物を着ているキャラクターがその回ごとに違う私服で出てくるというアニメ的、美少女キャラ的快楽を混ぜ込んでいるのもとても真っ当。細かいことですけど、五人のうち四人は成人だという設定もいいんです。何かにつけてマーケティングのため、登場人物の設定を十代にしてしまう昨今ですが、そこと一線画してちゃんと成人にしておくのは大変よいです。
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めっちゃ褒めとるな、という今回ですが、この『じょしらく』にはちょっとびっくりさせられたことがもうひとつある。アニメでは一切落語をやらないのですが、実はCD版というのがあるんです。そこでは創作落語がしっかり収録されているのです(ぼくは「にこさうんど」で発見したのですが)。惜しむらくはアニメ版の声優ではない起用がされているところで、おかげで一人分は聴くに堪えぬのですが(どれのことかは言わずもがな)、この音声版にははっとさせられた。というのも、これこそが声優という仕事の最も効果的な使い方であるまいか、と思ったからです。

 声優というのは声を多用に変えられるし、演技力もある。ということは、落語というメディア、特に音声で聴く落語には実は一番適した方々でもあるのです。この点においては本物の落語家以上かもしれない。なぜなら本物の落語家は舞台で身振り手振り顔つきなどで見せる部分も込みでのプロですからね。声優の持つ特性は、それと勝負できるんです。で、このCD版の創作落語がこれまた面白いのです。
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 創作落語ってどうしても広まりにくいというか、やはり落語と言えば古典だよね、ということになりがちなわけです。喧噪きわまる現代社会と、江戸時代のはっつぁんくまさん、喜六や清八の生きた社会ではあまりにも違うのです。現代版の落語だと言ってつくっても、サラリーマンと上司の会話で古典落語のようなものはできやしない。ここに現代の創作落語の難しいところがある。でも、アニメ的世界の声優的演技によっては、その困難をひょいと飛び越えることができる。実際にできているのです。
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 この方面で広がったらさぞ面白いのに、というものが詰め込まれているのがこの『じょしらく』なのであります。この作品についてはけなすべきところが見当たらないというか、とてもよく完成されているのです。連載は終了するそうですが、ぜひに第二期のアニメ版を期待するものであります。最終回の終わり方もこれまたなんか、やたらと格好よかった。このアニメをつくった人たちのセンスに脱帽、という感じでございました。

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途中で観るのをやめようかと思った一方、ある意味、三作の中で一番好きです。
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半分世捨て人みたいな生き方をしているため世間とは映画の歯車もまるで合わず、いまさら『エヴァQ』なのかよと言われそうですけれども、まあエヴァの『新』自体がいまさら感のあるものだったりもするのであって、DMMからやっと届いた『エヴァQ』を観たなり。
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 公開時には盛り上がっていたわけですけれども、その盛り上がりにぼくはちょっと「?」を感じていたのですね。というのも、やはりエヴァというのは90年代的な背景あってのものであるなあと考えているからです。

 テレビ放送開始が95年10月で、95年と言えば阪神淡路の震災とオウム事件でめちゃくちゃだった年。なおかつ世紀末が迫ろうとしている中での「新世紀」ものであり、崩壊した世界うんぬんというモチーフも見事にはまり、思春期的もやもやを抱えるタイプの主人公、碇シンジの造型も新鮮だった。社会学者やら精神科医やらが分析してみたり、宗教的なモチーフを探る研究本が出てみたり、エヴァというのはそれまでのアニメとはやっぱり違うもの、画期的なものとして映っていたわけです。

 平たく言うなら、90年代後半、エヴァの時代というのが確かにあったよな、という感じがする。20世紀アニメ最後の大発明だった気がする。そのような背景を思う中で、2010年代に入ってエヴァで盛り上がっている奴というのは何なのだろう、というのが、どうしてもある。
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 当時を知っていて今でもエヴァエヴァ言っている奴にはまだ言ってるのかよと思ってしまうし、今の十代がエヴァが好きだと言ったところで君らはもうゼロ年代以降の感性の持ち主だよねと思うし、今このタイミングでなぜエヴァなのだという感がどうしてもある。
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などと言いつつも、観終えてちょっとだけ考えてみたときに、ああ、これはこれでよいのだ、という風になぜか思えてきたの巻き、なんですね、うむ。
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正直なところ、途中で何度か観るのをやめようと思う瞬間があったんです。あまりにもどうでもよくなったので。知らない人たちがわんさか出てくるようになって、もう世界はめちゃくちゃになっていて、人物は合理的な行動を取れずにいて、一体どこで動力が稼働しているのかもわからない世界があって、もはや90年代的な空気などどこにもなくて。
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 やっぱりもう、今までの枠内で語るのは無理なんでしょう。監督も新しいことをやりたいのでしょうね。知らない人が出てきたり、今までの設定ひっくり返したりするのを観て、これならまったく新しいアニメをつくったほうがいいんじゃないかとも思ったのですが、まあそうは言ってもそれでは制作費も出ない。エヴァという枠組みを利用しつつ、最大限新しいものを描き出そうとしていたわけです。観終えてから考えると、その苦労みたいなもんがちょっと伝わってくるのです。
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 観ている間はカヲルとシンジの薔薇的くだりがあったり、真希波のノリが今回もまた鬱陶しかったり、もうこんな世界になっているのならどうでもええわ感満載だったのですが、観終えてみるとむしろ、「どうでもよすぎて好きになる」という作用が脳内に生まれたのですね。
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ある意味で「ポニョ感」があるんです。「ポニョ感」というのは、『崖の上のポニョ』がそうであるように、あまり肩肘張らずにぼけえっと観てたらおもろいやん、ということです。正直言って世界の崩壊がもうインフレを起こしすぎているため、まともに観る気が失せてくるわけですね。あの中で必死扱いてアスカが暴れ回っても、いや頑張れば頑張るほどに絵空事感が大きくなってくる。だからこれはその絵空事感を捉えて楽しんでいればそれでいいのであって、かつてのエヴァが持っていたような世紀末的な何事かなど、もはや論じるべき作品ではないのです。
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 だいたいにおいて人物たちの行動に合理性がないわけです。大人や渚に言いたいのは、「シンジにもっと説明したれよ」ということです。なんだか思わせぶりに、大事なことは言わないぜ的に振る舞いすぎていて、そのせいでシンジがいろいろ引き起こすことになりすぎなんです。
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 作品の構成自体が、大きなツカミを持っているわけじゃないですか。みんなびっくりしたわけですよね。あれ、ぜんぜん違うことになっているぞと。なんでミサトたちがあんな感じになっているんだ、萌えキャラ要素が足されたりしているんだと。で、シンジはこっちの訊きたいことをいろいろ訊いてくれるんですけど、そこでもなんかいまひとつ核心に迫った答えをしてもらえへんなといううちにまたぶっ飛ばされていく。ゲンドウはゲンドウで彼にちゃんと説明したったらええのにまともに会話しようとしない。過去作ではその辺がうまいこと行っていたんですけど、世界観が刷新されているからものすごく気になってくる。
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 東浩紀も指摘していましたけれど、あの地下深くに行ったときに、シンジが暴走する理由がもうぜんぜんわからない。情報強者たるカヲルが土壇場で「やめておくんだ」と言っているのに、アスカも精一杯止めているのに、単にカヲルについてきただけみたいなシンジが勝手なことをするんです。アスカはアスカでアホなんです。もっと説明したれよということですよね。「馬鹿じゃなくてガキね」みたいなことを言うんです。でも、それは仕方ないじゃないですか、シンジは何にもわからないんだから。だったら大人が善導したれよという話なのに、理由も説明しないまま力尽くで止めようとしているだけ。なんじゃこら、です。

 宇宙戦艦がどこでどう出来上がったんだみたいなのは後の話で説明するかもしれないけど、ああいう人物同士の非合理的行動というか、頭の悪い行動が大変に困る。あの異常な世界を生き延びた人間なのだからさぞ切れ者に違いないと思いきやまるで最善の行動を取れない。これではまるで、最高のクオリティのアニメができるのに人間の行動的合理性が描けない、制作者のメタファではないですか。

 でもね、ぼかあね、今述べたようなこともどうでもええやないかという感じになっているんです。ポニョ感に満ちあふれた作品として受け止めています。あれだけ世界を緻密につくってきたのにそんな感じでいくんや、というわけで、まともに考える気があまり起こらない。見方を変えればとても楽しい作品です。勝手にしやがれ感が満載です。というか、ぼかあ碇ゲンドウがひげそりか何かのCMで使われているのを観たときから、ああ、もう世界観を守っていく気とかないんや、あの『リング』の貞子を始球式に使うノリなんだ、と思って、半ばどうでもよくなっている。
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 まったく皮肉ではなく、新作が楽しみです。あんなにもどうでもいいものを、あのクオリティでつくってくれるというのは、なかなかあるものじゃないのです。皆さんも、批評性がうんぬんとか言うのはやめて、ポニョを楽しむときのように、アホみたいな顔をして観るのがよろしかろうと思うのであります。カヲルくんとシンジくんの関係がたまらないのよね! とか、たとえばそんな人たちと同じノリで。あるいは金曜の夜に「バルス!」とか言えちゃう感じのノリで。まさしく、これぞ新劇場版という感じなのであります。ある意味において、これまでの新劇場版三作の中で、ぼくはいちばん好きです。
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ばかばかしさの果てまでも。
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ロメロゾンビの終焉、ということについて前回触れましたけれど、正確には終焉というよりも、「完全なベタ化」というほうがいいのかもしれません。つまり、出てきて怖い存在ではもはやあり得ず、それをいかに遊ぶかのほうに時代は動いているわけですね。『ショーン・オブ・ザ・デッド』によってそれを感じましたし、『ゾンビランド』もそう。あとは『デッドライジング』なんかはぼこぼこにされる存在になり果てている感もある。各種ゲームでは銃器でばんばん撃ち殺すだけの存在という色合いが強くなってきて、おいしいところはモンスター的なボスキャラに持って行かれたりしている。こうなってくると、「完全なベタ」であるロメロゾンビはそれをいかに調理するかという素材になっていまして、本作ではもうとうとうウンコまみれになってしまいました。
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 副題が「TOILET OF THE DEAD」の本作では下ネタが前回です。ウンコだのオナラだのが大好きな小学生あたりがよろこびそうな話ですね。ただ、いざ児童に見せればトラウマ映画化する可能性が高いので、親御様は配慮が必要であります。
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 筋立てとしてはゾンビものの定番です。山奥に出かけた若者たちがゾンビに襲われるというのが骨格。でも、そのゾンビはくみ取り式の便所の中から出てきたりするため、糞まみれになっているのです。彼らは寄生虫にとりつかれているのですが、寄生虫はなぜか尻から姿を現すのであり、ゾンビたちは尻を向けて襲ってきたりするのです。AVはスカトロ畑の出身たる、井口昇監督ならではのゾンビものであります。
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こう書いていくとなんと下品なのかしらと眉をひそめられそうですが、一方ではアイドル映画という側面もあって、主演の中村有沙の好演が光ります。『片腕マシンガール』の八代みなせもそうでしたが、井口監督は実はアイドル映画の優れた作り手であるなあと思いますね。とても可愛く撮れています。AVというのはある意味アイドル映画みたいなものですから、彼の本業と言えるのかもしれません。で、本作では本当にこの中村有沙さんが頑張ったなあと思いますね。正直、十八かそこらの可愛い女の子であれば拒否したくなるであろう場面もあるんですが、ぜんぜん逃げていないのです。とても偉い。何の必然もなく胸を晒しているんです。ぼくはその心意気に胸を打たれます。
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 これはAV女優を愛でるのと通じているんです。やっぱり、世間的には日陰の存在になるんですよ。で、広告だの何だのできらきらしている女優やらモデルやらのほうが憧れの眼で見られるわけじゃないですか。でも、違うよねと。彼女たちのほうがもっと晒すもん晒してぶつかってるよねと。
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 本作の中村有沙もそうです。世間的にはね、決して本作は大衆の支持を得るようなもんじゃないというか、言ってみりゃきわもんの部類ですよ。そりゃあオシャレなドラマだの純愛映画だのに出ているほうがずっと綺麗でウケもいいでしょうよ。でも、それが何だと。こういう映画で裸体を晒し、必然もなく片方の乳首を晒しながら戦い、あまつさえオナラでぶっ飛ぶような被写体となっている。その姿に打たれますよ。現在二十歳かそこらの彼女が今後どういう芸能活動をしていくか知らないし、その先で本作があるいは黒歴史的な扱いを受けることがあるかもしれない。冗談じゃないよ。これは一級のアイドル映画ですぜ旦那。
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 アイドル×ゾンビ映画の本作ですが、クライマックスではゾンビはやはり役目を終えてしまい、エイリアン映画になります。これはゾンビの発想としては別段目新しくはないですね。ゾンビをゾンビたらしめているのは寄生虫で、その寄生虫には親玉がいてそいつがボスとして立ちはだかるというわけです。で、寄生虫は戦隊ヒーローものに出てくる敵みたいになります。フェアに言えば正直な話、CGがすごいというわけでもなく、ああ、今の日本のこの規模の映画だとこれくらいのクオリティだよな、ううむ、というもんだったりはするのですが、有沙ちゃんがすごく頑張っているのでそれはもういいです。それにハリウッド的なやりかたでやっても太刀打ちは難しいのだから、そこはわりきって「変な表現で攻めてやる」という心意気を感じます。
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最後に敵として立ちはだかるのは優希という人で、この子と有沙ちゃんのキャットファイトもまた見物です。アイドル映画の醍醐味のひとつに、このキャットファイトというのがありますね。ここがきっちりつくられていると観ていて面白い。『バトルロワイアル』の灯台もいわばそういうことです。イメージだのなんだのがあるし実現が難しいものではあるんですけど、そろそろネタ切れ感が出てきているAKBなどは、キャットファイトイベントを仕掛けてみると面白いかもしれません。
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他の役者の人、特に女優の人たちはなんというか、ひとつたがを外したなと思いますね。そこがとてもいいと思う。映画の中ではそれこそオナラをしまくるんです、ぶーぶー。あとは和式便器にまたがってお尻を晒したりね。そんなのって、女性としてはやっぱり嫌な部分じゃないですか。ある意味、性的な場面を演ずるよりも嫌なところがあると思うんです。でもそこを受け入れて演じきっていますからね。中村有沙ちゃんにいたっては、最後オナラのロケット噴射で空を飛ぶんです。昔の少年ギャグマンガみたいなことになります。こういうね、馬鹿すぎて誰も実写ではやろうとしなかったようなことを真っ向からやっているところ、そしてそれに挑む女優の様というのはとても感動的なものがあります。『片腕マシンガール』が「なんでもありの果てまでも」ならばこちらは「ばかばかしさの果てまでも」。こういうものは応援しなくてはいけません。
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 ウンコだのオナラだのそんなの嫌だな、若い女性がそんなのをしている姿は観たくもないなと思われるかもしれませんが、誰もが避けてきた部分に挑む様は感動的なのです。園子温監督が持つ魔法とはまた違う、井口昇マジックを、またも見せて頂きました。
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これもまた「ゾンデミック」の系譜。あるシーンの元ネタが気になるなど。
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ブードゥー教由来のゾンビというのは、「術師によって復活させられた奴隷的存在」という色合いが強いのですが、ここに「人間を襲う」という発想を加えたのがジョージ・A・ロメロで、ロメロは同時に「襲われた人間もまたゾンビになる」という感染の要素を加味しました。彼は生ける屍に「襲撃者」「感染者」という二つの要素を備え、現代までの主流なゾンビ像を造型したわけですね。

 映画に限らずゲームその他、世界で見れば既に何千単位でつくられているんじゃないかと思いますが、いまやゾンビというのは「蘇った死者」という属性が薄まって、「襲撃者」「感染者」という部分のみが重要視されているんじゃないかな、とも思います。

 というか、きょうびぼくたちがゾンビものに求めているゾンビ的部分というのは、もうずばりそこであろうとすら思うのですね。生ける屍ということはどうでもよくて、とにかく襲ってくる奴、しかも感染の危険がある奴、というこの二つの要素こそが現代におけるゾンビの本質といって差し支えないんじゃないかと思います。

 規模の大きな話にするときはそのほうがやりやすいんですよね。『ワールド・ウォー・Z』にしてもそういうことでしょう。ゲームで言えば『The Last of Us』もそうだし、そのほうがいろいろと都合の良い局面が出てきているわけです。本ブログで前々から「ロメロゾンビの終焉」について述べた来たのはそういうわけだったのです。

 ぼくはこのブログでも前々からゾンビ像について、「のろのろゾンビ」と「ダッシュゾンビ」の対比について書いてきました。そこでも、ダッシュゾンビのほうが好みであると書いてきたわけです。それはつまり、上記のようなわけなのですね。ロメロはダッシュゾンビは嫌いだと明言しているのですが、後続の作り手の多くが欲したのは「襲撃者」「感染者」のほうなのだろうと思います。死者がダッシュするのはおかしい、死後硬直もしているのだしのろのろ動くはずだ、と言うのなら、「だったら死者の部分は要らない」なんです。感染者でいいのです。そういうと「病気ならもっと体調悪そうにするはずだ」とか言われそうですが、「うるせえ、つまらないことを言うな」なんです。素早く動けたほうが面白くなる場合ってあるじゃん、ですから。リアリティがうんぬんということを言うのなら、ゾンビよりも凶暴化する感染者のほうがまだリアリティはあるんじゃないですかね、ふん。

現在では「ゾンビもの」と一言で言っても、それがロメロ的ゾンビを指すのかどうかが難しくなっています。ここはひとつ、非・ロメロ的ゾンビの出てくる作品を指す用語として、「ゾンデミックもの」を提唱しましょう。ゾンビ的ではあるけれどパンデミック性、感染者ニュアンスのほうが強い、という意味合いです。

その系譜をつくったのが『28日後...』でありザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』あたりですね。『28日後...』はゾンビではなく、「感染者」という部分を押し出した点で、ひとつの曲がり角を示したように思います。今回取り上げる『REC2』もその筋ですね。1についてはもう何年も前に取り上げております。近頃はゾンビもの、あるいは「ゾンデミックもの」を観ようと思っていて、いまさらながら2に手を出しました。

 全編がPOVなのは前作と同じです。もうそこが作品の命綱みたいになっていますね。違う言い方をすると、普通の撮り方ではもう何もないようなお話じゃないでしょうか。POVの美点は、ある場面にのみ集約されています。
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 ほとんどのシーンが、感染者に溢れたマンションの中で展開します。時間的には前作の直後から続いていて、「建物の中が大変なことになっているぞ、調査しろ」と特殊部隊隊員四名が乗り込み、専門家のおっさんが同行します。
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 1を観てずいぶん経つので虚を突かれたのですが、この映画はゾンビもの、感染者ものと思いきや、エクソシストものみたいになります。感染の専門家だと思われていたおっさんは実は神父で、教皇庁から特命を受けたらしいのです。この辺が一回ちょっとこの映画をぐだぐだにします。
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 おっさんの話によると、もともとの感染者はある少女で、そいつが悪魔に取り憑かれたのであり、是が非でもそいつの血液をゲットしてこれを解析、感染被害の拡大に対処しようということなのですが、もうなんだかよくわからない。「悪魔に取り憑かれた少女の血液を分析して感染を避ける取り組みに励もう」という目的がなんだかぶれぶれなんです。ウイルス的な何かなのか、呪い的なもんなのか。科学的に対処できるのか宗教的な方法が必要なのか。十字架をかざして対処したりしているので宗教的なのでしょうけれど、そこと「血液を採取せよ」みたいな任務の折り合いがすっげえ悪い。 
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はっきり言ってこのおっさんの言い分をごり押しするがために、物語上の説得力が大いに欠けるのです。任務だから最後までやり遂げるぞとうるさいのですが、どう考えても一旦逃げて体勢を立て直すべきだと思えてしまって、入り込めない。これは「追い込まれもの」の一番の基本だと思うのですが、「逃れようのない状況」をつくるのが土台じゃないですか。どうやっても逃れられないとわかって、さあどうしようという話になる。それが「とりあえず一旦逃げるという手があるやん」と思える段階でもう駄目なんです。嘘でもいいから、あのおっさんに「ちょっと無理っぽいんで一旦帰ります」みたいなことを言わせるべきなんです。で、無線機の向こうから「いや駄目だ。おまえは最後までやれ」みたいな声を届けさせるべき。あるいは絶対にやめられない事情があることを語らせるべき。それだけでもまともになる。それを怠る脚本というのがぼくにはもうわからない。
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 いいところはというと、終盤の「暗闇になると風景が変わる」というあれですね(あれと同じような手法を何かの映画で観た覚えがあるんですが、あいにく思い出せません。だれか教えてください)。あの場面はとても面白かったです。あの辺はもう条理とか理屈を飛び越えて、行ったれーという勢いを感じました。水の中に引きずり込まれたりね。あの方面で膨らませても面白いのになと思ったんです。「目的とする敵は暗闇の世界でしか確保できない」というのを押していけば、この映画は意義深いものになった気がする。そこのダークファンタジー感をもっと前に出せば、宗教的な云々も補強されたのに。

 うーん、先行作品で何かあった気がするんですけどねえ、なんだったかなあ。ゲームだったかなあ。これは気になるなあ。回答、大募集です。
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あの場面に出会えただけでもこの映画を観てよかったなとは思えます。あとは全部ぐずぐずとも言えます。大体の話、ぼくはキリスト教的な神が悪魔を圧するという設定が気にくわないのです。十字架というものの権威性あるいは福音派的な傲慢が鼻についてなりません。いや、それならそれでいい。そっちをしっかりしてくれればそれはそれで受け入れます。ところがこの映画はラスト、え、何なの、寄生虫的な何かなのというこれまた中途半端なイメージを放り込んでくる。どれにしたいねん、という話なんですね。ウイルスなのか、寄生虫なのか、悪魔なのか。あれをオチに持ってこられても、「いや、どないやねん」に近いもんがある。
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 別段にお薦めするものではございませんが、あの暗闇シーンの元ネタをぜひとも思い出したい、ということで、是非観てもらってお教え願いたい次第でございます。
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ショットガンの出てくる映画は、ショットガンに頼る癖がある。
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気づけば二ヶ月以上放置しておりました。近頃は映画をほとんど観ない日々を送っているのでございます。映画とのふれあいを強いて挙げれば、『バトルロワイアル』を繰り返し観て、なんて完璧な映画なんだろうとつくづく思い直す、というくらいのものなのでございます。パクリ疑惑が醸された『ハンガーゲーム』などを観て、これはとんだ駄作だと飛び上がったりしたくらいなのでございます。あとは近頃ゾンビものを観ようと思っているので、誰か教えてください。

 ところで、『バトルロワイアル』がえらいのはその作品中に、サービス精神が溢れかえっている点でございます。あの辟易するほどの長さを誇る原作から、映画にとって何が必要で何が不要かを適切に選別し、抽出している。構成もかなり几帳面にできていて、様々な地獄巡りを楽しめる。栗山千明のシーンと、女子たちの灯台のシーンはくりぬきで観られます。限られた上映時間内で、あのようなシーンをあの辺でぶちこむというのも、構成の妙が光っております。ぜひとも再見をお薦めする次第なのでございます。
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 さて、ほしたら近頃のんはどうかいのう、ということで、似たようなテイストも香っている『悪の教典』でございます。原作を楽しんだので、なるほどここはこう切るか、こう編集するかとあれこれ考えながら観てみたのでございます。『海猿』のヒーロー伊藤英明にサイコパスを演じさせるあたり、三池監督はやはり悪趣味で良いなあと思ったのであります。

 伊藤英明扮する高校教師・蓮見が、担当するクラスの生徒の大虐殺に踏み切る話です。映画的に言うと、どう転んでもそこが見せ場になるわけですね。そこさえオッケーならこの映画はもうオッケーなのです。上下巻ある長い原作では蓮見の過去や人間性であるとか、それぞれの生徒の背景や内面などがたくさん描かれますが、それをすべて入れ込むのは無理。だとするならこの映画ではクライマックスの虐殺がいかに描かれるかが勝負になってきます。

 その話は後でするとして、前半から中盤に至る日常描写はどうかといえば、高校生の描き方などはちょうどいい案配であったなあと思います。
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 二階堂ふみがますます宮崎あおいに見える本作ですが、彼女のちょっとべたっとした声色などはとてもいい感じであります。この作品の醸すちょいと暗い雰囲気によく合っている。友人のちょっと声が低い女子もいいですね。あの子のあの感じはなんだか、すっげえちょうどいい。『ヒミズ』コンビの染谷将太の小生意気な感じも存分に発揮されており、原作と違ってほとんど出番のない養護教諭役、小島聖のうさんくさい感じなども、この作品のテイストに合っている。
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 学校描写、生徒描写の場合、リアルかどうかなんてことよりも、その映画のトーンにどれだけ合致しているかが大事だなと思いますね。ちゃんとその枠の中に収まった振る舞いができているか。そこを考えずに今時の高校生像みたいなもんに寄り添おうとすると駄目なんでしょうけれど、この作品の場合はトーンと人物の温度がちゃんと合っているし、その点には何の文句もないわけであります。生徒たちがどこかAKBくさいところなども、ある意味とても正しい。蓮見と肉体関係になる女子生徒などは、昔のアイドルみたいな顔でこれはこれでよろしい。

 作品が進んでいく中で、いくつかの事件が勃発します。蓮見の正体に触れるような人が死んだり、厄介者が排除されたりするわけですね。この辺はねえ、うん、ちょっと難しいところがありますね。気に掛かるのは、殺される人たちに、「端からの負け役くささ」が漲っているところです。文句を言いに来る父親とかね。こいつら殺されるんだろうなあ、ああ、やっぱりやられたなあというのがね、盛り上がりのための段取りくさい。映画的にはクライマックスがあって、そこに向かうまでの盛り上がりが必須になるわけですが、その過程でちょっと段取り化している。いざ殺すところもささっと終わらせてしまったり、見せなかったり。こいつ生き延びるのかな、どうなのかな、うわ、やられちゃった、というドライブがないので、一方向的になるんですね。
 
これがこの映画の最大の弱点である気がします。
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第三幕としての時間はたっぷり取ってあります。四十分くらいありますから。
でも、その間伊藤英明が徹頭徹尾余裕の攻めなんですね。ここがもったいないところなんです。一方向的になる。クライマックスも半ば段取り的になっている。
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山田孝之扮する教師は原作の二人の人物を足して二で割ったような感じなんですが、原作ではそれなりに格闘するんです。これってとても大事なことです。別に原作との異同なんてどうだっていい。純粋に映画としての話です。やはり、伊藤英明はどこかで一度は追い込まれるべきなんです。そうすることで、映画に波が生まれるんです。その波が興奮を生み出す。ところがこの映画では彼が着々と殺していくことになる。 なんであれだけの尺をとって、山田孝之をあっさり殺したのか。ここにこの映画の弱点すべてが集約されている気がします。
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複数視点化するこのシークエンスをテンポ良く移動しているし、あの校外に出た女子生徒のように、「最期の台詞を言い終えられないまま死ぬ」なんてところも小気味よい。でも、でも、いやあ、難しいのですねつくづく。この種のクライマックスはひとつ選択をミスっただけで高く上がっていたボルテージが下がる。あの東大を目指している少年がそうですよ。あの場面であんな台詞のやりとりを入れると、熱が逃げてしまう。それに、これがどうにもわからないんですけれど、(あ、ネタバレをしますよ。というかもうしまくっているけれど)
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 どうしてあの「生存者二名いました」の前の段階で、二階堂ふみたちが生き残っているとわかるようにしてしまったのか。あれ、原作だとちょっと曖昧なまま勢いで読ませてしまうみたいなところがあるんですが、映画ならばあの警察のシーンで初めて明かせばよかった。そうしないと観客の思考が伊藤英明の思考を追い抜いてしまうんです。あれは後でネタをばらすようにしてよかったはずなのに。
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 この映画に限ったことではないですが、「ショットガンの出てくる映画はショットガンの銃声に頼る」という癖をどうしても持っていて、それと格闘する必要があるのですね。 ショットガンは確かに映画を盛り上げる最高の道具の一つだし、であるがゆえにそれなりにクライマックスは楽しめる。けれど、けれど、けれど。
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 この映画のもうひとつの弱点は、野蛮さに欠けるところです。
 野蛮じゃない。だから、シーンが焼き付かない。あれだけの凶行を並べながらそれは致命的です。どうも理に落ちてしまう。そうかと思えば二階堂ふみの目にCGを入れたり余計なことをする。そうじゃない。この手の映画に大事なのは、焼き付くような一瞬です。
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 それが漲っているのがたとえば『バトルロワイアル』の全シーンであり、たとえば『プライベート・ライアン』の序盤であり、たとえば幾多のゾンビ映画であり、たとえば『リング』のテレビから出てくる貞子であり、たとえば『悪魔のいけにえ』における朝焼けのレザーフェイスなのです。何かひとつあればもうこの映画は何だってよかったのに!

 総じて言うに、細部はおおむねよく配慮されているのですが、一番盛り上がるべきところで大事なものが決定的に欠けていた、という印象です。既に古い話ですが、AKBの人がこの映画を嫌いですと仰っていたそうです。しかし、大丈夫です。嫌わせてくれるほどのものではございません。人のこと嫌いになるってのは、それなりの覚悟しろってことだからな。
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その陶酔感においてはマスカッツの方々を凌駕する。
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 以前の記事でも述べましたとおりに、「マスカッツを愛するとはすなわち、マスカッツを超えるものを求めること」。というわけで、ぼくたちは新たな希望の依りしろを探すことが大事なのであります。そしてそのためにはAV女優のアイドルをどんどんと世に知らしめていくことがこれ大事であろうと思い、その種のキャンペーン記事でございます。映画評はどこへ行った、これではAV評ではないかね、もうおまえのブログは見ないぞ、と言われましょうが、映画評はそのうちやるので、今回はご勘弁願います。映画は放っておいてもみんな観るのです。マスカッツの種を広めるためなら、ブログの方針などどうでもよいのです。
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マスカッツの創生におきましては、蒼井そら様や麻美ゆま様、吉沢明歩様やRio様、あるいはみひろ様という存在が不可欠でございました。そうした超一線級の方の発掘が重要でございます。そうしたときにkarasmokerがなんとしても語らずにはおられないAV女優、第一弾。由愛可奈さんでございます。「ゆめかな」と読みます。
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由愛可奈さんの作品を網羅しているわけではぜんぜんないので、もっと魅力を語れる方もおられようかと思いますが、ぼくはこの作品を観て、おおう、これはちょいと、なかなか、おおう、と感銘を受けたのであります。
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構成はというと、インタビューと絡みを繰り返す形式でございます。両方ともがきちんと見所であって、彼女の素顔を活写しているのであります。
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 マスカッツの偉大なる功績として、AV女優が背負う陰を和らげたということがあります。人にばれてはいけない、なんて後ろめたく生きるのではなく、堂々とAV女優が光のもとに立った。自分の職業はAV女優である、というアイデンティティを誇らしいものとして認めさせた。あるネット番組の中で、かの吉沢明歩様がおっしゃっていた言葉を知る人があるかもしれません。彼氏にAVをやめてくれと言われたらどうするか? と尋ねられた彼女は、凛としてこう言い切りました。
「やめない。やめろと言われてやめるようなことはやっていない」
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由愛可奈さんも、堂々とAV女優として生きていらっしゃるのが本作でわかります。ご両親には、デビュー前に既に話したとのことです。AV業界は広く深く、親にばれたのでやめるなどという方もいらっしゃいますし、そのほか職業の特殊性ゆえに人格的な支障を来すケースもあると聞きますが、彼女は自信の職業的アイデンティティを真っ当に保持しているようなのであります。実に頼もしいのでございます。
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 彼女を推さざるを得ないのは、セックスにおけるその心酔ぶりであります。これはAV女優にとってとても重要な要素です。こう言ってしまうとあれですけれど、マスカッツの方々は実はこの点が弱い。皆様は女優としての心得が十二分にあるがゆえに、見る限りそこまで自己を解放しない。「マスカッツのAVって抜けないよね」というネット上の声も多くありますが、原因の一つがこれでしょう。今回は詳述いたしませんが、これはエスワン系AV全般に見られる傾向ではないかと思います。
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その点において、由愛可奈さんは蒼井そら様をはじめとするマスカッツのほとんどの姐さんたちを既に凌駕している。そう見えるのはもちろん監督であるカンパニー松尾さんの手練手管があってこそとも言えますが、別の作品においても、由愛可奈さんの奔放さは時として半ば感動的ですらある。痴女的演技においても、ああ、ここまでの演技ができる女優は、マスカッツの中には誰もいないとまで思わせる。こういう方を目にすると、壇蜜ごときがエロスの代表格のように言われているメディア状況が、いかにゴミ同然のものであるかが知れましょう。あんなの、黒木香の足下にも及びやしねえじゃねえか。
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 由愛可奈さんのような方がたくさん出てくれば、種子の繁栄も夢ではないと思えます。
 吉沢明歩様やみひろ様と一緒にバラエティに出たりもしているので、その点でも有望株でございます。一方、普通の映画などでの演技は、トレーラーを観る限り、あまり優れたものではなさそうな気もします。彼女は女優ではなく、まさしくAV女優であると言えましょう。
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作品内容に踏み込んで評しておらぬではないかと言われそうですが、いい映画を観た後のレビウが時としてそうであるように、「うだうだ言うより観てもらった方が早い」と思ってなかなか書けないこともあるんですね。最初の男優との絡みはそれほど好みじゃないんですが、カンパニー松尾との暗い室内での絡みは絶品です。

今後も気になる女優を取り上げていきたいと思います。
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 ところで、この種の記事は何かに引っかかるんでしょうかね。
 18禁の映画はよくて、AVはいけないのかな?
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ある設定を根本的に変えていれば、素晴らしいものになったように思うのです。
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 放送当時、好事家の間で話題になり、今年の夏には劇場版が公開されるということで、伊集院がラジオでちょいと触れていたのもあって、観てみました。

 あらすじをざっくり言うと、不登校の男子高校生のところに、何年も前に死んだはずの少女が現れるところから始まります。彼女の訪れをきっかけに彼はかつての仲間たちと再会し、死んだ少女への思いを通して再び皆が心を交わし合っていく、みたいな話です。
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うーん、久々なので加減がわからん。いや、これはですね、ぼくにはちょいときついところもありました。その理由はもう完全に明白で、ヒロインたるめんまのキャラクターです。あれはねえ、もういい年をこいてくるときついですね。だからもう、ぼくみたいなもんは端からお呼びでないというか、めんまについていけない人間は観ちゃ駄目なのかもしれませんね。あんな風な萌え萌え幼女的な感じで来られると完全に引いてしまうのであって、あるいは『ハルヒ』における朝比奈みくるのようにキャラづけに何か批評性があるのかと思いきや最後までそうでもなく、めんまがきゃぴきゃぴするたびに心がささくれ立ってくるという不健康な状態で観てしまったので、その辺がどうもあれなんですね、はい。
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 同年に放送された『まどかマギカ』も序盤は萌え風味が鼻につくなと思いつつも、結構物語的な部分とか魔女戦の演出とかキュウべえの謎とかがあったのでよかったのですが、今回はめんまがねえ、うん、ここについては後でちょっと掘り下げます。
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 あとは「デレヤレの構図」ですね。これは思いつきの造語ですが、ラノベやアニメに広く観られる構図です。冴えない主人公のもとに突如現れた少女が無償の愛を捧げながらデレデレし、一方主人公は内心惹かれているにもかかわらず村上春樹由来の「やれやれ」な態度を取る。アニメでは『うる星やつら』のラムちゃんがその金字塔ですが、それをいまだにありがたがっている状況含めて、ちょっと辛かった。
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 観終えてみると、めんまに引きずられたというか、持って行かれた部分がかなりあるなーというのが気になります。主人公と四人の仲間たちが出てくるんですが、彼らの造型というか、物語面がちょっと弱いように思いました。悪く言うと記号的にも思える。確かにそりゃクールなイケメンが女装したりというフックはある。でも、観終えて振り返るに、彼らのことをあまり長くは覚えていないだろうな、と思えてしまう。特に、ぽっぽとつるこは役割的な描かれ方が大きく、彼らの内面に踏み入れない。最終回で感情が爆発するのですが、それまでの話で重しが充分に機能していない。ぽっぽなんかは特にそうでしたねえ。最終回前まで、賑やかしの安定キャラでずっと行っちゃった。あれはどこかで伏線を張っておくべきだった。
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いろいろと文句を垂れてしまい恐縮なのですが、めんまに引っかかり続けていた人間としてはずばりこう思うのですね。賛同を得られる見込みの少ない、元も子もないことを言いますね。

 ぼくね、これはね、めんまの姿を見せないほうがよかったのではないか? という風に思うんです。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! めんまはあんなに可愛らしいのに!」

 ええ、だからもうね、めんまが好きだという人は読んでも意味がない話をするので、切り上げてくれて結構です。でもぼくは観ながら、ああ、これ、めんまの姿が視聴者にも一切見えていなければ、それこそすごいアニメになったんじゃねえかなあっていうのがあるんです。

視聴者は最初からあのとてつもなく可愛いめんまが見えてしまうわけで、主人公とずっと目線を共有することになるんですけど、その分、仲間たちが見せる当初の不理解ぶりを一切共有できない。先ほど、仲間たちの造型について述べましたが、それと繋がる話です。
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 勝手なことをあれこれ続けますが、これ、作り方としては、せっかく十一話あるのだし、他のメンバーを主軸の視点にして数話つくったほうが、深まったんじゃないかって気がしてならないんです。視聴者にも見えないようにしてそのつくりにすれば、もっと彼らに寄り添えた。あ、ネタバレをしますね。知りたくない人はここでやめてくださいね。
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 ええと、続けます。
 そういうつくりにして、最後の最後にだけ姿を現せば、「みぃつけた!」が最高に活きた。あそこでみんなが見つけてもねえ、こっちは第一話からがんがん来られてますからねえ。「みぃつけた!」からの、消えてしまう、がぜんぜん活きないんです。その「夏の幻」感がない。まったく得られない。
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姿を見せずに声やものの動き、あるいは筆談でその存在を示す。それを視聴者も共有する。めちゃくちゃなことを言っているようですけど、これは実は最もアニメ的な表現の提案でもあるんです。というのはね、そのやり方は絶対に小説ではできない。やっても仕方がない。それに漫画でもできない。漫画ではものが動いたり声が聞こえたりをアニメほどアクティブには描けないですから。あるいは実写映画でもできない。実写映画でやったら、成長前のめんまと成長後のめんまの役者が変わるので、最後の場面を説得的には描けない。そう考えていくと、姿を一切現さなかったら、もっともっと深く刺さるものになったんじゃないかって気がしてしまうんです。

 事実、筆談で仲間たちがめんまの存在を知る場面がありますけど、あれなんかも、姿が一切見えないほうが鮮烈に映ってくるはずだし、ラスト近く、仲間へのメッセージとしてへたくそな字で書かれている文字も、『アルジャーノンに花束を』よろしく、「消えていく存在」の儚さが強まった。主人公には見えていていい。でも、視聴者が見えている必要はない。

めんまが高カロリーな萌え萌え幼女キャラで実在感を示してくる分、周りの仲間にしても、めんまの母の狼狽にしても、ちょっと滑稽に感じられてしまう。視聴者には完全に見えている分、彼らの感情の揺らぎをまったく共有できない。

 なんであんな萌え萌え幼女造型にしたんだろう、というのがものすごく引っかかる。そんなの腐るほどある。地味な見た目になるのを回避したかったのでしょうし、キャラ商売をするうえではそのほうがいいのもわかるんですが、「この話を形作る上で最も的確な方法だったのか? 視点構成だったのか?」というのがすごく疑問として残る。文句ついでに言うと、なんでめんまだけあんな西洋人的な感じなのか。ウィキによるとロシア人の血を引いているなんてことなんですが、その設定の必要理由が何もわからない。単に画的な華を添えたいのか? 透明感みたいなことを言いたいのか? いや、透明感ってキャラでもないわけですし、なんであんな風に妖精的な持って行き方にしたのか。精神的には子供のままなのに肉体は大人びている、みたいなところの媚び要素もあざとくて鼻につく。この話の良さを高めるうえで、本当にあのキャラ造型で正しかったのか? 日本人のコスプレイヤーは泣きを見るぜ。白人にやられたら勝てないぜ。

「正しいに決まってるし。てかめんま超可愛いじゃん。何文句つけてんの。イミフww」

おまえはいつまで読んでいるんだ。読まなくてよいと言ったのに。
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だからあれですね、結局こういう共感を得られそうもない提案をしているぼくのようなじじいは、対象年齢から外れているんです。ポケモンが懐かしゲームとして出てくる設定にしてもそうで、中高生が観て満足すればそれでよいのですね。逆R―20指定作品として設定してもよいのかもしれません。中高生向けのアニメにわざわざ当たりに行っているぼくが当たり屋なんです。どうかご容赦くださいませ。今後の更新は未定ですが、引き続き気まぐれにやっていこうと思います。それじゃあ今日は、この辺で。




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終わっちまったのか? まだ始まってもいない。

 気づけば二ヶ月以上滞らせておりました。
 この二ヶ月ほど映画は本当に数えるほどしか観ておらず、映画について語るよりもせねばならぬことに追われていたような感じでございます。また、映画から刺激を得ることにあまり魅力を感じなくなっておりまして、今もそれは継続中と言えばそうなのです。また調子が戻ったら立て続けに書き出すでしょうが、近況はそんなところであります。

 さて、我らが愛する恵比寿マスカッツは去る4月7日をもって解散いたしました。
 解散コンサートに馳せ参じたかといえば、ぼくは行っておりませぬ。といいますのも、解散発表後に行われたファンクラブ先行のチケット抽選。ここをぼくは逃したのです。マスカッツ解散のショックに見舞われ放心していたこと、認められぬと嘆き続けていたこと、マスカッツを継ぐ者を探してアンテナを伸ばしていたこと、仕事が忙しかったことなどが原因で、チケット抽選の機会を逸してしまったのですね。こうなるってえとS席の一番いい席などはもう見込みがなかろうというもんで、だったらもう、いいや、とこう思ったんです。もともとライブに通うタイプでもありませんのでね。

 と同時に、ぼくは思いました。どのみち、総合演出のマッコイ斉藤よりも最前列で観ることはできないのだと。たとえ最前列であっても、ぼくは観客という立場でしかあり得ず、どうしようもなく分け隔てられた壁のこちら側なのだと。この感覚は、多くのファンの方々とは違う部分じゃないかと思います。気の利いた合いの手や精一杯の応援で盛り上げる、という立場を自認する方はそれはそれで大変よろしかろうと思うのですが、ぼくにはそれが辛い。自分が愉しんだところで、マスカッツを広めることができない。ぼくにとっての理想は、マスカッツの種子が肥沃な大地で次々と芽吹くこと。その種の蒔き手になれなかったことが悔しくてならなかったのであります。

 行かなかったことは、後悔しております。しかし、単に悪い感情ではございません。
 聞くところによると、休養中の麻美ゆま様、そしてあの桜木凛様、そしてそしてみひろ様やかすみりさ様、KONANさんなども一緒に歌い踊ったということでございまして、なんと五時間の長尺で行われた模様です。ああ、それはさぞよいものであったろうなあと思います。その終わりにおいて、行かなかったのを存分に後悔させてくれる代物であったことは、むしろ悦ばしくさえ感じているのです。

そして同時に、こんなことを思います。自分にとってのマスカッツは、まだ終わっていないのだと。いや、まだ始まってもいないのだと。そう、ここでも既に述べております通りに、マスカッツは完全なグループではなかった。その証拠のひとつが、解散コンサートを武道館や国技館に断られていた、ということです。おそらくは、AV女優というその存在の特殊さゆえに、「伝統」なるもんを重んじになられる良識ある武道館の担当者の方などが、拒否なされたのでありましょう。ああ、なんて悔しい! マスカッツは結局、勝てなかったのです! 皆さん、思い出しましょう! 『おねだり!! マスカットDX』時代、番組の中で彼女たちは「武道館に立ちたい」という夢を述べ、小林Pに「武道館なんか行けるわけねえだろ!」と言われてしまった。戯れの一つではございますが、当時は、いつか行けるのではないか、とみんな願っていた。しかし、現実はどうでしょう。哀しくも小林Pの言ったとおりになってしまったのです!

 皆さん! マスカッツを愛する皆さん! 皆さんがすべきことは、マスカッツの解散で心に穴を開けることでもなければ、在りし日の番組を懐かしむことでもありません!
 彼女たちが叶えられなかった夢の続きを、我々が見続けることなのであります!
 マスカッツを愛するとはどういうことか。
 それは、マスカッツを超えるようなAV女優ユニットの創生を希うこと!
 マスカッツの叶えられなかった夢を叶える、別の存在を求めること!
 ご想像くださいませ。いつか、そんなユニットが生まれたとき、かつてのレジェンドとして、マスカッツが再び結集する姿を! ああ、今のこのユニットがあるのは、あのときマスカッツがあったからだよなと、心からそう思える日を! 
 マスカッツはまだ終わっちゃいない!
 その種子が実ったとき、もう一度マスカッツは輝くのです! 断じて、彼女たちを時代の徒花のようにしてはいけない。
 振り返ることはならぬのです!

懸命なる皆々様におかれましては、今後もマスカッツの彼女たちに匹敵するようなアイドルを、芳しきAVの大地において、見つけていくことがこれ肝要でございます。
 AだかKだかBだか知らねえが、あんなもんが俺たちの時代のアイドルだなんて、認めるわけにゃあいかねえ!
壇だか蜜だか知らねえが、あんなもんがエロスの代表だなんて、認められるわけがねえ! そういう思いを胸に、マスカッツの種子を撒くためにできることは何なのかを真摯に考え、日々を生き抜こうではありませんか。
 マスカッツを愛したなら、あんたの中に、種は宿っただろう?
 その種を、これからも、撒いていこうじゃあねえか。
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おもしろAV紹介の巻き、です。
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※当記事の内容は人によっては不快な気分になる恐れがあります。健全に育成されたい未成年者は読んではいけません。某アイドルグループが好きな人は面倒くさいので読まないでください。読んでも無視してください。

 丸刈りでわいのわいの言うているこのタイミングで放り込んでやれい! ということで、なんと今回はアダルトビデオの紹介でございます。いやあ、さすがにそれはまずいんじゃないか、何かしら利用規約的なものに引っかかるんじゃないかとはらはらしているのですが、その場合はぶうぶう言わずに引っ込めるので、なにとぞ御寛大な処置をお願いするのです、はい。

 おいちょっと待て、おまえはマスカッツが好きだったんじゃないのかおまえ、ということですが、はい、当然マスカッツが好きなのです。しかし、解散が近づくにつれまして、大事なのはマスカッツそれ自体よりも、その種子を継ぎうるものなのではないか、という思想も一方には生まれてくる次第でありまして、こういうものにも目を向けていこうじゃないかということであります。

 マスカッツはAV女優中心のユニットではあっても、AV女優だけのユニットではなかった。その点で不十分だった。ぼくは心の中で、純粋なAV女優ユニットの隆盛を待っているのであります。マスカッツなき後には、そういったものが出現してほしいと思うのであります。SOD含め既にそうしたグループはありますが、勢いを持つには至っていないのであります。今現在のAV界には、丸刈りちゃんなどよりもはるかによろしい逸材が揃っております。マスカッツの他にも、由愛可奈、成瀬心美、晶エリー、麻倉憂、希美まゆ、大槻ひびき、挙げだしたらきりのない逸材が多く揃っているのです。そういう部分に世間はもっと目を向けねばならぬのでございます。業界関係者の方々にはぜひ英断を期待するのでございます。
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 さて、本作はパッケージやタイトルからも明らかなとおり、AKBを完全にぱくっているのでございます。AVメーカーSODクリエイトが、「SOD国民的アイドルユニット」として打ち出し、楽曲までこさえているのでございます。これはなかなかに愉快なものなのでございます。

本作はどうやらAKBの番組を模したものらしく、ぼくはその番組を観たことがないのでどういうものかわからぬのですが、まあバラエティ番組っぽいノリでやっているわけです。AV=自慰行為にふけるものとだけ考えている人には、これはまるで違うのだぞと申し上げます。本当にバラエティ番組みたいな感じで進んでいくのです。その随所随所で明らかに常軌を逸したことが行われており、AVとしても成立しているのです。SODらしい悪ふざけが爆発しているわけです。
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 もともとSODという会社は高橋がなり社長がつくったもので、彼はテリー伊藤のもとで『元気が出るテレビ』をつくっていたのです。だからSODにはもともとバラエティの血が流れているわけで、こういう変なことをする面白いメーカーです。最近はDMM系に押されているのですが、こういうのを観ると、AV界の異端児としてのSODを強く感じます。
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 メンバーはというと、これはさすがにマスカッツや単体系女優ほどの可愛らしさというのはないのであって、エキストラとして出ているひな壇の人などは明らかにブスなのであって、SODはなんで単体をもっとこっちに回さないのかな、絶対もっと可愛らしい人がいるのになと思わずにはいられず、その点は残念であるのですが、まあメンバーも一昨年と去年とで入れ替わっているし、今後に期待、ということであります。超激似と謳っていますが、別に似てはいませんのでその点は了承する必要があります。琥珀うたは声も張るし前に出られるし、もっとバラエティ方面に打ち出してよいと思います。ユニット第二章で朝田ばななと椎名ひかるが抜けたのは残念なことであります。第三章での復帰を期待するのであります。
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 全体の構成としては、スタジオ収録のバラエティ番組っぽいミニゲームをして、罰ゲームをしての繰り返しなのですが、そのゲームや罰ゲームが、普通のバラエティ番組ではもう絶対にあり得ないことをやっているのです。お笑い芸人などが無茶をする企画とかDVDとかは邦洋問わずありますが、これはそれとも違っていて、まさしくAV女優にしかできないことをやっている。マスカッツもやらなかったこと、地上波ではあり得ないことをやっている、これがいいのであります。笑いながらチンコを立てる、奇妙奇天烈な内容なのであります。 
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わかりやすいところでいうと、「箱の中身は何だろな」という古典的なゲームがありますね。このDVDでは、その中身をチンコにしている。そしてそれを女優が、さも普通のバラエティのときのように、わかんなーいなどと言いながら触るわけです。これって、もしかしたらどこかの芸人のバラエティDVDにあるかもしれないですけど、絶対に地上波ではできないわけだし、芸人でもそれを咥えるまでには至らないわけです。よしんば咥えたとしてもそれは気持ち悪さをどうしても持ってしまうわけですが、こちらの場合はエロになる。こんなものは、なかなかあるものではない。
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バラエティ番組としてみれば、もうちょっと編集とかつくりこんだらええのに、というところもありますが、そこはいいです。二時間あるので間延びしますが、こういう野心的なものをつくってくれているので文句はありません。これ以後にも似たような作品があるんですが、そちらはちょっとエロに寄りすぎていて、こういう危ういバランスのものではないようです。

 恋愛禁止だ丸刈りだとごちょごちょ抜かしている世間に嫌気がさしているあなたは、こういう変なものを観て、笑い飛ばしてやればいいのです。
FUCK!!
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# by karasmoker | 2013-02-05 00:00 | Comments(0)
二時間かけて語られてもなあ、でした。
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 巨匠ポランスキー監督作で、受賞も多く、高評価の作品と見受けますが、ぼくにはどうもぴんと来なかったのが本音でございます。

 イギリスの元首相と、彼の自伝を書くことになったゴーストライターの話です。首相の名前は架空です。イラク戦争と思しき戦争にまつわる報道が出てくるのでいちばん近いのはトニー・ブレア元首相ということになるのでしょうが、イラク戦争に対するイギリスの政治的責任、とかそういう話にもあまりなっていかないので、それはそれ、「政治をめぐるサスペンス」みたいに観ればいいのですね。
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 ユアン・マクレガー扮するゴーストライターは、ピアース・ブロスナン扮する元首相と出会い、彼の自伝を書く作業を始めます。しかし、この首相が戦争時、捕虜の拷問に携わっていたぞ、という報道が出てきて、彼の身辺がにわかに騒がしくなります。そんな中でマクレガーは自分なりに元首相の過去をいろいろ調べ始めるのですが、その過程で首相の話したことと出来事のずれなどが発覚したり、前任のライターの不審死がきな臭いものに思えてきたりして、彼は「政治の裏」にどんどんと首を突っ込んでいくことになります。
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 うーん、ただこれねえ、中盤から「この程度の話になるなあ」感を覚えてしまうんですね。映画は二時間観るなら二時間の中で、やっぱりなんというか、何か考えの種がほしいんですね。もちろん、たとえ何も残らなくても二時間ばっちり愉しませてくれるものもいいんですけど、これはなまじ政治の裏の話とかしているんでねえ。だから、現実を忘れてその二時間を愉しめばよい、というものでもないし。そう考えると、政治に何の興味もないよ、という人ならいいのかもしれないですね。褒めているのはそういう人じゃないかなという気もしてしまいます。今のぼくは「ポランスキーのこの映像美学を観よ!」と言われても、そちらにはとんとインポテンツなので。

ネタバレーション警報。結末の話をしますね。
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 この映画に大きく絡んでくるのはCIAです。ざっくり言うと、CIAが(つまりはアメリカが)イギリスの政治を裏で操っているのだ! みたいな結末です。このマクレガーもそこを追及する形になっていくんですね。CIAと関係していると思しき人物が元首相との関係を隠していたりするし、その関係に触れたから前任者は死んだのだ、みたいなにおいをさせたりもするし。で、最後には、「首相の妻はCIAの人物だった!」というところでびっくりさせるみたいなね。
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この結末に至ったところで、ああ、やっぱりつまらない話になっちゃったな、と思ったんです。っていうかこの話って、日本人からすると、何の衝撃もない話じゃないですか。そんなこと言い出したら、こちとらずっとアメリカに操られているぞ! ってなもんですから。こちとら憲法も米国人製で、「戦力は、これを保持しない」はずだったのに、朝鮮戦争があって保持することになって、その結果違憲状態のまま半世紀以上が経過したぞ! この国の保守は親米がメインなんだぞ! なんか知らないけど親米的な内閣ほど長続きしてきた国だぞ! 日本の従米・属米をなめるな! ですから。だからねえ、イギリスがアメリカに操られているのだ! って言われてもねえ、なんです。
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そもそもぼくはどうもこの、「操ってる系」の話、「陰謀論的」とでも申しましょうか、この手の話が好きじゃないんですね。

 わかりやすいんですよ、陰謀論というのはね。この世界には絶大な影響力を持つ組織なりなんなりがあって、世界はその組織の考えで動いている、みたいなのってわかりやすいじゃないですか。でも、それはちょっと見方が拙い気がしてならないんです。実態なんて何もわからないぼくですが、要するにアメリカにせよCIAにせよ、抜群に手回しがうまい国家、組織だと思うんです。いくつものシナリオのシミュレーションがあって、どこがどう動いてもいいように早めに手回しをしている。相手がぼんやりしているうちに早めに動いて、自分たちがうまくやれる方向に仕向ける。そういうのがうまい国だと思うんです。

 その外交能力、処理能力にめちゃめちゃ長けているんだと思う。だからこそ、傍目からはすべて彼らの仕組んだことに見えてしまったりもする。アメリカがどこそこの国と実は裏で手を組んでいるんだ、とかいうのは、「手を組む」じゃなくて「手を回す」が正確なところじゃないかと思うんです。向こうの国がこう来たらこう返す、こう出てきたらこのように対処する、あちらがどのように動いてきてもこちらの国益を損なわないように準備しておく、みたいな構えがあるんだと思うんです。そういうことをまるで考えない人たちが「陰謀」という話に飛びつくんじゃないでしょうか。そこで考えるのをやめれば楽だから。

 この辺の話をすると膨らみますけど、政治的陰謀論って、「自分が不幸なのは世の中が悪いんだ」的な心性と結びつきそうなんですよね。誰々が悪いから自分は不幸だ、あの組織がこうだから自分は不幸だ。そう考えるとそこで楽になれるんです。でも、それはあまりにも単純だよねってことです。もちろん実際にそういう場合もあると思いますけど、こと国家同士の話になったときには、そんなに単純とは思えない。
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 陰謀論を膨らませてしまうのは、外交能力の無さを、あるいは自分の弱さを見ないようにするための、悲しい慰撫に見えたりもするんです。「仮面ライダーのいない、仮面ライダー的世界観」とでも申しましょうか。
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 映画から遠く離れました。そのうえでこの映画を考えるとね、やはりどうしても物足りない。ラスト、この映画における「衝撃の真実!」に触れた主人公が殺されたことを暗示して終わるわけですが、国家が個人の告発を握りつぶすなんて、もうそんなのいくらでもある話でしょう。政治運動をしただけで投獄される国だってあるわけです。そこをねえ、ラストに持ってこられてもねえ。敏腕きわまる国家の連中に対して、個人が闇雲に動いたらそうなるよ、というのは案の上の結果です。二時間以上あって、こちらの思考を何一つぶらしてくれない。
 
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 興味が湧くとすれば、この映画の結末に驚いたり満足したりしている人の頭の中です。 その人がどういう目線で、日頃政治というものを考えているのかには興味があります。 
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ぴんとこなければそれはそれで幸福。
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最新作を除いて、ここしばらくの園作品はずっと観ていたのですが、一本だけ観ないでいた作品です。特に理由はないのですが。

 いざ観てみるとゼロ年代の、『自殺サークル』『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』などの系譜にある作品だなあとつくづく思いました。いわゆるひとつの園ワールドが真っ当に体現されているなあと思うのでした。

 神楽坂恵演ずる貞淑な妻が娼婦へと変化していく話、というのが主軸です。富樫真演ずる娼婦(昼は大学教授)が、彼女を陰の世界へと引きずりこみます。一方、女性が被害者である猟奇殺人事件が起こっており、それを捜査する刑事として水野美紀がいます。この三者の動きで話が紡がれていくわけです。
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 リアリティは度外視、熱量で押す。というのが園子温のひとつの形です。園子温と増村保造の類似についてここで何度か述べていますが、どちらにも他の日本映画とは異質な、演劇的な空間があります。だからまず言っておくべきは、本作をしてリアリティうんぬんというのは、とても間違った見方であるということです。ぼくは園監督の作品を観ると、「マジック」という言葉が似合う監督であるなあとよく思うのですが、ひとつのマジカルな世界をつくりあげて、そこにどろどろとしたものをぶちこむのが彼の得意技だとぼくは捉えています。
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 その点について、ひとつの明確なサインをぼくは感知しましたね、ええ。
 というのはね、主人公の神楽坂恵。彼女は園監督の妻でもあるわけですが、他の多くの役者に比べて、演技が拙いところがある。序盤、ああ、やっぱりそうだ、なんで監督は妻であるこの女優にだけ、マジックを掛けられないんだろう、と思えてならなかった。
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 ところがある箇所で、ぼくはちょっと見方を変えることになります。
 彼女は潔癖的に厳格な夫と生活しているのですが、あるときパートを始めて外の世界に触れます。そしてAVにも触れます。そういう一連の中で、彼女は家の姿見の前で全裸になるのです。
 ここが面白い。彼女はパートであるスーパーの売り子のフレーズを、全裸のままで連呼し続けるのです。で、それがちょっと長いんです。これをぽんと放り込んでくる。このシーンがひとつの大きな契機です。この映画はこの変なトーンで行くからね、よろしくね、という宣言です。この場面で乗れないと、この映画に乗れないと思います。そういう意味では親切設計でもあります。

これね、うん、よくね、自分を解放する、みたいな言い方ってあるじゃあないですか。自分を解放してやりたいことをやろう、みたいなポジティブな言葉って、あるじゃあないですか。でもね、それとはちょっと違うんです。うーん、ここは書き方が難しいですね。
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 劇中、「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズが繰り返されます。田村隆一という詩人の『帰途』という詩の一節がくどいほどに繰り返される。これほど繰り返されるならば、ここにこの映画の主題のひとつがあるのは明白です。
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 などと言いつつ、ぼくは詩の読解にかけては大変不得手でありますゆえ、正しい読み解きには自信がないわけですが、ぼくなりに考えたのは、「言葉」というものがもたらす認識の拘束性です。富樫真も、彼女に感染した神楽坂恵も、この詩を何度となく繰り返す。それがヒントです。

 言葉とは何か。それは事物を認識するための道具です。同時に、人間はその事物に意味付けを行い、あるいは印象付けを行います。そしてもうひとつ、言葉の役割は、誰かとコミュニケーションをする際の道具であります。言葉をいっぱい覚えることによってぼくたちは様々なものを認識できるし、様々な形でコミュニケーションを行えるのです。

 しかし他方、言葉は認識を拘束してしまうものでもあります。ぼくたちは言葉に認識を拘束されることによって、その外側を見なくなる。言葉が通じることを当然と思って、言葉が通じないものに触れるのをやめてしまう。あえて乱暴なものいいをするなら、言葉というのは、ぼくたちを社会の内側に閉じ込めるものでもある。ぼくたちの認識は言葉によって広がりますが、一方言葉によって拘束されているわけです。 
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 言葉なんか覚えるんじゃなかった、と繰り返すこと。すなわち、言葉の呪縛から解かれようとすること。これを富樫真にせよ神楽坂恵にせよ希求しているわけです。ではなぜ言葉の呪縛から逃れようとするのか。言葉が自分と自分の認識を、社会の内側に閉じ込めるものであるからです。ではなぜ社会の内側に閉じ込められることを嫌がるのか。
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 劇中ではわかりやすい設定がなされていますね。神楽坂の場合は厳格な夫、富樫の場合はほとんどきちがいみたいな母親。これがひとつの重しになります。観客に対してわかりやすい設定と言えます。今までの自分を縛り付けていたものの象徴から逃れることと、社会から逃れることが通じます(すみません、もっと詳しく書けばいいのですが、すっげえ面倒くさいんです)。

 誤解されないようにしたいのですが、「社会の内側へ閉じ込められることを嫌う」というのは、たとえば尾崎豊的な「社会への反抗」ではない。社会への反抗は、既存の社会への反発に過ぎない。この映画が言っているのは「脱社会」のほうです。劇中とラスト、「ゴミを捨てに行った主婦が遠くへ行ってしまう」という話が出てくるのはそのことです。

 ではなぜ人は「脱社会化」を求めるのか、という話になりますが、それはちょっと、今のぼくには荷が重すぎるので、各々で考えてもらうほうがいいでしょう。生活が嫌になったとか、退屈だとか、そういう簡単な解釈で済むならたやすいのですが、それだけではない。「意味に還元されない世界への触知」とか「情動」とかの方面の話になってきます。それはあまりにも面倒くさいので、ここでこれ以上広げるのやめます。っていうか、ぼくにもそんなに手持ちがないし。
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 社会学者の宮台真司が「自分にとって映画は娯楽ではなく、アート。ではアートとは何か。それに触れる前と触れた後では、身の回りの世界を同じようには捉えられなくなるものだ」というようなことを言っていて、その感覚はよくわかる。彼が園子温を激賞するのもよくわかります。なんだか、感覚をぶらされるところがあるのです。だからこれを、娯楽映画を観る構えで観ようとすると(たくさんの映画を観ている人は時として見方が凝り固まっているものです)、ちょっと見方を間違えるんじゃないかと思います。

 とはいえ、ぼくとしても大いに賛美できない部分もあるにはあります。富樫真と神楽坂恵が大学のキャンパスでごちょごちょ話すところとか、水野美紀が廃屋で雨に打たれる妄想をするようなところは、やや映画の手つきに酔っているな、と思えてしまいます。

 あとはちょっと、中途半端にカットを切りすぎているようにも思いました。カットを切るのか切らないのか、その辺のこだわりがもうひとつぼくには見えなかった。たとえば神楽坂恵が富樫真と邂逅し、彼女を追って歩き回るシーンなどは、カットを切らずに長回しで追ったほうが、別の世界に足を踏み入れていく様を、実在感をもって描けたのでないか。それと、あのクライマックス。富樫が狂ったようにセックスするシーン。そしてピンクのボールをひょろっちい男が投げるあの場面。あれはもっと高速でカットを切ってもいいんじゃないかと思いました。観客の認識をぶらすには少し遅いように思えた。それこそペキンパー的な高速カットで追ったほうが、もっと訳がわからなくなったのに。

手つきに酔ったり、なまじうまくなったりすると、狂気とは離れてしまう。この映画にはもっともっともっと野蛮さがあればよかったのに、というのは残念なところです。かつての『うつしみ』みたいな野蛮さです。この映画に大事なのは野蛮さ。それがもうひとつ足りなかったという印象はあります。だから後半はちょっと、だれてもいた。
 
しかし総じて、最近の園子温作品の中では少なくなっていた、「狂い」を前に押し出そうとした作品として、面白く観ました。園子温はあまり観ていないけどビデオ屋で借りてみるか、という場合は、これと『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』、あるいは『ハザード』あたりと一緒に借りて、立て続けに観てみるとよいのではないでしょうか。
 
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コメディとして本当によくできています。記憶をめぐる話としてはもったいなさも感じます。
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毎度、映画について四の五の言うておりますけれども、映画は観る者の成熟度を試すようなところがこれあるのでございます。ある映画を観たときに、面白いつまらないと各々に誰しも感ずるものでありますが、ある映画をつまらぬと感じた場合はその映画の責任というよりも、自分の見識、審美眼、観察眼の未熟さゆえということも、往々にしてあるのでございます。

 などと言って書き出すと、これからこの映画を悪く言う前振りになってしまいそうですが、必ずしもそうではありませんで、とても楽しめたのでございます。しかし、今のぼくよりももっと人生経験を積み、過去が光の中に消え、それが美しく輝き始めるような境地に達しておれば、もっともっと楽しめたであろうなあとは思います。ぼくよりも上の世代の人はきっともっとびしびし来るんじゃないか。80年代に原体験のある人はもっと地肌でわかるんじゃないか、なんてところも多いのでございます。
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 高校時代とおばさんになった現在を交互に描いていくコメディタッチの作品でありまして、軽快なテンポは実に愉快なものでありました。エンターテインメントとしてはとてもよくできているなあと思いますね。七人の仲間たちという設定、離ればなれになった仲間たちを探していくという設定はわかりやすいし。高校時代と現在とでぜんぜん顔が違うな、という配役事情的な部分についても、「整形」を表に出して乗り切る。韓国ならではであるなあと思います。
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全編にわたってテンポがよく、べたべたの部分もよくはまっています。漫画的に頬を赤らめるようなシーンも許せてしまうというか、ああ、そのトーンで行くのね、そっちのほうがいいねと思える。学生運動に巻き込まれたシーンの軽快さは白眉でありました。
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ずうっと楽しく観られるのですが、四分の三くらいが過ぎると、何か引っかかるものがあるなあと感じられてきて、それは何だろうと考えていたのですが、わかりました。うむ、ぼくからすると、「この作り手は屈折していないなあ」と見えたんですね、屈折。

自分がそうだったから、というのが一番大きい理由なのですが、青春期を描いた作品となったときに、ぼくは何らかの屈折を求めてしまうたちなのです。屈折という言葉がわかりにくければ、「思春期のもんもん」と言ってもいい。別に性的なものを意味しているのではなくて、もっとなんというか、自分というものに悩み始める部分とか、しかしそれを言語化できずにうろうろする様とか、社会の歪みとかが見えてくるけれどどうしようもない夜とか、社会なんてどうせこんなもんだと髙をくくってその結果痛い目にあってのたうち回る様とか、そういう部分に「青春」を見るたちなのです。主人公の兄ちゃんやシンナー少女のほうに気持ち的には近いのですね。だからね、「いやいや、青春は楽しかったよ」と言える人は、この映画が徹頭徹尾楽しいだろうと思いますね。それはとても幸福なことです。幸福な人が観るとより幸福になれる映画です。
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 でも、この辺も冒頭で述べた「自分の成熟度」と関わる話でね、長くなるからしませんけど、もっと大人になったらまた違うことを言えるだろうな、とは思うんですね、うむ。

まあコメディが主体ですからね、その辺をごにょごにょ言うのも違うんだろうなとは思いますが、観終えてちょっと経つと、自分とこの映画の間にある大きな溝が見えてきてしまう面はありますね。映画自体について言うと、記憶がわりとみんな一緒に共有できちゃうんだね、というのが気になるところでもありました。
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 あの頃はああだったよね、こうだったよね、という話をするときに、「いやいや、自分はあの頃実はこうだったんだぜ」というのがあると、もっと深まるのになあとは思ったんです。時間が経ってわかることというか、時間が経ってるからこそ語れること、そういうのがあまりないんじゃないか、というのは気にかかった。わっかりやすい話で言うと、同窓会で出会った男女が、「当時、実はおまえのことが好きだったんだぜー」「えー、ぜんぜん知らなかったー」的なことって、あるじゃないですか。当時としては秘めたる思いを口にできず、布団の上でのたうち回った日々なのに、今となればあっさり言えちゃうよね、ぼくたちも年をとったね、的な時代の彼我。そういうもんがね、深まらないんですね。過去という美しい箱の中はしっかりと安定している感じ。それはぼくの求めているものと違ったんです。あるにはあるんですけどね、ハンサムな好青年とのくだり。でも、そういうところはわりと記号的なんですね。
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コメディのテンポを保つ以上、負の側面を記号的に処理するのはわかるんです。たとえばあの、ハンサム青年とクールビューティ・スジの逢瀬を、主人公が発見してしまうところですね。なんであんな、『殺人の追憶』なら完全に殺されているであろう林の中を歩いているんだ、ということは、言ってはならないのですね。負の部分はディレクターズカット版で入っていると宇多丸さんが言っていましたが、そこを切るのもわかる。それくらい、コメディとしてはよくできているんで、うむ、これはこれでいいわけですね。
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しかしそうと知れた上で、あえて二点ほど申し述べると、あのクールビューティ・スジに関するところです。
 仲間たちが楽しい日々を過ごして、連帯感ばりばりなんです。でも、スジはいつでもすかしているというか、一人だけテンションが低いんです。こういうキャラ付けはいいんです。というか、この映画のキャラ付け自体には何の文句もなくて、とてもよいのです。
 ただね、キャラ先行のところが強いんです。平たく言うと、なんでスジがあの面々とつるんでいるのか、どうもわからないところがあるんです。一匹狼っぽいおまえが、なんであんなハイテンションガールズと一緒にいるのだ? と言いたくなります。電車の中でも一人離れているんです。すかしすぎなんです。『リンダリンダリンダ』の香椎由宇もすかしていたけれど、しっかりチームの一員でしたし。
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 だからね、あのキャラの場合は、「ああ、こいつはこいつで感情表現がうまくはないけれど、ここにいるのが楽しいんだなあ」というのがほしいわけです。そういうツンデレな部分がないと、どうもこいつの話が終盤で重みを帯びない。で、さらに言うと、もしもその設定で押すのなら、あのシンナー少女のくだりはちょっと違うんです。
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「普段は何も言わない、仲間っぽくもないやつだけど、こいつは誰よりもチームを愛しているんだなあ」感が必要なのです。そしてそのためには、あのシンナー少女を圧倒するとか、クールに追い詰めるとかじゃなくて、熱いところを見せなくちゃなんです。圧倒的に不利な状況、でもチームを守るために戦うんだ的な展開があってこそ、あの寡黙キャラはもっともっと活きるのです。そのほうが、一員である感が絶対もっと出るのです。美貌で押すより、そっちのほうがいいと思うんですよねえぼかあ。
 まあ、それは好みの問題なのかもしれませんがね、はい。

でねえ、うーん、ラストですね、はい。この映画はね、ラストでメンバーの一人が死んでしまうんです。でも、そのメンバーは大金持ちで、友人たちに多大な遺産を残しているんです。ここはね、別にいいんです。結局金でハッピーエンドかい! などと言って、わりとここを突く人もいるようなんですけど、それは別に構わない。うん、この多幸感のある映画であれば、しんみり終わるよりもあれでいい。あのラストだからこそ、ダンスが活きるんです。だからあれはあれでいいのです。

問題はその後です。なぜ、おばさんになったスジを映したのです!
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この映画はおばさんになった主人公が旧友たちを集めていく話なんですけど、一人だけ見つからない仲間がいて、それがかつてのクールビューティ・スジです。で、ずっと見つからなくて、本当の最後の最後に、やっと出てくる。仲間たちが再会! というラストですね。
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ここはねえ、スジを映さないほうがいいと思いませんか? 知らないおばさんなんですよ、言ってしまえば、観客にすれば。観客にとってのスジは、あの若かりしクールビューティなんです。だからぼくは終わる直前、ああ、これは出さないほうがいいな、と明確に思った。でも、結局出しちゃった。あれはね、きっと、主人公の笑みで終わっていいんです。
 ぼくが求めたのはこういうラストです。五人がダンスを踊る。スジが来ないまま終わるのかと観客は心配する。で、誰かが部屋に入ってきたのがわかる。しかし正体は映さないでおく。そのまま主人公の顔にパンする。主人公が笑う。観客はそこで、「あ、来たんだな」とわかる。エンドロール。

このほうがいいと思うんです。ここがこの映画で一番残念なところでした。
ワンカットのあるとないとで大違いです。というのはね、あそこで観客の想像に対して開いたまま終わると、そのまま観客はその感情を持ち帰れるんです。で、学校を卒業してから会っていない友人に、各々が思いを馳せることができると思う。あいつ会っていないけど、今どんな感じなんだろう、どんなおじさんおばさんになっているんだろうと、顔を想像できる。わかりますかね? スジの顔を映さないからこそ、現実の観客個々人の記憶を、揺らすことができたはずなんです。この「想像に対しての開かれ」。それをあのラストは供給し得た。なぜそれをやらなかったんだろうと思ってならない。

 映画はとても面白かった。反面、「あれ? この監督はこんなに記憶を揺らしうる題材を描いておいて、記憶というものにそれほど興味がないのかな? 思想がないのかな?」と思うところがあります。それが感じられれば、ぼくはこの映画を激賞していたかもしれないのですがね。

 結構書きましたね。この辺にしておきましょう。ちなみに、かつての友人たちが集まる作品で言うと、ぼくが好きなのはジブリの『海がきこえる』です。あの作品がまた、観たくなりました。そんな感じで、今日はこれまで。
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この手の題材の映画としては、頭ひとつ抜けている印象です。
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 イタリアの犯罪組織カモッラの有様を描いた映画です。海外の犯罪組織というと、「マフィア」という名詞がいちばんよく使われるものだと思いますが、マフィアというのはもともとシチリアから発祥したものなのです。カモッラはナポリから生まれたものであって、別の組織なんですね。だから本来、マフィアというのは一般名詞ではなく、もともと固有名詞に近いのでしょう。マフィアはアメリカで勢力を広げたり、政界に影響力を持ったりなどするうちに、概念のような形になってしまったわけです。
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暴力団やマフィアについて書いてみようと思ったのですが、映画と離れたままかなり長くなるのでやめておきます。しかし、この映画を観たら、暴力団やマフィアが社会や世界にどのような影響を与えているのか、どういう背景をもとに生まれてきたかを考えたくなるはずです。「暴力団なんて法律で禁止して、なくしてしまえばいい!」「マフィアやカモッラみたいな組織は警察がもっと取り締まればいい!」なんて言いぐさが、本当に子供じみたものに過ぎないことを知らされます。
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 本作ではカモッラに関係する人々、関係せざるを得ないがたくさん出てきます。それはカモッラに入ることに憧れている少年であり、不良の二人組であり、組織と構成員家族のつなぎ手であり、産廃業者であり、洋服の仕立屋であります。このような複数スレッド進行が、いかに地域と組織が深く結びついてしまっているかを効果的に示します。
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それぞれに言及していると一日仕事になってしまうのでさすがにできませんが、これはとても巧みな設定であるなあと思います。子供から大人まで、どの世代がどのように関係してしまうのかを綺麗に映し出していると思います。憧れを抱く少年などには、『ジョニー・マッド・ドッグ』の少年兵に近い背景を見いだします。この世界が奪う者と奪われる者で成立しているならば、奪う者の側に回らぬ手はない。ぜひともそちらに回りたい。そんな世界観が植え付けられてしまうのでしょう。彼がその通過儀礼として銃で撃たれる場面などはとても印象的です。暴力はよくないなんて道徳は、目の前で銃撃が頻発する世界では、意味のない理想論に過ぎない。
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 産廃業者のくだりも見るべきものがあります。これは日本にも通じる話じゃないでしょうか(というか、ほぼ同じような話が日本でもあるのは、よく聞くところです)。この辺が社会のどうしようもないところだなと思いますね。たとえばある業者が産業廃棄物を出してしまう。これを処理するうえでコスト削減のため、別の業者に外注する。そうなると
安い値段で処理を請け負う業者にお鉢が回る。しかしその安さが可能なのはまともな化学的処理を経ずに投棄してしまうからであって、そういった話は闇社会の勢力の温床になる。表社会に生きるもともとの依頼人は、「処理はお任せしているので」と知らんぷりを決め込める。環境を悪化させるような投棄など駄目だ、行政は何をしているんだと言っても詮ない。じゃあ自治体が請け負いましょう、というほどの金もない。こういう連関は先進国、途上国問わず起こることです。
 この映画ではさらにひどくて、子供たちにトラックを運転させて廃棄させる様まで描かれています。どこが先進国やねん、という話です。
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複数のスレッドにおいて、最も組織と縁遠いはずなのは、真面目な仕立屋のおじさんです。何十年にわたり洋服をつくってきて、職場でも信頼厚いおじさん。しかし、彼もまた無縁ではいられない。このくだりはとても興味深いものがありました。
 彼は会社の上司が無茶な注文を引き受けてくるのでいっぱいいっぱいで、しかも上司が信頼の置ききれない人間なもんだから、給金がまともにもらえるかも不安でならない。そんなとき、彼の腕を見込んで近づいてくるのは、中国系移民の仕立て屋。中国人は彼に対して、技術を分けてくれと頼み、十分な報酬を約束する。彼はおそるおそる、彼の工場へと出向いていくのです。
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 聞くところによると、21世紀以降、ヨーロッパで中国移民の増加率が最も高いのはイタリアだそうです。細かい背景はわかりませんが、伝統的にマフィア勢力が強いイタリアならば、治安的な面で考えても、不法(?)入国者が入りやすい土壌があるというのはイメージしやすいところです。ヨーロッパにおける移民問題、というのを織り込んでくるあたり、ああ、この映画は本当に地で行ってるなあと感じます。で、仕立屋さんの行動がどうして問題なのかと言えば当然、会社の技術を他の業者に売っているからですね。それも中国系の就労ビザもあるんだかないんだかわからない連中に売っているとなれば、これは許し難い。そこで登場するのがカモッラで、上司が頼み込み、「あの中国人の連中うざいんで、困るんで、どうかよろしく」と言えば、これを屠りにかかるわけです。真面目な仕立て屋おじさんはそんな状況に絶望することになります。スカーレット・ヨハンソンもこれまたとんだ使われ方をしたものです。
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ぼくはナポリにもイタリアにも行ったことがないので、これがどれくらいにリアルなものなのかはわかりません。いや、現地に在住しているという人でも、これらの様相を熟知している人は少ないでしょう。それは日本のヤクザに関しても同じことです。
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 ただ、なるほどこれは確かに十分にあり得そうなことだ、と思わせるくらいに、泥臭いリアルさがあります。カモッラの構成員の人たちはちっとも格好よくない。任侠のにの字もそこには見出せない。三浦友和とか西田敏行が出てくる日本のヤクザ映画みたいに、ばちっと啖呵を切って格好よく決めるような有様もなく、ただ密やかに地域に溶け込み、そして浸潤しているのがわかる。アル・パチーノの演じたがごとき、組織の絆や家族との情愛みたいなもんもない。原作者はカモッラの報復から逃れるべく海外逃亡して保護されていると聞きますが、なるほどやばいものがここにはあるなと思わされる。まかり間違っても、テレビのロードショー枠では流せない。仁義なき戦い、どころか、そこには仁義なんて概念が端から無いかのような、乾いた世界が描かれています。
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ヤクザ映画、マフィア映画というのは数多くあるわけですし、ぼくはぜんぜん詳しい人間ではないですが、ちょっと頭一つ抜けている印象です。一切美化することなく、組織の内幕をドラマティックに描くなんてこともせず、いかに社会に溶け込んでしまっているかを、効果的に描き出しているように思えます。反面、こういうものを観ると、有名スターがいきっているヤクザ映画をあまり観る気にならなくなるので、その点でも注意が必要かもしれません。
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アメリカ、自由、共同体、その他。
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 とかくアメリカ映画といえばビッグバジェットのハリウッド映画。とりわけ2000年代後半以後はずっとアメコミヒーローものがその話題的中心を担っているように見受けるのですが、ぼくはそれよりも今回の作品のような、アメリカの深い部分を覗き込ませてくれるようなもののほうがずっと好みなのですね。特にこの数年は。

 余談ですが、アメコミヒーローものとかって、いまひとつ乗り切れない。興味が湧いてこない。なぜなのかなあと考えたら、わりと理由がはっきりしてきました。というのもね、ぼかあ幼少期、ウルトラマンや仮面ライダーが大好きだったんです。たとえば仮面ライダーの放送を観終えますね、するとぼくはテンションが上がりきって、エンディングテーマを聴きながら、まるでそれが何かの儀式であるかのように、戦うライダーの真似をして飛び回っていたんです。ちゃぶ台の上から何もない中空に向かってジャンプキックしていたのです。友達と遊ぶときも本気で自分をライダーやウルトラマンの化身と信じ、戦いに身を投じていたのです。身体的に感染していたわけです。そういう記憶があると、今更アメコミのヒーローで盛り上がりましょうと言われたって、とてもじゃないがあの頃みたいな熱量は自分の中で生み出せない。何々格好いい! とか言ったって、あの頃に抱いたウルトラマンやライダーへの憧れにはとてもじゃないが及ばない。それを思うと、アメコミヒーローとか、かなりどうでもよく感じられてくるわけですね。
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 さて、そうなるとやはりこうした、陰鬱とした地味な映画に学びを得たくなる。
 本作は山中に住むアメリカ白人、ヒルビリーの少女の話です。町山さんのWOWOWでの解説がとてもわかりやすいです。背景などがよくわかります。この映画を未見で、「ヒルビリー? 何それ?」と思われる方は、検索して解説を聴いてから観るとよいかもしれません。
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 ところで、ここ数年はオバマ大統領による医療保険制度改革が取りざたされています。世界を牽引する先進国の筆頭でありながら、国民皆保険制度を持たずにきたアメリカ。ではなぜアメリカは国民皆保険を実施せずに来たのか。
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 その背景には、アメリカが建国の旗印にした「自由」というものがあります。 アメリカにとって「自由」というのはとても重要な概念ですが、ざっくり言うにその政治的意味は、「国家が国民を縛ることがあってはならない」ということですね。だからこそ1791年に制定された憲法修正の第一条では「宗教、言論、集会の自由」が保障されているのだし、二条では「民兵の自由」、つまりは革命権が謳われているし、今でも銃は自衛のための不可欠な存在と考えられている。イギリスからの独立によって人工的に構築された国家ゆえに、もともとから「国家への不信」がプログラムされている。アメリカが断固として共産主義を許さずに来たのもひとつにはこのためです。
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そういう発想からすれば、国家が保険制度に入ることを強制するなんてあり得ない! という考えが右翼方面から出てくるわけです。それがいいものであれ悪いものであれ、そもそも国家が強制するのはよくない、というわけですね。

 そのような発想が底流している国は、一方で多様な民族、いまや三億の国民、広大な国土を有している。そうなってくると必然、いかに世界第一の国家であろうと、その施政からこぼれ落ちる人たちが出てくる。この映画で描かれているのはそんな社会の様相です。

この少女は幼い兄弟二人と、精神を煩った母を支えながら暮らしています。父はというと、家を担保に借金をして出て行ってしまったのです。サブプライムローンが記憶に新しいわけですが、貧乏な人たちが借金返済ができず、福祉制度も備わっていないとなれば、これはもうどうしようもない状況に追い込まれます。主人公の少女は行き場もないままに、家を売りに出さざるを得ないような形になるのです。その前になんとしても父親を捜し出さなくてはなりません。

 しかし、近所の人たちに父親のことを聞き回っても、みんな頑なに口を閉ざすんですね。 その様子があまりにもあからさまで、どうやら何かあったらしいとわかってくる。
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こうした、閉ざされた田舎というのは、万国共通なのだなあと思いますね。田舎というのはやっぱり狭い世界であるらしくて、独特の怖さみたいなもんがあります。かく言うぼくも田舎の生まれですが、その辺の怖さはそこはかとなく感じますね。旧友の結婚式で地元に帰って飲んだときも、既に地元で家庭を築くなどしている同級生が、「どこどこの誰々はああだこうだ」という話に花を咲かせたりしていた。うわあ、なんか、いろんなことがばればれでやっていかなあかんねんなあと、少し距離感を抱きました。東京で暮らしていると気づきにくいことです。「これからの時代と田舎における人間関係」というのには、文化人類学的な興味をそそられます。

ネタバレ速報。ういーん。
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 話が進むうちに、どうやらこの少女の父親は、村における掟を破ってしまったらしいとわかってきます。村における掟って。昔じゃないんだから。という感覚になったりもするのですが、そこでアメリカ社会ってもんがちょっと垣間見えますね。
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国家というものは信用できない、という国家においては、民族やその系譜などをよりどころにして、国家よりも小さく緊密な共同体が、大きな意味を保持する。その助けになるのはキリスト教ですが、本作でそうであるように、宗教など何の生活的救いにもならない。そうなってくると、個人個人は自分たちの生活を守るために共同体が必要で、そこでは掟というものがどうしても重要視される。その掟が犯罪にまつわるものになってしまっても、貧困が絡んでそこから抜け出すことができない。そう、おそらく、日本では既に昔話にしか出てこないような「村の掟」なるものが、今もってアメリカでは意味をなしているのでしょう。すごい話だなあと思います。そして、「そんなのはよくないよ、もっと福祉制度を充実させて」などと言っても通じないわけですから、これは根の深い話です。別の国家ですが、中国の田舎なんかも、もしかしたらこういう面があるんじゃないですかね。要因は当然ぜんぜん違ってくるでしょうけど、これは中国に置き換えても成立する話に思えます。中国とアメリカって実は似ていて、「国家を信用する」ことができない歴史があるんです。向こうは王朝や支配者層の変転というものがありますから。

 全体を通じて、かなり地味というか、話らしい話はぜんぜん膨らみません。親父はどこだ、親父には触れるなの繰り返しですからね。でも、最終的には結構えげつないことになるんですねえ。抑制したトーンでずっと来ていた分、あのチェーンソーの響きが重いんです。「うわあ、最悪やあ」のシーンです。あれはきついです。少女にしたら、「なんでこんなことになってるんだ」というほかない状況です。
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「地域の共同体」という言葉、概念の怖さがここにはあります。「共同体」とか「自治」とかっていうのには、相互扶助、もっと優しい言い方ならば「助け合い」という祝福の側面がありますね。日本でも、「昔はよかった。貧しかったけれど隣近所で互いが助け合って」みたいな言説がある。ただ他方、「隣近所の輪から抜け出せない地獄」という呪いの側面もあるわけです。まあ、今更言う必要もないことでしょうけれど、経済的な問題などによってその呪いが膿んでしまうと、こういうどうしようもない事態が発生してしまうわけです。そんなどうしようもなさをまざまざと見せつける作品でございました。
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 年が明けて2013年になりましたが、ぼくの映画に対する接し方はどうやらこのまま継続しそうです。すなわち、映画そのものよりも、映画を通して見えるもののほうに惹かれる、ということですね。何々格好いい! とか、誰々の演技がぁ、というのは、とりあえず過去の記事の中のものです。映画を観る以上は、学びを得ていきたいのですね。映画を観て、面白い面白くないというのはもういい。そんなことにぶうたれている大人なら、アニメに文句も言わず熱中する幼児のほうがよほどいい。そんな感じなんで、これからも大した数の読者を得られずに低空飛行だと思いますが、まあ、よろしければよろしくです。
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この映画はこういう風に観る。あるいは、ぼくたちと社会との関係について。
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昨年、ネット上で概して評判がよくなかった印象のある作品。ナイトウミノワさんがぼろくそに書いていたのが印象に残っていて、じゃあ観なくていいかなあと思っていたら、宮台真司が監督とのトークショーで肯定的な評価をしていたのを知って、うむ、こういう評価の分かれる作品は大好物だぞ、というわけで、『RIVER』。

 2008年の秋葉原通り魔事件をもとに着想したという映画です。主人公はその事件で恋人を亡くしたという設定の女性で、彼女が秋葉原の街をとぼとぼと歩く長回しの場面から幕を開けます。
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 といっても、事件のことについてはほとんど触れられないんですね。だから海外の人とかには何のことかわからないと思います。劇中では「あの事件」的なことでしか言及されず、事件の様子なども何も描かれず、観ている側の了解に委ねられている。

 悪く言えば、「あの事件のことを何も描いていないじゃないか」とこうなる。ただ、ぼくがそこで気になった点として、「あまりにもあの事件のことを描かなすぎている」というのがあります。この映画では本当にあの事件のことが何一つ描かれていない。ここまでやっていると、これは意図的な選択じゃないかと思うんですね。
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「実際の事件に誠実に向き合っていないんじゃないか」的な意見もわかるんですが、ぼくはそこで立ち止まる。じゃあ、事件に誠実に向き合う、あるいはそれを映画化する、それは一体どのような作法で果たされるべきなのか。ぼくにはよくわからなくなります。

 実際の事件をもとにした映画というのはたくさんありますね。たとえばわりと記憶に新しいところだと園子温監督の『冷たい熱帯魚』。あれは実際の愛犬家連続殺人事件をもとにしているわけですけど、あれはどうなのか? 細かい取材はしたかもしれないし、よくできている映画かもしれない。でも、そういう問題なのか? ぼくを含めあの映画を観た多くの人間は、「でんでんサイコー」的な感想を抱いた。でもちょっと待てよと。あれは本当の連続殺人犯がモデルだぞと。それをもとにした映画キャラクターに「最高!」って何だよと。それこそ実際の被害にあった人、遺族の人は、世間が「でんでんのあの殺人鬼はすごい迫力だね!」なんて言う言葉に、いい気持ちが絶対しないだろうと。それってどうなの? という問題がどうしても気になってくる。

 そう、土台事件と関わり合いのない人間が、誠実に向き合うとか綺麗事を言っても、たかが知れている話です。取材を綿密に行った、だから何だという話です。被害者に寄り添う? どのみち綺麗事。実際の事件をエンターテインメントに! マジで言ってるのか?
だったら、あえてその事件には深く触れない作法があり得てもいい。それはそれで事件に関する向き合い方の一つだろうと思ったのです。

 だって、所詮そうじゃないですか? ぼくたちは世間の痛ましい事件を見知るたびに心痛めたり何なりを繰り返す。でも、そのニュースが終わったらいつしか忘れて、自分の楽しみにうつつを抜かしている。街の風景は見事にその様を映し出している。ぼくたちは所詮、そういう存在です。であるならば、「ほんのいっとき誠実に向き合う」ことはそれもまた欺瞞かもしれない。であるならば、触れられぬものには触れない、しかしその周縁にたたずんで見えるものはきちんと見よう、というあり方もあっていいはずです。

 この主人公は恋人が好きだった街、恋人が死んだ街である秋葉原を彷徨する。何をどうしたらいいのかわからないままにさまよう。その中でいろいろなものに触れていく。ただ、どれを取っても自分の求めているものではないと知らされ続ける。世間は「おまえの傷なんて知らないよ」とばかりに動いている。だからこそ冒頭の長回しの最中、「街を作品にしているの」的な女性は彼女の傷に触れた瞬間、大いに戸惑い、寄り添うのをやめてしまう。
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登場する人物や場所にもそれなりの意味があるように思いました。メイド喫茶の様子を見てぼくは、「ああ、ここは幼稚園プレイを楽しむ場所なのだな」と思い至ったのですが、あれは現実の街を流離する彼女が触れる場所として、面白いと思いました。それと、なんか優しげな甘い歌を歌ってやがるな、というストリートミュージシャンの女性。その女性と主人公が川辺で話をする場面があるんですが、ここは笑ってしまった。なんてお花畑なことをだらだら喋っているんだろうって。そう、この映画では、自分がどう進むべきかわからずにいる主人公が、いつまでも現実に触れられずにいる様を、街の様子を通して描いているのです。彼女は現実に触れながら、「これは現実じゃないだろう、これも現実ではないだろう」という気がしてしまう。あるいは、現実自体がかなりしょぼくれたものであることを知らされてしまう(田口トモロヲの役はその象徴でもある)。
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そうやっている中に一人の青年に彼女は出会う。そして彼の故郷が震災の被災地であることを知らされる。これをきっかけに、彼女は彷徨から醒めることになります。
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秋葉原の事件をもとにして、被災地に話が行くなんて、何の関係があるのか。
 答えはひとつ。何の関係もありません。あるいはこう言える。何の関係もあるはずがない。ただ、何も関係がないがゆえに、この映画は成立し得る。

 秋葉原事件と震災に何の関係があるんだ、という問いは、映画を観る者に対して「あなたと映画の主人公に何の関係があるの? 何の関係もないのに何であなたは涙を流したりするの?」と問うのに似ています。そう、言われればその通り。まるで関係ない。にもかかわらず、ぼくたちは映画の中の人物に自分を重ね合わせたりする。

結局のところ、ぼくたちの人生など、自分とは本来無関係であるはずの数々のものに紡がれていくものです。目を閉ざし耳を閉ざし心を閉ざし生きていれば触れずにいられるもの、そのいくつかに、ぼくたちはいい意味でも悪い意味でも、人生を狂わされる。

この映画において、主人公は震災や被災者家族の青年と触れることによってのみ、自分の輪郭を規定できたんです。もう一度言いますが、そこには何の物語的必然もない。ですが、人生において物語的必然などあるわけがない。震災を利用している? はい、この映画は確かに震災を利用している。ですが、果たしてそれは責められるべきことなのか? だったら尋ねますが、貴方は自分の生において、自分と無関係なものを「利用」したことが、ただの一度もないのでしょうか? まさかとは思いますが、残忍な事件をもとにした映画を、娯楽として愉しんだことはないのでしょうね?

 意地悪なトーンになってしまいました。言いたいのはこういうことです。ぼくたちは自分と無関係なものの脅威にさらされ、自分と無関係なものに興味を惹かれ、自分と無関係なものによって日々を送っている。であるならば、その対象が何であっても、そこに前向きな道を見いだすことは、責められるべきではないのです。殺人事件の被害者が震災によって道を見いだすなんてあり得ない? なぜそう言える? 不条理な出来事によって傷をつくった人間が、不条理な出来事によって道を見いだすことは、何もおかしな話ではない。
この映画のモチーフの二つが無関係であることを、ぼくたちに責める資格はない。

 映画は手ぶれが多くて、被災地の場面ではとりわけそれがひどくなって酔いそうにすらなるんですけど、あれはあれで効果を生み出すためのものだろうという気もします。ただ淡々と、カメラをうまく動かしていたら、青年を客体として映すことになりすぎる。ひどく静かな光景の一方で、あの手ぶれが感情のぶれを演出するための方法だとしたなら、安易ではありますが演出的な意図はわかります。
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 序盤に比して後半、終盤は要らない台詞も多かったので、その辺はいまひとつ練れていなかったのかなあとも思いますね。ラストで主人公の女性が台詞を吐くのですが、あれは要らなかったと思います。路地の鏡に映って、「これが現実なの!」というのもくさすぎるんですが、まあ主題を伝えるためなんでしょう。それがわからない観客のための配慮なのでしょう。そこだけ浮き上がっているので、やりすぎかなとは思うのですが。

 事件や震災、というものをどう見るか、向き合うかによっても見方の分かれる作品なんじゃないかと思います。ただ、当事者でもないのならば、「真っ当に向き合う」みたいな考えがどこまでも戯れ言であるというのは、心得ておきたいものであります。
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いやあ、ゲームって本当にいいもんですねえ。

前回の続きです。個人的ベストテンですが、誰でも知っている有名作品ばかりです。

『スーパーロボット大戦F/完結篇』(PS バンプレスト 1998/1999)
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スパロボは友人の家で知って、小学校の頃などは一日中やっていたものです。スパロボをやって、外で遊んでというのがゴールデンコースでありました。ここからガンダムを覚えたりなどした世代なのです。いろんなロボットアニメを教わりました。マジンガーとかゲッターとかエルガイムとかビルバインとかね。実際にやったのは第三次、第四次、EX、それと本作とαまで。ああ、あとは「新」なんていう変わり種もありました。そんな中でも大ボリュームなのがこのFです。エヴァが初めて出たのもこれですね。はっきり言って終盤などはクソ難しくて即コンティニューなしでは進みようがなかったし、敵同士の撃ち合いを延々と見せられて手の出しようがないなどと、課題も多かった作品でありましたが、その分だけがっつりとやってしまったものであります。

『ファイナルファンタジーⅨ』(PS スクウェア 2000)
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FF枠としては9作目を推します。といっても、ぼくがやったのは4を途中までと、5を途中まで。がっつりやったのは6とあとこの9だけなんで、それほど深く接してきたわけではありません。7や8は世代的に触れていてもよさそうなものですが、主人公がホストくさいのを見て、まったく興味がなくなりました。あんなホストくさい主人公と旅をする気にはなりませんで、それは10以降でもそうなのです。
9がいいのは、キュートなファンタジー世界観をばっちり決めてくれているところです。頭身数の多いリアル系ホストキャラでいくより、断然こっちのほうがいい。それならもっとぼくはFFに注目するのに、と思ってしまいます。かつてのドット画が正しく成長した感じというか、ドット画の向こうに見ていた発展形はまさにこれだよと言いたくなる素敵なキュートさに充ち満ちていました。世界観がまったくもってぼく好み。世界崩壊という大イベントがある6も同じくらい推したいし、宿敵としてはクジャよりもケフカのほうが断然好みなのですが、9のキュートさに軍配を上げます。6が9的な形でリメイクされたなら、ぼくはそれを推すと思いますが、ううむ、微妙なところです。ぼくがファンタジー系映画にほとんど興味を持てないのはひとつに、この9のキュートな世界があるからです。こっちのほうが、ずっと飛び込んでみたい世界ですもの。

『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』(SFC/PS2 エニックス/スクウェア・エニックス 1992/2004)
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ドラクエシリーズのナンバリングタイトルは新作二作を除き、すべて手を出しております。VをきちんとやったのはPS2版のほうです。Ⅷについては後述しますが、個人的にVはシリーズの中でも一番の傑作ではないかと思っています。といいますのも、この作品は他のドラクエ、そして双璧をなすFFが十作以上出してもいまだやっていないことを、唯一やっているんですね。それは何かと言えば、主人公の一生を追うということ。一生と言ってもまあ老年などは描きませんが、子供の頃から成長して子供を持つ大人になるに至るまでを追っている。その過程での父との物語などを描きつつ、実に長い時間をその中で描いている。このアイディアは凄いです。
 Vに関して感動的なことがあと三つあります。ひとつには、勇者の証である天空のアイテムを装備できるのが主人公ではなく、その子供であるということ。この発想は凄い。普通ならば、プレイヤーがずっと育ててきた主人公を勇者にする、どんなゲームもそうする。でも、これは違う。本当に勇者たり得るのは自分ではなく、次の世代だという思想。なんて大人の考え方でしょう。しかもそれがいわば子供をターゲットにしたものでなされており、子供たちには「君たちが次の時代を担うんだぞ」というメッセージにもなっている。これはものすごく鮮やかな設定です。もっともっと褒められていいはずです。
 そして、妻を選ぶイベントがあること。幼少期の思い出があるビアンカと、金持ちの家の娘のフローラを選ぶわけです。なんて設定でありましょう! これも、子供の頃の思い出ゆえの結婚、みたいな閉じ方をしていないのですね。大人になったらなったで、まあ別の出会いもあるんだよ、というのが効いているじゃないですか。相手が金持ちのご令嬢だというのもなかなか攻めている設定です。一方のビアンカは一人山奥の村で、病気がちの老いた父(しかも実父ではない!)と密かに暮らしている身。なんという選択を子供のプレイヤーに迫るのでありましょう!
それとやっぱり外せないのは、モンスターを仲間にするということ。これはねえ、これは凄いんです。それまではね、いわば「導かれし者たち」が仲間だったんです。モンスターは外敵でしかなかった。でもこのVはそこを裏切ってきた。かつては敵でしかなかった山野の獣を、欠かせぬ友として旅を続ける。これは感動的な設定です。社会的な正しさもここにはあるように思いますね。一部の選ばれた人間だけが友ではない。敵対するものの中にもわかりあえる相手がいるはずだ、というメッセージがある。このドラクエV以上に、意味的に優れた設定を持つRPGを、ぼくは他に知りません。
 
『実況パワフルプロ野球11』(PS2 コナミ 2004)
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パワプロは’97、98、99、そしてこの11をやっています。ハードやなんかで数え方が違うんですね。パワプロ枠として一番やったのがたまたま11だったということですので、12を買っていたら12と言うかもしれません。パワプロはやっぱり外せないのです。野球ゲームというと「ファミスタ」がありますけどちょっと前の世代のものという印象で、今だと同じ人気タイトルの「プロ野球スピリッツ」がありますがこれはリアルもので好みではない。それと何より大きいのはサクセスモードですね。サクセスモードはめちゃめちゃやりました。回数を重ねていけば大体同じようなことになるんですけど何度もやってしまうという、まさにゲーム=麻薬的な快感を覚えさせる優れたシステムでありました。野球ゲームと育成シミュレーションのまさしき融合、というのは言わずもがなですね。

『メタルギアソリッド3』(PS3 コナミ 2004) 
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はい、これまた王道中の王道です。PS版の一作目の体験版が、確かパワプロの97だったか98だったかに同梱されていて、それをやってみたら面白そうで購入、というのが出会いだったと思います。以来、一作目、二作目、そしてこの後の四作目と楽しんできましたが、ぼくはナンバリング最新タイトルの4よりも、この3こそが傑作だと思っています。1も2も、敵地の建物に乗り込んでの話で、狭いと言えば狭い空間だったわけですが、この3ではジャングルはあるわ高地はあるわと広がっていて、ムービーシーンのクオリティも本当に映画級のものになっていた。これは感動的でした。相当やりこんだ覚えがありますね。ケロタンを全部撃ってステルスを獲得したり、敵兵をからかって遊んだり。
 MGSの面白さなんて誰しもが語っているところでしょうけれど、とりわけぼくが感動したのは、あのジ・エンド戦です。ボスキャラが複数出てくるのですが、その中の一人が老人スナイパーのジ・エンドという敵なんです。で、一般的に言ってボスキャラというのは、言ってみれば限定空間の中で、さあ殺し合うぞと向き合うわけじゃないですか。勇ましい音楽とかが流れてね。このゲームでも大体はそうなんですけど、このジ・エンドは違うんです。広い森の中で、どこにいるかわからないんです。まったく対戦中という感じがしないというか、音楽も何もない。ただ、静かな森の中で、どこかわからない遠くのほうから狙撃してくる。敵が見えない緊張感。こんなボス戦は見たことがない。
 で、ぼくが震え上がったのはこのときです。ジ・エンドがどこにいるかわからないので、ぼくもスネークを操作して、スナイパーライフルを装備して、スコープを覗き込むわけですね。で、どこだどこだと遠くの狙撃地点を探すわけです。しかし一向に見つからないわけです。すると、ジ・エンドの声がすぐ間近で聞こえる。えっ、と思った瞬間、カメラがズームアウトして、すぐ背後で銃を向けられているのがわかる。で、撃たれてジ・エンド。これは本当にびびりました。同時に、なんてすごいアイディアだろうと思った。これがあるだけでもこのゲームは押せる、というくらいです。
 出来の良さ、ストーリーの面白さは言うまでもない。4も好きですが、実際の歴史を踏まえてみたり、森でサバイバルをするなどの要素を加えてみたりという点などを考慮すると、やっぱりこちらが最高傑作という風に思います。

ここまで十選。

延長戦!

『ドラゴンクエストⅧ 空と海と大地と呪われし姫君』(PS2 スクウェアエニックス2004)
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ドラクエ5のすごさは書いたとおりですけど、いちばん時間を費やしたのはこの8です。8はもう本当に感動的です。ぼくはこの8があるので、9も10もやる気がしないんです。7から8の発展って、すごいと思うんです。それまでのドラクエには、空がなかったんです。上から見る形ですから。でもこの8は立体的そのもので、世界中を旅して回るわけじゃないですか。あの鳥山明の画の世界を旅して回るその快楽。だから9がDSになるとか聞いたときはもうがっくりでした。この8のままで行ってくれていいのに。ネット通信とか要らないから、8の世界をもっともっと広げていけばいいのに。この8の世界は本当に動き回っていて気持ちがいい。動き回るだけで気持ちがいいゲームって、傑作だと思うんです。そんな風に思わせてくれる作品でした。

『SIREN2』(PS2 ソニー 2006)
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実はこれは実際にプレイしたことがありません! ネットのプレイ動画で見ただけです。理由は怖いからです。ぼくは映画にも小説にも漫画にもびびりませんが、ホラーゲームには大びびりの人間なのです。ホラーゲームより怖い映画なんて、ぼくは見たことがないです。それくらい怖いんです。『バイオハザード』って、もともとがアメリカ風じゃないですか。でも、こちらは純日本的。しかも土着の日本って感じ。どこかで見たことがあるようなド田舎の景色。その敵の視界を手がかりに動き回るというのもすごいし、動かすキャラクターがか弱い少女で一切攻撃ができないとかの縛りもえげつない。実際にプレイすることはできないへたれものですが、観ているだけでこれはすごく怖くて面白いゲームだな、と思わせてくれる作品。これより怖いゲームってあるかってくらい、ぼくはこの世界観が怖いですねえ。

あとは『みんなのゴルフ』とか『ワンダと巨像』とかも入れたいところですが、きりがなくなるのでこの辺で。皆さんも自分の思い出のゲームを考えてみるとよいでしょう。いろいろと記憶の扉が開くんじゃないかと思うし、それは映画よりももっと体感的なものでありうるかもしれません。
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テレビゲームについての記事です。

 映画を観る、語る気持ちにならぬ状態が続いております。今回は趣向を変えまして、個人的「テレビゲーム・オールタイムベストテン」をやってみます。映画ではオールタイムベストテンというのはよくありますが、ゲームではあるのでしょうか。寡聞にして知りませんで、やってみたら面白いんじゃないかと、まあそんな気まぐれでございます。ぼくにとってゲームというのはほとんど麻薬的なものがあります。やったら確実にはまるのであって、その愉しさは映画の比ではないとさえ思うのであって、ゆえにそうそうやるものではないと決めております。しかし人生の中で、がっつりはまったものはそれなりにあるのでして、そういうものを並べてみようじゃないかと、まあこういうわけでございます。

 ぼくが所有してきたゲーム機はというと、ファミコンに始まり、スーパーファミコン、PSの1、2、3。そして、実家の母が何かの懸賞で当てたけれど使いようがないからという理由でもらったWii。セガやマイクロソフトにはぜんぜんお世話にならずに来たのであります。

 わりと王道のものが多いというか、知る人ぞ知る! みたいなのはありません。べたべたやな、と思ってもらってよいです。なにしろ小中の頃はそれほど多く買えないから当てにいきますし、金銭的に余裕で買えるようになったらなったで別のことに時間を割かねばならぬからそれほどいろいろ手は出せないしというわけで、そんなコアなものにはいかなかったのです。

 ゲームと言っても広いですからね。一本も被らない人もいれば、結構被る方もいるでしょうか。寸評を挟みつつ見ていきましょう。順位付けは困難なので、発売年順に書いていきます。

『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(SFC 任天堂 1991)
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言わずと知れた人気シリーズですが、ぼくはこの前作も後の作品もやっておらず、この一本だけです。「ファンタジー」というものに生まれて初めて触れたのは、もしかしたらこれかもしれないなあと思います。そして、幼かったぼくは謎解きができず、攻略本というものに初めて頼ったのもこれでした。これはなるほど、人気が出るよなあと今にして思いますね。ゲームバランス、システム、シナリオ、謎解きの快楽含めて、ほとんど言うことなしと言える一本じゃないでしょうか。で、怖い場面はきちんと怖くつくってあるんですね。霧の立つ深い森の中とか、豪雨の沼地とか、本当に怖かった。適度に怖かった。その中を主人公リンクを動かし、えいやっと飛び込んでいく。このテレビゲーム的快楽。そして一方で、穏やかな場面はほっと安心できるつくりになっている。その緩急。姫を救い出して世界を魔の手から救うのだ! という直球的なシナリオもわかりやすくていいし、音楽もいい。でも、こう書いていると思いますね。今、ゼルダをやっても、あの頃のような冒険はもうできないだろうなあって。それくらいに鮮やかに、残っていますね。小四の頃に引っ越していった樋口くんは、あの頃のことを覚えているかなあ。

『ヒーロー戦記 プロジェクト・オリュンポス』(SFC バンプレスト 1992)
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当時のぼくはウルトラマンと仮面ライダーに魅せられまくっていたのでして、「将来、自分はきっとウルトラマンか仮面ライダーになるに違いない」と素朴に信じていたのでして、とにかくこの二つが大好きで、その夢の共演が果たされた正統派RPGです。その二つとガンダムの夢のコラボです。当時はガンダムを知りませんで、あまりその存在をよくわからずにプレイしていましたが、ガンダムも知った上でこのゲームをしていたら、精通もしていないのにエクスタシーを感じていただろうと思います(あほ)。これをきっかけに「グレイトバトル」や「バトルドッジボール」など、いわゆる「コンパチヒーロー」シリーズが大好きになりましたが、その中でも一番の良作、傑作じゃないかと思います。小ネタも満載だし、各シリーズのエピソードもふんだんに盛り込んでいます。主人公はウルトラセブン、仮面ライダーブラック(RX)、そしてガンダム(ニューガンダム)です。この辺もいいんですねえ。ウルトラマンじゃなくてウルトラセブンを入れてくるあたりが、もう本当によくわかっている。世代的にブラックにはまったので、これもありがたかった。
 他にもサブキャラとして各シリーズの仲間たち、敵たちがいっぱい出てくるんです。これより後に『ガイアセイバー』や『スーパーヒーロー作戦』などの同種のRPGがリリースされましたが、もう圧倒的にこの『ヒーロー戦記』のほうがよくできている(というか、後の二つはゲームバランスが悪すぎる)。中盤で仲間がバラバラになってしまうエピソードなどもあるし、ラスボスにも驚きがあるし、シナリオもすばらしい。これは傑作だと思いますね。

『大貝獣物語』(SFC ハドソン 1994)
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 考えているといろいろ浮かんできてどれにするか迷ったのですが、これを入れることにしました。ファンタジックな正統派RPGです。当時、ぼくの周りには「コロコロコミック派」と「コミックボンボン派」がいて(「ジャンプ派」「マガジン派」などが出てくる前の幼い頃ですね)、ぼくは後者でした。『コミックボンボン』と『デラックスボンボン』はぼくが人生で唯一購読した漫画雑誌です。あの雑誌はカプコンやバンダイなどとタイアップしていて、それらのゲームを題材にした漫画がよく載っていました。その中のひとつがこの『大貝獣物語』。漫画につられて買ってみたらとても面白いゲームでした。
 書きながら気づくのですけれども、ぼくはとにかくゲームにキュートなものを求めてしまうたちなのですね。というか、大人っぽいものへの抵抗というか恐怖というか、そういうのもあったのです。出てくるキャラクターが可愛らしかったし、世界観もよかった。今にして思うと、ボリュームもかなりの量なのです。かなり長い。でもその分だけ、世界にどっぷりと浸かって愉しんだという記憶があります。
 それにしても、繰り返しになりますが、こうして書いていると当時はなんと無邪気にゲームを楽しめたのだろうと思いますね。余計なことを考えずにゲームの世界に浸っていた。それはもう無類の愉しさだった。もうそんなことはないんだろうなあと思うと、少し寂しくなったりもするのでありました。

『不思議のダンジョン2 風来のシレン』(SFC チュンソフト 1995)
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これはねえ、この不思議のダンジョンというのはねえ、ゲームとしての設計の妙という点では、古今東西のゲームを集めてきても、五指に入るんじゃないですかねえ。それくらい美しいゲームだと思います。非常によくできている。
 ダンジョンに入って進行していくんですが、敵とプレイヤーはまるで将棋みたく、一ターンごとに動くわけです。で、そのダンジョンというのは毎回違う迷路みたいなもので、落ちているアイテムも毎回替わる。だから毎回新鮮な気持ちでゼロから始められるし、毎回毎回で違う悩み方をする。運の要素、つまりは不確定要素に充ち満ちたゲームで、これは大変な発明じゃないかと思います。一作目のトルネコにもはまりましたが、オリジナル世界であるこのシレンは仲間やアイテムといったシステムが大幅に広がり、世界としてとても豊かになっています。褒め言葉として言えるのは、「やられ方が実に豊富」なんですね。いろんなやられ方がある。まさかここでというところでやられたり、すべてが順調にいっていたのにたった一度の判断ミスでぼろぼろになったり、時には即死したり。トルネコでの出来事としてですが、「難敵に向かってラリホーの杖を振ったら、その敵と自分の間に見えない敵がいて、杖の効果が反射してしまって、眠りに落ちて、ぼこぼこにされて、死ぬ」なんてことがあったときには、ショックと感動が一挙に襲ってきました。そういうものに充ち満ちている不思議のダンジョンシリーズ。トルネコでもいいのですが、独自の世界観とゲームの幅の広がりの点で、シレンを挙げておこうと思います。

『チョロQ3』(PS タカラ 1998)
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レースゲームの代表格と言えば、何なのでしょう。『グランツーリスモ』とか、『リッジレーサー』とか、あるいは『マリオカート』がそれに当たるのでしょう。ぼくはリアル方面にまったく興味が湧かなかったので前者の二つには触れたこともなく、『マリオカート』はSFC版こそ友人のものを一緒にやったりしましたが(思えば幼かったあの頃はぼくの人生における実に淡いモテ期。)、それほどがつんとは来なかった。そんなぼくが好きだったのがこのチョロQシリーズです。1~3と、「ワンダフォー」までやりました。チョロQと言ってもぜんまい仕掛けでなく、普通のレースカーとして登場するんですが、チョロQが時速百キロ以上で走ったりする馬鹿っぽさがとてもキュートに思えたのです。船とか飛行機の作品もありますが、「それはもうチョロQじゃない」と醒めました。大ジャンプするコースがあったり、水の中を走ったり、変なコースを走ったりというのは、後の『マリオカートWii』などよりずっと早くこのゲームでなされているのです。チョロQシティというのがあって、そこを冒険するような楽しみも加味されており、とても面白かった作品です。

後半は次回。
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始祖の死を終焉とするのは、信者の態度ではないのだよ。

 またマスカッツの話かよと思われそうなところですが、映画の話を淡々と始めるほど冷静なたちではないのでございます。今、政治の話とマスカッツの話以外、いったい何を話せばいいというのです。

 マスカッツは解散を発表しましたが、それをもって終焉と考えるのはずいぶんと偏狭な話でございます。むしろぼくたちはその後の、さらなる大物を待ちわびる必要があるのでございます。それがマスカッツを超えるものであることを願うのでございます。

 解散を契機に考えてみるに、マスカッツというのは完全体とはほど遠かったのであります。AV女優を中核としたユニットではありましたが、AV女優のみによって完成されたものではまったくなかった。メンバーの半数近くをグラビアアイドルが占めていたのです。
 
 実を言えばぼくはそのことが不満でならなかった。グラビアアイドルをメインとした企画などが行われるたび、「そっちはどうでもいい。もっとAVチームを映せ」と思っていたのです。このブログでも、再三にわたってAV女優を祭り上げてきた一方、グラビアアイドルには言及しなかったというのは、そういうわけであります。AV女優至上主義者でございます。

 むろん、グラビアアイドルにも意義はあった。単体としては市場で日の目を見なかった者を取り込むことで、マスカッツは拡大した。しかし、結果としてAV女優メンバーを超えるような存在は、ついぞ出てくることがなかった。理想的な布陣とはほど遠かったのであります。マスカッツの新人加入はAV女優に限定してほしいと、ずっと思っていたのです。

であるならば、ぼくはマスカッツ以上のものを求めたく思うのでございます。
 ご想像くださいませ。AV業界が一丸となり、単体女優の精鋭を結集してグループを結成し、それが既存アイドル界に殴り込む姿を。それはなんと香しき光景でありましょう。マスカッツなきあとでマスカッツを超えるものを求めるとは、つまりそういうわけでございます。マスカッツの解散を単に嘆き悲しむ者は、マスカッツの本義を理解しておらぬのでございます。かつて、メンバーである西野翔様は、テレビ番組に出演したとき、「恵比寿マスカッツはAV女優の夢なんです!」と高らかに叫びました。これは「AV女優がマスカッツに入ることを夢見ている」という意味ではありません。「マスカッツには、AV女優の夢が込められている」ということでございます。

 そういうわけで、ぼくたちは心折れることなく、次の可能性を模索する必要がございます。マスカッツを継ぐ者を、探していく必要があるのです。始祖の死をもって終焉とするのは、信仰する者の態度ではあり得ぬのです。

 さしあたって見つかるのは、AKBを堂々とぱくる「SOD国民的アイドル」であります。これがまた、アイドルソングとしてはかなりよい。初めはただのパクリじゃないかと軽視しておりましたが、いざ聴いてみると、曲としてのよさはなかなかのものがあります。AKBの元曲よりいいのです。面白い試みであります。古きSODが持っていた革命の遺伝子に期待するのであります。大槻ひびきさんなんて人は、とても可愛らしいのであります。
 





 そして他に挙げられるのはアリスJapanの仕掛ける「ありすた~ず」です。マスカッツの主要メンバーの多くもこのアリスからAVデビューとしている。新人発掘界の猛者であります。その意味では、このアリスJapanにも、マスカッツの残した種子は息づくことができるのではないかと期待しております。ちなみに、一時期マスカッツにいた優希まことさんがいます。


 もうひとつは「BRW108」というもので、これはしかしよくわかりません。マスカッツのメンバーも一員とされているようなのですが、全体としての活動歴はなく、いわばゆるい連合体のようなものなのでしょう。しかし、このような連合体を中心として、マスカッツの種子が受け継がれていくのは有意なことであります。「PINKEY」というユニットが組まれてCDデビューもしているようですが、前者に比べるとアイドル楽曲的快楽にはずいぶんと乏しいのが難点であります。

 かように、いまだマスカッツに比べれば小さなものばかりでありますし、個々での躍進はさほど期待できぬのが現実でございますが、「種子は受け継がれるべきもの」という思想に基づき、今後も活動を見守っていくのでございます。そして現段階で当然第一に願うべきは、マスカッツのメンバーを中心とする新しいユニットの結成。純粋なるAV女優ユニットとしての再生。希志あいの様や瑠川リナ様などの野心に期待するものでございます。
 いずれにしろ求められるのは、蒼井そら様のような突破的存在。これが今のAV業界にはいない。そこが難しい状態です。マスカッツの誰かがそうなってくれるのを希いながら、
とりあえずはこの辺で。
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 恵比寿マスカッツの来年四月解散が発表されるにいたりまして、ここに思うところを述べる次第でございます。

 解散発表と、衆議院議員選挙ならびに東京都知事選挙が同日であったことは、ある意味でとてもありがたかったのであります。どちらも好ましからぬ結果ゆえに、日を隔てていれば二度落ち込むことになっていたかもしれぬわけでして、このように両方の出来事が重なり、なんだかもうどうでもよくなるような気分になれたのは、不幸中の幸いでございます。

 十六日に行われたコンサートでは、事前に既に「重大発表がある」と告知されており、よもやよもやと幾分の覚悟はあったものの、それが現実化するとは思わず、ただ驚いたのであります。心にぽっかりと穴が空いた気分であります。

 以前より、マスカッツには両義的な思いを抱えておりました。
 ひとつには、もどかしさでございます。
「おねだりマスカットSP」を観ると、なぜこんな企画で、なぜこんな編集で、なぜあのメンバーを差し置いてこのメンバーでと時折いぶかしくなったり、あるいは憤りたくなる面もございました。自分を作り手に加えてくれたならもっと面白くできるのに、もっと映すべきものを映せるのにと思いながら、その週の放送を観終えること多々でありました。
 
 そしてそう思わずにいられぬのは、グループ自体がさらに大きな可能性を秘めていたゆえであります。メンバーの過半を占めるAV女優、その存在。彼女たちには芸人にもその辺のアイドルにも立ち入れぬ領域へと踏み込める、特異な身体性が宿っていた。前の記事で述べましたように、他のアイドルがすべて「聖女」であるのに対して、「売女」という側面を宿していた(逆走!)。
 それは人々の価値観を揺るがせるに十分なものなのであります。アイドルがたたき売りする処女幻想、それを堂々とぶち壊す存在。人々がひた隠しにする欲望、押し込めている欲望を、体現しながら生きる肉体。とかく賤業に観られがちなAV女優を、表の世界へと放つ依りしろ。彼女たちは保守的な秩序に立ち向かいうる存在だったのであります。

 しかし、まるで世間が思い切り反動に傾いたのとリンクするかのように、このたびの知らせが届いた。たまたまの偶然に過ぎぬことでありましょうが、選挙の結果とも重なるような出来事なのであります。

 大変に残念なことであります。自分事以外で、こんなにも残念に思うのは、そうそうあることではございません。

 ことによっては、拡大路線を目指せるのではと夢想しておりました。
 単体AV界には続々と有望なアイドルが生まれている。彼女たちを取り込み、代謝を繰り返すことによって、AV界そのものがアイドル界に殴り込めるような勢力になってくれるのではないかと、夢を見ておりました。そしてマスカッツはその中核を担う恒久機関たりうるのではないかと、夢を見ておりました。闇が光を喰う。その瞬間を希うものでありました。それが、なんたるかな。夢半ばの凶報。

 総合演出を番組開始当初より務め続けたマッコイ斉藤氏は「絶頂期に解散させたかった」と表向きの理由を語ってはおりますが、それはおかしな話でございます。僭越ながら申し上げるに、絶頂期など何も迎えてはおらぬのです。スポーツチームで花形選手が全盛期を終えようと、そのチーム自体は続けられるはずなのです。かつての四番やエースがその勢いを無くすことがあったとて、希志あいの様、瑠川リナ様のような大型ルーキーを今後も取り入れることによって、チームは上昇の可能性を多分に孕んでおるのです。そりゃあ一期メンバーも年をとるし、今後の身の振り方を考えることもありましょう。しかし、だからといって、せっかくつくりあげた尊い中核を、放棄する必要がありましょうか。AKBの可能性はしょせんAKBの発展で終わり。ももクロの可能性はしょせんももクロの発展で終わり。しかし、マスカッツはそうではなかった! その向こうには、もっと大きな可能性があった! 既存の秩序と価値観と勢力構図を一変させる種子がそこにはあった! 肥沃なる大地に芽吹いた瑞々しいみのり、あるいはその中心となる大樹。それを捨てるとはいかなる暴挙でありましょう!

 とはいえ、むろん、そこにはやむを得ぬ事情もあったことでありましょう。ぼくの知るべくもない業界的事情があるのでありましょう。もしも仮に、解散までの期間で、これが覆ることがないというのであれば、ぼくたちは次の種子を探す必要がございましょう。マスカッツの開拓した大地を継ぐ者、その訪れを待ちましょう。日本の政治が党派の枠組みを超え、よりよき未来を実現する日を待つかのごとく、DMM、SOD、アリスJapan、h.m.p、桃太郎映像、KMPなどが結集してユニットをつくり、既存のアイドルを打ち破るような一大勢力となる日を待ちましょう。

 ともかくも、まだすぐの解散というわけではございません。四月以降に新たな枠組みがあり得るし、マスカッツを範とする野心的な仕掛け手が出現するとも限りませんし、あるいはすべてが杞憂に終わり、活動は継続され、「あの頃ぼくらはひどく若かったよね」と今日の日を振り返ることができるかもしれません。

本当に答えが出るその日まで、ぼくたちはともにある日々を愛でようではありませんか。
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うまいことやっていますねえ、「アイドル=聖女」の枠組みの中で。
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 つまるところ、宗教たるものはその信者にとって一等尊いものであり、信仰せぬ者においてはほとんどどうでもよい代物なのでございまして、ぼくなどにはもう一ミリとも響かぬものであったというのは、致し方のないことなのであります。しかしなんでも、最近では元メンバーの方がなんとあのイエス・キリストを超越なされたということで、だったらもういっそのことオバマもロムニーも蹴散らして大統領になればよかったのにと思いもするのですが、そこまで言うなら観ておこうと思って、観てみたの。

 ただですね、申したとおりに、この映画はある種の宗教映画でございますから、異教徒のぼくがどうのこうの言うのも唇寒い話なんですね。その信者の方々が満足されていればいいわけです。非常に話を続けにくい状態であります。変に絡まれるのも、面倒くさいだけです。

 異教徒なりに思うのは、「うまいことやっているなあ」ということですね。表だけではなく裏も見せまっせと。観る者に「おお、これが裏か」と思わせる。宇多丸さんは、「アイドル映画の臨界点だ!」とおっしゃっていますが、要するに、「AKBに惹かれる程度の人たち、を満足させる程度に、裏」なんです。うまいことやっています。さすがですね。

 たとえばあの選挙のくだりですね。誰が何位だ何位だ、一位だ二位だと。で、華々しいあのステージの裏ではこんなことがあったのだと。そういうのをファンは観たいわけで、そのニーズにきちんと応えているんです。うまくやっています。ただ、ぼくは異教徒ですので、一位とか二位とかってことがもうどうでもいいわけです。何をこの人たちはそんなことに熱くなっているのかな、とぽかんとするのです。

 ツタヤに行くとポップに「ジャンル:戦争ドキュメンタリー」とか書いてあったり、宇多丸さんもそんなようなことを言ったり、あるいはこのグループが「社会現象」として語られたりする。そこまで言われると困ってしまいます。当然本当の戦争はそんなものではあり得ないわけですし、世界でも昨今政変ラッシュが続き、日本でも与党が変わろうとしている。そちらのほうに重きを置いて社会を眺めている人間からすると、何を熱くなっているのかまるでわからない。オバマとロムニーの戦いには注目しました。都知事選にも衆議院選挙にも注目します。中東情勢にも注目します。現実社会のことですからずっと重いわけです。そんな時代にあって、「これはもはや戦争ドキュメンタリーですよ!」みたいなことを言われても、ねえ?

 ぜんぜん関係ないようですけど、大統領選とか自民党の動きとかを眺めながら、近頃は右翼と左翼について考えたりしていて、三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地での演説などを動画で観たんですね。すると、ぐうっと胸に迫るものがやはりあるわけです。その思想はどうあれ、ああこの人は本気の本気で日本を憂い、行動に出たんだなと感じ入るものがある。そういうのを観ていると、「票数は愛です!」「うおーっ」みたいなのは、ねえ?


(ちなみに、ぼくは憲法の改正は条文によっては実行されるべきであろうと思っていますが、今の自民党程度の草案には賛成できません。)


こういうことを言うと、アイドルに浮かれることを悪く言っているように思われそうですね。でもそうではありません。異教徒と申し述べたように、ぼくはぼくで恵比寿マスカッツを信奉しております。恵比寿マスカッツ信者の切り口で、ちょいと話します。


 恵比寿マスカッツは主要メンバーがAV女優であります。彼女たちは普通のアイドル的活動をしながらも、その一方ではAVに出演している。ペニスを咥えヴァギナを舐められ、涎を垂らし小便を垂れ、アナルを露わにしファックに喘いでいる。そんな姿を堂々と見せている彼女たちは既に、十分すぎるほどに十分な「裏」を見せているわけです。恋愛禁止だと処女幻想を振りまくなど、彼女たちには端からあり得ない作法です。 

信者としては、その振れ幅に魅せられる。彼女たちは単なる聖女ではない。聖女と売女の両面を露わにした、類い希なる存在として顕れている。そういうものに魅せられている人間からすると、あまりにもどうでもよいものに見えてしまうのです。 
 世の人々は聖女を崇め、売女を誹る。彼女たちはその誹りをも覚悟の上で、その裸体を晒している。その心意気を買わずして何が日本男児でありましょう!

 こういう異教徒にとってみれば、傷つきながら夢を見られても、どうでもいいとしか言えぬのです。マスカッツの作品それ自体が持つドキュメンタリー性に比べれば、と思ってしまうのです。けなしているのではまったくありません。聖女を聖女として崇めたいのなら、どうぞどうぞご覧になって頂くのがよろしかろうと思います。
 ただひとつ、確か、イエス・キリストは人類の原罪をその一身に背負い、人々は彼を信ずることで神からの赦しを得るのだろうと思うのですが、この文脈に照らすならば、AKBの元メンバーがキリストであろうとは信じられません。AKBはこの映画をもってしても、「アイドル=聖女」の枠組みをなお遵守し続けているのです。

 恵比寿マスカッツは己が売女として石を投げられることをも覚悟しながら、僕たちの下卑た欲望を肯定し、生を肯定する存在なのであります。「おまえたちが生を受けたのは、かような営みがあってこそなのだ」と教えてくれるのであります。最初の人類たるエヴァは知恵の樹の実を食べ、裸体に恥ずかしさを覚え、楽園を追放された。であるとするなら、原罪を背負いながらも陰部を露わにするマスカッツの営みは、ヤハウェへの挑戦であり、サタンとの融和であり、原罪の超克なのであります!

 そろそろ何を言っているのか、自分でもよくわからなくなってきましたが、まあ、もうなんでもいいや、ええと、(適当に締めておいたほうがいいな、そうだな、よし)、

 AKBと恵比寿マスカッツをこれ以上引き比べるようなことにならぬように、どちらでもないこのユニットのPVで、平和的に締めましょうか。

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