ご多分に漏れず、ぼくも年を経るにつれ、いわゆる「最近のJ―POPシーン」なるものにまったく疎くなっており、ラッドウィンプスさんとはどういう人たちなのか、そもそもその読み方で正しいのか、『君の名は』の主題歌を歌ったんだかどうだったかくらいの認識しか持っていなかったのですけれども、今回はなにやらかまびすしい一騒動があったらしく、愚見を述べざるを得ないなあと思う次第であります。

この曲について数日前からTLなどでがやがやと評判ないし悪評が目につくようになり、どういう類のあれなのかと歌詞サイトでチェックしてみたのですが、正直なところぼく自身は別段拒否反応を引き起こさなかったというか、ああ、最近の若い歌い手さんが頑張って書いたんだねえと目を細めて失笑するくらいにしか感じなかった一方、なるほど世間的には確かにアレルギー反応をもたらしうる文面だなあとは思います。

 歌詞の巧拙はまったく横に置くとして、あの歌詞を世に出したいと思うこと自体、ぼくはなんら否定しません。遊就館にでも出向いて、なんかちょっとかぶれちゃったんだろうねえとは思いますが、内容それ自体を取って糾弾する側に立とうとは思わない。少なくとも、今回に関しては。

 ただ、話題になったあとの作詞者による反応というか弁解というか、その辺がまったくもって頂けない。実にださい。その辺りについて、ちゃんと書いておかねばなりません。

 作詞をした野田さんという人はネット上の弁明において、このように仰っている。
「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました。」

 歌詞自体にはぴくぴくしなかったぼくですけれど、この「右も左もなく」みたいなフレーズを吐いてしまう点については、かなりイラッとしたのであります。ああ、現在のJ―POPシーンを彩る寵児が、その程度のバカなのかと。

 ネットで政治的な発言をするアカウントの中には、「右でも左でもありません」的なことを表明している連中がいるんですけれど、こういうやつは端的に言ってバカです。

 そもそもこの右と左という概念について言えば、「俺は右だ」「私は左だ」などと言いきれるものではないのです。まして、右でも左でもないということ自体、政治的言明としてはまるであり得ない。ここでひとつ断言しておきたいのですが、「右でも左でもない」などとわざわざ言うやつは、「自分は政治についてまともに考えたことのないパープーだ」と述べているに等しいのです。

 至極当たり前のことですが、ぼくたちは右手、左手、右足、手足を使って生活しています。それは右脳、左脳のはたらきによるものであり、たとえばこれを読んでいるあなたは今、右脳によって画面と空間を認識し、左脳によって単語や文法を理解しているのです。この当たり前の身体的事実を政治的思考に投影できないからこそ、「右でも左でもない」みたいな頭の悪いことを言い出すのであって、この時点で何も考えていないのがはっきりとわかります。

ぼくたちの政治的立場はおおよその場合、「右でもあり左でもある」のです。日本社会の伝統や風習を保守しようという感覚もある一方で、今よりも改善していくべきだという点も随所に見つかる。その思考形態がすなわち、「右でもあり左でもある」ということです。エヴァンゲリオンの赤木リツコ風に言えば、「ホメオスタシスとトランジスタス」の両方があるわけで(トランジスタスは架空の語ですが)、どちらかだけなんて普通じゃない。そして、左右どちらでもないなんてあり得ない。

 世界史で捉えるなら、18世紀にフランス革命が起こり、そこで右翼と左翼の概念が生まれた。その後、革命の動乱期を経てナポレオンが登場し、ナショナリズムという概念もこの世界に生じた。19世紀にはイギリスの産業革命による資本家と労働者の格差拡大が顕著になり、マルクスが社会主義を唱え、共産主義という革新的思想=「左」の旗印として世に出でた。その先の20世紀でロシア革命が起こり、大日本帝国は消え去り、冷戦の時代を経て、日本では戦後民主主義が続く21世紀にいたるわけです。

 要するに、現代に生きるぼくたちはいわば、右と左の申し子なのです。左右両方の思想の上にぼくたちはいる。であればこそ、右でもあり左でもあるという両面性は自明なことであり、多少なりとも国家や社会や政治について考えたことがあるのなら、右でも左でもないという態度は決してあり得ない。

 その点において、ぼくは野田さんという作詞者に対してひどい落胆を覚えました。
 ああ、何も考えてないんだ、と。いや正直、右翼なら右翼でぜんぜんいい。軍歌的な歌なら軍歌的な歌としてかまわない。でも、そこにすら到達していない。

あまつさえ、そのあとに彼はなんだかよくわからないまま、「謝罪」をしているようなのです。「傷ついた人達、すみませんでした」などとほざいていらっしゃる。

どういうことなのか?
「この身体に流れゆくは 気高き御国の御霊」じゃないのか?
「僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない」んじゃなかったのか?
 それともまさか何の覚悟もないままに、「御国の御霊」などと軽々しく口にしたのか?

 ぼくに言わせりゃ、その薄っぺらさが国辱的で、反日的だよ。
 ちょっと騒がれたからってしおしお謝罪するというあまりにも気高くない態度を取りながら、御国の御霊がどうだのとさも勇ましげな歌詞を綴ってるその振る舞いは、日本というこの国をおまえのファッションと小銭稼ぎとオナニーのネタに用いたのと同義であって、甚だしく国辱的なんだよ。この一件について、またパヨクが怒ってるよ~みたいに捉えてるネトウヨどもはまったく事態を理解できていないのであって、この野田なんちゃらという作詞家が一番の反日じゃないか。ネトウヨは怒るべきだろう? その程度で御国がどうちゃら言ってるんじゃねえって、怒らないのか? なぜそんなこともわからない? わからないだろうな。ネトウヨが見てるのはただパヨクだけだ。日本のことなんか何も考えちゃいない。

 だいぶ荒ぶってしまいましたが、ぼくはこの手の、「さも日本を愛してますみたいなフリしてその実何も考えてない」連中が大嫌いなのですね。それ自体が、国辱的だから。

 もう一度強調しておきますが、ぼくたちは「右でもあり左でもある」のです。
 左右の歴史を踏まえた上でここにいる、と自覚すること。それが右としてのあり方であり、従来の左右対立をなおも乗り越えようと考えることが左なのです。その自覚を持たない政治的言説には、何の価値もないのであります。

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 自民党憲法改正推進本部が2月16日、参議院議員選挙の合区解消にまつわる改憲案を示しました。憲法47条、92条についての条文案です。

 ここでは、47条について考えていきます。
 まずは現行の47条がどのようなものかを見てみましょう。

「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」

 実にシンプルであります。
そして、今回示された条文案。
「両議院の議員の選挙について、選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。

 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」

 最初にこれを読んだとき、「選挙って何回言うねん」とつっこみたくなりました。なんとも持って回った表現の条文案です。内容的にも実になんというか、「これが結党以来の党是を体現したものかよ」と、少し悲しくなります。まず、最初の一文についていえば、いちいち憲法に書く必要がありません。「選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して」などというのは、「そりゃそうだろ。逆にそれ以外の何があるねん」という内容だし、「選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定める」についても同様です。これに反対する日本国民がどこにいるのか。議論にすらならず、改憲をする必要がぜんぜん見受けられない。

 二文目を見ましょう。こちらがつまり、合区解消を謳っている芯の部分です。両議院でもかまわないのに、わざわざ参議院議員と限定しているのですね。
「参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。」
このつっこみどころとしては、「少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる」の部分です。

「すべきものとすることができる」「すべきものとすることができる」「すべきものとすることができる」

 なんじゃそりゃ。
「すべきものとする」で切るならわかります。各都道府県から必ず一人は議員を出すんだぞ、これが守られなければ違憲になるぞ、というメッセージを打ちたいなら、「選挙すべきものとする」で切ればよろしい。それをあろうことか、「することができる」にしちゃったらどうなりますか。「するもしないも自由だけど、まあ、したい場合にはすることができるよ、別にどっちでもいいけど」程度の意味でしかないじゃないですか。

 すなわち、たとえ合区が解消されなかったとしても、この条文ではぜんぜん問題ないことになります。時の与党が法律をいじくり、「少なくとも一人を選出すべき」としたければすればよいし、することができる。ただし、しなくてもよい。だから、与党の裁量で合区オッケーになる。そんな風に解釈できてしまうのです。

 当然、今の状況のままで合区を解消すれば、一票の格差問題とバッティングする(一票の格差を是正したのが合区なのですから)。仮にこの条文案が通り、都道府県ごとにブロックを分けた瞬間、一票の格差問題と正面からぶつかる。自民党はその辺を勘案したうえで、「することができる」を入れたのでしょう。なんとも腑抜けた話です。たとえこの条文案のまま「憲法改正」したとしても、実際は別に合区を解消しなくていいようになっているのです。「一票の格差の問題がありますから、今回については、『少なくとも一人を選挙すべきもの』とはしません。することはできるけどやりません」が成立します。

 もう完全にばれている。隠す気すらない。
 
 繰り返し述べているように、自民党改憲本部は「とにかく一発ヤりたいおっさんの集まり」なんです。愛情も熱意も誠実さも二の次で、とりあえず一発ヤらせてよと迫っているだけです。実際に付き合う気など無い。完全にばれている。
ぼくは改憲についてまったく反対ではないけれど、このレベルではさすがに同意できない。憲法ちゃんは大事な子です。憲法ちゃんと真面目に付き合う気がないなら、拙いラブレターなど端から書かなければよい。

 もしも本気で合区を解消したいなら、悠長に憲法論議などしている場合ではない。選挙制度にまつわる論議を国会で進めればよろしい。来年には参院選があるわけですから、合区解消と一票の格差をどう埋めるのかについて、一刻も早く選挙制度改革に着手すればよろしい。選挙区と比例区の議席配分を見直すもよし、参議院の議席数を増やすもよし、議席数を増やすと金が掛かるというなら、その分だけ今の議員の収入を削るもよし。242人が244人になろうが245人になろうが、大した金じゃない。少なくとも、国民投票のための850億よりはずっと安上がりだ! 幸いにして今の憲法47条は、「法律でこれを定める」という、裁量の広いなんとも簡単な条文なのです。さあ、国会で選挙制度改革に動けばいい。

 しかし、立法に動く気はない。立法じゃ気持ちよくなれない。立法とかそのための議論とか、しちめんどくさいことは後回しでいい。
 なぜなら、一発ヤりたいだけだから!

 改憲は結党以来の党是、結党以来の悲願。
 その看板を掲げ、絶対安定多数の議席を占め、半世紀以上の時を経て提出したものがこれです。
 ぼくはとても悲しい。
 憲法改正、特に九条二項については変えるべきだとぼくは思う。
 けれどこの程度の改憲案しか出せない、憲法について何の愛情も熱意もない、ヤりたいだけの改憲派とは、とてもじゃないけれど同調できない。
「先っぽ入れるだけだから、ゴムつけるから、外出しするから、お願い、一発ヤらして」みてえな、こす辛い口説き方で憲法ちゃんを落とそうとしてんじゃねえ!
 いささか感情的になってしまいました。
 92条については、特に触れる気にもなりません。
 ご意見は、お気軽に。 

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 2月16日の朝、東京メトロ千代田線において運行遅延が発生しました。女性専用車両に異を唱える男性数人と、ほかの乗客の間で口論が起こったためといわれています。

 女性専用車両に賛成か反対か、ということでいえば、ぼくは賛成です。女性を痴漢被害から守るというのが名目となっていますが、男性側から見ても痴漢冤罪リスクの軽減につながります(男性同士の痴漢もありますが、ここではひとまず女性についてのみ論じます)。

 女性の乗客にしてみれば、同乗している男性が性犯罪者かもしれないわけで、女性のみの車両に乗ることは大きな利益がある。また男性としても、女性は「冤罪告発リスク」を抱えた存在たり得るので、女性が少ないほうが安心して乗れる。痴漢撲滅こそが最重要課題ではありますが、その実現はいまだ困難だし、男女双方に利益がある現状を鑑みれば、女性専用車両を否定する必要はないでしょう。反対する人間は男性差別云々を唱えるようですが、専用車両に女性を誘導することで、男性もまた安心感を得ることができるのです。ウィンウィンなのです。

 その点において、女性専用車両への抗議活動、そのための乗車というのはあまり意味がない。というか、仮に抗議が実って専用車両が無くなれば、結果的に男も困るわけですから、反対運動などむしろやらないほうがいい。

 では、抗議をする人間はどういう理屈で動いているのか。
根本には「女性専用車両は男性差別だ!」という主張があるようです。
 そして、専用車両は「男性側による任意の協力」に過ぎないのだから、乗って構わないと主張する。法的には乗車を拒否することができないんだ、だから自分たちは乗るんだコノヤロー! という行動原理のようです。

女性専用車両にわざわざ乗り込むおっさんはキモイ、とまずは言える。そこでぐだぐだやってるやつは超迷惑ともいえる。女性専用車両なくしたら冤罪リスク増えるだろうが、てめえのゴールはどこなんだよクソジジイ、と言ってあげてもよい。

 けれど、ひとつ問題があります。ここが大事な考えどころなんです。そのキモイおっさんが言っていることは実のところ、法律上は正しいのですね。この辺りを掘り下げてみたいと思います。

 女性専用車両を法的に捉えた場合、拘束力がないことは確かです。鉄道会社のスタンスとしては「女性専用車両に乗らないよう、男性に協力を求めている」という形であって、おっさんの行動に違法性はないのです。だからおっさんどもは堂々と蠢き、キモさを爆発させながらわめき続けているのです。おっさん一般の社会的評価を下げる行動なので、全国のおっさんはこいつらに怒ってよいでしょう。

「女性専用車に乗らないのはモラルでしょ」と訴えたところで、「俺たちにモラルなんかない」と相手は開き直れてしまう。アンガールズ田中の名言、「俺は法の中で暴れてるんだ!」状態です。
 モラルのない人間に対して、モラルがないキモイ連中だと罵倒しても意味がない。モラルのない人間の行動をどう抑制すればいいのかといえば、これは法的な対処以外には不可能です。法的あるいは制度的な規制を設けない限り、「おっさんの言っていることが正しい」現状が続いてしまいます。また、女性専用と銘打ちながらも女性専用でないのだとしたら、誤解を招く表現になってしまう。本当の女性専用を実現するには、鉄道会社が対応を急ぐ必要があります。

 しかし、ここで立ち止まるべきポイントが出てきます。
 仮に、法的・制度的な形で「女性専用」を実現した場合、それが「男性差別」になってしまうのではないか、ということです。実際、おっさんたちはその点を主張の根幹に据えているわけです。さて、女性専用は男性差別かどうか、結局はここに踏み込むことになりそうです。

ヒントになるのは、各種の商業サービスで見られる「レディースデー」です。
 同じサービスにもかかわらず、男性客よりも女性客の料金を安くする。もしくは、同じ料金だとしても、レディースデー限定の女性用サービスを付加する。日にちで区切らず、レディースプランとして恒常的に優遇されているものもある。
 このような戦略はいろいろな場面で見受けることができます。
 さて、これは男性差別に当たるのか?

 結果から言えば、これは男性差別に当たるとぼくは思います。男女間で平等な対価を受け取れなくなっているからです。
 では撤廃すべきなのかと言えば、そんなことはありません。男性側としてみれば、「その企業を選ばない自由」も確保されているわけだし、平たく言えば企業側として、「嫌なら来なければいい」が成立する。あくまで企業の戦略に過ぎないわけであり、「確かに男性差別的なサービスだけど、だから何?」で済む話です。憲法で謳われる「法の下の平等」に反するのではないかといえば、別に反しません。一企業が顧客を選別しているだけですし、企業には顧客を選別する権利があるでしょう。女性客限定を謳うホストクラブにおっさんが入ってはいけません。ドレスコードがあるレストランにパジャマで入ってはいけません。ほかの客の利益、つまるところ「公共の福祉」の問題があります。レディースデーにかみつくおっさんが出てきたら、「嫌なら来るな」で終了です。

女性専用車両についても、同様の理路を敷くことができるように思います。
 鉄道会社は法的・制度的な整備を完了させたうえで、「嫌なら我が社を利用しないでください」と、おっさんに迫ればよろしい。男性差別じゃないかと文句をつけてきたら、「男性差別ですけど何か? 嫌ならバスでもタクシーでも自家用車でも自転車でも、ほかの手段を使えばいいんじゃない?」で終了です。日本にある鉄道会社はすべて民間企業ですから、顧客の選別は自由裁量の範囲でしょう。公共性の高い交通機関ではあるものの、あくまで民間企業ですし、公共の福祉で押すこともできます。鉄道会社は利益を出さなくてはならないわけで、多くの女性客を敵に回してまで、キモイおっさんを守る義務はない。差別を許容するのかと食い下がってきたら、「マイノリティへの差別は許さないけど、男性は別にマイノリティじゃないし、ほかの車両にいくらでも乗れるからいいじゃん。現にほかの男性は普通に乗ってるし」でこれまた終了です。

そう言ってもしつこいおっさんは折れず、司法に訴えるかもしれません(現に違憲性を訴えて、負けた事例があります)。そうなればしめたもので、裁判ではモラルや公共の福祉、男女双方を保護する観点などから、憲法に差し障るほどの差別性は認められないとの判決が出るでしょう。おっさんの唯一最大の武器は「法的根拠」ですから、それを示してやればよいのです。

法的・制度的縛りがないからこそ、モラルのないおっさんが暴れるのです。鉄道の運行業務に支障が出た以上、これは社会問題です。「モラルハザードジジイ」を撲滅するために、鉄道会社及び国会議員は制度設計を急ぐべきであろうと思います。

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 ふと、死刑制度の是非について考え込んでしまい、自分の考えを整理しておこうと思い、文章をしたためる次第であります。正直なところ、ぼくは存置派であるとも廃止派であるとも言い切れません。だらだらと書き連ねながら、思考の往き道を探ってみようと思います。

多数決を離れて 
 まず、とっかかりとして、世界における死刑制度を概観してみたところ、およそ100の国(と地域)が死刑を撤廃しているようです。世界全体の半分といったところです。そして、およそ50の国が、「制度としては残しつつも執行していない」状況のようです。日本のように死刑を執行し続けているところは50に満たず、世界で見れば日本は少数派ということになります。事実、国連総会は日本に対して、死刑執行停止を勧告しています。

 ただ、だからといってその潮流に従うべきなのかというと、ぼくには疑問です。少数派だから正しくない、わけではない。その国ごとの事情などもあるわけで、国連や世界の流れがそうだからやめなさい、というのには首肯しかねる。「他の国がどう言おうと、日本には日本の考え方がある」という意見も、十分理解できます。多数決ではないのです。

 そう。多数決ではない。

 こと日本において、各種アンケート調査では、死刑存置派が多数となるようです。日本社会は死刑に対して肯定的である、という言い方が許されるかと思います。ただ、その事実をもって、「だから死刑制度は存置し続けてよい」といえるのか。ここには疑問の余地があるように思います。

「世界の多数派が死刑廃止だから、日本も廃止すべき」というのが通らないならば、「日本人の多数派が死刑存置だから、日本では存置すべき」も通らないのではないか。多数決の原則を採用しないとはそういうことです。現に、ヨーロッパでは世論が死刑制度維持に傾いているにもかかわらず、廃止を決めた国もあるわけです。民意がどう動くかとは別に、ひとつの主張として廃止を考えてみてもよいと思うのです。

存廃双方の主張と問題
 死刑制度の是非における大きな要素として、抑止力の問題が挙げられます。死刑を存置したほうが犯罪が減るなら、制度は維持すべきでしょう。かたや、廃止したほうが減るというなら、死刑撤廃も十分な議論に値します。
そう思って多少ネットに目を走らせてみるものの、これといって有効な統計には出会えません。データを取っても、立場によって恣意的な解釈が可能であるケースだったりするし、凶悪犯罪の増減における因子は必ずしも、死刑の存廃だけではないでしょう。「死刑が抑止力になるかどうか」について、誰もが納得しうる数字があれば、是非教えてほしく思います。抑止力になるとも言えるし、ならないとも言える。双方にとって決定打にはならない。今のところはそんな印象を抱いています。

であるのならば、存置してかまわないのでしょうか。

 廃止派はここで、冤罪可能性を持ち出します。再審請求が多くある以上、冤罪で命を奪ったら取り返しがつかない、だからこそ死刑は許されないという主張です。ただ、この主張には穴があります。「冤罪かもしれないから駄目」といった瞬間、返す刀で、「じゃあ現行犯ならオーケーなんだな?」と言い返されます。公衆の面前で通り魔となり、その場で逮捕された場合、冤罪とするのはどうにも無理筋です。
 一方に裏を返せば、存置派は冤罪問題についてどう捉えるのか。この点、廃止派を説得しきる必要がありましょう。

 廃止派は別の意見として、「たとえ国家であれ、人命を奪ってはいけない」という主張を持ち出します。EUはこのテーゼを重視しているようです。

 さて、この問いに対して、存置派はどう答えるでしょう。

 よく見受けられるのは、「自分が遺族だったらどうする?」という反応です。「自分の愛する人が殺されたら、犯人を憎むだろう。命をもっての償いを求めたくならないか?」と情緒に訴える方法。これが、存置派の支柱のひとつです。

 ただ、情緒に訴えるこのやり方には疑念がつきまといます。

 確かにぼくだって、家族が殺されたら深い悲しみを覚えるだろうし、犯人に憎しみを覚えると思います。犯人を殺してやりたいと感じるだろうと、容易に想像できます。
 そうだろう? だから死刑は存置すべきなんだよ、と落ち着けたいところですが、気をつけるべき点が主に二つあります。

 ひとつ。遺族感情を考えるのならば、「死刑にならないケースをどうするのか」ということです。殺人がすぐさま死刑になるわけではありません。殺人の被害者が1名だけである場合、犯人が死刑にならないケースのほうが多いのです。殺人の量刑は刑法において、「死刑または無期もしくは5年以上の懲役」であって、量刑次第では必ずしも、遺族の応報感情が満たされるわけではない。もしも情緒を大事にすべきだというなら、殺人犯はその罪の数にかかわらず、もっと死刑になってもいいようなものです。「複数殺した殺人犯は死刑になり、1人だけ殺した殺人犯は死刑にならない」のなら、被害者の抱く不公平感はどう埋め合わせるのかという話にもなる。極端な話、「あの犯人がもっと殺人を犯していたら、死刑に持っていけたのに……」という(歪んではいても切実な)遺族感情を抱くケースが、どこかにあるかもしれない。死刑存置派は、今よりも死刑を増やすべきだという厳罰化の主張をするのかどうか。この辺りが気に掛かります。

 ふたつめは、死刑論議においてさらに重要な部分です。
 それは、「遺族感情が本当はどんなものなのか、いざそのときになるまではどうしてもわからない」ということです。
 遺族の中には確かに、死刑を求める人もいる。一方で、死刑を望まずに一生をかけて償ってほしいと考える人もいる。死刑によって区切りをつけたいという人もいれば、死刑執行後にもなんら応報感情は満たされなかったという人もいる。

 ぼくは幸いにして、凶悪犯罪の遺族にならずに済んでいる。

 そうであっても、できるだけリアルに想像することはできる。

感情と想像について
 たとえば一昨年に起きた、相模原の障害者殺人事件。ぼくは遺族ではないけれど、事情があって、おそらく世間一般の人よりも強く心を痛めています。卑劣きわまりない事件であり、犯人の思想をとってみても、ぼくには一切擁護できない。裁判はまだ始まっていないけれど、今の日本の量刑なら死刑が妥当だと迷い無く考える。

 けれど、あの犯人に対して死刑を望むかどうかというと、少し怯んでしまう自分がいるのです。

 あの犯人は逮捕されてもなお、自分のやったことが正しいと主張した。事件後しばらく経ってもなお、正当性を訴えるような声を上げていると、何かの記事で読みました(今現在はどうかわかりません)。

 ぼくは犯人を絶対に許せないし、犯人の主張を叩き潰してやりたいと思う。
 でも、こうも思うのです。
 あの犯人が、自分の間違いを認めることなく死んでいくとしたら、それを許せるのだろうか? 自分は正しいのだと死ぬ瞬間まで考え続けているなら、その死にはどれほどの意味があるのだろうか?
むしろ十年掛かっても二十年掛かっても、あの犯人が自分のやったことを心底悔い改めるまで、その言葉を吐くまでは、生かしておくべきなのではないか?
 謝って済むものではない。反省して済むものではない。
 だからといって、被害者への謝罪の意思も反省もなく死んでいくとしたら、果たしてそれでいいのだろうか?

 そういうことを考えたりもするのです。
 もちろん、実際の遺族の人は別の思いを抱えているでしょう。しかし、多くの遺族がいるわけで、その心情は一様ではないはずだとも思うのです。
 ゆえに、「遺族感情を想像すれば、死刑を求めて当たり前」と一概に一括りにしてしまうのもまた、一面的な想像力なのかもしれないと思う。ケースバイケースとしか言いようのない部分が、どうしたって残されている。

 凶悪な犯罪を犯した人間は死刑にすべきだ、というのが、今の日本における民意かもしれない。でも、ぼくはこの民意というものを金科玉条にはしたくない。当事者でない人間が、とやかく口を出す問題ではないとも思うのです。

 最近では旗色の悪い週刊文春。「不倫なんて当事者のことなんだから、部外者があれこれ口を出すべきじゃない」みたいな世論も沸き起こっている。もしそうなら、犯罪の量刑についても同じことが言えるんじゃないでしょうか。
 不倫は犯罪でこそありませんが、民事では不法行為に当たります。これについて部外者が口を挟むべきではないというなら、刑事事件で違法行為であっても、部外者は口を慎むべき点もあるんじゃないのか。死刑の存廃は果たして、民意なるものによって決められるべきものなのか?

ひとまずの結論
 答えのない問いばかりを並べてしまいました。
 うだうだと考えてみましたが、やはりぼくは今のところ、強力な存置派にも廃止派にもなれません。
 それでも、賛成か反対かと問われるなら、
・現行犯逮捕など、冤罪の可能性が認められない
・遺族の応報感情を満たす手段が、ほかにない
 この二点を満たした場合のみ、賛成という答えになろうかと思います。

 死刑存置派に対しては、「冤罪可能性を限りなくゼロに近づけるため、取り調べの全面可視化を含めた司法の透明化を求めます。それができないなら、死刑は執行停止もやむを得ないでしょう。
 死刑廃止派に対しては、「死刑廃止後における遺族感情の徹底的ケアマネージメント」を求めます。それができないなら、死刑の執行存続もやむを得ないでしょう。
 
 そんなところで、今日はこれまで。ご意見は、お気軽に。

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 小室哲哉さんが音楽活動からの引退を表明しました。週刊文春の「不倫疑惑」記事を受けて、心を決めたそうです。不倫疑惑といっても、会見で語られたところによると、そう単純なものでもない。病気に倒れた妻・KEIKOさんの状況や自身の心境もあり、心の支えのようにしていた女性が別にいてという話で、いわゆるところの略奪愛や二股みたいな構図とはぜんぜん違う模様。この一件を受けて、「文春は悪者だ!」という声がネットに多く見受けられます。

 この辺にどうももやもやを感じるので、言葉にしておこうと思う次第であります。「この辺」というのは、「文春叩き」の辺です。

文春は「悪」か?
 今回の件に関して言うと、文春の報道は表面的かつ扇動的だったように思われます。小室さん自身が会見で語ったことが真実だとすれば、世間一般でいうところの不倫とはやや違うものに思われ、その点において文春の報じ方には問題があると、ぼくは感じます。小室さんが会見で語ったような背景--相手との関係性やKEIKOさんとの今など--を緻密に報じていればよかっただろうとぼくは思います。結果として、文春が社会的評価を下げたとしたら、それは自業自得の結果でありましょう。
 だから、小室さんの件で文春に問題があるとすればそれは、「踏み込みが足りていない」ということになろうかと思います。いわば取材不足。現在の小室さんが抱える事情などをオミットした形で、不倫を印象づける記事を載せてしまったのが文春の失敗です。その点で言えば、文春は今回、週刊誌としてある意味、一番恥ずかしい結果を招いたんじゃないかとも感じられます。ぼくが文春に注文をつけていいなら、「もっと踏み込んだ記事を書くべきだ」という言い方になります。ゆえに、文春は「悪」というより、「浅い」と評せられるべきだろうと思います。介護やなんかの事情、小室さん自身の心境を踏まえず、男女問題のような形で報じてしまったわけですから。

文春が小室さんを引退に追い込んだのか?
 引退発表を受けてか、ネット上では小室さんを擁護する声も多く、「文春が一人の天才を引退に追い込んだ! 許せない!」というような反応も見られます。しかし、それもまた見方が浅いのではないかとぼくは感じます。会見の書き起こしを読む限り、以前から小室さんは自分の楽曲作りに悩んでいたようで、引退は前から考えていたことでもあると述べています。だとするなら、文春報道はひとつのきっかけに過ぎないのかもしれません。文春は確かにひとつのトリガーとなった。けれどそれをもって、引退に追い込んだとするのも短絡的でしょう。トリガーが引かれるまでに、彼の中に積もり積もった火薬はあったわけです。そこを捉えず、文春が引退させたかのように反応するようでは、文春を批判できません。それでは、踏み込みが浅かった文春と同じになってしまいます。背景に思い巡らせるべきです。
 それに、「小室さんを引退に追い込むなんてひどい! もっと多くのすばらしい楽曲をつくってほしいのに!」という反応についても、ぼくは違和感を覚える。彼自身、すばらしい楽曲をつくりたいけどつくれない自分に悩んだり、焦ったりし続けたんじゃないかと思うし、現にそのように語っている。であるのならば、「応援しているように見せかけてプレッシャーを与えているファン」はむしろ、有害かもしれない。引退することで、彼は精神的な重圧から解放されるのかもしれない。彼は楽になれるのかもしれない。彼にとって何が幸福で、何が不幸かはわからないのです。小室さんの心情を想像できなかった文春を責めるならば、複雑であろう彼の内面を想像すべきだし、重圧を与えるファンになることは避けるべきでしょう。

文春のやっていることは正しいのか?
 今回の件を受けて、「そもそも文春はよろしくない」「他人の不倫を暴くのはよくない」「もっと巨悪を叩くべきだ」みたいな反応も見受けられます。パパラッチの執拗なアタックがダイアナ妃の死を導いたように、週刊誌をはじめとするイエロージャーナリズム自体には、確かに咎められるべき点もありそうです。プライバシーの侵害であるというのもそのとおりですし、現に訴訟で敗訴になっている件も数多くあります。
 ただし、だからといってぼくは、文春を悪者だと断罪する気にはなれません。
 なぜ文春が芸能人の不倫を暴き立てるのか。
 簡単です。
 それが売れるからです。

 売れるからと言って他人のプライバシーを侵害してもいいのか?

 なるほど、道義的に見て、よいことであるとは言えません。
 では、文春は芸能人の不倫報道をやめるべきでしょうか。
 その場合、部数は確実に落ちるでしょう。文春編集部の予算、ひいては出版社の経営にも響くでしょう。給与が下がれば記者の士気も下がり、経費節減で十分な取材ができない場合も出てくるでしょう。
 そうなった場合、果たして「巨悪を叩く」能力が高まるでしょうか。
 政治的な問題だけを取り上げていては、ネタが連発できることもなく、部数は見込めなくなるでしょう。ただでさえ出版業界、雑誌業界は縮小傾向の市場です。その結果、週刊誌が死ねばどうなるか。政治の報道は大手メディアに独占され、記者クラブに流される官僚のリリースとリークに支配され、巨悪はますます叩けなくなるでしょう。フリーの記者が頑張ったところでたかがしれているわけで、週刊誌の死は報道の衰退をさえ呼び込むかもしれません。文春をはじめとする週刊誌がいなくなって喜ぶのはむしろ、巨悪たる政治家や大企業、官僚であり、あるいは不倫し放題の芸能人ということです。

 ここにひとつの真理が見透けてきます。
 芸能人の不倫報道があるからこそ、政治に対する報道の底力がつくのです。

 そんなのはおかしいというなら、叩くべきは週刊誌でもテレビのワイドショーでもない。
 芸能人の不倫で喜ぶ読者、視聴者こそが問題の根源です。
 読者や視聴者が、「不倫報道なんてどうでもいい、もっと政治に関するネタに触れたい!」といえば、文春だって姿勢を変えるでしょう。
 でも、そうはならない。政治に関する話題に今以上誌面を割いても、読者は喜びません。

不倫報道大好き!
 大袈裟に言えばそれがこの国の民意であり、報道にまつわる資本主義経済を支えているのです。文春はそこに順応しているにすぎないのです。現に、文春砲だといってさんざんに騒いだじゃないですか。調子がいいときはみんなで持ち上げ、いざ問題があると叩く。そんな人こそまさしく、マスコミ的思考の体現者そのものなのです。すぐに炎上や批判に動く人々こそ、まさしく文春にとっての格好のカモです。
今後も文春は不倫報道を続けるでしょう。今回の件を受けて、さらに踏み込んだ記事を書くようになるかもしれません。そして人々はその文春の記事を読み、またもあれこれと論評を続けるでしょう。
 それでいいのか? ぼくにはわからない。
 ただ少なくとも、文春を叩いて騒いでいる限り、何も変わらないだろうなとは思います。
 人は正しさよりも享楽になびく生き物なのです。
 正妻よりも、愛人になびくのがそうであるように。

 その諦念から、考え始めねばならないと思うわけであります。


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 最近、ひとりこのブログで考え続けている『ガキの使い』問題、そして前回の「道徳自警団」問題。このあたりには、深いテーマが絡んでいるなあと思い、考えを続けていこうと思います。

 笑いと差別について、というのは昔から語られるテーマであり、最近ではテレビにまつわる規制も厳しく、表現の幅は狭められている。この方向を突き詰めていくと、およそほとんどのバラエティは、規制対象になりうると思うんです。
 
 そもそも差別とは何か。手元の電子辞書から引用すれば、
① ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
② 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その違い。
 とある。
 これって、笑いの本質部分と密接に結びついていると思うんですね。

 笑いというのはまずひとつに、差異から生まれるものです。漫才やコントにおけるボケが面白いのは、予想される普通の言動から外れているためです。どのように予想を裏切り、どのように日常感覚とは別の発想を持ち出すか。このあたりに、芸人は頭をめぐらせるわけですね。
 もちろん、そうでない笑いもあります。「あるあるネタ」が筆頭ですが、日常の中のふとした出来事を指摘して、笑いを生み出す手法もある。友近や柳原可奈子など、どこかにいそうな人物になりきったコントをするのも、あるあるの一手法。日常に対する批評的な笑いといえます。

ぼくがもし、「バラエティ絶対殺すマン」になったとしたら、これらについて苦情をぶつけるのは難しくありません。
 たとえば、この社会には知的障害者や精神障害者、あるいは認知症の老人などが多く生活しています。ボケ老人などという言葉もあるように、まさしく漫才のボケのように、突飛な言動に出る人もいるわけです。漫才やコントは、そうした人々の言動を連想させうるものであり、彼らを笑うことにつながるかもしれない。奇妙に思える行動をとった人間を笑っていいのでしょうか。笑いものにしてかまわないのか。そのうえ、ツッコミの芸人はほとんど叱責するような口調でそれを咎め、場合によっては頭部への平手打ちなど、暴行罪に該当しうる暴力を働くのです。
 漫才やコントの笑いは、特定の人々に対する差別を深めるものであると言えます。
 
 どこかにいそうな人物を演じて笑いを取るのもいけません。
 それを見て、自分の言動を笑われていると感じ、傷つく人もいるかもしれないわけですから、これを公共の電波で流せば、他人を揶揄することにつながります。デブ・ブス・チビ・ハゲなどの身体的特徴をあげつらうのも、当然御法度です。

 じゃあトーク番組なら問題ないかといえば、そうではない。芸人が自分の貧乏話を語って笑いに変えることがある。でもそれは、「貧乏を笑いものにしていいんだ」というメッセージを世間に伝えることになるのではないか。「バラエティ絶対殺すマン」は、そのような理路でクレームを入れることができます。その種の声が募れば、「芸人は自分の貧乏話をしてはいけない」という規制がつくられるのも、あながちないとはいえないでしょう。
 それだけではない。
「最近見た変な人の話」も規制できます。トークで語られたのは自分のことだ、笑いものにされたようで傷ついたと訴えを重ねれば、芸人のトークの多くを禁じられるでしょう。

 多くの笑いには、どうしてもリスクがつきまとうんですね。
 古典的なたとえでいけば、「バナナの皮で滑って転ぶ」のを笑うのも駄目です。転んだ人が後頭部を強打すれば、死亡につながる可能性もある。そのような事故を笑うのは間違っていると言えるし、転んだ人は痛い思いをしたうえに、間抜けだと笑われてさらに傷つきます。
その反応を見て笑うことは、「いじり」であり、いじりといじめは紙一重であり、教育的に問題だから規制せよ。さも正当性のあるような顔で、そんな主張することもたやすいのです。

「バラエティ絶対殺すマン」の手に掛かれば、過半のテレビバラエティにクレームを入れ、規制に導くのも難しくはない。笑いというのはその多くが、政治的正しさを逸脱するものであり、倫理的正しさから外れるものでもあるからです。そしておそらく、ほぼすべての笑いは潜在的に、反道徳的とされるリスクを抱えている。笑いが差異や批評によって引き起こされるものである以上、そこには常に、差別や排斥の種が埋まっている

 ならば、ネット番組なら「殺すマン」はやってこないのか。
 いや、いずれはネットにしたってその手を伸ばします。今でこそ、ネットの視聴者はテレビよりも少ない。だから、今はまだお目こぼしされている。けれど、この先ネット視聴がさらに広まっていけば、ネット番組もテレビと同じ運命をたどるのは必定です。それは五年後かもしれないし、十年後かもしれない。いや、もっと早いかもしれない。というか、SNSやブログでは、既に「殺すマン」がうじゃうじゃしている…………。

「殺すマン」は正しいのです。彼が目指すのはおそらく笑いのない世界ですが、言っていること「だけ」は正しい。その世界はおよそ社会主義的であり、差別や格差もないかわりに自由がないのだけれど、正しさというその一点においては分があるように思える。
「バラエティ絶対殺すマン」の理想郷は、共産主義的でもある

 ではどう抗うべきなのか。
 社会主義の正しさを、自由主義はどう打破できるのか。
 
 といえば、結局は経済問題に帰着するわけです。
 西側の自由主義が勝利したのは、東側よりも経済的な発展を果たしたからです。
前回取り上げた古谷経衡氏の書籍では、「道徳自警団を食い止めるには、経済成長が必要」と述べられていましたが、その見方は正しそうです。

 とて、経済成長が必要なんてのはわかりきっている。
 でも、社会一般においてはなかなかできないのが現状。

 じゃあ、どうすればいいのか。

 社会一般に広げると難しい。けれど、テレビ局だけならば手はあるように思う。

 スポンサーに対して、「規制のない番組のほうが視聴率が取れる」と示すことです。

 殺すマンの理想とする社会主義に抗うには、自由主義の経済的優位を示すほかない。
 視聴率が高ければスポンサーは文句を言わない=経済的な後ろ盾が生まれるわけですから、テレビ局は規制を度外視した番組をあえてつくり、数字という実績を示す必要があります。テレビ局自体、たび重なる規制によってテレビがつまらないと言われ、どんどんジリ貧になっている。この負のスパイラルを抜け出すには、自由主義サイドから逆襲をしかけるのが一番でしょう。

 どこの局でもいいし、ゴールデンでも深夜でもいいけれど、「この枠だけは規制度外視」という番組をつくってみればいい。視聴者にもそのことを伝えたうえで放送し、そこでどれだけの数字が取れるのか、スポンサーに提示すればいい。
 そこで、高い視聴率が獲得できたら?
 潮目は多少なりとも変わるんじゃないかと思うんです。追い詰められゆく自由主義圏が巻き返しを図れるチャンスです。

 もし視聴率が低かったらどうするんだ、そんな博打は打てない。
 
 だとするなら、テレビ局はこのままジリ貧。殺すマンのつくりだす社会主義的流れに飲まれ、経済的にも転落を辿るでしょう。面白い番組と視聴率が取れる番組は違う、と言われるかもしれないけれど、視聴率という「収益」が出せないなら、その面白さに経済的価値はないのです。いや、場合によっては、視聴率とは別の指標である「満足度」などを重視するのも手かもしれない。スポンサーを説得するうえでは、価値のある指標です。

 バラエティを救うための、具体的提案。
「規制を一切取っ払った番組枠をつくる。そこで、高視聴率や高満足度の結果を出す」

 さて、いかがなものでしょうか?


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 古谷経衡氏の著書『「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす』を読みました。「道徳自警団」とは著者の造語で、いわば「不道徳ないし不謹慎な言動をした(と判断される)相手を、徹底的に追い込もうとする」タイプの人たちのこと。彼らはネット炎上のみならず、テレビ局や自治体の役所に対しても電話攻勢を繰り広げるなど、世間の「不道徳」や「不謹慎」に対して、苛烈とも思えるバッシングを行うといいます。

 本のタイトルの通り、著者は道徳自警団について否定的です。道徳自警団は「どうでもいい問題」にばかり拘泥し、政府や米軍などの巨悪に対しては無反応。その結果、真に論じるべき問題が隅に追いやられるうえ、自粛や規制ばかりが広がっていく現状があるとして、著者は憂いを表明します。彼らのやっていることは、まさしく中世の魔女狩りじゃないかという論旨です。

 ぼくも著者の主張にはおおむね同意です。対象者の弱みにつけ込む形で徹底的に糾弾する姿は見ていて気分のいいものではないし、自警団自身が決して、高潔な理念のもとに動いているとも思えない。まるで憂さ晴らしか嗜虐趣味の発露にしか見えない面も多々あって、彼らの振るまいが窮屈さをつくりだしている現状があるとすれば、あまり好ましいとは思えない。

 自警団の連中は巨悪を相手にしない、という著者の主張ですが、これはある意味で当然なのですね。巨悪を相手にしたところで、結局は勝てない。勝てない戦いをしてもストレスがたまるだけで気持ちよくない。それなら、勝てそうな相手を選ぶだけなんです。徹底的に叩いたら気分的にすかっとするし、正義の味方として勝利を収めるというお手軽な承認感情を得られる。何か社会に貢献したような気分にさえなれるわけです。

 ネットのみならず、テレビも道徳自警団の一部をなしている、と著者はいいます。これも道理ですね。視聴者を「いい気持ち」にさせるうえで、「自警団的コンテンツ」は有用なのです。芸能人の不倫がその筆頭です。不祥事を犯した芸能人を追い込むことで、テレビ局は正義面ができるし、視聴者もすかっとした気分を得られる。道徳自警団になると、大義名分のもとで嗜虐的快感を得ることができるのです。彼らが世間にはびこるのもむべなるかな、であります(著者は本の中で、経済的停滞が行動原理の背景にあると主張します)。

 彼ら道徳自警団がもし、違法行為を許さないというのなら、YouTubeをはじめとする動画サイトを問題視しないのはおかしい。テレビ局の番組は著作権違反のままにアップロードされ続けています。ゲーム実況もそのひとつで、あれはゲーム会社が黙認・許容しているから成立しているだけであり、法律的に捉えれば違法性はある。でも、そこについて、道徳自警団は別に動こうとしない。むしろその状況を進んで享受してさえいるかもしれません。

 以上のような振る舞いを見るに、道徳自警団は決して、高潔な動機や一貫した法的正義に基づいているとも思えない。彼らとともに武器を持ち、一団に加わりたいかといえば願い下げです。
 ただ他方、ぼくは彼らのような存在について、ある種の難しさを見出します。
 古谷氏は悪影響の部分を大きく論じている。
 けれど、彼らの存在にもまた、正当性がある
 この辺が、悩ましいところだなあと思うわけです。

 自警団である彼らは、不道徳や不謹慎を咎める。この姿勢自体は、本質的に間違ったものではないんです。違法行為を見つけたら、市民の義務として通報する。そのことが正しいならば、SNSでの違法行為に厳しい目を向けるのも間違ってはいない。テレビで差別発言があれば、それを問題視して抗議するのも、また間違ってはいない。

 彼ら道徳自警団に功績があるとすれば、「SNS上の風紀」を保っている、ないし促進したことです。一時期、「バカッター」という言葉が流行しました。バイト先やなんかで、従業員が不埒な振る舞いをしでかし、それをネットにアップする。これについて、道徳自警団が糾弾を繰り広げる。こうしたことが多く起こった結果、「ネットの危険」を社会に周知できたのではないかとも思うのです。

 バカッターを見過ごしていたら、今頃SNS上にはさらなるバカッターが出現していたかもしれない。ネットに対する向き合い方が緩み、ひどい動画や画像をあげる子供たちが増えていたかもしれない。道徳自警団の存在が、「ネットを使ううえでの緊張感」を青少年に持たせているという側面も、ぼくは否定できないと思うのです。「こんな画像をアップしたら炎上するぞ、やめておこう」という自制心を子供たちに植え付けたなら、それは意味のあることだともぼくは思います。

 ここに、社会哲学的ともいえる問題を見出します。

 不道徳なものを糾弾するのは、間違っているのか?

 昨年、松本伊予と早見優が線路に立ち入り、そのときに撮った写真をブログに掲載しました。すると、線路に立ち入るのは違法ではないかと声が上がり、書類送検にまで追い込まれました。

 いわば、道徳自警団は違法行為を摘発したのです。
 さて、その摘発は、間違っていたのかどうか?
 実際のところは、問題となった現地の踏切に一般人が多く詰めかけ、その一般人が線路に立ち入ったりもしたようで、むしろ違法行為を増やすという皮肉な結果を招きましたが、その事実は横に置きます。
 問題は、「道徳自警団の糾弾は、間違っていたのかどうか?」です。

 結論から言えば、間違ってはいません。違法行為に対する市民の通報義務を履行したまで、と言えるでしょう。
 何もそこまで目くじら立てなくたって、という気持ちはわかるし、ぼくもそう思う。でもこのケースにおいては、「道徳自警団はあくまで正しい」のですね。
 道徳的な振る舞いを、社会に広めよう。違法なものを許さない姿勢を、社会に示そう。
 その大義名分自体は、本質的に間違っていない。
 彼ら個人の嗜虐性がいくら下卑ていても、主張自体に間違いはない。

 ここが難しいなあと思うんです。そこの線引きが。
 道徳自警団の問題って、「線引き問題」に帰結すると思うんです。

「ベッキー・タイキック問題」もそうです。
「女性を暴行するのは不道徳である」というのはその通り。
だったら、「不道徳なものをテレビで流さないようにせよ」という主張として、まるまる認められるべきなのか。見ている人の一部が不快になる表現は、放送してはいけないのか。

 オーケー。
 ならばハゲ・デブ・ブス・チビをはじめとする表現もすべて狩るべきだ。ボケ・ツッコミで頭を叩くのも、厳密には暴行に当たるのでやめるべきだ。
 だって、不道徳だから。見ている人の一部を不快にするから。
道徳問題を持ち出すのならば、一律でなくてはならない。一部の人間や属性のみにその道徳を当てはめ、ほかの対象を放置するというその不公平もまた、不道徳である。
 ゆえに、真に道徳的であるためには、お笑いにおける多くの表現を一律に規制する必要がある。

 ……さて、ベッキー問題で騒ぐ人々は、そこまでの意思はあるのかどうか。ないとしたら、どこで線引きをしているのか。
 他方、ベッキーの件に一切問題がないという人は、どこまでの表現を許容するのか。線引きの基準は何なのか(ぼくの場合、彼女がタレントであるというその一点で明確な線を引きますが)。

 道徳自警団は、道徳的である。ゆえに、あくまでも正しい。
 けれど、その振る舞いは場合によってやりすぎにも見えるし、やりすぎではないと感じる人もいる。
 その線引きはどこでなされるのか。どこでなされるべきなのか。
 この問いについて、明確な答えをぼくは持ちません。
 いや、そもそも道徳それ自体、どのような線引きを持つものなのか、考え出すと答えはいっそう見えない。

 そろそろ疲れてきました。

 道徳自警団問題は、およそ社会哲学的な領域に踏み込んでいるなあという感想をもって、とりあえず今日はこの辺で。


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『ガキの使い』における「黒塗り問題」は、海外でも報道されたようです。二つ前の記事でも論じたのですが、いまだに頭から離れずにいるので、吐き出しておきたいなあと思う次第であります。

 大枠は既に書いたのですが、ぼくは「あの黒塗りの一件を、問題視すべきなのかどうか」について、明瞭な答えを持てずにいます。黒人差別に関連する表現である以上、やめるべきというのはわかる。一方で、その主張を絶対視することもまたできないのです。

 黒塗りは「黒人差別に用いられた侮辱的表現」だという。しかし、それが「侮辱的」だというのは、果たして本当に普遍的な規範なのか? ここの疑念が拭えずにいる。

 たとえば、こういうコミュニティがあったとします。そこには白人も黒人も黄色人種も暮らしている。異人種同士がお互いのつながりを持とうとして、「互いの肌に塗り合うことで交流を深める」なんてお祭りが催されるとしたら、これもまたアウトなんでしょうか。お互いの存在をリスペクトし合う意味で、白人は黒人に、黒人は黄色人種に、黄色人種は白人に似た格好となり、お祭りをする。そういう文化が世界のどこかにあったとして、それもまた「ブラックフェイスだ! 国際常識としてアウト!」と糾弾されなくてはいけないのか。

 そんな共同体があるのかどうか、ぼくは知りません。ぼくの頭の中にしかないかもしれない。ただ言いたいのは、「顔を黒く塗ることが侮辱的な意味を持たない」世界観だって十分あり得るだろうということです。そういう文化の存在、捉え方を、この世界は許容し得ないのかという疑念があります。

「黒塗りは問答無用のアウト」がグローバルスタンダードだ、それを解さない人間は人権意識が低い。そういう物言い自体が、危険を孕んでいる気がする。欧米的な文化コード以外を許さない、という風に感じられてしまうのです

 少し話はそれますが、ポリティカル・コレクトネスという点で、性的マイノリティについて思い出すことがある。
 今ではおそらくテレビの自主規制ワードである「オカマ」。90年代までは平然と語られていましたが、次第に使われなくなり、現在は「オネエ」という言葉が主流になっています。ゼロ年代にはKABAちゃんやはるな愛が人気を集め、今ではマツコ・デラックスを筆頭に、オネエタレントがテレビに映らない日がありません。
 彼ら、彼女らの振る舞いはときに突飛で滑稽であり、ときに「男性タレントに無理矢理キスをして嫌がられる」など、今見れば差別的と映る内容もあった。それによって傷ついた性的マイノリティだって、いただろうと思います。

 しかし、ぼくは思うのです。性的マイノリティが社会に受容されるうえで、彼ら、彼女らの存在は実に偉大であったろうと。
 
 しかつめらしく、「性的マイノリティを差別してはいけない!」と叫ぶのではなく、面白い存在として笑いを誘い、人々に受容されていった。その結果、人々の間の偏見や忌避感も次第に溶けていったのではないかと思うのです。仮に、KABAちゃんやはるな愛がタレントでなく、活動家として社会運動を起こしていたらどうだったか。果たして今よりも、性的マイノリティの存在が世に周知されていたか、受け入れられていたか。そうは思えない。笑いには差別的側面もあるかもしれないけれど、一方で人々を魅了し、その存在を肯定的に受け入れさせる側面だってあるわけです。なんだ、怖い人じゃないんだ、不気味な存在じゃないんだ、変に見える部分もあるけど面白いよなって、そういう形で社会に溶け込む方法をつくりだせると思うのです。

 オネエタレントの件から思うのは、「社会的な受容の仕方はひとつじゃない」ということ。別に笑いのネタにしたからといって、それがそのまま差別的であると軽々に断じるのは、世界に対するやせ細った見方じゃないかと感じてしまうんです。

 黒塗りは黒人差別の象徴だ。差別的表現として、例外なくアウトなのだ。

 一見、人権意識が高く、国際常識をわきまえ、政治的に正しい態度かもしれない。

 しかしそれは同時に、黒人に対して、差別的刻印を永久に張り付ける態度なのではないかとも思うのです。今の国際常識は永久に、黒人を被差別側に置き続ける。上に述べた架空のコミュニティのように、「互いをリスペクトする行為として、肌を塗ること」だって、未来の世界ではあり得るかもしれないのに、その可能性を潰すわけです。

 それを支える国際常識とは何か。あくまでも、欧米が規定する国際標準以外を認めないということではないのか。アジア、中東、アフリカ、オセアニア。欧米のコードとは違うそうした地域の文化さえ、欧米が決めることになるのではないか。それは果たして、豊穣な世界といえるのだろうか。

 間違えないでほしいのですが、「今回の『ガキの使い』は黒人へのリスペクトだ」などと言う気はありません。「笑い」という、「差別」につながりやすい局面であるし、テレビ局側にも配慮すべき部分はあったかもしれない。リスペクトの気持ちなんて正直、まったくなかったでしょうし、ぼくが仮定したコミュニティのような理念など、作り手にはさらさらないでしょう。

 けれど、番組独自の文脈も度外視したまま、「黒塗りはアウトだ!」と反射的に言ってしまうことによって、世界の捉え方を単純化してしまうのも違うとぼくは思うんです。

「黒人差別は許さない!」という、何の問題もないように見えるその態度が、実は差別と被差別の構造を固定化し続けることでもあるんじゃないか。その態度への柔軟さも、ときには必要となるのではないか。

 ポリティカル・コレクトネスという言葉が一般的になって久しいけれど、その末にトランプ政権は生まれてしまった。政治的正しさを徹底していこうという清く正しい社会が、反PCの権化たるトランプを大統領にした。そこにあったのは、正しさの敗北だったんじゃないか。
 正しいけれど楽しくない、正しさのあまりに窮屈な規制。
 その鬱屈が反発を生みだし、トランプ旋風につながったんじゃないのか。

 だとすれば、正しさを正しさとして真面目に訴えるだけでは駄目なんじゃないかとぼくは考えるんです。現に、正しさを正しさとして真面目に訴えるリベラル、左派は日本の政治でも負け続けているわけです。その結果、「あれも差別、これも差別ってうるせえな」みたいな、短絡的リアクションも再生産してしまう。

 教条的主張ではなく、笑いを通した受容。その可能性だって、『ガキの使い』にはあり得た。差別をなくすには、そうした柔軟さだって必要なんじゃないかと思うんです。

 もちろん、「あれは黒人差別だ!」という捉え方があってもいい。ぼくだってその捉え方は十分に理解するし、そういう声はあってしかるべきです。でも一方で、「『ガキの使い』は差別的だ! 糾弾すべきだ!」というトーンにはやはりなれない。もっと様々な視点を含みこんだ、複雑な捉え方があるべきだろうと思うのです。

 つまるところ何が言いたいのか。
 あの番組を見て無邪気に笑う人には、PCや黒人差別について考えてほしいと思う。
 あの番組は差別的でけしからんと憤る人には、国際常識を疑う視点と、正しさとは別のアプローチについて考えてみてほしいということです。

 補足的な記事のつもりが、思いのほか長くなってしまいました。
 それでも、ご意見はお気軽に。

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 前回に引き続いて、『ガキの使い』の年末スペシャルを取り上げます。ブラックフェイス問題の一方で、もうひとつの「ネタ」が議論されているようです。タレントのベッキーがドッキリを仕掛けられ、キックボクサーらしき女性からタイキックを受ける、というくだりがあり、一部で非難の声が上がっているようなのです。

 周知の通り、ベッキーは不倫騒動でバッシングを受けました。そのみそぎであるというのがタイキックの名目で、嫌がるベッキーを出演者たちが押さえつけ、お尻にヒットさせるという流れです。この件をどう捉えればよいのか、考えてみようと思います。

 まず大前提として、女性に暴力を振るうことはいけません。いや、性別や年齢の如何を問わず、他者に暴力を振るうことはいけないのです。嫌がる相手に無理矢理押しつけるなどもってのほかであり、セクハラ・パワハラ・レイプ問題などがクローズアップされる昨今にあっては特に、テレビ局は敏感であるべきです。

 だいたい、ああいうものはいじめにつながるのだから全部やめるべきなのです。子供が真似をしてタイキックなどを行い、怪我をしたらどうなるでしょうか。テレビ局はいじめを生み出しているのです。テレビ局がそれを肯定しているのです。世間には実際にレイプの被害者も数多くいて、いじめの被害者も多くいて、そんな人たちはベッキーの嫌がっているあの様子を見て、ひどく傷ついたに違いないのです。ベッキーは暴行の被害者として刑事告訴をしましょう。警察は速やかにテレビ局を取り調べ、ダウンタウンをはじめ暴行に加わった出演者全員を起訴すべきです。ついでに、プロレスラーから毎年いわれのない暴力を受けている月亭方正氏も警察に訴えるべきでしょう。その結果、ベッキーや方正がテレビ局から一切仕事の声が掛からなくなっても、テレビ局が悪いのだからそれでいいのです。正義を貫徹するのです。

…………さて、それでいいのかな、とぼくは思うんです。

まず、おそらくは昭和の頃から議論されてきた「テレビといじめ問題」。
今回のベッキーのくだりを見て、「よっしゃ、学校のあいつにタイキックをしてやろう」と思う子供は出てくるでしょう。いや、それを言い出せば、罰ゲームの概念が生まれた頃から、そのリスクはあったわけです。現にそれで、嫌な思いをした子供もいるだろうなと容易に想像できます。
ただ、それでテレビを責めるというのはあまりにも短絡的だろうと思います。包丁で殺人が起きたからと包丁の所持を禁止するのはおかしいわけです。大事なのは、その背景のほうです。問題視すべきは凶器でなく、原因。つまり、なぜいじめが起きたのかです。テレビが罰ゲームをしなくなれば、いじめはなくなるのか。あり得ない。いじめにおいて問題視すべきは児童間の人間関係だったり、学校における監視と管理体制だったりするわけで、テレビの影響があるからいじめが起きるのではない。
 むしろ、テレビに原因を求めて現場の問題を直視しないような言説こそが、いじめの解決を遠ざけるとさえぼくは思う。テレビで罰ゲームをなくせば、まるで社会が綺麗になったかのように錯覚できるのかもしれない。テレビでいじめらしきものを見なくて済むから、ほっとするのかもしれない。しかし、そうやって良識者が勝手に満足する裏で、いじめは起き続けることでしょう。BPOがあの番組を問題だと断罪すれば、いじめは減るのか? あり得ない。

 バラエティが生み出す「ノリ」や「空気」が、いじめの現場でトレースされている現状はあるかもしれない。バラエティ的な「いじり」のつもりが「いじめ」になっているケースもあるでしょう。じゃあそうしたものをなくせば、いじめは減るのか。そんなはずはない。バラエティがあろうとなかろうと、ノリも空気もいじりも存在し続ける。メディアがどうであろうと存在する現実をどうするか。それを考えることがいじめをなくすために必要な姿勢であって、テレビに責任を押しつけるのは教育的怠慢と言わざるを得ない。

 嫌がるベッキーを押さえつける様子が不快だ。女性を押さえつけて暴行し、それを笑うような内容を認めるわけにはいかない。

なるほど、そこだけを切り取ればまったくの正論です。しかし、彼女がキックを受けるに至った文脈も込みで、あのくだりは成立している。何も、道行く一般人を連れてきてキックしたわけではないのです。そこを汲まずに、行為や構図だけを切り取るというのは、あまりにも短絡的だろうと思います(それともブラックフェイスと同様に、「問答無用でアウト」という教条的態度を取るのでしょうか)。

 ではなぜベッキーがターゲットになったのかと言えば、不倫問題でバッシングされた経緯を切り離すわけにはいきません。ミュージシャンとの不倫が話題になり、クリーンなイメージで売っていた彼女がワイドショーで散々に叩かれた。好感度は下がり、全国区のテレビに出る機会も激減したわけです。不倫の是非、バッシングの是非はここでは問いません。大事なのは、彼女がそういう文脈を背負った個人であるということです。彼女を一般女性同様に捉えることはむしろ、彼女自身を軽視しているとさえぼくは思う。何も知らない人間が見れば、「女性が押さえつけられてお尻を蹴られた」構図でしょう。でも、見ている人間はベッキーの過去を知っている。ベッキーを知っている。そこを踏まえずに、ベッキーが可哀想だ、女性に暴行を働くのは問題だと訴えるのは、どうにも教条的すぎるとぼくは思うのです。

 あのくだりはもともと、ベッキーがメンバーにタイキックを仕掛ける側でした。でも、果たしてそれだけで成立していたのか。かつて猛バッシングをくらったベッキーが、単に仕掛ける側で終わっていたら、視聴者は満足したか。そうではないでしょう。「タイキックを仕掛けてるおまえが、バッシングを受けてただろうこの不倫女め!」という視聴者のもやつきが前フリとしてあって、そのうえでタイキックを受けた。その構図が、観る者に笑いを生み出すわけです。これは、「原因があるから蹴られていいんだ」「いじめられる側にも問題がある」というのとは違います。なぜなら、彼女は芸能人だからです。一般人の社会と同じ捉え方で、バラエティを捉えてはいけないのです。

 オンエア上はドッキリを受けた形ですが、ベッキーはある程度織り込み済みでしょう。自分がどういう観られ方をしているか、彼女だってわかっているはずです。自分がドッキリを受けるとわかっていたか、ぼくにはわからない。わからないけど、単にドッキリを仕掛ける側の人間でいられないことなど、十分承知のうえでオファーを受けているでしょう。

 ベッキーが可哀想だと言う人間は、いったいどうしろというのでしょう。テレビ局が表立って、ベッキーに謝罪すればいいのでしょうか。そうすれば、可哀想だと言っている人間「だけ」は満足するでしょうが、果たしてベッキー自身がそれを望んでいるのかどうかといえば、ぼくにはまったくそうは思えない。気まずさだけが残るでしょう。暴行を受けたと言ってベッキーが刑事告訴したら、正義の人々は満足でしょう。その代わり、彼女の仕事は間違いなく、絶対に減ります。正義の人々はそのあとの面倒を見る覚悟も、当然おありなのでしょうね。なにしろ高潔な正義感の持ち主ですから、仕事が無くなったベッキーを放っておくなんて、そんな無責任なことはないでしょうねえ?

 芸能人は特異な業界の人間です。一般人から見れば嫌なことでも、「おいしい」と解釈する回路を持っている。特に今のベッキーの場合、そういう回路を持たずには業界を渡っていけない事情もあるでしょう。一般人の尺度で文脈も無視で観るというのは、何度も言うように教条的すぎる。

ぼくは今のバラエティを全肯定するものではありませんが、バラエティは好きです。作り手もリスペクトしている。だからこそ、一部分を切り取って正義の拳を振り上げ、悦に入る人間が嫌いです。ドラマをろくろく見てもいないのに、ワンシーンで残虐表現があったからと怒り出す人間と同じくらい嫌いです。文脈を見なくてはいけないし、出演者の背景を捉えなくちゃいけないし、自分の抱く正義を世界の複雑さと照らさなくちゃいけない

 結論として、今回のベッキーに関する「問題視」には、まったく同意できません。不倫で叩いたこと自体が間違っている、という意見もあるかもしれませんし、ぼくも不倫騒動で盛り上がるのはくだらないと思うけれど、「クリーンなイメージで売っていた人気タレント」という看板があった分、バッシングになるのも理解できます。そういう荒波にもまれた中で、それでも逞しくバラエティに復帰し、タイキックを受けるベッキーをぼくはリスペクトする。可哀想とか言っている連中自身が、実はベッキーを貶めているんじゃないか? ベッキーには可哀想な存在でいてもらいたいのか? ファックだ。そんなことも笑いに変えるからタレントなんだよ

 今回の件は、ベッキーの圧倒的勝利だ。蹴られることであらためてバラエティの世界に受け入れてもらえたし、ベッキーを嫌っていた人間を敵に回さなくてすんだし、あまつさえ可哀想だと言ってくれる心優しい人間まで現れてくれた。ベッキーは勝ったんだ。満足だろう? 可哀想だと思っている良識的人々は。それとも何か? もっと可哀想な存在でいてほしいのか? タレントは一般人じゃない。一般人の尺度でタレントを測るな。

 
 挑発的な物言いをしたところで、とりあえずはこの辺で。ご意見は、お気軽に。

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 年末恒例の『ガキの使い』における「笑ってはいけないアメリカン・ポリス」において、浜田がエディ・マーフィーの扮装をしたことが物議を醸しているようです。顔を黒く塗るメイク、いわゆるブラックフェイスが差別的であるという指摘が起きているのです。

 日頃から差別問題については多少なりとも敏感であろうと個人的には思っているし、『ワイドナショー』界隈における松本-安倍の距離感などにも懐疑的ではあるし、松本の肝いりである『ドキュメンタル』が結局は下ネタ方向に疾走し続けていることについても、松本的=ダウンタウン的笑いへの疑問符を大きくするばかりなのですが、今回のブラックフェイス問題に関しては、ぼく自身はどうもぴんと来ていません。あれがどれくらいにまずいことなのかを、内発的に理解できていないのです。他人の指摘を見て、「ふうん」と思うくらいの感じなんです。このあたりのことを考えてみたいと思います。

 19世紀のアメリカにおいてはミンストレル・ショーなるものが催されていて、これは白人が黒人の扮装をして見世物をする内容だったそうです。そこで偏見や嘲笑が再生産された歴史があり、それは実際の黒人差別と分かちがたく結びついたものであり、黒塗りの扮装はいまやアメリカ社会ではまったく許されないというわけです。
そういう文脈を理解せずに、黒人メイクで笑いを取るなんてあり得ない! という反応が、物議の中心にあるようです。

 さて、ここで文脈ということについて考えてみたいのですが、『ガキの使い』という番組にもまた、文脈はあります。簡単に言えば、「浜田いじり」の文脈です。浜田が女装したり、普段の彼とは違う髪型をしてみたり、そうしたことで笑いが生まれるという文脈。他の出演者でやっても面白くないのに、浜田がやると面白いんだよなあという文脈。多くの視聴者にとっては、そちらについての共通了解もまた重要な笑いの文脈なのです。ここをまったく考量せずに、黒人メイク=即アウトという枠組みだけで捉えることについて、ぼくは違和感を覚えてしまうのです
 これが田中だったら笑えていたか、遠藤だったらどうか。また、今回の舞台は「アメリカンポリス」であり、あの扮装は『ビバリーヒルズ・コップ』のエディ・マーフィーという個人をモチーフにしたものであり、単純に「黒人だから面白い」「黒人を笑いの対象にしている」という捉え方は、あまりにも単純すぎるようにも思えてしまう(ところで、ふと気になったのですが、あれがエディ・マーフィーだとして、エディ・マーフィー本人はどう捉えているのでしょう? ハリウッドスターですから、なんらかの許可を取ったうえでやっているのか? もしそうなら、エディ・マーフィー自体は今回の黒塗りメイクを許容しているのか、はたまたしていないのか? その辺も無視してしまうと、さらに単純な捉え方になりそうです)。

 番組には番組固有の、芸人には芸人固有の笑いの文脈がある。という点もひとつ、頭に留め置きたい部分なのです。ところで、過去における浜田の女装は問題なかったのか。今回、番組を叩いている人は、トランスジェンダーへの配慮という点で当時、問題視していたのか。その辺りも気になります。

 ただ、そうは言いつつ、『ガキの使い』が外国人を笑いのネタにする文脈について、ぼくは全面的に肯定する気にはなれません。数年前、あるいはわりと最近だったと記憶していますが、レギュラー放送の回で、「外国人に怪談話をさせる」という企画がありました。ガキのメンバー五人を前に、外国人が拙い日本語で怪談を繰り広げ、その日本語の拙さでメンバーが笑うという構図。これなどは、日本語を学ぼうとしている外国人を笑うような構図にも見え、ぼくは不快でした。もっと物議を醸してもいいのにと思ったくらいですが、さして問題視された感じはありません。外国人と笑いについては、確かに考えるべき点はあろうと思います。

 さて、ブラックフェイス問題に戻ります。
 以上のようなことを踏まえつつですが、ぼくはそもそも、「ブラックフェイスが問答無用でアウトなのだ」というテーゼについて、やはりぴんと来ないのです。おそらく、作り手自身もそうだったろうと思います。
 このように言うと、「ぴんと来てないこと自体が問題なのだ。人種差別の意識が足りないのだ」という反応があるやもしれません。ブラックフェイスが駄目なのは国際的な常識だぞ、という風に言われてしまうかもしれません。

 そこに、ぼくの抱く疑問符の核心があるように思います。

 そもそも近代において黒人差別を生み出したのは誰かといえば、これは大航海時代のヨーロッパ、そして奴隷制度を生み出したアメリカでありましょう。かたや、日本において黒人差別の歴史がまったくなかったかといえば、そうではないとも思います。黒人だからと就職や結婚を断られたケースだってあることでしょう。馬鹿にされたりいじめを受けたりというケースもあったでしょう。
 しかし、こと日本においては少なくとも、黒人奴隷の歴史はない(もしかしたらごく一部にはあるのかもしれませんが)。仮に黒人を差別したことがあるとすれば、それ自体が欧米的価値観によってもたらされたものではないのか? と感じてしまうのです。あるいは脱亜入欧的価値観。白人列強の脅威にさらされ、外国との交流を余儀なくされるうちに、白人への畏怖の反作用として、白人以外の外国人=アジア人や黒人への差別心、恐怖心が醸成されたのではないか。そんな風にも思うのです。

 かいつまんで言えば、「黒人を差別してきたのは誰より白人社会だし、その白人社会のルールを押しつけているんじゃないか?」という疑念が、ぼくには拭いきれないのです。

「ブラックフェイスは国際的常識に照らしてアウト」という。なるほど、ではその「国際的常識」なるものは、いったい誰がつくりだしたのか? まさしく、散々に差別を繰り返してきた欧米ではないのか? 自分たちで差別の芽をぶり撒いて、自分たちで勝手にそれを乗り越えて、さも先進的な価値観を広めているかのような振る舞い。それはあくまでも傲慢な白人社会のマッチポンプではないのか? もちろん、黒人の人々の根強い運動がその常識をもたらしたのでしょう。しかしその運動自体、白人が差別を起こさなければ、する必要がなかったものじゃないのか?

 もっと平たく言いましょう。
「日本人は人種差別の感度が鈍い? 国際的常識に疎い? てめえら白人が差別しまくってきた後ろめたさを押しつけてくるんじゃねーよ。日本のラッツ&スター、シャネルズは黒人を笑いものにしたのか? むしろ黒人の格好よさ、黒人への憧れやリスペクトさえもそこにあったんじゃないのか? 差別をぶり撒いてきた白人にはわからないかもしれないが、黒い日焼け、黒々とした肌は格好いいっていう価値観に基づいて日焼けサロンに通い詰める男だって、日本にはいくらでもいるんだよ。確かに日本にも差別はあるよ。それは事実だよ。でも、人種差別の感度が鈍いとか言ってるアメリカ国内自体が差別まみれだろうが。トランプを勝たせてるんだから。いや、だからといって日本での差別が罷免されるわけじゃない。だが少なくとも今回の件において言えば、黒人を笑ってやれという意識でやったわけじゃなく、観ている側も黒人だからと文脈で笑ったわけでもない。黒塗り自体に差別が刻印されている? それが国際的常識? その国際的常識こそをなぜ疑わない? その常識は差別主義者の白人どもがようやく間違いを認めてできあがったものだ。白人が主導する社会で定められた常識、もともとは白人がつくりだした差別の刻印。白人の捉え方に従うことそれ自体が白人的価値観の押しつけなのだ! 黒塗りが黒人差別を再生産させたのは事実かもしれない。でも違う世界の捉え方をすれば、黒塗りが格好よいという文化だってあるんだ。シャネルズはブラックイズビューティフルを体現していたんじゃないのか? あれを差別的だからやめろというのは結局のところ、後ろめたくてたまらない白人的国際常識の表れじゃないのか?」

 なんだか途中から小林よしのりが乗り移ったような書き方になってしまったのですが、やはり「国際常識に反しているからやめろ」「日本の差別意識は欧米の水準に遅れていて問題」という教条的な物言いには、欧米の傲慢を感じてしまうのです。

 黒人の人が、ブラックフェイスを嫌がっている以上、やめるべきなのかもしれない。でも、白人による差別を根本に持つ世界観がすべてではないし、白人によるブラックフェイスと日本人のブラックフェイスが、同一であるとはどうにも思えない。それこそ、別々の文化圏における別々の文脈なのだから。じゃあ未来永劫、黒塗りにするのは駄目なのか。それはつまり未来永劫、白人がもたらした差別的歴史の中でしか、黒人を捉えることが許されないってことなのか? 黒人は未来永劫、差別の刻印から逃れられないのか?

「嫌がっているのだからやめろ論」というのは、言論やバラエティにおいて難しいなあとつくづく思います。ハゲ、デブ、ブス、チビ。これらの記号だってバラエティの中で劣等種の刻印を押され続けているし、それがゆえに人間関係に悩まされる人間だってたくさんいるわけで、にもかかわらず今日も今日とて「ハゲとるやないか!」というツッコミで、毛髪の薄い人間はただ毛髪が薄いというだけで頭を叩かれたりしている。
 そう考えていくと、そもそも笑いにおけるボケ-ツッコミの構図それ自体、「ボケは認知症患者、知的障害者、精神障害者の言動を連想させ、それを叩くことは許されない」という極論まで行き着くリスクを内在させている。
 こと現代において、「差別と笑い」についてどこまでがセーフでどこからアウトなのか。それはどれくらい教条的であるべきなのか、あるいは番組内固有の文脈を許容されるのか。この辺の議論は本当に難しいと思います。

「ブラックフェイスは問答無用でアウト」という意見の人は、国際常識そのものについてどういう見解をお持ちなのか。嫌がっているのだから駄目というなら、ハゲ・デブ・ブス・チビ論、あるいはボケそれ自体が持つ危うさについてどういう見解をお持ちなのか。

 聞いてみたくもあります。ご意見は、お気軽に。


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 世間にはさまざまな種類のハラスメント、あるいは差別があるわけですが、それをなくすには社会的な取り組みと同時に、青少年教育もまた重要であると思います。子供のうちにそうしたものを拒否する力を育むべきであり、その点においていじめ問題は大人社会にまで地続きなものと考えます。大人社会にも、いじめはありますし。

 また、大人であれば対処できることでも、子供には難しく、それゆえに自殺報道がいつまでも絶えることがない。これはその子供にとっても社会にとっても重大事であるし、現在進行形の問題です。どう解決すべきなのかを、折りに触れて考えさせられます。

 大人は当たり前のように、「いじめはよくない」と言います。しかし、いじめはなくならない。なぜなくならないのかと考え出すと長くなりますが、ひとつには「なくせるような環境にない」という問題が挙げられます。
 
いじめられている生徒がいる。本人からはその被害を言い出せない。周りの人間がそれを見てよくないと思っても、自分が被害者になるのが嫌で言い出せない。この状況の改善が図られない限り、まずいじめをなくすのは難しい。裏を返すと、この二つさえなんとかなればいいのです。ここを取っかかりに考えを膨らませたいと思います。

 前提として捉えておくべきなのは、子供の社会が大人の社会とは別の秩序で動いている(動いてしまっている)という事実です。相手を殴ったり蹴ったり、ものを壊したり盗ったりするのは、刑法に抵触する犯罪。にもかかわらず、それが犯罪として検挙されない世界で、子供は生きているわけです。被害者が被害者として告訴できない、目撃者が加害者を告発できない。そのような法秩序が機能していない世界では、暴力――精神的・肉体的を問わず、相手を加害する行為――を行使できる者が強者となり、いわば弱肉強食の野生となってしまうのでしょう。

いじめはよくない、というのならば、大人はこの無秩序をなくさねばどうしようもない。大人社会の秩序を適用する必要があるわけで、いじめを犯罪として摘発する姿勢が不可欠となります。そのための下地として、文部科学省をはじめ各自治体の教育委員会は、「いじめは犯罪」というキャンペーンを打つことから、始める必要があるでしょう。どういったケースがどういった刑法犯になるのか、その処遇はどうなるのかについての了解を社会のレベルで共有するようにしなければ、いじめはなくなりません。大人の世界の秩序を、子供たちに植え付ける。それでも犯罪が減らない場合は監視を強めるか、ないしは罰則規定を設ける。いじめが犯罪である以上、教育現場の工夫うんぬんで事は解決しないという了解を、社会に広めることが必要です。教師における警察権限の強化。まずは秩序の確立が必要という観点から、そのように考えます。状況によっては、学校内部における防犯カメラも議論の俎上に載せるべきでしょう。プライバシー云々の議論が起こりますが、それならば街頭の防犯カメラはどうなのか。犯罪抑止・摘発の観点から捉えれば、防犯カメラを忌避する必要はない。映像や音声の確認権限について制限を加える必要はありますが、その運用によってプライバシー問題は解決できます。

 場合によっては、学校への警察立ち入りも必要になるでしょう。
このように言うと、教育の現場に司法を持ち込むのは云々となりそうですが、いじめが犯罪である以上は当然です。というか、教育委員会がいじめの存在を認めない云々という構造がある時点で、もはや教育の現場だけでは解決し得ないと言っているようなものです。きちんと司直の手に委ねるべきなのです。

また、教員に対する圧力も必要となります。
 そもそも、教師がいてもいじめがなくならないのには単純な理由があります。「教師にとって、いじめを解決するインセンティブが働かない」のです。ただでさえ過重な労働負担を強いられている教師としてみれば、いじめを見て見ぬふりするのが一番楽なのです。年度が替わって別クラスになったり、卒業してくれるまでやりすごしてくれればそれが一番。下手に踏み入って問題がこじれるのは避けたい。そういう教師の存在は、想像するに難くありません。また、現行の権限では対処しきれない部分もあるでしょう。その範囲を拡大することで、いじめへの対処をしやすくすることも必要です。生徒からの通報に対して、積極的に対処する義務と権限を強化する。警察的役割の拡大です。

 突飛な発想かもしれませんが、警察機能を強化するために、保護者からそのための料金をもらうというのも手です。いわば「いじめ保険」のようなもの。いじめ対策費として、家庭から任意で供出してもらい、その分だけ児童への見守りを強化する。そのうちの幾ばくかを教師の給金に加えてもよい。給金が増えた以上はしっかり摘発せねばという意識になるかもしれません。ただこの場合、生徒ごとに軽重があってはいけないので見守るのは一律だし、お金を出した家庭の子供が加害者になるケースもあると、了承してもらう必要があります。保護者に対してもいじめに対する備えを意識させるのです。

司法秩序の積極的導入、教師の警察的役割の強化、保護者の意識強化。

 ただ、このように書いても結局のところ、現場の教師としては負担が増えて辛くなるでしょう。いじめ撲滅のためには教師の力が第一ですが、彼らへの重負担は避けなくてはなりません。

では、どうするか。
現状における教師の負担を減らせばよいのです。
 どうやって。
 部活動の時間を制限するのです。

 平日・休日を問わない無償労働、ないし低賃金労働が指摘され、教師の大きな負担となっていることは各種メディアで指摘されています。また、子供たちにとってみても、部活動が負担としてのし掛かっているとも言われているわけです。学校が終わると毎日部活、そのあとで塾に行かされて宿題もある。そんな状況ではストレス発散も難しい。生徒・教師双方の負担とストレスが悪循環を生み出し、いじめの誘因となるのならば、現行の部活制度を改善することが急務です。

 というか、現状の労働力配分、時間状況を続ける限り、いじめ対策に割く労力を確保できません。部活動の大幅制限によって、いじめ対策を前進させるべきでしょう。地域クラブへの移行や土日活動の制限。地域差があってよろしくないというなら、手始めに土日活動の制限から全国的にスタートさせてもよい。今は何かにつけて「ネット自警団」が活発ですから、彼らを有効活用しましょう。どこどこの学校は土日に部活をやっていた! ということでバッシングするくらいになってもよいのです。大会くらいは温存してもいいのですが、そうでない土日に部活をやらなくて、困る人間なんていないのです。やりたければクラブに入るなり(当然、それは安価なものでなくてはなりません)、自主練習を組むなり(中学生くらいになればそれぞれ工夫もできましょう)、方法は模索できるでしょう。国際競争力うんぬんの話は不要です。国際的に競争できるプロレベルの人間は、そもそもブラックな部活動の学校から生まれるものでもありません。クラブチームなり、専用コーチのいる名門校から輩出されるのです。

部活を制限することで、教師の負担は減っていじめへの対応力が上がり、子供のストレスは減っていじめに走る危険も下がる。そのうえ、お金も掛からない。ぼくには名案のように思えるのですが、はて、いかがでしょうか?


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 社員の女性が自殺して以来、世の注目を集めるようになった電通の労働時間問題。あのあと、電通は夜十時以降にビルの電気を落とすなど、長時間残業を改める努力を続けているようです。ほとぼりが冷めたらまた……といってもこのご時世、すぐに写真をネットにアップされるでしょうから、なかなか深夜のビルの電気を再開するわけにもいかないでしょう。

 そんな電通が最近、隠れ残業をさせていた! ということでネットニュースにされています。この辺のことについて、考えてみたいと思います。

まず前提として、長時間労働は改善されるべきだと思うし、マスメディアが電通のような大企業について発信するようになったのも、いいことであると感じます。セクハラ・パワハラ問題も含め、事態の改善を図る上で、大企業の一件を取り上げるのも効果的なことであると考えます。

ただ、電通ほどの大企業となると、改善は難しかろうなあと感じられてなりません。隠れ残業をしていたと咎めるのもわかるけれど、そうでもしないと電通という会社は回らないんじゃないでしょうか。

ぼくは広告業界について詳しく知りませんが、あれこれと読み聞きするに、とりわけ電通は仕事に対する熱意がすごく、クライアントに対する執着も大変なもののようです。そうであればこそ、ここまでの大企業になってきたわけで、その社風を改めるのは相当困難でありましょう。
労働時間を短くすればその分、仕事のクオリティは下がるかもしれないし、クライアントの数も、受注できる仕事の量も減るだろうし、当然会社の経営にも影響する。それを果たして会社組織が良しとするのかどうか、できるのだろうか、という問題がある。
 これが別の業態であれば、あるいはもっと小さな会社の話ならば別です。
しかし、こと大手広告代理店となると、その広告主にも影響が出てくる。広告の力が弱まることになれば、クライアントサイドの宣伝力にだって差し障りが出る。そういう企業が無数にあるはずで、電通の問題は電通の問題だけでは収まり得ないのです。自殺した女性社員は会社からの長時間労働を強いられていたわけですが、その背後には広告主の存在がある。広告の大企業であればこそ、夥しい数の利害関係者がいるわけです。世の人は電通を叩くけれど、叩いている人の会社が電通に広告を依頼しているケースもあるでしょう。電通が駄目になれば、その人の会社にも影響があるかもしれないわけです。

 だからぼくは、「隠れ残業をしていた! 改善してない!」などといって叩く気にはなれない。残業せざるを得ない状況があるのでしょう。じゃあ何か? クライアントに対してクオリティを下げていいのか? クライアントの会社に影響が出てもいいのか? あるいは受注数を下げていいのか? それで会社は回っていくのか? 

そう考えていくとき、この一件はとりわけ、日本社会そのものへの問いであるなあと思い至るわけです。成長を果たさないことには国家の経済は立ちゆかない。一方で、その成長のためには労働生産性を上げねばならず、長時間労働もそのひとつとして許容しなくてはいけない。もしもそれにノーというなら、経済は鈍化してしまう。さて、それでいいと言えるのか?

 儲けは出さなくてはいけない。一方で、労働時間の改善もしなくてはならない。
 この背反的な事態に対するひとつの解は、たとえば人員の増加ということになる。
 年収一千万円の人間が一人で十六時間働く。その状況を改善するには、人間を二人に増やして八時間ずつの労働とし、それぞれを五百万円にする。
これは最も単純なモデルですし、ここまで綺麗な二等分はないでしょうけれど、会社の収支に影響を出さないように改善を図るには、労働力の分配を果たしていく必要がありそうです。ただこの場合は当然、今まで働いていた人間が収入的に割を食います。
そうならないようにするには、年収一千万円の人は据え置きで、年収がもっと低い人に労働を分配する。雇用を増やす。しかしこれは言うのは簡単、行うは困難。会社の人件費が増加してしまうし、現場でもスムーズに分配できるとは限らない。
 人員増をしないのなら、労働時間数を減らして年収も下げる。この場合、会社自体が縮小の方向に向かうことになりますが、さあ果たしてそれを許容できるのかどうか。
 
 長時間労働についての制度改善は必要、ととりあえずは言える。
 けれど、肝心なこととして見逃せない事実があります。
「我々の社会の発展は、その長時間労働によって支えられてきた」という事実です。
 とりわけ、電通の社員の方々はそれを誇りにしているのではないでしょうか。自分たちは広告で世の中を動かし、資本主義社会をリードする立場にいるのだ。自分たちがこの資本主義社会を支えてきたのだ。そういう矜恃もあるのではないかと勝手に感じています。その矜恃があるからこそ長時間労働に耐え、高収入を得てきたわけで、それもまた大きな誇り。そこに勤めることが社会的ステータス。なればこそ、その状況を変えるのはまた難しい。

 長時間労働が多くのサービス産業を支え、その産業によって我々の利便性は確保されている。長時間労働をやめろ、というとき、自分たちが享受するサービスの低下もまた覚悟しなくてはならないし、ことによっては収入の低下も受け入れねばならない。あなたの着ているその服は外国人が長時間働いたおかげで安く手に入るのかもしれない。あなたの好きなあのアニメはアニメーターが長時間働いてつくったのかもしれない。
 嫌なたとえではあるけれど、この社会はいわば長時間労働という奴隷制度によって支えられている。奴隷を解放するなら、それによって我々の便益が落ち込むことにも耐えなくてはならないわけです。

長時間労働は問題だ、さあ叩こう。長時間労働は問題だ、さあやめよう。
 そう容易く断じられるものではない。それが労働問題であるがゆえに、解決への取り組みは経済そのものに作用する。仮に解決したとして、この社会はきちんと回っていくのだろうか?
 ここについてはまだ、いろいろと考えなくてはならないなあと個人的に思います。

 ただし。
 電通において問題視されたのは労働時間だけでなく、パワハラ・セクハラもしかり。
 こちらは経済とまったく無関係な、やめることへのリスクもまったくない問題です。
こちらが改善されていないとなれば、思うさまぶっ叩いてよいでしょう。
 ですが、こちらはこちらでまたひとつの難しさがあって……という話はまた、別の記事で考えることにします。
 


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 どうも近頃、思考が鈍りまくっているため、自分の脳内をかき回すために文章を書いてみたいと思います。映画について更新しないのかというと、それはかなり先になるだろうし、自分の思考を開陳する場として、ここを使っていこうかなと思います。
さて、北朝鮮情勢もきな臭い昨今でありますが、来年は憲法改正の審議が本格化するのだろうと思います。その辺りについての所感を述べる次第であります。

与党で衆参三分の二以上を押さえ、改憲に前向きな野党がそれに加わる状況下、果たしてどのように改憲論議が進むのか。今のところ、自民党が提示している論点は以下の四案ですね。

① 九条に自衛隊の存在を明記(二項を削除するか否かは留保)
② 緊急事態に対応する項目
③ 国政選挙における合区解消項目
④ 教育の充実を掲げる項目

 まずもって確認したいことですが、上の②~④はわりと最近になってから浮上してきた案です。改憲は結党以来の党是と自民党は言いますが、①以外は別に、結党以来ずっと訴えてきたというわけでもなく、「改憲の合意が取れそうな項目」の色彩が強いと言わざるを得ません。②~④は法律改正で十分に改善可能だという声も、そこかしこに聞かれます。
また、九条についても、合意形成のためにひねり出した部分が拭えません。「陸海空その他の戦力はこれを保持しない」とあるのに、自衛隊が存在する。この奇妙な状態を改めようというのなら、二項に手を突っ込むのが正道。にもかかわらず、三項に自衛隊を明記してしまえば、奇妙な日本国憲法がますます変なものになってしまうでしょう。「九条二項に触れると合意が取りにくいから」という考えが透けて見える、どころか、ありありと窺える状況です。

以上のことから言えることとして、自民党はおそらく、憲法について興味がない。興味があるとすれば、「憲法を変える」ことだけです。「お試し改憲」などという言葉で象徴されるように、とりあえず変えることだけが目標と見えてくるわけです。これはたとえるに、「ヤりたいだけ」なんです。相手は誰でもいいのです。とりあえず一発ヤらしてくれ! というおっさんの願望、ないし欲求不満のばばあの願望が現れている状態。ヤらしてくれればすっきりするし、それが偉業となって歴史にも残れる。そのための改憲として見えてしまうのです。

 意地悪な見方が過ぎるでしょうか。ならばなぜ、結党以来の党是と掲げてきたくせに、最近になってやっとこさ、ぽこぽこ条文案を出しているのか。そこに思考の蓄積が見られないのはなぜか。信念が見えないのはなぜか。

 自衛隊の存在を明記することについて、ぼくは賛成です。そしてそれは九条二項の削除、ないし変更という形でなくてはなりません。そうでなければ結局のところ、「陸海空その他の戦力はこれを保持しない」「けれど、自衛隊は別もの」みたいな、奇妙な状態は解消しないからです。沖縄を筆頭とする米軍基地問題、あるいは日米地位協定についても議論が進まないでしょう。
 どうせやるなら、自民党は九条二項を変える正面突破策を図ってもらいたい。そのうえで、日米地位協定の問題に早く進んでもらいたい。その信念もないのならば改憲の議論など捨ててしまえ、どうせヤりたいだけなんだから。
 というのが、ぼくの意見です。

 さて、そうは言いつつも一方で、どんな項目でもいいからさっさと変えてしまえ、という気持ちもないではありません。現在の日本が様々な問題を抱えているのは言わずもがなでありまして、いつまでも改憲論議がだらだらと延びるのはリソースの無駄に思えるわけです。さっさと改憲の話を終わらせて、財政再建なり社会福祉の問題なり、実際的な政策について論じてほしいとも思うわけです。平たく言えば、「ヤりたいヤりたいってうるせえし、他のことが蔑ろになっても困るから、とりあえず一発ヤらせて落ち着かせるべき」なのです。
そこでぼくには名案があります。改憲派、護憲派の双方が絶対に納得できるアイディアであります。なぜこれを誰も言わないのだという妙案です。
それは、104条の創設です。日本国憲法は103条までありますが、そこにひとつ付け加えるのです。ではどう書き加えるのかというと…………「何も書かない」のです。「104条」とだけ書いて、本文がない条項です。これによって改憲派はとりあえず射精できるし、護憲派は操を奪われずに済むし、いいことずくめであります。憲法を変えた! と威張るのが目的なのだから、それでいいじゃないですか。逆に護憲派が、憲法を変えたくないというなら、何も変わらないからいいじゃないですか。
 ああ、なんと完璧なアイディアでしょう!

 ……冗談はさておき。
 改憲論議が進むと思われる来年でありますが、ここにはもうひとつの駆け引きが隠れています。世間ではまだ表立って語られることの少ない、しかし重要な論点です。
 それは、「改憲論議は政局である」ということです。

 改憲というのはとかく中身についての論議が重要とされますし、事実その通りでありますが、実際の政治を考えたとき、それだけでは済みません。改憲には必ず政局がつきまといます。

 戦後70年以上変わらなかった憲法。その条項を変えることは、大きな政治的エネルギーを生みます。それを実現した政治家は歴史に名を残すでしょうし、だからこそ安倍総理をはじめ、与党の方々は目標として掲げているといえます。要するに、改憲を果たした政治家は、「ものすごく立派」な存在として注目を浴びるわけです。
 そうなると。
 野党としては許せないはずです。仮に今の自公政権が「ものすごく立派」を果たしてしまうと、野党が政権を担える可能性が先々、さらに低くなってしまうのです。いろいろな統計や予測を見ても、未来の日本は縮小傾向をたどるとされている。そうしたとき、この「ものすごく立派」な偉業を果たした政党以外に、日本を任せようという国民が増えるでしょうか。ぼくにはそうは思えない。
 簡単に言えば、改憲によって自民党の株はさらに上がるのです。内容がどうあれ、政局を考えたとき、野党はそれを許さないでしょう。仮に許す政党があったら、その政党は「ものすごく立派」のおこぼれに預かりたい連中であり、自民党に代わって政権を担う気はないのだろうなと思われます。

 では、自民党内部ではどうか。ここにも政局が生まれます。
 大きな政党ですから、当然内部には派閥がある。安倍総理の派閥の人間はもちろん、安倍総理の任期中に改憲を果たしたいでしょう。どんなクソ改憲案でも、イエスというでしょう。しかし、それ以外の派閥としてみればどうか。安倍総理のもとで改憲が行われれば野党同様、自分たちに政権が回る目が小さくなってしまう。ならば、改憲をさせないようにしよう。そういう計算が働いても、まったく不思議ではないのです。
 
 衆参三分の二以上を占めながら、なかなか踏み切れずに来たのは、ひとつに政局的理由があると思われます。大きな政治的エネルギーを生み出す以上、そこで失敗すれば安倍総理の権威は失墜する。ピンチはチャンスであり、チャンスはピンチ。安倍総理がいざ発議に踏み切る段になって、野党ならびに自民党の他派閥が造反に回れば、その時点で一発逆転、総辞職へと突き進む可能性もあるわけです。むろん、公明党がどう動くかも鍵となります。

 改憲論議は進んでいくでしょうけれど、その内容だけが進んでも意味がない。そもそも論議がどれくらい煮詰まるかも不明だし、政局の絡みがそこに生まれます。そうなったとき、安倍自民党(他派閥を除く)が取るであろう方針は、「情緒」に訴える戦略でしょう。

 北朝鮮情勢が危うい、改元が行われる、そして東京オリンピック。新時代を迎えるにあたり、憲法を変えるには今しかない! とぶち上げて、国民を煽動していくのが一番。消費増税のタイミングに当て込めば、増税への反発もごまかせる。細かい論議がそこそこ煮詰まったら、時代状況を理由にして発議に踏み切る。この手しかない。この手を最大限に使う。そういう風に動くだろうなあと、ぼくは見立てています。内容は二の次です。

 ぼくは安倍総理の支持者ではありませんが、九条二項を改める覚悟で改憲を発議するなら、ぼくは賛成します。それ以外の項目では今のところ、「ヤりたい臭」しかしないので反対です。

 さあ、2018年はどうなっていくのでありましょう。と、月並みな一文を添えたところで、ひとまずは終わりです。


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深いテーマが配合されている。描ききれてはいないけれど。
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 ずいぶん前に一作目を観たと思っていたのですが、もしかしたら観たつもりでいただけで初見だったかもしれません。二作目、三作目は観ていないし、そんなに惹かれずにいました。監督の二人は現在、性転換手術をしているので「姉妹」と書くべきかもしれませんが、公開当時はまだ男性名で活動していたので、「兄弟」と書いておきます。

 さて、昨今いよいよ市場に花開くVR=仮想現実ですが、その種のテーマの代表作といえる作品ですね。この現実は本当に現実だろうか、というのはそれこそ古代中国の胡蝶の夢、邯鄲の夢などで言及されてきた哲学的な主題。現実を疑う作品として思い出したのはフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』、それを原作とする『トータルリコール』。このテーマって、言ってみればあらゆる題材の中で、いちばん大きな枠組みの問いですよね。歴史を改変する大事件とか、宇宙を巻き込む大戦争とかよりもはるかに大きい。「ここに存在する自分自身」というものを突き崩す話ですから。

 この手の話には答えがないのですが、自分の実存がふと遊離するような感覚というのは、稀に訪れるものです。あれ? 自分はなぜこの自分なのだろう? 自分の名前で自分は呼ばれるけれども、なんで自分はその名前で呼ばれるのだろう? 自分は今ここにこうしているけれども、ここにいない選択肢もあったんじゃないか? 
 小沢健二が『流動体について』で歌っていたように、「並行する世界の僕は、どこら辺で暮らしてるのかな?」と思う瞬間があったりわけです。あり得ないと知りつつも、街のどこかで別の生き方を選んだ自分に会うこともあるんじゃないか? なんて空想してみたり。

 もっとも、劇中ではそこら辺をそんなに深くは踏み込まず、あくまでアクション映画のストーリーテリング。その点に物足りなさを感じた部分もありますが、この作品はもうひとつ、ふたつのテーマも含みこんでいるので、重層的なつくりと言えるかもしれません。

主人公のキアヌ・リーブスは「現実とされる世界」において、トーマス・アンダーソンとして暮らしています。「本当の現実」ではネオと呼ばれます。「現実とされる世界」は普通の世界なのですが、「本当の現実」ははるか未来、荒廃しきって機械が支配する世界。今までは機械のつくった現実の中を生きていたというわけで、そこから「目覚めた」ことで大冒険に出るはめになるのです。

 観ながらわかったもうひとつのテーマは、『失楽園』です。イギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『失楽園』は近年ならあの『ダークナイト』に通底するモチーフで、日本のアニメ映画ではそのまま『楽園追放』なんてのもありました。
 要するに、「天国で奴隷でいることを選ぶか? たとえ地獄行きでも自由を得るか?」という問題です。「自由」というのを「尊厳」に置き換えると、また別のテーマになります。「組織に従っていれば生活は保障されるけれど、組織の不正を知った以上は戦わなくちゃならない」なんてテーマなら、『セルピコ』とか『フィクサー』あたりが思い出深い。「たとえ賢明でなくても、自分はこの瞬間を戦わねばならない」という話なら、何よりも『ロンゲスト・ヤード』が思い出される。

 本作で言うと、機械の作り出す世界にいたほうが、幸せっちゃ幸せなんです。現実は悲惨きわまるものだし、だからこそ一人の登場人物は中盤、主人公たちを裏切って、仮想世界でいい思いをしようとする。劇中では悪役的に描かれているけれど、あれはあれで十分に取り得る選択ですよね。過酷な現実を生きるなら、支配されても幸せを選ぶというのは、この社会でぼくたち自身が選んでいる生き方でもあるでしょう。本作はハリウッドのアクション映画ですから、そこを掘り下げられなかったんでしょうけれど、あの裏切り者も描き方次第では別に、悪人ではないんです。

 映画の性質上はしょうがないのですが、そこに食い足りなさを感じたのはあります。キアヌ・リーブスは独り身で、ぜんぜん冴えない生活を送っている設定ですが、もしもあれが幸せな家庭を築いているマイホームパパだったらどうか? その幸せな家庭を捨ててまで、あの過酷な現実を生きる価値はあるのか? そういう問いに直結しますよね。まあそれをやっちゃうと観客の共感を得がたくなるので、できなかったのでしょう。でもぼくが観たいのはそっちの葛藤でした、本当を言うとね。

だから見方を変えると、本作の主人公たちって危ない人たちなんです。いわゆる「目覚めちゃった人たち」なので、新興宗教、新左翼的なにおいがしてくる部分もある。「この世界は間違っているのだ! 自分たちが世界を導くのだ!」的な人たちとも言えます。そうならないように、エージェント・スミス側の悪意を設定してはいるのですが、考えてみるとけっこうぎりぎりですね。

 映画の主人公は一応、観客の共感を得るように設定されるのが常道だし、ハリウッドのアクションものなら余計にそうだと思うんですが、この映画はいろんなものをどうにかこうにか固めたうえで、ようやっと共感に足る主人公にしている。キアヌ・リーブスに対して、無邪気に頑張れと言える人は、実はこの映画をちゃんとわかってはいないでしょう。だって、もしかしたらあの船に乗っている人たちのほうが、仮想現実側なのかもしれません。現実を疑う構造であれば、彼らこそが世界を崩壊させようとしている悪魔団の可能性も、完全には排除できない。うん、この手の映画では原理的に、キアヌ・リーブスを絶対善にはできないわけです。そう考えると深みが出てきますね。

 あと、描かれた大きな問題として、『ゼイリブ』問題があります。ジョン・カーペンター監督の映画で、本作にも影響を与えたそうです。あの映画では、異星人が普通の人間として入り込み、人間になりすまして世界を営んでいるんです。悪の陰謀が隠されてはいるんですけど、一応それで表向き、世界は成立している。あの映画のラスト、主人公の活躍で宇宙人の正体が暴かれ、なりすました姿からもとの醜悪な宇宙人に戻るシーンがあるんですけど、それを観てぼくははっとしたんです。悪の陰謀を暴いたとして、責任取れるのか? というね。

 この世界には確かにいろんな悪がある。不正義や不公正さがある。もしもなくせるならそれに越したことはない。けれども、その悪や不正義や不公正さのうえに今の社会はあるわけで、もしもそれらを取り除いたら、社会は混沌としてしまうのではないか? その場合の責任を取れるのか? なんてことも、ちょっと考えるんです。保守と革新の政治的テーマにも通じます。本作でも、一応はあの機械の世界で幸せに暮らしている人もいるはずで、主人公たちがその秩序を乱す側という見方も、成立しはするんです。永久に騙してくれるならそのほうがいいってこともありますからね。真実を暴かないほうが幸せってこともある。この辺の問いはロバート・レッドフォードの『クイズショウ』でも考えたことです。

 映画の中身から離れすぎている感もありますが、作品それ自体の面白みは、特段痺れるものでもなかったです。本作が後世に与えた影響もあるでしょうけれど、今観ればちょっとアレだな、という部分もなきにしもあらず。いちばん引っかかったのは、ネオが銃弾で撃たれまくって一度は死んだのに、「救世主である」というその一点をもって復活してしまうところです。なんじゃそら。現実現実言っておいて、その肝心な部分はぜんぜん現実的じゃないんかい、とつっこみたくなる。ヒロインの「あなたは救世主よ」的な囁きで復活するなら、今まで何を見せられていたのか。そうなるとこの映画で言う現実なるものが疑わしくなるし、あれはアリなのか。チートキャラがちと過ぎやしないか。続編で明かされるのでしょうけれど、この作品を観る限りはそうとしか言えない。ところで、「目覚めちゃった人」たるネオによって、ビルの警備員さんはかなり殺されているのだけれど、彼らに何の罪があったというのか。

 そう観ていくと、主人公=新左翼・新宗教系テロリストのにおいはどうしても残る。預言者に出会うくだりもただ「預言者に会う」というだけのために行動しているので、映画の流れがくたっとして感じられました。

と、文句を言いたい部分もあるのですが、深いテーマをあれこれと含みこんでいる映画であるのは間違いないわけで、映画そのものよりもむしろ、映画を観ながら感じたこと、ふと考えたことを楽しむほうが、多少はオトナな見方と言えるかもしれません。まあ、そんなところで。


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 ふと思いついた疑問の答えが、なかなか出なくて困っています。
 
 最近はAV問題について頭巡らすことが多くなっているのですが、そこに児童ポルノの問題も絡んできたりして、少しややこしさを感じたりもしています。

 ぼくは「表現の自由」を重んずる立場です。
 他者の人権を害しない範囲で、表現は許されるべきと思う。それゆえ児童ポルノについても、たとえば18歳以上の女優が演ずる小中学生のAVがあってもいいと思うし、「非実在青少年」をレイプする漫画があっても、その存在は許容されるべきだと思う(褒められたものかどうかは別として)。後の話を円滑に進めるため、それらをひとまず、「虚構的児童ポルノ」と呼ぶことにします。一方、マイノリティに対するヘイトスピーチ(ヘイトクライム)については、その属性を持つ人々の生活を脅かすものとして、反対の立場です。朝鮮人死ねとか、中国人帰れとか、そういう表現はなくすべきであるとぼくは思うのです。

さしあたり、4つの立場に分類すると、
①虚構的児童ポルノも、マイノリティへのヘイトスピーチもOK
②虚構的児童ポルノはOK。マイノリティへのヘイトスピーチはNG
③虚構的児童ポルノはNG。マイノリティへのヘイトスピーチはOK
④虚構的児童ポルノもマイノリティへのヘイトスピーチもNG

Q1.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?


 ①は表現の自由の原理的肯定派。④は積極的表現規制派。
ぼくは②の立場です。③という人がどういう人かはある意味で興味があります。
②の立場の人というのはそれなりに多いのではないかと、勝手な印象を抱いています。
そしてこの文章は、①と②の人に向けて書いています。

 はて、とここで立ち止まる。 

では、次のようなAVや漫画があったらどう反応するか。

A.「在日朝鮮女を集団レイプ!」   B.「身体障害者を拷問陵辱!」

 正直に言えば、そんなタイトルの作品を目にしたら、ぼくは大いに顔をしかめ、眉をひそめ、唾を吐きたくなるし、あってほしくないと思う。さて、上で①や②を選んだ人は、ここでどう反応するのでしょうか? もちろんそれは、あくまで「虚構的」なもの。本当にそういう人々ではないと仮定します。

 ここで、立場を整理します。虚構的児童ポルノをOKとした人に尋ねます。

①AもBもOK
②AはOK。BはNG
③AはNG。BはOK
④AもBもNG

Q2.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?

 ①を選んだ人に訊くことはありません。徹底した表現の自由肯定論者でしょう。②や③の人はなぜそこに線を引くのか、興味があります。ぼくは④です。

 さて、ぼくはここで困ってしまう。
「レイプ表現や虚構的児童ポルノを許容しつつ、民族的マイノリティや障害者を対象とするポルノを許容しない」という立場は、何か正当な理屈を持ちうるのだろうか?

 当然、そこに絡んでくるのは差別という問題。マイノリティや障害者は、社会的に差別されやすい人々です。彼らを対象とするのはよくない、という意見がまずはある。

 でも、ぼくが例としてあげた架空の作品は、差別を煽動する内容ではない。あくまでもポルノです。「日本人の成人女性をレイプする作品」はよくて、「在日朝鮮女をレイプする作品」は駄目なのか。なぜそう言えるのか(「朝鮮女」の表現が気に入らないなら、「韓国人女性」でも結構です)。「実際のレイプを誘発しかねない!」という意見であれば、レイプAVや虚構的児童ポルノにだって当てはまってしまい、表現規制派と同じ。

 幼女のレイプはよくてAやBは駄目だというのは、どうしても弁護が難しいような気がしてしまうのです。幼女も民族的マイノリティも社会的、生得的少数派だし、幼女も障害者も庇護を必要とする人々です。虚構的児童ポルノをよしとしたうえで、ぼくたちはQ2の④という立場を果たして取りうるだろうか? ①の立場以外で、表現の自由を語りうるのか?

 もう少し掘り下げます。
 レイプではなく、そのものずばり殺人だったらどうなのか? 
 現実の世の中でも、小学校や施設に押し入り、虐殺する事件が過去に起きている。
 
 思考実験として考えてみてください。

A.「女子小学生をレイプ!」 B.「女子小学生を殺害!」
C.「在日韓国人を殺害!」  D.「障害者を殺害!」

 もちろん、すべて架空の設定の作品です。
 さて、Aだけを許すという理屈は成り立つか?
レイプと殺人に、軽重をつけて語っていいのか? BとCとDに差異はあるか?

 さまざまな問いを投げてきたのですが、ぼくには明確な答えが出せずにいます。
 あるいはぼくがここで述べたことは、既に表現の自由/規制論議で語られ尽くしているのかもしれませんが、AV問題を契機にあらためて考えてしまったのです。

 HRN的な、「エロいものは全部駄目だ!」な人たちには必要のない問いでしょう(個人的には、反応頂かなくて結構です)。かたや、ヘイトも含めたあらゆる表現を許容する人たちにも必要ないでしょう(この問いについて悩むまでもないでしょうから)。

 ぼくがお相手したいのは、そのどちらでもない人たち。
 表現の自由を重んじるからこそ、その内省を求められる人たち。

 さて皆さんは、表現の自由というものにどう向き合うのでしょう?
 とりわけ訊きたいのは、Q1で②を選び、Q2で④を選ぶ立場について。果たしてそんな立場は成立するかということ。

この仮定はまったくあり得ないものだとぼくには思えない。もしも虚構的児童ポルノを許容するなら、それ以外の作品群も出てきかねない(もしかしたら既に流通しているかもしれない)。その状況がもしやってきたら、どういう構えをとる? 一時期流行ったサンデル教授じゃないですが、この問いは多分に社会哲学的なもののように、ぼくは勝手に思うわけであります。

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 伊藤和子弁護士率いるHRNがこの半年ほど、AV規制にまつわる活動を活発化させています。その報告書にはDMMの名前も挙げられ、我が愛する恵比寿★マスカッツとも決して無縁ではありません。既に多くの方々がHRNの問題点を指摘していますが、あらためて今回、「HRNには人権を守る気などさらさらない」ことがはっきりしたように思います。一般に示された報告書には数多くの問題があるのですが、すべてに触れるのはどうにも難儀であります。端的な事例をもとに、「HRNには人権を守る気がない」ことを指摘したいと思います。

 前提として申し上げますが、かねてより彼らが問題視するAV強要、そして児童ポルノというものは、それ自体許されるべきものではありません。ゆえに、彼らが本当にAV強要被害をなくしたいと考え、真摯に児童ポルノ問題に取り組む団体であるのならば、僕はその活動を応援したいと思います。被害者の人権は守られるべきものに相違ありません。ところが実際、彼らのなしていることはまるで真実性を帯びず、真摯に人権問題に取り組むものとは到底言えない。そのことを述べていこうと思います。ありていに言えば、HRNは人権の敵と言わざるを得ない状況です

 9月5日付で発表された報告書では、「児童ポルノ」についての問題を取り上げています。児童ポルノとは簡単にいって「18歳未満の少年少女を被写体とする、性的要素を含んだ事物」のことを差します。ところで、それが18歳未満を連想させつつ、実際は18歳以上の出演者である場合はどうなのでしょう。あるいはそれが漫画の場合はどうなのでしょう。この点においては議論の余地を残すところかもしれませんが、HRNはそうしたものも広義の児童ポルノに含めようとしているようです。オーケー。わかった。だったら、その目線でとりあえずは考えてみましょう。HRNの目線に立ったうえで、HRNの問題点を指摘しましょう。

 さて、9月5日付で発表された報告書においては、HRNは複数のAV作品を取り上げ、「児童ポルノの疑いがある」ものとして示しています。その作品はタイトルに「小学生」などと銘打ったものであり、なるほど字義通りに受け取れば、悪辣な児童ポルノということになります。実際は成年の出演者であっても、「小学生」であることを強調するのは、もしかしたら問題のあることかもしれません。オーケー。HRNの言うとおり。仮にそうだとしましょう。

 その点を加味しても、この報告書には、非常に大きな問題があります
 一般向けの報告書は伏せ字になっているものもありますが、十分に作品名を特定できるものも複数掲載されています。ちょっと検索すれば、数秒のうちにどの作品を差しているのかわかってしまいます。
 そういえばHRNは今年に入ってから、AV強要について盛んに主張していました。強要被害を受けた女性に寄り添い、その個人名も作品名も公表しない方針を貫いていたはずです。それがなぜここにきて、すぐに作品名がわかるような報告書を出したのか。
 
 その作品に出演した女優が、強要被害を受けた可能性はないのでしょうか。HRNが本当に強要問題に真摯に取り組んでいるのなら、真っ先にそのことに配慮を向けるはずです。そして強要被害を受けていたと判明したら、作品の名前は出すべきではない。少なくともHRNは、そのような方針でいたはずです。

この一点を取ってみても、彼らは強要被害について真剣に考えてなどいないのが、はっきりしています。また、もしも本当に児童ポルノであるならば余計に問題であり、彼らは18歳未満の出演者を特定できるような報告書を仕上げたことになります。
 
 いや、待てよ。そうか。なるほど。

 HRNはきっと、当該作品の出演者に関して年齢などの調査を細かく行い、強要被害もないと断定したうえで、報告書に作品名を挙げたのでしょう。そうでないと、ことの筋目が通りません。あの大変高名で聡明なHRNが、いい加減な団体だということになります。まさかそんなはずはない。

 ところが。

 実際はその形跡がまるで見られないどころか、むしろ報告書において、出演者への聞き取りなどなんらしていないことが明らかになっています。ある作品については成年の女優であることが判明していますが(ド素人が一分もかからずに確かめられます)、HRNは実在も不確かな小児科医の診断として、「小学校高学年の可能性もある」などと表記しています。

 と、いうことは。

 HRNは作品名を特定可能な形で表記しつつ、出演者の情報も特定できていない

 と、いうことは。

 その女優が「強要被害者であった場合の二次被害」の可能性も考慮せず、「仮に18歳未満であった場合の二次被害」も考慮せず、そのうえで出演者を特定できる形で、報告書を出したことになります。人権被害に加担する可能性があるわけです。

 だとすると、きわめて残念な結論が導かれる。
 HRNはAV強要問題にも児童ポルノ問題にも、真剣に取り組む気がないということです。人権を守る気がないのです。そのくせいっちょまえに、「児童の権利を考えて」などと言い、「出演者の二次被害、法令違反を防止するため」、出演者の情報を非開示にする、などと言っている。というかそもそも、本当にその気があるならば作品名を出すべきではない。AV強要についても、彼らには被害者を救う気がないというのは、以前の記事で述べたとおりです。

 こういういい加減な団体があると、本当に真面目に活動している人権団体にとっても有害でありましょう。だからこそ、HRNは人権の敵なのです。まるで、差別が目的のくせに愛国を標榜するどこかの保守団体のように。

この手の連中がいちばんたちが悪いと、個人的には思います。本音は別のところにあるくせに、さも立派な大義名分を掲げて活動し、いかにもそれらしく振る舞う。しかし根底のところで真摯ではないから、いたずらにそうした主張自体のイメージを毀損し、本気でその問題を考えている人々の邪魔になる

 なぜ堂々と言わないのか。
 ポルノが嫌いだ、ポルノを規制しろと堂々と言えばいい。ハードなポルノは嫌いだから規制しろと言えばいい。成年であっても漫画であっても、児童を連想させる表現は全部駄目だと言いたいなら言えばいい。表現の自由を縮めたいと、堂々と言えばいい。

 ついでにレイシストもそうだ。愛国とか保守とかそんな笠を着なくても、差別が目的なら堂々とそう言えばいい。自分が本当に真剣に心から差別をしたいなら、その態度を表明すればいい。それでどんなに批判されても、自分が正しいと信じるならその道を行けばいい。

 おわかりか。

 彼らは自分自身の主張に対してさえ、真摯ではない。
 彼らは自分自身の欲望に対してさえ、真摯ではない。

 HRNは、一刻も早くあのいい加減な報告書を取り下げるべきです。人権問題にとって邪魔です。HRNは「いいかげんな団体が人権問題の邪魔をしている」ことについて、真剣に取り組むべきです。

 DMMもDMMだし、IPPAもIPPAです。ひとまず引くのはいいとしても、相手はいいかげんな主張で突っかかってきただけなのだから、ちゃんと毅然と対応してほしいものです。

 まだまだ問題点は多いのですが、全部書くのはあまりにも難儀なので、この辺で。

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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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公党は公党たるに足る、明確なメッセージを出してください。
 相模原の障害者施設における殺傷事件。この件については個人的な事情もあって、強い憤りと悲しみを感じています(ぼく個人は、被害に遭われた方々の関係者というわけではありません)。

 謹んで、ご冥福をお祈りします。

今回の事件は、明らかに障害者だけを狙った犯行です。犯人の精神状態がどのようなものであるかはわかりませんが、彼らが標的となったことは明白です(ところで、「障害」を「障がい」と記すべきという主張もありましょうが、ここでは漢字表記とします)。

 その意味において、本件は明確なヘイトクライムです。無差別なものではなく、特定の性質を持った人々を狙っている事件としては、戦後最悪のものであろうと思われます。

 にもかかわらず、とぼくは思ってしまうのです。

にもかかわらず、政府ならびに公党各位の反応が鈍い。そのように感じてしまうのは、ぼくだけでしょうか。この事件は無差別なものではない。特定の人々に対する犯罪です。それは個人的な人間関係や利害に基づく殺人とは別種のものです。近代社会が築いてきた「障害者福祉」という理念をも傷つけるものであり、政治家の方々にはより強い批難のメッセージを放ってほしいと、ぼくは思うのです。普段から、道徳や秩序を大切にしようと仰っている方には特に。そして普段から、弱者の権利を大事にと謳っている方には特に。

 むろん、政治家の方々個人はSNS等々で、本件に言及されていると思います。しかし、そこは個人としてでなく公党として、あるいは政府としてメッセージを打ち出してほしい。

 我が国(我が党)はヘイトクライムを許さない。
 障害者の人々を標的にするような犯罪を、我が国(我が党)は断じて許さない。

 そう明言してほしい。この記事を書いている現在、ネット上には発見することができません(もしあれば、教えてもらえるとありがたいです)。知的障害者の人とご家族の方の「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明のようなものを、公党には出してほしい。

 政治的テロが起きた場合、政府は速やかにそのような声明を打ち出すじゃないですか。「テロには屈しない」「テロを許さない」「断固としてテロと戦う」 
なぜその勇ましさを、今回は発揮してくれないのか。
 国として、政府として、党としてそのメッセージがあるだけで、わずかでも安心できる人々がいるとぼくは思うのです。ところが今、テレビや新聞を賑わせるのはむしろ、あの犯罪者の呪いの言葉のほう。なぜどの党も、正面からあの呪いを打ち消そうとしないのか。ぼくにはそのことが、輪を掛けて悲しいのです。

 世間では間もなく、ゴジラの映画が封切りとなります。新しい都知事も決まります。ポケモンだって、まだまだユーザーと評判を広げていくでしょう。そうなればまた、世間の注目はそちらに移ってしまうことでしょう。その前に、政府や各党はこの件をもっと大きく取り上げてほしいとぼくは思う。それがたとえ集票狙い、選挙目当てだってかまわない。
 あの呪いを打ち消すメッセージを、もっと放てよ。


       ********************
 
ついでになりますが、この事件に関連して気になるブログの記事を見つけたので、ちょっと話しておきたいと思います(政党の方に向けてのものではありません、あえてリンクも貼りません)。
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 殺人事件というのはドラマや映画なんかで見る限りは刺激的だし、実際に起こった猟奇的な事件なんかにしても、ぼくもまた好奇の目で見つめてしまうことがたまにあります。その被害者のことなんか考えずに、事件の特異性に目を奪われてしまうことはあるし、きっとこれからもあると思います。

 けれど、この事件についてはまだ起こったばかりであり、今もなお重傷を負って苦しんでいる人がいるわけです。あくまで、可能性として、さらなる犠牲が出るかもしれないのです。

それをよ。

 早々とランキングとかにしてんじゃねーぞ。

 第何位とか、数字にしてんじゃねーぞ。

 もしも、今も重傷で苦しんでる人がこのあと死んだりしたら、その犠牲者の数字を書き換えるのかよ。ランキングの順位いじるのかよ。どんな顔してキーボード叩くんだてめえは。おっと、一人増えたのか、書き換え書き換え、とかやるのかよてめえは。

どんなに映画に詳しいか知らねえが、どんなに文学に詳しいか知らねえが、それは今、やるべきことなのかよ? 今、やらなくちゃいけないのかよ? 一ヶ月後じゃ駄目なのかよ? だったらその旨も書き添えてくれないか。ぼくには意図も意味がわからないからさ。
どれくらい深刻なものかをわかりやすくした? それはランキングじゃなきゃ駄目か? それが「男の魂」か?

個人の趣味のことですから、リプを飛ばして突っかかっていく気はありません(反応があればお答えします)。でも、こうして空リプを飛ばすくらいはさせてもらいたいと思います。

ついでと言いながら、つい熱くなってしまいました。

 ヘイトクライムを許さないというメッセージが放たれることを、強く期待します。

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放送に隠されていた問題点
 7月25日放送のNHK「クローズアップ現代+」の特集を、タイミングよくリアルタイムで全編観ました。「AV出演強要被害」の問題についてでした。かなり問題の多い放送だったなあという印象を受け、むかむかし続けているので、ここで吐き出しておこうと思うのであります。

 昨今言われる一連のAVの「強要被害」について、ぼくが認識したのは今年の5月頃。それ以降あちこちでさまざまな見解が語られてきたわけですが、あの問題提起がいみじくもあぶり出した、別の側面があるんですね。「強要被害」が語られることを通して見えてきたのは、社会における「AV業界蔑視」問題。NHKの放送は、完全にそれを描き出していたように見受けます。

 かの放送の内容が、AVへの意図せぬ出演を防止する目的で描かれたものであることは、重々承知しています。ただ、そうであるがゆえに一方的な内容のものであったとも、強く感じるわけであります。

 放送において最も問題があるなあと思った点は、AVあるいはAV業界の良い面が、25分弱の放送の中で、ただの一言さえも触れられなかったところです。いや、今回の放送のテーマは強要被害問題だから、何もAV業界全般について詳しく触れろと言っているわけではない。本来ならまともな業者の取材もするべきだったけど、まあそこは言いません。

 ただ、ただ一言で良かった。

「こういうことがあると、健全に活動している業者も迷惑を受けてしまいますよね」とか、「業界全体のイメージが悪くなってしまいますよね」とか、「こういった悪事はあくまで一部の悪質な業者だけと信じたいんですけど」とか、「自発的に活躍している女優さんもいっぱいいるんですけど」とか、ささやかなフォローがあるだけで、ぼくはぜんぜん違う印象を持ったはずです。っていうか、他の業界のことなら入れるでしょうね、そういうフォローを。
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 でも、その一言すらない。観ている人は、「なんかAV業界って怖いんだね」というイメージを持つだけでしょう。今回の放送で、多くのまともなAV業界人が傷つけられたんじゃないかと僕は思ってしまうし、実際反発している人もツイッター上で見受けました。「ぜんぜん業界蔑視的じゃなかったよ」的に逆張りしてる人とかいるんですが、そういう人は普段からナチュラルに蔑視してるんじゃないかな、と思います。自分の差別意識に、人は気づきにくいものです。


彼女が戦うべき別の相手
 放送では松本圭世という、元テレビ愛知アナウンサーの女性が証言者の一人として登場していました。彼女は騙されてAVに出演してしまい、アナウンサーの職を追われてしまい、今は被害に苦しむ人たちを応援する活動をしているそうです。

 はて、ぼくにはひとつ、たいへん大きな疑問があります。なぜ、彼女は職を追われる羽目になったのでしょうか。構図としては、彼女はまあいわば、レイプされてしまったような格好のわけですね(実際は性的行為を行ってすらいないようですが)。で、そのレイプ被害者の彼女が、レイプにあったということで職を追われたと、そういう話なんでしょう? 確かにそりゃ、レイプ犯はよくないです。ここは強調しておきます。でも、レイプされたからとやめさせられるなら、それもまた大問題でしょう。それじゃまるで、イスラムの姦通罪、名誉殺人じゃないですか。
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 なんでそんなことが起きるかと言えば、AV自体を悪いものだと決めつけているからでしょう。AVに出た人間はアナウンサーでいる資格がない。そのようにして、AV女優を差別しているわけでしょう。そういう捉え方が、彼女を傷つけることになったんじゃないのかとぼくは思うわけです。だから彼女が戦うべきは、そのAV業者と同時に、雇われ先のテレビ局であったはずだし、あの放送に出ていた弁護士さんがもしも本当に人権派だというなら、そんなことでやめさせるなと憤るべきなんです(放送では一切言わなかったね)。

 繰り返します。AVの強要を擁護するつもりはない。でも、放送に出ていた匿名の証言の傷をさらに深くしたのは、AVへの蔑視でもあるんじゃないかと思えてなりません。「レイプまがいの事件に巻き込まれた」辛さのうえに、「AVなんていう醜悪なものに出てしまった」という価値観が乗っているとしたら、後半部分については緩和しうるものだろうと思うのです(くどいようですが、レイプまがいで出されたビデオを放置してよい、と言っているわけではありません)。
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 そうでなければ。

 AV女優はこの先も、ずっと蔑視され続けてしまう。AV強要被害が仮になくなっても、「AVに出たら人生終わり」みたいな価値観が残存していたら、AV女優の人たちは不当な蔑視を受け続けることになる。ぼくにはそれがどうしても許せない。強要被害がなくなれば蔑視はなくなるか? そんな風には思えない。強要被害の実態が出る前から、蔑視はあったじゃないか。だからアナウンサーは辞めさせられたんでしょう?

 いいじゃないか。AVに出ていたって。

 その言葉が、もっと必要だと僕は思うんです。



声優さんの件
 今年の4月には、人気声優さんがAVに出ていた、出ていないという件で話題を集めました。そのときには「AVに出ていたなんてショックだ」という反応が、ネット上で見受けられたと記憶しています。本人は否定しているとのことでしたが、ぼくはそれを聞いて、「ぜんぜんかまわないじゃないか」と思いました。声優が紅白に出るのはよくて、なんでAVに出ちゃいけないんだ? 

 はっきり言って、「AVに出てたなんてショック」と感じるその感じ方自体が、(もし仮に本人だったとして)彼女を傷つけることになると思います。もしもあなたが本当に彼女のファンだというなら、鼻息荒く出演を否定するのではなく、「AVに出ててもぜんぜんいいじゃん」「AV出演なんて、攻めてるじゃん」と鷹揚にかまえればいい。それができないということは、あなたは彼女を、そして何千人のAV女優をも傷つけているということです。差別に加担しているんです。仮に本人の意思に反しての出演ならば、その点には問題があるでしょう。でも、彼女自身の価値はなんら毀損されないということです。

 伊藤和子弁護士、もしあなたが本当にAV強要の被害者を救いたいと、もし本当に思っているなら、今やっていることのある部分は、完全に真逆です。「AV強要被害をなくす」ことはできたとしても、「AV強要被害に遭った」人たちは救われません。なぜなら、AV出演自体を悪いもののように捉えているからです(そうでないというなら、今回の放送でなぜ一言も、AV業界をフォローしなかったのか)。

被害者を本当に救うために
 AVに出た過去は消えないし、たとえ作品の流通を止めても、その人の中には記憶として残り続けるでしょう。その人を本当に救うには、「AVに出たなんて恥辱だわ」という感覚を取り去ってやることです。そのためには、AVに出ることはなんら悪いことではないというメッセージを放つことです。AV蔑視のある限り、その人は永遠に救われません。そんなメッセージは放てないというのならば--断言してもいい--あなたはその人を救う気がないんだ。自分の差別精神と偏狭な価値観が大事だから。

 こういう話をすると、「もし自分の娘が」的な反応も考えられますので、言っておきます。僕に娘はいませんが、仮にいたとして、もしも本人が自分の意思でその道を選ぶというならまったく止めようとは思いません。よく考えろとは言うかもしれませんが、それはどの業界であっても同じだし、本人の生き方次第でしょう。もしも強要されたら? その場合は憤るでしょう。でも、強要されたら別にAVに限らず、何でも怒るんじゃないですか。むりやりコンビニで働かされようが、むりやり会社に内定させられようが、むりやり政治家にさせられようが、強要ということそれ自体に僕は怒るでしょう。強要自体が、人権侵害なのです。職業は関係ありません。
 世間の方々におかれましてはどうか、「出演強要」と「出演自体」を切り分けて捉えてほしいと願います。「出演強要」をした人間には問題があっても、「出演自体」を行った本人には問題がないし、むしろAVは映画にもテレビにもできない魅力的な表現を行っている媒体なのです。ぼくはAVでヌくたびに、女優へのリスペクトを感じてやみません。

「AV出演強要」問題について、もしあなたが部外者なら(ぼくもですが)、解決することはできません。でも、AV蔑視問題については解決しうる。あなたがやめればいいのです。見方を変えるだけなのです。ひいては、(あるいは逆説的に思えるかもしれませんが)被害者を救うことにもなるでしょう。できることを、してほしいと思います。
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 強要によってAV出演させられた、という元AV女優がいるらしく、メーカーやDMMを巻き込んで大ごとになっています。
 事務所社長の逮捕容疑は強要とは別ですが、マスコミでも取り沙汰されているので、無視できる要素ではありません。
 今回の「被害者」とされる女性は、通算400本以上の作品に出演していたと言われています。本人を知る現役AV女優が「本人は楽しんでやっていたし、強要なんて考えられない」と異論を唱え、一方では「楽しんでやっているように見えても、あとで辛くなることもある」と、反論が出たりもしています。

 本記事では、洗脳という言葉を使います。今回の件について、一種の鍵概念たり得ると思うからです。
 用法としては必ずしも正しくないだろうし、過去の彼女が事務所に洗脳されていたのだと言いたいわけでもありません。
 話をわかりやすくするために、使う言葉です。
 と、まず最初に述べておきます。

 AVを離れ、まずは一般論として考えてみます。

 ある洗脳を施された、一人の人間がいるとします。
 さて、悪いのは洗脳した人間か。
 それとも、洗脳を解こうとする人間か。

 もちろん、洗脳した人間が悪いと多くの人は答えるでしょう。
 しかし、果たして本当にそうなのか。
 
 自分の生きるべき道を探し、さまよっていた人間にとって、洗脳は救いの道でもあります。洗脳を施す人間は言うでしょう。
「おまえはこちらの世界を進むべきだ。おまえの人生には別の可能性がある。迷うことなく、こちらの世界に飛び込んでこい」
もし仮にその人間が、そこに活路を見出したなら、洗脳はその人にとっていいことなのです。

 洗脳を解こうとする人間は(およそ必ず)、その道を否定する人間です。
その人はこう言うでしょう。
「おまえの進む道は間違っている。おまえの人生はよくないものだ。だから、今までの人生を否定して、新たな人生を歩め」

 さて、この構図から明らかなように、洗脳する側も洗脳を解く側も、目指すものは同じなのです。自分の世界観に従えと、言っているのです。宗教であれば、その神の教えを信じるか信じないかの問題であり、立場が違うだけなのです。

 では、どちらがその人を幸せにできるのでしょうか。

 森達也がオウム真理教を追った映画『A』『A2』は、観る者にその問いを突きつけます。

 オウムによる凄惨な事件が起こってもなお、教団に残ろうとする人間がいる。
 かたや、教団からの洗脳を解こうと試みる人たちもいる。

 オウムが反社会的組織であった以上、脱洗脳をすべきだとぼくたちは思います。
 しかし、果たしてそれが当人にとって幸せな選択であるかどうか、ぼくたちにはわかりません。これは非常に重要な問題です。

 オウムに一度入信した人にしてみれば、いまさら出られないという思いもあるでしょう。仮に出て行っても、社会では「元オウム信者」として後ろ指を指される。それなら、教団の中にいたほうがいい。そういう風に考えた人間も、いるだろうとぼくは思うのです。

 高橋泉監督の映画『ある朝スウプは』は、また別の問いを突きつけます。

 劇中では、あるカップルの同居生活が描かれます。男のほうは鬱病を患っており、新興宗教に入信しようとします。しかし、女はそれを止めようとする。入ってはいけないと。
 そのとき、男は女に問うのです。
「それなら、おまえはおれを救ってくれるのか?」

 洗脳によって幸福になった人間がいたとして、その洗脳を解くことは正しいのか。
 解いたあと、その人間の人生がいいものになると、果たして約束できるのか。
 解いたあと、洗脳されていた人生への喪失感を、埋め合わせてやることはできるのか。
 洗脳を解くことは、本当に正しい行いと言えるのだろうか。

 その人を幸せにする方法。
 それは、その洗脳状態を続けさせるか。
 あるいは、その人間の人生を肯定しつつ、洗脳を解くか。
 そのどちらかではないでしょうか。

 ぼくが今回の件でまずいなあと思うのは、元AV女優の400本以上にわたる作品を、DMMがおおむね流通停止にしてしまったことです。

 それは、その人間の人生の否定です。
 彼女の人生が肯定されていたら、彼女の足跡は誇るべきものとして、そこに残っていたかもしれない。彼女の作品を消すということは、それが恥ずべき、消すべき過去であると決めてしまったということです。

 多くのAV女優が怒ったり、あるいは違和感を表明したりしているのは、実はそこなのかもしれない。自分たちのやっていることは、消されねばならないことなのかって。

 これは、強要被害をなくすということとは、また別の問題です。
 強要を肯定的に捉えるわけはないし、洗脳する側が正しいというのでもない。
 ぼくが言いたいのは、否定しただけでは救われない、ということです。
 
「AVに出てたなんて過去は知られたくないものだろう。消してほしいと思うのも当然だ」

 もしもそのように考えるなら、その思考はすなわち、AV自体への蔑視です。

「あの人、昔、AVに出ていたらしいよ。ひそひそ」
 
 そのような後ろ指を、肯定する立場です。
 AVという変数に、「映画」「テレビ」「モデル雑誌」「オリンピック」が代入されることは決してない。
 それはAV自体を、悪しきもの/蔑視すべきものと捉えているからです。

 強要されたのかどうか、ぼくにはわからない。
 もしかしたら本当に、強要によって始まっていたのかもしれない。
 でも、それとは違う部分で、考えなくてはならないことがある。
「あなたがAVに出た過去は、決して恥ずべきものではない。むしろ、誇っていい」
 そのように言えないなら、本当の意味で救ったことにならない。
 少なくとも、その作品に出たその人は罪人ではないし、悪徳を犯したわけではない。
 彼女が悪徳を犯したというのなら、また別の洗脳を施したに過ぎない。

「うちのおばあちゃんは昔、映画に出ていたんだよ」
「うちのおばあちゃんは昔、AVに出ていたんだよ」
 その二つが、等価である社会。 
 そのような社会をもたらすことが、本当の意味で彼女を救うことではないのかと、ぼくは思うのです。強要はむろんなくすべきですが、強要がなくなれば事足りるわけではない。
 自発的に出演したあとで、恥ずべき過去だと思い込んでしまう人もいるでしょう。
強要云々だけでは、その人たちは救われない。

 本当に救うためには、映画とAVが等価である社会を目指すべきでしょう。

 そんな社会は来ないって?

 なるほど、だとしたら、彼女は永久に救われない。
 

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風合いある小品。
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 前田敦子主演作。80分尺で規模の小さな世界を描く小品ですが、独特の味わいを放つ作品でありました。

 大学を出ても職に就こうとせず、家業も家事も父親に任せきりの主人公、タマ子の日常が描かれます。舞台は田舎町で、家はスポーツ用品店を営んでいます。父親との二人暮らしですね。

 テーマは明白で、「彼女がどう成長するかですね。
 序盤10分はきわめてだらりとしたトーンでセットアップがなされ、その後に父親との衝突があります。「このままだらだらしていても駄目だ、いつになったらちゃんとするんだ」という父親に対し、「少なくとも、今ではない!」と怒鳴るタマ子。

 しかしこれによって突き動かされ、およそ25分の段階で、新たなことを始めようと、アイドルのオーディションに応募したりします。でも、それが周りに露見すると急に嫌になってしまい、まただらけた状態に戻ってしまいます。短い映画なので、中間地点にどん底を持ってきています

 クライマックスへの糸口は、父の再婚。
 父の再婚話が進むことによって、タマ子自体の前進も促されるつくりです。
 再婚するかもしれない相手に父への思いを打ち明けたり、母親に「東京に来る?」と誘われたり、そうしたことを通して彼女はモラトリアムから脱していくきっかけを掴みます。父に「家を出ろ」と言われたタマ子は、「合格だよ」と答え、新たな人生に歩み出す手がかりを掴むのです。

 山下監督作品では『ばかのハコ船』が一番好きで、『リンダリンダリンダ』も好きです。『天然コケッコー』『どんてん生活』『苦役列車』などでも独特の風合いが生み出されているのですが、それらに比べるとやや威力は弱いかな、という感じはどうしてもありました。作品自体が小規模、ということはあるにせよ、同じような「無様な状態」を描いた作品だと、『ばかのハコ船』が素晴らしく、どうしても思い出してしまいました。前田敦子が持つ綺麗さによって、主人公の無様さが薄まってしまう、ないしは綺麗なものに見えてしまう、というのはあります。この映画はアイドルなどではなく、ブスな女優を起用していれば、よりいっそうもの悲しい風合いが漂い、良い意味での無様さが生まれたのではないか、などと考えてもしまいます。『ばかのハコ船』はその点においてもまた、優れた作品だったのです。ヒロインがブスでしたから。

ばかのハコ船 [DVD]

山本浩司/エースデュースエンタテインメント

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 もっとも、前田敦子はその辺の、可愛いとブスのバランスを良い感じで持っている人でもあるので、キャスティングに文句はありません。

 観終えたときは、モラトリアムを脱する上での通過儀礼的要素がやや弱いかな、という印象を受けました。しかし少し間を置いてみると、独り身である自分の父親を再婚相手に託す、という行いが、一種の通過儀礼として機能しているのだなとわかりました。巣立ちのための儀式として、自分を育ててくれた親の幸福を助けるというのは、物語的にきちんと意味合いを帯びています。「合格だよ」という、一見傲岸不遜な物言いは、彼女なりの照れ隠しの意味があるのであって、このような台詞を置く巧みさには、なるほど敬服を覚える次第であります。

 また、食事シーンが効果的です。食事シーンを随時挟み込むことによって、家庭の様子を凝縮して描き出すという手法。食事というのは動物的な意味合いを帯びており、そこには生活の本質、生きるという営みのありようが浮かび上がります。ゆえにして、独りでもそもそ喰ってるシーン、父親と咀嚼音を立てながら一緒に何かを食べているシーンなどが、そのおりそのおりで違う意味を持って伝わってくるわけです。

 地元に帰ってきた同級生、写真店の中学生と彼のヘルメット、そして彼のカノジョの垢抜けない感じなど、田舎くささも随所で描かれていて、ほどよい風合いでありました。お薦めです。


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