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静寂と暴力のリズム
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YouTubeに映画の断片がアップされているのが目にとまり、ふと観たくなってDVDを借りました。観たのは優に10年以上ぶりで、記憶からぼろぼろこぼれているものだから、新鮮な目線で観られました。

昔のぼくがどう受け止めていたかは覚えていないのですが、今のぼくにとっては非常に心地よく進んでいく作品でありました。優れた漫才よろしく、冒頭のツカミが有効に機能していたと思います。映画全体の持つ「緊張と緩和」のリズムが、最序盤で示されるのですね。
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 歯の抜けた口でくちゃくちゃと飯を食うホームレスを映し、その直後に少年たちの暴行が始まる。暴行した少年の一人が悪びれもせずに帰宅したあと、たけしがその家に入っていき、彼をぶん殴る。シンプルかつ、きわめて効果的なオープニングでありました。弱き者がいたぶられる胸くそ悪い現実で引きつけたあと、たけしがカタルシスをもたらす。同時に、警察としての秩序からはみ出している彼の有り様が描かれる。映画に必要な情報を、緊張と緩和のリズムの中で捉えた最初のくだり。絶品であります。
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効果的なショックシーンというのは、観客の緊張感を持続させます。また、主人公がそうしたショックをもたらす人物であるのもいいんですね。たけし演ずる我妻刑事は、前触れもなく相手をぶん殴る。「一秒後に何をするか、読めない奴」というキャラクター像は、物語の緊張感を大いに助けるのです。これは、『ウォーキング・デッド』におけるニーガンがそうですね。ニーガンがリックたちを跪かせ、彼の仲間を撲殺するシーンは、『ウォーキング・デッド』全シーズンを通して最もインパクトのある場面ですが、あれでニーガンは作品の中心となった。彼が出るたび、「一秒後に誰かが死ぬ可能性」を感じさせられ、その後も彼が現れるだけでハラハラした。そうした危険さが、我妻刑事にはあったのですね。
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我妻刑事は悪を憎む心を持ち、刑事としての職務もこなすかたわら、いい加減な面も多分にあるのが面白い。それでいて、川上麻衣子演ずる妹を大切に思うような一面もあるし、一方ではブチギレて突っ走る凶暴さもある。こういうキャラクターというのは、現代の映画やドラマで久しく観ていないような気がします。そして、彼に実在感を与える演出として外せないのが、あの「てくてく歩く」シーンの数々です。
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「目的地に向かってただてくてく歩く場面」というのは、無駄な部分とも言えるんですね。別に何が起こるわけでもないし、なんならばっさりカットしたってあらすじには何の影響もない。冗長さを帯びるリスクもある。でも、この映画は我妻刑事の「ショック体質」を観客に植え付けているので、緊張感を持続できる。「てくてく歩く」シーンを多く取り入れて、それでいて邪魔にならないというのはすごく高等なことだと思う。それと同時に、一人の人間としての姿もくっきりしてくるんですね。無駄なシーンをあえて描いたからこそ、その人間が見えてくる。
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考えてみるに、ぼくたちの生活というのは、そのほとんどがドラマティックな場面ではない。仕事に向かう道中にしたって、飯を食いに店に入るときだって、寝る前に屁をこきながら歯を磨くときだって、そこには一切のドラマ性はない。でも、その何の面白みもない一瞬一瞬こそが、その人間の姿かたちを最も表しているとも言える。わかりますかね? ドラマティックでない場面に表れる、人間の姿。これをつぶさに描こうとするとくどくなるし、冗漫になるんですが、この映画はその愚を決して犯さない。
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芦川誠演ずる菊池を配したのもいいんです。我妻という捉えどころのない人物と対比させるために、気弱な若手刑事を置く。観客は菊池にも感情移入して、彼と一緒に我妻に振り回されてしまう。その手法自体は別段珍しいものではありませんが、途中で犯人を追跡するシークエンスでは、彼の頼りなさと我妻の頼もしさが、とりわけ良い対比になっている。一方通行の道を通れ、通れませんのあのやりとり。
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うん、余計な説明のない映画というのはいいものだなあと、全体を通して感じさせてくれる一作ですね。変なくどさがまったくないんです。テンポ良く進んでいくし、感傷的になったりしない。ぼくが好きな北野映画は『3-4X10月』で、これも最近観直してみたのですが、平成初期の懐かしい風景とともに、ずっと心地よく観ていられる。
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 ふと思ったのですけれど、この頃の北野映画が見せるような風景というのは、それ自体もう、なかなか描き得ないものかもしれません。ぼくたちはよくも悪くも情報に満ち満ちた社会を生きているじゃないですか。街角のようすひとつ映しても、誰もがスマホを片手に歩いている。そこにあるのは「情報を得ようとする個人」の姿であって、「てくてくとただ歩く」人の姿ではないんです。うん、僕は「スマホのない都市風景」を懐かしく感じるんですね。スマホに目を落としたり、写真を撮ってみたりすることもなく、個々人がただただ行き交う街のようす。そういうものは、もはや東京にはない。
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 脱線してしまった。
 あらすじについてぜんぜん言及していないじゃないかおまえ、と言われそうですけれど、なんか話のあらすじとかそういうのはもういいじゃん、と言わせてしまうくらいの心地よさが、本作にはあるのです。

いちばん近い印象を受けるのは、アキ・カウリスマキの作品群ですね。あのなんとも言えず乾いた映像空間というのは、実はすごく難しいものだと思う。うん、何につけあれこれと情報を足してみたり、説明を入れてみたりするものが多いのですが、ただ目の前のものを映し出すのは、いちばん難しいことなのかもしれません。
でも、それは尊いことだよなあと、あらためて思う。
 昨今のテレビ番組では、テロップを入れてみたり、画面に何かしらの文字情報を映しておいたりが当たり前になっているけれど、昔のバラエティなどを観ていると、ぜんぜん情報量が多くないんですね。テロップも部分的にしか出なかったりする。だけどそれって、作り手側が、自分たちの撮ったものに自信を持っていたからだろうなと思う。一方で今は、あれやこれやと情報を足すことで視聴者をつなぎとめるしかなくなっているし、視聴者側も情報が少ないと物足りなさを覚えてしまう。

 またまた脱線した。
 まあ、ついつい脱線してしまうというのはそれだけ、作品を通していろいろなことを考えさせてくれる優れた映画ってことです。
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この映画が光った理由を凝縮して述べるなら、「静寂と暴力」の対比なのだろうとも思いますね。ヤクザの出てくる映画だけれど、怒鳴ったりする場面は少なく、静かな時間の中で一瞬の暴力が炸裂する。あるいは、なめらかな音楽の中で頭をかち割られるような描き方もしてみせる。本当の暴力というのは、わめいたり騒いだりする中で起こるようなものでなく、もっと地味で乾ききったものなんじゃないか? と問うような描き方。バラエティ界の寵児たるビートたけし像との対比もあって、よりインパクトをもって迎えられたのでありましょう。そう考えると、のちの『アウトレイジ』は、デビュー時の鮮やかさに比べると色あせている。静寂と暴力がつくりだす独特の空間は、やはり初期ないし前期の北野映画の美点なのでありましょう。

 もっといろいろと語るべきことはありそうだけれど、それはまた別の機会に。
 ぼくなどがいまさらお薦めする必要もないほどに、お薦めであります。


# by karasmoker | 2020-10-01 00:00 | 邦画
サービス精神とタメの大事さ
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「かつて観たものを再見するシリーズ」。すでに何度か観ており、これと前作の『28日後...』は、時折観返したくなる作品です。

 実のところ、ダニー・ボイル監督の『28日後...』のほうが好きな部分も大いにあります。
ゼロ年代における「ダッシュゾンビ」路線を加速させたのは、あの『28日後...』だと思うんですね。ゾンビというより、「凶暴な感染者」というのが正確かもしれませんが。
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 ザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』がその流れを強め、テレビゲームなんかもそこに加わった。テレビドラマの『ウォーキングデッド』が古典的なのろのろゾンビの忠実な守護者となっていますが、やはりダッシュにしたほうが手っ取り早く盛り上がる。
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ファストフードやファストファッションがそうであるように、また4Gから5Gへの通信の流れなどがあるように、とかく「速さ」「早さ」を求めるのが現代社会。ダッシュゾンビはその流れにフィットするものなのだなと、文化論的な側面からも語れそうです。

 ロメロが確立した現代ゾンビ像は「のろのろ歩き」がお約束ですが、のろのろゾンビの恐怖は、いわゆる古典的ホラーの恐怖なのでしょう。『ジョーズ』が出現するときの音楽よろしく、じわりじわりと危機が迫り、ある臨界点に達してぐわっと襲いかかってくるタイプ。かたやダッシュゾンビはというと、突然フルスロットルで来ますからね。早く刺激を! 変に間を持たせなくていいから早く楽しませてくれ! という現代的要請に適うのがダッシュゾンビです。ぼくはすっかりそっちに染まっちゃったタイプですねえ。
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 で、『28週後...』です。
 感染者の抑止と街の再生が図られているイギリスに、二人の姉弟が訪れ、父親との再会を果たします。この父親は冒頭シーンで、妻を見捨てて感染者から逃げ出しているんですね。妻、つまりは子どもたちの母親を見捨ててしまった罪悪感に苛まれつつも生活を再開しようとしたところで、姉弟は母親探しに規制区域の外に出る。そこでなんと、死んだと思われたはずの母親が見つかって、というところからどんどんテンポ良く進んでいきます。
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 あまり細かにストーリーを話そうという気にもならないというか、次から次にクライシスをもたらしてくれるサービス満点の映画です。とある出来事を契機に感染者が再拡大し、避難民たちは大混乱。感染者を撃つはずの軍隊も誰を撃っていいやらわからず、普通の市民までバンバン撃ってしまう。そんな中を右へ左へ逃げ回っていたら、軍隊が今度は街中を焼き払うような強硬手段に出る始末で、とにかく観客を退屈させないようサービスの行き届いた映画であります。
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 考えてみるに、ゾンビ映画のフォーマットをつくるとまず大ゴケはしないというか、いろいろなエピソードを仕込みやすいんですね。ちょっとしたきっかけから一挙に広がる面白さとか、愛する人がゾンビ化してしまうとか、愛する人を救うためにゾンビ化しそうな自分を犠牲にするとか、ゾンビに加えて人間が脅威になるとか、20世紀の段階からすでにいろいろなエピソードの蓄積があって、それをうまく配置していくとおかしなことにはならない。
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 本作もそのパターンをうまく用いながら滑りの良い流れを展開していきます。
ただ、裏を返すと、「タメ」の少ない映画でもあるなあという気がしていてね。とにかくサービスサービスでやっていく分、観る者が刺激に慣れすぎてしまうんじゃないかとも思う。ここが恐怖を基調とする物語の難しいところです。怖いもの、刺激の強いものをどんどんぶちこんでいくと、今度は肝心な部分を見せるための「タメ」がなくなってしまう。
 かといって、タメすぎると現代における「速さ」の要求に応えられなくなるなるわけで、この辺の緩急の付け方こそがゾンビ映画の要諦なのかなあ、などとも考えました。
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『28週後...』は観客を飽きさせないよう、サービス精神満点の映画です。ほとんど強迫的なまでに事件を起こし、主人公たる姉弟は逃げ回り、頼りの人物は次々に死に、二人を襲う危機も感染者の脅威、軍隊の脅威などと気を配っている。何も考えずにハラハラドキドキできるゾンビ映画はない? と尋ねられたら、まずこれを薦めて間違いないでしょう。
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 他方、タメがほしい部分もあってね。『28日後...』くらいのスピード感が、ぼくは心地いいのかなと個人的に思った。あの作品で、主人公が荒廃したロンドンの街を歩き、教会に辿り着いたあとの出来事。あるいは、同行することになった親子の父に起こる出来事。「タメと危機」というバランスの部分ではあちらのほうが好きかなあとぼくは感じる。
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 ところで、ゾンビ映画というと、日本と韓国がそれぞれに傑作を生み出しています。
 日本は『アイ・アム・ア・ヒーロー』、韓国は『新感染 ファイナル・エクスプレス』。
 ゾンビ映画というと本場はアメリカで、『28日後...』『28週後...』に加えて、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のような傑作もイギリスは生み出している。他方、長きにわたって日本では良作がつくられていませんでした。ゲームでは『バイオハザード』があったけれど、映画となると特になかった。それを打ち破ったのが漫画の『アイ・アム・ア・ヒーロー』とその映画版で、韓国も負けじとパワフルな一本を繰り出した。
 すでに供給過剰かとも見えるゾンビ映画界において、過去作をうまく活かしながら新しい見せ方を試みる作り手には感服するものであります。
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 『28週後...』の作り手もまた、観客をおなかいっぱいにさせてやるぞ! とたっぷり食材を買い込み、火力全開で調理しております。こういうサービスを受けたらやはり、満腹感を味わえるものであります。ゼロ年代におけるゾンビ系映画の力作として、ここに確かに、お薦めするものであります。
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# by karasmoker | 2020-09-27 00:00 | 洋画
端正な法廷ミステリー
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 原題『Primal Fear』
 何かミステリーものの映画はないかな、とネットの評判を頼りにして、観てみました。リチャード・ギア主演の弁護士もので、エドワード・ノートンの映画デビュー作でもあります。90年代のアメリカ映画に見られる、まろやかで端正な仕上がりの作品でございました。
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 法廷劇の論題となるのは、ひとつの殺人事件です。
大司教の男性が惨殺され、その犯人としてノートンが逮捕。リチャード・ギアはその裁判の弁護を請け負うことになります。殺人現場から血まみれで逃亡していたノートンですが、事件当時の記憶がないと言い、第三者による犯行ではないのか? とリチャード・ギアは弁護方針を立て、あれこれと調べていきます。
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最初の事件以降、しばらく大きな展開はないのですが、なんだかするすると観ていける映画です。これって何なのでしょうかね。体感時間の長い映画、短い映画というのがあって、面白いものは短く感じ、退屈なものは長く感じる。けれど、大して面白くないのにスムーズに観られる映画というのが中にはあります。小説で言えば、「リーダビリティが高い」ような映画。テンポがいいとかいうのとも違って、スムーズに時間の流れていく映画というのが時々ある。本作はそんな感じです。
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 まあいいや。
ところで、本作を構成する要素の一つに、「大司教による性的不祥事」があります。
 今にして観ると、結構先駆的と言えるんじゃないでしょうか。
 カトリックの聖職者による性犯罪/性的虐待は21世紀に入って以降、大々的に報道・調査されるようになりましたが、90年代当時にはそれほど多く語られていなかったようです。しかしまあ、神に仕える天下のカトリック教会が、何百、何千件の性的虐待を重ねていたという事態というのは、ちょっとどう反応していいものやら呆気にとられます。
 21世紀に入ってからイスラムのテロが大きく報じられるようになったのは、この辺の宗教的なアレも絡んでるんじゃねーの、と邪推したくなるものであります。
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まあいいや。
 ところで、本作は「ミステリー映画」に属するタイプのものであり、観ていない場合は先にネタバレを読まないほうがいいように思います。特に本作の場合、その「仕掛け」で保っているところが大きいので、未見の方はここで去られよ。

 重大ネタバレ警報。

























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さて、大司教殺しは誰であったのか。
 といえば、ノートンでした。
 ノートン扮する気弱な青年アーロンは、精神分析医との会話中に態度を豹変させ、リチャード・ギアと会ったときには暴力まで振るいます。彼の中には別の人格・ロイが潜んでおり、そのロイが大司教を殺したのだ! ということが明らかになります。エドワード・ノートンの演じた「二重人格」を観て、デヴィット・フィンチャーは『ファイトクラブ』にオファーしたのでしょうきっと。はまり役だったと思います。
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 多重人格ものというのは、平成の時代に刈り尽くされた感じがしますね。映画でもそうですし、小説などでもそう。特にミステリーの場合は「使える」モチーフです。この映画は90年代半ばなので、まだ飽和状態にはなかったと思われますが、令和の今にして観ると、「あぁ、そのパターンね」と感じられます。
 ですが。しかし。
 けれど、そこからもうひとつ捻っているので、とても好もしい。
 ぼくはすっかり騙されちゃいました。
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 ただちょっと、途中でよくわからなくなるところもありました。
 最初、リチャード・ギアは「ノートン以外の誰かが犯人」と捉えて、無実を主張していました。けれど途中で、多重人格が明らかになり、「このままじゃ負けちまう!」みたいに言うんです。「心神喪失をいまさら主張できない」という話なんですが、そういうものなんですかね。
「よく調べたら犯人はどうやらノートンのようです。でもよくよく調べたら、彼は心神喪失だとわかりました。よって無罪を主張します」
という弁護方針を変えることはできないものなんでしょうかね。
 ほんで結果的には、心神喪失で勝訴してるし。
途中、リチャード・ギアが何を悩んでいるのかとよくわからなくなりました。
心神喪失でも何でも、無罪に持って行ければそれでいいんじゃねえの? と思いますし。
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 まあいいや。
 それで、人格が実際に変わるところが法廷であらわになり、心神喪失で無罪になり、リチャード・ギアは勝利します。検察側のローラ・リニーがまた、「90年代のインテリ・アメリカ美人」って感じでこれまたよいですな。ちょっと鼻につく感じはヒラリー・クリントンっぽくもありましたな。
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 そいでまあ、ラストですね。
 真実の明かし方のキレがよい。短いフレーズで真実が見える瞬間というのは、ミステリーに触れたときの醍醐味です。
 二重人格ものと思わせておいて、実は……という展開が、短い時間でぱしっと決まっており、ここで映画は勝利を収めます。ぼくは騙されやすいタイプなので、しっかり騙されました。堪能いたしました。もっとも、この勝利はきっと原作の小説の著者ウィリアム・ディールによるものであって、映画それ自体のすごさというのではないでしょうけれど。

 映画は全体として「端正なミステリードラマ」という具合でした。特別な演出や効果的なカットがあるわけでもなく、淡々と出来事を追っていくという調子。いつもより熱のこもらないレビウになったのは、その辺が理由であります。
本作を観ずにここまで読んでしまった方は、もったいないことしたねえ。
 今日はこれまで。



# by karasmoker | 2020-09-23 00:00 | 洋画
キャラ付けの弱さが、仕掛けの効果を減じている
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 原題『Contratiempo』
先日はインドのミステリー映画を取り上げましたが、今回はスペインです。作家の七尾与史氏が激賞していた作品で、プロのミステリー作家を唸らせるなら期待できるだろうと思い、観てみたのであります。

 企業経営者の男性・ドリアは、不倫相手であったローラ殺害の罪で起訴されます。現場となったのはホテルの一室。事件当時、その部屋は密室となっており、犯人はドリアだと警察は判断したわけですが、ドリア本人は容疑を否認。いったい真相はいかなるものかと、冒頭で大きな謎が提示されます。
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 保釈中の彼のもとを訪れたのは、凄腕弁護士とされるグッドマン女史。グッドマンはドリアから、当日までの事の経緯をつぶさに聞き出し、真相を探っていくというのが本作の筋立てです。グッドマンとドリアのやりとりと、ドリアの証言から組み立てられる過去の出来事を交互に描く形式で、テンポは上々です。ストレスなく観ていくことができるので、体感時間も長くない。
 ですが、うむ、しかし、ええと。
 ミステリー作品を取り上げる今回は、ネタバレガンガンですので、未見の人は早々に立ち去ってもらうとよいでしょう。
 これから観ようという人にアドバイスをするなら、大して期待せずに観るといいよ、ということです。
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 さて、未見の人は置いてけぼりで話を進めましょう。
 正直なところ、本作の真相には大して驚きはありませんでした。プロの作家が褒めているだけあって、確かに仕掛けは施されているんですが、なんというか真相自体はむしろ凡庸なものでしかなかった。「あなたはきっと、別のラストを予想する。」というのが日本公開時のキャッチコピーだったようですが、いやいや、まあ、当たらずとも遠からずだったよという感じです。
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 仕掛けとしてはわかるんです。ドリアの証言を元に過去が組み立てられていく。それが実は嘘だったとわかり、過去の出来事がまるで変わった内容になる。そこに工夫を仕掛けているのはわかるし、ローラ殺害に関しても最初とは違う真相が明らかになった。

 でもね、これで「まさかドリアが犯人だったとは!」なんてならないでしょう。
ローラ殺害の現場は密室。普通に考えたら犯人はドリアでしかあり得ないのに、いったい誰がやったんだ? というのがまず最初にある。そこを裏切っていくのがミステリーの面白さだと思うんですが、結局ドリアが犯人じゃあ、肩透かしです。というか、ドリア自体が事故の隠蔽に加わっていたり、被害者の親父さんに嘘をついたりしているわけで、もともとそんなに「信用できない語り手」なんですよ。もっと別の真相があるのかと期待していたんです。「普通に考えたら犯人はドリアだよな? そうでないとしたら被害者の親父さんだろ? でも、そのどちらかじゃ当たり前すぎるし……」と思っていたら、なんと最初の可能性に落ち着く。
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ミステリーではミスリードが大事です。いかにも怪しい人物を置いて、真相から遠ざけるわけです。本作の場合は被害者の親父さんがそうですが、他にミスリードの幅がないんですね。親父さん以外にも、容疑者になるような人が出てこないから、結局これドリア以外にはあり得なくね? となって、案の定そうなる。驚きようがない。

 グッドマン女史が偽物だった、実は被害者の母親だった、というのは気づきませんでした。でも、グッドマン女史はドリアの味方ではないだろうな、被害者の両親サイドの人間じゃないかなというのは、序盤からふがふが匂ってくる。
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ドリアが過去についてぺらぺら喋りすぎているというか、なんで初対面の人間にこんなにも赤裸々な打ち明け話をするんだろう、と疑問になったんです。おいおい、このおばちゃんが敵側の人間だったらどうするんだよ、というレベルまで喋っちゃう。要は、ドリアがグッドマンを信頼しすぎているんです。凄腕の弁護士で、無罪に持っていってもらうためだというのが理由なんでしょうけど、「あんたを信用していいのか?」みたいなニュアンスをもっと強めてくれないと、観ている側が代わりに彼女に疑いの目を持ってしまう。
 途中で、「実は事故の被害者が生きていた」みたいなくだりがあるじゃないですか。
 その可能性もあるなーと思いながら観ていたので別に驚きもしなかったんですが、むしろ驚いたのはグッドマンの反応。「生きていると知りながら車を湖に沈めたなんて、殺人じゃないの!」みたいな反応を見せる。ぼくはちょっとぽかんとしてしまった。え? 序盤でドリアの打ち明け話聞いた時点で、いろいろ受け容れてるんじゃないの? ドリアは救急車を呼んだりもせずに車を沈めて隠蔽を図るような奴なんですよ。そんな奴だと割り切ったうえで弁護するんでしょうよと。
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 ぼくとしてはこのグッドマンが、『リーガル・ハイ』における古美門みたいな人物かなとちょっと思ったんです。どんなクソ野郎であっても、引き受けたからにはどんな悪事も平気で飲み込めちゃうような弁護士なのかなと思った。隠蔽に関する話も淡々と聞いていたし。それがあそこで、「それは殺人よ!」みたいなリアクションをしちゃうから、ドリアサイドの人間としてぜんぜん完璧じゃない。いや、わかりますよ。彼女は被害者の母親だったわけだから、そういうリアクションを取ってしまうのはわかるし、それを伏線として機能させたのはわかる。でも、真相の衝撃度を高めるのなら、もっともっともっと、「ドリアの味方」らしさを出さなきゃ駄目だと思うんです。
 古美門よろしく、「どんなダーティな話でも明かしてくれ。金さえもらえばどこまでもあんたの味方をする」くらいのキャラクターでないと、ラストとの落差が出てこないと思うんです。グッドマンのキャラが弱いんです。

うん、被害者の母親という部分は確かにわからなかったし、そこには驚き要素はあった。
 でも、この映画の構造上、話の落ち着きどころは結局、「グッドマンはドリアの味方ではない」という部分にしか行きようがない。着地させるならそっち行くしかないよね、という方向に着地しているので、プロの作家が唸るようなものとはぜんぜん思えない。

 ドリアの真相とグッドマンの真相。
 主要登場人物それぞれに、最初とは違う真相を持たせたのは技巧上の工夫ではある。
 しかしいかんせん、それぞれのキャラ付けが弱すぎる。
 あの真相を導くなら、ドリアはもっともっと善人キャラであるべきだし、グッドマンはもっともっと悪人キャラでいないと落差が生まれない。観終えてみれば、悪人っぽい奴が悪人だった、善人っぽい人が善人だったというだけです。

 あまり期待しない方がいいんですね。普通のサスペンスドラマとして観ていれば、びっくりしていたかもしれません。でも、「衝撃度の高いミステリー」みたいな触れ込みがなければ、おそらく本作を観る機会はなかったわけで、この辺の捉え方はちょっと難しい。
ミステリーを観るときは、期待してはいけない。
その気構えを学ぶ一本でございました。


# by karasmoker | 2020-09-20 00:00 | 洋画
インド産・佳作ミステリー。ヴィディヤーの美しさ。
『女神は二度微笑む』 スジョイ・ゴーシュ 2012_d0151584_01431345.jpg
 原題『Kahaani』(「Story」の意)
 インド発のミステリー映画です。
 主演はヴィディヤー・バーランという美麗な女優さんで、ちょっと北川景子っぽいなあという印象を覚えました。失踪した夫を探す、というストーリーで、インドの風景も同時に楽しめる一本でありました。

 インドの地下鉄で大規模なテロ事件が発生する、というのが映画のつかみになっています。厳密には、殺人有毒ガスがふとしたことから車両内に漏洩し、大量の人が死んでしまうのです。
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 それから二年後、ヴィディヤーがロンドンからインドにやってきます。妊娠中の彼女は夫と連絡が取れなくなり、どこにいるのかと警察に捜索願を出すのです。映画の作法というか技法というか、そうした部分は『ナトゥ』の頃に比べるとかなりアメリカナイズされている一方、インドの警察がぜんぜん洗練されていない感じで面白いですね。舞台となるのは大都市のコルカタ(個人的には「カルカッタ」という呼び方になじみがあります)なのですが、刑事のいる部屋のすぐ外が、人々の行き交う路地なんです。日本や欧米と比べて、雑然とした風景であるなあと思わされます。
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 ラナという若手刑事が協力してくれて、ヴィディヤーは夫捜しを続けます。ところが、夫の存在はその痕跡すら残されておらず、ひとつの奇妙な事実が発覚。夫の捜索中、彼とうり二つである別人の存在が明かされるのです。夫はどこにいったのか、彼とそっくりな別人の正体は、はたまたその人物こそが夫であるのか。ヴィディヤーに協力した証言者たちが殺し屋の手に掛けられるなど、謎が謎を呼ぶミステリーなのであります。
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 ところで、ぼくには少し苦手なジャンルというのがあります。
 「徘徊インタビュー」というジャンルです。
作家の矢作俊彦氏が、自作についてそう形容したという話を読んだことがあるのですが(曖昧な記憶なので間違っているかもしれません)、ぼくはその手のストーリー展開が好きではないんですね。本作に限らず、松本清張の小説などでもよくあるタイプです。失踪事件とか犯人捜しとかをするタイプの話って、どうしても「徘徊インタビュー」になる。事件について知っているAさんのところに話を聞きに行く。すると、Bさんが情報を持っているとわかり、次にBさんのもとへ。その後、Cさんが詳しい内情を知っていると判明し、今度はCさんに会いに行く。CさんからDさん、DさんからEさん。そんな調子で、聞き込みを繰り返すタイプのストーリーって、途中で飽きてくるんです。宮部みゆきの『火車』とかも、ミステリーのオールタイムベストなどに選ばれていたりするんですが、「徘徊インタビュー」だなあと途中で飽きてしまう。長編のストーリーをつくるうえでは格好の手法だと思うんですね。少しずつ情報を小出しにするから、いろいろ謎を詰めるし、先延ばしにもできる。でも、ぼくはせっかちなところがあって、途中で飽きちゃうふしがある。
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 本作についても若干そのきらいがありました。
 インドの風景が愉しいので、そこでだいぶ助けられたなあとは思うんですが、徘徊インタビュー感が強い。冴えない見た目の殺し屋が差し迫ってくる面白さはあるし、あれやこれやと主人公たちを動かしてはいるんですが、一方でじれったさも募りました。
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 そこを助けてくれるのが、ヴィディヤーさんの美貌であります。彼女のアイドル映画と言ってもいいくらいに、魅力的に映っています。『ナトゥ』のときにも書きましたが、やはりインドの美人さんってのはいいですねえ。目がぱっちりしている点は日本の「ギャル」にも通ずる部分だと思うんですが、日本の「ギャル」のデラックス版みたいな艶やかさが、インドの美人さんにはあるんです。
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 まあいいや。
 本作の見所はひとえに、クライマックスにありますね。
 徘徊インタビューを重ねた末、とある真相に行き着きます。
 本作の売り文句として、「どんでん返し」というのがありまして、ここからはネタバレレベルが急上昇します。未見なのに読んでしまいますと、本作の驚き要素が大いに減じるため、早急に立ち去られよ。ネタバレ警報発動です。
 はい、警報を鳴らしたので、もう知りません。

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「夫を探しに来た妊婦」という設定自体が、ひっくり返されるんですね。
 ミステリーものにはいつだって素直に驚かされる人間なので、ちゃんと騙されました。
 彼女はすでに夫を亡くしていて、その犯人こそが探し求める人物だったと。
 思うに、ミステリーというジャンルで衝撃が最大化するのは、「前提が覆ったとき」なのでしょう。前提が覆ることで作品全体の印象が書き換わることになり、観ている人間は大きな衝撃を覚えるという構造です。「実は妊婦ではなかった」という部分については副次的なものというか、メインを支えるための要素ですね。夫を探すか弱い女性、というミスリードを誘うために設定されているようで、全体的な展開に影響を与えるものではありません。ただ、そういう要素を入れておくことで、謎がばれるのを防げるのだというのは学びになります。
 惜しむらくは、あのテロ事件は何だったんだというのが見えてこないところ。
というか、実際は不慮の事故に近い部分もあり、ラストで追悼のイベントみたいなのをやられてもあまりピンとこない。情報局の人間が関わっていた、とかはわかるんですが、どういう目的であの毒ガスをつくったのかとか、犯人は何をしたかったのかとか、その辺がいまひとつクリアにならないし描かれてもいないので、「すべてが明らかになった」という爽快感は少し弱まります。
 
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ともあれ、インドの風景とヴィディヤーの美貌、そしてどんでん返しの愉しさを味わえるという点で、佳作には違いありません。なんだか薄味のレビウだなあと自覚はあるのですが、これ以上書きたいことも特にない。ま、今日はこの辺で。


# by karasmoker | 2020-09-16 00:00 | アジア
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