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インド産・佳作ミステリー。ヴィディヤーの美しさ。
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 原題『Kahaani』(「Story」の意)
 インド発のミステリー映画です。
 主演はヴィディヤー・バーランという美麗な女優さんで、ちょっと北川景子っぽいなあという印象を覚えました。失踪した夫を探す、というストーリーで、インドの風景も同時に楽しめる一本でありました。

 インドの地下鉄で大規模なテロ事件が発生する、というのが映画のつかみになっています。厳密には、殺人有毒ガスがふとしたことから車両内に漏洩し、大量の人が死んでしまうのです。
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 それから二年後、ヴィディヤーがロンドンからインドにやってきます。妊娠中の彼女は夫と連絡が取れなくなり、どこにいるのかと警察に捜索願を出すのです。映画の作法というか技法というか、そうした部分は『ナトゥ』の頃に比べるとかなりアメリカナイズされている一方、インドの警察がぜんぜん洗練されていない感じで面白いですね。舞台となるのは大都市のコルカタ(個人的には「カルカッタ」という呼び方になじみがあります)なのですが、刑事のいる部屋のすぐ外が、人々の行き交う路地なんです。日本や欧米と比べて、雑然とした風景であるなあと思わされます。
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 ラナという若手刑事が協力してくれて、ヴィディヤーは夫捜しを続けます。ところが、夫の存在はその痕跡すら残されておらず、ひとつの奇妙な事実が発覚。夫の捜索中、彼とうり二つである別人の存在が明かされるのです。夫はどこにいったのか、彼とそっくりな別人の正体は、はたまたその人物こそが夫であるのか。ヴィディヤーに協力した証言者たちが殺し屋の手に掛けられるなど、謎が謎を呼ぶミステリーなのであります。
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 ところで、ぼくには少し苦手なジャンルというのがあります。
 「徘徊インタビュー」というジャンルです。
作家の矢作俊彦氏が、自作についてそう形容したという話を読んだことがあるのですが(曖昧な記憶なので間違っているかもしれません)、ぼくはその手のストーリー展開が好きではないんですね。本作に限らず、松本清張の小説などでもよくあるタイプです。失踪事件とか犯人捜しとかをするタイプの話って、どうしても「徘徊インタビュー」になる。事件について知っているAさんのところに話を聞きに行く。すると、Bさんが情報を持っているとわかり、次にBさんのもとへ。その後、Cさんが詳しい内情を知っていると判明し、今度はCさんに会いに行く。CさんからDさん、DさんからEさん。そんな調子で、聞き込みを繰り返すタイプのストーリーって、途中で飽きてくるんです。宮部みゆきの『火車』とかも、ミステリーのオールタイムベストなどに選ばれていたりするんですが、「徘徊インタビュー」だなあと途中で飽きてしまう。長編のストーリーをつくるうえでは格好の手法だと思うんですね。少しずつ情報を小出しにするから、いろいろ謎を詰めるし、先延ばしにもできる。でも、ぼくはせっかちなところがあって、途中で飽きちゃうふしがある。
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 本作についても若干そのきらいがありました。
 インドの風景が愉しいので、そこでだいぶ助けられたなあとは思うんですが、徘徊インタビュー感が強い。冴えない見た目の殺し屋が差し迫ってくる面白さはあるし、あれやこれやと主人公たちを動かしてはいるんですが、一方でじれったさも募りました。
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 そこを助けてくれるのが、ヴィディヤーさんの美貌であります。彼女のアイドル映画と言ってもいいくらいに、魅力的に映っています。『ナトゥ』のときにも書きましたが、やはりインドの美人さんってのはいいですねえ。目がぱっちりしている点は日本の「ギャル」にも通ずる部分だと思うんですが、日本の「ギャル」のデラックス版みたいな艶やかさが、インドの美人さんにはあるんです。
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 まあいいや。
 本作の見所はひとえに、クライマックスにありますね。
 徘徊インタビューを重ねた末、とある真相に行き着きます。
 本作の売り文句として、「どんでん返し」というのがありまして、ここからはネタバレレベルが急上昇します。未見なのに読んでしまいますと、本作の驚き要素が大いに減じるため、早急に立ち去られよ。ネタバレ警報発動です。
 はい、警報を鳴らしたので、もう知りません。

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「夫を探しに来た妊婦」という設定自体が、ひっくり返されるんですね。
 ミステリーものにはいつだって素直に驚かされる人間なので、ちゃんと騙されました。
 彼女はすでに夫を亡くしていて、その犯人こそが探し求める人物だったと。
 思うに、ミステリーというジャンルで衝撃が最大化するのは、「前提が覆ったとき」なのでしょう。前提が覆ることで作品全体の印象が書き換わることになり、観ている人間は大きな衝撃を覚えるという構造です。「実は妊婦ではなかった」という部分については副次的なものというか、メインを支えるための要素ですね。夫を探すか弱い女性、というミスリードを誘うために設定されているようで、全体的な展開に影響を与えるものではありません。ただ、そういう要素を入れておくことで、謎がばれるのを防げるのだというのは学びになります。
 惜しむらくは、あのテロ事件は何だったんだというのが見えてこないところ。
というか、実際は不慮の事故に近い部分もあり、ラストで追悼のイベントみたいなのをやられてもあまりピンとこない。情報局の人間が関わっていた、とかはわかるんですが、どういう目的であの毒ガスをつくったのかとか、犯人は何をしたかったのかとか、その辺がいまひとつクリアにならないし描かれてもいないので、「すべてが明らかになった」という爽快感は少し弱まります。
 
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ともあれ、インドの風景とヴィディヤーの美貌、そしてどんでん返しの愉しさを味わえるという点で、佳作には違いありません。なんだか薄味のレビウだなあと自覚はあるのですが、これ以上書きたいことも特にない。ま、今日はこの辺で。


アイディアを活かしきれていない感じ
『ザ・チャイルド』 マキノフ 2012_d0151584_20244263.jpg

 原題『Come Out And Play』
 近頃はYouTubeで、ミステリー作家の七尾与史氏の映画評チャンネルを観ております。そこで薦められており、ちょうど短尺のホラーが観たいなと思っていたので、アマゾンプライムで鑑賞しました。

 本作はメキシコ映画なのですが、昔につくられた作品のリメイクだそうです。ナルシソ・イバニェス・セラドール監督が1976年につくったスペイン映画がもとで、そちらのほうも気になる作品です。子どもが群れをなして大人を襲う、という一風変わったホラー作品です。
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 一組の夫妻がバカンスでとある島を訪れるのですが、その島には大人の姿がありません。子どもたちが戯れるばかりで、通りにも店にも大人の姿がない。ホラーというより、「世にも奇妙な物語」の世界のような、不思議な感じがあります。
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 周囲を探索しているとき、夫のほうが、子どもに襲われる老人を発見します。子どもたちは群がって老人を惨殺してしまうのです。一体何が起こっているのだと夫婦は戦慄。子どもたちはやがて、モンスターのごとき凶暴さで二人に襲いかかります。
 
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 観ながら気になるのは、どうして子どもたちはそんな風になったのだ? という部分です。どうしてもそこが引っかかってくる。途中で島民の男性に出会うんですが、彼もまた理由がよくわからないというのです。そして観ているうちに、「ははーん、この映画はその理由について説明する気もねえな」と感じられてきます。
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 不条理な出来事が起こる分には別にかまわないけれど、不条理なりの理屈がほしいところではあります。そうでないなら、理屈なんかどうでもいいんだとばかり、熱量を上げて押してほしい。理屈はよく分からないけどこの映画はすごい! と思わせてくれたらいいんですが、あいにくそこまで熱くなれない作品でした。
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 もともとの作品は未見なのですが、冒頭に戦争のシーンなどがあるらしいです。戦争や貧困がもたらす不幸によって、子どもたちは不条理な悲劇に見舞われてきたのだと背景が語られて、そのうえで物語に入っていくようです。なるほど、と思ったのですが、リメイク版だけではそういう説明もなく、事情がよくわからない。また、ウィキペディアによると、子どもが群れをなして大人を襲うという設定は、ヒッチコックの『鳥』のオマージュだそうです。ただねえ、鳥であれば、「コミュニケーション不能な自然の恐怖」としてわかるんですけど、子どもはそうではないですからねえ。
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 小さな理屈でいいですから、あってほしかったなあと思うんです。何でもいいんです。「昔、暴力的に惨殺された子どもがいて、その子どもの怨念が現在の子どもたちに宿ってる」でもいいし、「ふらりと訪れた怪しい男が、子どもたちをおかしくしてしまった」でもいいし。あるいはもとの作品みたいに、歴史的な悲劇を挿入してくれたなら、なるほどそこでの批評性が生まれてくる。本作はまったくそういうのがないため、理由が気になってしまうんですね。で、結局明かされないままであると。
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 脚本的に疑問の部分も残ります。島の大人たちはみんな殺されているんですけど、なぜか海辺の家に、おばさんがいるんです。夫婦はおばさんのところに助けを求めにいくんですが、その近くにも子どもたちはいるんです。なぜおばさんは襲われないんだろうと思っていたら、この場面で少し謎が解けます。凶悪化した子どもたちは、別の子どもに触れることで、その狂気を伝染させているようなんですね。でも、やはり大本の理由はわからない。夫婦は夫婦で、「どうしてこんなことに?」みたいな質問をしない。このおばさんが黒幕なのかというとそうでもないし、あまり要らない場面でした。
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 終盤で夫婦が追い詰められ、妻のほうに銃が向けられます。夫は妻を救うために、敵の子どもを殺すんですが、それを見た妻が怒り出すんですね。「子どもを殺すなんて!」みたいなことを叫ぶんです。これもよくわからん。いやいや、襲われてたやん。銃向けられてたやん。だからこそ救ったのに、そんなふうに怒られてもってな話でしょうよ。「子どもを殺すのは人として絶対に許されないことだ」という良識に基づいて怒らせた脚本なのでしょうが、向こうは完全に殺しに来てますからねえ。あの状況で良識もへったくれもないわけで、なんか醒めてしまうわけです。
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 子どもであろうが何であろうが、この映画ではただの害意を持った敵ですから、正直なところ、観ていて葛藤が生まれないんです。あの子どもたちが何者かに操られていたり、あるいはどうしようもない事情で襲いかかってきたりするのであればわかるんです。少年兵を撃たねばならない兵士の話とか、そういう理屈が立てば葛藤もわかる。本作の子どもは笑いながら大人を殺しているだけの、深みのないモンスターどもでしかない。しかも死体をなぶったり弄んだりしているから、彼らを殺すことにためらいを感じられない。
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 最終盤で、夫のほうが子どもたちを銃で乱射して殺すんです。これなども、良識的に考えたらひどい出来事です。でも、この子どもたちが何一つ可愛くないですからねえ。むしろ、徹底的にぶち殺せ! と思ってしまう。けれどその殺しぶりが徹底的でないものだから、中途ハンパだなあと思えてならない。

 妻が妊娠しているという設定があって、最後のほうでその設定が効いてくる部分があるんですけど、これもねえ、うん。なるほど確かにある伏線を効かせてはいるんですけど、あまり面白くもない。どうせなら、あの妻を子どもたちが取り囲んで、おなかの子どもを奪っちゃうとかね。あるいは妻のほうにだけ優しくしておいて、あとあと妻を監禁して、「出産するまであなたは生かしておいてあげるわ。子どもは味方だから」みたいな残酷さで魅せるとかね。「こうした方が面白くなるのでは?」というアイディアが浮かんで邪魔になってしまうんです。妻にだけ優しくして狂気を見せず、夫だけが子どもたちの異常さを感知するという展開があってもいいでしょう。そうすると、夫婦のあいだにズレが生じて、物語に綾がつく。でも、そういうのは何もない。

 子どもたちを恐怖の対象とするアイディアはいいと思うんです。いろいろと遊べそうな感じがする。けれど、そのアイディアに含まれている要素を生かし切れていないんですね。もったいないなあ、と思う作品でありました。今日はこれまでにいたします。

痛快な社会派エンターテインメント
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 肥谷圭介氏の漫画を原作とする本作。原作のほうは結構前に最初の数巻まで読み、それきりにしていました。映画版の監督は『サイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督。かのシリーズはどれも好きで、本作もまたとても好もしい一本でありました。
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 率直に、とても面白かったです。
 家もない三人の若者たちが、犯罪者を相手に金を盗むクライムアクション。青春劇でもあり、社会問題にも踏み込み、痛快なエンターテインメントになっている。早めに述べておきますが、お薦めの作品です。
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ルポライターの鈴木大介氏による『家のない少年たち 親に望まれなかった少年の容赦なきサバイバル』が漫画の原案だそうです。その本は未読なのですが、鈴木氏の著作で言うと『振り込め犯罪結社 200億円詐欺市場に生きる人々』『再貧困女子』『老人喰い 高齢者を狙う詐欺の正体』などは読んだことがあります。特に『振り込め犯罪結社』は興味深い本でした。映画の劇中でも、振り込め詐欺集団について描写されています。
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 高杉真宙扮するサイケ、加藤諒扮するカズキ、渡辺大知扮するタケオの三人は少年院で出会い、犯罪者の金を「叩く」ことによって糊口を凌いでいます。貧困や虐待の中に育ち、まともな職にもありつけず、ありついたところで社会からは見下げられる。そんな彼らは犯罪者から金を巻き上げる道を選んだのでした。
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とはいえ、社会的にまともな人間になりたい、という願望も共有しているんですね。大金を貯めて社会的な身分を手に入れ、住処を得て、現在の境遇からは抜け出したいと願っている。そんな彼らが相対するのは犯罪者集団で、一歩間違えれば殺されかねない連中。その緊張感が底流しており、テンポのいい物語にいつしか引き込まれます。
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『振り込め詐欺犯罪結社』でも言及されているんですが、「犯罪者たちの道理」みたいなものが映画でも語られます。金子ノブアキが演じるのはいわゆる半グレ集団、詐欺グループの一員で、グループの人間たちに訓示をするんですね。いわく、老人たちは若者世代へのツケを回して、自分たちだけ資産をたんまり貯めている。いわく、そんな連中から金を奪うことをためらう必要は無い。いわく、数千万の貯蓄がある高齢者から、数百万奪ったところで何が悪い。主人公に敵対する連中は、そんなことを考えています。

これを「犯罪者の自己弁護」と切り捨てるのはたやすいけれど、彼らには彼らの道理があるんですね。正直なところ、彼らの主張を論破しきれる自信がぼくにはありません。「犯罪を正当化するな、真面目に働いて真面目に生きよ」と説いたところで、彼らにはなんら響かないでしょう。事実、詐欺グループはそれこそ、まるで真面目な会社員のようにして、実に「コツコツと」詐欺活動に励んでいたりするのです。犯罪を容認するわけではない。してはいけない。けれど、社会にどうしようもない格差があるなら、上の人間からむしりとって何がいけないんだ? と考える彼らの気持ちも、正直ぼくは理解できてしまう。
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 政治は弱者を救済せず、格差は広がり、野党にもなんら期待などできない。この状況は変わらない。であるならば、うまいことやってやれ。そういう人間たちがこの社会に生きていたとしても、なんら不思議ではないなあと思うのです。
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 映画から離れた。
 そういう社会的テーマを内在させながら、活劇としての面白さを十二分に宿しています。時には忍び込み、時には強奪し、三人は金を巻き上げていく。そんなシーンに音楽がバッチリとはまり、高揚感があります。素直に、彼らを応援したくなるつくりなんですね。途中、虐待に遭っている少女を連れ出してしまうのですが、野郎三人の空間に小さな花が咲き、この辺のバランスもよかった。
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 順調に金をゲットしていく三人ですが、そううまくはいきません。
 少年院時代に出会った粗暴集団に遭遇してしまい、その辺りから幸福な時間は終わりを告げていきます。幸福な時間が終わる瞬間も、上手いんです。どう上手いのかを細かに説明してもよいのですが、まあ、観てもらうのが早いでしょう。あの見せ方は素晴らしい。油断したときに、ドンッと来る感じです。
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敵のラスボスとして、詐欺グループを束ねる男が出てきます。MIYAVI演じる安達という男がおり、こいつをなんとか「叩け」ないかと三人は考える。中盤以降の骨組み自体はシンプルなストーリー展開で、サスペンスとして愉しかった。ルパン三世のごとく鮮やかに立ち回るわけでもなく、地面を這い回りながら味方を見つけ、バタバタと工夫を重ねながら戦いを挑まんとする姿もまたよろし。敵の安達は女性の人身売買みたいなことをしているやつで、この辺の演出はなんだかフィクション感が強いな、という感じもないではないのですが、悪役をちゃんと悪役として描いているのはよいことです。韓国映画やハリウッドムービーの良い部分をしっかり吸収している感じもする。
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 サスペンスにもっとも求められる部分、「この先はどうなるんだ、ハラハラ」という真っ当な展開をきちんと追っているのがいいなあと思いますね。敵グループの内部での内紛や、現金のありかを巡るフェイクなども込めているので、サスペンスとして非常につくりがよい。ぼくは原作漫画の展開をぜんぜん追っていないので、原作ではどうのこうのという話ができないのですが、ひとつの映画としてとてもよくまとまっていると思う。
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 図らずも誘拐してきた女の子(伊東蒼)はね、物語機能としてどうなんだろうと思う部分もあったんです。加藤諒扮するカズキは、妹と生き別れていて、その妹と重ね合わせるようにこの女の子を寵愛します。でも、彼女がいなくても映画全体は成立してしまうんです。一応、彼女をさらったことで大金をゲットできるという展開になるんですが、その展開以上には別段、彼女に物語機能はない。女の子が来たことで、主人公たちの心理に変化が生じるみたいな流れがあるわけでもないから、もったいないといえばもったいない。原作漫画の要素を、中途ハンパに取り入れた感がなくもない。
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 でもまあ、そういうことはいいや、とも思いました。
 主人公たちは少なくとも、虐待を受ける一人の女の子を救ったのです。その行動は褒められるべきだし、作品にも華が生まれたのでよいのです。役の演出としても上手かった。あまり彼女に喋らせないんですね。いや、ほとんど喋らせない。あの置き方はものすごく上手いと思いました。虐待で心に傷を負い、連れ去られてきた少女がそんなにわーきゃー喋ったりはしないだろう、というリアリティを保っている。結局、彼女は養護施設に行くのですが、最終版における演出も素晴らしかった。
 施設の子どもが、新しく住み始めた彼女のもとに寄ってくるシーン。
ここはね、いいですね、うん。
 女の子にも相手の子どもにも、何も喋らせない。
 作り手によってはね、「一緒に遊ぼ」みたいなことを迂闊に言わせちゃうと思うんです。 
 でも、それをやらない。
 そんな言葉は必要ない。
 ああ、信頼できる作り手だなあとつくづく思いました。
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 途中、ややだらつく場面もあります。主人公たちが落ち込む場面があるんですけど、ここはややテンポが落ちたように思う。長回しで緊張感を持たせておけばよかったんじゃないかな、と個人的には感じましたが、まあ注文をつけたいのはそれくらいです。
 余計なことをほとんどせず、切るべきを切る。
敵グループの一員として篠田麻里子が出てくるんですが、まあ篠田麻里子をぜいたくに無駄遣いしていますね。彼女はきっと、「この役、ぜんぜんおいしくないわ」と思ったに違いありません。AKBで時代の寵児となり、本作のキャストでも一番に知名度のある彼女の顔が、まともに映るシーンがほぼない。あの無駄遣いな感じが、逆に無駄のない演出として見えてきます。なかなか思い切ったなあと思う。
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 で、クライマックスですけれど、まあここはあれこれ語る必要はありません。
 愉しんで観ればよいのです。
 そしてクライマックスのあと、最後の最後にも、気を抜いていません。
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 サラリーマンたちが食堂で、あれこれと勝手なことを言うんですね。
 犯罪者が過去に虐待を受けていた、という報道に対して、くだを巻くんです。
 ひどい境遇で生まれ育ってもまともに生きている奴がいるんだ、犯罪者は駄目な奴なんだ、擁護する必要は無いんだみたいなことを話すんです。このシーンにもね、本作のバランス感覚がよく表れている。エンターテインメント以上のものとしてしっかりと締めている。
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 前にも書いたかもしれませんが、あらためて少し考えます。
 よく、こんなことが言われますね。
「犯罪者から更生した奴が持ち上げられたりするけど、最初からまともに生きている奴の方が偉いに決まってるじゃないか」なんてこと。
 ぼくも昔はそう思っていたけれど、今は少し違う。
「最初からまともに生きている奴」というのは、「最初からまともに生きるための環境を与えられた人間」であって、誰もがそれを標準装備しているわけではないんですよ。
 中にはやっぱり、どうしようもない環境で育って、犯罪者になっちゃう人間ってのがいるんです。そこから抜け出して更生できたなら、その人を持ち上げたっていいと思う。
「親からの愛情」とか「周囲からの優しさ」とか、多くの人が当たり前に得られたものを、得られずに育った奴だっている。基本のOSをインストールできないままに、社会に放り出された人間だっている。そういう人が更生したなら、それはすごく尊いことです。

 そんなことを考えさせる、ラストまで見逃せない作品です。
 素直に面白く、面白さ以上のものも宿している。
 素晴らしいお手前でございました。


新左翼の惨劇が、ぼくたちを暴く
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 正直なところ、長尺の映画というのが苦手です。2時間を超えると長く感じるし、1時間50分以内に収まるようなくらいが体感的にはちょうどいい。本作を見始めてから、うわあ、3時間もあるのか、途中で止めて二回に分けて観ようかな、などと思っていたのですが、いやはや、一続きで観られました。

 映画の内容はといえば、まさにタイトル通りのものです。新左翼の引き起こしたこの事件には興味をそそられるものがあります。あさま山荘事件よりも、その前に起きた山岳ベース事件のほうが衝撃的だと個人的には思います。新左翼とはいかなるものか、あるいは日本の左翼とは、リベラルとは、みたいな話をし出すとまたうるさいので、映画の中身に入りましょう。
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 共産主義革命を目論む過激集団が各地でテロや強奪事件を起こし、警察からの逃亡を図って山岳地帯にアジトをつくります。しかし、やがては身内同士の殺し合いに陥り、革命どころか内部崩壊。警察から逃げ延びた一部メンバーがあさま山荘事件へと至るのです。
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登場人物の役名は誰も実在の連合赤軍のメンバーで、坂井真紀がその一人を演じています。坂井真紀は当時30代半ばでしょうけれど、20代半ばの大学生を演じても違和感がありませんでした。坂井真紀は幼顔美人としてすっと収まり、本作ではたいへんな役を演じています。
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 映画のタイトルとなっている「あさま山荘事件」は当時の日本で大注目を集めた事件。しかし本作の見所はむしろ「山岳ベース事件」のほうでしょう。あさま山荘のほうよりも、犯罪心理学や社会心理学の例として見るべきものが多いように思います。ぶっちゃけた話、あさま山荘のほうはもう追い詰められきっていますからね。犯人たちの特殊性があまり感じられないというか、追い詰められた人間たちがどうしようもなくなって引き起こしたものでしかないようにも思う。
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 他方、山岳ベースのほうは非常に興味深い。(本人たちとしては)高い志をもって結集したはずなのに、最終的に最悪の同士討ち、独裁的地獄に陥ったのです。革命を叫びながら苦境をなんら打破できず、互いに潰し合っていく。「自分たちの目標が達成されないのは、駄目な人員がいるからだ」と破壊的な結論を導き、自らの手足を喰うがごとくに破滅へと向かう。
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 山岳ベースのくだりは夢中で観ましたが、映画の力というより、事件それ自体が持つ恐怖のためだなとも感じます。ぶっちゃけて言うと、恐怖演出や絶望演出はさほど魅力的ではない。この事件をもっと醜悪に描く監督はまだまだいそうだな、とは思います。わりとプレーンな撮り方というか、観る側に緊張を強いることのないテレビドラマ的なカット割りも多い。実際の山岳ベースの冷たさや狂気みたいなものは、それこそ若松監督の弟子である白石和彌監督なら、もっと濃密に描けそうだなあなどとも思う。『凶悪』の殺人シーンとか、『孤老の血』のリンチシーンなんかは、強烈でしたしね。事件のインパクトを、映画のインパクトが上回ってはいない。いや、これは実在の事件ですし、サービスっぽい演出を控えているなら良心的な判断ではあるんですが、実際の現場はもっともっとひどいものだったろうな、とも感じてしまう。
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 それでも、事件の凄惨さゆえに、目を見張る場面は多いです。
 坂井真紀は最悪の事態を迎えるのですが、そのくだりはこの映画の大きなクライマックスを担っています。あんなのはもう革命でも何でもない、というのは劇中の人物も言っていた台詞ですが、とにかくこの山岳ベース事件は、まったくもって救いようがないんですね。リーダー的立場の森恒夫(地曵豪)、永田洋子(並木愛枝)はメンバーに対し、総括せよ、革命的になれ、真の共産主義者になれみたいなことを言うんだけれど、ほとんどいちゃもんに近いレベルです。そんな細かいことにこだわっている奴に革命なんてできるか、と言える雰囲気ではないところが最大の地獄です。
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 でも、完全に特殊な事件ではないとも思うんですね。結局我々は、「空気」によって支配されるじゃないですか。大きなことでいえば戦争への翼賛体制がそうであろうし、職場や学校などでは理不尽な事態が許容されたりする。それって、空気の産物なんですよね。あの事件のときの山岳ベースは、最悪の空気に支配された空間ですが、ぼくたちと無縁なものではない。学校のいじめなんかにしたって、同じような空気は流れていたりするでしょう。なるほど、書いていて気づきました。ぼくがこの山岳ベース事件に興味を引かれるのは、これが「空気」の問題を大いにはらんでいるからなのです。
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 新左翼は特殊な連中だし、仲間同士のリンチというのもあり得ないような惨劇です。けれど、それをもたらす空気の芽は、ぼくたちの中にも息づいている。集団心理の恐怖とも言えるし、戦争からいじめまで、実に普遍的なテーマでもある。

また、森・永田らによる一連の「粛清」は、「純粋さ」を求めたものでもあるなあと思うんですね。実際は単に、支配欲求に絡め取られた感じも否めませんが、彼らは彼らなりに純粋さを追い求めていたのでしょう。仲間の甘さや弱さ(ブルジョワ的反革命思想!)みたいなものが許せずに、関係をぶち壊す。この有り様もまた、ぼくには人生の中で心当たりがあります。B'zの『LOVE PHANTOM』で歌われるところの「ふたりでひとつになれちゃうことを 気持ちいいと思ううちに 少しのずれも許せない せこい人間になってたよ」みたいな話です。互いを認め合ったり、自分の駄目さに向き合ったりできずに、自分の枠の中にないものを排除してしまった。そんな経験、ないですかね?
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 そうなんです。描かれる森にせよ永田にせよ、ひどい人間なんですけど、彼らが持っているものというのは、誰しもの中にちょっとずつ隠れているような気がするんです。相手を支配したいとか、相手の弱さが許せないとか、それでいて自分たちには甘い感じとか(メンバーの恋愛を糾弾しながら、ちゃっかり恋愛してるあの中途半端さとか)、その部分も揺さぶってくるんです。山岳ベース事件は、人間の暗部を照らす出来事でもある。あの状況で、森・永田に唯々諾々と従ったメンバーは、いわばアイヒマンです。そして、アイヒマンはぼくたちの心の中に潜んでいる。
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 なんてことを考えさせる山岳ベース事件に比べると、そのあとのあさま山荘事件は、あまり深みを感じない(被害者がいるのにこんな言い方は不適切でしょうが)。
 銃をぶっ放したり、警察からの攻撃を受けたりと映画的アクションは織り込んでいるのですが、彼らはもはや立てこもり犯以上の何かにはなり得なくなっている。森・永田の山岳ベースコンビの逮捕劇がまったく描かれないのも寂しい。やっぱりひとつの落とし前として、描いてほしかったなとは思います。また、立てこもった連中に対して、外側から肉親の呼びかけがあるのですが、これもどうも台詞っぽく聞こえてしょうがない。犯人を説得しようとする家族の喋りが、流暢すぎて質感がない。「俺たちは勇気がなかったんだ!」と終盤で犯人の一人がくどくどしいまでに絶叫するシーンにしても、たいへんな事件を描いた3時間の映画で最後に出てくる台詞がそんなものなのかな、と残念な部分もありました。
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まあ、実際のところ、あさま山荘に来てしまった犯人たちは、何かをまともに考えられる状況ではなかったんだろうなあと思いますね。山岳ベース事件というとんでもない出来事に加担し、巻き込まれ、警察に追われまくって革命どころじゃなくなって、引くに引けないけれど政治的主張とかもうそんな場合じゃない。
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個人的には、あさま山荘のくだりは半分蛇足でした。山岳ベースをもっと細かに描いたあとで、あさま山荘へ進むまでで終わってくれてもよかったし、なんなら山岳ベースで3時間描いてくれていればもっと濃密だったんじゃないかとも感じます。

 ともあれ、60年代当時の実際の映像なども含め、見応えのある映画には違いありません。坂井真紀の体当たりな演技を称揚しつつ、今日はこれまで。 


ダンスシーンで他国映画をぶち抜いている。
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 原題『Muthu』
 大学の頃にインドへと一人旅に出たことがあって、それ以来かの国には愛着を覚えているのですけれど、インド映画というのはなぜか観る気がしなかったのです。若かりし頃を思い出して切なくなるから、というわけでは決してないのですけれど、どうも敬遠していたふしが否めない。サタジット・レイの作品なんかは観たりしたんですが、気づけば日本やアメリカ、韓国映画ばかりを観るようになり、それもどうなのかねとあらためて自問。長年の禁を破り、手を出してみました。
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 日本公開は98年で、当時はそれなりのブームを巻き起こしたようですね。テレビ番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ』で、「ナトゥ」というパロディをやっていたのを覚えています。それで知って以来、ずっと頭に残っていたものであります。
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 インドは映画大国でありまして、ムンバイを中心とする「ボリウッド」という言葉も広く知られています。一方、本作『ムトゥ』は、コダンバッカムを中心とする「コリウッド」に属するもののようです。インドといえばヒンディー語が代表的な公用語でありますが、本作は南部のタミル語圏でつくられており、タミル語圏の映画を「コリウッド」と称するらしいです。

 ラブコメディ調のストーリーで、途中に挿入されるダンスシーンが大きな特徴であります。ミュージカルというジャンルにはめっぽう暗い人間で、好き好んで観ることもないのですが、本作の歌とダンスはとても愉しく、ストーリーが進む中においても、早く踊ってくれと待ちわびながら観ていました。
 
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 主演のラジニカーントという人は、日本や欧米の映画を見慣れている人間からするといわゆる「イケメン」ではなく、公開当時も45歳。いかにもおっさんっぽい風貌なのですが、インドでは大スターの俳優らしいですね。役所広司やソン・ガンホ的な人気なのでありましょうか。一方、ヒロインのミーナという人は、若く綺麗な女優さんです。公開当時は19歳。45歳と19歳の恋愛譚というと、昨今の日本では何かと物議を醸してしまいそうでありますが、その辺はお国柄や映画の雰囲気もあって、オッケーということでありましょうか。
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 ところで、インドの美人さんというのは、欧米の白人とも東アジア系とも違う独特の美しさがあってたいへん魅力的であります。大きな目を強調し、パリッとしたメイクを施しつつ、鮮やかな色彩のサリーをまとうその様は、他の人種や民族、文化と異なる艶やかさを称えている。「インド・ヨーロッパ語族」の概念があるように、インド人はヨーロッパ人と人種的な近しさを帯びているようですが、アジア的な有色の血もそこに混ざっており、この「ヨーロッパとアジアのいいとこ取り」な美人の感じが、ぼかあ好きだなあ、うむ。
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 サリーという民族衣装がまたいいじゃないですか。そりゃあ日本の和服だっていいし、チマ・チョゴリとかアオザイとか、あるいはアフリカ系の衣装なんかも素敵だなあと思うけれど、ぼくはとりわけサリーに惹かれます。インド人女性の美しさと非常にマッチしているなあと、惚れ惚れするのであります。
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 ああ、インド愛が漏洩した。
 本作の魅力はやはりインドの持つエネルギッシュな良さを抜きには語れぬものでありましょう。映画それ自体で言うと、昔の香港映画のような雑なノリも結構あります。欧米的な洗練はないけれど、その分エネルギーで押し切っているのがよいです。アクションシーンとか、馬車のカーチェイスシーンなんかもふんだんに織り交ぜ、困ったら踊れとばかりに長尺のダンスを仕込んでくるのも愉しいのです。

 
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 ぜんぜん内容を語ってないじゃないかと気づいたので説明しておくと、主人公のムトゥは大富豪の家の使用人です。家の主人・ラージャーの結婚相手探しが、話のとっかかりとなります。ラージャーとムトゥは旅芸人の演劇を観に行き、そこでヒロインのランガと出会います。ラージャーはランガに恋をするのですが、ランガはムトゥに惹かれるようになり、ムトゥもまた彼女と相愛に。その関係が後半、とある展開を招き、とある秘密を暴くことにつながっていくのです。あ、下の写真の白髪の人は、主人じゃないですよ(ある重要人物ではありますが)。
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ランガの一座が借金取りに追われ、ムトゥは彼女を連れて逃げ出すのですが、この道中が劇中でいちばんワクワクするところです。主人公とヒロインが、自分たちがどこにいるのかもわからぬままに逃げ回り、その過程で関係を深めていくようすが愉しいのです。
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 ただ正直なところ、2時間45分はちょっと長くも感じました。手紙をめぐるコメディシーンなどは面白くもあったけれど、細々とだらつくところもあるし、クライマックスの構成なども、時間配分的にどうやねんという部分はあります。しかし他方、ただ踊りが愉しいだけのラブコメディではなく、終盤ではひとつの物語的な仕掛けを施したりもしていて、きっちりと作り込まれた作品であるなあと好もしく思いました。願わくば、最後はみんなで歌って踊って大団円、にしてほしいところではありました。わりとまじめに展開させてラストを迎えるので、どうせなら何もかもを忘れて踊りまくってほしかったなあというのが、個人的な感想であります。

「踊るマハラジャ」と邦題がつけられているように、この映画の魅力の相当部分はやはり、ダンスの場面にあるなあとも思います。ラブコメ的な脚本とか、シリアスなシーンとかでいえば、やはりこの当時の欧米の洗練には及んでいないんです。そういうものが観たければアメリカ映画を観るよ、とも思う。けれど、雑であろうとやっつけちゃう東映映画的エネルギーを保ちつつ、欧米や日本とは異質な手触りのダンスシーンを見せつけられたら、細かいことはいいじゃないかという気分になる。仮にこれが、ミュージカル的要素のない普通のラブコメ、普通の貴種流離譚であれば、「ああ、インドでもそういう映画をつくっているんだねえ」で終わりそうなんですけど、ダンスシーンの快楽で他国をぶち抜いている。ミュージカル系の映画でお薦めは? と訊かれたら今後、まずこれを挙げようと率直に思います。森林や田園の風景も込みで、映像的な愉しさもある。やっぱりインドという国は好きだなあとあらためて感じ入りました。

 細々とした感想など、あまり要らない気もします。
 そのエネルギーを感じながら、観て愉しめばよろしい。
 お薦めであります。
 


ぬるく笑いたいときにはいいのかなと。
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 振り返ってみるに、三谷幸喜監督の作品を取り上げたのは『ザ・マジックアワー』(2008)以来で、実に10年以上が経っています。三谷幸喜は大好きな脚本家なので、いくつかを除けばテレビドラマも映画も一通り観ています。
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さて、政治を扱った三谷作品と言えば、フジテレビ系の連続ドラマ『総理と呼ばないで』が思い出されます。あの作品に似通っている設定だったり小ネタだったりが随所にありますね。「ミスしらたき」のシーンは、あのドラマのファンをにやりとさせる演出でございました。メインの設定においても、「史上最低の支持率」であるとか、「夫婦仲が悪い」などは、あのドラマと同じです。そして個人的には、あのドラマのほうが好きです。三谷幸喜のコメディと、フジテレビとが幸福な関係を結んでいる時代だったなあと思い出されるのでした。
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中井貴一扮する黒田総理が投石に遭い、その影響で記憶をなくしたところから話は始まります。冒頭、病院から抜け出してふらふらと街をさまようのですが、この時点で話のリアリティラインが決まりますね。ほかの三谷映画にも言えるのですが、「そんなことありえねえだろ」と思って観てはいけないんです。三谷作品に辛辣な評をぶつける向きもあるのですが、彼の作品は「三谷的世界観」を受け容れたうえで観るのがよいのです。
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 大河ドラマの『新選組!』や『真田丸』では、歴史のシビアなやりとりなどを描く三谷幸喜ですが、実際の政治についてはノンポリというか、特に関心がある人ではないでしょう。『総理と呼ばないで』にしても、彼は政治劇を描きたいというより、「ロイヤルファミリー」を描きたかったのだと、何かで読んだ記憶があります。周りに人々を従える主人公と、王宮的空間。そこを舞台にコメディをやってみたいというのが強いのでしょう。本作でも、政策うんぬんとかそういうのはほぼ出てきません。安倍総理、ないし現代の政治への風刺みたいなのは別にない。あったとしても薄味で入っているだけです。

 話全体としていうと、推進力はいささか乏しい感があります。話を進める基本的な要素としては、「謎」と「目的」というのがあるのですが、本作はどちらも薄い。話を進める動機付けとして本作にあるのは「欠損」ですね。総理として支持されていないという欠損。家庭がうまく行っていないという欠損。この欠けたものを獲得する/回復するのが方向性になります。観終えてみれば、一応どちらの欠損も解決しているのですが、置きに行った感も否めません。
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この記事もまた、先ほどからぬるぬると進んでいる感が否めないわけですが、どうも評しづらい映画というか、激賞すべきポイントも批判すべきポイントもないかな、という具合なんですね。可もなく不可もない。三谷幸喜のコメディを観たいな、と思っている観客が、観終えたあとで「うむ、三谷幸喜のコメディを観たな」と落ち着き、「さあ買い物でも行こうかしら」と次の行動に移れてしまう。そんな作品と見受けました。

「ガチであれこれ言っても悪いなあ」感があるんですね。クライマックスは、石田ゆり子扮する総理夫人へのメッセージなのですが、これも『総理と呼ばないで』のほうがよかったんでねえ。それに今思えば、『総理と呼ばないで』のほうがぐっと来るものがあったというか、落ち着きどころとして痛快な感じもあったんです。本作は、総理大臣が記憶を失ったのをきっかけに良い総理になっていき、結局ハッピーエンドでしょう。そこに至るまでの葛藤も希薄なのですねえ。
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そう、「全体を通して葛藤が希薄」というのが大きいかもしれません。何もかもがとんとんうまく行っちゃうんですよ。それまでとは人格の変わった総理に周囲が戸惑いつつ受け容れてもらって、正直な発言をすればアメリカ大統領に褒められて、敵役たる草刈正雄のしっぽも簡単につかめちゃって。主人公に面白みがないんです。『総理と呼ばないで』の田村正和はクソ総理なんです。徹頭徹尾が自分勝手だしセクハラもするし。そのクソっぷりが面白く、けれどもそのクソ総理がようやく終盤になってから、真面目に政治を学びたいと思うようになる。その変化に感動があった。
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 今回も出てくるんですよ。政治を一から学びたいっていう同じ流れが。でも、そこまでにクソっぷりが描かれていないから、対比にもならない。そして、緊張感もないんですね。悪い一面をあまり描いていないから、「この総理はまたもとに戻っちゃうんじゃないか」と観ている側を緊張させてくれることもない。

 最後のスナイパーのくだりに、この映画は集約されているのかなと思いますね。草刈正雄がスナイパーを送り込むのですが、そのやり方がもうコントチックなものでしかない。あのくだりをぬるく笑うことが、この映画を観るうえでの正しい態度なんです。そして現に、ぼくはぬるく笑っていたので、それでいいです。こうして細々と論評しようということ自体、間違いでありましょう。

 ともあれ、嫌いな映画ではありません。ことメジャーシーンにおいて、古き良きコメディの味わいをくれる作り手は唯一、三谷幸喜だけです。「お子様からお年寄りまで、みんなが安心して笑えるコメディ」をおまえはつくれるのかと言われれば、到底無理です。テンポもいいし、ぬるく楽しみたいときにはいい作品だと思います。

 ただやはり、同じ総理ものであれば、『総理と呼ばないで』のほうがずっといいぞ、ということだけは、申し添えておきましょう。


アメリカ社会の周縁部、基底部の問題
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 アメリカ北西部のワイオミング州に、ウインド・リバーというインディアンの居留地があり、そこで起きた実際の事件から着想を得てつくられた作品、だそうです。
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 コートニー・ハント監督の『フローズン・リバー』(2008)とか、あるいはデブラ・グラニック監督の『ウィンターズ・ボーン』(2010)など、「アメリカ社会の深部」にスポットを当てた作品というのは、なかなか興味深いものが多いです。アメリカといえば今年の「ブラック・ライブズ・マター」運動に象徴される黒人差別問題がわかりやすくクローズアップされますが、低所得層の白人やインディアンもまた、苦境に立たされているのです。
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 野生動物管理の仕事に当たるジェレミー・レナーが、インディアンの少女の死体を雪山で発見。他殺の可能性ありとして、FBI捜査官のエリザベス・オルセンが派遣され、二人を中心とする捜査活動のようすが描かれます。
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 ネット社会に暮らせてよかったなあと思うのは、こういう映画を観たときに、映画の背景を調べられることですね。インディアンの住む居留地というのは、行政の機能が十分でないところが多いようなのです。この映画で描かれるのはひとつに治安の不備。広大な区域にごくわずかな警察しか配備されておらず、たとえばレイプ事件や失踪事件などについてもろくろく解決されていない状況があるようです。
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 仕事もろくにないものだから、インディアンの若者たちは賭博やドラッグに明け暮れてしまい、さらなる治安悪化のスパイラルが生まれる。そんな「国に取り残された人々」のようすが、寒々とした雪景色の中に立ち現れてきます。
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インディアン(ネイティブ・アメリカンという呼称もありますが、ぼくはこちらを用います)のイメージというと、いちばんメジャーなのは、羽根飾りをつけて裾の長い衣服をまとったような姿かもしれません。けれどこの現代、インディアンの誰しもがそんな格好で暮らしているわけではない。いわゆる「洋服」を基調としたファッションをしているし、ほかのアメリカ人と同じような暮らしをしている。それでいて、白人に対する敵愾心みたいなものも拭えずにいるのかもしれません。劇中では、「白人め!」と罵る台詞も出てきます。
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 映画の序盤で、路傍のアメリカ国旗が、上下反対に掲げられているのが映ります。白人が建国し、白人がマジョリティと化しているアメリカ社会への反発が序盤で示される。人種問題で取り沙汰されるのは黒人であることが多いですが、インディアンは先住民でありながら、黒人以上のマイノリティです。インディアンは黒人に対してどのような思いでいるのかも興味がそそられるテーマです。本作で、黒人は登場しませんが。
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 映画の内容に戻りましょう。
 序盤で発見される女性の死体。死に追いやった人間は誰なのかと探る中で、彼女の恋人に焦点が当てられます。石油採掘地の警備員をしていた男です。しかし、その恋人もまた死んでいるのが発見されます。エリザベス・オルセンら警察チームは、彼の住んでいた家を訪れるのですが、ここで悶着が起きます。
 彼の同僚だった警備員たちがなぜか敵愾心あらわに、銃を向けてくるんですね。
そして、クライマックスで大事件が発生します。
 細かいことは、まあ話さずにおきましょう。
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 作品の中身はもとより、その社会のありようや背景に目を向けたくなる作品だなあと思います。序盤や中盤はちょっとだるい部分もありました。ジェレミー・レナーが息子と戯れる冒頭シーンとか、彼の過去とかが語られる場面とかは、少々間延びして感じられた。息子は結局、物語に何にも絡んできませんし、レナーの過去を切ってもこの映画の重要な部分には影響がない。レナーの娘の死を語ることで、捜査に取り組む彼の思いがよりわかりやすくなる、という側面はあるのですが、それならいっそ、息子とか別れた妻とかのくだりをばっさり切って、死んだ娘の描写を入れた方がいいんじゃないか、とも思いました。ああ、でも、それだとわかりやすすぎるのか。ある程度迂遠な描き方をして、人物像を複雑にしたかったのか。うーん。ただ、レナーの娘がぜんぜん現前化してこないもんでねえ。ここは韓国映画的なわかりやすさを取り入れてくれたほうが、ぼくとしては好みだったという話ですね。まあいいや。
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 都会は人口が多いから犯罪も多いけれど、その分だけ警察の体制もしっかりしている。一方で、田舎は警察の目がなくて、統計に表れない犯罪も多いというのは、アメリカに限らず言えることかもしれません。自然が多くてゆるやかな空気の田舎、というのはひとつの側面に過ぎず、人口が少ない場所だからこそ起きる問題が山ほどあるのですね。とりわけ本作はインディアンという、アメリカ社会の周縁に追いやられた人々についてですから、「地方が抱える問題」+「民族問題」のハードテーマ。
 黒人差別ほどわかりやすく取り上げられない、アメリカの深部を描いた映画として、興味のある人にはお薦めするものであります。


原作ほどの振れ幅には、至れていないかなあと。
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 古谷実の漫画はけっこう読んでいるほうです。『行け! 稲中卓球部』と『僕といっしょ』は未読なのですが、『グリーンヒル』以降の『ヒミズ』~『サルチネス』までのところは大方読んでおります。伊集院光さんが昔、ラジオで、「えらく都合のいいラブコメディの横で、ずっと死のにおいがし続けている」と評していて、まさにそのバランス具合が非常に面白い。あまりにも甘い軸と、あまりにも苦々しい軸の両極端で展開する話が、読む者を飽きさせません。
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 さて、『ヒメアノ~ル』です。
物語の軸を担うのは、濱田岳演ずる岡田青年の恋愛譚と、森田剛演ずる森田のダークな挙動。全6巻の漫画を100分未満の映画にしているため、かなりの要素がオミットされており、クライマックスも改変されています。
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岡田青年は、ひょんなことから、佐津川愛美演ずるユカちゃんと付き合うことになるのですが、このラブパートの運びは原作同様、ドキドキさせるものがありました。言ってみれば、嘘みたいに都合がいいんです。岡田青年は清掃会社のバイトで、見た目的にも冴えない。そんな彼がかわいこちゃんに好かれ、トントン拍子に童貞を捨てちゃうなんて、言ってしまえばリアルじゃない。けれど、このトントン拍子はそれ自体、緊張感にもつながるんですね。佐津川愛美も、最初はなんか微妙な美女感だなあと見えていたんですが、だんだんと可愛く映ってくる。おいおい、こんなに順調でいいのか、どこかでけつまずくんじゃないか? 「信じられない幸せ」は暴落と隣り合わせです。その裏で、森田がうろうろしているし、ムロツヨシ扮する変な先輩、安藤さんもなんか怖い。このバランス感覚をつくりだす古谷実はすごいもんだなあと、原作の感動を呼び起こしたものです。
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惜しむらくは、安藤さんの物語がほとんどそぎ落とされたことです。安藤さんは安藤さんであれこれと思い悩み、恋愛戦線に飛び出していくんですが、あいにく本作ではそこが削られている。偏屈な醜男が否応なく人の愛を求める姿は、岡田青年の恋愛以上に切実に映ったものです。まあ、映画というパッケージだとやむを得ないかなと思いつつも、あの安藤さんが原作で果たした役割は相当大きかったので、やや残念でありました。
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うん、「原作と比べて」みたいなことを考えるとよくないのかもしれないですね。ぼくはわりと内容を忘れており、観ながら「あー、こんなシーンあったなあ」と思い返していたのですが、それでも原作が持つ不気味さは頭に残っていて、その残像には至れていなかったなあと思う。ちょっと食い足りなさは残る。
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 タイトルの出し方なんかは面白いんです。
 恋愛パートが、ひとつの「絶頂」を迎えたとき、開始40分のタイミングでタイトルが出て、まがまがしさが際立ってくる。主演を務めたのは森田剛で、いい具合に汚れてるなーと思いながら観ていました。けれど、そうは言ってもV6、カミングセンチュリー。なんかちょっと格好良さあるやん、な部分もちょっとあったかな。
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原作の森田同様に、「やばいやつ」なんですね。人生に絶望しているというか、何の希望もなく生きているようなやつで、平気で人を殺しまくる。ただ、原作の森田が持っていた「底知れなさ」というか、どうしようもない不気味さみたいなものについては、個人的にもっとほしかったなあとも思う。高校の頃にひどいいじめに遭っていたという設定なんですが、森田剛はやっぱりワイルド系イケメンのにおいが残り、いじめられっ子の香りがないんです。
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 いや、それでも、森田剛は名演であったとも思います。ぼくはV6のメンバーとしてしか捉えていなかったので、頬のこけた感じとかやさぐれた感じは意想外によく見えたし、あの難しい役を演じきっていたと感じました。その点は必見だとも思う。うん、森田剛はダークな役がはまるんだなあと、映画関係者は目を見張ったんじゃないでしょうか。
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 古谷実の絵柄って、人間の不細工さとかみすぼらしさみたいなのを、とてもうまく描き出していると思うんです。その意味で言うと、途中で出てくるおブスちゃんはいいんですよ。原作に負けず劣らずのいい感じのおブスちゃん。ああいう醜さが、古谷実漫画の実写版には期待したいものでありました。森田剛では、やっぱりちょっと格好よくなってしまう。どうしようもなくコミュニケートできない、という風には見えなかったんです。
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宇多丸さんは映画を評し、「原作というより、原案というくらいのほうが適切ではないか」というようなことを言っていましたが、クライマックスもそうですね。まあ、映画的にまとめるにはああするしかないんです。岡田青年と森田が交わるようにしないと、映画的にはしまらないとは思う。ただ、ああするとなんかどこか、底が見えてしまうというかね。原作の森田は幻覚さえ見てしまうようになるんですが、その辺の要素はオミットされていて(そういえば園子温監督の『ヒミズ』でも、幻覚の描写はなくなっていました。映画監督的には切りたくなる要素なんでしょうかね)、内面もあまり描かれない。佐津川愛美をレイプしに行く、というのは映画のクライマックスとしてはわかるけれど、それをいざ描いてしまうと、なんだか森田が小さくなってしまう気もしました。「どうしようもなくこの世界に適合できなかった奴」という、哀しいモンスターの香りが失せてしまう。
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 ラブコメパートと殺人者パートを交互に描く、という古谷実の持ち味を映像化したのは面白い試みではあるし、それはある程度奏功しているようには思う。一方、森田の哀しさというか、「何のために生まれてきたんだ?」とさえ問いたくなるような絶望感は、物足りない。古谷実の漫画が描き出す独特の乾いた(それでいてひどく湿った)風景を映画で表現できていたかというと、そこには疑問符が残る。
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 何を期待するか、という部分が大きいのかなとも思うんですね。
 映画を観て、それから原作をぱらぱらと読み返してみて思ったんですが、ぼくはこの原作漫画に、「どうしようもなく人生に絶望し続けている奴」の迫力だったり、懊悩だったりを求めていたんです。その部分に魅せられていたんだなと気づく。
『家族ゲーム』を評したとき、「クソつまらない風景の面白さ」について考えましたが、たとえば森田が抱く人生への「クソつまらなさ」をもっと観たかった。自分の人生はクソつまらない、けれど生きていくしかない、生きていく上で邪魔な人間は殺す、殺し続けるけど結局満たされはしない、どこまで行っても灰色、みたいなその絶望感、拭いようのない徒労感や倦怠感。そこにある文学的なものを感じさせてくれたのが原作だった。その重みがあればこそ、「できすぎ恋愛パート」も活きていた。
 うーん、原作が持つ両極端の良さ。その針の振れはなかったかなあと。

観ながら思ったんですが、この森田という男は、たとえば「サイコパス」なんかとも違うんですよね。映画でも漫画でも何でも、サイコパスという概念が大いに流行したけれど、森田はそれとも違う。うまく生きることもできないし、社会と調和することができない。なんというか、「どうしようもなく、生きている」感じ。そこがもっとほしかった。そのどうしようもなさはきっと、岡田青年たちとの対比によって、まざまざと表現し得た。ぼくが感じた物足りなさは、その部分にある。

 森田剛は無軌道に人を殺しまくるんですけどね、そこは映画的刺激として十分だったんだけれど、「映画的刺激」以上の重みは見いだせなかったなというのが、正直なところであります。一話完結型の映画というメディアよりも、ドラマなんかでやればもっと面白かったんじゃないかとも思いますね。それこそNetflixあたりでつくられたら、ぼくはぜひに観てみたいと思う。という具合で、今日はここまでに。


クソつまらない風景の面白さ
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 再見シリーズ。これもまた10年以上ぶりに観返したものです。
 この前、『普通の人々』を取り上げ、どうもぴんと来なかったと述べましたが、こちらは結構愉しく観られました。家族というテーマになると、やはり日本のもののほうがすっと入ってくる。ドメスティックな感性の持ち主です、はい。
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 松田優作扮する家庭教師が、団地暮らしの家族に雇われ、次男坊の高校受験の指導をします。ストーリーらしいストーリーはないんですね。日々における家族のやりとりとか、学校の風景なんかが描かれる。80年代的な風景を愉しむにもよい映画でしょう。
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 この映画が今日まで語り継がれる理由のひとつにはやはり、パッケージにもあるとおりの奇妙な食卓風景です。これは「お互いに向き合おうとしない家族」を表現していると言われるようです。面白いのは、劇中でこの食卓のあり方に何のエクスキューズもないところですね。何かしら理由をつけたくなるじゃないですか。それこそ外から来た松田優作に、「なんでこんな食卓なんですか」とか尋ねさせることもできる。でもそれをあえてしないところが面白い。観る者は、奇妙な光景を奇妙な光景のまま捉えて解釈するしかない。
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 『家族ゲーム』は日本アート・シアター・ギルド(ATG)後期の傑作とされているのですが、このATGというのは、東宝系エンターテインメントのような映画とは一線を画したアート系作品をつくる試みの会社です。一見すると危なっかしい、けれど監督の作家性が伸びやかに表現された作品が多くあり、『家族ゲーム』の食卓の描写は、その象徴といえるかもしれません。
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 宮川一朗太扮する次男坊が、映画の主軸を担うのですが、男子中学生のどうしようもなくしょうもない感じが出ていてとてもよいですね。考えてみると、男子中学生というのはある意味、世間的にいちばんどうしようもない年代かもしれません。小学生のように無邪気ではいられないし、高校生ほどには自由もない。学校と部活、高校受験などに追われながら、反抗期やらニキビやらに苛まれ、そんな自分をどうすることもできずに悶々とする。その姿がよく描かれていたなあと思う。
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 適度に気持ち悪いのも美点です。松田優作と国語の勉強をするとき、教科書の知らない単語を書き出せと指示されるのですが、一朗太は「夕暮れ」という文字をノート一面にびっしりと書き、「夕暮れを完全に把握しました」とか言っちゃうんです。しょうもないし、気色悪いんですよ、自分の教えている生徒がそんなやつだったら。でも、そのどうしようもない感じはなんだかわかる。
 あと、母親の由紀さおりに、「生理が始まったのはいつ?」とか迂闊に訊いちゃうとかね。性に興味を持ち始めてはいるけれどよくわかっていない。そんなことを母親に訊くのは恥ずかしいだろ普通、とオトナは言うけれど、その普通がまだインストールされていないあの感じ。そしてその気持ち悪さ。いいですねえ。

 気持ち悪いのでいうと、伊丹十三扮する父親がいい感じです。
 あの目玉焼きの描写もいいですし、息子との向き合い方がうまくできていないあの具合。家庭教師と勉強している息子の部屋に踏み入るのですが、かといって何をしてやることもできず、松田優作にそっと外へ促されたりするあの様子。
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細かいところを挙げていけばいくらでも語れそうです。戸川純と由紀さおりのシーンのなんとも言えない異物感もそうです。あのシーンだけ唯一、食卓を普通の形で用いて、向かい合って話しているんですね。戸川純だけが、母親にとっての「外部」として描かれるんですけど、それ以外で母親が外とふれあう機会はほぼない。息子の志望校を変えるために学校に相談するときも、松田優作に頼っちゃうくらい。母親は家族の中で見れば一見常識人なんだけれど、やっぱり閉塞感を抱えていて、その気持ち悪さがとてもよい。

 全体を通して、「クソつまらない日常」の感じがぷんぷん漂っているんですね。優秀な長男坊は高校生で、好きな娘の家で仲良くなってみたりするんですけど、結局その子にも彼氏がいるのがわかり、プレゼントすら渡せずにどうしようもない。長男にせよ次男にせよ、学校の風景がつまらなそうでいい具合なんです。「学校がつまらない」という露骨な描写はないんですけど、あの授業の風景とか、放課後に空き地でいざこざが起きる場面とか、「あーこいつらつまんねえんだろうなあ」というのが色濃く描かれている。
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うん、ぼく自身がつまらない学生生活を送っていたのも大きいように思いますね。とりわけ高校はちっとも愉しくなかった。だから、高校を舞台にした溌剌たる学園ムービーなんかを見せられても、絵空事にしか感じない。でも、こういうクソつまらない学校の風景を出されると、「あー、そーだよなー、わかるでー」と思ってしまう。
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今の中高生がこれを観たらどうなんでしょうね。今の子もそれなりにつまらなさを抱えているとは思うけれど、この映画の時代よりは娯楽も多いし、スマホひとつでいろいろできちゃったりするから、また違うのでしょうかね。でも、スマホで時間を潰すつまらなさみたいなものは漠然と感じているのかもしれないし、現代版の『家族ゲーム』を観てみたいですね。あ、2013年にテレビドラマ化されているんですか。櫻井翔主演で。ウィキペディアであらすじを見ると、「“東大合格率100%”と謳っているスーパー家庭教師」みたいなことが書いてありますね。うん、そういうんじゃないんだよな。いろんな事件が起きる連続ドラマとか、そういうことじゃないんだ。日常のつまらなさ、のほうが面白かったりするんだ。
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 そのクソつまらなさの中で、あの「最後の晩餐」が光りますね。次男坊が高校に受かった祝福の食卓なのに、家族はまだ向き合えていないし、小さないさかいでもつれている。その最中で、松田優作がめちゃくちゃな行動を取りだしてしまうあのシーンはやはり白眉で、ああいうシュールな光景というのは小さくも大きな映画的快楽です。
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 壊れた家族が再生する話とか、あるいはその逆とか、そういう家族ものもいいんですが、本作のように、「どこまでもなんとなく続いている家族」の姿もまた面白いものです。家族というのは考えてみればそういうものです。ハッピーエンドとかバッドエンドがあるわけではなく、「その家族だけが持ち続ける日常の姿」というのがあって、ラストのまどろみのシーンなどは締め方としていいですね。「家庭教師の出現で、家族に変化が起きる」みたいなのは絵空事。いなくなればまた、日常が戻る。家族というゲームをなんとなく続けていく。
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 とても独特の風合いを帯びた映画であります。「家族の素晴らしさ」みたいなものをまったく照射しようとしていないし、家族のしがらみなんかを批判するわけでもない。そのぬらりとした雰囲気を、味わってみるのも一興でありましょう。 


視聴者を牽引する、その意気やよし
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 Netflixで何気なく見始めたらけっこう引き込まれ、完結の10話まで数日で観ました。
 小松左京の原作小説は未読でありまして、1973年の映画版は観たと思うのですが記憶がほぼない。その後のリメイク等々はスルーしておるので、新鮮な目線で観た人間でございます、はい。
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原作や映画版では、行政府や対策チームなどのサイドから話が描かれておりますが、一方の本作では、ひとつの家族に焦点を当てて物語が展開します。大地震をきっかけにそれまでの生活が崩壊し、日本列島自体が海へと沈んでいく。その中をいかに生き抜くか、というサバイバルの模様が描かれるのです。
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Netflixの湯浅監督作品では『DEVILMAN crybaby』が記憶に新しいところですが、あの作品よりも『日本沈没2020』のほうがぼくは好きかなあと感じます。話のテンポが早くて、観客を引っ張り続けてやるぞという意気が全話を通して漲っています。細緻な描き込みよりも、むしろ省略の味わいがある湯浅監督作品ですが、そのタッチはどこか、昔のディズニーアニメに通ずるものがあります。

 さて、内容ですけれども、なにしろあれこれとエピソードがありまして、ひとつひとつについて語るのはたいへんです。また、未見の場合は是非とも、事前情報の乏しいままに観てもらうほうがよいでしょう。いろいろとショック演出が仕掛けられているのもあり、それらの多くが効果的でもあった。まずは1話と2話を観てもらえば、先が気になるようにうまくつくられているのがわかるでしょう。
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ただ、これが難しいところで、作品のテンポはすこぶるよいのですけれど、一方でやや早すぎるなあと思う部分も多かったです。
 日本列島自体が沈む話なので、当然たくさんの死者が出て、作中でも重要な人物が死んでしまう展開があるんですが、どうも「タメ」が弱いというか、その死を顧みることもなく進みすぎる部分がある。そこは気になりました。「え? あの人が死んだのにそんな風に先に進んでいけるの?」というね。もっとそこは、取り乱したり沈み込んだりするんじゃないの、と言いたくなる場面がいくつかあった。
 ある人が死んでしまって、「もう駄目だ、助けられない」みたいになるんですけど、そこがものすんごくあっさりしているんです。絶対に助けなくちゃ! とか、せめて埋めてあげよう、みたいなこともない。それで新しい人物が出てくると、後ろ髪を引かれる様子もなく先に進んでしまう。なんだか重みがないんですね。そこはやっぱり、段取りっぽくなってもかまわないから、「後ろ髪演出」がほしい。
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 とはいえ、数々のショック演出をかましていくという方法は、やはり作劇上大いに有効でした。ショックな出来事が機能すると、観ている側は常に緊張感を持ちながら展開を追っていくことになるんですね。この先何が待ち受けているのかと、緊張しながら観続けることになる。途中で、「とても親切な人たち」に出会うんですけど、あのシークエンスも怖さがあるんですね。壊滅的な状況下で、とても親切にしてくれる人というのは、怖いものです。裏に何があるのかと思わせられる。そして、超常的な出来事を組み込んでいるのがこれまたいい感じに不気味です。そこについてあまり説明がないんです。ただ、超常的な出来事をそのように描いている。この辺の、説明の省略みたいなもんも、それはそれで趣深い。
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 タイトルに2020と銘打つだけあって、「多様性」とでも呼ばれるようなものが、意識されたつくりになっています。そもそも、主人公一家のお母ちゃんがフィリピン人なんですね。日本のマジョリティ向けにつくるなら、いわゆる普通の日本人のお母ちゃんでもいいところを、あえて外国人を入れている。そのうえで、差別的な連中に対する批判的な視座も織り込んでいる。
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物語の終盤を左右する重要な人物として、寝たきりの人物が出てきます。指先と瞼以外、一切身体を動かせないおじさんが出てくるんです(なぜそういう状態になったかは語られません)。昨今、ALSの女性に対する嘱託殺人が起こり、物議を醸していますが、本作ではこの人のおかげでいろいろなことがわかり、命を救われたり、主人公の行く道が見えたりするんです。一方で、「とても親切な人たち」のリーダーのところには、自閉症と思しい子どもがいたりする。終盤では、「身体障害」にスポットを当てた場面も出てくるし、トランスジェンダーをにおわせる一場面も組み込まれている。
 単純なサバイバル譚をつくろうとしたら、いずれもカットされがちな要素なんですけど、けっこう印象的に放り込んでくるんですね。この辺には、「令和っぽさ」が強く感じられる。
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 令和っぽさでいうと、とにかくスマートフォンが活躍します。ソフトバンクなりドコモなり、auなりが一枚噛みたがるんじゃないかというくらいに、スマートフォンによってさまざまな場面展開がある。こういうのも昔のサバイバル譚ではあり得ないところです。現代にアップデートされたもの、現代の「デジタル・ネイティブ」たちが素直に受け容れられる形をつくっているのが、なるほどなあ、ですね。この辺の描き方というのは、今後作られていく作品において、さらに重要な部分になるのかもなあと思います。デジタル・ネイティブの捉える世界と、(たとえばぼくのような)非・デジタルネイティブでは、たぶん物事の捉え方や、解決法に対する考え方みたいなものが違う。ちょっとネタバレになってしまうけれど、「一家の父親」でなく「カイト」を牽引役にしたのは、なんだか象徴的な感じがする。
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 リアリティとして捉えたらどうやねん、みたいなことはいっぱいあります。港で大きな船に乗り込むため、人々が並ぶシーンがあるんですけど、あの場面の妙な整い方、妙なスカスカ感は、なんだかプレステ2のゲームを彷彿とさせます(わかるかなあこの感じ)。
 うん、ちょっとゲームっぽいところもありますね。
 あまりにもタイミングよく出来事が起こったり、雑なところを死ぬほど雑に処理していたりする。そういういびつさがあるので、それこそ原作や昔の映画版みたいな、硬派かつ理論的なSFを求めると、まず楽しめないと思います。比較して楽しむ、という種類のものではまったくないような気がしますね。

 連続ドラマとして、次の話に視聴者を引っ張り続けようという意思が強く感じられる作品で、その美点が大きかったなあと思わされる作品です。気になる方は、是非に。

淡々と進む映画は嫌いじゃないのですが。
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原題:Ordinary People

 映画にせよ何にせよ、自分の感度の鈍りみたいなものを感じることがありますね。久しく触れていなかったせいもあり、こういうタイプの作品への感度が鈍ってるなあと、本作では特に思った。アカデミー作品賞・監督賞を受賞しており、高評価の本作でありますが、ぼくは退屈に感じてしまった。体感時間がすごく長かったんです。なんというか、この種の品のよい、繊細な手つきのメランコリックな作品への感度が弱まっているなあと、つくづく痛感した次第であります。
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 ひとつの家族を描いた、実に淡々とした作品です。
 中心となるのは両親と息子。この家にはかつてもう一人の息子、長男坊がいたのですが、その彼は水難事故によって死んでいます。長男の死んだ家庭はどこか冷え冷えとしてならず、父、母、息子それぞれの心のありようなんかが丁寧に描かれているわけです。
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ただ、どうも乗り切れなかった。やっぱりあれですね、現代のチューンに慣れきっているんですね僕は。映画に限らずですけれど、メディアは時代を経るにつれ、情報量を増していくものです。音楽にしても、ひとつの楽曲におけるサウンドの情報量は昔よりも多くなっているし、漫画にしても精細な描き込みの作品が増えている。そういう情報過多に慣れ切っちゃっていると、この手の繊細な表現に食い足りなさを感じてしまう。
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 あるいは、味付けの薄さですね。現代人の摂取する食事ってのは濃い味付けが主流でありまして、食材本来のうまみを活かした食べ物に慣れておらず、薄さを感じてしまう。本作にしても、薄味だなあと思ってしまった。これは作品の問題というより、僕の舌の鈍感さだろうなあと思います。味付けの濃い、情報量の多いものに慣れてしまうと、本作のように素朴な作品に退屈を覚えてしまう。いかんいかん、とあらためて思われました、はい。
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これが日本の映画だったら、昭和の家族の風景に面白みを覚えたかもしれないんですが、40年前のアメリカの家族は僕からするとどうにも遠い。家族のあり方というのは普遍的なモチーフではあるけれど、日常生活のあるある感みたいなのはよくわからない。いや、中にはあるんですよ。思いを寄せる女子の家に電話を掛けるとき、息子は、発声の練習をするんですね。格好つけた言い方の練習をする。ああいう無様な感じは世界共通なんだなあと、「あるある」を見つけたりはするんですが、ほかには乏しいんです。そもそも、息子がカウンセリングに出向くところからして、日本人の「普通」とはちょっとずれた感じがする。そこで入りこめなかったんですね。悩みを抱えているけれど誰にも言えない、みたいな中でもがき苦しむわけでもなく、カウンセラーに助けてもらうというのが、物語としての面白みをそいでいたなあと思う。この悩み相談シーンがまた面白くない。
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 関係の冷め切った日本人の夫婦はゴルフに行ったり、ホームパーティに行ったりしませんしねえ。公開当時のアメリカ人には「あるある」かもしれないけれど、その風景の味わいみたいなもんはよくわからない。

基本的に喋ってるだけ、というのも退屈を感じた理由です。たいした画変わりもなく、面白いことを言うでもなく、ただ喋ってるだけなので、このサイズなら100分でいいだろう、123分は要らないなあと感じていました。終始、むにゃむにゃしてるんですね。感情を爆発させる場面もないじゃないけど、たいした盛り上がりがあるわけでもなく、むにゃむにゃしている。
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 終盤で、息子の知り合いの女子が自殺するんですけど、このくだりもねえ。女子の家に電話を掛けたら父親が出て、「娘は自殺した」みたいなことを唐突に言うんです。えらく唐突だし、その女子は序盤でちょっと出てきただけだし、嘆き悲しむ息子は別の女子にあっさり慰められてるし、だいたい自殺の真偽もよくわからないし、なんやねん、と思いながら眺めていました。エピソードのひとつひとつが薄味やなあという感想なのです。

 メリハリのある描き方をするなら、もっとやりようはあるんですね。序盤では元気な長男の姿を出しておいて、第二幕に行く前に長男の死を描いて、そこから家族の崩壊を描くようなやり方だとわかりやすくなるんですが、そのようなわかりやすさはあえてキャンセルしている。序盤から辛気くささ満杯で、なんかもやもやしてるなーという空気感で流れていく。その空気感に乗れなかったんですねえぼかあ。
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 自分の感度の鈍磨を自覚しつつもあえて言うなら、作品としてはやや「対応年数」を過ぎた映画なんかじゃないか、という気がしないでもない。ネットが普及して一人一人がスマホを持ち歩く昨今、孤独というもののあり方とか、家族同士の関係とかもまた変わってきた部分があるだろうし、人間の振るまいそのものも変化を遂げている。家族のあり方みたいなものを描いた作品はその後もどんどんアップデートされている。本作はひとつの「古典」として価値を帯びているとは思うものの、それ以上にそそられる何かはなかったんです。
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「淡々と進む」系の映画は嫌いじゃなく、むしろ好きなものも多いですが、本作については乗れなかったなあというのが大きい。淡々と進む外国作品で乗れないと、なかなか辛いですね。あーもーどーでもえーわー、という気分になってしまう。
観るタイミングも大きかったかもしれません。タイミング次第では、もっと感じ入る部分があったのかもしれないけれど、いかんせん、今回は退屈で仕方なかった。
 高評価の作品でもあるし、面白くなかったのはきっと僕の鈍さゆえでありましょう。
 この辺の感度を取り戻していきたいなあと痛感させられる一本でありました。


『スター・ウォーズ』よりぼくは好きです。
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 世界的に大人気の映画ながら個人的にぜんぜん食指が動かない、という作品をひとつ挙げるなら、ぼくにとって『スター・ウォーズ』シリーズがそれです。壮大な世界観やつくりこんだ設定を持ち、SFにしてファンタジックな名作シリーズですが、どうもハマり方がよくわからない。一作目と、エピソードワンは観ているのですが、よっしゃ二作目三作目という気分にならない。

 そうであっても、アメリカ映画史の新たな局面を切り開いた傑作であるのはわかります。
『スター・ウォーズ』の公開前年、アメリカンニューシネマの時代が『タクシードライバー』をもって終わりを告げ、『ロッキー』がヒットを飛ばします。『ロッキー』はまさしく、うらぶれた世界から脱皮せんとする話でした。それはつまりアメリカンニューシネマが見せてきた…………と能書きが長くなるのでやめましょう。
 ともかく、『スターウォーズ』は『タクシードライバー』『ロッキー』に連なる時代の中で、壮大にして華やかなアメリカ映画を開いた中興の祖といえます。

 そのセンセーションは日本にも轟き、『スター・ウォーズ』みたいな作品をつくろうじゃないかと日本の映画人も一念発起。かくして『宇宙からのメッセージ』がつくられた、ということです。要するに、『スター・ウォーズ』にあやかれ! ってわけですね。『ジュラシックパーク』に対応した『REX 恐竜物語』みたいな感じでしょうか。ちなみに、『REX』も『宇宙からのメッセージ』も、元ネタの映画の日本公開より早く封切りされています。
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 さて、前置きが長くなりましたが、ぼくは『スターウォーズ』よりも本作のほうが好きですね。これは非常に独特の魅力を帯びた作品です。カノジョと観に行くなら『スター・ウォーズ』でしょうが、すれっからしのヤニくさいツレと観に行くなら断然こっちです(誰なんだそのツレは)。
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惑星ジルーシアが侵略者ガバナス帝国に支配され、助けを求めた人々が「聖なるリアベの実」を宇宙に放ち、導かれし勇者たちがジルーシアを助けるため立ち上がります。

 これだけ書くとなんだかとてつもなくアホっぽいですが、『南総里見八犬伝』をモチーフとする本作にはあの石森章太郎も参加しており、東映と太秦映画村の心意気が光る一本であります。
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『スター・ウォーズ』みたいな立派なもんじゃないですよ。ぶっちゃけて言えば、最序盤から「だいじょぶかこの映画」と不安にさせられます。そもそも地球外の惑星なのに、ぜんぜん宇宙っぽくない。惑星の民が集っているようすは完全にスタジオくさいし、敵の基地は「豪華版ショッカー」みたいだし、死神博士の人が老婆として登場するし。
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外国人キャストの声は完全に吹き替えで、日本人の役者と区別なく日本語で会話するというものすごく斬新な描かれ方だし、ナニワ感の強い小汚いにいちゃんが出てくるし、くらしの風景がぜんぜん宇宙っぽくないし、敵のボスたる銀色の成田三樹夫はお殿様感が強すぎるし。
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 この翌年にはあの『機動戦士ガンダム』が放送開始となり、そのつくりこまれた世界観で人々を魅了するってのに、本作では丹波哲郎が地球連邦代表として街角に現れ、「ガバナスとの戦争を止めてくれたまえ」みたいなことを登場人物の一人に言う始末。終盤で活躍する千葉真一もほとんど脈絡なく登場するし、雑なところがものすんごい雑。
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 でもね、ぼかあ好きだなあこの映画が。
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 なんかね、ぜんぜん洗練されてないんですよ。めちゃくちゃ野蛮なんです。その野蛮さがいいんです。愛すべき映画だなあという感じがする。与えられた予算と制作力の中で、ともかくもベストは尽くしたぞ! と胸を張っている感じがする。

 そりゃアメリカさんみたいにはいかないさ、ハリウッドみたいにうまくはつくれないさ、でも俺たちは俺たちにしかできない映画をつくってやるんだ、勢いだけは負けないぞ! という作り手の心意気を感じるのです。
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 それで具体的にどこがいいんだよ、と問われればね、そのキュートさと奇妙さがいいんです。この前年には大林宣彦の『HOUSE』が公開されていますが、あの感触に近いかもしれません。吹き替えで日本語になっているビック・モローと、ちびなロボットがずっと一緒にいるところとかね。なんだあのようすは。あんなの観たことない。ロボットの「ベバ2号」のレトロロボット感、そのロボコン風味は、はっきり言ってC3POやR2D2より魅力的です。ビック・モローが敵の首領のところに向かい、戦争の先延ばしという超重大な交渉をする、という緊張の場面にまでとことこついてきている。そして特に何もしない。あのアホらしさが好きだなあぼかあ。
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 外国人キャストの吹き替えをして日本人俳優と喋らせる、というそのやり方にまずやられました。微妙におブス感の拭えないペギー・リー・ブレナンの声が、古き良きアニメの女性キャラを彷彿とさせるベース音を放っており、ほかでは味わえない不思議な耳心地を覚えます。あんなの変ですよはっきり言って。他の映画ではもっと余計な工夫とかするんですよ。「外国人と普通に喋ってるのはおかしいな、リアリティとして」みたいなことを考えて、まともなやり方を模索するんですよ。でもね、そんな工夫は邪魔だとばかりに突っ走ってるんです。その潔さが好きだなあぼかあ。
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 宇宙空間で素肌を露出してるし、ぜんぜん知らない惑星なのに宇宙服もなしに会話してるし、「SF的リアリティ」なる視点からすれば0点ですよこんなもん。でもね、だからなんだとぼくは言いたい。いいじゃないか、見知らぬ星で千葉真一といきなり遭遇して、これは運命だ、惑星を救おうみたいな展開があったっていいじゃないか。0点をでかでかと書き殴って、これはでっかいマルだ! と叫ぶような勇ましさが好きだなあぼかあ。
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そもそもね、惑星を救う連中がなぜ集まったかと言えば、「聖なるリアベの実」なるものがその人のところにもたらされて、勇者に任命されるんです。それでこの実があればもうなんでも解決されるんです。丹波哲郎に「地球の危機を止めてくれ」となぜかお願いされたビック・モローは、はじめこそ断るんですけれど、この実が光った瞬間にその願いを受け容れるんです。理屈なんかないんだ。実が光ったから地球を救うんだ。
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 何かというとこの実が光って、しっとりした音楽が流れて万事うまくいきます。途中からほとんどお笑いの「天丼」のごとき調子です。でもね、いいんですそれで。登場の人物が変にぐだぐだと悩み始めたり、どうでもいい口論とか始めるくらいなら、「実が光った! いっちょやったれ!」と頭の悪さ全開でぶっちぎっていいんです。運命の戦士としてリアベの実に選ばれる一人がなんとあのちびっこロボット「ベバ2号」で、それでいてとうとうこの「ベバ2号」はたいした活躍もしないまま話の終わりまで一緒にいます(裏切った仲間の説得に寄与した、という点では一応役割は帯びている)。みんなが必死で戦ってる中、うろうろしながら「早く助けてください」とよちよち歩いてるだけですが、彼もまた戦士に選ばれているのです。なんだその無能さは。すばらしいぞ!
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 これね、褒め殺しながらくさしてる、みたいなことではぜんぜんないんです。宇宙基地を爆破したり、戦闘機同士が戦ったりするシーンなんかを観ると、東映が力の限りに力を入れたな、と思わせてくれるんです。この作り手たちはちゃんと本気でつくってる、と思わせてくれる。
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リアリティを増すための言い訳とか、登場人物の苦悩みたいなものを徹底的に排除して、どんどん話を先に進める、面白いシーンを作る、そういうことに全力を費やしている。東映映画の魅力大爆発じゃありませんか。70年代の野蛮さが存分に発揮されているんです。
深作監督がこの映画をどのように振り返ったか知りませんが、『仁義なき戦い』とか『バトルロワイアル』にも負けない熱量をぼくは感じたのであります。

『スター・ウォーズ』と『機動戦士ガンダム』。世界的ヒット作と、日本アニメの傑作。そのあいだの年に生まれた本作は、どうやら「珍作」の名を帯びているきらいがあり、なるほど確かにこれは紛れもない珍作であるのだけれど、「きちんと珍作」(なんか古いギャグ漫画のタイトルみたいだな)をつくっている。
 この芳しき珍作を、ぼくは『スター・ウォーズ』以上に愛でるものであります。


「なりすましもの」を飛び出した傑作
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 コロナ禍で世界が混乱に陥る直前の時期、本作は非英語作品として初めてアカデミー作品賞を受賞し、大きな注目を集めました。フランスではパルムドールも受賞しています。ビッグタイトルを獲るにたる一本であるなあと、敬服した次第であります。
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『パラサイト 半地下の家族』 ポン・ジュノ 2019_d0151584_02571479.jpg

 低所得者層の住宅街で、なおかつ窓のすぐ前で酔っ払いが立ち小便をするような「半地下」に暮らす四人の家族。その長男が、お金持ちの家の家庭教師を友達に依頼されたことから、物語は始まっていきます。
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 前半のテンポの良さが恐ろしく良いですね。長男が家に入ったのを皮切りに、長女や父親、母親も入り込んでいく。トントン拍子すぎるきらいもなくはないけれど、彼らの暗躍ぶりに残酷なわくわく感をそそられることもあり、トントン拍子が心地よい。ここで変にだらだらと間を持たせるよりは、すーっと四人が入り込むほうが話が進みますしね。
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もはや傑作請負人と化しているソン・ガンホに加え、娘役のパク・ソダムがいいです。この人の顔がまずもって素晴らしいですね。「加工感のない韓国人女性」というといろいろ語弊があるかもしれませんが、とてもいい感じで小狡い面構えです。いや、別に韓国女性は小狡い面をしている、なんて意味ではまったくない。けれど、この映画においてはハイソな家庭に暮らす女子高生や人妻と比して、「狡猾な貧民」の役にぴったりのフェイス。ベストキャスティングでしょう。
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 四人はそれぞれ、他人のふりをして金持ち家族の家に「パラサイト」していきます。もともとの運転手や家政婦を陥れて、その座をゲットする。とはいえあれなんですね、別に家族を傷つけたりすることはないんですね。一応は、それぞれに与えられた役割を全うしている。決して根っからの悪人ではないというバランス感覚もこの映画にはある。
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 なりすましものというと、コメディでもサスペンスでも多く描かれてきたジャンルでありますが、本作はその両方の顔を絶妙に配合しているうえ、ほかのなりすましものではあまり観られない仕掛けをしている。本作を傑作たらしめた部分のひとつが、その仕掛けであります。内容を知らずに観てほしい、というポン・ジュノ監督のことばもあるとおり、なるほどこれは事前情報なしで観るといいなと思うのですが、ここからは多少のネタバレに入ります。観ていない人は、お引き取り願おう。
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なりすましものの多くは、「ほころび」を仕込むものです。なりすまして計画を進めるのだけれど、そこにわずかなほころびが生じて、相手から怪しまれるというのがよくあるパターンです。本作はその展開をかわしてくるんですね。そこが決定的に新しいと思う。金持ち夫妻も娘も息子も、彼らを怪しむことがないんです。でも、だからこそ、あの「におい」に関する言及が効いてくる。隠しようのない貧民のにおい、みたいなものに言及することで、この映画が持つ社会性がいっそう浮き立つ。
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その要素をセットしたうえで、あの驚きの展開に持って行くわけですね。
 あのツイストはまったく読めない。映画における物語構成というのは一般的に、作品の中盤で一度、絶頂を迎えるのが定石です。本作で言うと、金持ち家族がキャンプにでかけたあと、まるで我が家のように酒盛りをするシーンですね。あそこで一度、主人公たちはかりそめの達成感に至る。そしてそこからの転がし方がすごい。あのシークエンスで、「ああ、もうこの作品は勝利したな」とわかります。あの展開を仕掛けたら、どうやっても面白くなるしかないでしょう。
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「大雨の夜」がたいへんに効果的です。逃げ出した家族三人が貧しい家に戻ると、完全に浸水している。半地下の家族が「地下」に踏み入ったことと相まって、もはやもともとの日常は取り戻せないという印象を強めてきます。計画はあるかと問われたソン・ガンホが、無計画だと避難所で息子に言う。どうなるかわからないが、行くところまで行くしかないんだろうというあとあとの展開が暗示される。大雨で避難所に集まる人たちと、坂の上の家でパーティをするハイソファミリーたちの対比もよいですね。
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 この映画の脚本的な面白さはひとえに、「なりすましもの」の展開を大きく裏切ったところにあると思います。なりすましものは、「ばれること」によって話が転がっていったり、ばれないように相手と駆け引きをしたりという構造を持ちますが、本作はそこを大胆にかわす。最終的にどういうクライマックスをつくるつもりなんだろうと思っていたら、なりすますとかなりすまさないとかそんな話とはまったく別の部分でたいへんな最後を迎え、あのソン・ガンホの行動が効いてくる。

 さて、決定的なネタバレになります。なんて警告はもういいか。
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 ソン・ガンホは金持ち家族の主人を殺すんですね。そのきっかけとなったのが、「におい」の描写。倒れ込んだ「地下の住人」を持ち上げたとき、露骨に鼻を押さえる主人の仕草を見て、衝動的にナイフを刺す。冷静に考えてみれば、合理的な行動ではないんですよね。パク・ソダムを刺したのは地下の住人だし、あの主人を殺さねばならない理由もない。地下の住人は娘の敵なのだから、その敵をむげに扱ってもソン・ガンホが怒る理由はない。 けれどだからこそ、合理性を超えた憎しみみたいなものがそこに描かれる。
 一言で言えば、「見下しやがって」ということです。
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 自分の家は大雨でめちゃくちゃになり、むさ苦しい避難所で夜を明かしてるってのに、おまえらはインディアンの格好で息子を楽しませるみたいなパーティに興じやがって、あまつさえおまえらは自分たちの放つ貧しさのにおいに、地下で暮らしていた男のにおいに顔をしかめやがるんだ、クソがクソがクソが! というあの一瞬が、この映画をさらなる高みに持って行く。

 資本主義、格差社会、という文脈で語られもする作品ですが、資本主義の勝ち組からみれば、ソン・ガンホの凶行は身勝手きわまりないものかもしれません。自分たちは何も悪いことはしていない、真っ当に仕事をして金を稼いで豪邸に住むようになったんだ、おまえらの貧しさはおまえらのせいじゃないかと、資本主義者は切り捨てるかもしれない。
 けれどそれはあくまで勝ち組の言い分であって、負け組には負け組の怨嗟がある。
 においというのは、ある意味でその人自身を表すものなんですね。
 クレヨンしんちゃんの『オトナ帝国』におけるひろしの靴の「くささ」が示すように、においには取り繕っても取り繕いきれないような、非言語的な、その人の存在そのものを表すまでの要素が隠されている。その人が生きてきた足跡が、においには刻まれている。
 それを否定されることはある意味で、存在を否定されることでもある。
 だからこそ、ソン・ガンホにはあの表情がどうしても許せなかったんじゃないかと思うのであります。
 
 コメディであり、サスペンスであり、社会批評たる側面も織り込んでいる。
 アカデミー賞、パルムドールもむべなるかな。
 ぼくなどがお薦めするまでもなく、お薦めの一本であります。




半端なぼくたち自身を照らしてくる作品
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 昭和40年代。全共闘をはじめとする学生運動や新左翼の活動が盛んだった時代のお話です。評論家の川本三郎氏の実体験を描いた本が原作で、主人公となる若手記者を妻夫木聡が、新左翼の活動家を松山ケンイチが演じています。
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 現在から実に半世紀前の時代。ベトナム戦争が長期化する一方で、日本国内は高度経済成長に湧き上がり、他方では学生を中心とした運動体が既存の権力に反抗を試みる。ぼくはまだ生まれてもいませんが、あの時代の空気はどのようなものであったのかと、どこか憧れを覚える部分もあります。
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 新左翼の物語というと、山本直樹の漫画『レッド』に一時期はまっておりました。学生運動の一部から過激化し、「暴力革命路線」へと走った若者たちの話です。革命を標榜しながらも、結局はテロと内紛にしか届かなかった集団。今にしてみればそのように切り捨てるしかないような日本の新左翼ですけれど、あの時代ならではの肖像という風合いもあり、新左翼ものには興味を引かれます。
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 妻夫木聡は記者として新左翼の活動を取材し、その過程で松山ケンイチに出会います。国家権力への大規模な攻撃を果たすのだと、松山は自身の計画を話し、妻夫木は彼との交流を深めていきます。地下活動の大物、みたいな人物にも接触して、松山は数人の仲間たちとともに計画を進めていくのです。
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 映画全体として、かなり突き放した描かれ方がされていたかな、というのが観終えてからの印象です。山下敦弘監督の作品は、登場人物の無様さが浮き立つものが多いように見受けます。ぼくが観たのは『どんてん生活』『ばかのハコ船』『リンダリンダリンダ』『松ヶ根乱射事件』『天然コケッコー』『もらとりあむタマ子』『苦役列車』あたりなのですが、人物をヒロイックに描くのではなく、「懸命に生きているけれど無様」という姿が活写されますね。

 松山ケンイチがまさにそうで、大言壮語を振りかざしながら、仲間はほんの数人しかいないんです。自衛隊基地から武器を奪って暴力的な闘争を仕掛ける! と息巻くのですが、ほとんど妄想レベルでしかない。『真夜中のカーボーイ』のダスティン・ホフマンに自分を重ね合わせて、「あれはぼくだ」みたいなことを言うんですが、要するにイタいんです。
イタいんだけどなまじ計画性はあって、仲間たちに自衛隊駐屯地を襲わせてしまう。
 なんでしょうね。
 山下敦弘監督らしい、というほど彼の作品に通じているわけじゃないんですが、こういうイタくて無様な人間が、彼の映画の重要なモチーフのように思いますね。
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 妻夫木の記者にしてもそうなんです。根っからの新左翼シンパでもないし、どれほどジャーナリズム精神があるのかも今ひとつわからないんです。もともとはヤクザものと一緒にテキ屋めいたことをしたりしている。スクープを取りたいんだ、みたいな気持ちはあるようなんですけど、そこまで熱心な記者にも見えてこないんです。半端物っぽく見えてくる。これまた、山下作品らしい人物像です。

 映画ポスターの感じからすると、時代の寵児たる人気俳優が激動の時代の若者を熱演、てな雰囲気もあるんですけど、どうもそういう映画じゃないんですね。なんかそれぞれに懸命だけれど、やっぱり人間ってそこまでヒロイックにはなれないよね、という突き放した描かれ方なんです。
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 映画を観るとなると、とかくダイナミックな展開を期待するじゃないですか。目標に向かって邁進する人物とか、艱難辛苦を乗り越える感動の姿みたいなものを観たくなる。けれど、この作品はぜんぜんそうじゃなくて、「観る側の等身大」を照らしてくる。ぼくが観た山下作品はどれも、「半端物のぼくたち」を考えさせてくるように思う。
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 この松山ケンイチも半端物なんです。自衛隊から武器を奪うぞと言っておきながら、結局は仲間たちにやらせて、自分は女子メンバーとナポリタンを食っている。あげく、警察に捕まったら犯行の指示を否認する。妻夫木にしても、絶対にスクープを挙げるんだとか、松山と一蓮托生の道を歩むんだみたいな熱量はなくて、なんとなく流されてしまう。

 こういう描き方はねえ、個人的にはちょっと堪えるんですね。ぶっちゃけ、観ている間は大して面白くないんですよ。カタルシスもないし。でも、観終えてみると、まさに自分自身の半端物ぶりが内側で痛み出す。自分の学生時代なんかを思い出し、どうしようもなく馬鹿で無様で愚かで頭が悪くて煮ても焼いても食えないしょうもない若者だったと辛くなる。いや、今現在にしてもそれは同様。あとあとになって振り返ればきっと、どうしようもないと感じるだろう今を生きている。でも、その今をどうすることもできずにいる。

 わかるかなあ、このなんともメランコリックな。メランコリック未満の感傷みたいな。

 その意味で、新左翼というのは山下映画における格好のモチーフだと思いますね。
 頭でっかちで理想も高く、けれども現実がてんで追いつかない無様さ。それでいてむやみな野望だけは抱いているから、愚かな行動に走ったりするどうしようもなさ。
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 映画全体としてみると、バランスのいい作品ではないんです。機能的な配置がなされているとも言えない。松山と妻夫木を除く人物は、ほとんど風景的とも言える。松山パートには石橋杏奈、妻夫木パートには忽那汐里が出てきて作品に華を添えているんですけど、彼女たちが負っている物語機能はほぼゼロに等しいですからね。いなくたって映画は成立してしまう。こういうのは、人物配置として美しくありません。
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 けれど、二人の無様さを引き立てるうえでは、彼女たちがいるのもわかる。半端物の映画だからこそ、半端な配置をしても許されてしまう。この辺のバランスは理解できる。

 なんかねえ、充実した学生時代とか、充実した二十代とかを過ごした人がこの作品を観ても、ピンとこないと思うんですね。だけど、そうでない人間が観ると、ちょっとちくちくさせるものを帯びているなあとも思うんです。面白いからぜひ観てくれ、というタイプではないし、文句を言おうと思えばいくらでも言えちゃう内容だけれど、あしざまに言う気にはなれない作品。
そういう作品って、たまにあります。「この映画に何かを感じ取る人間は、実はあまり幸せじゃないぞ」というようなものです。そんな手触りの映画というのは、観終えたあとでまったくさっぱりしないんですけど、重みだけは確かに感じられてならない。
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 この映画を観てぜんぜんピンとこない、面白くない、カタルシスもないし退屈だ、と思うなら、それはむしろいいことかもしれません。自分自身を測るうえでも、観てみるとよいかもしれません。今日はこれまで。


「ブレードランナー・チルドレン」に抜き去られているのではないか。
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 前回は『ブレードランナー』を扱いましたが、実のところ、こちらを先に観て、そのあとで『ブレードランナー』を再見したという順序なのです。ちゃんと先に「復習」してから観ればよかったなあと、少し後悔する部分もありました。

 公開当年の『映画秘宝』においては、ベスト10の第一位、それでいてトホホ10の第一位にも選ばれているこの『2049』。なるほど確かに、観る者を選ぶだろうなあと思いました。

 最初に言っておくなら、「観る前に一作目の内容を頭に入れておくべき」ということですね。かなり「いちげんさんおことわり」のにおいがする作品でした。ぼくは一作目を観ていたけれど、記憶が相当薄れていたので、半分はいちげんさんみたいなスタンスで観ました。するとどうにも、ふわふわしてしまう部分が多いのでありました。
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 ポスターとかタイトルとかの感じからすると、「SFアクション的な作品なのかな?」と思う人も多かったのではないでしょうか。もとの作品を知らない人間であれば、アクションっぽい作品を想像するように思います。
「ブレードというからには剣で戦うのかな? ランナーってからには走り回るアクションだろう。2049なんていうんだから、未来的なガジェットでバンバン敵を倒しまくるんだろう」などと考えた中高生の男子がうかつに女子を誘い、結果的になんだかもやもやして映画館をあとにする、という風景も多かったに違いありません。わかりやすいアクションを観たい、なんて期待は見事に裏切られます。一作目を知っていればそんな期待はしないかもしれないけれど、その意味でやっぱりいちげんさん向けではないようにも思う。


 語り方が難しいですね。往年の作品の大ファンで、何度も観たという人からすると、かつての光景を彷彿とさせる場面に胸が躍ったかもしれない。けれどぼくは記憶が相当薄れていたがために、映画というメディア自体が持つ難しさにほうに目線が向いてしまった。
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『ブレードランナー』が持っていた「サイバースラム」的風景の鮮やかさは本作でも観られるのですが、これはねえ、こういうビジョン自体がもう難しい時代なんですね、うん。
 一作目の公開が1982年で、当時からすると相当先進的な、斬新な光景だったと思うんです。それは今観返してみても感じられる。ただ、この『2049』の公開年は2017年で、すでにああいう映画的風景自体が、見慣れたものになってしまった。映画以外のメディア、たとえばゲームなんかがすごく進歩して、なんなら映画を凌駕するようなSF的光景を描くようになり、プレイヤーはその世界を自由に冒険できるのというのが今の時代です。そうなると、映画が描き出す「未来的意匠」みたいなものは、どうしてもそのインパクトを減じてしまうんですね。
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 ライアン・ゴズリング扮する主人公のKはレプリカントです。孤独な生活を送る彼は、AIと立体映像でつくられた美女、ジョイをパートナーにするんですけど、こういうのもね、すでに描かれてきたものじゃないですか。ゲームでも漫画でもドラマでもいいけれど、わりと見慣れてしまったモチーフです。「架空の美女を恋人にする」という作品だと花沢健吾の漫画『ルサンチマン』が個人的に思い出深いのですが、過去に更新されてきた作品群以上の説得力、あるいは斬新な視点みたいなものが、今回の『2049』には見いだせなかった。もちろん、架空の美女を愛するがゆえの悲しさは描かれているし、工夫も凝らされているんです。けれど、「どこかで観た何か」を超えてこない。贅沢な話ですけれど。
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 Kのミッションは、とあるレプリカントの追跡と抹消です。「レプリカントが子どもを出産した」という異常事態の可能性が示され、その謎を突き止めに行くのです。前作同様、果たして主人公の行動は正しいのか? と思わせる設定ですね。
でも、本作についてはどうも乗れなかった。「レプリカントの出産なんてあり得ないだろう」というのはとても野暮な話なんですけれど、そもそも人造人間なのだし、どういう設計なんだとかいろいろ考えてしまう。「人間もまた神のレプリカント」という、実存的なテーマについては追いつけたんですが、この「レプリカントの出産」が、果たして現実にどうリンクする意味を持つのかがもうひとつよくわからない。
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 映画に限らず、フィクションの設定というのはそれこそ、現実にはないさまざまなものがありますね。ファンタジーしかり、SFしかり。けれど、それが現実の問題とどう絡むのかがわからず、「フィクションの中でだけ悩んでいる問題」に見えてしまうと、どうにも乗れなくなる。たとえば、「AIが感情を持ったら?」みたいな問題設定はわかるんですよ。そもそも他人の感情をぼくたちは完全には見抜けない。言葉や行動に表れるものから、相手の感情を類推するしかない。であれば、AIに感情があるかないか、どうやってわかるんだ? みたいな問いって、考えるのが面白いんです。
 でも、「アンドロイドが子どもを産んだら」まで行くと、なんかひとつ飛んじゃってる感じがする。その課題設定がちょっと未来過ぎて、ぼくは追いつけなかった。現実とつなげて考えるテーマとして、ぼくは想像できなかったんです。そこで置いてけぼりにされた感が強いです。
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 敵になるのはウォレスという科学者で、レプリカント開発の元締めみたいな人です。その手足となって動き回る女性型レプリカントのラヴがいて、彼らもまた、レプリカントの子どもを探そうとしています。この造形もねえ、「どこかで観た何か」の感じがしてしまったし、なんか規模の小さな話やなと感じられましたね。ウォレスは超偉い存在なんでしょうから、ラヴ以外にも大部隊みたいなのを編成していいはずなのに、身の回りにぜんぜん人がいないんです。新たに生まれたばかりのレプリカントを殺す場面があるんですが、ああいうのもどこか「小物感」につながるんです。あの手の演出って実は危険なんです。
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 2時間40分以上あるんですが、ちょっとテンポが合わなかった。2時間40分もあるのに、クライマックスもしよぼしょぼしているし。
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 長丁場の映画を引き締めるサプライズ展開としては、一作目の主人公デッカードがいますね。ハリソン・フォード演ずるデッカードが登場し、Kは彼を救いに行くことになるんですけど、ここをどう観るかですね。「うおっ、待ってました!」と前作ファンは大喜びというのはわかるんですけど、いちげんさんとか、一作目をずいぶん前に観たきりの人間なんかからすると、急に横入りしてきた感も覚える。テンポ問題もあって、けっこうだらだらして映るんですね。一作目は猥雑な都市の風景を見せつつ、敵のロイを光らせて綾をつけていたんですけど、本作はその部分もあまり面白くない。描かれるのは、数々のポスト・アポカリプス映画で出てきたような廃墟ですし。
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 うん、廃墟がどこまでも続いているみたいな描写もね、ぼくはふと押井守の『イノセンス』を思い出してしまいましてね。あの映画の廃墟って、アニメならではの演出も手伝って、すごく鮮やかだったんです。『イノセンス』はもともと『攻殻機動隊』で、あの作品自体が『ブレードランナー』の影響を受けていると思うんですが、要するに「ブレードランナー・チルドレン」が、すでに『2049』の風景を超えているように思えた。
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長尺の映画のわりに、いろんなものが置き去りなのも気に掛かります。廃墟でKを襲ってくる連中とか、働かされている大量の子どもたちとか、レジスタンスみたいな人たちとかが、かなりほったらかしなんです。続編で明らかになる、みたいな要素かもしれないし、世界観を解き明かすうえでの隠し要素なのかもしれないけど、それにしては存在感が大きすぎる。もうちょっと落とし前つけてくれや作品内で、という気分になる。
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 前作で出てきたガフの折り紙とか、蜂の描写とか、いろいろと小ネタを仕込んではいるのでしょうけれど、いかんせんメインの部分でどうも感動がない。AI美女のジョイにしてもそうで、終盤では彼女が消え去ってしまうんです。ラヴによって、データの入ったスティックみたいなのを潰されて、哀しい別れみたいな場面になるんですけど、自宅のバックアップデータを消去しているのはなぜなのか。いや、「Kは彼女をバックアップがない存在にすることで、実在の人間と同じリアリティを求めたのだ」みたいな理屈をつけているのかもしれませんが、その辺の話って、「理解はできるけど実感がこもらねえなあ」と思うんです。娼婦とジョイを重ね合わせる場面の悲哀も、なんというか、「頭でこねくり回してつくった哀しさ」なんです。骨身に沁みてこない。

 いやいや、作品世界にはまっていればぼくは真逆のことを言うかもしれません。頭でこねくり回しながら、その悲哀の意味を論ずるかもしれない。でもどうも、映画のテンポが期待と違い、「だらだらしないで早く進んでくれ」ともどかしかった。

 熱く語る人も多いようですし、いつか観返してみたら、もっといろいろと感じるものがあるかもしれない。けれど今回はどうも、ぴんとこなかったんです。復習して観ればよかったなあ、と悔やむ点が多々あります。しかしながら、復習した今、もう一度すぐに『2049』を観直そうとは思えない。これから観る場合はぜひとも、一作目を観てからにしてくださいと、アドバイスするものであります。


サイバースラムで哲学を。
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「ずいぶん前に観た作品をもう一度鑑賞してみる」シリーズとして、取り上げてみようと思います。基本的にこのブログでは初見の作品について述べるので、ブログを立ち上げる前に観たものに関しては細かく触れてきませんでした。映画に限らず、年を重ねて捉え方が変わるものもあるわけで、今一度、カルト映画の名作を観てみたのであります。

 初めて観たのがいつだったか、ぜんぜん覚えていないのですが、それでもまあ十年前そこそこじゃないかなあと思います。内容的には相当忘れていましたね。SF映画のカルト作品として名高い本作ですが、当時のぼくは、さしてぴんと来なかったのでしょう。
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 それでも、今、観返してみると、カルト映画になる要素がふんだんに織り込まれているのがわかります。まず、あの「サイバースラム」とでも呼びたくなる風景ですね。のちの映画作品に大きな影響を与えたといわれる本作の大きな特徴でしょう。『攻殻機動隊』などが影響下の作品の典型といえるかもしれません。
 観直してみて気づいたのですが、本作の舞台はなんと2019年なのですね。公開時から観れば37年もの未来。未来社会の描写として、ネオンきらめく高層ビルやそのあいだを飛び回る乗り物なんかがある反面、ひどく猥雑な街の風景が映し出される。この映画に出てくる風景はずっと夜で、雨も降りしきっているから、その分だけ怪しい雰囲気がぷんぷんと匂い立つ。
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 この世界の大きな特徴は、「レプリカント」の存在です。人間と見分けのつかない人造人間が使役される社会が舞台なのです。人間同様の感情を芽生えさせ、逃亡を図ったレプリカントは処分の対象となる。ハリソン・フォード扮する主人公デッカードは、その処分を請け負う「ブレードランナー」として、都市の中を駆け巡るのであります。
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 フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作とする本作でありますが、カルト映画として人々を引きつける要因はひとつに、その情報量の多さと謎めいた場面の数々です。町山智浩さんの名著『ブレードランナーの未来世紀』の解説を読んで初めて、なるほどそういうことかとわかるものが数多くあった。ゲームなんかでもそうですが、「隠し要素」が多いものって、「やりこみ」をしたくなりますよね。やりこんだ末にゲットできるアイテムとか戦える敵とかが込められていると、ゲーマー心がくすぐられる。本作もそれに似ているのだなと思う。細かいところなら、登場人物の一人がつくる折り紙の意味なんかがそうですし、主要なモチーフたる「レプリカント」自体も謎めいている。
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 個人的に感じ入るポイントはやはり、このレプリカントという存在自体の面白さですね。使役用にと人間につくられたのですが、彼らはその立場からの脱出を願う。けれど、彼らには「四年しか動けない」という寿命が定められているという、いわば悲劇的な存在なのです。主人公のデッカード以上に、敵となるレプリカントのロイが魅力的でした。ルトガー・ハウアー扮するロイは、自分の寿命を延ばしてほしいがために動き回ります。描かれ方としては、デッカード以上に人間的とも言えるんですね(デッカードもまたレプリカントなのだ、と監督は言っているようで、この辺の解釈論争なんかも人気の理由でしょう)。
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この映画はデッカードの映画である以上に、ロイの映画とも言えるように思います。レプリカントの悲哀の映画とも言えましょう。踊り子として潜伏していた女性レプリカントは、デッカードに見つかるや身の危険を感じて逃げ回り、最終的に射殺されます。このくだりなんかも、彼女が殺されるべき理由というのが、映画からは見えてこないんですね。彼女が悪者として暴れていた、などというシーンは描かれず、撃ち殺されるのが可哀想に思えてしまう。デッカードもまた、達成感など抱いていないように見える。
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ロイも決して悪意の存在ではないというか、彼はただ寿命を延ばしてほしかっただけなんですね。それができないと知るや、レプリカントの会社の社長を殺害するんですが、そのシーンでも、表情には憤怒と悲哀が入り交じって見える。ロイは人造人間であって、人間の使役用としてみれば感情など要らなかったはずなんです。ところが社長は、人間以上に人間的な存在をつくりたいという、いわば神のごとき欲望を抱えていたのです。そのせいで、ロイのような哀しい存在が生まれた。
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 神はなぜ人間に感情を与えたのか、というような哲学的テーマも内包されているところが、カルト映画たるゆえんのひとつでありましょう。人間もまた神様のレプリカントなのですね。複雑な感情や思考力など持たず、動物のように生きていればもっと幸せなのかもしれない。けれどなぜ人間はそうした情緒、そうした知能を持つに至ったのか。みたいなことを考えさせる作品でもある。

 クライマックスもまた、一筋縄ではいきません。
 デッカードは決してヒロイックではないんです。悪玉を倒す正義の主人公ではない。なんならロイのほうが魅力的に映るし、現にデッカードはロイを倒せていないんです。カタルシスがないというか、すかっと観終えたい観客を突き放すような終わらせ方なんですね。
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デッカードは女性型レプリカントのレイチェルと出会い、彼女との関係を深めていくのですが、これまた「人間ではない存在に人間性を見いだす」という作品全体の方向性にマッチしたつくりになっている。ぼくたちにしたって、現実の人生よりもフィクションに熱くなったり、あるいはフィクションを通して現実を学んだりするわけで、作品自体が観る側を映し出している。
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 SFを通して哲学的なテーマを扱うフィリップ・K・ディックの原作と、サイバースラムな光景がマッチし、それでいて決して安易なカタルシスに落とし込まない作品とくれば、これはなるほどカルト的な人気を得るのもわかるなあと、あらためて思わされた次第であります。


沖縄を考える良質な教材です。
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 沖縄の基地問題には多少の関心を寄せている人間でありまして、一時期は沖縄関連の本などもあれこれと読み、動画の類いなども渉猟しておりました。瀬長亀次郎という政治家についても存じ上げてはいたのですが、このドキュメンタリーは未見なのでありました。
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 沖縄の米軍基地についてどう思うのかおまえ、と問われれば、映画から離れた能書きがうるさくなってしまいます。そこは抑えたうえで、内容の紹介に当たるのであります。

 瀬長亀次郎という人は、米国の統治下にあった沖縄で、その支配に敢然と立ち向かった硬骨漢です。沖縄人民党を立ち上げ、時の琉球政府のもとで議員となり、投獄の憂き目に遭いながらも那覇市長まで務めました。のちに衆議院議員に当選して基地問題の解決を訴えるなど、戦後の沖縄史を語るうえで外せない人物なのです。
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 映画では政治家・亀次郎の半生が語られ、たいへん興味深く観ました。
 TBSのテレビ番組がもとになっているため、映画的技巧やらなんやらがあるわけではありません。端正な歴史ドキュメンタリーの形式です。

 タイトルにもありますとおり、瀬長は米軍から敵視され続けるのですね。
 占領軍の統治に異を唱え、その統治のありように批判をぶつける瀬長は、民衆から大きな支持を集めます。米軍としてみれば完全に邪魔な存在であり、瀬長の一党は共産主義者であるとして弾圧を行うのです。一方的な裁判で投獄したり、瀬長を中傷するビラを撒いてみたり、彼が市長を務める那覇市の水道を断水したり、あげくの果てには彼から被選挙権まで取り上げ、政治から追放しようとする始末。それでも米国何するものぞと、カメジローは戦い続けるのであります。
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 この記事では極力、現代の米軍基地問題などについて講釈をぶつのは避けたいのですが、やはりこういう歴史を見聞きすると、基地のありようについては否応なく考えさせられるものです。日米同盟の拠点として中国との有事に備える、という名目は一応ありますし、占領下の沖縄においても反共の砦として一翼を担ったのはわかる。けれども、現地住民の土地を半ば強制的に接収したり、児童に強姦・殺人を働いたりということがあれば、そりゃおいそれと忍従できるわけもない。
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 カメジローに見るのは、最も真っ当な意味でのパトリオティズムです。
 ナショナリズムとは違う、郷土に対する本物の愛情です。
 自分たちの土地を他国の好きにさせてなるものか、という真摯な戦いがそこにあります。
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 現代において、在沖米軍基地については賛否があります。多数派の県民のように、新基地建設に反対の意を示す人もいれば、一方では中国への抑止力としてその必要性を説く人間もいる。沖縄に基地を置くことの戦略的意義はどうなのか、みたいな話は避けますが、たとえどんな人であれ、日本人としてはカメジローの思いはわかるんじゃないですかね。
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 基地の賛否とは別に、現代でも日米地位協定の問題は残っているし、市街地の上を米軍機が飛び回るという課題は残されている。米軍に対する特別扱いについても、日本の主権がフルスペックには機能しない。抑止力としての米軍基地を容認する人であっても、このおかしさについてはわかると思うんですね。カメジローの怒りとも通底している問題意識です。
 百歩譲って基地を許すとしても、主権まで蔑ろでは駄目だろうにと。
基地の賛否は国防の観点から割れるとしても、地位協定は左右の違いなく同じ方向を向ける問題じゃねえのかと。
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 ああ、まずい。映画から離れた。
 いや、でも、こういうことを考えずにはいられない映画なんですね、はい。
 本作に限らず、ドキュメンタリーというのは、描かれることそのものとは別に、観終えたあとで何かを考えることが大事なんだろうなあと思うのです。
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 基地問題は領土や主権についてのみならず、経済にまつわるものでもある。
 だから、今のぼくは軽々には、基地反対! と叫ぶこともできずにいるんです。
 劇中でも、反瀬長派の議員というのはいるんですね。その議員の意見としては、米軍とうまく折り合いをつけながら県の経済を成り立たせていこうというものなんです。これは元沖縄県知事・仲井眞弘多氏も同じですね。県民に対する公約を反故にして、安倍政権の基地政策を容認しながら、沖縄に金が回るようにした。その姿勢はよろしくない、と言い切れないところが多分にある。けれど、経済は日々の生活に関わる最重要テーマですから、主権とか領土とかいうトピックよりある意味でずっと切実なものとなる。
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 大統領選に揺れるトランプにしてもそうなんです。大いに嫌われまくっている彼でも一定の支持をキープしているのは、経済政策への期待が大きいわけです。理念も大事ではあるけれど、一方で現実の生活は金がなくちゃ守れない。政治はいつのときも経済と不可分なのです。

 またまた映画から離れた。
 劇中で興味が引かれた部分のひとつに、カメジローと当時の首相・佐藤栄作が国会論戦を交わす場面です。このシーンで、佐藤栄作はカメジローの質疑に対し、答弁書も見ずに応じているんですね。なんか、お兄さんの孫のことを考えちゃいますね。いやいや、何でもないですよ。
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 一カ所、残念なところがありました。年老いたカメジローは病を患い、彼の奥さんが短歌を詠むんですが、その短歌の内容をナレーションが明らかに間違って読み上げているんです。あれをどうして収録現場の人間が、ナレーターふくめ誰一人気づかなかったのか、不思議でなりません。
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 ドキュメンタリーを語ればどうしても現実を語ることにつながります。
 勉強の意味でも、また自分の考えを深める意味でも、こういったジャンルの映画は折に触れて観ていかねばならないな、と思う次第であります。
 今日はここまで。
 あんせー、ぐぶりーさびら。
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明確なコンセプトと広がりのある世界観。
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 ツイッターで、「ほんわかしたルックスのわりに後半は衝撃の展開!」というような呟きを見かけ、Huluで観てみました。つくしあきひとさんという漫画家さんの原作で、現在も連載中らしく、アニメ版は2期目もつくられる予定があるそうです。劇場版は未見です。
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 アビスといえば、ジェームズ・キャメロンの映画がありますが、あの作品は海洋ものでありました。こちらのアニメは、とある島に開いている大穴に潜っていくお話です。ファンタジーテイストのお話ですが、コンセプトがわかりやすいのは大きな美点です。異世界が広がる大穴へ入っていく、という明確なコンセプトは、アメリカに売り出したらドラマシリーズにもできそうなキャッチーさがあります。
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 主人公はリコという少女で、レグというロボットの少年との出会いが物語を大きく動かしていきます。ただ、このリコは個人的にやや曲者でした。声優を務めるのは富田美憂さんという若い人なのですが、ぼくがおっさんであるせいでしょう、いかにもアニメっぽい声が耳に障るんですね。
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 いや、別に声優さんが悪いんじゃないんです。演技もいいし、現代アニメにフィットした声質。悪いのはぼくの勝手な感じ方なんです。本作のメインターゲットは若者であるわけで、おっさんがどう感じるかなんてどうでもいいんですが、ああ、ぼくはこういう声を受け付けなくなったなあと痛感したんですね。
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 90年代のアニメに原体験を持つ人間であるせいか、最近の声優の声になじみきれない部分がどうしてもある。感覚で言うと、昔に比べて最近の声優は、「声のベース音」が薄い感じがする。あるいは、湿り気がないというか、丸みがないというか、時代の変化を感じる部分なんですね。昔の声優が持っていた声のマイルドさが、欠けている感じがするんです。わかるかなあ、わかんねえだろうなあ。

 ぜんぜん話はそれますが、ボーカロイドへの違和感と言いますかね。ボーカロイドは人工音声ですから、人間の声が持つ湿り気がないじゃないですか。その湿り気がいわば「声のベース音」なんですけど、これがないと薄く感じてしまう。でも、今の若者は気にせずボカロを楽しんでいる。おっさん世代としては、そういう部分に今の若者との隔たりを感じるんですね。「今の子にウケる声」というのがきっとあって、そういう声を耳障りに感じるくらい自分はおっさんになったんだなあと、もの悲しさにまみれるのであります。
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 まあ、それはそれ。『メイドインアビス』です。
対象年齢からはずれたおっさんであっても、それなりに飽かずに観られました。少女リコと、少年ロボットのレグは深層へと向かい、異形の怪物やら謎の住人やらに出会いながら旅を続けていきます。ファンタジックな世界観を全面に出しつつ、次々に新たな風景を見せていく仕掛けもよいし、ハードな展開を織り込んでいる部分も好もしい。小中学生が観たら結構楽しめるんじゃないでしょうか。
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 先ほども書きましたように、コンセプトで勝ってるなあと思いますね。深い部分に行けば行くほど、今まで見えなかった世界のあれこれが見えてきたり、謎が謎を呼んだり、この先はどうなるのだろうかと気になるようなコンセプトができあがっている。ストーリーラインとしても正しいのは、謎と目的を主人公にきちんと仕込んでいる部分です。リコの母親は過去、はるか奥深くに潜っていまだ帰らずにいます。その母親に会いに行くという明確な「目的」を設定している。一方、同伴者のレグはロボットなのですが、彼は自分の正体がわからないんですね。なぜ自分はつくられたのか、みたいなことがわからない。その「謎」が推進力になっている。目的と謎の両方をセットしているわけです。そしてその両方ともが、登場人物自身のアイデンティティに関連している。理想的な設定の仕方だと思います。
 
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ひとつの冒険譚としての設定方法がいいのです。深いところに行けば行くほど、環境がハードになっていく。物語もたいへんなものになる。一方で、深いところには深いところの住人がいて、地上にいてはわからなかったいろいろなことを明かしてくれる。その出会いがきちんと驚きをもたらすものになっているし、アニメ終盤では仲間が増える愉しさもある。いろいろと遊びがいのある世界観をつくったなあと、ちょっと悔しさも覚えますね。
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 こちとらは擦れっ枯らしのおっさんですから、「あー、そういう展開ね、はいはい」「おー、うまく転がしたなー」などと、若干引いた目で観てしまうのですが、感性の瑞々しいティーンなどが観たら、結構はまれるんじゃないでしょうか。まっすぐな冒険譚の側面もあり、毒々しい陰謀のにおいなんかも醸されており、先が気になるセッティングもしてある。絵柄のおとなしさに収まらないものを確かに抱えていて、劇場版はR15になっているようです。僕が中学生で、たまたま見かけていたら、友人たちに触れ回っていたかもしれません。今のぼくにとっては声優の声がややノイジーだし、台詞回しにも引っかかる部分はあるし、先が気になって仕方ない! というほどの熱量で観ることはできませんが、引きつけるものは確かにある作品です。サスペンス感のあるファンタジー作品として、きちんとつくられていると思う。
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 世界観、物語設定をばちっと成立させながら、子ども向けのルックスをつくり、一方でハードな展開も効果的に仕込んでいる。最近の漫画やアニメはとんと観ていない人間ですが、その中でもよくできている作品ではないでしょうか。ティーン向けの良作として、おすすめしたいものであります。


濃厚なる東映じるし
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『仁義なき戦い』や『トラック野郎』、『女囚さそり』などのシリーズに代表される70年代の東映映画というのは、今もって独特の魅力を感じさせるものが多いですね。なんというか、作り手の汗のにおいが画面から放たれている感じがします。泥臭く、汗臭く、決して綺麗ではないけれどその分だけ質感のある作品。いいですねえ、うむ。

 思い出してみれば、僕自身、東映の作品には物心ついた頃から触れているのです。仮面ライダーや戦隊ヒーローのシリーズ。幼少の僕がリアルタイムで熱心に観ていたのは『ブラックRX』、あるいは『ライブマン』とか『ジェットマン』とかあの辺なんですけれど、昭和のライダーシリーズもビデオ屋で借りてもらって、一通り観ていた。仮面ライダーシリーズはまさしく、70年代の東映を引っ張った看板作品でありまして、東映映画を観ると懐かしさを覚えるわけです。当時はまだ、生まれてもいないのだけれど。
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 当時の風景とともに楽しませてもらったのが、今回の『狂った野獣』。上映時間は80分に満たないプログラムピクチャーですが、「東映じるし」のしっかり押された特濃の一本でございました。

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片桐竜次と川谷拓三のコンビが銀行強盗を謀り、逃亡の際にバスジャックを仕掛けます。このバスの中がメインの舞台となり、濃密なアクション活劇が展開されるのです。主演の渡瀬恒彦は、乗客としてその身を脅かされる立場でありながら、どこか不敵に最後部の座席でふんぞり返っている。この渡瀬が後半で驚きの行動を見せるのもまた、脚本的な美点でありました。
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 バスジャックされた車内は緊迫の状況なのですが、一方で悲壮感を漂わせない演出になっているのも面白い点です。京都を走るバスという設定で、関西弁のおばちゃんが騒がしくしてみたり、不倫をしていた中年カップルが仲違いしてみたりとコミカルな要素も加えつつ、同乗したチンドン屋の一行がいきなり演奏を始めたりもする。こういう雰囲気を今の映画でつくろうとするとかなり難しいだろうなあとなんとなく思う。
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 暴力描写ももちろんあって、抵抗を図ったおっさんが足を刺されたり、動転した若い女性がつり革に縛られたりと阿鼻叫喚の事件も巻き起こるのですが、雰囲気が暗くならず、映画的な享楽の中に埋め込んでいる。考えてみれば、これはすごい演出力です。暴力はいけないなんて当たり前の話ですけれど、こと映画の中においていえば、暴力は確かに輝く。その輝きをさらりと見せながら、ずんずんと先に進んでいく熱量は、この作品の大きな魅力なのであります。

 細かい工夫もしっかりとセットしてあるんですね。運転手が心臓に持病を抱えているというのが早い段階でわかり、このバスが正常に走れるかどうかとサスペンス要素を足している。観客を引っ張ってやるぞ、という作り手の姿勢がちゃんとプラスされている。
犯人二人組、片桐竜次と川谷拓三のコンビもこれまた良いのです。
 片桐竜次はいつキレてもおかしくないようなギラついた表情をしているし、川谷拓三は少しどんくさい感じを見せつつ、やけくそで暴れちゃうような怖さがある。東映映画の魅力がこもったようなコンビだなあと思いますね。

 さて、そろそろ大きなネタバレが入ります。
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 渡瀬恒彦はただの平和な乗客ではなく、宝石の強盗犯として逃亡を図っていたんです。 この展開には驚かされました。
 序盤ではね、やけに静かなんです。いかにも強そうな雰囲気なのに、粗暴なチンピラ二人組にあまり本気を出していない。見かけ倒しみたいな感じがして、何なんだろうなあと違和感を覚えていたら、なるほど後半で「狂った野獣」と化していくんですね。
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 一度バスから逃げ出したのに、盗んだ宝石を車中に置いてきてしまったからと、わざわざもう一回乗り込んでいく。こんな展開はなかなか観られるもんじゃありません。宝石の入ったギターケースが開かれてしまい、乗客たちに強盗犯だとばれてしまうのですが、これを機に渡瀬は二人組に力を貸し、自らバスのハンドルを握るのです。
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 ここからいけいけどんどん。渡瀬は二人組を惑わせながら警察から逃げ回り、カーアクションへとしゃれこみます。ただ、このカーアクションはちょっと頂けなかった。クライマックスのシーンでは何台ものパトカーや白バイに追われるのですが、警察にぜんぜん捕まえる気がなく、ものすごくグダグダです。こんなにグダグダなカーアクションもそうそうないぞ、という場面がしばらく続きます。

 この手の映画に対して無粋なことを言うつもりはないんです。ジャックされたバスにしたって、もっと早く検問かけたり道路を封鎖したりしてなんとかせえよ、なんて野暮なことは言いません。警察は適度に無能でいいんです。でも、クライマックスの警察はあまりに無能すぎて困ります。一応、道は塞いでいるのですが、すぐそばの脇道は完全にがら空きで、「わっ、脇道に行ったぞ!」みたいなことを言っている。追い詰める作戦なのかと思いきやそこからさらにグズグズになるので、必死で逃げ回る渡瀬がむしろ可哀想なレベルです。ぜんぜん捕まえてくれない。
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 とうとうバスが転倒して追い詰められるのですが、渡瀬は人質のふりをしてヘリコプターを要求。二人組ともども逃亡を図ります。この辺の計略、駆け引きは緊迫感があります。

 ところが、いざ逃げられそうな段になるや、ヘリコプターが急発進してしまい、片桐がその足に捕まったまま宙ぶらりん。警察に射殺されてしまい、逆上した川谷も射殺。逃亡は許すまじ、ということなのでしょうが、あの状況で犯人の要求を反故にしたら、一応人質であるはずの渡瀬の生命について警察はどうするつもりだったのか。なんか結構、わわわっとやっつけた展開にも見えました。上映時間の尺が苦しいからやっつけちゃえ! という事情が見えましたが、昔の映画ではよくあることのようにも思います。
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どうしようもなく駄目な部分もあるのですが、どさくさ紛れに宝石を盗む乗客の姿など面白い場面もあり、それをラストに活かしている点などは面白いところです。めちゃくちゃな部分も含めて「東映じるし」、と思えばよいでしょう。

 熱量バリバリのプログラムピクチャーをつくろう! 雑にやっつけちゃう部分もあるけどそれはそれだ! という東映のノリを楽しむには格好の作品でありました。


現実とフィクションのリンクが効果的でないと感じました。
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 Netflixで公開されている全六話の連続ドラマです。
『呪怨』は劇場版の一作目と『白い老女』を観たのと、二作目を観たような記憶があるくらいで、熱心なファンではぜんぜんありません。「Jホラー」というジャンルの牽引シリーズとお見受けしますが、そもそもJホラーについてもぼくはよい観客ではないのですね。『リング』でも黒沢清作品でもいいのですが、怖いと感じた記憶がほぼない。

 それでも、映画においてゾクゾクする感覚を味わったものを挙げるなら、白石晃士監督の『オカルト』です。白石監督は『貞子vs伽椰子』なんかも撮っているのですが、彼の持ち味はやはりモキュメンタリータッチの実録的な作品で、その中でも2009年の『オカルト』は白眉です。恐怖系の映画ではよく、「結局怖いのは人間」なんて言い方がされることがありますが、あの作品は「人間の怖さ」ともちょっと違う。オカルト的なモチーフを描きつつ、呪われた人間像を描き出し、その人間が破壊的な結末へ進んでいく様を映します。

『オカルト』はなんというか、「女・子どもがキャーキャー騒ぐ」映画とも違います。カノジョと観に行くホラーでは決してない。だからよいのです。『呪怨』シリーズにぼくが惹かれないのは結局そこかなあと思いますね。白塗りの裸の子どもとか、変な動きをする髪の長い女とかを出し、「女・子ども」の観客でも適度に怖がれる。カノジョと観に行って、暗闇でそっと手をつないだりできちゃう。そういうものにはもう、刺激を得られない人間に成り果てました、はい。
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さて、今回の『呪いの家』でありますが、ツイッターを見る限り、登場する女性の扱いがよろしくないと、非難の声を上げる人もいるようです。レイプシーンとか、妊婦が残虐な形で殺される場面などがあるのです。また、裸の白塗り子どもみたいなわかりやすいおばけが活躍するわけでもなく、その意味では女・子ども向けのホラーエンタメではないと言えましょう。
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 また、本作の時代設定が1988年や1995年などであり、当時に社会を震撼させた残虐事件なども背景として出てきます。劇中で起こる事件は、とある惨殺事件をモチーフにしているようでもあり、現実社会とリンクさせた物語にしようとする作り手の意図が感じられます。
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 では、ぼくの好物であったかというと、これは否です。あまり楽しめませんでした。

 タイトルに『呪いの家』とあるとおり、ひとつの家が重要な存在として機能します。そこではかつて忌まわしい殺人事件があったらしく、踏み入った人間や居住した人間が、次々とひどい目に遭っていくのです。女子高生が失踪してしまったり、結婚間近のカップルの夫が死んでしまったり、夫婦が殺し合いを始めてしまったりと、全六話の中でいくつも悲劇が展開されます。
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 ホラー映画というのはその構造上、登場人物たちがひどい目に遭っていくものです。有り体に言えば、殺されてしまう。では、誰が登場人物を殺すのかと言えば、これは大きく三つある。ひとつめは怪物やお化け、ふたつめは人間、もうひとつは自殺や事故です。
 いずれも、底の部分では怪物やお化けの呪いが絡んでいるのですが、直接的にアタックを仕掛けて殺す場合もあれば、おかしくなった人間が殺す場合もあり、あるいは呪いの影響で登場人物が自殺することもある。ときには、突然の事故で死ぬこともありますね。
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 本作の場合は、怪異による直接的アタックと、呪われた人間による殺人のふたつが主に描かれ、幻覚に苦しむような描写もある。呪いによって人生を踏み外してしまうような人物も出てくる。その意味で、いろいろな見せ方を試みてはいるのですが、いかんせんそれらが有機的につながっているようには見えない。すべてが絡み合いながらひとつの大きな画を見せる、という形になっていない。簡単に言うと、ひとつひとつが弱い感じがするんですね。ひとつひとつの単発であれば、フジテレビでかつて放送されていた深夜ドラマ『トリハダ』のほうがぼくは好きです。一話完結型で、幽霊の出てこない怖い話というコンセプトなんですけど、あちらのほうがキレのあるエピソードが多かったように思う。
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 呪いと現実を組み合わせるというのは、いいと思うんです。
 人間が持つ怖さと、呪いの怖さの両面を描き出すような構成。つまり、「呪いを根本に置きつつ、実際に襲ってくるのは人間」という考え方はいい。殺し合いに至る夫婦のスレッドがあるんですが、あれはその一例です。互いに隠し持っている憎しみを呪いが加速してしまうというのは、呪いの使い方としてアリだと思う。
 でも、何だろう、ゾクゾクしない。
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『オカルト』はそこが良かったんです。ある通り魔事件が起きて、被害者になった男が出てくるんです。何人もが殺された通り魔事件で、唯一その男だけが生き延びた。男はその事実に何か運命的なものを感じ、オカルト的な要素がそこに絡んで、最終的には大きな悲劇を生んでしまう。観ながら、「こういう人間が、現実の社会にも潜んでいるかもしれない」と怖くなったのを覚えている。

『呪いの家』はどうしても、余所事というか他人事というか、絵空事感が残ってしまうんですね。現実の残酷事件を連想させるのも、考えてみたらかなりリスキーな選択です。現実のほうが怖いよね、と思う観客が絶対いますからね。

 ぼくがこれまで読んだ本の中で、いちばん恐怖したのは、豊田正義氏の『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件―』です。有名な事件ですが、その詳細についての描写が本当に怖くて、思い出すたびに嫌な気持ちになるくらいです。現実にあった出来事の重みはやはり、フィクションの恐怖とは比べものにならない。
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『呪いの家』では、テレビニュースでいくつもの実際の事件が触れられていきます。綾瀬で起きた女子高生の事件とか、オウムの事件とか、神戸の「少年A」の事件とか。劇中では名古屋で起きた妊婦殺人を連想させるものが描かれますしね。観ている間に、現実の事件を思い出してしまうんですよ。そうすると、「所詮はフィクションでしかない」この映画がどうしても、軽く薄く見えてしまう。残酷な描写やエピソードがいくつも出てきますが、そのどれひとつとして、現実の出来事を超えたインパクトを持たない。
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 わかりますかね。
 この映画はわざわざ、自分の映画を死なせているんです。劇中で、登場人物がひどい目に遭ったり殺されたりしますよね。でも、挿入されるニュース映像では、「綾瀬コンクリ詰め殺人」を報道していたりする。映画内の事件より、実在のあの事件のほうがよっぽどひどいよな、と思ってしまうんです。チャレンジングなつくりではありますが、そのチャレンジには失敗しているように見える。なまじ外の世界を描こうとした結果、あの「呪いの家」そのものが軽くなる。
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 もっと、呪いの家を大事にすればよかったんじゃないかと思えてなりません。場所の力としていかにも弱い。怪異の正体をあまりはっきりと描かないのはいいと思うんですが、その分だけ家の中をもっと丁寧に描写しておけばよかった。あと、細かいところではありますが、1988年の高校生を描いた場面なんかは、ぜんぜん時代らしさがないんです。口調とか語彙とかが、80年代に見えてこない。その辺の中途半端さも気になりました。
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 ホラーというジャンルの難しさをつくづく感じます。
 1988年、95年、97年と年代を区切っていく構成である以上、どうしても空気感がリセットされてしまう感じがあるんですね。回を追っていくごとに熱量が増していく、というのが連続ドラマの理想だと思うんですが、恐怖の熱量みたいなものは決して増えていないんです。初回から視点を担う荒川良々も、最後の方ではちょっとおかしなものを見たりするんですけど、たいした危機には見舞われずに終わってしまう。それではクライマックスにならない。レイプされる女子高生の里々佳のエピソードも、最初のほうがピークで、後半に行くとズルズルです。レイプされて怪異に見舞われて母親殺しに走って、最後のほうでは結局、「虐待事件を留められずに売春して暮らす母親」みたいなところに落ち着き、あの家に戻ったはいいもののなんか変にファンタジックな形で退場してしまう。
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 この映画の作り手はやりたいことがいっぱいあったんだろうな、志は高かったのかもしれないなあと思う反面、そのひとつひとつはクライマックスにさほど寄与していない。
 2016年の『残穢 -住んではいけない部屋-』みたいな物足りなさを感じました。

 この映画は正直、「女・子ども」向けではないし、かといって猟奇殺人などに関心を寄せる「うるさ型」の人間を引きつけるとも思えない。従来の『呪怨』ファンには人気なのでしょうか。でも、白塗り子どもも髪の長い女のお化けも出てきませんから、その点のサービス精神はない。多少なりとも映画を観てきたオトナならば、他にも優れた作品を知っているだろうし、この作品はどういう人たちが喜んでいるのかな、と気になります。

 何を言うんだ、とても面白かったぞ、という人のご意見を賜れればありがたいです。
 今日はこれまで。


「巻き込まれ型」のお手本のような作品です。
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 原題:택시운전사
 1980年の韓国で起きた実話が基となっている作品です。主演はソン・ガンホですが、彼は本当に作品に恵まれている俳優ですね。『シュリ』をはじめ、『JSA』『復讐者に憐れみを』『殺人の追憶』『グエムル』『親切なクムジャさん』『シークレット・サンシャイン』『スノー・ピアサー』など、韓国映画といえば一番に出てくる俳優なんじゃないでしょうか。彼が出ていると、なんだか安心して韓国映画の愉しさに浸れます。

 本作は1980年の「光州事件」を題材にしています。全斗煥による軍事独裁政権のもとで、民主化運動を弾圧する事件が起きたのです。ちょうど、香港では今現在も、独裁に対する抗いが続いていて、現実とのリンクにも頭を巡らせる作品でありました。
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話の筋としては、「巻き込まれ型」の見本のような展開です。ソン・ガンホ演ずる主人公のタクシー運転手は、生活に困窮する父子家庭の親父です。うまい話を聞きつけて稼ぎを得ようとしたところで、光州事件を取材するドイツ人ジャーナリスト(トーマス・クレッチマン)に出会い、軍隊とデモの渦の中に巻き込まれていきます。
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 次々といろいろなことに巻き込まれ、新たな出会いや別れを重ねていくのですが、このテンポが非常によく、最後まで飽かずに観られました。「巻き込まれ型」の話の定番として、主人公は最初、まったく問題に無頓着なんですね。民主化を求めるデモを、冷ややかに眺めている。けれど運動家との若者と出会ったり、圧政の現実に触れたりするうちに、自分にとってとても大切な問題だと姿勢を変えていく。展開の骨子をきちんとつくりつつ、次は何が起こるのかとハラハラさせる。脚本がとても端正だったと思います。
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 惜しむらくは、一人娘の存在感が希薄なことと、主人公の心理にあまり絡んでこないことです。物語の描き出すものと、家族の話が絡み合っていないので、とりあえず主人公の背景をつくるために設定されたようにも思える。まあ、家族持ちとして描くことで主人公を愛すべき人物にしやすいし、独身の中年男を描くよりも多くの観客を巻き込めると考えたのでしょう。映画・ドラマ問わずよく見られるやり方ですが、本作に関してはその部分の機能性が弱かったのは事実です。でも、気になったのはそれくらいですね。全体を通して非常によくできていた。
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 人間描写をあまりベタベタさせていないのも、本作ではちょうどよかったのかもなと思います。ドイツから取材に来たトーマス・クレッチマンとは、片言の英語でやりとりをするくらいで、彼の人となりみたいなものが見えてこないんです。バディ・ムービーとして捉えるなら、彼の存在感は弱い。けれど、じゃあ本作に彼の人となりが必要かというと別に要らなくて、あの距離感はぼくとしては心地よかった。同じ作品を描くとしても、彼の描写のさじ加減は監督によってだいぶ異なるところでしょうね。彼を重く描かれても仕方ないし、あれくらいの無機質感でよいのです。民主化の重要性とか説かれてもうるさいだけだし、引いた演技がgutです。
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 全編を通して、女っ気のない映画ではあります。途中、デモ活動に参加する青年と出会い、彼との出会いが主人公を大きく左右するんですけど、あの役にヒロインをかませることもできたでしょう。女子大生を置いておいても話は運べたのです。そのほうが映画的な見栄えはよくなるんですが、そこは禁欲的かつ硬派に行ったなというのも、映画の誠実さと言えるかもしれません。
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 凄惨な弾圧の様子が描かれ、主人公に迫る軍隊の怖さなども活写されていますが、個人的に外せないのが終盤のあるワンシーンです。以下、ネタバレです。
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 弾圧の続く光州は軍によって封鎖されており、主人公たちがソウルに帰る際にも、検問で捕まるんですね。ジャーナリストの持っている映像フィルムがカメラに積まれているし、ソウルから来た車であることがばれてもいけない。検問で軍の調べを受け、絶体絶命。ブツが上がれば即刻拘禁、という場面で、兵士の一人がタクシーのトランクを開けます。すると、ソウルの車両であることを示すナンバープレートが見つかり、主人公同様、観ている側は緊張の極地に立たされる。
 
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 しかしその事実を、なんと兵士は見逃すんです。通ってよし、とタクシーを通過させる。これがグッと来るところのひとつです。とても短いけど決定的な場面で、弾圧に加担する兵士の本音みたいなものをきちんと描いている。弾圧する側だってロボットじゃない。体制への苦悩はもちろんある。けれど、加担しなくてはやっていけない。でも、自分だって今のこの状況を正しいとは思っていない。そういう葛藤の結晶が、あの兵士にはある。できすぎた場面というか、ちょっと反則ぎりぎりくらいのバランスだと思うんですが、あのポイントがあることで、この映画の良さはまた一段と増しました。
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 ストーリーの作り方として、別の選択肢もあったんですよきっと。主人公を引き立たせるなら、あれとは別の巧みなやり方で、軍を出し抜いてもよかった。強引に突破することもできた。けれど、ああいう展開にすることで、当時を生きていた兵士も救われるんです。葛藤の中で弾圧する側に回っていた兵士のことを、ちゃんと考えているなとわかる。あれはすごいと思う。できそうで、できないやり方のように思うし、あの一瞬にこもるものってものすごく大きい。
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 クライマックスにカーチェイスを置いたのも美点だなと思います。タクシー運転手という、主人公の職業。それを活かす展開だし、民主化を夢見る人々の戦いも、映画的に昇華されている。作品の中に込めるべき要素を、抜かりなく込めている。

巻き込まれ型ストーリーの要点を押さえながらも、史実ベースの物語をつくる際の禁欲さも守られているし、エンターテインメント的展開も備わっている。なおかつ、民主化運動というモチーフが、現実社会への問いかけにもなっている。いい映画だと思います。

 再開に当たって、個人的なオールタイムベストテンを考えてみました。1位と2位は不動かなあと思うのですが、3~10位は実質的に順不同です。オールタイムというからには、いろんな年代からまんべんなく持ってきた方が深みが出そうなものですが、映画を意識的に観るようになったのがゼロ年代後半でありまして、同時代的なもののほうにやはり惹かれます。ゆえに2000年代以降に偏っている感じは否めませんが、好きなものは好きだから仕方ありません。余計な前置きはいいや。それでは行ってみよう!



















10 ファイトクラブ  デヴィット・フィンチャー 1999
 大胆不敵な仕掛けとブラッド・ピットの格好良さ。人間の内面を扱う文学は数あれど、それをこれほど鮮やかに、サプライズとともに描き出す作品はそうそうない。原作含め、「こいつぁやられた!」と唸る作品。
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9 学校の怪談   平山秀幸 1995
 完全な思い出枠。かつての風景を愉しく思い出す。実家の近所にあった映画館も今は廃墟。あな懐かしきやジュブナイル。90年代半ば。
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8 グラン・トリノ   クリント・イーストウッド 2008
 観終えたときはぜんぜんぴんと来なかったけれど、のちにじわじわとその良さがわかるようになった作品。イーストウッド扮するコワルスキー老人の変化と決断。
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7 パッチギ!  井筒和幸 2005
 60年代的風景と民族問題と、青春群像。社会に横たわる問題にがっつりと踏み込みながら、エネルギッシュな青春エンターテインメントに仕上がったその傑作ぶりに感嘆。
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6 ソウ  ジェームズ・ワン 2004
 シンプルかつヴィヴィッドなアイディアで一発。短い尺でバシッと決める潔さも美点。
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5 哀しみのベラドンナ   山本暎一 1973
 アニメ的な、あまりにもアニメ的な傑作。説明不要。観ればよし。
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4 息もできない  ヤン・イクチュン 2008
人間の無様さと美しさ、生きていくことの素晴らしさとどうしようもなさが、小さなストーリーの中に色濃く描かれている。
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3 ミスト  フランク・ダラボン 2007
シンプルな舞台立てで、スーパーマーケットという限定された空間に熱をこもらせたのが設定的美点。外のモンスターの恐ろしさに加え、内部に生じる狂気を描き出しつつ、ハリウッド的脚本の要点を完璧に押さえている。
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2 クレヨンしんちゃん
嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲   原恵一 2001

過去と未来を、オトナと子どもの対比によって描き出し、ギャグ満点のエンターテインメントに仕上げた本作。子ども向けでありながらオトナを泣かせてしまうその離れ業に感服。「ヒロシの回想」以上に濃密な映画的時間を、ぼくは知らない。
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1 バトル・ロワイアル  深作欣二 2000
 原作の破壊的設定、その強烈な物語を見事に映像化。脚本の流れの良さとバイオレンスの刺激。コンプライアンスなんかガン無視の映画的享楽が炸裂。
 
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踏み込んでいると見えて、何も踏み込めていないという印象です。
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 先頃、日本アカデミー賞を獲得した本作。パソコンのHDDに入れておいたまま未見だったので、この機会に観てみました。
 
 作中では総理の名前も政党名も一切出てこないのですが、現政権をモチーフにしているのは明確で、テレビ映像には望月衣塑子記者や前川喜平元文科相事務次官も登場します。政治を題材にした作品では架空の政治家、架空の政党などが出されがちですが、本作はそういった方法を採らないことで、現実感を出そうとしたのでしょう。その辺の考えというのはよくわかります。
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 メインの登場人物になるのは、「東都新聞」記者の女性と、内閣情報調査室の官僚です。疑惑を暴かんとする者と、権力の下で働く者。わかりやすい対比構造です。この映画自体が東京新聞の望月記者の本に基づくものだそうで、主演のシム・ウンギョンの役は望月記者ということでしょう。彼女が安倍政権の疑惑追及に奔走したように、シム・ウンギョンもまた政府の疑惑に踏み込みます。内調の官僚・松坂桃李は自身の仕事の正当性に思い悩み、やがて出会った二人は力を合わせて……というお話です。
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 日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞を獲ったシム・ウンギョン。韓国のドラマや映画でも多く主演を務めている人気女優のようです。しかし日本語については、先入観も手伝ってか、どうも拙く感じられてしまいました。細かなイントネーションの部分で、どうしてもネイティブの日本語ではない違和感がある。そこは正直、ノイジーでした。もちろん、他国の言語で演じるなんて実にハイレベルなことですし、彼女の努力や才能は素晴らしいものだと思うけれど、こと作品自体についていえば、あえて外国人を起用したプラス要素は感じられない。あるいは、この手の作品にあえて韓国人女優を使ったことについて、なんらかの政治的・社会的意味をこめているのかもわからないけれど、ではどういう意図があるのかもよくわからない。題材が題材だけに、日本の女優にはオファーを断られてきたそうですが、なんなら若手の新人女優でもいいんじゃないですかね。まさか日本の女優で誰一人、オファーを受けないということもないでしょう。単純に、日本語の点でノイジーだったなという印象は拭えません。
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 松坂桃李が勤務する内調の様子も、いくぶん戯画的に過ぎるというか、あんな薄暗いところで仕事をしているというのは明らかにリアリティがないんです。でも映画全体のトーンは真面目に、リアルにという感じだから、ちぐはぐな感じがしてしまう。あの演出は大いに疑問です。ふと思い出したのは、テレビドラマ『リーガル・ハイ2』の醍醐検事の部屋。松平健演じる醍醐検事は、凍てつくように寒く暗い部屋で仕事をしています。けれどあのドラマはコメディっぽく、漫画的に振り切っていた。一方、本作は別にそういうわけでもなく、ただ薄暗くてその部分への言及もない。駄目な日本映画演出、という感じが拭えませんでした。
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 大きく気になったのはその辺ですが、では物語はというと、うーん、やりたいことは大いにわかるけどなあ、といった感じです。ネタバレがんがんで進めます。
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 望月衣塑子記者を追った森達也監督の映画『i-新聞記者ドキュメント』でも感じたんですが、視点にあまりブレがないんですね。記者が政府の疑惑を追っている、けれど諸々のことがあってなかなか真実にたどり着けない、というときに、その「諸々の部分」が見えてこない。森監督の映画で言えば、他のメディアが見えてこない。望月記者は頑張っているんだと、でも安倍内閣のしっぽを掴みきれないんだと。そして他の記者たちは全然協力してくれないんだと。その苦悩や奔走ぶりは大いにわかるんだけど、ではなぜ他の記者が彼女に協力しないのか、その記者たちは何を考えているのか。あるいは官僚たちが本当は何を考えているのか。そっちが森監督の映画では見えてこず、安倍政権は駄目だ、許せんで止まってしまう。踏み込んでこそいるけれど、本質の部分ではテレビのワイドショーの域を出ていないと感じられたんです。
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 本作『新聞記者』はフィクションの特性を活かして、官僚サイドの物語を描いています。官僚の松坂桃李は結婚しており、子どもが生まれます。妻と子どものために嘘や不正を飲み込むのか、はたまた自分の信ずる正義を貫くのかと葛藤が描かれ、尊敬していた上司の自殺も、その葛藤を深めるものとなります。典型的な「失楽園」問題、「アイヒマン」問題のキャラクターです。

ただねえ、「失楽園」「アイヒマン」をめぐる問題については、個人的にいろいろ考えてきた人間でもあって、この映画の描写はちょっと淡泊に過ぎるというか、「教科書通りに物語を運んだね」という印象が拭えないんです。尊敬する上司の自殺とか、愛妻の妊娠と出産とか、そういうのがどうしても段取りくさい。妻の内面がさっぱり見えず、記号的になっている。松坂桃李に比べて、妻の顔がちゃんと映るショットってすごく少ないです。それでいて、前述の通りの漫画的な仕事場でしょう。正直、この映画を現実の官僚が観たとしても、心の中で何かが揺らぐとも思えない。
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 劇中では、加計学園をモデルにしたような疑惑が、物語の中心になっていきます。総理の古くからの友人が学園長を務める大学。その認可に疑惑があり、なんとその大学では生物兵器の研究が進められることになりそうだ! という話です。
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 これもねえ、「生物兵器」というのが記号的過ぎるんですねえ。
 やっぱり映画として、物語として、中心となる「悪」というのは物語全体に何かしらの関係を持っているものであるべきというか、他の部分でもなにがしかの作用を持つものでなければならないと思う。平たく言えば、本作において、「生物兵器」の部分は他のものに入れ替え可能だということです。何でもいい。核実験研究でもいいし、国民の監視装置云々でも何でもいい。つまり、この映画全体を貫く問題と、生物兵器が何の関連性も帯びていない。

 それは物語の構造として、美しくない。いや、わかりますよ。本質はそこじゃない。生物兵器の必然は要らなくて、政府の疑惑こそが問題意識なのでしょう。わかったうえで言っているのです。だとしても、そこで手を抜いたら駄目だろと。そこは映画全体を貫く疑惑にするか、あるいは映画のどこかしらにその危険性をちりばめておくか。そういう考えのあとがないものだから、作品が記号的になる。
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 シム・ウンギョンの日本語にしても、この映画を成り立たせるうえでは実は致命的にまずいのではないかと、書きながら思いました。言葉のイントネーションのずれがもたらす、実在性の弱まりとでも言いましょうか。この人物の実在感が弱くなって、リアリティも損なわれ、「真相を追う記者」という記号性が浮き立つ。途中、松坂桃李の上司である高橋和也が自殺し、その霊安室に行った彼女が号泣するのですが、これもよくわからない。そこまでのくだりで、別に絡んでないやん。号泣されても共感できねえよ、と置いてけぼりにされる。

 この映画の結末にはカタルシスがありません。いや、それ自体はかまわないというか、カタルシスのなさを通して現実への問題意識につなげよう、という意図はわかる。大いにわかる。でもね、カタルシスがないのと、盛り上がりに欠けるのでは、意味が違います。盛り上がりに欠けては、観客の心を揺らせない。心が揺らせなければ、余韻は残らない。政治家を出さないという方法論はかまいませんが、一方で国民の顔も何も見えてこないし、他のメディアの動きも台詞で語られるだけでよくわからない。すごく狭い世界でごちょごちょやっているだけに見えてしまい、クライマックスとしての機能が果たせていない。
 権力側の人間として出てくるのが、最初から最後まで田中哲司だけでしょう。
 敵が大きくなってくる感じがしないんです。
 せめて、妄想でもいいから、松坂桃李からアタックを仕掛けるべきだった。妄想シーンで田中哲司をぼこぼこにするような、そこからはっと目覚めて現実にぶつかるような、その手の対比がないと、松坂桃李自身の感情的揺らぎが平板なままになる。最後はもっと狂おしく葛藤させていい。廊下のあんなのじゃ足りない。彼は始終お行儀がいいままです。
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 ……と、このあとで少し、政治に関するあれこれを書こうとしたのですが、やめました。ぼくも安倍政権の政治手法には問題を感じていますし、この映画を観た中で政治に興味がなかった人が、たとえ一人でも問題意識を持つようになれば、それはそれで意味があるのでしょう。

 政治とフィクションについては、個人的に、考えを募らせてきた人間でありまして、そういう人間からするとどうにも食い足りないな、というお話でございました。



 昨今は戦後最悪の日韓関係であるとか言われておりますけれど、生来があまのじゃくな性質でありまして、そんなときこそ韓国映画を改めて振り返ってみよう、という心持ちになったのであります。ゼロ年代に韓流ブームなどということが言われ、ヨン様ヨン様と騒いでいたおばさまたちは近頃の嫌韓ムードをどのように捉えているのかな、と気になったりもするのですが、今思えばあのブームも、日本に上質な韓国映画が流入する大きなきっかけになったともいえるわけで、その点では意味のあるものだったなとも感じます。ゼロ年代における韓国映画の躍進ぶりは目を見張るものがありました。
 ぼくは特に熱心な韓国映画好きというわけではなく、観てきた本数もわりと限られるのですが、それでも他の国の映画にはない独特の魅力には、惹かれるものであります。今回は酔狂の一つに、韓国映画ベストテンとしゃれ込みましょう。同じ監督の作品が何本も被ったりしているところから、あまり多く観ていないのがバレそうですが、まあ、それはそれ。とりあえずご紹介して参りましょう。

10位 『魚と寝る女』 キム・ギドク 2000
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 ランキングをつくっておいて恐縮なのですが、正直、内容はほとんど覚えていないのです。なんじゃそら、ということですが、おそらく大学当時にVHSで観たもので、もしかしたら初めて観た韓国映画がこれだったかもしれず、その印象は強烈だったのです。キム・ギドク作品は一時期、集中的に観ていたのですが、本音を言うとどれもよくわからない。この作品にしてもよくわからない。「よくわからないけれど、なんだかすごかった記憶がある」という、実にいい加減な理由で10位です、はい。

9位 『サニー 永遠の仲間たち』 カン・ヒョンチョル 2011
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 友人の死をきっかけに集まったおばさんたちと、彼女たちの青春時代を交互に描く構成で、おばさんたちが少しずつ仲間を集めながら当時を振り返っていく話運びが、脚本としてまず綺麗だなと思いました。大人になってから昔を振り返る、みたいなストーリーは小説なんかでもわりとよくあると思うのですが、本作はそれがとても綺麗にはまっていた印象があります。若かりし頃を振り返る、ということが、胸に迫る年になってきた今、これをランクインさせぬわけにもいかないのであります。

8位 『ペパーミント・キャンディ』 イ・チャンドン 1999
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 このブログで、コメントしてくれた人から教えてもらった作品です。これも強烈な印象を残しているというか、「初めての映画体験」をした記憶があります。ある男の人生を振り返るという構成で、珍しい手法が使われており、映画が進むにつれてどんどん過去に遡っていくんですね。これはねえ、途中までというか、終盤までぜんぜん面白くなかったんです。コメントしてもらってその作品の記事を書く、ということをしていたので、義務感で観ていたのですが、最後の最後で印象が一気に変わった。別にね、ミステリー的な、謎が解けたとかそういう爽快感じゃないんですよ。でも、今でも覚えている、あるシーンの男の表情が、作品全体の印象を書き換えてくれた。人生の重みというか、歩みの重さみたいなものを感じたんです。今もう一度観直したら、余計にぐっとくるかもしれません。

7位 『シークレット・サンシャイン』 イ・チャンドン 2007
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 続けて、イ・チャンドン作品です。映画や物語の面白さのひとつに、「問いの深さ」というのがあります。哲学的というか、人生論的というか、その問いを提示した時点ですでに、半分は勝利を収めている。本作の場合、キリスト教的な「神」をどう捉えるかについての問いですね。主人公の女性は、愛する息子を殺され、その犯人を赦せないと思う。けれどキリスト教に触れ、「赦し」の大事さを知る。犯人の男と面会し、あなたを赦すと告げようとした瞬間、犯人はある驚きの一言を放つ。それをきっかけに女性はさらに深い苦悩を抱く。あの面会シーンだけで、この映画は十分に強さを帯びています。

6位 『トンマッコルへようこそ』 パク・クァンヒョン 2005
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 韓流ブーム華やかなりし頃、おすぎがテレビCMをやっていたのと、そのタイトルの感じから、なんだかつまらなそうだなと思っていたのですが、後年に観てみてやられました。すみません、おすぎ。朝鮮戦争当時の山村で、敵対する南北両軍兵士とアメリカ人が出会い、村人を巻き込んでハラハラの展開に及び、最後はとんでもないクライマックスを迎えます。「最初は蔑ろにしていたもののために、終盤で命を賭ける」という展開は、本作に限りませんが、やっぱり熱いものです。ウィキペディアによると、公開当時の韓国国内では、内容が「親北反米」だと賛否両論だったそうですが、そういう政治的揺らぎを与える作品というのは、好物であります。

5位 『オアシス』 イ・チャンドン 2002
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 またまたイ・チャンドンです。先に挙げた二作品もそうですが、彼の映画は文学的かつ、啓蒙的であるなあと思わされます。脳性麻痺の女性と、冴えない男とのラブストーリーで、ムン・ソリという女優さんの演じっぷりが、観る者を強く引きつけます。韓流のラブストーリーって、思えば『猟奇的な彼女』くらいしか観た覚えがないし、もともと恋愛譚には関心の薄い人間なのですが、本作はちょっと別格です。障害者の人生という、それだけでセンシティブに捉えられがちな話を、ここまで真っ向から描いたうえで、ラブストーリーとして完成させる。すごい。

4位 『スノーピアサー』 ポン・ジュノ 2013
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 映画の醍醐味はさまざまありますが、ぶっ飛んだ世界観というのもそのひとつです。地球全土が寒冷化して雪と氷に包まれているうえに、大陸間横断鉄道が永久機関的な何かでずっと移動を続けており、しかもその内部では貧富の格差がえげつないことになっている、という、設定だけでもう完全にぶっ飛んでいる作品です。グラフィックノベルが原作で、韓国・アメリカ・フランスの合作らしいのですが、三カ国の作り手がこんな、ともすればアホみたいな設定の作品を真面目に作り、気合いの入ったものをつくりだしたというのが感動的です。しかも、ソン・ガンホ演ずる準主役的なキャラが、ヤク中ですからね。最下層のどうしようもない空間から敵をぶっ倒して突き進んでいくパワープレイも絶品だし、ひとつひとつ車両を移るたびに、世界が変わっていく悦楽もある。ミステリー的な仕掛けも施されているし、社会批評的な感じもある。こういうぶっ飛び映画は、いいなあ。

3位 『新感染 ファイナル・エクスプレス』 ヨン・サンホ 2017
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 韓国製ゾンビ映画の、ひとつの金字塔を打ち立てたんじゃないでしょうか。何百とあるであろうゾンビ映画の新機軸をつくるのは至難の業ですが、本作は高速鉄道の車両内部をメインの舞台とした傑作です。ゾンビ映画の本場アメリカでは銃が標準装備だし、映画も傑作の日本の漫画『アイ・アム・ア・ヒーロー』でも、主人公は銃を持っている。けれどこの映画はそこをかたくなに守り通して、銃を一切使わないんですね。韓国映画の主力武器といえば「ヤッパか鈍器」ですけれども、その二つもそれほど使わず、とにかく回避行動で見せまくる。ゾンビ映画の作り方としても潔い。これは自信を持ってランクインさせます。

2位 『グエムル 漢江の怪物』 ポン・ジュノ 2006
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 漢江から現れた怪物に娘をさらわれ、家族が必死の追跡をする本作ですが、まずもって怪物のサイズ感がめちゃめちゃ絶妙です。ゴジラ的な大きさでもないけれど、動物にしては大きすぎる。しかも素早くて正体もよくわからない。あの造形にやられました。原始時代の人類が、集団でマンモスを倒そうとする画を教科書などで見たことがあると思いますが、ちょうどあんな感じの、力を合わせればなんとか倒せるかどうか、くらいのサイズなんですね。遺伝子に組み込まれた原始時代の記憶を、揺さぶってくる大きさなのでしょうか、実に心地いい。警察も軍隊も当てにならない中で、家族同士が力を合わせて追いかけるというのも、物語の構図として綺麗ですし、怪物を倒すクライマックスもいい。韓流ブームの中、日本でもヒットした作品ですから、これで韓国映画の面白さを知った人も多いのではないでしょうか。ぼくはたぶん、その一人であります。

1位 『息もできない』 ヤン・イクチュン 2009
 
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 ここまでの作品の中でたぶん、最も低予算の作品でしょう。主演・監督・脚本・製作を一手に担ったヤン・イクチュンが、資金援助を受けたり、家を売ったりしてつくった作品だそうです。しかも原題は『糞蠅』という意味のことばらしく、おそらくはもう取り憑かれたようにしてつくっていたのでしょう。その分だけ、熱のこもった一作であり、映画館に通う趣味のないぼくが二回観に行きました。じゃあどういう映画なのか、魅力を存分に語るのだろう一位にしたんだから、と思われましょうが、これはもう観てくださいというだけです、はい。別に、すごいCGがあるわけでもないし、設定がぶっ飛んでいるわけでもないし、2位から10位の作品にあったものすべてがない、かもしれない。地味だし、小さな話だし、人によってはなんとも感じないかもしれない。
けれど、主人公のサンフンと、ヒロインのヨニを通して、またその家族を通して、生きることのくだらなさとかつまらなさとかどうしようもなさとか、尊さとかが、確かに描かれている。2位から10位の順番は、この先たぶん入れ替わるし、別の作品でもいいものはたくさんあるけれど、この1位はすぐに決まりました。

 10位までに入れなかったけれども、ほかにも入れるべき作品はいくつも思い浮かびます。また、未見の韓国映画はまだまだあるし、そう考えるとあらためて過去作を観てみようかという気にもなるものです。世間には嫌韓的な意見も多いし、中には韓国人の民族性まで否定するような人もいる始末ですが、ここに挙げた映画を観るだけでも、ぼくにはまるでそんな気持ちは起こらない。政治的意見はさまざまにありましょうが、個人的に、映画文化においては敬意を抱いてやみません。日本の作り手が見習うべき部分も本当に多いのです。
 あなたのおすすめ韓国映画は何ですか? という、月並みな締めの文句を置いて、ひとまずはここまでに。アンニョン。


構成上の致命的な難点があると思いました。
『カメラを止めるな!』 上田慎一郎 2018_d0151584_00165370.jpg
 昨年、インディーズ映画ながら世間の話題をかっさらった一本ということで、アマゾンプライムにてレンタルして観ました。

 大絶賛の空気に充ち満ちていたという記憶があるのですけれども、そのせいで期待値が上がったせいもあるのか、ぼくはぜんぜん楽しめませんでした。

 いや、そういうと語弊がある。話題になっている長回し、冒頭の37分間は熱量がこもっていて愉しかった。掴みはいいし、テンポもいいし、ちょっとぐだつくような場面もそれはそれでリアリティ演出なのかと思ったし。チープで陳腐といえばそうともいえるゾンビ系シークエンスだけれど、これを第一幕に据えるなら後半は期待できるぞ、と思って観ていました。

 言ってしまうと、第一幕は劇中劇です。途中で、これは劇中劇なんだな、というのはわかってくるというか、違和感はありますからね。目の前のどたばたを映し続けているカメラは人称があるのか、はたまた非人称なのかとわからなくなる場面もあるし、細かいところで劇中劇っぽさは露骨に出ている。

事前情報をほとんど無しで観たので、最初の部分を前フリにして、本当のゾンビアクションに行くのかなと思った。あるいは三谷幸喜の舞台である『マトリョーシカ』のような気の利いた構成があるのかと思った。ところが、そうではないわけですね。その展開をどう捉えるか、という部分において、ぼくはまるきり乗れなかった。というか、脚本的な要点を外している気がしてしまい、なぜこの構成で絶賛されるのかがよくわからないです。

 言ってしまうと、この映画の後半は、長回しゾンビシーンのメイキングなんですよね。

『ワンカット・オブ・ザ・デッド』なるゾンビ作品ができるまでの経緯を、ひとつひとつ追っていくという形で、出演者の人となりが明らかになっていく。あのシーンの裏側にはこんなことがあったのだ、みたいなことをいくつも明らかにしていって、ギャグ的要素がたくさん織り込まれている。

 なるほど、その構成自体には驚きがあるというか、ああいう展開になるとは思っていませんでした。そこには意外性があります。けれど、意外性以上の何かがあるとは思えなかった。この作品には致命的な構成的欠点があると思うのですが、絶賛した人たちには特に気にならなかったようで、ぼくはひとり、もやもやしています。

 この映画における構成上の欠点は単純です。
 第一幕の興奮を第三幕が超えないということです。 

物語というのは宿命的に、クライマックスへの期待を宿しているものです。すなわち、序盤よりも終盤のほうが盛り上がらねばならない。序盤だけすごくて終盤がしょぼければ、やはり観終えたあとの興奮は生まれないのです。この映画における本当のクライマックスには、興奮がないと思うんです。

 その理由はとても明確で、二つ指摘することができます。
 ひとつに、「賭けているもの」の大きさ

 ゾンビの場面は長回しの場面で、それなりに緊迫感も実在感もあったし、何よりゾンビシーンというのは登場人物の「命」が掛かっている。ゆえに、観る側は感情移入して、その命をいかに守り抜くかに注目するわけです。
  
 ゾンビ映画に限らない。パニック映画だろうがサスペンス映画だろうがアクション映画だろうが、多くの物語は「命」について語っており、文字通り生きるか死ぬかを描くことで観客を興奮させる。生きるか死ぬかは人間における最も根本的な問題だからこそ、観る側はわかりやすく没入することができる。たとえ虚構であっても、その命に実在感を宿すのが良い物語であって、「命」に勝る賭け金はないのです。

 ところが、本作は第一幕で「命」を賭け金にしておきながら、第三幕はそうでなくなる。つまり、賭けているものが軽くなる。これ、普通は逆。いや、物語のあるべき姿として逆なんです。最初はたいしたことないものを賭けていたのに、後半では命を賭けることになった、というのなら盛り上がる。けれど、本作はその常識を悪い意味で打ち破っているために、どうやっても最初の長回しを超えてこない。第一幕の劇中劇は拙いながら、陳腐ながらも熱量を帯びていた。命を賭け金にした物語を描写していた。
 でも、後半はそうでなくなってしまう。

そして、もうひとつのほうが致命的欠点だと思うんですけれど、本作の終盤にはハラハラがないんです。ハラハラのないクライマックスとしか言いようがない。

 だって、完成品をこちらはもう観ているわけですから

 後半は、あの完成品ができるまでをずっと追っていくんですけれど、メイキングを後半に据えたところで、この構成ではどうやってもハラハラしようがない。完成した作品、観客が既に観た作品の裏側をずーっと描いているだけですから、この先どうなってしまうのか、というサスペンスはありません。
 
 これが、完成品の結末を描いていないならわかります。序盤でとりあえず、『ワンカット~』の途中まで観客に見せておいて、あえてその終わりを見せずにおいたのなら、観客は先を読めずにハラハラできる。でもねえ、「作品は無事に完成した」ってことを、観客は既にわかってしまっていますからねえ。無理だと思うんです、これでハラハラさせるのは。なんで第一幕の部分で、完成品のラストまでを見せてしまったのか不思議でならない。何の得もない。どうせだったら、あの劇中劇を途中でばしっと切ってしまったほうがよかった。そうしないと、クライマックスがクライマックスにならない。劇中劇とメイキングのクライマックスが同期していれば、もっと違う興奮があったはずなのに。

 ラストの場面。屋上でのシーンを撮影するためのクレーンが使えなくなるんです。
クレーンがなければラストカットを映すことができない! どうするんだ! 何か手はないのか! ということで、スタッフ総出で組み体操をして撮影するんです。

観ている側としては、ああ、そういう裏側があったのかあとは思う。でも、あの組み体操が完成するかどうか、まったくハラハラしない。だって、既に完成品を観ているから。完成したことは既に知れているから。だから、答え合わせに付き合わされている感じになってしまう。成功するのか? はたまたしないのか? いったいどっちだ!?

 いや、もう成功したのわかってるやん、というね。

 これはね、回想の構造が致命的に帯びている欠点なんです。

 本作はまず、劇中劇を映したうえで、その一ヶ月前に溯る。こういう回想的構造だと、観る側は焦れてしまうんです。なぜなら、回想というのは説明だからです。こういうことがありました、あの裏側は実はこうでした、と並べられても、観客はぜんぜん先に行けない。観たいのは、第一幕よりもあとの時間なんです。ダニー・ボイルの『スラムドッグ・ミリオネア』という映画がありますが、あれはそこをわかっているんですね。途中までは、過去を振り返っていく構成なんですけど、最後にはちゃんと未来に辿り着く。そうでなければ、第一幕を超えられないからです。

物語一般について言うなら、ただひとつ、この回想構造が許される場合があります。ミステリーがある場合です。序盤で大きな謎を仕掛け、それが回想シーンによってだんだんと解き明かされていくというスタイルなら、回想内における説明も、謎解きとして許される。いや、むしろ歓迎される。

 しかし、本作は肝心の謎を仕掛けていません。
『ワンカット~』を観ている間、 随所随所に違和感はある。でも、それは謎というほどのものではない。なんか荒いなーとか、ここはなんでこんな撮り方なんだ? みたいな小さな違和感はたくさんあるにせよ、そのひとつひとつが決して魅力的な謎になっていないんです。だから、回想構造がただの答え合わせに過ぎなくなる。「ああ、あれはそういうことだったんだねー」とは思っても、「そういうことだったのか!」という気持ちよさにならない。「そういうことだったんだねー」はいくつもあるけれど、多くのミステリーが有しているような伏線回収の快楽に及ばない。

まとめるならこういうことです。

 ひとつ。第一幕で命を賭け金にした以上、第三幕は同等以上の賭け金を持たねばならない。しかし本作の第三幕にはそれがない。
 
ふたつ。第一幕の時間よりも、第三幕が先に向かっていない。その場合は魅力的な謎の展開と回収が必須であるが、本作は謎を効果的に活かしていないため、答え合わせの域を出ず、ハラハラすることもない。

本作が何の話題にもなっておらず、評価もされていないというなら、そこまで悪いものじゃないよ、もっと評価されていいのに、というスタンスで観ることもできるのですが、世間では大傑作みたいな扱いになっているので、むしろ上記のような欠点が気になってなりませんでした。


連ドラにしたほうが絶対にいい。
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 山上たつひこ原作、いがらしみきお作画のコミックを実写化した作品です。コミックのほうはずいぶん前に途中まで読んだのですが、細かい筋はまるで忘れておりましたので、フラットな目線で観ることができました。
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 受刑者の更生を図るため、地方都市に移住させるというプロジェクトがあり、複数の受刑者たちが街に越してきます。過去に殺人やらクスリやらの罪を犯していたり、元ヤクザだったりという背景を持つ者ばかりで、まずもってこの設定が秀逸だなあと思いました。

 原作を通底するテーマでもあると思うんですが、やはり人間というのは、他人をその経歴によって判断してしまうものです。仮釈放を許された相手とはいえ、どうしても警戒心を抱いてしまう。それを偏見と呼び、批判することは容易いけれど、いざ自分のそばにいたら果たして自然に付き合えるのか。

 そういった社会哲学的なテーマを底流させつつ、物語にも緊張感を与えることができます。いつ、どこで何が起こってもおかしくない。そんな緊張を持続させられるこの設定には、「やられた感」がありますね。
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監督は『桐島、やめるってよ』で一世を風靡した吉田大八氏。映画では元受刑者の数が六人いて、それぞれのスレッドを描いていきます。この辺の塩梅についてはまたあとで述べますが、前半は各々を小刻みに描いていくので飽きさせません。
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 細かい部分にも美点がありました。ぼくがとりわけ唸ったのは、本当に細かいんですが、会話の場面です。本筋とは関係ない部分なんですが、会話の見せ方がうまいんです。松尾諭と木村文乃が会話する場面なんですが、お互いに話題を振り合って、お互いの会話をちょっと避ける感じとか、日常の風景をうまく切り取っているなあと唸らされました。
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 前半は飽くことなく観られましたが、それはひとえに緊張感。「何が起こるのだろう、ハラハラ」が続いているからなんですね。主人公の錦戸亮もちょうどよく収まっているし、あの優香があんな感じであんな場面を演じる年になったのだなあなどと小さな感慨を覚えたりもしました。
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ただ。うーん。よかったのは前半までかなあというのもあります。
 撮り方はとても安定しているし、安心して観られるのですが、こちらが待っているような爆発に乏しく、スレッドごとの絡みもちょっと弱いです。脚本と編集の問題が大きいです。
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 主軸となるのは、錦戸亮と松田龍平の話なんです。元受刑者で、何を考えているかわからない松田龍平がおり、彼が木村文乃と仲良くなり、錦戸亮は彼女に惚れているからいざこざがあって、みたいな部分がメインの位置に置かれているんですが、ここに重きを置きすぎたばかりに、ほかの受刑者たちの話が添え物的になってしまった。あれ、途中からぜんぜん出てこなくなったな、というほったらかしスレッドがわりとありますし、そもそも話が膨らまないスレッドもある。市川実日子は、『シン・ゴジラ』のときと比べてもあまり演じがいがなかったんじゃないでしょうか。ただ、淡々と暮らしているだけですから。

 いや、それはそれでひとつのリアルかもしれないけど、もうちょっとほかの人と絡むなりなんなりほしくなります。田中泯は元ヤクザの役で、序盤では現役の組員と絡んだりするんですけど、結局それも膨らまない。後半のどこかで、もう一度ヤクザたちを出すなりしないと盛り上がりに欠けるし、設定が使い切れないでしょう。
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水澤紳吾は理髪師として街に暮らすようになり、彼の出てくる場面では面白い箇所が二つあるんですけど、あれはあの順番でいいのでしょうかね。先に酒席で暴れちゃってから、後半でおやっさんとの人情話をおいたほうが、構成上絶対綺麗でしょう。水澤のくだりはあまりにももったいないというか、暴れたあとで何の振り返りもないですからね。

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 優香はまさかのベロチューシーンあり、いい意味で優香らしくない枯れた演技ありでよろしいのですが、これまた後半のシーンに緊張感がない。
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クライマックスを作り損ねているなあという感じが大きいです。伊坂幸太郎ばりのチェーンテリングを期待してはいけないかもしれないけれど、北村一輝があれだけ煽っておきながら、最後はただやられちゃっているし、本当に脚本がもったいない。

 うん、脚本が変なんです。この映画。もしくは情報の順番が効果的ではない。
 終盤のくだりで、松田龍平が過去にどんな罪を犯したかについて、錦戸亮が聞き出そうとする場面があります。もしかしたら、明らかになっていないひどい罪を犯したんじゃないか……みたいなサスペンスを持たせたかったのかもしれません。
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 でも、ぜんぜんサスペンスになってないんです。
 だって観客には既に、松田龍平が「あんなことをしちゃっている」のが見せられていますからね。かなりやばい奴だってことは既にわかっているんです。何も知らない錦戸亮だけが、ハラハラしている状態です。嘘でも、北村一輝がどこに行ったのかという話にすべきだったでしょう。

 原作だと受刑者はもっと多いんですよね。だから嫌でもお互いが絡む話になるし、緊張感がいろいろな形で生まれるわけです。けれど映画では、そこが弱い。どのスレッドも中途半端に独立してしまっている。

 だからこれ、映画でやるより、連続ドラマでやったほうが絶対面白くなると思います。連ドラ版を観てみたいです。基本設定は秀逸だし、海外ドラマのフォーマットとして売り出してもいいくらいに優れた着想です。二時間でやるにはどうしても限界があって、二時間で納めようとするとどの要素も中途半端になる。

 前半まではいい感じでハラハラさせてくれたけれど、後半は要素を絡ませきれなくなり、切れ味の良くないクライマックスになったなあと感じざるを得ません。バンドの話も結局何にも活かされないから、松尾諭は「おれ、何のために出たんだろう」と思ったんじゃないでしょうか。恋愛要素とか三角関係は思い切ってカットし、受刑者同士をうまく絡める話にしたほうがよかったと思う。そこで、彼らの人となりや葛藤はもっと描けたはず。

連ドラ版を期待したい作品でありました。


この作品は、これでいい。
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 かなり話題になり、評価も集めた漫画ですが、ぼくは未読でありまして、「聴覚障害者の出てくる作品」という以外の予備知識はほぼゼロで観ました。観終えた後で知ったのですが、絶賛している人も多い一方、町山さんはキャラクター造型に否定的な話をしていたりするようです。まあ、うん、そこはまあわかるかなというのはありますが、うむ。
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 序盤は小学校の話です。主人公の将也のいる学校に、聴覚障害者の西宮硝子が転校してくるところから話が動き出します。最初は物珍しく受け入れていたのですが、硝子がだんだんといじめられるようになり、そのいじめが発覚してから将也は暗い人生を送るようになってしまい、そのまま物語は高校時代へと移行します。
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 高校生になった将也は小学校時代とは対照的に暗い毎日を送っており、自殺まで考えるほどに落ち込んでいます。一方、過去の体験ゆえか手話を習ってもおり、手話教室に出向いたところで硝子と再会し、話の本筋が動き出していきます。
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 この映画はいい映画か、そうでないか。
 賛否もあるだろうと思いますが、ぼくはその賛否を招いたことひとつをとっても、いい映画なのだろうなとは思います。この映画を観た後で、よくないところもいろいろ語れるだろうし、一方で美点も大いにある。観た後でいろいろ語れる映画は、総じていい映画でありましょう。
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 アマゾンの★レビューなどを観る限りは実に3分の2が5つ星を挙げているくらいですし、アニメファンの勘所を押さえているのもウケた要因だと思いますね。ラノベでは既に「テンプレ」といえる設定でしょうが、主人公は孤独な高校生であり、自分を慕ってくれる無垢な美少女がおり、母親は「姉貴かよ」とつっこみたくなるほど若々しく、それでいて父性的存在=大人は希薄に描かれている。ついでに、これまた無垢そのものの可愛い幼女キャラがおり、生意気系の妹キャラやツンデレな(そしてヤンデレっぽくもある)元同級生、博愛主義のクラスメイト、無害にして善良な友人などを配合。「こういうの好きだろ」っていう設定を的確に突いている。ベッタベタに手垢のついた日常設定に障害者という「異物」を埋め込みつつ、青春を描く。きわめて周到です。
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 このように言うと突き放したように聞こえるかも知れませんが、違います。アニメファンや漫画ファンを引きつける王道をきちんと押さえているね、ターゲッティングがしっかりしているね、ということです。見習うべき部分が大いにあるのです。

 障害者を描くということは、何につけその描き方が議論の的になるものですが、本作については町山さんが疑義を呈していました。いわく、西宮硝子を綺麗なもの、か弱いものとして描きすぎではないか。障害者だって陰の部分はあるわけだし、障害者を綺麗なものとして描きすぎることは、むしろ彼らを遠ざけることにならないか。障害者の人間性を描けていないのではないか。というような話でした。

 確かに本作の硝子は、綺麗でか弱い存在なんですね(原作は未読なので、映画についてのみ言及しています)。小学校でいじめられても不満そうな顔をしないし、周りから嫌われても暗い顔を見せない。臆病かつ美しく、将也に想いを寄せている。小学校の教室で将也につかみかかる場面はありますが、高校生時代には妹と喧嘩するくらいで、外に対しては陰の部分を見せません。町山さんは、登場人物の少女・植野の怒りに同調を見せつつ、硝子の人間性が見えづらいと指摘しています。

 障害者をモチーフにした映画において、本作の描き方は是か非かということです。

 うーん。

 ぼくなりに思うこととしては、この作品がどの層を狙っているかってことですね。そして、現在の日本における障害者のあり方ってことにも絡んでくると思います。

 上述したように、本作はアニメファン、漫画ファン(ないしラノベファン)、つまりはその種の若者向けの作品として、ツボを押さえています。そして現にウケている。であれば、西宮硝子の人間性を微細に描く、陰影をつけて描くというようなことは--身も蓋もない言い方ですが--マーケティング上、不要なんです。
 これは思うに、「文学を観たいか、アイドルを観たいか」ということでもありましょう。町山さんは文学を観たいと思った。そこにある障害者の人間性。社会や人間関係に対する不満。利己的な部分。打算的な部分。そうした負の部分をも含みこむ文学性を求めた。
 かたや、多くのアニメファンにとって必要なのはアイドル性でしょう。
 主人公に食ってかかるヒロインは可愛くありません。『あの花の名前を僕たちはまだ知らない』におけるめんまがそうであるように、主人公に対しては無償の愛を注ぐか、ないしは主人公にとって適度に都合のいい人物であってほしいのです。利己的で打算的な、人間くささなど要らない。いや、まったくないのも退屈だ、ちょっとだけあればいい、無害なレベルでスパイスを利かせてくれればいい。それがアニメや漫画における、人気ヒロインというものです。
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 だから、本作としてはこれでいい。裏を返せば、本作はあくまで本作のレベルに留まる。高校生の母親なのに20代にも見えてしまう金髪の母親が典型。重んじられているのはリアリティよりもアニメ的心地よさです。もしもリアルな障害者像を本作が求めるなら、あの母親だってもっとリアルに描きます。登場人物のリアリティラインがそうなるでしょう。でも、本作はそういう作品ではないのです。
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 なんだかんだ言ってくさしてやがるじゃないか、と思われるなら、くどいようですが本当に違います。そういう作品だからこそ、広い人気を集めたとも言えます。そして、広い人気であるがゆえに聴覚障害者への関心が高まり、理解が少しでも深まるなら、それはいいことです。
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 感動ポルノなんて言葉もありますが、現代の日本はおそらく、「障害者のリアルな姿」「障害者の人間性」などに興味を持つほど、障害者に関心がありません。残念ですが、そういう状況です。東京オリンピックに関心が集まれど、パラリンピックは大して盛り上がらないでしょう。障害者が健常者と同じレベルまで努力する姿は「感動」を呼ぶけれど、健常者を超える能力を持つ障害者には興味がない。健常者が上、障害者が下。健常と障害という言葉もまた、その認識を保ち続けます。障害者雇用を中央官庁が水増ししていても国民は大して怒りを持たず、残虐きわまりない差別的殺人も風化していく。
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 いい悪いではない。日本の現状はその程度だということです。なればこそ、まずは障害者の存在に興味を持てる題材を広めることが大事であり、ヒットのツボを的確に押さえる作品は大切にしなければなりません。町山さんが期待する、細やかな人間性うんぬんにいたるのは次の段階なのです。アニメ好きな若者が本作を観て、障害者に興味を持つことがあるならそれでいい。障害者という存在を遠巻きにではなく、アニメキャラを通して身近に感じてくれたり、好感を持ってくれたりしたらそれでいい。西宮硝子は終盤で自殺を図る。その悩みの片鱗を見せることができればそれでいい。この作品は、社会的役割を十分に果たしているのです。硝子の拙い喋りが聴覚障害ゆえの響きでなく、可愛さを帯びるのならそれもいい。
 
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 この作品は、町山さんが期待するほどの水準にある作品ではない。
 ただ、日本の現状を鑑みる限り、それでいい。

 褒めてるんだか貶してるんだか最後までわかんねえな、と思われたかもしれませんが、多少なりともいい年をこいてくると、この手の青春譚に諸手を挙げてワッショイする気には到底ならないものなのです。むしろ、周りのことをあれやこれやと考えるものなのです。
 そしてそのうえで、ぼくはこの作品に対して、とても肯定的であります。


面白い。あるいは抵抗感。
『全員死刑』 小林勇樹 2017_d0151584_19181838.jpg

 2004年9月に福岡県大牟田市で起きた殺人事件。それを取り上げた鈴木智彦氏のノンフィクション、『我が一家全員死刑』を原作とする作品です。小林勇樹氏の作品で、公開時に27歳という若手監督です。

 実在の出来事が題材という点では、前回取り上げた『否定と肯定』に通じます。しかし、描き方は真逆です。脚色をちりばめ、才気煥発の言葉そのままに、エネルギー漲る作品となっています。
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 クラシックとエロスを混ぜ合わせた冒頭シーンは園子温を彷彿とさせ、その直後に痛々しく無様な暴力シーンをかませる。舞台を静岡に置き換えたそうで、シーンの中で交わされる会話は方言ばりばりの粗野なやりとり。掴みとして十分なインパクトを与えます。
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 この映画はやりたい放題やるぜ! という宣言も高らかに、その後に続くシークエンスで主人公一家の様子を描きつつ、冒頭25分というタイミングで最初の殺人にいたるところなどは、脚本術の王道をしっかりとなぞっている。ただの乱暴な映画ではなく、きちんと計算している周到さも好ましいところです。
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『全員死刑』 小林勇樹 2017_d0151584_19275425.jpg

 登場するのは軒並みDQNな連中であり、風景の切り取り方も相まって、90年代的な風合いも漂います。間宮祥太朗演ずる主人公もさりながら、その彼女の存在感もぼくは好きでした。清水葉月さんという女優なのですが、「蒼井優マークⅡ」というフレーズがぱっと思い浮かび、ぼくの頭の中を巡っていました。観てもらえばわかってもらえるでしょう。この蒼井優マークⅡがまたいいのです。見た目には小綺麗な感じなんですが、言動はしっかりとDQNであり、ああ、土着の女だなあと思わせてくれる。小人症の男性を雑に扱う点も含め、余計なポリコレに気をとられてない感じは、若い作り手ながら嫉妬を抱かされるものであります。
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 一人一人の顔立ちが適切だなあとも思いました。六平直政はもとより、毎熊克哉さんという俳優はいかにも地方のワルにいそうな感じです。監督につくりたいものが明確にあって、その空気感を的確に醸している。ぼくは現在、東京の中でも都会に位置する場所で暮らしていますが、ここに住んでいてはわからない地方の雰囲気が伝わってくるんです。ああ、日本にはまだまだこのような乾いた街が山ほどあるのだろうなあと確かに思わされる。地方を描くということなら、2000年代以降はとりわけアニメの世界で花開き、数々の「聖地巡礼」ブームなどを巻き起こしたものですが、それとはまったく別種の乾いた風景。地方都市が持つひとつのどうしようもなさ。そんなものが随所に垣間見られ、映画として非常に強いものを感じます。
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 映画好きの人たちも多く絶賛しているようであり、それは確かにわかる。エネルギッシュな作品として確立されており、才気漲る若手監督ということなら、80年代の石井聰互をも想起させる。放埒な悪魔たちを描いた映画なら『マーダーライドショー2』と併映して、悪に酔い痴れる快感に溺れてもいいでしょう。

と、映画として絶賛を惜しむものではないのですが、やっぱりぼくはどうしてもまじめっこちゃんになってしまうのです。なってしまう部分があるのです。

 とかく現代ニッポンにおきましては、「道徳的横槍」が方々に乱立します。ちょっと尖ったCMがあれば「差別的だ」といい、ブログに写真をアップしたタレントがあればその画像を見て「違法ではないか」といい、ツイッターで楽しいことを呟いた人があれば「不謹慎だ、楽しめない人のことを考えろ」と横槍をぶっさす。そういうものにわたしはなりたく、ないのですけれども、それでもなおこの映画についてどうしても引っかかってしまった。

 発生から15年も経っていない実在の事件であって、被害者の遺族は果たしてどのような気持ちなのだろうなと、その思いを拭えないのですね。監督が遺族とどのようなコミュニケーションを取ったのかわからないし、遺族としてまったく問題ないと言っているのならぼくがあれこれ言うのは余計の極みなのでしょうが、どうにも主人公たちが魅力的に映っていて、どうにも殺される側が滑稽というか、軽い。
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 たとえば最初に殺される青年は、アホみたいなユーチューバーなんですね。ありがちなバカ企画をやって盛り上がっているうちに襲われるんですが、この脚色にどうしてもざわざわしてしまった。あいにく原作のノンフィクションを未読なので、被害者の人となりなどはわからないのですが、あんな風に軽い存在なのでしょうかね。鳥居みゆき演じた被害者女性もそうで、あれだけ見ると人生に何の重みもないアッパラパーの成金なんです。被害者がどういう人かわからない。殺されても仕方のないくらいに悪辣な人だったのかもぼくにはわからない。でも、わからないからこそ不安になる。これを面白いと言ってもいいものだろうか。
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 最後に殺されるのはどうもゲイっぽい青年なのですが、そこはどの程度真実なのか。仮に本当にゲイだったとして、あのような描写を青年の遺族や知り合いが観たとき、納得するものなのだろうか。少なくとも、あの青年はあの場に居合わせただけであり、犯人たちに殺されるべき理由は何一つない。にもかかわらず、あのような描き方でいいのか。
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 原作者の鈴木氏は、「死者への敬意を欠いていないか」と監督に指摘したそうですが、監督は「観る側が気にする必要はない」と割り切っているようです。確かにそうなのかもしれない。ただ、この映画を面白く感じ、あの主人公たちに魅力を感じたとき、実際の殺人事件をぼくは(たとえちょっとであっても)肯定してしまうのではないか。気にする必要はないと言われても、それを決めるのは果たして監督なのか?

 それを言い出したら戦争映画も駄目だし、架空であっても殺人事件や犯罪者を描いたものはダメじゃないか。

 うん、そうかもしれない。ただその言い分が正しいとしても、だからこの作品も問題ないと言い切ることが、ぼくにはできない。
 
これってわりとナイーブな問題だと思うんですけど、世間に数多いると思われる「道徳自警団」(古谷経衡氏の造語)は、何も反応していないんですかね、よくわかりませんけど。CMとかタレントにはかみつくのに。映画だからいいの? でも、反日映画ならネトウヨは怒るよね?

 いや、ぼくはこの映画を否定したいわけではない。前半で申し上げた通り、映画的な出来はとてもいい。ただその分だけ、この映画に対する葛藤もせり上がってくるのです。

 さて、あなたはいかがでありましょうか。


この映画を観て語る時間も、鑑賞体験。
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 原題 Denial

 ホロコーストの歴史をめぐる実在の裁判をもとにした作品です。実際の出来事は「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」と呼ばれているようです。

 歴史学者のアーヴィングはホロコースト否定論を唱えているのですが、その主張を女性の学者・リップシュタットが批判します。すると、その批判が名誉毀損に当たるとして、アーヴィングが訴訟を起こすのです。いわゆる歴史修正主義について取り上げた映画であり、とても興味深く観ました。
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 歴史問題にせよ、もしくは現代日本における原発問題にせよ、常々厄介だなあと思えてならないことがあります。それは一言で言えば、事実と主張の問題です。

 どんな主張を持つにせよ、まずは事実の探求から始めなければなりません。事実を蔑ろにした瞬間、すべての議論は(およそ必然的に)不毛になります。主張はひとまず後回しにして、何が合意可能な事実なのか、その合意点を見出さねば議論は始まらない。歴史にせよ科学にせよ、それが学問だろうと思います。いや、学問に限らず、どんなことにも当てはまる。

 ごく単純に言えば、理性と感情の問題です。事実が理性から導かれる一方で、主張の根源には感情が付随する。であるならば、感情=主張は後回しにして、まずは理性的に事実を見極めねばならない。

 しかし、人間は感情の生き物であります。感情=主張が前に出てしまう。その結果、結局は議論にならない当てこすり、罵り合いばかりが跋扈する。こういうのが本当に厄介だと思います。
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 本作におけるアーヴィングは結局のところ、ナチズムを正当化したいという感情が根底にあって、そこからホロコースト否定論に向かっているのでしょう。こうなると、適切な議論になりません。感情が根底に居座っている以上、理性的な判断は狂ってしまいます。
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「自分はユダヤ人差別に断固反対する、ナチスやヒトラーの思想などもってのほかだ、そのうえでなお、私はホロコーストを否定するのだ」というなら、まだ聞く価値はあるかもしれません。その人は感情ではなく、なんらかの客観的根拠があるのかなと思う余地がある。

 でも、このアーヴィングはそうじゃないっすからねえ。
 おまえの感情に付き合わされたくないよこっちは、という話でしょう。

 ただ、これはもちろん逆も言えるんです。「ユダヤ人差別はいけない、ナチスを擁護してはいけない、だからホロコーストの否定を許してはならない」というのも、厳密な意味ではまずい理路だとぼくは思う。ホロコーストの実在/不在はあくまでも証拠や証言に基づいて判断すべきことであって、ナチズムの是非や差別問題それ自体とも切り離して論じられるべきなのです。

 だから正直な話、ホロコーストが存在しなかったなら、それはそれでかまわない。
 綿密な歴史研究の結果、ホロコーストの不在が証明されたという事態がもしも起こるなら、それを受け入れる覚悟が必要です。歴史に関する議論は、その覚悟が始まりなのだろうと思います。

 ここから派生して原発論議への所感をだらだら述べそうになるのですが、映画から離れるので置いておきます。
 レイチェル・ワイズ扮するリップシュタットは被告となってしまい、弁護団の力を借りて裁判に挑みます。
 惜しむらくは、彼女自身が法廷で何のアクションも起こさないことですね。
 弁論に立つのはあくまで弁護士たちの仕事であって、彼女自身は何も喋らないのです。
 実際にそうだったのでしょうし、脚色して法廷ヒロイン化しなかったのは良心的です。 まさに、事実=歴史を曲げなかったのはこの映画の美点と言えます。
ただその分、映画としてはもどかしさもありますね。
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 一方、アーヴィングのほうは仲間が誰もいないものだから、自分自身でどんどん喋るのです。これってむしろ、アーヴィングが主人公みたいにも見えちゃう構図なんですね。
「大弁護団と戦う一人の歴史学者」みたいな紹介だって許されてしまうし、そうなると途端にヒロイックに映ってしまう。正直なところ、多勢に無勢のアーヴィングを観て、ちょっと応援したい気持ちにさえなってしまった。
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 この映画は「事実」をめぐる作品であり、だからこそあくまで事実に基づく演出を心がけたものだろうと推察します。しかしそのストイックさ、律儀さゆえに、どこかアーヴィングに肩入れを許す構図にもなってしまう。ここは作り手ももどかしかったんじゃないでしょうか。彼のほうがリップシュタットよりもはるかに躍動しているから。
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 と、ここまで書いてふと気づきます。
 なるほどこの映画は、フェイクニュースに代表される「嘘の魔力」をも同時に描いているのだなと。
 
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 トランプ大統領は過去、数々のフェイクをばらまいたとされています。でも、フェイクかどうかこだわらず、言いたい放題言っていれば、それはある面で魅力的に映るのです。事実に基づいて長々と説教する人間よりも、「うるせえこの野郎! 俺はこう思うんだ! 文句は一切受け付けないぞ!」と押し通す人間のほうが、魅力的に映ってしまう場面が確かにあるわけです。
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 この映画はホロコーストを題材にしながら、現代の政治状況を映し出すというきわめて真っ当かつ高等なことにチャレンジしている。そのように見受けます。また、映画という商業的媒体を通すことで、メディアにおける「嘘の魔力」「嘘の魅力」すらも映してしまっている。この映画において魅力的なのは、大弁護団に囲まれているリップシュタットよりも、一人で戦うアーヴィングのほうだったりする。
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 ほら、こういうイメージによって、人はころっと騙されたりするんだ。
 そういう批評性を隠しているなら、まことにハイレベルな作品と言えます。

 また他方、歴史修正主義の怖さにもあらためて気づかされます。
 実のところ、アーヴィングに代表される修正主義者は、自分たちの正当性を示す必要がないんです。彼らはただ、「ひとあな」を開ければそれでいい。世界で正しいとされている史実に揺るぎを与え、「もしかしたら別の真実があるのかも」「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も残されているのかも」と、人々に思わせれば成功なのです。その「ひとあな」が開けば、この現実に寄生することができる。寄生する部位を見つけたらあとは、少しずつ病巣を広げていけばいい。
「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も1%くらいあるんだよね」
 人々にそう思わせた瞬間、彼らの勝ち。
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 これが怖い部分だなと、つくづく思います。
 1%は何かの弾みで、2%以上に膨れあがりますから。

『否定と肯定』の内容についてぜんぜん触れてないじゃないか、何が映画評だクソムシ、と思われたかもしれませんが、この映画は観ている間に面白かったかどうかとか、そういうのは二の次だと思います。むしろ、映画を観た後で考える時間こそが鑑賞体験。日本の歴史認識問題、南京事件や従軍慰安婦、あるいは現代の原発問題。さまざまなことへと思考の枝葉を広げることができるし、その中でこの映画もまた息づく。
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 本作は、「この映画を観る」というよりもむしろ、「この映画を通して社会を観る」ということに貢献します。そういう映画を今後も観たいなあと思う次第であります。 
 


監督はこの映画をつくりたかったのか?
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 とかく人々の中には暴力衝動が内在していたりするもので、あるいは放埒な暴力に対して憧憬を抱く面もあろうかと思われ、ヤクザ映画というのはつまり、そうした人々の欲求を発散させてくれるものなのだろうと考えます。
 
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身近にいたら迷惑きわまりないけれど、フィクションの中では輝く存在。そのヤクザのすごみをひとつの売りとし、ぶち殺すぞこの野郎! と叫ばせまくった前二作。かたやラストとなる本作ではその勢いも切れてしまい、なんだかむにゃむにゃした作品だなあと思わされました。

 北野武扮するヤクザ・大友が今回もキーパーソンの一人となるのですが、どうにも存在感に重みがないのですね。というか、ヤクザ同士、ヤクザ内部でのいざこざに終始してしまい、その外側がちっとも見えてこないというか、北野監督としても本当にこの作品をつくりたかったんだろうか? というのが疑問です。率直に言って、何をしたいのかよくわからなかった。
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今回の話で大部分を占めるのが、西のヤクザ・花菱会の内輪もめなんですが、まずもって関西弁のうまい俳優が少ないし、その点での味わいがない。これは前作からしてそうだったんですが、西田敏行の関西弁はぜんぜんはまってないうえに、ピエール瀧もまずい。塩見三省は京都出身だそうですが、彼にしてもなぜだかイントネーションがおかしい。
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 ところで、方言というものがぼくは好きです。東北弁にせよ琉球語にせよ、音楽的な調べがあるんですね。濃度の高い方言の中には、何を言っているのか外の者には聞き取れないものもありますが、これはその土地に住まう人々が、何世代もかけて磨いてきた調べなんです。無駄が削がれ、言葉の角が取れ、コミュニケーションのための最適化がなされた方言には、独自のチューンがある。関西弁にしてもそうで、大阪にせよ京都にせよどこにせよ、標準語という半ば人工的なものとは違う美しさがある。

 関西のヤクザとなればそれこそ土着の方言、いい意味での汚さを期待するところなのにそれもなく、いかにもつくりものめいて見えるのがまず辛い。こういう映画にこそ、吉本芸人を出してほしいですね。木村祐一なんかがピエール瀧の位置にいれば、はまり役だったんじゃないでしょうか。あ、岸辺一徳だけはよかったです、例外的に。

 さて。それはそれとして。
 話はピエール瀧と北野武のいざこざに始まり、それが別組織にも飛び火して、面倒ごとが膨れあがってという話になり、一方では花菱会の権力争いもひとつの軸になっているんですが、これがなんというか、「誰がどうなろうとわりとどうでもいい」んです。大友=北野武の話がそもそも、本作ではまともに機能していない。だから中心のつくりが非常に脆弱で、作品全体にちっとも熱が生まれない。

 ヤクザ映画の古典、『仁義なき戦い』においては、菅原文太扮する広能があくまでも中心として機能していたし、金子信雄の狡猾さも相まって、きちんと軸を形成していた。ところがこちらの大友は、「なんだかしょうがないけど、しょうがないから暴れている人」以上の深みがなく、大森南朋にいたってはもうほとんど非人格的に追従するだけです。
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 どうせこの三部作もここで終わりなのだから、それならもういっそのこと開き直って、主要な幹部ヤクザ連中を片っ端から撃ち殺す皆殺しカタルシスをつくりだせば映画的に輝くものを、そのそぶりすらない。大友はマシンガンを持ってヤクザのパーティに乗り込むけれど、結局は下っ端を撃ち殺すだけで、西田敏行はすたこらと逃げおおせる。

 一作目は怒号飛び交う元気なヤクザ映画として華があったし、二作目は二作目で関東と関西のヤクザの抗争が盛り上がり、警察との癒着なんかもそこに旨味を添えていた。本作には何もありません。ただ、出がらしの残り香が漂うだけです。
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 細かい部分の演出もぜんぜん締まっていません。
 たとえば、塩見三省とピエール瀧が、詫びを入れるため敵方のヤクザの家に乗り込むシーン。向こうのボスは在日韓国人で韓国語を喋るのですが、それを見た塩見たちは日本語で陰口を叩きます。相手が目の前にいるけど、伝わらないだろうと思ってごちょごちょ不平を言う。ところが、相手のボスは日本語も喋れるため、全部ばれてしまっていた!
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 このくだりもオチがばればれだし、そもそも部屋には警備を務める他の組員もいるのだから、あんな風に喋るのはあまりにも迂闊です。上に述べた(ばればれの)展開をやりたいだけ。本気の場面じゃないから、映画にも本気がこもらない。あげくに下手な関西弁。どないすんねんこれ。どうすんだいこの始末。
 
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 大杉漣が殺される場面も、演出が緩いんです。
 首まで土に埋められた大杉漣を、車で轢き殺す場面。その行為自体はいかにもヤクザの非道さが出ているわけですが、轢き殺したその瞬間、カットは北野武が乗る車中へと切り替わります。殺したとわかる演出は、頭を潰した音のちょっとしたSEが入るだけなんです。

 違うじゃん。そこで一瞬、車が「ドッコン」とならなきゃダメじゃん。
人一人の頭部を轢いたのだから、ちょっとは車体に衝突感が出るだろうし、それがほんのちょっとあるだけで質感が出るじゃん。いや、むしろそれがほんのちょっとであればあるほど、質感に加えて虚しさが生まれるじゃん。そういう細かさもないんです。ただ嫌な感じの音を一瞬入れているだけ。登場人物の存在感が、何にも感じられないのです。

 ことほどさように、北野監督はほとんどやる気がなかったんじゃないかと思われる作品です。前作の『龍三と七人の子分』は面白かったんですよ。いい意味でのはちゃめちゃさが活きていた。本作もどうせ三部作の完結篇なら、はちゃめちゃな方向に舵を切って、やりたい放題やってほしかったなあと思うことしきりでございます。
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