なにさま的ツイッター11 のつもりがなぜか延々と誤審をめぐる一思案。

映画の話もせずに、別に詳しくもないのに、スポーツの話。
 たとえば特に野球なんかで誤審が起きると、決まって「ビデオを導入しよう」という声が上がる。なるほど確かにビデオを用いれば、万人に疑うところのない結果が映し出されるし、万人が納得する判断が可能だし、それゆえにスポーツの公正さはより向上される。
 
 さて、それならばビデオを導入すべきなのだろうか?

 この問題を突っ込んで考えると、その人の社会観まで見えてくる。人生観とまで言えば、やや大げさかも知れないけれどね。

 ビデオを導入すべきだと考える人の論拠は、大方が上に述べたとおりだろう。むしろなぜしないのか、不思議なくらいだとまで思うだろう。不利益を被る人がいるとすれば審判くらいで、もちろん審判の人たちの仕事も大事かも知れないけど、でも誤審が起こるくらいならビデオを導入したほうがいいじゃないか、とこういう話になる。

 そうした主張を行う人の考えは、「誤審は絶対にあってはならない」という意見がその根本にある。すべからく審判は正しく行われるべきであり、誤審はゼロであるべきだというわけだ。

 確かにその通りだ。誤審はないほうがいい。でも、ところで、「誤審」とは何なのだろうか。誤審が起こるのは、そもそもなぜ行けないのだろうか?

 いろいろと例を挙げたり寄り道をするのも面倒くさい。結論から言おう。なぜ誤審が起こってはいけないのか? それは要するに、「誤審は不条理」だからである。明らかにセーフなのにアウトと言われるのは不条理、ストライクなのにボールというのは不条理。ルール=条理が機能していない不条理。選手の精一杯の努力が裏切られる不条理。正しい判断を下すプロのはずの審判が間違うことの不条理。

 ビデオを導入することによって、この不条理は一掃される。
 では、その一掃は果たされるべきなのだろうか?

 こと日常社会においてもまた、不条理は好ましくない。できることなら不条理なことはあってほしくないとぼくも思う。不条理なニュースを観るとやるかたない思いになるし、身の回りで起こる不条理にも幾度も肩を落としてきた。

 ただ、ひとつだけわかる。今後の人生から不条理を一掃させることはできない、ということだ。人間の思考自体が実に曖昧模糊としたものである以上、すべてが条理によって正しく行われるなど信じられない。そしてもうひとつ思うのは、すべてが条理に充ち満ちて不条理の入る隙間が一分もないのだとしたら、それはさぞ窮屈な社会だろうということ。

犯罪のない社会がいいに決まっている。叶うなら犯罪などなくなればいい。でも、現実的に考えてそれは不可能だ。仮に、たとえ誰しもが善人で、罪を働こうとする人間がいない世界ができたとしても、人は間違いを犯してしまう。誰かの傘を間違えて持って帰ってしまったとする。これは故意でない以上「間違い」に過ぎないかもしれない。でも故意かどうかなんて本当のところは他人にはわからないから、結局は「窃盗」という罪と同じだ。罪のない社会では、間違いさえも許容されないのだ。そんな社会は、窮屈に決まっている。

話を誤審に戻そう。
 審判の判断を絶対とせず、ビデオを導入すべきだという主張はつまり、最終的には人間の判断など信用せずに無謬な機械に頼るべきだ、という意味で、グラウンド内のもめ事も結局はグラウンド外の判断に委ねろ、ということだ。条理は何よりも優先されるべきという思想だ。

 ぼくはというと、その思想が嫌いだ。
 審判は間違える。人間だからそういうことだってある。審判だって間違いたくて間違えたわけじゃない。誤審でいちばん心痛めるのは選手でもファンでもない。その審判本人だ。だから審判だって頑張って神経を集中させている。ほとんどのジャッジは適確だ。それでも彼らは褒められることがない。「審判よく見てましたねえ」と軽くさらりと褒められることはあっても、歴史に残る名ジャッジなんて聞いたことがないし、いつだって主役は選手たちで、ひとつでも間違えれば大いに叩かれる。ビデオにやらせろと言われる。

 だったらいっそのこと、エラーをした選手も追放すればいい。誤審が許せなくてビデオにしろというなら、プロともあろうのに簡単なエラーをする選手も許されるべきではない。そしてどうせだから、ストライクゾーンも機械ではかればいい。野球に関して常々思っていたことだけれど、ストライクゾーンはきわめて曖昧な代物だ。ホームベースの中心にセンサーをつけて、その真上に円の中心を設定し、半径何センチをストライクにするとかすればいい。それにすべてのアウトセーフに関して、毎回ビデオ判定をしよう。一秒前の出来事を完璧に覚えているのはビデオしかいないのだから、毎度毎度お伺いを立てよう。ぼくたちはぼくたち自身の判断をすら信用しないことにしよう。誤審を一切許さないってことは、そこまで厳密にやるってことだ。

 もちろん、書くまでもないけれど、ぼくは不条理を積極的に受け入れたいわけじゃない。司法の場ではいつだって、条理に満ちた適切な判断を期待しているし、ぼくが仮に冤罪に巻き込まれて、誤審でもいいじゃんとは行かない。でも、それはあくまで現実の社会での話。現実にはなるべくの条理を期待するけれど、その発想をスポーツの場に持ち込むのは気が引ける。スポーツの不条理くらいは、許容していたいと思う。
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by karasmoker | 2011-04-28 00:17 | Comments(0)
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