続・『ガキの使い』から、黒人差別を考える。

『ガキの使い』における「黒塗り問題」は、海外でも報道されたようです。二つ前の記事でも論じたのですが、いまだに頭から離れずにいるので、吐き出しておきたいなあと思う次第であります。

 大枠は既に書いたのですが、ぼくは「あの黒塗りの一件を、問題視すべきなのかどうか」について、明瞭な答えを持てずにいます。黒人差別に関連する表現である以上、やめるべきというのはわかる。一方で、その主張を絶対視することもまたできないのです。

 黒塗りは「黒人差別に用いられた侮辱的表現」だという。しかし、それが「侮辱的」だというのは、果たして本当に普遍的な規範なのか? ここの疑念が拭えずにいる。

 たとえば、こういうコミュニティがあったとします。そこには白人も黒人も黄色人種も暮らしている。異人種同士がお互いのつながりを持とうとして、「互いの肌に塗り合うことで交流を深める」なんてお祭りが催されるとしたら、これもまたアウトなんでしょうか。お互いの存在をリスペクトし合う意味で、白人は黒人に、黒人は黄色人種に、黄色人種は白人に似た格好となり、お祭りをする。そういう文化が世界のどこかにあったとして、それもまた「ブラックフェイスだ! 国際常識としてアウト!」と糾弾されなくてはいけないのか。

 そんな共同体があるのかどうか、ぼくは知りません。ぼくの頭の中にしかないかもしれない。ただ言いたいのは、「顔を黒く塗ることが侮辱的な意味を持たない」世界観だって十分あり得るだろうということです。そういう文化の存在、捉え方を、この世界は許容し得ないのかという疑念があります。

「黒塗りは問答無用のアウト」がグローバルスタンダードだ、それを解さない人間は人権意識が低い。そういう物言い自体が、危険を孕んでいる気がする。欧米的な文化コード以外を許さない、という風に感じられてしまうのです

 少し話はそれますが、ポリティカル・コレクトネスという点で、性的マイノリティについて思い出すことがある。
 今ではおそらくテレビの自主規制ワードである「オカマ」。90年代までは平然と語られていましたが、次第に使われなくなり、現在は「オネエ」という言葉が主流になっています。ゼロ年代にはKABAちゃんやはるな愛が人気を集め、今ではマツコ・デラックスを筆頭に、オネエタレントがテレビに映らない日がありません。
 彼ら、彼女らの振る舞いはときに突飛で滑稽であり、ときに「男性タレントに無理矢理キスをして嫌がられる」など、今見れば差別的と映る内容もあった。それによって傷ついた性的マイノリティだって、いただろうと思います。

 しかし、ぼくは思うのです。性的マイノリティが社会に受容されるうえで、彼ら、彼女らの存在は実に偉大であったろうと。
 
 しかつめらしく、「性的マイノリティを差別してはいけない!」と叫ぶのではなく、面白い存在として笑いを誘い、人々に受容されていった。その結果、人々の間の偏見や忌避感も次第に溶けていったのではないかと思うのです。仮に、KABAちゃんやはるな愛がタレントでなく、活動家として社会運動を起こしていたらどうだったか。果たして今よりも、性的マイノリティの存在が世に周知されていたか、受け入れられていたか。そうは思えない。笑いには差別的側面もあるかもしれないけれど、一方で人々を魅了し、その存在を肯定的に受け入れさせる側面だってあるわけです。なんだ、怖い人じゃないんだ、不気味な存在じゃないんだ、変に見える部分もあるけど面白いよなって、そういう形で社会に溶け込む方法をつくりだせると思うのです。

 オネエタレントの件から思うのは、「社会的な受容の仕方はひとつじゃない」ということ。別に笑いのネタにしたからといって、それがそのまま差別的であると軽々に断じるのは、世界に対するやせ細った見方じゃないかと感じてしまうんです。

 黒塗りは黒人差別の象徴だ。差別的表現として、例外なくアウトなのだ。

 一見、人権意識が高く、国際常識をわきまえ、政治的に正しい態度かもしれない。

 しかしそれは同時に、黒人に対して、差別的刻印を永久に張り付ける態度なのではないかとも思うのです。今の国際常識は永久に、黒人を被差別側に置き続ける。上に述べた架空のコミュニティのように、「互いをリスペクトする行為として、肌を塗ること」だって、未来の世界ではあり得るかもしれないのに、その可能性を潰すわけです。

 それを支える国際常識とは何か。あくまでも、欧米が規定する国際標準以外を認めないということではないのか。アジア、中東、アフリカ、オセアニア。欧米のコードとは違うそうした地域の文化さえ、欧米が決めることになるのではないか。それは果たして、豊穣な世界といえるのだろうか。

 間違えないでほしいのですが、「今回の『ガキの使い』は黒人へのリスペクトだ」などと言う気はありません。「笑い」という、「差別」につながりやすい局面であるし、テレビ局側にも配慮すべき部分はあったかもしれない。リスペクトの気持ちなんて正直、まったくなかったでしょうし、ぼくが仮定したコミュニティのような理念など、作り手にはさらさらないでしょう。

 けれど、番組独自の文脈も度外視したまま、「黒塗りはアウトだ!」と反射的に言ってしまうことによって、世界の捉え方を単純化してしまうのも違うとぼくは思うんです。

「黒人差別は許さない!」という、何の問題もないように見えるその態度が、実は差別と被差別の構造を固定化し続けることでもあるんじゃないか。その態度への柔軟さも、ときには必要となるのではないか。

 ポリティカル・コレクトネスという言葉が一般的になって久しいけれど、その末にトランプ政権は生まれてしまった。政治的正しさを徹底していこうという清く正しい社会が、反PCの権化たるトランプを大統領にした。そこにあったのは、正しさの敗北だったんじゃないか。
 正しいけれど楽しくない、正しさのあまりに窮屈な規制。
 その鬱屈が反発を生みだし、トランプ旋風につながったんじゃないのか。

 だとすれば、正しさを正しさとして真面目に訴えるだけでは駄目なんじゃないかとぼくは考えるんです。現に、正しさを正しさとして真面目に訴えるリベラル、左派は日本の政治でも負け続けているわけです。その結果、「あれも差別、これも差別ってうるせえな」みたいな、短絡的リアクションも再生産してしまう。

 教条的主張ではなく、笑いを通した受容。その可能性だって、『ガキの使い』にはあり得た。差別をなくすには、そうした柔軟さだって必要なんじゃないかと思うんです。

 もちろん、「あれは黒人差別だ!」という捉え方があってもいい。ぼくだってその捉え方は十分に理解するし、そういう声はあってしかるべきです。でも一方で、「『ガキの使い』は差別的だ! 糾弾すべきだ!」というトーンにはやはりなれない。もっと様々な視点を含みこんだ、複雑な捉え方があるべきだろうと思うのです。

 つまるところ何が言いたいのか。
 あの番組を見て無邪気に笑う人には、PCや黒人差別について考えてほしいと思う。
 あの番組は差別的でけしからんと憤る人には、国際常識を疑う視点と、正しさとは別のアプローチについて考えてみてほしいということです。

 補足的な記事のつもりが、思いのほか長くなってしまいました。
 それでも、ご意見はお気軽に。

[PR]
by karasmoker | 2018-01-06 00:17 | 社会 | Comments(2)
Commented by シゲル at 2018-01-17 23:20 x
初めまして。
あの番組に差別の意図が無いのは明らかだと思いますし、黒人の方のオモシロいって意見や日本人には黒人を奴隷にした歴史が無いから気にならないって意見も有るそうです。
いつも思いますが非難運動を煽っている人達と、その問題で実際に困っている人達は関係無い人達だと思います。
Commented by karasmoker at 2018-01-20 16:57
コメントありがとうございます。

>いつも思いますが非難運動を煽っている人達と、その問題で実際に困っている人達は関係無い人達だと思います。

 これ自体は別に悪いこととは思いません。当事者が声をあげられない(あげにくい)問題について、非当事者が支援することがあってもいいのです。そうでなければ、マイノリティは孤立してしまいますから。
 ただ、訴える際の方法や視点には、注意する必要があると思います。
←menu