小室哲哉さんの件から、週刊文春を考える。

 小室哲哉さんが音楽活動からの引退を表明しました。週刊文春の「不倫疑惑」記事を受けて、心を決めたそうです。不倫疑惑といっても、会見で語られたところによると、そう単純なものでもない。病気に倒れた妻・KEIKOさんの状況や自身の心境もあり、心の支えのようにしていた女性が別にいてという話で、いわゆるところの略奪愛や二股みたいな構図とはぜんぜん違う模様。この一件を受けて、「文春は悪者だ!」という声がネットに多く見受けられます。

 この辺にどうももやもやを感じるので、言葉にしておこうと思う次第であります。「この辺」というのは、「文春叩き」の辺です。

文春は「悪」か?
 今回の件に関して言うと、文春の報道は表面的かつ扇動的だったように思われます。小室さん自身が会見で語ったことが真実だとすれば、世間一般でいうところの不倫とはやや違うものに思われ、その点において文春の報じ方には問題があると、ぼくは感じます。小室さんが会見で語ったような背景--相手との関係性やKEIKOさんとの今など--を緻密に報じていればよかっただろうとぼくは思います。結果として、文春が社会的評価を下げたとしたら、それは自業自得の結果でありましょう。
 だから、小室さんの件で文春に問題があるとすればそれは、「踏み込みが足りていない」ということになろうかと思います。いわば取材不足。現在の小室さんが抱える事情などをオミットした形で、不倫を印象づける記事を載せてしまったのが文春の失敗です。その点で言えば、文春は今回、週刊誌としてある意味、一番恥ずかしい結果を招いたんじゃないかとも感じられます。ぼくが文春に注文をつけていいなら、「もっと踏み込んだ記事を書くべきだ」という言い方になります。ゆえに、文春は「悪」というより、「浅い」と評せられるべきだろうと思います。介護やなんかの事情、小室さん自身の心境を踏まえず、男女問題のような形で報じてしまったわけですから。

文春が小室さんを引退に追い込んだのか?
 引退発表を受けてか、ネット上では小室さんを擁護する声も多く、「文春が一人の天才を引退に追い込んだ! 許せない!」というような反応も見られます。しかし、それもまた見方が浅いのではないかとぼくは感じます。会見の書き起こしを読む限り、以前から小室さんは自分の楽曲作りに悩んでいたようで、引退は前から考えていたことでもあると述べています。だとするなら、文春報道はひとつのきっかけに過ぎないのかもしれません。文春は確かにひとつのトリガーとなった。けれどそれをもって、引退に追い込んだとするのも短絡的でしょう。トリガーが引かれるまでに、彼の中に積もり積もった火薬はあったわけです。そこを捉えず、文春が引退させたかのように反応するようでは、文春を批判できません。それでは、踏み込みが浅かった文春と同じになってしまいます。背景に思い巡らせるべきです。
 それに、「小室さんを引退に追い込むなんてひどい! もっと多くのすばらしい楽曲をつくってほしいのに!」という反応についても、ぼくは違和感を覚える。彼自身、すばらしい楽曲をつくりたいけどつくれない自分に悩んだり、焦ったりし続けたんじゃないかと思うし、現にそのように語っている。であるのならば、「応援しているように見せかけてプレッシャーを与えているファン」はむしろ、有害かもしれない。引退することで、彼は精神的な重圧から解放されるのかもしれない。彼は楽になれるのかもしれない。彼にとって何が幸福で、何が不幸かはわからないのです。小室さんの心情を想像できなかった文春を責めるならば、複雑であろう彼の内面を想像すべきだし、重圧を与えるファンになることは避けるべきでしょう。

文春のやっていることは正しいのか?
 今回の件を受けて、「そもそも文春はよろしくない」「他人の不倫を暴くのはよくない」「もっと巨悪を叩くべきだ」みたいな反応も見受けられます。パパラッチの執拗なアタックがダイアナ妃の死を導いたように、週刊誌をはじめとするイエロージャーナリズム自体には、確かに咎められるべき点もありそうです。プライバシーの侵害であるというのもそのとおりですし、現に訴訟で敗訴になっている件も数多くあります。
 ただし、だからといってぼくは、文春を悪者だと断罪する気にはなれません。
 なぜ文春が芸能人の不倫を暴き立てるのか。
 簡単です。
 それが売れるからです。

 売れるからと言って他人のプライバシーを侵害してもいいのか?

 なるほど、道義的に見て、よいことであるとは言えません。
 では、文春は芸能人の不倫報道をやめるべきでしょうか。
 その場合、部数は確実に落ちるでしょう。文春編集部の予算、ひいては出版社の経営にも響くでしょう。給与が下がれば記者の士気も下がり、経費節減で十分な取材ができない場合も出てくるでしょう。
 そうなった場合、果たして「巨悪を叩く」能力が高まるでしょうか。
 政治的な問題だけを取り上げていては、ネタが連発できることもなく、部数は見込めなくなるでしょう。ただでさえ出版業界、雑誌業界は縮小傾向の市場です。その結果、週刊誌が死ねばどうなるか。政治の報道は大手メディアに独占され、記者クラブに流される官僚のリリースとリークに支配され、巨悪はますます叩けなくなるでしょう。フリーの記者が頑張ったところでたかがしれているわけで、週刊誌の死は報道の衰退をさえ呼び込むかもしれません。文春をはじめとする週刊誌がいなくなって喜ぶのはむしろ、巨悪たる政治家や大企業、官僚であり、あるいは不倫し放題の芸能人ということです。

 ここにひとつの真理が見透けてきます。
 芸能人の不倫報道があるからこそ、政治に対する報道の底力がつくのです。

 そんなのはおかしいというなら、叩くべきは週刊誌でもテレビのワイドショーでもない。
 芸能人の不倫で喜ぶ読者、視聴者こそが問題の根源です。
 読者や視聴者が、「不倫報道なんてどうでもいい、もっと政治に関するネタに触れたい!」といえば、文春だって姿勢を変えるでしょう。
 でも、そうはならない。政治に関する話題に今以上誌面を割いても、読者は喜びません。

不倫報道大好き!
 大袈裟に言えばそれがこの国の民意であり、報道にまつわる資本主義経済を支えているのです。文春はそこに順応しているにすぎないのです。現に、文春砲だといってさんざんに騒いだじゃないですか。調子がいいときはみんなで持ち上げ、いざ問題があると叩く。そんな人こそまさしく、マスコミ的思考の体現者そのものなのです。すぐに炎上や批判に動く人々こそ、まさしく文春にとっての格好のカモです。
今後も文春は不倫報道を続けるでしょう。今回の件を受けて、さらに踏み込んだ記事を書くようになるかもしれません。そして人々はその文春の記事を読み、またもあれこれと論評を続けるでしょう。
 それでいいのか? ぼくにはわからない。
 ただ少なくとも、文春を叩いて騒いでいる限り、何も変わらないだろうなとは思います。
 人は正しさよりも享楽になびく生き物なのです。
 正妻よりも、愛人になびくのがそうであるように。

 その諦念から、考え始めねばならないと思うわけであります。


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by karasmoker | 2018-01-20 16:49 | 社会 | Comments(0)
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