死刑制度を考える

 ふと、死刑制度の是非について考え込んでしまい、自分の考えを整理しておこうと思い、文章をしたためる次第であります。正直なところ、ぼくは存置派であるとも廃止派であるとも言い切れません。だらだらと書き連ねながら、思考の往き道を探ってみようと思います。

多数決を離れて 
 まず、とっかかりとして、世界における死刑制度を概観してみたところ、およそ100の国(と地域)が死刑を撤廃しているようです。世界全体の半分といったところです。そして、およそ50の国が、「制度としては残しつつも執行していない」状況のようです。日本のように死刑を執行し続けているところは50に満たず、世界で見れば日本は少数派ということになります。事実、国連総会は日本に対して、死刑執行停止を勧告しています。

 ただ、だからといってその潮流に従うべきなのかというと、ぼくには疑問です。少数派だから正しくない、わけではない。その国ごとの事情などもあるわけで、国連や世界の流れがそうだからやめなさい、というのには首肯しかねる。「他の国がどう言おうと、日本には日本の考え方がある」という意見も、十分理解できます。多数決ではないのです。

 そう。多数決ではない。

 こと日本において、各種アンケート調査では、死刑存置派が多数となるようです。日本社会は死刑に対して肯定的である、という言い方が許されるかと思います。ただ、その事実をもって、「だから死刑制度は存置し続けてよい」といえるのか。ここには疑問の余地があるように思います。

「世界の多数派が死刑廃止だから、日本も廃止すべき」というのが通らないならば、「日本人の多数派が死刑存置だから、日本では存置すべき」も通らないのではないか。多数決の原則を採用しないとはそういうことです。現に、ヨーロッパでは世論が死刑制度維持に傾いているにもかかわらず、廃止を決めた国もあるわけです。民意がどう動くかとは別に、ひとつの主張として廃止を考えてみてもよいと思うのです。

存廃双方の主張と問題
 死刑制度の是非における大きな要素として、抑止力の問題が挙げられます。死刑を存置したほうが犯罪が減るなら、制度は維持すべきでしょう。かたや、廃止したほうが減るというなら、死刑撤廃も十分な議論に値します。
そう思って多少ネットに目を走らせてみるものの、これといって有効な統計には出会えません。データを取っても、立場によって恣意的な解釈が可能であるケースだったりするし、凶悪犯罪の増減における因子は必ずしも、死刑の存廃だけではないでしょう。「死刑が抑止力になるかどうか」について、誰もが納得しうる数字があれば、是非教えてほしく思います。抑止力になるとも言えるし、ならないとも言える。双方にとって決定打にはならない。今のところはそんな印象を抱いています。

であるのならば、存置してかまわないのでしょうか。

 廃止派はここで、冤罪可能性を持ち出します。再審請求が多くある以上、冤罪で命を奪ったら取り返しがつかない、だからこそ死刑は許されないという主張です。ただ、この主張には穴があります。「冤罪かもしれないから駄目」といった瞬間、返す刀で、「じゃあ現行犯ならオーケーなんだな?」と言い返されます。公衆の面前で通り魔となり、その場で逮捕された場合、冤罪とするのはどうにも無理筋です。
 一方に裏を返せば、存置派は冤罪問題についてどう捉えるのか。この点、廃止派を説得しきる必要がありましょう。

 廃止派は別の意見として、「たとえ国家であれ、人命を奪ってはいけない」という主張を持ち出します。EUはこのテーゼを重視しているようです。

 さて、この問いに対して、存置派はどう答えるでしょう。

 よく見受けられるのは、「自分が遺族だったらどうする?」という反応です。「自分の愛する人が殺されたら、犯人を憎むだろう。命をもっての償いを求めたくならないか?」と情緒に訴える方法。これが、存置派の支柱のひとつです。

 ただ、情緒に訴えるこのやり方には疑念がつきまといます。

 確かにぼくだって、家族が殺されたら深い悲しみを覚えるだろうし、犯人に憎しみを覚えると思います。犯人を殺してやりたいと感じるだろうと、容易に想像できます。
 そうだろう? だから死刑は存置すべきなんだよ、と落ち着けたいところですが、気をつけるべき点が主に二つあります。

 ひとつ。遺族感情を考えるのならば、「死刑にならないケースをどうするのか」ということです。殺人がすぐさま死刑になるわけではありません。殺人の被害者が1名だけである場合、犯人が死刑にならないケースのほうが多いのです。殺人の量刑は刑法において、「死刑または無期もしくは5年以上の懲役」であって、量刑次第では必ずしも、遺族の応報感情が満たされるわけではない。もしも情緒を大事にすべきだというなら、殺人犯はその罪の数にかかわらず、もっと死刑になってもいいようなものです。「複数殺した殺人犯は死刑になり、1人だけ殺した殺人犯は死刑にならない」のなら、被害者の抱く不公平感はどう埋め合わせるのかという話にもなる。極端な話、「あの犯人がもっと殺人を犯していたら、死刑に持っていけたのに……」という(歪んではいても切実な)遺族感情を抱くケースが、どこかにあるかもしれない。死刑存置派は、今よりも死刑を増やすべきだという厳罰化の主張をするのかどうか。この辺りが気に掛かります。

 ふたつめは、死刑論議においてさらに重要な部分です。
 それは、「遺族感情が本当はどんなものなのか、いざそのときになるまではどうしてもわからない」ということです。
 遺族の中には確かに、死刑を求める人もいる。一方で、死刑を望まずに一生をかけて償ってほしいと考える人もいる。死刑によって区切りをつけたいという人もいれば、死刑執行後にもなんら応報感情は満たされなかったという人もいる。

 ぼくは幸いにして、凶悪犯罪の遺族にならずに済んでいる。

 そうであっても、できるだけリアルに想像することはできる。

感情と想像について
 たとえば一昨年に起きた、相模原の障害者殺人事件。ぼくは遺族ではないけれど、事情があって、おそらく世間一般の人よりも強く心を痛めています。卑劣きわまりない事件であり、犯人の思想をとってみても、ぼくには一切擁護できない。裁判はまだ始まっていないけれど、今の日本の量刑なら死刑が妥当だと迷い無く考える。

 けれど、あの犯人に対して死刑を望むかどうかというと、少し怯んでしまう自分がいるのです。

 あの犯人は逮捕されてもなお、自分のやったことが正しいと主張した。事件後しばらく経ってもなお、正当性を訴えるような声を上げていると、何かの記事で読みました(今現在はどうかわかりません)。

 ぼくは犯人を絶対に許せないし、犯人の主張を叩き潰してやりたいと思う。
 でも、こうも思うのです。
 あの犯人が、自分の間違いを認めることなく死んでいくとしたら、それを許せるのだろうか? 自分は正しいのだと死ぬ瞬間まで考え続けているなら、その死にはどれほどの意味があるのだろうか?
むしろ十年掛かっても二十年掛かっても、あの犯人が自分のやったことを心底悔い改めるまで、その言葉を吐くまでは、生かしておくべきなのではないか?
 謝って済むものではない。反省して済むものではない。
 だからといって、被害者への謝罪の意思も反省もなく死んでいくとしたら、果たしてそれでいいのだろうか?

 そういうことを考えたりもするのです。
 もちろん、実際の遺族の人は別の思いを抱えているでしょう。しかし、多くの遺族がいるわけで、その心情は一様ではないはずだとも思うのです。
 ゆえに、「遺族感情を想像すれば、死刑を求めて当たり前」と一概に一括りにしてしまうのもまた、一面的な想像力なのかもしれないと思う。ケースバイケースとしか言いようのない部分が、どうしたって残されている。

 凶悪な犯罪を犯した人間は死刑にすべきだ、というのが、今の日本における民意かもしれない。でも、ぼくはこの民意というものを金科玉条にはしたくない。当事者でない人間が、とやかく口を出す問題ではないとも思うのです。

 最近では旗色の悪い週刊文春。「不倫なんて当事者のことなんだから、部外者があれこれ口を出すべきじゃない」みたいな世論も沸き起こっている。もしそうなら、犯罪の量刑についても同じことが言えるんじゃないでしょうか。
 不倫は犯罪でこそありませんが、民事では不法行為に当たります。これについて部外者が口を挟むべきではないというなら、刑事事件で違法行為であっても、部外者は口を慎むべき点もあるんじゃないのか。死刑の存廃は果たして、民意なるものによって決められるべきものなのか?

ひとまずの結論
 答えのない問いばかりを並べてしまいました。
 うだうだと考えてみましたが、やはりぼくは今のところ、強力な存置派にも廃止派にもなれません。
 それでも、賛成か反対かと問われるなら、
・現行犯逮捕など、冤罪の可能性が認められない
・遺族の応報感情を満たす手段が、ほかにない
 この二点を満たした場合のみ、賛成という答えになろうかと思います。

 死刑存置派に対しては、「冤罪可能性を限りなくゼロに近づけるため、取り調べの全面可視化を含めた司法の透明化を求めます。それができないなら、死刑は執行停止もやむを得ないでしょう。
 死刑廃止派に対しては、「死刑廃止後における遺族感情の徹底的ケアマネージメント」を求めます。それができないなら、死刑の執行存続もやむを得ないでしょう。
 
 そんなところで、今日はこれまで。ご意見は、お気軽に。

[PR]
by karasmoker | 2018-01-27 21:18 | 社会 | Comments(0)
←menu