『アウトレイジ 最終章』 北野武 2017

監督はこの映画をつくりたかったのか?
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 とかく人々の中には暴力衝動が内在していたりするもので、あるいは放埒な暴力に対して憧憬を抱く面もあろうかと思われ、ヤクザ映画というのはつまり、そうした人々の欲求を発散させてくれるものなのだろうと考えます。
 
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身近にいたら迷惑きわまりないけれど、フィクションの中では輝く存在。そのヤクザのすごみをひとつの売りとし、ぶち殺すぞこの野郎! と叫ばせまくった前二作。かたやラストとなる本作ではその勢いも切れてしまい、なんだかむにゃむにゃした作品だなあと思わされました。

 北野武扮するヤクザ・大友が今回もキーパーソンの一人となるのですが、どうにも存在感に重みがないのですね。というか、ヤクザ同士、ヤクザ内部でのいざこざに終始してしまい、その外側がちっとも見えてこないというか、北野監督としても本当にこの作品をつくりたかったんだろうか? というのが疑問です。率直に言って、何をしたいのかよくわからなかった。
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今回の話で大部分を占めるのが、西のヤクザ・花菱会の内輪もめなんですが、まずもって関西弁のうまい俳優が少ないし、その点での味わいがない。これは前作からしてそうだったんですが、西田敏行の関西弁はぜんぜんはまってないうえに、ピエール瀧もまずい。塩見三省は京都出身だそうですが、彼にしてもなぜだかイントネーションがおかしい。
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 ところで、方言というものがぼくは好きです。東北弁にせよ琉球語にせよ、音楽的な調べがあるんですね。濃度の高い方言の中には、何を言っているのか外の者には聞き取れないものもありますが、これはその土地に住まう人々が、何世代もかけて磨いてきた調べなんです。無駄が削がれ、言葉の角が取れ、コミュニケーションのための最適化がなされた方言には、独自のチューンがある。関西弁にしてもそうで、大阪にせよ京都にせよどこにせよ、標準語という半ば人工的なものとは違う美しさがある。

 関西のヤクザとなればそれこそ土着の方言、いい意味での汚さを期待するところなのにそれもなく、いかにもつくりものめいて見えるのがまず辛い。こういう映画にこそ、吉本芸人を出してほしいですね。木村祐一なんかがピエール瀧の位置にいれば、はまり役だったんじゃないでしょうか。あ、岸辺一徳だけはよかったです、例外的に。

 さて。それはそれとして。
 話はピエール瀧と北野武のいざこざに始まり、それが別組織にも飛び火して、面倒ごとが膨れあがってという話になり、一方では花菱会の権力争いもひとつの軸になっているんですが、これがなんというか、「誰がどうなろうとわりとどうでもいい」んです。大友=北野武の話がそもそも、本作ではまともに機能していない。だから中心のつくりが非常に脆弱で、作品全体にちっとも熱が生まれない。

 ヤクザ映画の古典、『仁義なき戦い』においては、菅原文太扮する広能があくまでも中心として機能していたし、金子信雄の狡猾さも相まって、きちんと軸を形成していた。ところがこちらの大友は、「なんだかしょうがないけど、しょうがないから暴れている人」以上の深みがなく、大森南朋にいたってはもうほとんど非人格的に追従するだけです。
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 どうせこの三部作もここで終わりなのだから、それならもういっそのこと開き直って、主要な幹部ヤクザ連中を片っ端から撃ち殺す皆殺しカタルシスをつくりだせば映画的に輝くものを、そのそぶりすらない。大友はマシンガンを持ってヤクザのパーティに乗り込むけれど、結局は下っ端を撃ち殺すだけで、西田敏行はすたこらと逃げおおせる。

 一作目は怒号飛び交う元気なヤクザ映画として華があったし、二作目は二作目で関東と関西のヤクザの抗争が盛り上がり、警察との癒着なんかもそこに旨味を添えていた。本作には何もありません。ただ、出がらしの残り香が漂うだけです。
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 細かい部分の演出もぜんぜん締まっていません。
 たとえば、塩見三省とピエール瀧が、詫びを入れるため敵方のヤクザの家に乗り込むシーン。向こうのボスは在日韓国人で韓国語を喋るのですが、それを見た塩見たちは日本語で陰口を叩きます。相手が目の前にいるけど、伝わらないだろうと思ってごちょごちょ不平を言う。ところが、相手のボスは日本語も喋れるため、全部ばれてしまっていた!
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 このくだりもオチがばればれだし、そもそも部屋には警備を務める他の組員もいるのだから、あんな風に喋るのはあまりにも迂闊です。上に述べた(ばればれの)展開をやりたいだけ。本気の場面じゃないから、映画にも本気がこもらない。あげくに下手な関西弁。どないすんねんこれ。どうすんだいこの始末。
 
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 大杉漣が殺される場面も、演出が緩いんです。
 首まで土に埋められた大杉漣を、車で轢き殺す場面。その行為自体はいかにもヤクザの非道さが出ているわけですが、轢き殺したその瞬間、カットは北野武が乗る車中へと切り替わります。殺したとわかる演出は、頭を潰した音のちょっとしたSEが入るだけなんです。

 違うじゃん。そこで一瞬、車が「ドッコン」とならなきゃダメじゃん。
人一人の頭部を轢いたのだから、ちょっとは車体に衝突感が出るだろうし、それがほんのちょっとあるだけで質感が出るじゃん。いや、むしろそれがほんのちょっとであればあるほど、質感に加えて虚しさが生まれるじゃん。そういう細かさもないんです。ただ嫌な感じの音を一瞬入れているだけ。登場人物の存在感が、何にも感じられないのです。

 ことほどさように、北野監督はほとんどやる気がなかったんじゃないかと思われる作品です。前作の『龍三と七人の子分』は面白かったんですよ。いい意味でのはちゃめちゃさが活きていた。本作もどうせ三部作の完結篇なら、はちゃめちゃな方向に舵を切って、やりたい放題やってほしかったなあと思うことしきりでございます。
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by karasmoker | 2018-09-16 06:37 | 邦画 | Comments(0)
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