『否定と肯定』 ミック・ジャクソン 2016

この映画を観て語る時間も、鑑賞体験。
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 原題 Denial

 ホロコーストの歴史をめぐる実在の裁判をもとにした作品です。実際の出来事は「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」と呼ばれているようです。

 歴史学者のアーヴィングはホロコースト否定論を唱えているのですが、その主張を女性の学者・リップシュタットが批判します。すると、その批判が名誉毀損に当たるとして、アーヴィングが訴訟を起こすのです。いわゆる歴史修正主義について取り上げた映画であり、とても興味深く観ました。
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 歴史問題にせよ、もしくは現代日本における原発問題にせよ、常々厄介だなあと思えてならないことがあります。それは一言で言えば、事実と主張の問題です。

 どんな主張を持つにせよ、まずは事実の探求から始めなければなりません。事実を蔑ろにした瞬間、すべての議論は(およそ必然的に)不毛になります。主張はひとまず後回しにして、何が合意可能な事実なのか、その合意点を見出さねば議論は始まらない。歴史にせよ科学にせよ、それが学問だろうと思います。いや、学問に限らず、どんなことにも当てはまる。

 ごく単純に言えば、理性と感情の問題です。事実が理性から導かれる一方で、主張の根源には感情が付随する。であるならば、感情=主張は後回しにして、まずは理性的に事実を見極めねばならない。

 しかし、人間は感情の生き物であります。感情=主張が前に出てしまう。その結果、結局は議論にならない当てこすり、罵り合いばかりが跋扈する。こういうのが本当に厄介だと思います。
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 本作におけるアーヴィングは結局のところ、ナチズムを正当化したいという感情が根底にあって、そこからホロコースト否定論に向かっているのでしょう。こうなると、適切な議論になりません。感情が根底に居座っている以上、理性的な判断は狂ってしまいます。
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「自分はユダヤ人差別に断固反対する、ナチスやヒトラーの思想などもってのほかだ、そのうえでなお、私はホロコーストを否定するのだ」というなら、まだ聞く価値はあるかもしれません。その人は感情ではなく、なんらかの客観的根拠があるのかなと思う余地がある。

 でも、このアーヴィングはそうじゃないっすからねえ。
 おまえの感情に付き合わされたくないよこっちは、という話でしょう。

 ただ、これはもちろん逆も言えるんです。「ユダヤ人差別はいけない、ナチスを擁護してはいけない、だからホロコーストの否定を許してはならない」というのも、厳密な意味ではまずい理路だとぼくは思う。ホロコーストの実在/不在はあくまでも証拠や証言に基づいて判断すべきことであって、ナチズムの是非や差別問題それ自体とも切り離して論じられるべきなのです。

 だから正直な話、ホロコーストが存在しなかったなら、それはそれでかまわない。
 綿密な歴史研究の結果、ホロコーストの不在が証明されたという事態がもしも起こるなら、それを受け入れる覚悟が必要です。歴史に関する議論は、その覚悟が始まりなのだろうと思います。

 ここから派生して原発論議への所感をだらだら述べそうになるのですが、映画から離れるので置いておきます。
 レイチェル・ワイズ扮するリップシュタットは被告となってしまい、弁護団の力を借りて裁判に挑みます。
 惜しむらくは、彼女自身が法廷で何のアクションも起こさないことですね。
 弁論に立つのはあくまで弁護士たちの仕事であって、彼女自身は何も喋らないのです。
 実際にそうだったのでしょうし、脚色して法廷ヒロイン化しなかったのは良心的です。 まさに、事実=歴史を曲げなかったのはこの映画の美点と言えます。
ただその分、映画としてはもどかしさもありますね。
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 一方、アーヴィングのほうは仲間が誰もいないものだから、自分自身でどんどん喋るのです。これってむしろ、アーヴィングが主人公みたいにも見えちゃう構図なんですね。
「大弁護団と戦う一人の歴史学者」みたいな紹介だって許されてしまうし、そうなると途端にヒロイックに映ってしまう。正直なところ、多勢に無勢のアーヴィングを観て、ちょっと応援したい気持ちにさえなってしまった。
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 この映画は「事実」をめぐる作品であり、だからこそあくまで事実に基づく演出を心がけたものだろうと推察します。しかしそのストイックさ、律儀さゆえに、どこかアーヴィングに肩入れを許す構図にもなってしまう。ここは作り手ももどかしかったんじゃないでしょうか。彼のほうがリップシュタットよりもはるかに躍動しているから。
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 と、ここまで書いてふと気づきます。
 なるほどこの映画は、フェイクニュースに代表される「嘘の魔力」をも同時に描いているのだなと。
 
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 トランプ大統領は過去、数々のフェイクをばらまいたとされています。でも、フェイクかどうかこだわらず、言いたい放題言っていれば、それはある面で魅力的に映るのです。事実に基づいて長々と説教する人間よりも、「うるせえこの野郎! 俺はこう思うんだ! 文句は一切受け付けないぞ!」と押し通す人間のほうが、魅力的に映ってしまう場面が確かにあるわけです。
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 この映画はホロコーストを題材にしながら、現代の政治状況を映し出すというきわめて真っ当かつ高等なことにチャレンジしている。そのように見受けます。また、映画という商業的媒体を通すことで、メディアにおける「嘘の魔力」「嘘の魅力」すらも映してしまっている。この映画において魅力的なのは、大弁護団に囲まれているリップシュタットよりも、一人で戦うアーヴィングのほうだったりする。
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 ほら、こういうイメージによって、人はころっと騙されたりするんだ。
 そういう批評性を隠しているなら、まことにハイレベルな作品と言えます。

 また他方、歴史修正主義の怖さにもあらためて気づかされます。
 実のところ、アーヴィングに代表される修正主義者は、自分たちの正当性を示す必要がないんです。彼らはただ、「ひとあな」を開ければそれでいい。世界で正しいとされている史実に揺るぎを与え、「もしかしたら別の真実があるのかも」「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も残されているのかも」と、人々に思わせれば成功なのです。その「ひとあな」が開けば、この現実に寄生することができる。寄生する部位を見つけたらあとは、少しずつ病巣を広げていけばいい。
「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も1%くらいあるんだよね」
 人々にそう思わせた瞬間、彼らの勝ち。
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 これが怖い部分だなと、つくづく思います。
 1%は何かの弾みで、2%以上に膨れあがりますから。

『否定と肯定』の内容についてぜんぜん触れてないじゃないか、何が映画評だクソムシ、と思われたかもしれませんが、この映画は観ている間に面白かったかどうかとか、そういうのは二の次だと思います。むしろ、映画を観た後で考える時間こそが鑑賞体験。日本の歴史認識問題、南京事件や従軍慰安婦、あるいは現代の原発問題。さまざまなことへと思考の枝葉を広げることができるし、その中でこの映画もまた息づく。
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 本作は、「この映画を観る」というよりもむしろ、「この映画を通して社会を観る」ということに貢献します。そういう映画を今後も観たいなあと思う次第であります。 
 


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by karasmoker | 2018-09-16 06:40 | 洋画 | Comments(0)
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