『シークレット・サンシャイン』  イ・チャンドン 2007

ある問題についてどう捉えるか。この映画はその点に尽きます。
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最近のぼくのi-tune/i-pod生活は『宇多丸のウィークエンドシャッフル』のシネマハスラーばかりです。大作に舌鋒鋭く切り込み、容赦がないので聴いていて楽しいです。ただ、この番組を聴いていると日本映画を観る気がなくなってしまうので、その点は要注意ですね、昨年のシネマハスラーランキングで一位を獲得したのがこの『シークレット・サンシャイン』。このときの放送は普段より尺が短く、その分映画のイメージが掴みきれずにいたので、本作はほとんど予備知識なしで観ました。

 韓国ではキリスト教が広く信仰されていると聞きますが、どの程度のものなのでしょうか。それがもうひとつよくわからないので、映画内における宗教との距離感を掴むのが難しい、というのはありました。だからこの映画におけるキリスト教の位置づけがよくわからないんですね。韓国社会とキリスト教、についてはもう、何も知らないと言っていいくらいの無知なぼくです。だからこの映画をきちんと受け止められているかと言えば、おそらくぼくはそうじゃないんです。多くの日本の観客もそうじゃないでしょうか。

 映画としてはかなり抑制の利いた表現のされ方がなされていると思います。違う言い方をすると、前半部などはかなり退屈でもある。いや、まあでも、退屈であればあるほど、退屈だからこそ平穏な日々というのが映し出され、あの事件の落差が際だつというのはあるでしょうから、まあ仕方のないところかもしれません。表現として過剰さがなく、描き方としては至極真っ当です。ある出来事、その経過をきちんと映しています。宗教の描写も、新興宗教のように狂気性を感じさせるものではまったくなく、きわめて穏当に社会に馴染んだ伝統宗教という感じを受けました。実際の韓国におけるキリスト教がわからないので、あくまでもこの映画から感じた印象としてです。ただやっぱり、アメリカやヨーロッパの映画に比べると、宗教を信じることということに力が入っているなあ、という気はします。アメリカやヨーロッパはおそらく、もう完全に社会に馴染みきっているからこそ自然にキリスト教が存在しているんでしょうけれど、この映画における韓国では、皆が一生懸命に信じている感じ。その意味では、まだ本当の信仰として根付いていないのかもわかりません。そしてこのことがまさに、映画の後半を貫いていますね。

 この映画を決定づけるものはあるワンシーンに凝縮されています。これ以下はネタバレになりますので注意です。ある意味、娯楽映画におけるトリックのネタバレなどよりも、映画を観るうえでの深刻なネタバレになります。

 子供を殺された主人公シネはその後、キリスト教に入信する。精神の安定を得て、自ら殺人犯に向き合い、赦しを与えようとする(DVDでは「許し」ですが、ここは「赦し」にしてほしかった)。実際に面会してみると殺人犯もまたキリスト教に入信しており、実に晴れやかな顔で「私は神に赦された」と言う。この殺人犯を赦そうと思っていた主人公シネは、この直後から変貌し始める。

主人公としては、「おまえを赦す」と自分から言いたかった。でも、この殺人犯が自分から「私は神に赦された」と言ってしまうので、「えっ、ちょっと待てよ」という話になるわけですね。宇多丸が「宗教というものが根本的に抱える問題」「宗教が構造的に持っている矛盾」と言っていたのはまさにここでしょう。「神が罪を赦す」という思想が「神によって救われようとする」人間を打ち付けてしまうわけです。主人公シネは赦そうとしていた。しかし相手の出方は自分の想定外のもので、結局は赦すことができぬ自分に気づき、その瞬間、自分がよりすがっていた(=「一生懸命信じていた」)ものへの信仰が崩壊し、精神が壊れてしまう。

 この殺人犯の表明はつまり、被害者遺族にとってこの上なく残酷なものでありうるわけです。何なら、凶悪な人間、更正していない犯罪者であるほうがまだいいと言えるくらいのものかもしれないです。ある人間が神に救われた瞬間、別の人間はその救いを前に呆然とするほかない。この人間感情を「赦し」の思想はどう処理しているのでしょうか。まさかこの殺人犯に対し、被害者遺族として「そうよ、あなたは赦されている」とは言えない。どうすればいいのかわからずに、シネは狂ってしまうわけです。

 この映画はこの点を引きずらせるというのが全てと言っていいくらいじゃないでしょうか。ある意味でコロンブスの卵というか、昔々から知っていたはずのことをぶつけられた感じです。韓国というのが舞台としてよかったというのもあります。アメリカ・ヨーロッパに比べればキリスト教に対する社会的成熟が進んでいない場所でしょうからね。世界中の文学や映画を観れば、どこかに前例がありそうな感じもしますが、どうなのでしょうか。

 ただ、映画について違う言い方をすると、この問題を突きつけるための作品という感じがする。だから、もう一度観てみようとはあまり思わないんです。こういうテーマを論ずるときに非常に参考になる作品ではあるけれど、何度も観たい映画とは違いますね。その意味では、この問題について前々から考え、自分の中でなにがしかの結論を得ている、という人にとってみれば、観てもしょうがない作品なのかもしれないとは思います。そういう人にとってみれば、甘いかもしれない。狂うことに逃げ込んでいる、その先に進んでいない、ということになるかもわからない。この映画に対する批判があるとすれば、そういうところでしょう。映画的に云々、というのはあまり意味がありません。

 この作品は言い方が難しいです。(曖昧な表現ですが)いわゆる映画的な面白さがあるのかというと、そうでもない。ただ、これをもっと面白くしろというのも違います。面白くしようとすれば嘘が紛れ込む。嘘を排してリアルに物語ろうとすればこういう形式になる。面白くない、という言い方もできないんですよ。面白くつくろうとしているわけではないと思うし、だからこそいいわけで。余計なことをせずにきちんと語りきっている、ということですね。
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by karasmoker | 2009-04-13 07:36 | アジア | Comments(0)
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