この作品は、これでいい。
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 かなり話題になり、評価も集めた漫画ですが、ぼくは未読でありまして、「聴覚障害者の出てくる作品」という以外の予備知識はほぼゼロで観ました。観終えた後で知ったのですが、絶賛している人も多い一方、町山さんはキャラクター造型に否定的な話をしていたりするようです。まあ、うん、そこはまあわかるかなというのはありますが、うむ。
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 序盤は小学校の話です。主人公の将也のいる学校に、聴覚障害者の西宮硝子が転校してくるところから話が動き出します。最初は物珍しく受け入れていたのですが、硝子がだんだんといじめられるようになり、そのいじめが発覚してから将也は暗い人生を送るようになってしまい、そのまま物語は高校時代へと移行します。
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 高校生になった将也は小学校時代とは対照的に暗い毎日を送っており、自殺まで考えるほどに落ち込んでいます。一方、過去の体験ゆえか手話を習ってもおり、手話教室に出向いたところで硝子と再会し、話の本筋が動き出していきます。
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 この映画はいい映画か、そうでないか。
 賛否もあるだろうと思いますが、ぼくはその賛否を招いたことひとつをとっても、いい映画なのだろうなとは思います。この映画を観た後で、よくないところもいろいろ語れるだろうし、一方で美点も大いにある。観た後でいろいろ語れる映画は、総じていい映画でありましょう。
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 アマゾンの★レビューなどを観る限りは実に3分の2が5つ星を挙げているくらいですし、アニメファンの勘所を押さえているのもウケた要因だと思いますね。ラノベでは既に「テンプレ」といえる設定でしょうが、主人公は孤独な高校生であり、自分を慕ってくれる無垢な美少女がおり、母親は「姉貴かよ」とつっこみたくなるほど若々しく、それでいて父性的存在=大人は希薄に描かれている。ついでに、これまた無垢そのものの可愛い幼女キャラがおり、生意気系の妹キャラやツンデレな(そしてヤンデレっぽくもある)元同級生、博愛主義のクラスメイト、無害にして善良な友人などを配合。「こういうの好きだろ」っていう設定を的確に突いている。ベッタベタに手垢のついた日常設定に障害者という「異物」を埋め込みつつ、青春を描く。きわめて周到です。
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 このように言うと突き放したように聞こえるかも知れませんが、違います。アニメファンや漫画ファンを引きつける王道をきちんと押さえているね、ターゲッティングがしっかりしているね、ということです。見習うべき部分が大いにあるのです。

 障害者を描くということは、何につけその描き方が議論の的になるものですが、本作については町山さんが疑義を呈していました。いわく、西宮硝子を綺麗なもの、か弱いものとして描きすぎではないか。障害者だって陰の部分はあるわけだし、障害者を綺麗なものとして描きすぎることは、むしろ彼らを遠ざけることにならないか。障害者の人間性を描けていないのではないか。というような話でした。

 確かに本作の硝子は、綺麗でか弱い存在なんですね(原作は未読なので、映画についてのみ言及しています)。小学校でいじめられても不満そうな顔をしないし、周りから嫌われても暗い顔を見せない。臆病かつ美しく、将也に想いを寄せている。小学校の教室で将也につかみかかる場面はありますが、高校生時代には妹と喧嘩するくらいで、外に対しては陰の部分を見せません。町山さんは、登場人物の少女・植野の怒りに同調を見せつつ、硝子の人間性が見えづらいと指摘しています。

 障害者をモチーフにした映画において、本作の描き方は是か非かということです。

 うーん。

 ぼくなりに思うこととしては、この作品がどの層を狙っているかってことですね。そして、現在の日本における障害者のあり方ってことにも絡んでくると思います。

 上述したように、本作はアニメファン、漫画ファン(ないしラノベファン)、つまりはその種の若者向けの作品として、ツボを押さえています。そして現にウケている。であれば、西宮硝子の人間性を微細に描く、陰影をつけて描くというようなことは--身も蓋もない言い方ですが--マーケティング上、不要なんです。
 これは思うに、「文学を観たいか、アイドルを観たいか」ということでもありましょう。町山さんは文学を観たいと思った。そこにある障害者の人間性。社会や人間関係に対する不満。利己的な部分。打算的な部分。そうした負の部分をも含みこむ文学性を求めた。
 かたや、多くのアニメファンにとって必要なのはアイドル性でしょう。
 主人公に食ってかかるヒロインは可愛くありません。『あの花の名前を僕たちはまだ知らない』におけるめんまがそうであるように、主人公に対しては無償の愛を注ぐか、ないしは主人公にとって適度に都合のいい人物であってほしいのです。利己的で打算的な、人間くささなど要らない。いや、まったくないのも退屈だ、ちょっとだけあればいい、無害なレベルでスパイスを利かせてくれればいい。それがアニメや漫画における、人気ヒロインというものです。
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 だから、本作としてはこれでいい。裏を返せば、本作はあくまで本作のレベルに留まる。高校生の母親なのに20代にも見えてしまう金髪の母親が典型。重んじられているのはリアリティよりもアニメ的心地よさです。もしもリアルな障害者像を本作が求めるなら、あの母親だってもっとリアルに描きます。登場人物のリアリティラインがそうなるでしょう。でも、本作はそういう作品ではないのです。
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 なんだかんだ言ってくさしてやがるじゃないか、と思われるなら、くどいようですが本当に違います。そういう作品だからこそ、広い人気を集めたとも言えます。そして、広い人気であるがゆえに聴覚障害者への関心が高まり、理解が少しでも深まるなら、それはいいことです。
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 感動ポルノなんて言葉もありますが、現代の日本はおそらく、「障害者のリアルな姿」「障害者の人間性」などに興味を持つほど、障害者に関心がありません。残念ですが、そういう状況です。東京オリンピックに関心が集まれど、パラリンピックは大して盛り上がらないでしょう。障害者が健常者と同じレベルまで努力する姿は「感動」を呼ぶけれど、健常者を超える能力を持つ障害者には興味がない。健常者が上、障害者が下。健常と障害という言葉もまた、その認識を保ち続けます。障害者雇用を中央官庁が水増ししていても国民は大して怒りを持たず、残虐きわまりない差別的殺人も風化していく。
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 いい悪いではない。日本の現状はその程度だということです。なればこそ、まずは障害者の存在に興味を持てる題材を広めることが大事であり、ヒットのツボを的確に押さえる作品は大切にしなければなりません。町山さんが期待する、細やかな人間性うんぬんにいたるのは次の段階なのです。アニメ好きな若者が本作を観て、障害者に興味を持つことがあるならそれでいい。障害者という存在を遠巻きにではなく、アニメキャラを通して身近に感じてくれたり、好感を持ってくれたりしたらそれでいい。西宮硝子は終盤で自殺を図る。その悩みの片鱗を見せることができればそれでいい。この作品は、社会的役割を十分に果たしているのです。硝子の拙い喋りが聴覚障害ゆえの響きでなく、可愛さを帯びるのならそれもいい。
 
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 この作品は、町山さんが期待するほどの水準にある作品ではない。
 ただ、日本の現状を鑑みる限り、それでいい。

 褒めてるんだか貶してるんだか最後までわかんねえな、と思われたかもしれませんが、多少なりともいい年をこいてくると、この手の青春譚に諸手を挙げてワッショイする気には到底ならないものなのです。むしろ、周りのことをあれやこれやと考えるものなのです。
 そしてそのうえで、ぼくはこの作品に対して、とても肯定的であります。


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面白い。あるいは抵抗感。
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 2004年9月に福岡県大牟田市で起きた殺人事件。それを取り上げた鈴木智彦氏のノンフィクション、『我が一家全員死刑』を原作とする作品です。小林勇樹氏の作品で、公開時に27歳という若手監督です。

 実在の出来事が題材という点では、前回取り上げた『否定と肯定』に通じます。しかし、描き方は真逆です。脚色をちりばめ、才気煥発の言葉そのままに、エネルギー漲る作品となっています。
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 クラシックとエロスを混ぜ合わせた冒頭シーンは園子温を彷彿とさせ、その直後に痛々しく無様な暴力シーンをかませる。舞台を静岡に置き換えたそうで、シーンの中で交わされる会話は方言ばりばりの粗野なやりとり。掴みとして十分なインパクトを与えます。
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 この映画はやりたい放題やるぜ! という宣言も高らかに、その後に続くシークエンスで主人公一家の様子を描きつつ、冒頭25分というタイミングで最初の殺人にいたるところなどは、脚本術の王道をしっかりとなぞっている。ただの乱暴な映画ではなく、きちんと計算している周到さも好ましいところです。
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 登場するのは軒並みDQNな連中であり、風景の切り取り方も相まって、90年代的な風合いも漂います。間宮祥太朗演ずる主人公もさりながら、その彼女の存在感もぼくは好きでした。清水葉月さんという女優なのですが、「蒼井優マークⅡ」というフレーズがぱっと思い浮かび、ぼくの頭の中を巡っていました。観てもらえばわかってもらえるでしょう。この蒼井優マークⅡがまたいいのです。見た目には小綺麗な感じなんですが、言動はしっかりとDQNであり、ああ、土着の女だなあと思わせてくれる。小人症の男性を雑に扱う点も含め、余計なポリコレに気をとられてない感じは、若い作り手ながら嫉妬を抱かされるものであります。
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 一人一人の顔立ちが適切だなあとも思いました。六平直政はもとより、毎熊克哉さんという俳優はいかにも地方のワルにいそうな感じです。監督につくりたいものが明確にあって、その空気感を的確に醸している。ぼくは現在、東京の中でも都会に位置する場所で暮らしていますが、ここに住んでいてはわからない地方の雰囲気が伝わってくるんです。ああ、日本にはまだまだこのような乾いた街が山ほどあるのだろうなあと確かに思わされる。地方を描くということなら、2000年代以降はとりわけアニメの世界で花開き、数々の「聖地巡礼」ブームなどを巻き起こしたものですが、それとはまったく別種の乾いた風景。地方都市が持つひとつのどうしようもなさ。そんなものが随所に垣間見られ、映画として非常に強いものを感じます。
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 映画好きの人たちも多く絶賛しているようであり、それは確かにわかる。エネルギッシュな作品として確立されており、才気漲る若手監督ということなら、80年代の石井聰互をも想起させる。放埒な悪魔たちを描いた映画なら『マーダーライドショー2』と併映して、悪に酔い痴れる快感に溺れてもいいでしょう。

と、映画として絶賛を惜しむものではないのですが、やっぱりぼくはどうしてもまじめっこちゃんになってしまうのです。なってしまう部分があるのです。

 とかく現代ニッポンにおきましては、「道徳的横槍」が方々に乱立します。ちょっと尖ったCMがあれば「差別的だ」といい、ブログに写真をアップしたタレントがあればその画像を見て「違法ではないか」といい、ツイッターで楽しいことを呟いた人があれば「不謹慎だ、楽しめない人のことを考えろ」と横槍をぶっさす。そういうものにわたしはなりたく、ないのですけれども、それでもなおこの映画についてどうしても引っかかってしまった。

 発生から15年も経っていない実在の事件であって、被害者の遺族は果たしてどのような気持ちなのだろうなと、その思いを拭えないのですね。監督が遺族とどのようなコミュニケーションを取ったのかわからないし、遺族としてまったく問題ないと言っているのならぼくがあれこれ言うのは余計の極みなのでしょうが、どうにも主人公たちが魅力的に映っていて、どうにも殺される側が滑稽というか、軽い。
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 たとえば最初に殺される青年は、アホみたいなユーチューバーなんですね。ありがちなバカ企画をやって盛り上がっているうちに襲われるんですが、この脚色にどうしてもざわざわしてしまった。あいにく原作のノンフィクションを未読なので、被害者の人となりなどはわからないのですが、あんな風に軽い存在なのでしょうかね。鳥居みゆき演じた被害者女性もそうで、あれだけ見ると人生に何の重みもないアッパラパーの成金なんです。被害者がどういう人かわからない。殺されても仕方のないくらいに悪辣な人だったのかもぼくにはわからない。でも、わからないからこそ不安になる。これを面白いと言ってもいいものだろうか。
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 最後に殺されるのはどうもゲイっぽい青年なのですが、そこはどの程度真実なのか。仮に本当にゲイだったとして、あのような描写を青年の遺族や知り合いが観たとき、納得するものなのだろうか。少なくとも、あの青年はあの場に居合わせただけであり、犯人たちに殺されるべき理由は何一つない。にもかかわらず、あのような描き方でいいのか。
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 原作者の鈴木氏は、「死者への敬意を欠いていないか」と監督に指摘したそうですが、監督は「観る側が気にする必要はない」と割り切っているようです。確かにそうなのかもしれない。ただ、この映画を面白く感じ、あの主人公たちに魅力を感じたとき、実際の殺人事件をぼくは(たとえちょっとであっても)肯定してしまうのではないか。気にする必要はないと言われても、それを決めるのは果たして監督なのか?

 それを言い出したら戦争映画も駄目だし、架空であっても殺人事件や犯罪者を描いたものはダメじゃないか。

 うん、そうかもしれない。ただその言い分が正しいとしても、だからこの作品も問題ないと言い切ることが、ぼくにはできない。
 
これってわりとナイーブな問題だと思うんですけど、世間に数多いると思われる「道徳自警団」(古谷経衡氏の造語)は、何も反応していないんですかね、よくわかりませんけど。CMとかタレントにはかみつくのに。映画だからいいの? でも、反日映画ならネトウヨは怒るよね?

 いや、ぼくはこの映画を否定したいわけではない。前半で申し上げた通り、映画的な出来はとてもいい。ただその分だけ、この映画に対する葛藤もせり上がってくるのです。

 さて、あなたはいかがでありましょうか。


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この映画を観て語る時間も、鑑賞体験。
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 原題 Denial

 ホロコーストの歴史をめぐる実在の裁判をもとにした作品です。実際の出来事は「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」と呼ばれているようです。

 歴史学者のアーヴィングはホロコースト否定論を唱えているのですが、その主張を女性の学者・リップシュタットが批判します。すると、その批判が名誉毀損に当たるとして、アーヴィングが訴訟を起こすのです。いわゆる歴史修正主義について取り上げた映画であり、とても興味深く観ました。
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 歴史問題にせよ、もしくは現代日本における原発問題にせよ、常々厄介だなあと思えてならないことがあります。それは一言で言えば、事実と主張の問題です。

 どんな主張を持つにせよ、まずは事実の探求から始めなければなりません。事実を蔑ろにした瞬間、すべての議論は(およそ必然的に)不毛になります。主張はひとまず後回しにして、何が合意可能な事実なのか、その合意点を見出さねば議論は始まらない。歴史にせよ科学にせよ、それが学問だろうと思います。いや、学問に限らず、どんなことにも当てはまる。

 ごく単純に言えば、理性と感情の問題です。事実が理性から導かれる一方で、主張の根源には感情が付随する。であるならば、感情=主張は後回しにして、まずは理性的に事実を見極めねばならない。

 しかし、人間は感情の生き物であります。感情=主張が前に出てしまう。その結果、結局は議論にならない当てこすり、罵り合いばかりが跋扈する。こういうのが本当に厄介だと思います。
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 本作におけるアーヴィングは結局のところ、ナチズムを正当化したいという感情が根底にあって、そこからホロコースト否定論に向かっているのでしょう。こうなると、適切な議論になりません。感情が根底に居座っている以上、理性的な判断は狂ってしまいます。
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「自分はユダヤ人差別に断固反対する、ナチスやヒトラーの思想などもってのほかだ、そのうえでなお、私はホロコーストを否定するのだ」というなら、まだ聞く価値はあるかもしれません。その人は感情ではなく、なんらかの客観的根拠があるのかなと思う余地がある。

 でも、このアーヴィングはそうじゃないっすからねえ。
 おまえの感情に付き合わされたくないよこっちは、という話でしょう。

 ただ、これはもちろん逆も言えるんです。「ユダヤ人差別はいけない、ナチスを擁護してはいけない、だからホロコーストの否定を許してはならない」というのも、厳密な意味ではまずい理路だとぼくは思う。ホロコーストの実在/不在はあくまでも証拠や証言に基づいて判断すべきことであって、ナチズムの是非や差別問題それ自体とも切り離して論じられるべきなのです。

 だから正直な話、ホロコーストが存在しなかったなら、それはそれでかまわない。
 綿密な歴史研究の結果、ホロコーストの不在が証明されたという事態がもしも起こるなら、それを受け入れる覚悟が必要です。歴史に関する議論は、その覚悟が始まりなのだろうと思います。

 ここから派生して原発論議への所感をだらだら述べそうになるのですが、映画から離れるので置いておきます。
 レイチェル・ワイズ扮するリップシュタットは被告となってしまい、弁護団の力を借りて裁判に挑みます。
 惜しむらくは、彼女自身が法廷で何のアクションも起こさないことですね。
 弁論に立つのはあくまで弁護士たちの仕事であって、彼女自身は何も喋らないのです。
 実際にそうだったのでしょうし、脚色して法廷ヒロイン化しなかったのは良心的です。 まさに、事実=歴史を曲げなかったのはこの映画の美点と言えます。
ただその分、映画としてはもどかしさもありますね。
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 一方、アーヴィングのほうは仲間が誰もいないものだから、自分自身でどんどん喋るのです。これってむしろ、アーヴィングが主人公みたいにも見えちゃう構図なんですね。
「大弁護団と戦う一人の歴史学者」みたいな紹介だって許されてしまうし、そうなると途端にヒロイックに映ってしまう。正直なところ、多勢に無勢のアーヴィングを観て、ちょっと応援したい気持ちにさえなってしまった。
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 この映画は「事実」をめぐる作品であり、だからこそあくまで事実に基づく演出を心がけたものだろうと推察します。しかしそのストイックさ、律儀さゆえに、どこかアーヴィングに肩入れを許す構図にもなってしまう。ここは作り手ももどかしかったんじゃないでしょうか。彼のほうがリップシュタットよりもはるかに躍動しているから。
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 と、ここまで書いてふと気づきます。
 なるほどこの映画は、フェイクニュースに代表される「嘘の魔力」をも同時に描いているのだなと。
 
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 トランプ大統領は過去、数々のフェイクをばらまいたとされています。でも、フェイクかどうかこだわらず、言いたい放題言っていれば、それはある面で魅力的に映るのです。事実に基づいて長々と説教する人間よりも、「うるせえこの野郎! 俺はこう思うんだ! 文句は一切受け付けないぞ!」と押し通す人間のほうが、魅力的に映ってしまう場面が確かにあるわけです。
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 この映画はホロコーストを題材にしながら、現代の政治状況を映し出すというきわめて真っ当かつ高等なことにチャレンジしている。そのように見受けます。また、映画という商業的媒体を通すことで、メディアにおける「嘘の魔力」「嘘の魅力」すらも映してしまっている。この映画において魅力的なのは、大弁護団に囲まれているリップシュタットよりも、一人で戦うアーヴィングのほうだったりする。
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 ほら、こういうイメージによって、人はころっと騙されたりするんだ。
 そういう批評性を隠しているなら、まことにハイレベルな作品と言えます。

 また他方、歴史修正主義の怖さにもあらためて気づかされます。
 実のところ、アーヴィングに代表される修正主義者は、自分たちの正当性を示す必要がないんです。彼らはただ、「ひとあな」を開ければそれでいい。世界で正しいとされている史実に揺るぎを与え、「もしかしたら別の真実があるのかも」「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も残されているのかも」と、人々に思わせれば成功なのです。その「ひとあな」が開けば、この現実に寄生することができる。寄生する部位を見つけたらあとは、少しずつ病巣を広げていけばいい。
「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も1%くらいあるんだよね」
 人々にそう思わせた瞬間、彼らの勝ち。
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 これが怖い部分だなと、つくづく思います。
 1%は何かの弾みで、2%以上に膨れあがりますから。

『否定と肯定』の内容についてぜんぜん触れてないじゃないか、何が映画評だクソムシ、と思われたかもしれませんが、この映画は観ている間に面白かったかどうかとか、そういうのは二の次だと思います。むしろ、映画を観た後で考える時間こそが鑑賞体験。日本の歴史認識問題、南京事件や従軍慰安婦、あるいは現代の原発問題。さまざまなことへと思考の枝葉を広げることができるし、その中でこの映画もまた息づく。
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 本作は、「この映画を観る」というよりもむしろ、「この映画を通して社会を観る」ということに貢献します。そういう映画を今後も観たいなあと思う次第であります。 
 


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監督はこの映画をつくりたかったのか?
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 とかく人々の中には暴力衝動が内在していたりするもので、あるいは放埒な暴力に対して憧憬を抱く面もあろうかと思われ、ヤクザ映画というのはつまり、そうした人々の欲求を発散させてくれるものなのだろうと考えます。
 
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身近にいたら迷惑きわまりないけれど、フィクションの中では輝く存在。そのヤクザのすごみをひとつの売りとし、ぶち殺すぞこの野郎! と叫ばせまくった前二作。かたやラストとなる本作ではその勢いも切れてしまい、なんだかむにゃむにゃした作品だなあと思わされました。

 北野武扮するヤクザ・大友が今回もキーパーソンの一人となるのですが、どうにも存在感に重みがないのですね。というか、ヤクザ同士、ヤクザ内部でのいざこざに終始してしまい、その外側がちっとも見えてこないというか、北野監督としても本当にこの作品をつくりたかったんだろうか? というのが疑問です。率直に言って、何をしたいのかよくわからなかった。
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今回の話で大部分を占めるのが、西のヤクザ・花菱会の内輪もめなんですが、まずもって関西弁のうまい俳優が少ないし、その点での味わいがない。これは前作からしてそうだったんですが、西田敏行の関西弁はぜんぜんはまってないうえに、ピエール瀧もまずい。塩見三省は京都出身だそうですが、彼にしてもなぜだかイントネーションがおかしい。
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 ところで、方言というものがぼくは好きです。東北弁にせよ琉球語にせよ、音楽的な調べがあるんですね。濃度の高い方言の中には、何を言っているのか外の者には聞き取れないものもありますが、これはその土地に住まう人々が、何世代もかけて磨いてきた調べなんです。無駄が削がれ、言葉の角が取れ、コミュニケーションのための最適化がなされた方言には、独自のチューンがある。関西弁にしてもそうで、大阪にせよ京都にせよどこにせよ、標準語という半ば人工的なものとは違う美しさがある。

 関西のヤクザとなればそれこそ土着の方言、いい意味での汚さを期待するところなのにそれもなく、いかにもつくりものめいて見えるのがまず辛い。こういう映画にこそ、吉本芸人を出してほしいですね。木村祐一なんかがピエール瀧の位置にいれば、はまり役だったんじゃないでしょうか。あ、岸辺一徳だけはよかったです、例外的に。

 さて。それはそれとして。
 話はピエール瀧と北野武のいざこざに始まり、それが別組織にも飛び火して、面倒ごとが膨れあがってという話になり、一方では花菱会の権力争いもひとつの軸になっているんですが、これがなんというか、「誰がどうなろうとわりとどうでもいい」んです。大友=北野武の話がそもそも、本作ではまともに機能していない。だから中心のつくりが非常に脆弱で、作品全体にちっとも熱が生まれない。

 ヤクザ映画の古典、『仁義なき戦い』においては、菅原文太扮する広能があくまでも中心として機能していたし、金子信雄の狡猾さも相まって、きちんと軸を形成していた。ところがこちらの大友は、「なんだかしょうがないけど、しょうがないから暴れている人」以上の深みがなく、大森南朋にいたってはもうほとんど非人格的に追従するだけです。
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 どうせこの三部作もここで終わりなのだから、それならもういっそのこと開き直って、主要な幹部ヤクザ連中を片っ端から撃ち殺す皆殺しカタルシスをつくりだせば映画的に輝くものを、そのそぶりすらない。大友はマシンガンを持ってヤクザのパーティに乗り込むけれど、結局は下っ端を撃ち殺すだけで、西田敏行はすたこらと逃げおおせる。

 一作目は怒号飛び交う元気なヤクザ映画として華があったし、二作目は二作目で関東と関西のヤクザの抗争が盛り上がり、警察との癒着なんかもそこに旨味を添えていた。本作には何もありません。ただ、出がらしの残り香が漂うだけです。
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 細かい部分の演出もぜんぜん締まっていません。
 たとえば、塩見三省とピエール瀧が、詫びを入れるため敵方のヤクザの家に乗り込むシーン。向こうのボスは在日韓国人で韓国語を喋るのですが、それを見た塩見たちは日本語で陰口を叩きます。相手が目の前にいるけど、伝わらないだろうと思ってごちょごちょ不平を言う。ところが、相手のボスは日本語も喋れるため、全部ばれてしまっていた!
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 このくだりもオチがばればれだし、そもそも部屋には警備を務める他の組員もいるのだから、あんな風に喋るのはあまりにも迂闊です。上に述べた(ばればれの)展開をやりたいだけ。本気の場面じゃないから、映画にも本気がこもらない。あげくに下手な関西弁。どないすんねんこれ。どうすんだいこの始末。
 
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 大杉漣が殺される場面も、演出が緩いんです。
 首まで土に埋められた大杉漣を、車で轢き殺す場面。その行為自体はいかにもヤクザの非道さが出ているわけですが、轢き殺したその瞬間、カットは北野武が乗る車中へと切り替わります。殺したとわかる演出は、頭を潰した音のちょっとしたSEが入るだけなんです。

 違うじゃん。そこで一瞬、車が「ドッコン」とならなきゃダメじゃん。
人一人の頭部を轢いたのだから、ちょっとは車体に衝突感が出るだろうし、それがほんのちょっとあるだけで質感が出るじゃん。いや、むしろそれがほんのちょっとであればあるほど、質感に加えて虚しさが生まれるじゃん。そういう細かさもないんです。ただ嫌な感じの音を一瞬入れているだけ。登場人物の存在感が、何にも感じられないのです。

 ことほどさように、北野監督はほとんどやる気がなかったんじゃないかと思われる作品です。前作の『龍三と七人の子分』は面白かったんですよ。いい意味でのはちゃめちゃさが活きていた。本作もどうせ三部作の完結篇なら、はちゃめちゃな方向に舵を切って、やりたい放題やってほしかったなあと思うことしきりでございます。
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ロードムービーの肝心な部分をきちんと押さえた良作
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 ある日突然、身の回りの電気がすべて無くなってしまった世界のお話です。そこでサバイバルをしていく家族の様子が描かれ、小日向文世、深津絵里、泉澤祐希、葵わかなの四人がその家族であります。

 評価の割れる作品のようなのですが、ぼくは飽かずに観られました。日本製のロードムービーをそういえば久しく観ていなかったので、その点で新鮮に感じたのもあります。
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冒頭は日常の風景が描かれるのですが、ここでの家族の具合がまずはよかったです。ああ、こんな家族の風景はどこにでもあろうなあ、というのが等身大で描かれていて、あの辺のダレ具合が丁度良い。葵わかな演ずる女子高生の娘が、おっさんからしてみると程よくむかつく塩梅で、特によいです。「可愛さに費やすエネルギーはすべて、男子と友人たちに注いでいる」かのようなあの感じ。泉澤祐希演ずる大学生もいいです。葵わかなよりも兄貴なんだけど、兄貴感が乏しい童貞大学生の感じ。深津絵里はいいのですが、もっとおばさんくさいキャスティングだと、本当はさらによかったでしょう。まあ、そうすると映画的な華がなくなってしまうので、ここら辺は仕方のないところでもあります。
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で、映画は非日常へと突入していきます。
 もしも本当に電気が無くなったら、というシミュレーション映画としてみれば、瑕疵はあるかもしれません。原発はどうなっちゃうのかとか、ひどいデマが流れて悲劇が起こるのではとか、そっちの照らし方もできるでしょう。でも、この映画ではどうでもいいところです。電気がない世界で、どう生きていけるんだ? というのがまずあって、ぼくたちの生活がいかに電気に支えられているかを照らしている。それをパニック映画でもサスペンス映画でもなく映し出す具合としては、適切な脚本ではないでしょうか。
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一般的に、映画において大事なことがあるんです。それは、「主人公が最善の選択を果たす」ということ。つまりね、主人公が間抜けで馬鹿な選択をしていると、観客は興ざめするものなんです。ここはもっとこうしろよ、それはこういうやり方があるじゃんと観ながらつっこんでしまうことになったりして、映画をつまらなく感じてしまうものです。現に、そういうレビューもネット上には散見される。
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 でもね、この映画の場合はそこが肝なんです。
 ぼくたちは今、電気のある日常にいて、あれこれと文句を言っている。こういうときはこうすればいいと、高みに立って気楽な立場で言える。でも、実際はそうじゃないよ、そううまくはいかないものだよってことです。そこを捉えずにこの映画につっこみを入れても、まるで意味がない。その対比を照らし出す点でも、面白い作品と言えるでしょう。いざその場に立ったら、できるのか? というね。最善の選択なんか、取れやしない。それでも生きていくために、懸命であること。そこが大事なんです。
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 失敗も含めて、進んでいくところに味があるのです。
 そもそも鹿児島を目指すことが最善なのかわからない。途中でいかだをつくって川を渡ろうとするけど、それが最善かどうかはやってみるまでわからない。計画的に進めよと言ってみても、計画的になんて進めるもんじゃない。
その「一寸先は闇」ぶりが貫かれているのが実に好もしいです。野犬のくだりはまさにそうですね。可愛いなと思って豚肉をあげたら……というくだり。ロードムービーとは旅を描く映画であり、ゆえにしてどこか人生のメタファ感を内包するものですが、ロードムービーとしての要点はきちんと押さえていると見受けました。岡山での一期一会なんかもそうですね。ここには人生があるなあ、と思える映画です。豚を解体していくところもいいじゃないですか。ぼくたちの生活がいかなる行為に支えられたものなのか、娯楽映画のレベルでちゃんと織り込んでいる。
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映画全体を通してみると、娯楽的な要素に充ち満ちているというわけでもないんです。そこを支えているのは、主演の小日向文世ですね。あの、頼りがいがあるんだかないんだか、頼っていいんだか悪いんだか、という絶妙の存在感。正直、子供二人はぜんぜん頼りにしている感じがないんですよ。そこがまたいいのです。それでも親父として頑張らなきゃと思い、引っ張っていこうとする様が、たいへん素晴らしい。無神経なおっさんの感じもちょっとあるしね。小日向さんはこの映画で賞か何か獲っていないんですかね。電通も絡んでいる映画なんだから、日本アカデミー賞でノミネートくらいされるべきだったと思いますね。
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観る前はそれほど期待していなかったのですが、随所に味のある作品でした。伏線の回収もぼくは好きです。特にあのカツラのくだりです。物語において最も高度なことのひとつとして、「ギャグとシリアスを絡ませる」「ギャグと悲喜こもごもを絡ませる」というのがあると思います。好例はクレヨンしんちゃんの『オトナ帝国』。あの中で出てくるヒロシの靴下の使い方は、今までに触れたあらゆる表現の中でも随一です。そういうニュアンスを持つのが、川辺とカツラのシーン。ああいうものを一個入れるだけでも、映画の出来はぐんとよくなりますね。
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 映画全体を通しての感想はそんなところです。ところで、劇中のワンシーンで藤原紀香が出てくるのですが、彼女がなぜ女優としてやっていけるのかわからない、あの人の演技プランは洋画の吹き替えでも参考にしているのか……いや、やめておきましょう。
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ひとつのロードムービーとして、よくできた一本だと思います。

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実話を描いて端正で丁寧。けれど。
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 原題『Sully』

 2009年のニューヨークで実際に起きた飛行機事故、USエアウェイズ1549便の不時着水事故の顛末を描いた作品です。

 鳥の大群との接触事故で、民間機がエンジン喪失の事態に陥り、機長と副操縦士は咄嗟の判断でハドソン川に着水します。結果的に全員が無事救出されるのですが、果たしてその判断は正しかったのか、空港に引き返すべきだったんじゃないかと航空会社に咎められてしまい、トム・ハンクス演じる機長は大いに悩むのです。
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100分に満たないタイトなつくりの映画で、評価も高く、この年のキネ旬では外国映画部門の第一位に輝いているのですが、ぼくは体感時間が長く感じられました。実話をもとにして、あの巨匠イーストウッドが端正に丁寧に描いたのはわかるのですが、その分だけ、ぼくのような安い舌にとっては、「上品な味わいだなあ、上品なんだけどもう少し塩味があってもいいんだよなあ」という具合でありました。
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 事実ベースの映画だし、構成上どうしても仕方ないんですが、この作品の場合は、最大のハラハラポイントが序盤で明かされてしまっているわけですね。というのも、生死のかかった飛行機事故を題材にした場合、やはりそこは、助かるのかどうなのか、というハラハラ感がほしくなる。そこはもう、早い段階で終えてしまっているのでねえ。
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いや、歴史上の出来事で、結末がわかっていても楽しめるものというのはあるわけです。それこそ大河ドラマなんて、最終的に誰がどうなるというのは既に判明しているわけですからね。それであっても、ドラマの作り方一つで、先の展開が楽しみになって観てしまうのです。
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 この映画についても、全員助かったという事実は既にわかっているので、そこを勝負どころにしないのはわかります。であっても、「その生死のかかった極限状態」のほうが映画として吸引力があるので、その後のドラマについてあまり逼迫感を覚えられなくなる。
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 この映画において最大のコンフリクトは、「事故当時の機長の判断は正しかったのか、それを調査委員会が調べる」という点にあって、そこをクライマックスに持っていくわけですが、映画を観るときに大切な「どうなってしまうのか」感が弱い。最悪の場合でも、命までは取られないわけですし。
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でねえ、調査委員会の公聴会に呼ばれるんですけども、そこのやりとりがどうも緊迫しないというか、「そんなの最初の段階でちゃんとしておけよ」という内容なんです。

 調査委員会は「コンピュータなどでシミュレーションしたところ、機長の判断は正しくなかった、あれは問題だった」みたいにして話を進めるのですが、そのシミュレーションの部分が、まったくのド素人であるぼくにもつっこみどころ満載なのです。トム・ハンクスがそこを突いて、相手側は簡単に「確かにそうだ」となっちゃうので、緊張感に乏しい。
要は「シミュレーションと現場での判断は違うんだ」ということなんですけど、その手のことは他の物語やなんかでも散々に言い尽くされているし、新鮮味がないのです。
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 どこかでトム・ハンクスが追い込まれればまた別なんです。査問する側が痛いところを突いて、トムが窮地に立たされて、それでも新事実が発覚して、みたいなことがあれば映画に綾がつくと思うのですが、いかんせんそういうことでもない。
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 もちろん、実際の事故に対する機長の判断には敬意を表するし、そういう出来事を映画という形で世に広めるのは価値のあることだと思う。当時の出来事について、映画という表現で歴史に残しておくべきだろうとイーストウッドが思ったのなら、なるほどそれはその通り、と思う。ここで申し上げているのはあくまで、ひとつの映画として観たときにどうなのや、ということです。何も大袈裟な脚色をせよというのではないし、人間ドラマをゴテ盛りにしてほしいのではないけれど、構成やコンフリクトの部分では、映画的魅力をぼくはさして感じられませんでした。このつくりなら、ドキュメンタリーで観たほうがよほどいろいろわかりそうだな、と思わされる。

 うーむ。
 いろいろ書いたのですけれども、タイミングやぼく自身の成熟度の問題もあるかなあとは思います。イーストウッドほどに老成した名監督が描いたものを、ぼくごときではきちんと味わい切れてないという部分もあろうかと思います。「もっと塩味がほしいだって? 若いねえ、この味がわからないとはねえ」とイーストウッド監督に言われたら、しゅんとして俯いてしまうかもしれません。現にぼくは最初、『グラン・トリノ』の味わいがわからなかったのですけれども、あとになって最も好きな作品のひとつになりましたから。

 もっと年をとったときに、あらためて観るべき映画なのかもしれないなあと思います。


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韓国製ゾンビ映画の代表作となるでしょう。
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 原題『부산행』 英題『Train to Busan』
U-NEXTの無料体験を利用して観てみました。
ゾンビものはゲームでも映画でもドラマでも人気ジャンルであり続ける一方、たいていのことは既にやられているわけです。本作はそんな中、電車内や駅、線路など鉄道周りに特化したゾンビ映画として勝負しています。
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 近年人気のゾンビものというと『ウォーキング・デッド』、日本でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』が記憶に新しいところですが、それら先行作とも違い、一切の銃器ないし飛び道具に頼らず、無数の工夫で乗り切っているんですね。その点で、大きな差別化を果たせているように思います。「人間を視覚に捉えると襲ってくる」という設定をゾンビに施し、濡らした新聞紙をドアに貼り付けて目隠しをしたり、携帯電話を鳴らして注意を逸らしたり、トンネルを通っている間に荷物置きを匍匐移動したり、狭い車内という設定を十分に活かしている点もよいのです。
 ゼロ年代の韓流ブームとともに、韓国映画は一躍人気を博すようになりましたが、韓国系バイオレンスの強みはこの「近接戦闘」にあるんですね。ヤッパを持って暴れたり、打撃系の武器で押したり、そういう特性をきちんと引き継いでいる作品でありました。
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ここで、最近のゾンビ映画について考えてみます。
 ゾンビには大きく分けてノロノロゾンビとダッシュゾンビがいるわけですが、ダッシュゾンビの場合は「感染者」という面が強調され、本作でもまた、「感染、即、ゾンビ化」という形式を取っています。ゾンビファンの中には、「ゾンビはやっぱりノロノロだろ」という守旧派の方もおられましょうが、ぼくはダッシュのほうが好きです。というか、もはや現代においてはダッシュのほうが定番じゃないかとも思います。ダッシュのほうがわかりやすく危機を演出できるし、ノロノロはなんだか、「頑張れば逃げ切れる感」が出てしまう。
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 映画におけるゾンビ史を振り返るに、2004年というのが大きな転換点だったように思います。2004年の同時期に公開された二つの映画を考えましょう。ザック・スナイダー監督の『ドーン・オブ・ザ・デッド』、そしてエドガー・ライト監督の『ショーン・オブ・ザ・デッド』です。
 前者は昔の映画のリメイク作品です。あのジョージ・A・ロメロ監督による『ゾンビ』(原題は同じ『ドーン・オブ・ザ・デッド』)のリメイクであり、ロメロがノロノロさせたゾンビを、スナイダーはダッシュに変えた。リメイク作によって、「これからの時代はダッシュが流行るぜ!」と宣言し、潮目を変えるような試みでありました。ダッシュゾンビの嚆矢は2002年、ダニー・ボイル監督の『28日後…』とも言えますけれど、あのロメロの代表作をリメイクで塗り替えた、という点において、『ドーン・オブ・ザ・デッド』は重要な作品であります。
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 そして、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のほうですが、こちらはコメディ映画としてのゾンビをつくりあげたのです。ノロノロ歩くゾンビをレコード盤のフリスビーで撃退しようとしたり、ゾンビの群れの中をゾンビの真似をして歩いて乗り切ったりと、それまで恐怖の対象だったゾンビについて、笑いの対象と捉える見方を広めた。この時点でノロノロゾンビはもはや、怖さの要素がかなり削り取られていたのです。

以後、ダッシュゾンビが増えました。『ゾンビランド』しかり『ワールド・ウォー・Z』しかり、ゲームであれば『ラスト・オブ・アス』しかり。これに対するカウンターパートとしてあの『ウォーキング・デッド』があるわけですが、シーズンが進むにつれて人間同士の戦いが白熱し、もはやザコキャラ扱いとなってしまいました。だからこそ今の時代、逆にノロノロゾンビの映画で傑作ができたら、これはかなり目立つものになるでしょうね。
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『新感染』に話を戻します。本作はダッシュゾンビ系ゆえの緊張感が漲っていました。
 とにかく逃げろ、逃げろ、逃げろの疾走感があるし、やりつくされたようなゾンビ映画にもまだまだ見せ方があるなあと敬服します。最初のゾンビにかみつかれたまま、車内の通路を歩くショットとか、車両にくっついてくる集団のショットとか、印象的な部分も多かったです。劇中のかなり長い間に渡って、緊張感を持続させることに成功している。緊張感の持続というのはアクション映画でも何であっても、とても大変なことです。
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 おおむねよくできた脚本だと思いましたが、「ためにする」部分もやや見受けられました。離ればなれになったおばあさん姉妹の妹が、なぜあのドアを開けたのか。もうちょっと説得力がある理由のほうがよかったと思うし、勇敢だったあのおじさんをゾンビとして活かしてもよかった。あのおじさんは腕力がある人物だったのだから、ゾンビになってドアをぶち壊してしまうとかね。そのほうが、先頭車両の乗客に対しての「ざまあみろ」感が出たように思います。
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ただそれも、極限状態に置かれた人間の気持ちという部分では、理解できますね。いざあの状況になったら、理性的な行動が取れるとは限らない。主人公一行は感染してるんじゃないかと疑われ、排斥されるのですが、あの辺の人間同士の冷たさみたいなのはいい描写だったと思います。ひとり、たいへん自分勝手なおっさんが出てくるんですが、あの人はあの人で、悪者じゃないんですよね。いざあのような状況におかれたとして、あのおっさんみたいにはならないと、ぼくは約束できない。あの人はあの人で生き残ろうと必死なわけで、その辺のバランスは気持ちよかった。
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 総じていうに、「韓国製ゾンビ映画」として、文句なしの代表作になったんじゃないでしょうか。鉄道周りに舞台を特化したのも正解で、密度が高くキープされていた。定番描写も随所に織り込んでいるし、ラストの着地にも間違いはない。エンターテインメント作品として、非常によくまとまった一作だと思います。


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面白いから怖い映画。
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 原題『Er ist wieder da』 意味:「彼が帰ってきた」

現実社会を照らし出した作品というのはぼくの好物の一つであります。身の回りのうんぬんやら人間関係やらを描くドラマもそれはそれでいいのですが、やはりこういう突飛な発想で社会を描く作品は、ぐっと身を乗り出して観てしまいます。
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 原作小説が本国ドイツで大ヒットしたコメディ映画ですが、コメディといってもモチーフがヒトラーでありますから、そこはどうしても難しい問題を孕むわけですね。コメディでありながら社会の木鐸たりうる点において、希有な作品であります。
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原作は未読のため、映画だけについて話しますが、「どうしてヒトラーが現代に来たんだ」という部分は完全にオミットされており、これは正しい判断ですね。そこは完璧にどうでもよくて、この突飛な事態がどのように影響を与えていくかに着眼しきっている。
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 ぼくはドイツの社会状況についてとんと無知なので、いろいろと驚かされました。
 公共の場でヒトラーの格好なんぞをしていたらもっと剣呑な騒ぎになるのかと思いきや、けっこう好意的なんですね。半分ドキュメンタリーっぽいつくりなんですけど、スマホで一緒に記念撮影を求められるような乗りだったりもするし、こういう風景はそれだけでスリリングな映像といえます。
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 ドイツにおけるナチスの扱いは今もそれなりに厳しいものなのでしょうけれど、市井の受け止め方や印象というのは戦後七十年の中でどう変化したのか、みたいな話はまるでできない当ブログですが、そういうことを否応なく考えてしまいますね。本作ではヒトラーのモノマネ芸人であるとして、人気になっていくんです。本人は至って真面目だけれど、その真面目さが面白い、みたいなリアクションなんですね。この辺は実際のドイツ社会を知っていたらもっと面白いのだろうなあと少し悔しくもなるところで、どの程度笑っていいのか、と戸惑ってしまう部分もあるし、その戸惑いを惹起することがこの映画独特の魅力なのでしょう。で、映画的にも「笑えるライン」みたいなものを意識していて、「ユダヤ人ネタは笑えないよ」とさりげなくチェックを入れているんですね。そこに触れるともうコメディアンたり得ないわけで、でも触れざるを得ない局面も出てきて、このバランス感は実に興味深い。
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 ヒトラー、そしてナチスという表象は実に複雑というか、複雑だからこそ困った存在とも言えますね。少し前にも、秋元康の娘たちがナチスっぽい衣裳を着ていたというかどで怒られていましたけど、かの組織の意匠には今もなお通ずる「格好良さ」みたいなものが残ってしまっている。制服なり何なりでね。あるいは劇中でも出てきますが、ヒトラーは演説の名手だけあって、人々を惹きつけてしまうんですね。ここが怖い部分です。ある面で格好いいし、ある面で魅力的。それでいて彼らのやったことが百パーセント、何から何まで間違っていた、と断罪はできない。その時代のドイツにとっては魅力的な主張だったからこそ、人々を味方につけた側面があるわけで、それは現代の移民社会うんぬん、経済状況うんぬんとなんら無関係ではない。
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 ヒトラーというのは天下の大罪人だし、彼が劇中、いろいろとコミカルな出来事を引き起こしていても、やっぱりどこかで「それでもこいつは極悪人だよなあ」と思いながら観てしまうんですけど、最後に登場人物の一人と対峙する場面でははっとさせられました。 自分を選んだのは民衆じゃないか、というね。
 結局そこに行くんですね、うん。
 
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 現代の日本においても、あの首相は駄目だ、この政党は駄目だというのがあるわけですけど、それを選んでいるのは有権者っていう部分から逃れられないというか、こればかりは民主主義自体の宿痾なんですね。国民が主権者である以上、最終的な責任というのは政治家ではなく、国民にあるわけで、ヒトラーなり首相なりを断罪しても、本質的な部分では解決しないんです。ヒトラーは劇中、「自分がこの時代に来たのは神意だ」みたいなことをいうんですけど、実在した彼自身もまた、ある種の神意というか、彼自身では制御できないうねりの中に身を置いていたんじゃないか、ともちょっと思う。
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 どうしようもない災禍を引き起こした張本人だし、その思想は実に許し難いものであったけれど、実際のヒトラーはヒトラーで、抗いがたい何かに飲み込まれていたんじゃないかとも思うわけです。そこは本当に、わからない部分ですよね。彼はユダヤ人虐殺を主導したわけですけど、どの程度の気持ちでいたのかって、深い部分では計れないものもある。口先では強いことを言っても内心では「ああ、そんなつもりじゃなかったんだ。でも周りに宣言した手前、もうつっぱるしかない」という逡巡があったかもしれない。演説では力強い言葉を吐いているけど、その役割を演じきることでしか身が保てないようになっていたのかもしれない。なんてことを、このコメディタッチの作品を観ていると少し考えてしまうわけです。歴史上の記録とか文献などでは想像しきれない部分、人間ヒトラーの部分ってのも、あったんじゃないかというね。
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 彼という表象を通して映し出される現代社会も実に興味深い。そこを認知症の老人が喝破するんですね。彼の訪れで過去を思い出したユダヤ人の老婆が、「最初はみんな、笑っていたんだ」と強い一言を放つ。あの一言によって映画全体、あるいは映画を観る者が暮らす社会全体までが照らされるし、劇中で原作本が売られているメタ構造も意義深い。
 相当に気を張っていないと、社会なるものにぼくたちはいともたやすく飲み込まれてしまうんだろうなと、つくづく感じます。まさに先日の都議選でもひしひしと感じた。政治家の人間性とか思想とか政策とかそんなものを多くの人間は吟味しない。マスコミが煽る対立構造やスキャンダル、もしくは「何かやってくれそう」という漠然とした期待だけでも、社会は大きく変わりかねないわけです。
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 コメディの皮こそ被っていますが、この映画、この作品はちょっとやそっとじゃないぞ、と思わせる優れた批評性を帯びています。その作品内部ではなく、むしろこの社会そのものに対して目を向けさせてくれる。ヒトラーという存在に宿る緊張感が、「ブラックコメディ」という枠を超えさせる。まだまだだらだらと、いつまでも語れそうです。語りたくなる映画はいい映画なのですが、果たして「いい映画」と言ってしまっていいのか。そんな迷いを抱かせる、ある意味ではとても怖い作品と言えましょう。お薦めであります。
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タイトルが全体を貫いていないと見受けます。複数スレッドの有効性に疑問。
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 吉田修一原作で、『悪人』と同じく李相日が監督。妻夫木聡、綾野剛、渡辺謙、宮崎あおい、松山ケンイチ、池脇千鶴、広瀬すず、森山未來など主役クラスの豪華キャストで、どんなもんじゃろうかと思いながら、『怒り』です。原作は未読です。
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2007年に千葉県市川で実際に起きた殺人事件が原作執筆のきっかけとなったそうで、映画冒頭では凄惨な殺害現場が提示され、これが映画全体を貫く大きなフックとなります。

 いくつものスレッドが同時並行的に描かれます。妻夫木・綾野の東京パート、渡辺・宮崎らの千葉パート、広瀬すずの沖縄パートの三つを軸に、警察捜査の進展などが織り交ぜられ、それぞれの生活や人間関係のあれやこれやが語られ、それにしても犯人はいったい誰なんだ、というのが興味を持続させる構成です。
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 2時間半近くあるのですが、結論から行くとやや肩すかし感というか、「あれ、交わらないんだ?」というのがとても大きいです。三つのパートがぜんぜん交わらないんですね。事件の犯人と思しき人間は各パートにそれぞれおり、綾野剛、松山ケンイチ、森山未來なんですけど、パートごとにまったく交わらずに終わったのが残念というか、それでいいのか、とちょっと思います。
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 物語の妙技、みたいなものをつい求めてしまうぼくとしては、「どうも三人ともが怪しいぞ、それでいてちっとも交わらないけれど……ん? もしや時間軸ずらしか? 叙述トリック的な?」くらいの想像を働かせてもいたのですがそういうわけでもなく、まして三人ではないあの人物が実は! みたいなこともなく、ああ、そうなのか、という結末。
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 事件の報道があって、たまたま同じ時期に素性不確かな出会いがあって、そこで「もしやこいつが犯人ではないか?」と疑ってしまう人間模様を描くのははわかるけれど、どうもそこの機微みたいなもんが今ひとつ有効に機能していないというか、それだったらいっそ綾野ないし松山のみに絞って2時間以下で語りきったほうが、信じることと疑うことの難しさみたいなものがはっきりと出てきたのではないか、と思うんですね。それぞれのパートがそれぞれのパートを補完し合っている要素も見出せないし、むしろこの作品については一本軸で行っていいんじゃないかと思う。
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広瀬すずパートでは沖縄の風景が描かれて、中盤では米兵によるレイプ事件が発生します。その前の段で、辺野古移設反対デモの様子が描かれるなどするのですが、この重いテーマはそれだけで一本の映画にも収まらない代物であるというのに、わりとさらっと終わってしまう印象です。ただのレイプ事件じゃなくて、わざわざ米兵のレイプにしたからには何かもっと社会的な暗喩がこめられているのかな、と思って綾野/松山パートを見つめてもそこに作用している風もなく、果たしてあの舞台が沖縄である必要があったのか、米兵レイプ事件である必要があったのかが、ぼくにはよくわからなかった。
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 いや、アイロニーはあるんです。
 本作執筆のきっかけは市川市の殺人であったそうですが、あの事件はイギリス人女性が被害者で、相当大きく報道されていた記憶があります。一方、米兵レイプ事件が起きる沖縄ではいまだに基地があり続けているし、治外法権状態があるし、レイプはその性質上、明るみに出ないわけで、ここには実に理不尽な対比がある。そこを訴える意味があるのかなとも感じるのですが、だったら冒頭の殺人は日本人夫婦ではなく、外国人女性でないと弾力的な対比がつかないわけだし、米兵レイプを織り交ぜた効果が発揮されない。そのせいで、終盤のくだりについてもキレがよくないんです。
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うん、この映画は3スレッドじゃなくてせめて2スレッドにしつつ、相互の対比を浮かばせながら「怒り」がもっと明示的になるように引き締めたほうがよかったんじゃないかな、と思ってしまいます。そうしないと犯人の内面というか、「彼」の考えがいまいちわからないんですね。わからない部分を補って想像していこう、という風にも思えない。こいつにはこいつなりの事情があったんだな、と歩み寄る気になれない。「怒り」という直接的タイトルに見合う「怒り」が果たして、綾野・松山スレッドにあったかといえば、首をひねらざるを得ません。うん、タイトルがよくわからないです。森山スレッドには「怒り」に足るものがあるんですけど、ほかの二者にはないです。だから、交わらないとわかったときの「すかされ感」が大きくなってしまいます。原作は知りませんが、あくまでこの映画を観る限りは、というところで。
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 総じて言うと、各々のパートがかなり中途半端かつ、相互に補完・影響し合うくだりもなく、物語的妙味や「怒り」の深淵みたいなものが浮かび上がってこない印象でした。吉田修一×李相日では『悪人』もありましたが、あれはあれでひどく半端な出来と見受けたし、ぼくはいい観客になれないようであります。沖縄の米兵レイプ問題には日米地位協定、基地問題含めて「怒り」を覚えている身であり、そちらに意識が引っ張られたのもありますね。うーん、よかったという方はどの辺に痺れたのか、教えてほしいです。


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ぼくは、じじいのほうに感情移入していました。
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 最近のホラーテイスト映画としては、わりと話題になった作品です。
 三人の若者が盲目の老人の家に強盗に入り、返り討ちにされてしまうという内容なのですが、これは見方によってだいぶ楽しみ方、楽しめる度合いが変わってくるかなあとも思いますね。ホラーみたいな売り出し方をしていましたけど、そのハラハラドキドキは個人的には得られなくて、むしろ別の面でハラハラしていた、なんてこともありました。ネタバレが嫌なら読まないように。
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 三人の若者はもともと、空き巣みたいなことを繰り返しているんですね。で、主人公格の女性、ロッキー(ジェーン・レヴィ)には娘がいて、なんかそんなに健やかな生活ぶりではないのも明かされる。次の強盗を最後に、娘と旅立つことを計画しています。
 そして仲間の男が新たな標的として、盲目の老人の家に当たりをつけるわけです。深夜に三人で乗り込み、密かに窃盗を企むのですが、そこでばったり相手に鉢合わせてしまい、そこからがさあたいへん、てなもんです。
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ホラー映画の基本的な構造というのは、主人公と、それを襲う何者かがいて、主人公はあの襲撃者相手にどうなってしまうのだろう、ハラハラ、みたいな形をとるわけですね。観客は主人公に感情移入することで、その恐怖を一緒に味わうというのがオーソドックスなあり方でしょう。
なればこそ、僕はちょっと戸惑ってしまいました。というのも、この映画の主人公たちにはまったく共感できないし、盲目の老人(スティーブン・ラング)が可哀想というか、そもそも障害者を障害者と知ったうえで標的にするというその構造自体があまりにも下卑きっているので、この主人公どもがどうなろうとまるで知ったことではなく、むしろさっさと殺してしまえ、頑張れじじい、という風にしか観られなかったのです。じじいはじじいですごく怖いはずですよ。侵入者がいるのがわかって、けれど姿が見えないわけですからね。
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少なくとも途中までは、このじじいは別に悪人でもなく、静かに暮らしているだけなんです。そこにわざわざ入り込んでいって、金をむしり取ろうという人間はむしろ死ぬべきであって、ぼくは完全にじじいサイドで観ていました。というか逆に、どうしてこの主人公に感情移入できるのかがわからないです。ロッキーは幼い娘の母親で、金を必要としていてとか理由付けしてるんでしょうけど、だからといって視覚障害者を標的にするなど最低でしょう。盲目のじいさんと思っていたら実は強くて、ヤバイ、殺される、ハラハラってな感じで進むんですけど、そんなもん勝手に家宅侵入して家の中めちゃくちゃにしてるやつは死ね、ということに過ぎません。あのじじいの家にあるお金は、事故の示談金なんですよ。娘が死亡事故にあって、その示談金として払われたお金です。それをむしり取ろうという主人公どもを応援できるほど、ぼくは邪悪な人間ではないのです。
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 一方、老人も身綺麗ではありませんでした。途中でね、この老人の狂気ぶりが明らかになるんです。実はこのじじい、一人の女性を拉致監禁していたんです。じじいは娘を交通事故で失っているんですが、その事故を起こした女性を拉致して、あろうことかその女性に子供を孕ませ、死んだ娘の代わりを生ませるのだ、みたいな計画を立てていたのです。

 こうなるとじじい応援団を自認していたぼくとしてもなかなか応援しにくいところです。主人公たちはその女性を逃がそうと試みて、主人公的な「いいやつ感」を出してくるんです。でも、ぼくはやっぱりじじい応援団です。主人公がいいことをしたとしても、最初の動機が邪悪ですし、途中でその女性は死んじゃうし(あいつらが来なきゃ死なずにすんだかもしれないのに)、こうなったらもうじじいには主人公どもを殺してもらうよりありません。
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 で、いろいろあってロッキーはじじいに捕まります。前にいた女性のように拘束されてしまいます。というかね、人間性が疑われるようなことをぼくは言ってしまうんですけどね、正直なところもうぼくはこのロッキーが嫌いですから、じじい、レイプしてしまえと思って観ていたんです、はい。

なんてことを言うんだ、女性の敵だ、反社会的人格だ、と思われるかもしれませんけど、あのー、そもそもロッキーは勝手に侵入してるわけですからね。場合によっては強盗として、あのじじいに暴力を加えることも辞さないという立場だったわけですね。そういう女がレイプされようがどうなろうがぼくは知りませんというか、まさしく自業自得なんです。障害者を標的にしたクソ最低の犯罪者のくせに、いざとなったらか弱さだの、女性としての尊厳だのを持ち出すみたいな態度には賛同できません。暴力の現場に自ら飛び込んできたくせに、女性だからどうのという言い訳は一切通用しません。最初に襲撃したのはロッキーサイドであって、自分勝手な強盗女はレイプされればよいのです。娘がいるとかそんなのはまったく関係ないです。不当に金を儲けている人間を襲うとかならわかりますよ。でもあのじいさんの家を襲う正当性がありますか?
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 しかし実際、レイプは成らず、残念なことにロッキーは逃げおおせてしまうんですね。
映画としてはまあ、このロッキーが生き残れるのかどうか、ハラハラという展開で進むわけです。最後にはじじいを撃退して、みたいなことで終わります。金すらも持っていった模様です。あの女がじじいの家の金を得る正当性がどこにあるのでしょう。幸いにしてじじいもドーベルマンちゃんも無事だったようなのですが、女はそのニュースを何かおののくような表情で見つめていたりします。なんやねん、です。
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短い時間で凝縮し、限られた空間で次々とタイトに物事を起こしていく点であるとか、あるいは盲目の存在を敵の位置に配したことでこれまでの映画ともまた違う面白みを出してる、という点はもちろんわかるんですけども、ホラー的に感情移入するのは難しい映画でした。というかむしろ、ぼくの感じていたのはもっと嫌なハラハラというか、「この映画、もしかして被害者であるはずの老人が痛い目に遭って、クソ襲撃者の女が生き残るとかそういう展開になるんじゃないだろうな、なったら嫌だな、ハラハラ」と感じていて現にその通りになったのでちっともカタルシスがありません。
ぼくとしてはむしろ『SAW』的な絶望性があったほうがいいというか、どうせならじじいが勝利し、ロッキーを拉致監禁のうえでレイプし、子供を孕ませてその悲鳴の中でラストを迎えてもらい、別宅に取り残されたロッキーの娘は何も知らずに暮らしている、くらいのアンハッピーラストのほうがしっくり来るし、というかそのほうが「強盗をしては駄目だ」「障害者に対する犯罪は許されない」という倫理的メッセージを放てるからむしろハッピーエンドじゃないか、みたいなことを考えたりもします、はい。あれだと、「視覚障害者を標的に強盗を働いた女が、結果的にうまく逃げおおせた」というクソみたいなラストでしかないので、むしろぼくのアイディアのほうがよほど道徳的とすら言えましょう。そうした点で、非常に胸くその悪い映画であるとも言えましょう。


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深いテーマが配合されている。描ききれてはいないけれど。
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 ずいぶん前に一作目を観たと思っていたのですが、もしかしたら観たつもりでいただけで初見だったかもしれません。二作目、三作目は観ていないし、そんなに惹かれずにいました。監督の二人は現在、性転換手術をしているので「姉妹」と書くべきかもしれませんが、公開当時はまだ男性名で活動していたので、「兄弟」と書いておきます。

 さて、昨今いよいよ市場に花開くVR=仮想現実ですが、その種のテーマの代表作といえる作品ですね。この現実は本当に現実だろうか、というのはそれこそ古代中国の胡蝶の夢、邯鄲の夢などで言及されてきた哲学的な主題。現実を疑う作品として思い出したのはフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』、それを原作とする『トータルリコール』。このテーマって、言ってみればあらゆる題材の中で、いちばん大きな枠組みの問いですよね。歴史を改変する大事件とか、宇宙を巻き込む大戦争とかよりもはるかに大きい。「ここに存在する自分自身」というものを突き崩す話ですから。

 この手の話には答えがないのですが、自分の実存がふと遊離するような感覚というのは、稀に訪れるものです。あれ? 自分はなぜこの自分なのだろう? 自分の名前で自分は呼ばれるけれども、なんで自分はその名前で呼ばれるのだろう? 自分は今ここにこうしているけれども、ここにいない選択肢もあったんじゃないか? 
 小沢健二が『流動体について』で歌っていたように、「並行する世界の僕は、どこら辺で暮らしてるのかな?」と思う瞬間があったりわけです。あり得ないと知りつつも、街のどこかで別の生き方を選んだ自分に会うこともあるんじゃないか? なんて空想してみたり。

 もっとも、劇中ではそこら辺をそんなに深くは踏み込まず、あくまでアクション映画のストーリーテリング。その点に物足りなさを感じた部分もありますが、この作品はもうひとつ、ふたつのテーマも含みこんでいるので、重層的なつくりと言えるかもしれません。

主人公のキアヌ・リーブスは「現実とされる世界」において、トーマス・アンダーソンとして暮らしています。「本当の現実」ではネオと呼ばれます。「現実とされる世界」は普通の世界なのですが、「本当の現実」ははるか未来、荒廃しきって機械が支配する世界。今までは機械のつくった現実の中を生きていたというわけで、そこから「目覚めた」ことで大冒険に出るはめになるのです。

 観ながらわかったもうひとつのテーマは、『失楽園』です。イギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『失楽園』は近年ならあの『ダークナイト』に通底するモチーフで、日本のアニメ映画ではそのまま『楽園追放』なんてのもありました。
 要するに、「天国で奴隷でいることを選ぶか? たとえ地獄行きでも自由を得るか?」という問題です。「自由」というのを「尊厳」に置き換えると、また別のテーマになります。「組織に従っていれば生活は保障されるけれど、組織の不正を知った以上は戦わなくちゃならない」なんてテーマなら、『セルピコ』とか『フィクサー』あたりが思い出深い。「たとえ賢明でなくても、自分はこの瞬間を戦わねばならない」という話なら、何よりも『ロンゲスト・ヤード』が思い出される。

 本作で言うと、機械の作り出す世界にいたほうが、幸せっちゃ幸せなんです。現実は悲惨きわまるものだし、だからこそ一人の登場人物は中盤、主人公たちを裏切って、仮想世界でいい思いをしようとする。劇中では悪役的に描かれているけれど、あれはあれで十分に取り得る選択ですよね。過酷な現実を生きるなら、支配されても幸せを選ぶというのは、この社会でぼくたち自身が選んでいる生き方でもあるでしょう。本作はハリウッドのアクション映画ですから、そこを掘り下げられなかったんでしょうけれど、あの裏切り者も描き方次第では別に、悪人ではないんです。

 映画の性質上はしょうがないのですが、そこに食い足りなさを感じたのはあります。キアヌ・リーブスは独り身で、ぜんぜん冴えない生活を送っている設定ですが、もしもあれが幸せな家庭を築いているマイホームパパだったらどうか? その幸せな家庭を捨ててまで、あの過酷な現実を生きる価値はあるのか? そういう問いに直結しますよね。まあそれをやっちゃうと観客の共感を得がたくなるので、できなかったのでしょう。でもぼくが観たいのはそっちの葛藤でした、本当を言うとね。

だから見方を変えると、本作の主人公たちって危ない人たちなんです。いわゆる「目覚めちゃった人たち」なので、新興宗教、新左翼的なにおいがしてくる部分もある。「この世界は間違っているのだ! 自分たちが世界を導くのだ!」的な人たちとも言えます。そうならないように、エージェント・スミス側の悪意を設定してはいるのですが、考えてみるとけっこうぎりぎりですね。

 映画の主人公は一応、観客の共感を得るように設定されるのが常道だし、ハリウッドのアクションものなら余計にそうだと思うんですが、この映画はいろんなものをどうにかこうにか固めたうえで、ようやっと共感に足る主人公にしている。キアヌ・リーブスに対して、無邪気に頑張れと言える人は、実はこの映画をちゃんとわかってはいないでしょう。だって、もしかしたらあの船に乗っている人たちのほうが、仮想現実側なのかもしれません。現実を疑う構造であれば、彼らこそが世界を崩壊させようとしている悪魔団の可能性も、完全には排除できない。うん、この手の映画では原理的に、キアヌ・リーブスを絶対善にはできないわけです。そう考えると深みが出てきますね。

 あと、描かれた大きな問題として、『ゼイリブ』問題があります。ジョン・カーペンター監督の映画で、本作にも影響を与えたそうです。あの映画では、異星人が普通の人間として入り込み、人間になりすまして世界を営んでいるんです。悪の陰謀が隠されてはいるんですけど、一応それで表向き、世界は成立している。あの映画のラスト、主人公の活躍で宇宙人の正体が暴かれ、なりすました姿からもとの醜悪な宇宙人に戻るシーンがあるんですけど、それを観てぼくははっとしたんです。悪の陰謀を暴いたとして、責任取れるのか? というね。

 この世界には確かにいろんな悪がある。不正義や不公正さがある。もしもなくせるならそれに越したことはない。けれども、その悪や不正義や不公正さのうえに今の社会はあるわけで、もしもそれらを取り除いたら、社会は混沌としてしまうのではないか? その場合の責任を取れるのか? なんてことも、ちょっと考えるんです。保守と革新の政治的テーマにも通じます。本作でも、一応はあの機械の世界で幸せに暮らしている人もいるはずで、主人公たちがその秩序を乱す側という見方も、成立しはするんです。永久に騙してくれるならそのほうがいいってこともありますからね。真実を暴かないほうが幸せってこともある。この辺の問いはロバート・レッドフォードの『クイズショウ』でも考えたことです。

 映画の中身から離れすぎている感もありますが、作品それ自体の面白みは、特段痺れるものでもなかったです。本作が後世に与えた影響もあるでしょうけれど、今観ればちょっとアレだな、という部分もなきにしもあらず。いちばん引っかかったのは、ネオが銃弾で撃たれまくって一度は死んだのに、「救世主である」というその一点をもって復活してしまうところです。なんじゃそら。現実現実言っておいて、その肝心な部分はぜんぜん現実的じゃないんかい、とつっこみたくなる。ヒロインの「あなたは救世主よ」的な囁きで復活するなら、今まで何を見せられていたのか。そうなるとこの映画で言う現実なるものが疑わしくなるし、あれはアリなのか。チートキャラがちと過ぎやしないか。続編で明かされるのでしょうけれど、この作品を観る限りはそうとしか言えない。ところで、「目覚めちゃった人」たるネオによって、ビルの警備員さんはかなり殺されているのだけれど、彼らに何の罪があったというのか。

 そう観ていくと、主人公=新左翼・新宗教系テロリストのにおいはどうしても残る。預言者に出会うくだりもただ「預言者に会う」というだけのために行動しているので、映画の流れがくたっとして感じられました。

と、文句を言いたい部分もあるのですが、深いテーマをあれこれと含みこんでいる映画であるのは間違いないわけで、映画そのものよりもむしろ、映画を観ながら感じたこと、ふと考えたことを楽しむほうが、多少はオトナな見方と言えるかもしれません。まあ、そんなところで。


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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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公党は公党たるに足る、明確なメッセージを出してください。
 相模原の障害者施設における殺傷事件。この件については個人的な事情もあって、強い憤りと悲しみを感じています(ぼく個人は、被害に遭われた方々の関係者というわけではありません)。

 謹んで、ご冥福をお祈りします。

今回の事件は、明らかに障害者だけを狙った犯行です。犯人の精神状態がどのようなものであるかはわかりませんが、彼らが標的となったことは明白です(ところで、「障害」を「障がい」と記すべきという主張もありましょうが、ここでは漢字表記とします)。

 その意味において、本件は明確なヘイトクライムです。無差別なものではなく、特定の性質を持った人々を狙っている事件としては、戦後最悪のものであろうと思われます。

 にもかかわらず、とぼくは思ってしまうのです。

にもかかわらず、政府ならびに公党各位の反応が鈍い。そのように感じてしまうのは、ぼくだけでしょうか。この事件は無差別なものではない。特定の人々に対する犯罪です。それは個人的な人間関係や利害に基づく殺人とは別種のものです。近代社会が築いてきた「障害者福祉」という理念をも傷つけるものであり、政治家の方々にはより強い批難のメッセージを放ってほしいと、ぼくは思うのです。普段から、道徳や秩序を大切にしようと仰っている方には特に。そして普段から、弱者の権利を大事にと謳っている方には特に。

 むろん、政治家の方々個人はSNS等々で、本件に言及されていると思います。しかし、そこは個人としてでなく公党として、あるいは政府としてメッセージを打ち出してほしい。

 我が国(我が党)はヘイトクライムを許さない。
 障害者の人々を標的にするような犯罪を、我が国(我が党)は断じて許さない。

 そう明言してほしい。この記事を書いている現在、ネット上には発見することができません(もしあれば、教えてもらえるとありがたいです)。知的障害者の人とご家族の方の「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明のようなものを、公党には出してほしい。

 政治的テロが起きた場合、政府は速やかにそのような声明を打ち出すじゃないですか。「テロには屈しない」「テロを許さない」「断固としてテロと戦う」 
なぜその勇ましさを、今回は発揮してくれないのか。
 国として、政府として、党としてそのメッセージがあるだけで、わずかでも安心できる人々がいるとぼくは思うのです。ところが今、テレビや新聞を賑わせるのはむしろ、あの犯罪者の呪いの言葉のほう。なぜどの党も、正面からあの呪いを打ち消そうとしないのか。ぼくにはそのことが、輪を掛けて悲しいのです。

 世間では間もなく、ゴジラの映画が封切りとなります。新しい都知事も決まります。ポケモンだって、まだまだユーザーと評判を広げていくでしょう。そうなればまた、世間の注目はそちらに移ってしまうことでしょう。その前に、政府や各党はこの件をもっと大きく取り上げてほしいとぼくは思う。それがたとえ集票狙い、選挙目当てだってかまわない。
 あの呪いを打ち消すメッセージを、もっと放てよ。


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ついでになりますが、この事件に関連して気になるブログの記事を見つけたので、ちょっと話しておきたいと思います(政党の方に向けてのものではありません、あえてリンクも貼りません)。
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 殺人事件というのはドラマや映画なんかで見る限りは刺激的だし、実際に起こった猟奇的な事件なんかにしても、ぼくもまた好奇の目で見つめてしまうことがたまにあります。その被害者のことなんか考えずに、事件の特異性に目を奪われてしまうことはあるし、きっとこれからもあると思います。

 けれど、この事件についてはまだ起こったばかりであり、今もなお重傷を負って苦しんでいる人がいるわけです。あくまで、可能性として、さらなる犠牲が出るかもしれないのです。

それをよ。

 早々とランキングとかにしてんじゃねーぞ。

 第何位とか、数字にしてんじゃねーぞ。

 もしも、今も重傷で苦しんでる人がこのあと死んだりしたら、その犠牲者の数字を書き換えるのかよ。ランキングの順位いじるのかよ。どんな顔してキーボード叩くんだてめえは。おっと、一人増えたのか、書き換え書き換え、とかやるのかよてめえは。

どんなに映画に詳しいか知らねえが、どんなに文学に詳しいか知らねえが、それは今、やるべきことなのかよ? 今、やらなくちゃいけないのかよ? 一ヶ月後じゃ駄目なのかよ? だったらその旨も書き添えてくれないか。ぼくには意図も意味がわからないからさ。
どれくらい深刻なものかをわかりやすくした? それはランキングじゃなきゃ駄目か? それが「男の魂」か?

個人の趣味のことですから、リプを飛ばして突っかかっていく気はありません(反応があればお答えします)。でも、こうして空リプを飛ばすくらいはさせてもらいたいと思います。

ついでと言いながら、つい熱くなってしまいました。

 ヘイトクライムを許さないというメッセージが放たれることを、強く期待します。

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放送に隠されていた問題点
 7月25日放送のNHK「クローズアップ現代+」の特集を、タイミングよくリアルタイムで全編観ました。「AV出演強要被害」の問題についてでした。かなり問題の多い放送だったなあという印象を受け、むかむかし続けているので、ここで吐き出しておこうと思うのであります。

 昨今言われる一連のAVの「強要被害」について、ぼくが認識したのは今年の5月頃。それ以降あちこちでさまざまな見解が語られてきたわけですが、あの問題提起がいみじくもあぶり出した、別の側面があるんですね。「強要被害」が語られることを通して見えてきたのは、社会における「AV業界蔑視」問題。NHKの放送は、完全にそれを描き出していたように見受けます。

 かの放送の内容が、AVへの意図せぬ出演を防止する目的で描かれたものであることは、重々承知しています。ただ、そうであるがゆえに一方的な内容のものであったとも、強く感じるわけであります。

 放送において最も問題があるなあと思った点は、AVあるいはAV業界の良い面が、25分弱の放送の中で、ただの一言さえも触れられなかったところです。いや、今回の放送のテーマは強要被害問題だから、何もAV業界全般について詳しく触れろと言っているわけではない。本来ならまともな業者の取材もするべきだったけど、まあそこは言いません。

 ただ、ただ一言で良かった。

「こういうことがあると、健全に活動している業者も迷惑を受けてしまいますよね」とか、「業界全体のイメージが悪くなってしまいますよね」とか、「こういった悪事はあくまで一部の悪質な業者だけと信じたいんですけど」とか、「自発的に活躍している女優さんもいっぱいいるんですけど」とか、ささやかなフォローがあるだけで、ぼくはぜんぜん違う印象を持ったはずです。っていうか、他の業界のことなら入れるでしょうね、そういうフォローを。
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 でも、その一言すらない。観ている人は、「なんかAV業界って怖いんだね」というイメージを持つだけでしょう。今回の放送で、多くのまともなAV業界人が傷つけられたんじゃないかと僕は思ってしまうし、実際反発している人もツイッター上で見受けました。「ぜんぜん業界蔑視的じゃなかったよ」的に逆張りしてる人とかいるんですが、そういう人は普段からナチュラルに蔑視してるんじゃないかな、と思います。自分の差別意識に、人は気づきにくいものです。


彼女が戦うべき別の相手
 放送では松本圭世という、元テレビ愛知アナウンサーの女性が証言者の一人として登場していました。彼女は騙されてAVに出演してしまい、アナウンサーの職を追われてしまい、今は被害に苦しむ人たちを応援する活動をしているそうです。

 はて、ぼくにはひとつ、たいへん大きな疑問があります。なぜ、彼女は職を追われる羽目になったのでしょうか。構図としては、彼女はまあいわば、レイプされてしまったような格好のわけですね(実際は性的行為を行ってすらいないようですが)。で、そのレイプ被害者の彼女が、レイプにあったということで職を追われたと、そういう話なんでしょう? 確かにそりゃ、レイプ犯はよくないです。ここは強調しておきます。でも、レイプされたからとやめさせられるなら、それもまた大問題でしょう。それじゃまるで、イスラムの姦通罪、名誉殺人じゃないですか。
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 なんでそんなことが起きるかと言えば、AV自体を悪いものだと決めつけているからでしょう。AVに出た人間はアナウンサーでいる資格がない。そのようにして、AV女優を差別しているわけでしょう。そういう捉え方が、彼女を傷つけることになったんじゃないのかとぼくは思うわけです。だから彼女が戦うべきは、そのAV業者と同時に、雇われ先のテレビ局であったはずだし、あの放送に出ていた弁護士さんがもしも本当に人権派だというなら、そんなことでやめさせるなと憤るべきなんです(放送では一切言わなかったね)。

 繰り返します。AVの強要を擁護するつもりはない。でも、放送に出ていた匿名の証言の傷をさらに深くしたのは、AVへの蔑視でもあるんじゃないかと思えてなりません。「レイプまがいの事件に巻き込まれた」辛さのうえに、「AVなんていう醜悪なものに出てしまった」という価値観が乗っているとしたら、後半部分については緩和しうるものだろうと思うのです(くどいようですが、レイプまがいで出されたビデオを放置してよい、と言っているわけではありません)。
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 そうでなければ。

 AV女優はこの先も、ずっと蔑視され続けてしまう。AV強要被害が仮になくなっても、「AVに出たら人生終わり」みたいな価値観が残存していたら、AV女優の人たちは不当な蔑視を受け続けることになる。ぼくにはそれがどうしても許せない。強要被害がなくなれば蔑視はなくなるか? そんな風には思えない。強要被害の実態が出る前から、蔑視はあったじゃないか。だからアナウンサーは辞めさせられたんでしょう?

 いいじゃないか。AVに出ていたって。

 その言葉が、もっと必要だと僕は思うんです。



声優さんの件
 今年の4月には、人気声優さんがAVに出ていた、出ていないという件で話題を集めました。そのときには「AVに出ていたなんてショックだ」という反応が、ネット上で見受けられたと記憶しています。本人は否定しているとのことでしたが、ぼくはそれを聞いて、「ぜんぜんかまわないじゃないか」と思いました。声優が紅白に出るのはよくて、なんでAVに出ちゃいけないんだ? 

 はっきり言って、「AVに出てたなんてショック」と感じるその感じ方自体が、(もし仮に本人だったとして)彼女を傷つけることになると思います。もしもあなたが本当に彼女のファンだというなら、鼻息荒く出演を否定するのではなく、「AVに出ててもぜんぜんいいじゃん」「AV出演なんて、攻めてるじゃん」と鷹揚にかまえればいい。それができないということは、あなたは彼女を、そして何千人のAV女優をも傷つけているということです。差別に加担しているんです。仮に本人の意思に反しての出演ならば、その点には問題があるでしょう。でも、彼女自身の価値はなんら毀損されないということです。

 伊藤和子弁護士、もしあなたが本当にAV強要の被害者を救いたいと、もし本当に思っているなら、今やっていることのある部分は、完全に真逆です。「AV強要被害をなくす」ことはできたとしても、「AV強要被害に遭った」人たちは救われません。なぜなら、AV出演自体を悪いもののように捉えているからです(そうでないというなら、今回の放送でなぜ一言も、AV業界をフォローしなかったのか)。

被害者を本当に救うために
 AVに出た過去は消えないし、たとえ作品の流通を止めても、その人の中には記憶として残り続けるでしょう。その人を本当に救うには、「AVに出たなんて恥辱だわ」という感覚を取り去ってやることです。そのためには、AVに出ることはなんら悪いことではないというメッセージを放つことです。AV蔑視のある限り、その人は永遠に救われません。そんなメッセージは放てないというのならば--断言してもいい--あなたはその人を救う気がないんだ。自分の差別精神と偏狭な価値観が大事だから。

 こういう話をすると、「もし自分の娘が」的な反応も考えられますので、言っておきます。僕に娘はいませんが、仮にいたとして、もしも本人が自分の意思でその道を選ぶというならまったく止めようとは思いません。よく考えろとは言うかもしれませんが、それはどの業界であっても同じだし、本人の生き方次第でしょう。もしも強要されたら? その場合は憤るでしょう。でも、強要されたら別にAVに限らず、何でも怒るんじゃないですか。むりやりコンビニで働かされようが、むりやり会社に内定させられようが、むりやり政治家にさせられようが、強要ということそれ自体に僕は怒るでしょう。強要自体が、人権侵害なのです。職業は関係ありません。
 世間の方々におかれましてはどうか、「出演強要」と「出演自体」を切り分けて捉えてほしいと願います。「出演強要」をした人間には問題があっても、「出演自体」を行った本人には問題がないし、むしろAVは映画にもテレビにもできない魅力的な表現を行っている媒体なのです。ぼくはAVでヌくたびに、女優へのリスペクトを感じてやみません。

「AV出演強要」問題について、もしあなたが部外者なら(ぼくもですが)、解決することはできません。でも、AV蔑視問題については解決しうる。あなたがやめればいいのです。見方を変えるだけなのです。ひいては、(あるいは逆説的に思えるかもしれませんが)被害者を救うことにもなるでしょう。できることを、してほしいと思います。
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 強要によってAV出演させられた、という元AV女優がいるらしく、メーカーやDMMを巻き込んで大ごとになっています。
 事務所社長の逮捕容疑は強要とは別ですが、マスコミでも取り沙汰されているので、無視できる要素ではありません。
 今回の「被害者」とされる女性は、通算400本以上の作品に出演していたと言われています。本人を知る現役AV女優が「本人は楽しんでやっていたし、強要なんて考えられない」と異論を唱え、一方では「楽しんでやっているように見えても、あとで辛くなることもある」と、反論が出たりもしています。

 本記事では、洗脳という言葉を使います。今回の件について、一種の鍵概念たり得ると思うからです。
 用法としては必ずしも正しくないだろうし、過去の彼女が事務所に洗脳されていたのだと言いたいわけでもありません。
 話をわかりやすくするために、使う言葉です。
 と、まず最初に述べておきます。

 AVを離れ、まずは一般論として考えてみます。

 ある洗脳を施された、一人の人間がいるとします。
 さて、悪いのは洗脳した人間か。
 それとも、洗脳を解こうとする人間か。

 もちろん、洗脳した人間が悪いと多くの人は答えるでしょう。
 しかし、果たして本当にそうなのか。
 
 自分の生きるべき道を探し、さまよっていた人間にとって、洗脳は救いの道でもあります。洗脳を施す人間は言うでしょう。
「おまえはこちらの世界を進むべきだ。おまえの人生には別の可能性がある。迷うことなく、こちらの世界に飛び込んでこい」
もし仮にその人間が、そこに活路を見出したなら、洗脳はその人にとっていいことなのです。

 洗脳を解こうとする人間は(およそ必ず)、その道を否定する人間です。
その人はこう言うでしょう。
「おまえの進む道は間違っている。おまえの人生はよくないものだ。だから、今までの人生を否定して、新たな人生を歩め」

 さて、この構図から明らかなように、洗脳する側も洗脳を解く側も、目指すものは同じなのです。自分の世界観に従えと、言っているのです。宗教であれば、その神の教えを信じるか信じないかの問題であり、立場が違うだけなのです。

 では、どちらがその人を幸せにできるのでしょうか。

 森達也がオウム真理教を追った映画『A』『A2』は、観る者にその問いを突きつけます。

 オウムによる凄惨な事件が起こってもなお、教団に残ろうとする人間がいる。
 かたや、教団からの洗脳を解こうと試みる人たちもいる。

 オウムが反社会的組織であった以上、脱洗脳をすべきだとぼくたちは思います。
 しかし、果たしてそれが当人にとって幸せな選択であるかどうか、ぼくたちにはわかりません。これは非常に重要な問題です。

 オウムに一度入信した人にしてみれば、いまさら出られないという思いもあるでしょう。仮に出て行っても、社会では「元オウム信者」として後ろ指を指される。それなら、教団の中にいたほうがいい。そういう風に考えた人間も、いるだろうとぼくは思うのです。

 高橋泉監督の映画『ある朝スウプは』は、また別の問いを突きつけます。

 劇中では、あるカップルの同居生活が描かれます。男のほうは鬱病を患っており、新興宗教に入信しようとします。しかし、女はそれを止めようとする。入ってはいけないと。
 そのとき、男は女に問うのです。
「それなら、おまえはおれを救ってくれるのか?」

 洗脳によって幸福になった人間がいたとして、その洗脳を解くことは正しいのか。
 解いたあと、その人間の人生がいいものになると、果たして約束できるのか。
 解いたあと、洗脳されていた人生への喪失感を、埋め合わせてやることはできるのか。
 洗脳を解くことは、本当に正しい行いと言えるのだろうか。

 その人を幸せにする方法。
 それは、その洗脳状態を続けさせるか。
 あるいは、その人間の人生を肯定しつつ、洗脳を解くか。
 そのどちらかではないでしょうか。

 ぼくが今回の件でまずいなあと思うのは、元AV女優の400本以上にわたる作品を、DMMがおおむね流通停止にしてしまったことです。

 それは、その人間の人生の否定です。
 彼女の人生が肯定されていたら、彼女の足跡は誇るべきものとして、そこに残っていたかもしれない。彼女の作品を消すということは、それが恥ずべき、消すべき過去であると決めてしまったということです。

 多くのAV女優が怒ったり、あるいは違和感を表明したりしているのは、実はそこなのかもしれない。自分たちのやっていることは、消されねばならないことなのかって。

 これは、強要被害をなくすということとは、また別の問題です。
 強要を肯定的に捉えるわけはないし、洗脳する側が正しいというのでもない。
 ぼくが言いたいのは、否定しただけでは救われない、ということです。
 
「AVに出てたなんて過去は知られたくないものだろう。消してほしいと思うのも当然だ」

 もしもそのように考えるなら、その思考はすなわち、AV自体への蔑視です。

「あの人、昔、AVに出ていたらしいよ。ひそひそ」
 
 そのような後ろ指を、肯定する立場です。
 AVという変数に、「映画」「テレビ」「モデル雑誌」「オリンピック」が代入されることは決してない。
 それはAV自体を、悪しきもの/蔑視すべきものと捉えているからです。

 強要されたのかどうか、ぼくにはわからない。
 もしかしたら本当に、強要によって始まっていたのかもしれない。
 でも、それとは違う部分で、考えなくてはならないことがある。
「あなたがAVに出た過去は、決して恥ずべきものではない。むしろ、誇っていい」
 そのように言えないなら、本当の意味で救ったことにならない。
 少なくとも、その作品に出たその人は罪人ではないし、悪徳を犯したわけではない。
 彼女が悪徳を犯したというのなら、また別の洗脳を施したに過ぎない。

「うちのおばあちゃんは昔、映画に出ていたんだよ」
「うちのおばあちゃんは昔、AVに出ていたんだよ」
 その二つが、等価である社会。 
 そのような社会をもたらすことが、本当の意味で彼女を救うことではないのかと、ぼくは思うのです。強要はむろんなくすべきですが、強要がなくなれば事足りるわけではない。
 自発的に出演したあとで、恥ずべき過去だと思い込んでしまう人もいるでしょう。
強要云々だけでは、その人たちは救われない。

 本当に救うためには、映画とAVが等価である社会を目指すべきでしょう。

 そんな社会は来ないって?

 なるほど、だとしたら、彼女は永久に救われない。
 

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せいぜいが「愛の小さな波紋」。
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アクションの脚本としては実に正しい。しかし、設定に致命傷。
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物語の面白さは、規模に比例しない。
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「ほのめかし」の必要。
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性的怪物の肖像
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嘘というのは、それだけで物語。
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惜しい点は多々ありますが、程よく楽しめました。
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多幸感系。切なさはスパイス程度で。
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風合いある小品。
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 前田敦子主演作。80分尺で規模の小さな世界を描く小品ですが、独特の味わいを放つ作品でありました。

 大学を出ても職に就こうとせず、家業も家事も父親に任せきりの主人公、タマ子の日常が描かれます。舞台は田舎町で、家はスポーツ用品店を営んでいます。父親との二人暮らしですね。

 テーマは明白で、「彼女がどう成長するかですね。
 序盤10分はきわめてだらりとしたトーンでセットアップがなされ、その後に父親との衝突があります。「このままだらだらしていても駄目だ、いつになったらちゃんとするんだ」という父親に対し、「少なくとも、今ではない!」と怒鳴るタマ子。

 しかしこれによって突き動かされ、およそ25分の段階で、新たなことを始めようと、アイドルのオーディションに応募したりします。でも、それが周りに露見すると急に嫌になってしまい、まただらけた状態に戻ってしまいます。短い映画なので、中間地点にどん底を持ってきています

 クライマックスへの糸口は、父の再婚。
 父の再婚話が進むことによって、タマ子自体の前進も促されるつくりです。
 再婚するかもしれない相手に父への思いを打ち明けたり、母親に「東京に来る?」と誘われたり、そうしたことを通して彼女はモラトリアムから脱していくきっかけを掴みます。父に「家を出ろ」と言われたタマ子は、「合格だよ」と答え、新たな人生に歩み出す手がかりを掴むのです。

 山下監督作品では『ばかのハコ船』が一番好きで、『リンダリンダリンダ』も好きです。『天然コケッコー』『どんてん生活』『苦役列車』などでも独特の風合いが生み出されているのですが、それらに比べるとやや威力は弱いかな、という感じはどうしてもありました。作品自体が小規模、ということはあるにせよ、同じような「無様な状態」を描いた作品だと、『ばかのハコ船』が素晴らしく、どうしても思い出してしまいました。前田敦子が持つ綺麗さによって、主人公の無様さが薄まってしまう、ないしは綺麗なものに見えてしまう、というのはあります。この映画はアイドルなどではなく、ブスな女優を起用していれば、よりいっそうもの悲しい風合いが漂い、良い意味での無様さが生まれたのではないか、などと考えてもしまいます。『ばかのハコ船』はその点においてもまた、優れた作品だったのです。ヒロインがブスでしたから。

ばかのハコ船 [DVD]

山本浩司/エースデュースエンタテインメント

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 もっとも、前田敦子はその辺の、可愛いとブスのバランスを良い感じで持っている人でもあるので、キャスティングに文句はありません。

 観終えたときは、モラトリアムを脱する上での通過儀礼的要素がやや弱いかな、という印象を受けました。しかし少し間を置いてみると、独り身である自分の父親を再婚相手に託す、という行いが、一種の通過儀礼として機能しているのだなとわかりました。巣立ちのための儀式として、自分を育ててくれた親の幸福を助けるというのは、物語的にきちんと意味合いを帯びています。「合格だよ」という、一見傲岸不遜な物言いは、彼女なりの照れ隠しの意味があるのであって、このような台詞を置く巧みさには、なるほど敬服を覚える次第であります。

 また、食事シーンが効果的です。食事シーンを随時挟み込むことによって、家庭の様子を凝縮して描き出すという手法。食事というのは動物的な意味合いを帯びており、そこには生活の本質、生きるという営みのありようが浮かび上がります。ゆえにして、独りでもそもそ喰ってるシーン、父親と咀嚼音を立てながら一緒に何かを食べているシーンなどが、そのおりそのおりで違う意味を持って伝わってくるわけです。

 地元に帰ってきた同級生、写真店の中学生と彼のヘルメット、そして彼のカノジョの垢抜けない感じなど、田舎くささも随所で描かれていて、ほどよい風合いでありました。お薦めです。


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ミュージカルも効果的な、上品なラブコメディ。
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 ウディ・アレン、ジュリア・ロバーツ、エドワード・ノートン、ゴールディ・ホーン、ナタリー・ポートマン、ドリュー・バリモア、ティム・ロスといった、錚々たる布陣によるアンサンブル型ラブコメディです。ミュージカル・ラブコメディですね。大家族ものでひとりひとりの物語を要点のみ押さえ、ぽんぽん回していく。テンポのよい快作でありました。

大きな筋となるのは、①ウディ・アレンとジュリア・ロバーツの不倫恋愛、②エドワード・ノートンとドリュー・バリモアによる婚約恋愛、そこにナタリー・ポートマンらによるちょっとした恋物語の顛末や、いかれた元服役囚、ティム・ロスのドタバタ劇などが織り交ぜられます。物語にはほぼ絡まないけれど、家で独りだけ共和党支持で、政治的なことばかり喋っている長男ルーカス・ハースが面白かったですね。脇役の支えもしっかり効いている。

 映画には、話を動かすきっかけのポイント、第一幕と第二幕の転換ポイントなどがありますが、そうした要所にミュージカルシーンをきっちり配置している。この要点を押さえているのは非常に大きい。スムーズな進行のための大きな効果を上げています。ミュージカルというのは、「感情の頂点」を凝縮して表現するときにも有用で、この映画で言えば②にまつわる「恋の実り」の様子を描く際、その効果が顕著です。静かな高級宝石店、病院などの場面で用いることで、感情の高ぶりが劇的に演出されています。

一方、恋愛ものにおいては障害の存在がとても重要です。障害があるからこそ物語に緊張感が生まれるわけで、前半では①がそれを担う。ウディ・アレンはジュリア・ロバーツを口説き落としたい、ここでの苦闘がひとつめ。そしてジュリアには旦那がいる。これがふたつのめの苦難。障害を配置することで、恋の危うさが演出されます。もちろん、ウディ・アレンのコミカルな演技や台詞回しが、面白みを引き立てます。

 いろいろなことがうまく行くのが中間点まで。そこで「凶兆」として出現するのが、犯罪者のティム・ロス。②の恋愛を、坂道へと転がしていく。最終的にはドリューを銀行強盗にまで巻き込んでしまい、一度どん底をつくる。また、ナタリー・ポートマンの失恋、じいちゃんの死など、よからぬ気配が映画に立ちこめていく。

 最終的に、②は関係を取り戻すが、①は破綻してしまう。破綻の救済として、ゴールディ・ホーンとウディ・アレンの関係修復がある。クライマックスで二人のミュージカルが出てくるので、できれば前の段階で、この二人の関係をもっと濃く描くべきであったとは思いました。ゴールディ・ホーンは劇中、冒頭部以外はほとんどウディ・アレンと絡まないため、クライマックスで二人が踊っても、物語的カタルシスは決して大きくない。また、②の恋愛にしても、エドワード・ノートンの努力無しに関係が修復してしまうため、カタルシスが弱い。テンポの良いコメディとしてとても面白かったのですが、①と②の筋に関しては、お話としてのふしぶしを、もう少し固めておくとさらに楽しかっただろうなという感じはします。①のほうは、ジュリア・ロバーツがどうして旦那のもとに戻るのか、言葉で語ってしまうだけなので、その点の説得力が減じてしまっています。

 とはいえ、大家族の賑やかさと、タイプの違う二つの恋愛を、愉快なトーンで描いており、とても楽しい作品でありました。お薦めです。

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脚本術のお手本のような良作です。
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 マーク・ウォールバーグ主演作で、監督の長編デビュー作のようです。テッドの声も監督が務めているんですね。
  
クリスマスプレゼントとして主人公に届けられたテディベア、テッドが喋り出し、主人公が成長してからもずっと友達であり続ける、というコメディ。まず設定の面白さとしては、喋るテディベアが「有名になる」というのがありますね。『E.T.』なんかが一番の代表例ですが、この手の映画だとどうしてもそれを秘密的にするものが多いんじゃないかという印象があるし、そうでなくても『ドラえもん』的に、社会の反応はある程度無視して進められがちだと思うんです。でも、これは大人になった主人公にずっと寄り添い続けるという筋を無理なくつくるために、あえて最初のうちに有名にさせてしまう。社会に受け入れさせてしまう。ここを先にきちんと割り切ったことで、観る側に話を飲み込みやすくしている

 作品のテーマとしては、「主人公の成長」譚です。テッドは子供時代のプレゼント、すなわち子供の象徴でもあるので、ウォールバーグは大人になっても子供っぽさが抜けない。それによる問題を乗り越えることが、この映画の重要な軸となっています。話のセットアップの段階で雷が鳴るんですが、これはその後の展開における「凶兆」となっているし、雷を怖がる子供っぽさを表すという意味でも実に優れたやり方です。

大人になった主人公ウォールバーグには、恋人のミラ・キュニスがいます。彼女はウォールバーグより若く見えますが、一方で大人っぽい強さを持った外見。この辺りも対比が効いています。

 二人はベッドに入っていちゃついているんですが、テッドが雷を恐れて飛び込んできて、良い雰囲気を台無しにしてしまいます。ここは「セックスの延期」であり、すなわち大人になれずにいることを象徴する場面。あとの場面でテッド抜きの性的ないちゃつきの場面が観られますが、ここにも対比がある。全体を通してわかることですが、この映画は非常に綺麗な脚本作りがなされています。脚本としてなすべきことを完全にこなしており、それを演出に絡めて行っている。とても巧みです。

 第一幕から第二幕に移行する転換点は、テッドが家から出て行くところですね。これによって、子供の象徴だったテディから主人公は切り離され、成長への道を歩み出すことになる。独りになったテッドの下品なコメディシーンも効いています。結構えげつない下ネタですから、これはテディベアが出てくるわりに、まったく子供向きではないんですね。テディベアがやっているから可愛く見えるけれど、フェラの真似事や顔射の真似事、はては本当に女を押し倒します。コールガールを呼んでうんこさせるとか、普通の大人でもやらない、なんというか、人間だったら相当やばい奴。世のお父様、お母様におかれましては、子供と観ようなどと考えてはいけません。

 でも、それは実は、テッドの子供っぽさでもあるんですね。テッドもまた、大人になりきれていなくて、主人公同様に大人になっていくわけです。

 テッドと別れ、本当の大人にならんとする主人公なのですが、ちょうど映画の中間当たりで、大失態をやらかします。その原因となるのはテッドであり、なおかつ子供の頃から好きだったヒーローなんです。大人になろうとする主人公を、それでも子供時代が引っ張ろうとする。これにより主人公は、大人の象徴である恋人との関係を破綻させてしまう。とても真面目なつくりです。脚本術の見本にしていい作品だとつくづく思います。

 その後、主人公とテッドが大げんかしたり、恋人には誘惑相手が近づいていったりする。よくできた映画は中盤から後半にかけて、どんどん悪い方向に事態が進むのですが、そこを綺麗になぞっている。

 そして第三幕。テッドが怪しげな父子に誘拐されてしまい、そこから逃げだそうとします。なんとか関係修復をした主人公と恋人は、テッドを救いに行きます。主要登場人物三人、そして外敵によって織りなされる、綺麗なクライマックスです。ここにおける演出の白眉としては、テッドの体が真っ二つになってしまうことです。外敵たる怪しい父親によって引き裂かれ、体の綿を振りまきながら胴体が真っ二つになるのですが、ここには「子供だったテッドの死」が象徴される。誘拐犯の子供が主人公によって一撃でのされるのもポイントですね。とにかくこの映画は、「子供時代から抜け出て大人になる」というテーマをちゃんと描こうとしている。

 テッドというのはぬいぐるみですから、肉体的な成長はないのです。裏を返すと、いつまでも子供であり続ける宿命を担っていた。それが、暴力的な形であるけれど、一旦体を裂かれ、死んでしまうことによって、大人へと生まれ変わるわけです。

主人公と恋人が結婚式を挙げるラストは、オープニングとの対比ですね。最初は子供だった頃のシーンから始まっているのが、結婚式という通過儀礼を経て、大人になったことが示される。

 ことほどさように、この映画は細かいギャグやコメディ要素をうまくテーマと絡ませつつ、一切テーマからぶれない。その点において、大変練り上げられた脚本だと唸らされました。お薦めであります。


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たいへんよく練り上げられた脚本です。

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 角田光代原作、宮沢りえ主演の本作は、銀行で働く兼業主婦が主人公。彼女による横領事件をモチーフにした作品です。原作は未読なのですが、脚本的に要点をきちんと押さえた良作であったと思います。

 映画を貫く問いは、「お金をどのように使うと幸福になれるのか」。もしくは「幸福になるためにお金をどう使うべきか」。これが作品の大きなテーマです。

その辺りのことを映画の序盤、宮沢りえによる保険の勧誘という場面で示しているのが大変巧みです。保険というのはまさしく、お金の使い方をめぐる商品。この作品のテーマを一発で表しているんですね。また、勧誘先の老人、石橋蓮司とのやりとりを通して、主人公の人となりや生活ぶりを垣間見せるというのもうまい。この手法によって情報の開示をスムーズに行えているし、そのおかげで場面の密度も高くなっている。

また、同じシークエンスで性的な危うさを忍ばせることにより、この映画における「凶兆」を表現している。のちのちの展開と重なっているし、この序盤の密度というのは大変すばらしいものがあります。序盤で家庭の状況、銀行の人間模様、キャラクターをすべて示し、物語のキーマンたる小林聡美とも大事なやりとりを果たしている。映画全体のセットアップとして、かなり模範的な時間配分です。

真面目な行員だった宮沢りえが道を踏み外していくのは、池松壮亮扮する若者との出会いがきっかけです。彼との秘め事が横領を加速させていくのですが、そこに至るまでの順番もたいへんに綺麗です。

『横道世之介』ではバカリズムに見えて仕方なかった池松壮亮。この映画でも非常に丁度良い若者感を出しています。彼は今とても売り出し中のようですが、作り手の側としては、丁度良いんだと思います。イケメン過ぎるわけじゃないし、映画的風合いになじませやすい顔や喋り方なんです。

この映画も、やろうと思えばもっとイケメンの俳優を使ってもいいんでしょうけれど、きっとそれじゃ駄目なんですね。「イケメンだから惹かれた」だったらわかりやすいけれど、それじゃあこの映画で大事なことが、むしろぼけてしまう。宮沢りえが彼に惚れるのは、イケメンだからじゃない。この映画の要点は「逸脱すること」にあるのであって、ケメン要素、男性的魅力というのはむしろ邪魔ですらあるわけです。

 最初の横領のきっかけが、化粧品を買いたくなる場面。ここは女性的自覚の芽生えとして、映画の軸と繋がっているし、「あとで返せばいいや」という形で着服してしまうのも、逸脱の入り口として非常に説得力がある

 逸脱の開始は、二段階で設定されています。
 ひとつめは、駅のホームで池松のもとに出向く場面。これが性的逸脱の開始。
ここからそれまでの生活とは違うところへ進んでいき、映画は第二幕へと入っていきます。

 ふたつめが金銭的逸脱。池松が金を必要としているのがわかり、宮沢は彼に金を貸そうと申し出ます。性的逸脱が、金銭的逸脱を誘発するのですね。先の化粧品を買う場面、あれを忠実になぞって方向性を定め、話を深めている。

 池松は大学の学費が必要だと語るのですが、「同情すべき理由でお金を貸す」ことは、「善行」でもあります。善行であるがゆえに、観る者は主人公にも共感を覚えてしまうというつくりです。これは善行であると言って、逸脱の言い訳をつくる。逸脱の正当性を善行に求める。この点は、劇中で時折に描かれる少女時代とも通じているところです。言い訳によって、宮沢の行動を説得的に描き出す。観客の気持ちが宮沢を離れないようにつなぎ止めているのです。
第二幕では、平和にして平凡だった宮沢の生活が一変。蕩尽に狂う様子が描かれます。上映時間のちょうど中間点で、幸福の絶頂が描かれます。池松とのホテルでの場面ですね。
幸福の絶頂を描いたということはすなわち、あとは転げ落ちていくだけです。

絶頂のあと、池松の様子がおかしくなるし、小林聡美も異変に気づくし、これまで伏兵的に置いておいた奔放な若手社員、大島優子の正体がわかる。このようにどん底への坂道をきちんとセッティングしてある。大島優子の存在は、宮沢の延命措置となるのですが、一方で傷がさらに深まってしまうということにもなります。

 どん底はもはや明確。池松との別れの場面であり、、クレジットカードが機能しない場面ですね。最初は石橋蓮司の性的視線を嫌っていたはずの宮沢が、逆に彼を誘惑しようとするところなどは、いよいよ彼女が堕ちてしまったのだというのを示す上で、とても大きな効果を上げています。詐欺で金を稼ごうと、存在しない架空の保険をばらまいているところなどは、精神的崩壊をも描き出している。性的・金銭的・精神的崩壊によって、どん底へ突き落とす。巧い。実に巧い。

クライマックスは、秩序の象徴である小林聡美との対峙。
過去の回想場面によって、宮沢の動機をあらためて補強してみせたうえで、小林との直接的なぶつかりに強度を与えている。第一幕、第二幕の総括を宮沢自身が行い、自分が進むべき場所がどこなのかを、そのときもなお考えさせる。そして、ガラスを割ることで、宮沢は秩序の世界から逃げ出す。

 最後のシーンは海外。一人の男性に出会う。自分が募金した相手ではないかと想像させる相手で、彼との語らいもないままに、宮沢は姿を消してしまう。

ラストの部分が、悪く言えば曖昧な形で決着しているところはやや残念であるものの、全体としてはきわめて精巧なつくりであり、脚本的にはとても勉強になるものでした。
 お薦めです。


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テーマに惜しさはあるにせよ、出色のゾンビ映画だと思います。
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 『HUNTER×HUNTER』よろしく、連載と休載を繰り返すことでおなじみの当ブログですが、また(たぶん一時的にですが)記事を流そうと思います。以前はだらだらと思いつくままに語っていたのですが、形式を変えて、脚本の流れを追うような形で書いていきます。

 今までのだらだら語りに比べると遊びの部分が少なく、客観性を高めているので、いわゆる「評論」に近しいものになろうかと思います。また、時間を節約したいので画像キャプチャはありません。だらだら語りを楽しんでくれていた方がいるとすれば申し訳ありませんが、これまでとちょっと違うものになります。もっぱら自分のために書くのでネタバレ全開です。しばしの間ですが、もしも読んでくれる人がいたら、またよろしくお願いします。

 さて、『アイ・アム・ア・ヒーロー』です。

 評価の高い作品である一方、クリティカルな批判意見も目にしたので、気になって観に行きました。原作は途中まで読んでいて、確かクルス編の途中くらいでストップにしてしまいました。細かい内容などは覚えていない部分もあるので、原作との異同などは考えず、一本の映画として観ていきたいと思います。

 大泉洋演じる主人公は漫画家のアシスタントをしていて、オープニングは仕事場の場面。
 序盤では漫画家を目指しつつも、花の咲かない状態が続いているという現況が示されます。持ち込み原稿を没にされたり、同期の漫画家との格差を示されたり、同棲相手に早く夢を諦めろとどやされたり、かなり辛い状況にあるのがわかります。

 話の中心はゾンビシーンになっていくわけですが、オープニングシーンで奇妙なニュースが流れ、かなり早い段階でその「凶兆」が示される。これは大きな美点です。その後もちらほらと怪しい影が出てきたりして危険を予兆させます。この映画は序盤、ほぼ音楽を用いていなかったんじゃないでしょうか。日常の静けさを演出し、あとのパニックシーンに繋げるうえでも効果的でした。

 この映画の肝がゾンビ描写/ゾンビサバイバルにあるとすると、その点は抜群の出来であったと思います。最初に変容をあらわにするのは同棲相手の片瀬那奈。ここのゾンビ描写は満点だと思います。ロメロ的なゾンビでもなく、アメリカ映画のゾンビと違うものを造型できていて、ツカミとしてはパーフェクト。それまでずっと抑えめのトーンで進めていた分、ショックシーンとしても効果絶大。ゾンビ映画にはその数だけ「ゾンビとの初遭遇シーン」があるわけですが、その中でもトップクラスにいいんじゃないでしょうか。

 その後、映画は明確に第二幕へと移行します。主人公は所持していた銃を抱え、漫画家の仕事場に行き、そこでも知り合いたちのゾンビに会う。細かい演出で言うと、主人公があの仕事場に土足で上がるんですね。あれが第二幕(=非日常)への決定的なターニングポイントを示しています。ここでもゾンビ描写がいい。人相がまるまる変わってしまうのは原作でも同様でしたが、あれで一気に人称性がなくなるんですね。

 街のパニックについても、日常が秒音ごとに侵食されていく様子が巧みに活写されていた。日本の、東京の街並みをうまく非日常化させていて、ワンシーンの中にエスカレーションがあった。直後にカーアクションも盛り込んでいて、ここもたいへんよかった。同棲相手の変容から第二幕序盤にかけては非の打ち所がありません。

 この過程で、ヒロインの一人である女子高生、有村架純と出会います。彼女と出会った主人公は、富士山を目指します。ネットの噂で、ウイルスが届かないと言われているのです。その道中で神社に立ち寄り、二人は仲良くなるのですが、ここは個人的に少しもったいなさも感じました。よく解釈すれば、それまでの危機に次ぐ危機のあとで、観客を一度緩和させてくれるシーン。しかし少しほっこりしすぎというか、打ち解けすぎの感も強いです。メロンパンを分け合う「食事効果」を踏まえているのは美点ですが、有村が大泉に平気でため口を使っていたり、音楽を聴いて安らいだりというのが、どうにも急な感じがしてしまった。

 ただ、事情はわかる。これは仕方ないんですね。というのも、彼女は直後にゾンビ化してしまうんです。それも主人公を襲わない半ゾンビになる。主人公は彼女に危機を救ってもらったこともあり、捨て置けなくなる。彼女を後半まで連れていく都合上、短い時間で二人の仲を接近させておく必要があり、強引にでも仲の良さを詰め込まねばならなかったのです。

 半ゾンビとなった彼女を連れて(カートに乗せて)、主人公は歩き始めます。着いた先はショッピングモール。ゾンビに襲われていたところを、もう一人のキーパーソン、長澤まさみに助けられます。モールでは吉沢悠をリーダーとするコミュニティが築かれていて、ほっと一安心。ここが映画の真ん中部分に当たります。

 映画の流れとして、中間地点に「束の間の解決」を置くのが綺麗なんです。そのあとに危険度を上げていくのが理想的この映画はその点をちゃんと踏まえています。多くの人が建物の屋上に逃げており、平穏を享受しているのですが、一方ではゾンビの危機もあり、組織内の不和もあるんですね。

 主人公の危険度が上がったのは、銃を失った部分。連れていた女子高生がゾンビであることもばれてしまい、組織内の不和も高まり、それまでよりも危ない状況に陥ってしまいます。自分のふがいなさを嘆く場面もあるなど、精神的な弱さもここで示されます。

 その後、食糧を得るためにモール探索に出るのですが、組織にいた岡田儀徳がリーダーの吉沢悠と反目してしまい、その結果として悲劇が増幅します。尺の都合上、反目の経過や吉沢悠のキャラなどは、やや性急なままに進んでしまった部分がありますが、致し方ないところでしょう。

建物の中でゾンビの大群に襲われ、仲間たちがどんどん死んでいく。安全圏であったはずの屋上も、あるゾンビの出現で崩壊してしまい、「束の間の解決」の反対である「どん底」へと至ります。

 その間、主人公はロッカーに隠れてその場をやり過ごしていました。第二幕から第三幕に移行するのは、彼がロッカーから出て行く場面。屋上にいた長澤まさみたちを助けるべく、勇気を振り絞って出て行きます(ちなみにこのとき、ロレックスをたくさんはめていたために助かるという描写があります。あれは序盤の片桐仁のくだりと繋がりのある展開ですね)。

ここからはクライマックスで、満足感を味わわせてくれる詰め込み具合でした。細かい経過は省きますが、これでもかというくらいにアクションを詰め込んでいる。多少しつこいかもしれませんが、しつこいくらいが丁度良いんですね。

この映画の第三幕がカタルシスを生むのは、銃の存在ゆえです。それまで主人公は一切銃を撃てなかった。それがここに来て、これでもかと撃ちまくる。これが大きな要因です。アメリカではゾンビを序盤から撃つのが当たり前ですが、日本ではそうもいかない。そこを逆手にとっての使い方としては、この上ない方法ではないかと思います。

 映画的に言うと、銃の発砲は男性性を担うものでもあります。すなわち、これまでずっと自分の男性性に自信を持てなかった主人公が、いよいよ第三幕でそれを発揮するんですね。中盤では女子高生や女性に助けられていた主人公が、ここに来てその二人を守る。作り手は明らかに「男性性」を意識している

 ラストは三人で車に乗って逃亡。結末を迎えます。ここに及んで、有村を半ゾンビ化させたことも意味を持つ。大泉と長澤と有村の関係は、父と母と子供の形をとるんですね。映画の途中、有村をカートで運んでいたでしょう? あれは赤ん坊のメタファにもなっているわけです。主人公は艱難辛苦の末に男性性を獲得し、妻子を守り、父へ至るという流れなのです。

 映画の序盤において、主人公は同棲相手との間に家庭を築けずにいました。そして、その相手を失ってしまった。序盤と結末にリンクが観られる点も美点です。惜しむらくは、序盤のテーマ設定。「漫画で成功したいんだ!」という動機をセットしたのはいいのですが、その背景にもっと、同棲相手への意識があればなおよかった。そうするとリンクの糸がさらに太くなったように思われます。同棲相手の存在/欠損をもっと意義深く描けば、女子高生たちを助ける動機がさらに補強されたのではないかと、思ったりもします。ゲームの『ラスト・オブ・アス』において、主人公のジョエルは娘を失い、その面影をエリーに重ねていた。たとえばああいうことです。

もうひとつの惜しい部分は、有村がなぜ半ゾンビに留まったのかですね。「赤ん坊に甘噛みされたから」というのがエクスキューズになっていますが、ウイルスってそういうことなのか? という疑問は残ります。有村と大泉の結びつきはあくまでも、にわかな出会いによるもの。であるため、彼を決して襲わない善良なゾンビになるのも、少しご都合主義的な感じがしてしまうわけです。

 ただ、そこまで突っつくのはしつこいかなとも思います。二人はカーアクションで、力を合わせて死の危険を乗り越えた。その点を踏まえ、絆が強まったとも言えるし、映画の制限時間の中で、できうるだけの工夫をしている。その点はすばらしいのであります。

 全体を通していえば、非常によく整えられた快作であると思います。
 お薦めであります。

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 今週のマスカットナイトは総集編ということですから、あまり語ることもありません。
 お休みにします。

 それよりも、5/4に開催されました「DMMアダルトアワード2016」について語ってみようじゃないかと思います。
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ちなみにぼくの予想を振り返ると、
 最優秀女優:大槻ひびき
 優秀女優:天使もえ
 新人女優:市川まさみ
 特別賞:紗倉まな
 話題賞:三上悠亜
 スペシャルプレゼンター賞:伊東ちなみ
 メディア賞:葵つかさ
 でした。

 実際の結果を見ていきましょう。

 予想が的中しました。最優秀女優賞は大槻ひびき
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 ここはそりゃ、大槻ひびきが獲るべきでしょう。AV女優の格としては、やはりノミネート女優の中で頭ひとつ抜けていたと思います。上原亜衣、湊莉久とキカタン受賞の流れは今回も健在。DMM(CA)は自社専属の女優ではなく、業界全体への功労者をきちんと祝福するのだなと、いちだんと頼もしさを覚えた次第です。

 受賞コメントにもありましたが、大槻ひびきは「ド企画」からの決して華々しくないスタート。デビューは2008年のベテラン組。それがこうした場で一位を射止めるというのは、まことによいことであると思います。AVは単体的なもの=アイドル的なものの魅力ももちろん大きいのですが、それとは別に、企画や行為性、肉体言語によって魅せるメディアであります。そこでの活躍がこうしてきちんと評価されることを、非常に喜ばしく思っております。
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 そして第二位。優秀女優賞は、前の記事でも個人的に希望していた、AIKA
受賞は難しいのではと勝手に思っていたのですが、いやはや嬉しい誤算というか、キカタンが一位二位を射止めるというのは、この賞自体がどういう性質のものかを、知らしめてくれるようです。

 いまやDMMは戦国武将ではなく、業界全体を統べる幕府となりえたのです。
 自社の繁栄のみを願うのではなく、業界全体で活躍したものに権威を与える存在たり得たわけですね。今年の一位二位がキカタンという出来事は、その象徴であったように思います。

さて、新人女優賞。
 ぼくは市川まさみを予想していて、話題賞が三上悠亜ではないかと思っていたのですが、ここは予想とは反対になりました。 
 新人賞に三上悠亜、話題賞が市川まさみ。いずれもマスカッツのニューカマーで、一応ここは抜かりなく抑えているDMM。恵比寿★マスカッツプロジェクト。

 三上悠亜はなんとAVの販売において、配信、セル、レンタルの三冠を受賞したとのことです。そうなるとまあ、新人女優賞もむべなるかな、ですね。ただ、どこかもの悲しさもあります。言ってしまえば彼女は、「AKS系列でスキャンダルを起こし、居場所を追われた人」です。マスカッツの一員であるし、今後の活躍がとても楽しみではあるのですが、それですぐさま他のAVをなぎ倒してしまうのは、AV業界を愛するものとして悔しい気持ちもあります。ですがまあ、そうやっていろんなものを取り込んで、業界がさらに大きなものになるのなら、喜ばしいことに変わりはありません。マスカッツでのご活躍を応援しております。

 彼女が話題賞でなかった時点で、市川まさみ以外はないと思っていました。ここは順当なところ。それにしても、本当にマスカッツはうまくやっていますねえ。うむうむ。

 特別賞はJULIA。三年連続ノミネートとあって、この方も何か獲るかもな、と思ってはいたのですが、なるほどここに入ってきた。納得の受賞でありました。

 スペシャルプレゼンター賞は新人ノミネートから出るのかと思っていましたが、ここで葵つかさ。業界での実績もあり、S1でもあり、アイドル性を考えても、なるほどなにがしかの賞を獲ることに異議はありません。

 メディア賞に紗倉まなが来ました。
 露出も多いし、小説を出版したりもしているし、顔ぶれを見ても無冠はなかろうと思っていました。他の賞がないのなら、この線もあるだろうなと思っていましたね。うむうむ。
 ちなみに去年は小島みなみが獲っているので、SEXY-Jにおける「乙女フラペチーノ」コンビが獲ったということになります。

授賞式では特別ライブとして、恵比寿★マスカッツが登場しました。
「バナナ・マンゴー・ハイスクール」が最初の演目だったのですが、司会者には希志あいの、ノミネートの一人には佐山愛がいるということで、少しほろりと来てしまいました。
新生マスカッツになってからの新曲も披露され、ノミネート席のメンバーが応援している様を見ると、これまた温かい気持ちになるなあ、という次第でありました。

 さて…………こうなると、いや、うん、わかります。
 天使もえですね。
 候補者のマスカッツメンバーの中で、彼女だけが何も獲れなかったのです。S1の筆頭格であり、人気女優であり、マスカッツも出てきてとなって、これはとても悔しい結果であろうと思います。去年には新人女優賞を獲っているし、二年連続ノミネートなので、その意味では他の無冠の人たちよりは恵まれているのですが、ここにはなんというか、ねえ、うん。予想の段階で、ぼくは彼女の一位はないだろうと思っていたのですが、何かしらには引っかかると思っていた。ぼくだけではありますまい。これは悔しいでしょうねえ。

 キカタンにはドラマがあります。それこそ大槻ひびきのように、「ド企画」から上り詰めた人もいるし、AIKAのように、最初は美容師の副業だったのが、どんどんその世界の魅力を知っていたという人もいる。そうやって名を売ってきた人もいる。

 かたや、単体はデビューがある程度華々しいんですね。パブもあるし、事務所のバックアップもあるし、その意味ではアイドル的存在。でも、だからこそ、こういう場での栄誉が求められるところも大きいのです。単体のドラマもあるのです。特に天使もえは、マスカッツの中心メンバーでもありますからね。

 その意味では、天使もえが獲れなかったのは、これはこれでドラマティック。
 でも、これが演出だとするなら、DMMの底知れなさというものを見る思いです。

 正直、人気投票だけではないと思います。様々に事情を加味されての配置ではないかと思います。そのうえで、DMMは看板のS1(それも天使もえは生え抜きの専属です)を横に置き、キカタンに持って行かせた。ここはねえ、いいですねえ、うん。いい。

ともかくも、大槻ひびきが貫禄の受賞を果たしたことをここに言祝ぎ、AIKAが獲ったことを喜びたいと思っています。DMMが今後も業界の盟主として、そしてマスカッツがその象徴として、よりいっそうの繁栄のなされますことを、心よりお祈り申し上げます。
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