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面白い。あるいは抵抗感。
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 2004年9月に福岡県大牟田市で起きた殺人事件。それを取り上げた鈴木智彦氏のノンフィクション、『我が一家全員死刑』を原作とする作品です。小林勇樹氏の作品で、公開時に27歳という若手監督です。

 実在の出来事が題材という点では、前回取り上げた『否定と肯定』に通じます。しかし、描き方は真逆です。脚色をちりばめ、才気煥発の言葉そのままに、エネルギー漲る作品となっています。
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 クラシックとエロスを混ぜ合わせた冒頭シーンは園子温を彷彿とさせ、その直後に痛々しく無様な暴力シーンをかませる。舞台を静岡に置き換えたそうで、シーンの中で交わされる会話は方言ばりばりの粗野なやりとり。掴みとして十分なインパクトを与えます。
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 この映画はやりたい放題やるぜ! という宣言も高らかに、その後に続くシークエンスで主人公一家の様子を描きつつ、冒頭25分というタイミングで最初の殺人にいたるところなどは、脚本術の王道をしっかりとなぞっている。ただの乱暴な映画ではなく、きちんと計算している周到さも好ましいところです。
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 登場するのは軒並みDQNな連中であり、風景の切り取り方も相まって、90年代的な風合いも漂います。間宮祥太朗演ずる主人公もさりながら、その彼女の存在感もぼくは好きでした。清水葉月さんという女優なのですが、「蒼井優マークⅡ」というフレーズがぱっと思い浮かび、ぼくの頭の中を巡っていました。観てもらえばわかってもらえるでしょう。この蒼井優マークⅡがまたいいのです。見た目には小綺麗な感じなんですが、言動はしっかりとDQNであり、ああ、土着の女だなあと思わせてくれる。小人症の男性を雑に扱う点も含め、余計なポリコレに気をとられてない感じは、若い作り手ながら嫉妬を抱かされるものであります。
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 一人一人の顔立ちが適切だなあとも思いました。六平直政はもとより、毎熊克哉さんという俳優はいかにも地方のワルにいそうな感じです。監督につくりたいものが明確にあって、その空気感を的確に醸している。ぼくは現在、東京の中でも都会に位置する場所で暮らしていますが、ここに住んでいてはわからない地方の雰囲気が伝わってくるんです。ああ、日本にはまだまだこのような乾いた街が山ほどあるのだろうなあと確かに思わされる。地方を描くということなら、2000年代以降はとりわけアニメの世界で花開き、数々の「聖地巡礼」ブームなどを巻き起こしたものですが、それとはまったく別種の乾いた風景。地方都市が持つひとつのどうしようもなさ。そんなものが随所に垣間見られ、映画として非常に強いものを感じます。
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 映画好きの人たちも多く絶賛しているようであり、それは確かにわかる。エネルギッシュな作品として確立されており、才気漲る若手監督ということなら、80年代の石井聰互をも想起させる。放埒な悪魔たちを描いた映画なら『マーダーライドショー2』と併映して、悪に酔い痴れる快感に溺れてもいいでしょう。

と、映画として絶賛を惜しむものではないのですが、やっぱりぼくはどうしてもまじめっこちゃんになってしまうのです。なってしまう部分があるのです。

 とかく現代ニッポンにおきましては、「道徳的横槍」が方々に乱立します。ちょっと尖ったCMがあれば「差別的だ」といい、ブログに写真をアップしたタレントがあればその画像を見て「違法ではないか」といい、ツイッターで楽しいことを呟いた人があれば「不謹慎だ、楽しめない人のことを考えろ」と横槍をぶっさす。そういうものにわたしはなりたく、ないのですけれども、それでもなおこの映画についてどうしても引っかかってしまった。

 発生から15年も経っていない実在の事件であって、被害者の遺族は果たしてどのような気持ちなのだろうなと、その思いを拭えないのですね。監督が遺族とどのようなコミュニケーションを取ったのかわからないし、遺族としてまったく問題ないと言っているのならぼくがあれこれ言うのは余計の極みなのでしょうが、どうにも主人公たちが魅力的に映っていて、どうにも殺される側が滑稽というか、軽い。
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 たとえば最初に殺される青年は、アホみたいなユーチューバーなんですね。ありがちなバカ企画をやって盛り上がっているうちに襲われるんですが、この脚色にどうしてもざわざわしてしまった。あいにく原作のノンフィクションを未読なので、被害者の人となりなどはわからないのですが、あんな風に軽い存在なのでしょうかね。鳥居みゆき演じた被害者女性もそうで、あれだけ見ると人生に何の重みもないアッパラパーの成金なんです。被害者がどういう人かわからない。殺されても仕方のないくらいに悪辣な人だったのかもぼくにはわからない。でも、わからないからこそ不安になる。これを面白いと言ってもいいものだろうか。
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 最後に殺されるのはどうもゲイっぽい青年なのですが、そこはどの程度真実なのか。仮に本当にゲイだったとして、あのような描写を青年の遺族や知り合いが観たとき、納得するものなのだろうか。少なくとも、あの青年はあの場に居合わせただけであり、犯人たちに殺されるべき理由は何一つない。にもかかわらず、あのような描き方でいいのか。
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 原作者の鈴木氏は、「死者への敬意を欠いていないか」と監督に指摘したそうですが、監督は「観る側が気にする必要はない」と割り切っているようです。確かにそうなのかもしれない。ただ、この映画を面白く感じ、あの主人公たちに魅力を感じたとき、実際の殺人事件をぼくは(たとえちょっとであっても)肯定してしまうのではないか。気にする必要はないと言われても、それを決めるのは果たして監督なのか?

 それを言い出したら戦争映画も駄目だし、架空であっても殺人事件や犯罪者を描いたものはダメじゃないか。

 うん、そうかもしれない。ただその言い分が正しいとしても、だからこの作品も問題ないと言い切ることが、ぼくにはできない。
 
これってわりとナイーブな問題だと思うんですけど、世間に数多いると思われる「道徳自警団」(古谷経衡氏の造語)は、何も反応していないんですかね、よくわかりませんけど。CMとかタレントにはかみつくのに。映画だからいいの? でも、反日映画ならネトウヨは怒るよね?

 いや、ぼくはこの映画を否定したいわけではない。前半で申し上げた通り、映画的な出来はとてもいい。ただその分だけ、この映画に対する葛藤もせり上がってくるのです。

 さて、あなたはいかがでありましょうか。


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監督はこの映画をつくりたかったのか?
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 とかく人々の中には暴力衝動が内在していたりするもので、あるいは放埒な暴力に対して憧憬を抱く面もあろうかと思われ、ヤクザ映画というのはつまり、そうした人々の欲求を発散させてくれるものなのだろうと考えます。
 
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身近にいたら迷惑きわまりないけれど、フィクションの中では輝く存在。そのヤクザのすごみをひとつの売りとし、ぶち殺すぞこの野郎! と叫ばせまくった前二作。かたやラストとなる本作ではその勢いも切れてしまい、なんだかむにゃむにゃした作品だなあと思わされました。

 北野武扮するヤクザ・大友が今回もキーパーソンの一人となるのですが、どうにも存在感に重みがないのですね。というか、ヤクザ同士、ヤクザ内部でのいざこざに終始してしまい、その外側がちっとも見えてこないというか、北野監督としても本当にこの作品をつくりたかったんだろうか? というのが疑問です。率直に言って、何をしたいのかよくわからなかった。
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今回の話で大部分を占めるのが、西のヤクザ・花菱会の内輪もめなんですが、まずもって関西弁のうまい俳優が少ないし、その点での味わいがない。これは前作からしてそうだったんですが、西田敏行の関西弁はぜんぜんはまってないうえに、ピエール瀧もまずい。塩見三省は京都出身だそうですが、彼にしてもなぜだかイントネーションがおかしい。
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 ところで、方言というものがぼくは好きです。東北弁にせよ琉球語にせよ、音楽的な調べがあるんですね。濃度の高い方言の中には、何を言っているのか外の者には聞き取れないものもありますが、これはその土地に住まう人々が、何世代もかけて磨いてきた調べなんです。無駄が削がれ、言葉の角が取れ、コミュニケーションのための最適化がなされた方言には、独自のチューンがある。関西弁にしてもそうで、大阪にせよ京都にせよどこにせよ、標準語という半ば人工的なものとは違う美しさがある。

 関西のヤクザとなればそれこそ土着の方言、いい意味での汚さを期待するところなのにそれもなく、いかにもつくりものめいて見えるのがまず辛い。こういう映画にこそ、吉本芸人を出してほしいですね。木村祐一なんかがピエール瀧の位置にいれば、はまり役だったんじゃないでしょうか。あ、岸辺一徳だけはよかったです、例外的に。

 さて。それはそれとして。
 話はピエール瀧と北野武のいざこざに始まり、それが別組織にも飛び火して、面倒ごとが膨れあがってという話になり、一方では花菱会の権力争いもひとつの軸になっているんですが、これがなんというか、「誰がどうなろうとわりとどうでもいい」んです。大友=北野武の話がそもそも、本作ではまともに機能していない。だから中心のつくりが非常に脆弱で、作品全体にちっとも熱が生まれない。

 ヤクザ映画の古典、『仁義なき戦い』においては、菅原文太扮する広能があくまでも中心として機能していたし、金子信雄の狡猾さも相まって、きちんと軸を形成していた。ところがこちらの大友は、「なんだかしょうがないけど、しょうがないから暴れている人」以上の深みがなく、大森南朋にいたってはもうほとんど非人格的に追従するだけです。
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 どうせこの三部作もここで終わりなのだから、それならもういっそのこと開き直って、主要な幹部ヤクザ連中を片っ端から撃ち殺す皆殺しカタルシスをつくりだせば映画的に輝くものを、そのそぶりすらない。大友はマシンガンを持ってヤクザのパーティに乗り込むけれど、結局は下っ端を撃ち殺すだけで、西田敏行はすたこらと逃げおおせる。

 一作目は怒号飛び交う元気なヤクザ映画として華があったし、二作目は二作目で関東と関西のヤクザの抗争が盛り上がり、警察との癒着なんかもそこに旨味を添えていた。本作には何もありません。ただ、出がらしの残り香が漂うだけです。
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 細かい部分の演出もぜんぜん締まっていません。
 たとえば、塩見三省とピエール瀧が、詫びを入れるため敵方のヤクザの家に乗り込むシーン。向こうのボスは在日韓国人で韓国語を喋るのですが、それを見た塩見たちは日本語で陰口を叩きます。相手が目の前にいるけど、伝わらないだろうと思ってごちょごちょ不平を言う。ところが、相手のボスは日本語も喋れるため、全部ばれてしまっていた!
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 このくだりもオチがばればれだし、そもそも部屋には警備を務める他の組員もいるのだから、あんな風に喋るのはあまりにも迂闊です。上に述べた(ばればれの)展開をやりたいだけ。本気の場面じゃないから、映画にも本気がこもらない。あげくに下手な関西弁。どないすんねんこれ。どうすんだいこの始末。
 
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 大杉漣が殺される場面も、演出が緩いんです。
 首まで土に埋められた大杉漣を、車で轢き殺す場面。その行為自体はいかにもヤクザの非道さが出ているわけですが、轢き殺したその瞬間、カットは北野武が乗る車中へと切り替わります。殺したとわかる演出は、頭を潰した音のちょっとしたSEが入るだけなんです。

 違うじゃん。そこで一瞬、車が「ドッコン」とならなきゃダメじゃん。
人一人の頭部を轢いたのだから、ちょっとは車体に衝突感が出るだろうし、それがほんのちょっとあるだけで質感が出るじゃん。いや、むしろそれがほんのちょっとであればあるほど、質感に加えて虚しさが生まれるじゃん。そういう細かさもないんです。ただ嫌な感じの音を一瞬入れているだけ。登場人物の存在感が、何にも感じられないのです。

 ことほどさように、北野監督はほとんどやる気がなかったんじゃないかと思われる作品です。前作の『龍三と七人の子分』は面白かったんですよ。いい意味でのはちゃめちゃさが活きていた。本作もどうせ三部作の完結篇なら、はちゃめちゃな方向に舵を切って、やりたい放題やってほしかったなあと思うことしきりでございます。
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ロードムービーの肝心な部分をきちんと押さえた良作
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 ある日突然、身の回りの電気がすべて無くなってしまった世界のお話です。そこでサバイバルをしていく家族の様子が描かれ、小日向文世、深津絵里、泉澤祐希、葵わかなの四人がその家族であります。

 評価の割れる作品のようなのですが、ぼくは飽かずに観られました。日本製のロードムービーをそういえば久しく観ていなかったので、その点で新鮮に感じたのもあります。
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冒頭は日常の風景が描かれるのですが、ここでの家族の具合がまずはよかったです。ああ、こんな家族の風景はどこにでもあろうなあ、というのが等身大で描かれていて、あの辺のダレ具合が丁度良い。葵わかな演ずる女子高生の娘が、おっさんからしてみると程よくむかつく塩梅で、特によいです。「可愛さに費やすエネルギーはすべて、男子と友人たちに注いでいる」かのようなあの感じ。泉澤祐希演ずる大学生もいいです。葵わかなよりも兄貴なんだけど、兄貴感が乏しい童貞大学生の感じ。深津絵里はいいのですが、もっとおばさんくさいキャスティングだと、本当はさらによかったでしょう。まあ、そうすると映画的な華がなくなってしまうので、ここら辺は仕方のないところでもあります。
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で、映画は非日常へと突入していきます。
 もしも本当に電気が無くなったら、というシミュレーション映画としてみれば、瑕疵はあるかもしれません。原発はどうなっちゃうのかとか、ひどいデマが流れて悲劇が起こるのではとか、そっちの照らし方もできるでしょう。でも、この映画ではどうでもいいところです。電気がない世界で、どう生きていけるんだ? というのがまずあって、ぼくたちの生活がいかに電気に支えられているかを照らしている。それをパニック映画でもサスペンス映画でもなく映し出す具合としては、適切な脚本ではないでしょうか。
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一般的に、映画において大事なことがあるんです。それは、「主人公が最善の選択を果たす」ということ。つまりね、主人公が間抜けで馬鹿な選択をしていると、観客は興ざめするものなんです。ここはもっとこうしろよ、それはこういうやり方があるじゃんと観ながらつっこんでしまうことになったりして、映画をつまらなく感じてしまうものです。現に、そういうレビューもネット上には散見される。
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 でもね、この映画の場合はそこが肝なんです。
 ぼくたちは今、電気のある日常にいて、あれこれと文句を言っている。こういうときはこうすればいいと、高みに立って気楽な立場で言える。でも、実際はそうじゃないよ、そううまくはいかないものだよってことです。そこを捉えずにこの映画につっこみを入れても、まるで意味がない。その対比を照らし出す点でも、面白い作品と言えるでしょう。いざその場に立ったら、できるのか? というね。最善の選択なんか、取れやしない。それでも生きていくために、懸命であること。そこが大事なんです。
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 失敗も含めて、進んでいくところに味があるのです。
 そもそも鹿児島を目指すことが最善なのかわからない。途中でいかだをつくって川を渡ろうとするけど、それが最善かどうかはやってみるまでわからない。計画的に進めよと言ってみても、計画的になんて進めるもんじゃない。
その「一寸先は闇」ぶりが貫かれているのが実に好もしいです。野犬のくだりはまさにそうですね。可愛いなと思って豚肉をあげたら……というくだり。ロードムービーとは旅を描く映画であり、ゆえにしてどこか人生のメタファ感を内包するものですが、ロードムービーとしての要点はきちんと押さえていると見受けました。岡山での一期一会なんかもそうですね。ここには人生があるなあ、と思える映画です。豚を解体していくところもいいじゃないですか。ぼくたちの生活がいかなる行為に支えられたものなのか、娯楽映画のレベルでちゃんと織り込んでいる。
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映画全体を通してみると、娯楽的な要素に充ち満ちているというわけでもないんです。そこを支えているのは、主演の小日向文世ですね。あの、頼りがいがあるんだかないんだか、頼っていいんだか悪いんだか、という絶妙の存在感。正直、子供二人はぜんぜん頼りにしている感じがないんですよ。そこがまたいいのです。それでも親父として頑張らなきゃと思い、引っ張っていこうとする様が、たいへん素晴らしい。無神経なおっさんの感じもちょっとあるしね。小日向さんはこの映画で賞か何か獲っていないんですかね。電通も絡んでいる映画なんだから、日本アカデミー賞でノミネートくらいされるべきだったと思いますね。
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観る前はそれほど期待していなかったのですが、随所に味のある作品でした。伏線の回収もぼくは好きです。特にあのカツラのくだりです。物語において最も高度なことのひとつとして、「ギャグとシリアスを絡ませる」「ギャグと悲喜こもごもを絡ませる」というのがあると思います。好例はクレヨンしんちゃんの『オトナ帝国』。あの中で出てくるヒロシの靴下の使い方は、今までに触れたあらゆる表現の中でも随一です。そういうニュアンスを持つのが、川辺とカツラのシーン。ああいうものを一個入れるだけでも、映画の出来はぐんとよくなりますね。
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 映画全体を通しての感想はそんなところです。ところで、劇中のワンシーンで藤原紀香が出てくるのですが、彼女がなぜ女優としてやっていけるのかわからない、あの人の演技プランは洋画の吹き替えでも参考にしているのか……いや、やめておきましょう。
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ひとつのロードムービーとして、よくできた一本だと思います。

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タイトルが全体を貫いていないと見受けます。複数スレッドの有効性に疑問。
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 吉田修一原作で、『悪人』と同じく李相日が監督。妻夫木聡、綾野剛、渡辺謙、宮崎あおい、松山ケンイチ、池脇千鶴、広瀬すず、森山未來など主役クラスの豪華キャストで、どんなもんじゃろうかと思いながら、『怒り』です。原作は未読です。
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2007年に千葉県市川で実際に起きた殺人事件が原作執筆のきっかけとなったそうで、映画冒頭では凄惨な殺害現場が提示され、これが映画全体を貫く大きなフックとなります。

 いくつものスレッドが同時並行的に描かれます。妻夫木・綾野の東京パート、渡辺・宮崎らの千葉パート、広瀬すずの沖縄パートの三つを軸に、警察捜査の進展などが織り交ぜられ、それぞれの生活や人間関係のあれやこれやが語られ、それにしても犯人はいったい誰なんだ、というのが興味を持続させる構成です。
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 2時間半近くあるのですが、結論から行くとやや肩すかし感というか、「あれ、交わらないんだ?」というのがとても大きいです。三つのパートがぜんぜん交わらないんですね。事件の犯人と思しき人間は各パートにそれぞれおり、綾野剛、松山ケンイチ、森山未來なんですけど、パートごとにまったく交わらずに終わったのが残念というか、それでいいのか、とちょっと思います。
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 物語の妙技、みたいなものをつい求めてしまうぼくとしては、「どうも三人ともが怪しいぞ、それでいてちっとも交わらないけれど……ん? もしや時間軸ずらしか? 叙述トリック的な?」くらいの想像を働かせてもいたのですがそういうわけでもなく、まして三人ではないあの人物が実は! みたいなこともなく、ああ、そうなのか、という結末。
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 事件の報道があって、たまたま同じ時期に素性不確かな出会いがあって、そこで「もしやこいつが犯人ではないか?」と疑ってしまう人間模様を描くのははわかるけれど、どうもそこの機微みたいなもんが今ひとつ有効に機能していないというか、それだったらいっそ綾野ないし松山のみに絞って2時間以下で語りきったほうが、信じることと疑うことの難しさみたいなものがはっきりと出てきたのではないか、と思うんですね。それぞれのパートがそれぞれのパートを補完し合っている要素も見出せないし、むしろこの作品については一本軸で行っていいんじゃないかと思う。
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広瀬すずパートでは沖縄の風景が描かれて、中盤では米兵によるレイプ事件が発生します。その前の段で、辺野古移設反対デモの様子が描かれるなどするのですが、この重いテーマはそれだけで一本の映画にも収まらない代物であるというのに、わりとさらっと終わってしまう印象です。ただのレイプ事件じゃなくて、わざわざ米兵のレイプにしたからには何かもっと社会的な暗喩がこめられているのかな、と思って綾野/松山パートを見つめてもそこに作用している風もなく、果たしてあの舞台が沖縄である必要があったのか、米兵レイプ事件である必要があったのかが、ぼくにはよくわからなかった。
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 いや、アイロニーはあるんです。
 本作執筆のきっかけは市川市の殺人であったそうですが、あの事件はイギリス人女性が被害者で、相当大きく報道されていた記憶があります。一方、米兵レイプ事件が起きる沖縄ではいまだに基地があり続けているし、治外法権状態があるし、レイプはその性質上、明るみに出ないわけで、ここには実に理不尽な対比がある。そこを訴える意味があるのかなとも感じるのですが、だったら冒頭の殺人は日本人夫婦ではなく、外国人女性でないと弾力的な対比がつかないわけだし、米兵レイプを織り交ぜた効果が発揮されない。そのせいで、終盤のくだりについてもキレがよくないんです。
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うん、この映画は3スレッドじゃなくてせめて2スレッドにしつつ、相互の対比を浮かばせながら「怒り」がもっと明示的になるように引き締めたほうがよかったんじゃないかな、と思ってしまいます。そうしないと犯人の内面というか、「彼」の考えがいまいちわからないんですね。わからない部分を補って想像していこう、という風にも思えない。こいつにはこいつなりの事情があったんだな、と歩み寄る気になれない。「怒り」という直接的タイトルに見合う「怒り」が果たして、綾野・松山スレッドにあったかといえば、首をひねらざるを得ません。うん、タイトルがよくわからないです。森山スレッドには「怒り」に足るものがあるんですけど、ほかの二者にはないです。だから、交わらないとわかったときの「すかされ感」が大きくなってしまいます。原作は知りませんが、あくまでこの映画を観る限りは、というところで。
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 総じて言うと、各々のパートがかなり中途半端かつ、相互に補完・影響し合うくだりもなく、物語的妙味や「怒り」の深淵みたいなものが浮かび上がってこない印象でした。吉田修一×李相日では『悪人』もありましたが、あれはあれでひどく半端な出来と見受けたし、ぼくはいい観客になれないようであります。沖縄の米兵レイプ問題には日米地位協定、基地問題含めて「怒り」を覚えている身であり、そちらに意識が引っ張られたのもありますね。うーん、よかったという方はどの辺に痺れたのか、教えてほしいです。


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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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せいぜいが「愛の小さな波紋」。
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「ほのめかし」の必要。
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性的怪物の肖像
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風合いある小品。
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 前田敦子主演作。80分尺で規模の小さな世界を描く小品ですが、独特の味わいを放つ作品でありました。

 大学を出ても職に就こうとせず、家業も家事も父親に任せきりの主人公、タマ子の日常が描かれます。舞台は田舎町で、家はスポーツ用品店を営んでいます。父親との二人暮らしですね。

 テーマは明白で、「彼女がどう成長するかですね。
 序盤10分はきわめてだらりとしたトーンでセットアップがなされ、その後に父親との衝突があります。「このままだらだらしていても駄目だ、いつになったらちゃんとするんだ」という父親に対し、「少なくとも、今ではない!」と怒鳴るタマ子。

 しかしこれによって突き動かされ、およそ25分の段階で、新たなことを始めようと、アイドルのオーディションに応募したりします。でも、それが周りに露見すると急に嫌になってしまい、まただらけた状態に戻ってしまいます。短い映画なので、中間地点にどん底を持ってきています

 クライマックスへの糸口は、父の再婚。
 父の再婚話が進むことによって、タマ子自体の前進も促されるつくりです。
 再婚するかもしれない相手に父への思いを打ち明けたり、母親に「東京に来る?」と誘われたり、そうしたことを通して彼女はモラトリアムから脱していくきっかけを掴みます。父に「家を出ろ」と言われたタマ子は、「合格だよ」と答え、新たな人生に歩み出す手がかりを掴むのです。

 山下監督作品では『ばかのハコ船』が一番好きで、『リンダリンダリンダ』も好きです。『天然コケッコー』『どんてん生活』『苦役列車』などでも独特の風合いが生み出されているのですが、それらに比べるとやや威力は弱いかな、という感じはどうしてもありました。作品自体が小規模、ということはあるにせよ、同じような「無様な状態」を描いた作品だと、『ばかのハコ船』が素晴らしく、どうしても思い出してしまいました。前田敦子が持つ綺麗さによって、主人公の無様さが薄まってしまう、ないしは綺麗なものに見えてしまう、というのはあります。この映画はアイドルなどではなく、ブスな女優を起用していれば、よりいっそうもの悲しい風合いが漂い、良い意味での無様さが生まれたのではないか、などと考えてもしまいます。『ばかのハコ船』はその点においてもまた、優れた作品だったのです。ヒロインがブスでしたから。

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 もっとも、前田敦子はその辺の、可愛いとブスのバランスを良い感じで持っている人でもあるので、キャスティングに文句はありません。

 観終えたときは、モラトリアムを脱する上での通過儀礼的要素がやや弱いかな、という印象を受けました。しかし少し間を置いてみると、独り身である自分の父親を再婚相手に託す、という行いが、一種の通過儀礼として機能しているのだなとわかりました。巣立ちのための儀式として、自分を育ててくれた親の幸福を助けるというのは、物語的にきちんと意味合いを帯びています。「合格だよ」という、一見傲岸不遜な物言いは、彼女なりの照れ隠しの意味があるのであって、このような台詞を置く巧みさには、なるほど敬服を覚える次第であります。

 また、食事シーンが効果的です。食事シーンを随時挟み込むことによって、家庭の様子を凝縮して描き出すという手法。食事というのは動物的な意味合いを帯びており、そこには生活の本質、生きるという営みのありようが浮かび上がります。ゆえにして、独りでもそもそ喰ってるシーン、父親と咀嚼音を立てながら一緒に何かを食べているシーンなどが、そのおりそのおりで違う意味を持って伝わってくるわけです。

 地元に帰ってきた同級生、写真店の中学生と彼のヘルメット、そして彼のカノジョの垢抜けない感じなど、田舎くささも随所で描かれていて、ほどよい風合いでありました。お薦めです。


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