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この映画を観て語る時間も、鑑賞体験。
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 原題 Denial

 ホロコーストの歴史をめぐる実在の裁判をもとにした作品です。実際の出来事は「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」と呼ばれているようです。

 歴史学者のアーヴィングはホロコースト否定論を唱えているのですが、その主張を女性の学者・リップシュタットが批判します。すると、その批判が名誉毀損に当たるとして、アーヴィングが訴訟を起こすのです。いわゆる歴史修正主義について取り上げた映画であり、とても興味深く観ました。
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 歴史問題にせよ、もしくは現代日本における原発問題にせよ、常々厄介だなあと思えてならないことがあります。それは一言で言えば、事実と主張の問題です。

 どんな主張を持つにせよ、まずは事実の探求から始めなければなりません。事実を蔑ろにした瞬間、すべての議論は(およそ必然的に)不毛になります。主張はひとまず後回しにして、何が合意可能な事実なのか、その合意点を見出さねば議論は始まらない。歴史にせよ科学にせよ、それが学問だろうと思います。いや、学問に限らず、どんなことにも当てはまる。

 ごく単純に言えば、理性と感情の問題です。事実が理性から導かれる一方で、主張の根源には感情が付随する。であるならば、感情=主張は後回しにして、まずは理性的に事実を見極めねばならない。

 しかし、人間は感情の生き物であります。感情=主張が前に出てしまう。その結果、結局は議論にならない当てこすり、罵り合いばかりが跋扈する。こういうのが本当に厄介だと思います。
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 本作におけるアーヴィングは結局のところ、ナチズムを正当化したいという感情が根底にあって、そこからホロコースト否定論に向かっているのでしょう。こうなると、適切な議論になりません。感情が根底に居座っている以上、理性的な判断は狂ってしまいます。
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「自分はユダヤ人差別に断固反対する、ナチスやヒトラーの思想などもってのほかだ、そのうえでなお、私はホロコーストを否定するのだ」というなら、まだ聞く価値はあるかもしれません。その人は感情ではなく、なんらかの客観的根拠があるのかなと思う余地がある。

 でも、このアーヴィングはそうじゃないっすからねえ。
 おまえの感情に付き合わされたくないよこっちは、という話でしょう。

 ただ、これはもちろん逆も言えるんです。「ユダヤ人差別はいけない、ナチスを擁護してはいけない、だからホロコーストの否定を許してはならない」というのも、厳密な意味ではまずい理路だとぼくは思う。ホロコーストの実在/不在はあくまでも証拠や証言に基づいて判断すべきことであって、ナチズムの是非や差別問題それ自体とも切り離して論じられるべきなのです。

 だから正直な話、ホロコーストが存在しなかったなら、それはそれでかまわない。
 綿密な歴史研究の結果、ホロコーストの不在が証明されたという事態がもしも起こるなら、それを受け入れる覚悟が必要です。歴史に関する議論は、その覚悟が始まりなのだろうと思います。

 ここから派生して原発論議への所感をだらだら述べそうになるのですが、映画から離れるので置いておきます。
 レイチェル・ワイズ扮するリップシュタットは被告となってしまい、弁護団の力を借りて裁判に挑みます。
 惜しむらくは、彼女自身が法廷で何のアクションも起こさないことですね。
 弁論に立つのはあくまで弁護士たちの仕事であって、彼女自身は何も喋らないのです。
 実際にそうだったのでしょうし、脚色して法廷ヒロイン化しなかったのは良心的です。 まさに、事実=歴史を曲げなかったのはこの映画の美点と言えます。
ただその分、映画としてはもどかしさもありますね。
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 一方、アーヴィングのほうは仲間が誰もいないものだから、自分自身でどんどん喋るのです。これってむしろ、アーヴィングが主人公みたいにも見えちゃう構図なんですね。
「大弁護団と戦う一人の歴史学者」みたいな紹介だって許されてしまうし、そうなると途端にヒロイックに映ってしまう。正直なところ、多勢に無勢のアーヴィングを観て、ちょっと応援したい気持ちにさえなってしまった。
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 この映画は「事実」をめぐる作品であり、だからこそあくまで事実に基づく演出を心がけたものだろうと推察します。しかしそのストイックさ、律儀さゆえに、どこかアーヴィングに肩入れを許す構図にもなってしまう。ここは作り手ももどかしかったんじゃないでしょうか。彼のほうがリップシュタットよりもはるかに躍動しているから。
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 と、ここまで書いてふと気づきます。
 なるほどこの映画は、フェイクニュースに代表される「嘘の魔力」をも同時に描いているのだなと。
 
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 トランプ大統領は過去、数々のフェイクをばらまいたとされています。でも、フェイクかどうかこだわらず、言いたい放題言っていれば、それはある面で魅力的に映るのです。事実に基づいて長々と説教する人間よりも、「うるせえこの野郎! 俺はこう思うんだ! 文句は一切受け付けないぞ!」と押し通す人間のほうが、魅力的に映ってしまう場面が確かにあるわけです。
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 この映画はホロコーストを題材にしながら、現代の政治状況を映し出すというきわめて真っ当かつ高等なことにチャレンジしている。そのように見受けます。また、映画という商業的媒体を通すことで、メディアにおける「嘘の魔力」「嘘の魅力」すらも映してしまっている。この映画において魅力的なのは、大弁護団に囲まれているリップシュタットよりも、一人で戦うアーヴィングのほうだったりする。
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 ほら、こういうイメージによって、人はころっと騙されたりするんだ。
 そういう批評性を隠しているなら、まことにハイレベルな作品と言えます。

 また他方、歴史修正主義の怖さにもあらためて気づかされます。
 実のところ、アーヴィングに代表される修正主義者は、自分たちの正当性を示す必要がないんです。彼らはただ、「ひとあな」を開ければそれでいい。世界で正しいとされている史実に揺るぎを与え、「もしかしたら別の真実があるのかも」「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も残されているのかも」と、人々に思わせれば成功なのです。その「ひとあな」が開けば、この現実に寄生することができる。寄生する部位を見つけたらあとは、少しずつ病巣を広げていけばいい。
「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も1%くらいあるんだよね」
 人々にそう思わせた瞬間、彼らの勝ち。
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 これが怖い部分だなと、つくづく思います。
 1%は何かの弾みで、2%以上に膨れあがりますから。

『否定と肯定』の内容についてぜんぜん触れてないじゃないか、何が映画評だクソムシ、と思われたかもしれませんが、この映画は観ている間に面白かったかどうかとか、そういうのは二の次だと思います。むしろ、映画を観た後で考える時間こそが鑑賞体験。日本の歴史認識問題、南京事件や従軍慰安婦、あるいは現代の原発問題。さまざまなことへと思考の枝葉を広げることができるし、その中でこの映画もまた息づく。
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 本作は、「この映画を観る」というよりもむしろ、「この映画を通して社会を観る」ということに貢献します。そういう映画を今後も観たいなあと思う次第であります。 
 


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実話を描いて端正で丁寧。けれど。
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 原題『Sully』

 2009年のニューヨークで実際に起きた飛行機事故、USエアウェイズ1549便の不時着水事故の顛末を描いた作品です。

 鳥の大群との接触事故で、民間機がエンジン喪失の事態に陥り、機長と副操縦士は咄嗟の判断でハドソン川に着水します。結果的に全員が無事救出されるのですが、果たしてその判断は正しかったのか、空港に引き返すべきだったんじゃないかと航空会社に咎められてしまい、トム・ハンクス演じる機長は大いに悩むのです。
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100分に満たないタイトなつくりの映画で、評価も高く、この年のキネ旬では外国映画部門の第一位に輝いているのですが、ぼくは体感時間が長く感じられました。実話をもとにして、あの巨匠イーストウッドが端正に丁寧に描いたのはわかるのですが、その分だけ、ぼくのような安い舌にとっては、「上品な味わいだなあ、上品なんだけどもう少し塩味があってもいいんだよなあ」という具合でありました。
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 事実ベースの映画だし、構成上どうしても仕方ないんですが、この作品の場合は、最大のハラハラポイントが序盤で明かされてしまっているわけですね。というのも、生死のかかった飛行機事故を題材にした場合、やはりそこは、助かるのかどうなのか、というハラハラ感がほしくなる。そこはもう、早い段階で終えてしまっているのでねえ。
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いや、歴史上の出来事で、結末がわかっていても楽しめるものというのはあるわけです。それこそ大河ドラマなんて、最終的に誰がどうなるというのは既に判明しているわけですからね。それであっても、ドラマの作り方一つで、先の展開が楽しみになって観てしまうのです。
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 この映画についても、全員助かったという事実は既にわかっているので、そこを勝負どころにしないのはわかります。であっても、「その生死のかかった極限状態」のほうが映画として吸引力があるので、その後のドラマについてあまり逼迫感を覚えられなくなる。
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 この映画において最大のコンフリクトは、「事故当時の機長の判断は正しかったのか、それを調査委員会が調べる」という点にあって、そこをクライマックスに持っていくわけですが、映画を観るときに大切な「どうなってしまうのか」感が弱い。最悪の場合でも、命までは取られないわけですし。
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でねえ、調査委員会の公聴会に呼ばれるんですけども、そこのやりとりがどうも緊迫しないというか、「そんなの最初の段階でちゃんとしておけよ」という内容なんです。

 調査委員会は「コンピュータなどでシミュレーションしたところ、機長の判断は正しくなかった、あれは問題だった」みたいにして話を進めるのですが、そのシミュレーションの部分が、まったくのド素人であるぼくにもつっこみどころ満載なのです。トム・ハンクスがそこを突いて、相手側は簡単に「確かにそうだ」となっちゃうので、緊張感に乏しい。
要は「シミュレーションと現場での判断は違うんだ」ということなんですけど、その手のことは他の物語やなんかでも散々に言い尽くされているし、新鮮味がないのです。
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 どこかでトム・ハンクスが追い込まれればまた別なんです。査問する側が痛いところを突いて、トムが窮地に立たされて、それでも新事実が発覚して、みたいなことがあれば映画に綾がつくと思うのですが、いかんせんそういうことでもない。
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 もちろん、実際の事故に対する機長の判断には敬意を表するし、そういう出来事を映画という形で世に広めるのは価値のあることだと思う。当時の出来事について、映画という表現で歴史に残しておくべきだろうとイーストウッドが思ったのなら、なるほどそれはその通り、と思う。ここで申し上げているのはあくまで、ひとつの映画として観たときにどうなのや、ということです。何も大袈裟な脚色をせよというのではないし、人間ドラマをゴテ盛りにしてほしいのではないけれど、構成やコンフリクトの部分では、映画的魅力をぼくはさして感じられませんでした。このつくりなら、ドキュメンタリーで観たほうがよほどいろいろわかりそうだな、と思わされる。

 うーむ。
 いろいろ書いたのですけれども、タイミングやぼく自身の成熟度の問題もあるかなあとは思います。イーストウッドほどに老成した名監督が描いたものを、ぼくごときではきちんと味わい切れてないという部分もあろうかと思います。「もっと塩味がほしいだって? 若いねえ、この味がわからないとはねえ」とイーストウッド監督に言われたら、しゅんとして俯いてしまうかもしれません。現にぼくは最初、『グラン・トリノ』の味わいがわからなかったのですけれども、あとになって最も好きな作品のひとつになりましたから。

 もっと年をとったときに、あらためて観るべき映画なのかもしれないなあと思います。


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面白いから怖い映画。
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 原題『Er ist wieder da』 意味:「彼が帰ってきた」

現実社会を照らし出した作品というのはぼくの好物の一つであります。身の回りのうんぬんやら人間関係やらを描くドラマもそれはそれでいいのですが、やはりこういう突飛な発想で社会を描く作品は、ぐっと身を乗り出して観てしまいます。
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 原作小説が本国ドイツで大ヒットしたコメディ映画ですが、コメディといってもモチーフがヒトラーでありますから、そこはどうしても難しい問題を孕むわけですね。コメディでありながら社会の木鐸たりうる点において、希有な作品であります。
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原作は未読のため、映画だけについて話しますが、「どうしてヒトラーが現代に来たんだ」という部分は完全にオミットされており、これは正しい判断ですね。そこは完璧にどうでもよくて、この突飛な事態がどのように影響を与えていくかに着眼しきっている。
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 ぼくはドイツの社会状況についてとんと無知なので、いろいろと驚かされました。
 公共の場でヒトラーの格好なんぞをしていたらもっと剣呑な騒ぎになるのかと思いきや、けっこう好意的なんですね。半分ドキュメンタリーっぽいつくりなんですけど、スマホで一緒に記念撮影を求められるような乗りだったりもするし、こういう風景はそれだけでスリリングな映像といえます。
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 ドイツにおけるナチスの扱いは今もそれなりに厳しいものなのでしょうけれど、市井の受け止め方や印象というのは戦後七十年の中でどう変化したのか、みたいな話はまるでできない当ブログですが、そういうことを否応なく考えてしまいますね。本作ではヒトラーのモノマネ芸人であるとして、人気になっていくんです。本人は至って真面目だけれど、その真面目さが面白い、みたいなリアクションなんですね。この辺は実際のドイツ社会を知っていたらもっと面白いのだろうなあと少し悔しくもなるところで、どの程度笑っていいのか、と戸惑ってしまう部分もあるし、その戸惑いを惹起することがこの映画独特の魅力なのでしょう。で、映画的にも「笑えるライン」みたいなものを意識していて、「ユダヤ人ネタは笑えないよ」とさりげなくチェックを入れているんですね。そこに触れるともうコメディアンたり得ないわけで、でも触れざるを得ない局面も出てきて、このバランス感は実に興味深い。
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 ヒトラー、そしてナチスという表象は実に複雑というか、複雑だからこそ困った存在とも言えますね。少し前にも、秋元康の娘たちがナチスっぽい衣裳を着ていたというかどで怒られていましたけど、かの組織の意匠には今もなお通ずる「格好良さ」みたいなものが残ってしまっている。制服なり何なりでね。あるいは劇中でも出てきますが、ヒトラーは演説の名手だけあって、人々を惹きつけてしまうんですね。ここが怖い部分です。ある面で格好いいし、ある面で魅力的。それでいて彼らのやったことが百パーセント、何から何まで間違っていた、と断罪はできない。その時代のドイツにとっては魅力的な主張だったからこそ、人々を味方につけた側面があるわけで、それは現代の移民社会うんぬん、経済状況うんぬんとなんら無関係ではない。
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 ヒトラーというのは天下の大罪人だし、彼が劇中、いろいろとコミカルな出来事を引き起こしていても、やっぱりどこかで「それでもこいつは極悪人だよなあ」と思いながら観てしまうんですけど、最後に登場人物の一人と対峙する場面でははっとさせられました。 自分を選んだのは民衆じゃないか、というね。
 結局そこに行くんですね、うん。
 
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 現代の日本においても、あの首相は駄目だ、この政党は駄目だというのがあるわけですけど、それを選んでいるのは有権者っていう部分から逃れられないというか、こればかりは民主主義自体の宿痾なんですね。国民が主権者である以上、最終的な責任というのは政治家ではなく、国民にあるわけで、ヒトラーなり首相なりを断罪しても、本質的な部分では解決しないんです。ヒトラーは劇中、「自分がこの時代に来たのは神意だ」みたいなことをいうんですけど、実在した彼自身もまた、ある種の神意というか、彼自身では制御できないうねりの中に身を置いていたんじゃないか、ともちょっと思う。
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 どうしようもない災禍を引き起こした張本人だし、その思想は実に許し難いものであったけれど、実際のヒトラーはヒトラーで、抗いがたい何かに飲み込まれていたんじゃないかとも思うわけです。そこは本当に、わからない部分ですよね。彼はユダヤ人虐殺を主導したわけですけど、どの程度の気持ちでいたのかって、深い部分では計れないものもある。口先では強いことを言っても内心では「ああ、そんなつもりじゃなかったんだ。でも周りに宣言した手前、もうつっぱるしかない」という逡巡があったかもしれない。演説では力強い言葉を吐いているけど、その役割を演じきることでしか身が保てないようになっていたのかもしれない。なんてことを、このコメディタッチの作品を観ていると少し考えてしまうわけです。歴史上の記録とか文献などでは想像しきれない部分、人間ヒトラーの部分ってのも、あったんじゃないかというね。
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 彼という表象を通して映し出される現代社会も実に興味深い。そこを認知症の老人が喝破するんですね。彼の訪れで過去を思い出したユダヤ人の老婆が、「最初はみんな、笑っていたんだ」と強い一言を放つ。あの一言によって映画全体、あるいは映画を観る者が暮らす社会全体までが照らされるし、劇中で原作本が売られているメタ構造も意義深い。
 相当に気を張っていないと、社会なるものにぼくたちはいともたやすく飲み込まれてしまうんだろうなと、つくづく感じます。まさに先日の都議選でもひしひしと感じた。政治家の人間性とか思想とか政策とかそんなものを多くの人間は吟味しない。マスコミが煽る対立構造やスキャンダル、もしくは「何かやってくれそう」という漠然とした期待だけでも、社会は大きく変わりかねないわけです。
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 コメディの皮こそ被っていますが、この映画、この作品はちょっとやそっとじゃないぞ、と思わせる優れた批評性を帯びています。その作品内部ではなく、むしろこの社会そのものに対して目を向けさせてくれる。ヒトラーという存在に宿る緊張感が、「ブラックコメディ」という枠を超えさせる。まだまだだらだらと、いつまでも語れそうです。語りたくなる映画はいい映画なのですが、果たして「いい映画」と言ってしまっていいのか。そんな迷いを抱かせる、ある意味ではとても怖い作品と言えましょう。お薦めであります。
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ぼくは、じじいのほうに感情移入していました。
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 最近のホラーテイスト映画としては、わりと話題になった作品です。
 三人の若者が盲目の老人の家に強盗に入り、返り討ちにされてしまうという内容なのですが、これは見方によってだいぶ楽しみ方、楽しめる度合いが変わってくるかなあとも思いますね。ホラーみたいな売り出し方をしていましたけど、そのハラハラドキドキは個人的には得られなくて、むしろ別の面でハラハラしていた、なんてこともありました。ネタバレが嫌なら読まないように。
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 三人の若者はもともと、空き巣みたいなことを繰り返しているんですね。で、主人公格の女性、ロッキー(ジェーン・レヴィ)には娘がいて、なんかそんなに健やかな生活ぶりではないのも明かされる。次の強盗を最後に、娘と旅立つことを計画しています。
 そして仲間の男が新たな標的として、盲目の老人の家に当たりをつけるわけです。深夜に三人で乗り込み、密かに窃盗を企むのですが、そこでばったり相手に鉢合わせてしまい、そこからがさあたいへん、てなもんです。
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ホラー映画の基本的な構造というのは、主人公と、それを襲う何者かがいて、主人公はあの襲撃者相手にどうなってしまうのだろう、ハラハラ、みたいな形をとるわけですね。観客は主人公に感情移入することで、その恐怖を一緒に味わうというのがオーソドックスなあり方でしょう。
なればこそ、僕はちょっと戸惑ってしまいました。というのも、この映画の主人公たちにはまったく共感できないし、盲目の老人(スティーブン・ラング)が可哀想というか、そもそも障害者を障害者と知ったうえで標的にするというその構造自体があまりにも下卑きっているので、この主人公どもがどうなろうとまるで知ったことではなく、むしろさっさと殺してしまえ、頑張れじじい、という風にしか観られなかったのです。じじいはじじいですごく怖いはずですよ。侵入者がいるのがわかって、けれど姿が見えないわけですからね。
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少なくとも途中までは、このじじいは別に悪人でもなく、静かに暮らしているだけなんです。そこにわざわざ入り込んでいって、金をむしり取ろうという人間はむしろ死ぬべきであって、ぼくは完全にじじいサイドで観ていました。というか逆に、どうしてこの主人公に感情移入できるのかがわからないです。ロッキーは幼い娘の母親で、金を必要としていてとか理由付けしてるんでしょうけど、だからといって視覚障害者を標的にするなど最低でしょう。盲目のじいさんと思っていたら実は強くて、ヤバイ、殺される、ハラハラってな感じで進むんですけど、そんなもん勝手に家宅侵入して家の中めちゃくちゃにしてるやつは死ね、ということに過ぎません。あのじじいの家にあるお金は、事故の示談金なんですよ。娘が死亡事故にあって、その示談金として払われたお金です。それをむしり取ろうという主人公どもを応援できるほど、ぼくは邪悪な人間ではないのです。
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 一方、老人も身綺麗ではありませんでした。途中でね、この老人の狂気ぶりが明らかになるんです。実はこのじじい、一人の女性を拉致監禁していたんです。じじいは娘を交通事故で失っているんですが、その事故を起こした女性を拉致して、あろうことかその女性に子供を孕ませ、死んだ娘の代わりを生ませるのだ、みたいな計画を立てていたのです。

 こうなるとじじい応援団を自認していたぼくとしてもなかなか応援しにくいところです。主人公たちはその女性を逃がそうと試みて、主人公的な「いいやつ感」を出してくるんです。でも、ぼくはやっぱりじじい応援団です。主人公がいいことをしたとしても、最初の動機が邪悪ですし、途中でその女性は死んじゃうし(あいつらが来なきゃ死なずにすんだかもしれないのに)、こうなったらもうじじいには主人公どもを殺してもらうよりありません。
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 で、いろいろあってロッキーはじじいに捕まります。前にいた女性のように拘束されてしまいます。というかね、人間性が疑われるようなことをぼくは言ってしまうんですけどね、正直なところもうぼくはこのロッキーが嫌いですから、じじい、レイプしてしまえと思って観ていたんです、はい。

なんてことを言うんだ、女性の敵だ、反社会的人格だ、と思われるかもしれませんけど、あのー、そもそもロッキーは勝手に侵入してるわけですからね。場合によっては強盗として、あのじじいに暴力を加えることも辞さないという立場だったわけですね。そういう女がレイプされようがどうなろうがぼくは知りませんというか、まさしく自業自得なんです。障害者を標的にしたクソ最低の犯罪者のくせに、いざとなったらか弱さだの、女性としての尊厳だのを持ち出すみたいな態度には賛同できません。暴力の現場に自ら飛び込んできたくせに、女性だからどうのという言い訳は一切通用しません。最初に襲撃したのはロッキーサイドであって、自分勝手な強盗女はレイプされればよいのです。娘がいるとかそんなのはまったく関係ないです。不当に金を儲けている人間を襲うとかならわかりますよ。でもあのじいさんの家を襲う正当性がありますか?
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 しかし実際、レイプは成らず、残念なことにロッキーは逃げおおせてしまうんですね。
映画としてはまあ、このロッキーが生き残れるのかどうか、ハラハラという展開で進むわけです。最後にはじじいを撃退して、みたいなことで終わります。金すらも持っていった模様です。あの女がじじいの家の金を得る正当性がどこにあるのでしょう。幸いにしてじじいもドーベルマンちゃんも無事だったようなのですが、女はそのニュースを何かおののくような表情で見つめていたりします。なんやねん、です。
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短い時間で凝縮し、限られた空間で次々とタイトに物事を起こしていく点であるとか、あるいは盲目の存在を敵の位置に配したことでこれまでの映画ともまた違う面白みを出してる、という点はもちろんわかるんですけども、ホラー的に感情移入するのは難しい映画でした。というかむしろ、ぼくの感じていたのはもっと嫌なハラハラというか、「この映画、もしかして被害者であるはずの老人が痛い目に遭って、クソ襲撃者の女が生き残るとかそういう展開になるんじゃないだろうな、なったら嫌だな、ハラハラ」と感じていて現にその通りになったのでちっともカタルシスがありません。
ぼくとしてはむしろ『SAW』的な絶望性があったほうがいいというか、どうせならじじいが勝利し、ロッキーを拉致監禁のうえでレイプし、子供を孕ませてその悲鳴の中でラストを迎えてもらい、別宅に取り残されたロッキーの娘は何も知らずに暮らしている、くらいのアンハッピーラストのほうがしっくり来るし、というかそのほうが「強盗をしては駄目だ」「障害者に対する犯罪は許されない」という倫理的メッセージを放てるからむしろハッピーエンドじゃないか、みたいなことを考えたりもします、はい。あれだと、「視覚障害者を標的に強盗を働いた女が、結果的にうまく逃げおおせた」というクソみたいなラストでしかないので、むしろぼくのアイディアのほうがよほど道徳的とすら言えましょう。そうした点で、非常に胸くその悪い映画であるとも言えましょう。


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深いテーマが配合されている。描ききれてはいないけれど。
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 ずいぶん前に一作目を観たと思っていたのですが、もしかしたら観たつもりでいただけで初見だったかもしれません。二作目、三作目は観ていないし、そんなに惹かれずにいました。監督の二人は現在、性転換手術をしているので「姉妹」と書くべきかもしれませんが、公開当時はまだ男性名で活動していたので、「兄弟」と書いておきます。

 さて、昨今いよいよ市場に花開くVR=仮想現実ですが、その種のテーマの代表作といえる作品ですね。この現実は本当に現実だろうか、というのはそれこそ古代中国の胡蝶の夢、邯鄲の夢などで言及されてきた哲学的な主題。現実を疑う作品として思い出したのはフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』、それを原作とする『トータルリコール』。このテーマって、言ってみればあらゆる題材の中で、いちばん大きな枠組みの問いですよね。歴史を改変する大事件とか、宇宙を巻き込む大戦争とかよりもはるかに大きい。「ここに存在する自分自身」というものを突き崩す話ですから。

 この手の話には答えがないのですが、自分の実存がふと遊離するような感覚というのは、稀に訪れるものです。あれ? 自分はなぜこの自分なのだろう? 自分の名前で自分は呼ばれるけれども、なんで自分はその名前で呼ばれるのだろう? 自分は今ここにこうしているけれども、ここにいない選択肢もあったんじゃないか? 
 小沢健二が『流動体について』で歌っていたように、「並行する世界の僕は、どこら辺で暮らしてるのかな?」と思う瞬間があったりわけです。あり得ないと知りつつも、街のどこかで別の生き方を選んだ自分に会うこともあるんじゃないか? なんて空想してみたり。

 もっとも、劇中ではそこら辺をそんなに深くは踏み込まず、あくまでアクション映画のストーリーテリング。その点に物足りなさを感じた部分もありますが、この作品はもうひとつ、ふたつのテーマも含みこんでいるので、重層的なつくりと言えるかもしれません。

主人公のキアヌ・リーブスは「現実とされる世界」において、トーマス・アンダーソンとして暮らしています。「本当の現実」ではネオと呼ばれます。「現実とされる世界」は普通の世界なのですが、「本当の現実」ははるか未来、荒廃しきって機械が支配する世界。今までは機械のつくった現実の中を生きていたというわけで、そこから「目覚めた」ことで大冒険に出るはめになるのです。

 観ながらわかったもうひとつのテーマは、『失楽園』です。イギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『失楽園』は近年ならあの『ダークナイト』に通底するモチーフで、日本のアニメ映画ではそのまま『楽園追放』なんてのもありました。
 要するに、「天国で奴隷でいることを選ぶか? たとえ地獄行きでも自由を得るか?」という問題です。「自由」というのを「尊厳」に置き換えると、また別のテーマになります。「組織に従っていれば生活は保障されるけれど、組織の不正を知った以上は戦わなくちゃならない」なんてテーマなら、『セルピコ』とか『フィクサー』あたりが思い出深い。「たとえ賢明でなくても、自分はこの瞬間を戦わねばならない」という話なら、何よりも『ロンゲスト・ヤード』が思い出される。

 本作で言うと、機械の作り出す世界にいたほうが、幸せっちゃ幸せなんです。現実は悲惨きわまるものだし、だからこそ一人の登場人物は中盤、主人公たちを裏切って、仮想世界でいい思いをしようとする。劇中では悪役的に描かれているけれど、あれはあれで十分に取り得る選択ですよね。過酷な現実を生きるなら、支配されても幸せを選ぶというのは、この社会でぼくたち自身が選んでいる生き方でもあるでしょう。本作はハリウッドのアクション映画ですから、そこを掘り下げられなかったんでしょうけれど、あの裏切り者も描き方次第では別に、悪人ではないんです。

 映画の性質上はしょうがないのですが、そこに食い足りなさを感じたのはあります。キアヌ・リーブスは独り身で、ぜんぜん冴えない生活を送っている設定ですが、もしもあれが幸せな家庭を築いているマイホームパパだったらどうか? その幸せな家庭を捨ててまで、あの過酷な現実を生きる価値はあるのか? そういう問いに直結しますよね。まあそれをやっちゃうと観客の共感を得がたくなるので、できなかったのでしょう。でもぼくが観たいのはそっちの葛藤でした、本当を言うとね。

だから見方を変えると、本作の主人公たちって危ない人たちなんです。いわゆる「目覚めちゃった人たち」なので、新興宗教、新左翼的なにおいがしてくる部分もある。「この世界は間違っているのだ! 自分たちが世界を導くのだ!」的な人たちとも言えます。そうならないように、エージェント・スミス側の悪意を設定してはいるのですが、考えてみるとけっこうぎりぎりですね。

 映画の主人公は一応、観客の共感を得るように設定されるのが常道だし、ハリウッドのアクションものなら余計にそうだと思うんですが、この映画はいろんなものをどうにかこうにか固めたうえで、ようやっと共感に足る主人公にしている。キアヌ・リーブスに対して、無邪気に頑張れと言える人は、実はこの映画をちゃんとわかってはいないでしょう。だって、もしかしたらあの船に乗っている人たちのほうが、仮想現実側なのかもしれません。現実を疑う構造であれば、彼らこそが世界を崩壊させようとしている悪魔団の可能性も、完全には排除できない。うん、この手の映画では原理的に、キアヌ・リーブスを絶対善にはできないわけです。そう考えると深みが出てきますね。

 あと、描かれた大きな問題として、『ゼイリブ』問題があります。ジョン・カーペンター監督の映画で、本作にも影響を与えたそうです。あの映画では、異星人が普通の人間として入り込み、人間になりすまして世界を営んでいるんです。悪の陰謀が隠されてはいるんですけど、一応それで表向き、世界は成立している。あの映画のラスト、主人公の活躍で宇宙人の正体が暴かれ、なりすました姿からもとの醜悪な宇宙人に戻るシーンがあるんですけど、それを観てぼくははっとしたんです。悪の陰謀を暴いたとして、責任取れるのか? というね。

 この世界には確かにいろんな悪がある。不正義や不公正さがある。もしもなくせるならそれに越したことはない。けれども、その悪や不正義や不公正さのうえに今の社会はあるわけで、もしもそれらを取り除いたら、社会は混沌としてしまうのではないか? その場合の責任を取れるのか? なんてことも、ちょっと考えるんです。保守と革新の政治的テーマにも通じます。本作でも、一応はあの機械の世界で幸せに暮らしている人もいるはずで、主人公たちがその秩序を乱す側という見方も、成立しはするんです。永久に騙してくれるならそのほうがいいってこともありますからね。真実を暴かないほうが幸せってこともある。この辺の問いはロバート・レッドフォードの『クイズショウ』でも考えたことです。

 映画の中身から離れすぎている感もありますが、作品それ自体の面白みは、特段痺れるものでもなかったです。本作が後世に与えた影響もあるでしょうけれど、今観ればちょっとアレだな、という部分もなきにしもあらず。いちばん引っかかったのは、ネオが銃弾で撃たれまくって一度は死んだのに、「救世主である」というその一点をもって復活してしまうところです。なんじゃそら。現実現実言っておいて、その肝心な部分はぜんぜん現実的じゃないんかい、とつっこみたくなる。ヒロインの「あなたは救世主よ」的な囁きで復活するなら、今まで何を見せられていたのか。そうなるとこの映画で言う現実なるものが疑わしくなるし、あれはアリなのか。チートキャラがちと過ぎやしないか。続編で明かされるのでしょうけれど、この作品を観る限りはそうとしか言えない。ところで、「目覚めちゃった人」たるネオによって、ビルの警備員さんはかなり殺されているのだけれど、彼らに何の罪があったというのか。

 そう観ていくと、主人公=新左翼・新宗教系テロリストのにおいはどうしても残る。預言者に出会うくだりもただ「預言者に会う」というだけのために行動しているので、映画の流れがくたっとして感じられました。

と、文句を言いたい部分もあるのですが、深いテーマをあれこれと含みこんでいる映画であるのは間違いないわけで、映画そのものよりもむしろ、映画を観ながら感じたこと、ふと考えたことを楽しむほうが、多少はオトナな見方と言えるかもしれません。まあ、そんなところで。


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アクションの脚本としては実に正しい。しかし、設定に致命傷。
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物語の面白さは、規模に比例しない。
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嘘というのは、それだけで物語。
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惜しい点は多々ありますが、程よく楽しめました。
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多幸感系。切なさはスパイス程度で。
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