カテゴリ:アニメ( 38 )

この作品は、これでいい。
d0151584_19181550.jpg

 かなり話題になり、評価も集めた漫画ですが、ぼくは未読でありまして、「聴覚障害者の出てくる作品」という以外の予備知識はほぼゼロで観ました。観終えた後で知ったのですが、絶賛している人も多い一方、町山さんはキャラクター造型に否定的な話をしていたりするようです。まあ、うん、そこはまあわかるかなというのはありますが、うむ。
d0151584_19302044.jpg
 序盤は小学校の話です。主人公の将也のいる学校に、聴覚障害者の西宮硝子が転校してくるところから話が動き出します。最初は物珍しく受け入れていたのですが、硝子がだんだんといじめられるようになり、そのいじめが発覚してから将也は暗い人生を送るようになってしまい、そのまま物語は高校時代へと移行します。
d0151584_19302319.jpg
 高校生になった将也は小学校時代とは対照的に暗い毎日を送っており、自殺まで考えるほどに落ち込んでいます。一方、過去の体験ゆえか手話を習ってもおり、手話教室に出向いたところで硝子と再会し、話の本筋が動き出していきます。
d0151584_19303374.jpg
d0151584_19302801.jpg
 この映画はいい映画か、そうでないか。
 賛否もあるだろうと思いますが、ぼくはその賛否を招いたことひとつをとっても、いい映画なのだろうなとは思います。この映画を観た後で、よくないところもいろいろ語れるだろうし、一方で美点も大いにある。観た後でいろいろ語れる映画は、総じていい映画でありましょう。
d0151584_19303016.jpg
 アマゾンの★レビューなどを観る限りは実に3分の2が5つ星を挙げているくらいですし、アニメファンの勘所を押さえているのもウケた要因だと思いますね。ラノベでは既に「テンプレ」といえる設定でしょうが、主人公は孤独な高校生であり、自分を慕ってくれる無垢な美少女がおり、母親は「姉貴かよ」とつっこみたくなるほど若々しく、それでいて父性的存在=大人は希薄に描かれている。ついでに、これまた無垢そのものの可愛い幼女キャラがおり、生意気系の妹キャラやツンデレな(そしてヤンデレっぽくもある)元同級生、博愛主義のクラスメイト、無害にして善良な友人などを配合。「こういうの好きだろ」っていう設定を的確に突いている。ベッタベタに手垢のついた日常設定に障害者という「異物」を埋め込みつつ、青春を描く。きわめて周到です。
d0151584_19303474.jpg
 このように言うと突き放したように聞こえるかも知れませんが、違います。アニメファンや漫画ファンを引きつける王道をきちんと押さえているね、ターゲッティングがしっかりしているね、ということです。見習うべき部分が大いにあるのです。

 障害者を描くということは、何につけその描き方が議論の的になるものですが、本作については町山さんが疑義を呈していました。いわく、西宮硝子を綺麗なもの、か弱いものとして描きすぎではないか。障害者だって陰の部分はあるわけだし、障害者を綺麗なものとして描きすぎることは、むしろ彼らを遠ざけることにならないか。障害者の人間性を描けていないのではないか。というような話でした。

 確かに本作の硝子は、綺麗でか弱い存在なんですね(原作は未読なので、映画についてのみ言及しています)。小学校でいじめられても不満そうな顔をしないし、周りから嫌われても暗い顔を見せない。臆病かつ美しく、将也に想いを寄せている。小学校の教室で将也につかみかかる場面はありますが、高校生時代には妹と喧嘩するくらいで、外に対しては陰の部分を見せません。町山さんは、登場人物の少女・植野の怒りに同調を見せつつ、硝子の人間性が見えづらいと指摘しています。

 障害者をモチーフにした映画において、本作の描き方は是か非かということです。

 うーん。

 ぼくなりに思うこととしては、この作品がどの層を狙っているかってことですね。そして、現在の日本における障害者のあり方ってことにも絡んでくると思います。

 上述したように、本作はアニメファン、漫画ファン(ないしラノベファン)、つまりはその種の若者向けの作品として、ツボを押さえています。そして現にウケている。であれば、西宮硝子の人間性を微細に描く、陰影をつけて描くというようなことは--身も蓋もない言い方ですが--マーケティング上、不要なんです。
 これは思うに、「文学を観たいか、アイドルを観たいか」ということでもありましょう。町山さんは文学を観たいと思った。そこにある障害者の人間性。社会や人間関係に対する不満。利己的な部分。打算的な部分。そうした負の部分をも含みこむ文学性を求めた。
 かたや、多くのアニメファンにとって必要なのはアイドル性でしょう。
 主人公に食ってかかるヒロインは可愛くありません。『あの花の名前を僕たちはまだ知らない』におけるめんまがそうであるように、主人公に対しては無償の愛を注ぐか、ないしは主人公にとって適度に都合のいい人物であってほしいのです。利己的で打算的な、人間くささなど要らない。いや、まったくないのも退屈だ、ちょっとだけあればいい、無害なレベルでスパイスを利かせてくれればいい。それがアニメや漫画における、人気ヒロインというものです。
d0151584_19304246.jpg
 だから、本作としてはこれでいい。裏を返せば、本作はあくまで本作のレベルに留まる。高校生の母親なのに20代にも見えてしまう金髪の母親が典型。重んじられているのはリアリティよりもアニメ的心地よさです。もしもリアルな障害者像を本作が求めるなら、あの母親だってもっとリアルに描きます。登場人物のリアリティラインがそうなるでしょう。でも、本作はそういう作品ではないのです。
d0151584_19303629.jpg
 なんだかんだ言ってくさしてやがるじゃないか、と思われるなら、くどいようですが本当に違います。そういう作品だからこそ、広い人気を集めたとも言えます。そして、広い人気であるがゆえに聴覚障害者への関心が高まり、理解が少しでも深まるなら、それはいいことです。
d0151584_19304401.jpg

 感動ポルノなんて言葉もありますが、現代の日本はおそらく、「障害者のリアルな姿」「障害者の人間性」などに興味を持つほど、障害者に関心がありません。残念ですが、そういう状況です。東京オリンピックに関心が集まれど、パラリンピックは大して盛り上がらないでしょう。障害者が健常者と同じレベルまで努力する姿は「感動」を呼ぶけれど、健常者を超える能力を持つ障害者には興味がない。健常者が上、障害者が下。健常と障害という言葉もまた、その認識を保ち続けます。障害者雇用を中央官庁が水増ししていても国民は大して怒りを持たず、残虐きわまりない差別的殺人も風化していく。
d0151584_19302640.jpg
 いい悪いではない。日本の現状はその程度だということです。なればこそ、まずは障害者の存在に興味を持てる題材を広めることが大事であり、ヒットのツボを的確に押さえる作品は大切にしなければなりません。町山さんが期待する、細やかな人間性うんぬんにいたるのは次の段階なのです。アニメ好きな若者が本作を観て、障害者に興味を持つことがあるならそれでいい。障害者という存在を遠巻きにではなく、アニメキャラを通して身近に感じてくれたり、好感を持ってくれたりしたらそれでいい。西宮硝子は終盤で自殺を図る。その悩みの片鱗を見せることができればそれでいい。この作品は、社会的役割を十分に果たしているのです。硝子の拙い喋りが聴覚障害ゆえの響きでなく、可愛さを帯びるのならそれもいい。
 
d0151584_19303975.jpg
 この作品は、町山さんが期待するほどの水準にある作品ではない。
 ただ、日本の現状を鑑みる限り、それでいい。

 褒めてるんだか貶してるんだか最後までわかんねえな、と思われたかもしれませんが、多少なりともいい年をこいてくると、この手の青春譚に諸手を挙げてワッショイする気には到底ならないものなのです。むしろ、周りのことをあれやこれやと考えるものなのです。
 そしてそのうえで、ぼくはこの作品に対して、とても肯定的であります。


[PR]
クライマックスを活かせていれば。
d0151584_06205000.jpg


More
[PR]
そして、普遍的なものへ。
d0151584_05384326.jpg


More
[PR]
大変な快作を見逃しておりました。
d0151584_09081436.jpg

さとるさんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

More
[PR]
子供向けの発想を、大人にだって魅せるのがすごいのだ。
d0151584_16460609.jpg
notchさんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



More
[PR]
ぼくはもうついていけない、ということなんでしょう。

d0151584_19372320.jpg
 公開当時方々から絶賛の声があがって、うわ、こら難儀やな、乗れなかったらなんか嫌な感じになるな、と思って敬遠していたのですが、一応観ておこうと思って、まどかマギカ。

結論から言うと、個人的にはちょっときつかったです。乗れませんでした。これはですねえ、ぼくもおっさんになったなあと思いますね。あのきゃぴついてる感がそろそろきつくなってきたんです。カロリーが高いというか、胃もたれするというか、そんな感じです。大学生くらいの頃は、おじさんたちがいうところの「この年になると肉はもういいね。魚だね、うん」的な発言を完全に他人事として受け流していたのですが、なんかそれがわかるんです。「男子の夢想する、女子たちのお喋り」みたいなもんを観ているのがもう辛い。ラノベ的な、恋愛要素のないハーレム的部室感がきついんです。作品がどうのこうのじゃなくて、今のぼくには糖分が高すぎる。若者ならばまだしも、ぼくより上の世代の識者とか通人みたいな人がこれを観て耐えられるのがある意味羨ましいです。若々しいと思います。

あとはあの劇団イヌカレーによる描写もぼくには辛い。カロリーが高い。
 結局ぼくは、『哀しみのベラドンナ』に撃ち抜かれっぱなしなんです。あの抽象表現をどうしても思い出すので、今回のような足し算スタイルにはどうしても乗れなくなる。
 ここで前に述べたことです。そこから前に進めていない感じがしてそれが自分でも辛いんですけども、結局「昔感じたあの鮮烈さ」を超えてくるようなものじゃないと、エレクトしないんです。「あー、これは確かに凄いけれども、あのときのあれのほうが凄かったよなあ」になってしまう。

 正直なところ、偏狭と言われるのを覚悟で申すならば、「『哀しみのベラドンナ』に勝てるアニメ表現なんか無い」とさえ思ってしまうのです。理由は簡単で、あの作品が想像力に訴えてくるから。今日までのアニメ技術の発展による緻密な描き込み、高画質、高精細のどうたらこうたら。それは確かに凄いけれども、所詮はすべて視覚への訴え。『哀しみのベラドンナ』が違うのは、あえて視覚的要素を減らすことで、こちらの想像力に訴えてくるからなんです。足し算をいくらやられても、引き算をつきつめたもの以上の感動を得られないのです。

 で、どうでもよくなっちゃったんです。
 足し算をされればされるほど、ああ、どうでもいい世界のどうでもいい話だなあ、感が迫ってくる。その意味では『エヴァQ』で感じたものと同じです。「こいつらがどうなったところで俺はもうどうでもいい、何なんだこの世界は」という感覚が、キャンディなものを描かれれば描かれるほど強まってしまった。なんでこんなに、足し算をするんだろうって、冷めてしまった。チーズ! カマンベール! とか、あの辺のノリと作為性。

 若い人はいいと思うんです。若い人がこれを観て、おおお、と思うのはとても正しいと思う。ぼくも十代や大学生なら、あのほむらとマミの対決のシーンとかで興奮していたと思う。でも今のぼくは、なんかぺらぺらだなあ、と感じてしまう。「ああ、こいつらはどうせどっちも死なない。なぜならこの世界はたぶんなんでもありだし。仮に死んでも、何か理屈をつけて蘇ったりするし」と引いて観てしまう。「いるか? その格好つけたポーズ」なんて思ってしまう。作為性ばかりが目に付く鼻につく。

世界に入り込めなかったのは大きいです。『エンジェルウォーズ』を観たときの感覚にも近いです。「魔女がつくりだした世界なの!?」とか驚くのもよくわからない。そもそもあんな世界、見るからに現実でも何でもないから、どんな世界でもどうでもいい。

で、後半から終盤で、ほむらがキュウベエと一緒になって、この世界はどうたらこうたらということを言い出すのですが、乗れなかった人間としてはもうきついだけになってしまった。というか、テレビ版に遡って、このまどマギという作品がちょっと嫌いになってしまった。

テレビ版の最後で、まどかが世界を救って、でもみんなに忘れられて、みたいな結末を迎えていたのですけれども、これがあらためてちょっと引っかかってきたんです。というのも、実につまらないことを言いますけれども(既に散々言っている気もしますけれども)、ぼくには「世界なんか、救えない」という諦念があるからです。いや、それは違うかな、言い方としてはこうかな。「あの程度の描き方で、世界を救った救世主的な立ち位置を取られても、愛おしくない」と思ってしまう。

 世界なんか、この作品では描かれていないんです。身の回りとか、ごく限られた登場人物が、デフォルメされた舞台にいただけです。キュウベエが「地球外の存在、観測者」として出てきてぐうっと広げてはいたけれど、この作品には実世界における人々の営みや歴史の連なりのようなものがなく、あくまでもぺらぺらの世界があるだけに過ぎないので、それを救ったところでそれがなんなのか、と非常に冷めた物言いをしたくなる。

「みんながまどかを忘れる世界なんて嫌!」などと言ったところで、結局のところぼくたちは皆忘れられていく存在なのです。百年、千年、一万年の歴史を考えてみれば、ぼくたちなんてどのみち死ねば忘れられる。そもそもこの現実世界において、一人の人間の人生など、世界にとってなんでもないものです。どれだけ狭い範囲の話をしているのや、と思います。それで世界を変える変えないみたいな話をされてもなあ、です。それを何を子供じみたことを言っているのか。すべては光の中へ消えていくというのに、あまつさえ愛がうんぬんと言い出す。もう本当にどうでもよくなる。

 いや、ぼくは「忘却」にまつわる話を否定するわけではないんです。ただ、その規模の問題なんですね。「身の回りにおける忘却」ならばぐっと来る話になると思うんですけど、そこでどうして「世界」に飛んでしまうのか。結局はこの話もまたセカイ系的なものに感じられてならない。ごく限られた人間の間で交わされる話が、世界の命運を握っているかのように論じられる。

「叛逆の物語」というより、「ほむらちゃんのどうでもいい話」として感じられてしまったぼくは、いやはやつくづく乗り損ねたなあと感じます。別のタイミングで観ていたら、きっともっと違う感想もあったのでしょうけれど、率直に言えば上記のような感じ方になってしまったのであります。もっと建設的な見方をするべきなのは重々承知ですけれども、今のぼくにはあまりにハイカロリー、糖分高めでありました。

[PR]
ディズニーが生み出すキュートの全力を、見た気がします。
d0151584_23335871.jpg



More
[PR]
久々に、何の構えもなく、面白いと言えるアニメに出会いました。
d0151584_2104569.jpg


 落語ものの話は何かないかなと探していたらこれを見つけて、しかし内容的には落語ほとんど関係ないやんけ、であって、それでいてすこぶる面白かったアニメであります。昨今のテレビアニメは気が向いたら見るという程度でぜんぜん詳しくないのですが、かなり久々に、素直に面白いと思える逸品でありました。『エヴァ』にせよ『ハルヒ』にせよ『まどマギ』にせよ、あるいは『あの花』とか、最近で言えば『悪の華』『進撃の巨人』とかっていうのは、どうしても何かこう、こちらを構えさせるところがあるわけですね。作品が放つ「やったるで感」に、こちらも身構えをしてしまうような感じがある。そういうことを一切考えずに楽しめたのがこの『じょしらく』であります。

 原作はあの『悪の華』や『進撃の巨人』と同じ『別冊少年マガジン』に連載されているのですが(なんと連載は次号で終わりだとか)、あまり原作には興味が湧かない、というか、なるほどこれはアニメだからこそ良いな、と思える作品です。漫画表現の旨味をさらに引き出しているのではないかと思います。
d0151584_2245390.jpg

 タイトル通りに女子の落語家の話なのですが、なんと実際の落語はまるで出てきません。各話のタイトルは古典落語をもじっているのですが、その内容をトレースしたような展開になるでもなく、楽屋で五人の登場人物がだべっているだけなのです。彼女たちの落語家風景は冒頭にちょっと出るだけで、修業したり稽古したりみたいな部分はまったくないのです。言ってみればストーリーはないに等しく、落語の知識はまったく要らない。そしてこれを見ても一切落語には詳しくなれない。それくらい開き直っているのが逆によい。テレビ版では『サザエさん』よろしく、独立した三話構成になっています。
d0151584_225665.jpg

そういうものをなぜ褒め称えるのかね君は、というと、笑いのテンポがとてもよくできているのです。アニメの特性をフルに活かし、画で見せる、テンポで見せる、音で見せる、というのが非常にうまくまとまっている。テレビアニメでこれだけきちんと笑わせてくれるものを、ぼくは本当に久しく観ていなかった。観ている間、とても満ち足りた気分になります。
d0151584_2252297.jpg

初回のほうで、「このアニメは女の子の可愛さをお楽しみ頂くため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。」というのが出て、原作でもそのようになっているらしいのですが、それだけを切り出せばいわば「ガールズトーク」ですね。そんなもん、女子のおしゃべりなんざこの俺が楽しめるわけがないだろう、女同士が喋ってることなんざ一ミリたりともおもろないんじゃボケ、と、笑いに関しては男尊女卑大爆発の価値観を有しているぼくなのですが、これはね、演出次第でとても面白くなるわけですね。
d0151584_2253988.jpg

そう、このアニメは演出がとてもよくできている。こういうガールズトークならいくらでも観られる。世間の似たようなお喋り番組も、こういうものに演出を学んでみるとよいのではないでしょうか。と言っても、この表現はアニメじゃないと難しい。だからこそ、アニメという形式がとてもよく行かされた作品と言える。ストーリーで見せるもの、その世界観で見せるもの、キャラクターの魅力で見せるものなど様々ありますが、このアニメはキャラのよさもありつつ、演出で見せている。その意味で非常に正しい。
d0151584_2255260.jpg

 キャラづけも非常にうまく行っていますねえ。五人出てくる(というかそれ以外はほとんど出てこない)のですが、各人が各人の色をもって、まるでガキの使いのごとくに、各様のボケになる。ある者がボケならある者がつっこみになる。コントがいつでも即席される。この空間は非常によいものです。
d0151584_226235.jpg

時事ネタやメタネタ、オタクネタなどをふんだんに配合しています。しかもわりとおっさん向けのものもあるんですね。今の十代わからんやろ、みたいなのもあったりして楽しい。ただひとつのフレーズで『ブレードランナー』を入れてみたり、それでこちらをにやりとさせたり、その辺の小気味よさ。あるいは作画に文句を言った人物が雑な作画になるなどのメタネタ。ぼくが一番好きな漫画が『魔法陣グルグル』なのですが、あれの遊び方を彷彿とさせるものがありました。
d0151584_2261536.jpg

 どんどん褒めますけれど、各回三話あるうちの二話目が、楽屋ではなくて外に出るんです。浅草とか築地とか方々を散歩する話で、その土地ごとの歴史とか豆知識などを織り込んでくる。ここがとても好もしい。楽屋では着物を着ているキャラクターがその回ごとに違う私服で出てくるというアニメ的、美少女キャラ的快楽を混ぜ込んでいるのもとても真っ当。細かいことですけど、五人のうち四人は成人だという設定もいいんです。何かにつけてマーケティングのため、登場人物の設定を十代にしてしまう昨今ですが、そこと一線画してちゃんと成人にしておくのは大変よいです。
d0151584_0155846.jpg

d0151584_2262870.jpg

めっちゃ褒めとるな、という今回ですが、この『じょしらく』にはちょっとびっくりさせられたことがもうひとつある。アニメでは一切落語をやらないのですが、実はCD版というのがあるんです。そこでは創作落語がしっかり収録されているのです(ぼくは「にこさうんど」で発見したのですが)。惜しむらくはアニメ版の声優ではない起用がされているところで、おかげで一人分は聴くに堪えぬのですが(どれのことかは言わずもがな)、この音声版にははっとさせられた。というのも、これこそが声優という仕事の最も効果的な使い方であるまいか、と思ったからです。

 声優というのは声を多用に変えられるし、演技力もある。ということは、落語というメディア、特に音声で聴く落語には実は一番適した方々でもあるのです。この点においては本物の落語家以上かもしれない。なぜなら本物の落語家は舞台で身振り手振り顔つきなどで見せる部分も込みでのプロですからね。声優の持つ特性は、それと勝負できるんです。で、このCD版の創作落語がこれまた面白いのです。
d0151584_016948.jpg

 創作落語ってどうしても広まりにくいというか、やはり落語と言えば古典だよね、ということになりがちなわけです。喧噪きわまる現代社会と、江戸時代のはっつぁんくまさん、喜六や清八の生きた社会ではあまりにも違うのです。現代版の落語だと言ってつくっても、サラリーマンと上司の会話で古典落語のようなものはできやしない。ここに現代の創作落語の難しいところがある。でも、アニメ的世界の声優的演技によっては、その困難をひょいと飛び越えることができる。実際にできているのです。
d0151584_23385070.jpg

 この方面で広がったらさぞ面白いのに、というものが詰め込まれているのがこの『じょしらく』なのであります。この作品についてはけなすべきところが見当たらないというか、とてもよく完成されているのです。連載は終了するそうですが、ぜひに第二期のアニメ版を期待するものであります。最終回の終わり方もこれまたなんか、やたらと格好よかった。このアニメをつくった人たちのセンスに脱帽、という感じでございました。

[PR]
途中で観るのをやめようかと思った一方、ある意味、三作の中で一番好きです。
d0151584_015730.jpg


半分世捨て人みたいな生き方をしているため世間とは映画の歯車もまるで合わず、いまさら『エヴァQ』なのかよと言われそうですけれども、まあエヴァの『新』自体がいまさら感のあるものだったりもするのであって、DMMからやっと届いた『エヴァQ』を観たなり。
d0151584_03661.jpg

 公開時には盛り上がっていたわけですけれども、その盛り上がりにぼくはちょっと「?」を感じていたのですね。というのも、やはりエヴァというのは90年代的な背景あってのものであるなあと考えているからです。

 テレビ放送開始が95年10月で、95年と言えば阪神淡路の震災とオウム事件でめちゃくちゃだった年。なおかつ世紀末が迫ろうとしている中での「新世紀」ものであり、崩壊した世界うんぬんというモチーフも見事にはまり、思春期的もやもやを抱えるタイプの主人公、碇シンジの造型も新鮮だった。社会学者やら精神科医やらが分析してみたり、宗教的なモチーフを探る研究本が出てみたり、エヴァというのはそれまでのアニメとはやっぱり違うもの、画期的なものとして映っていたわけです。

 平たく言うなら、90年代後半、エヴァの時代というのが確かにあったよな、という感じがする。20世紀アニメ最後の大発明だった気がする。そのような背景を思う中で、2010年代に入ってエヴァで盛り上がっている奴というのは何なのだろう、というのが、どうしてもある。
d0151584_035799.jpg

 当時を知っていて今でもエヴァエヴァ言っている奴にはまだ言ってるのかよと思ってしまうし、今の十代がエヴァが好きだと言ったところで君らはもうゼロ年代以降の感性の持ち主だよねと思うし、今このタイミングでなぜエヴァなのだという感がどうしてもある。
d0151584_041358.jpg

などと言いつつも、観終えてちょっとだけ考えてみたときに、ああ、これはこれでよいのだ、という風になぜか思えてきたの巻き、なんですね、うむ。
d0151584_032560.jpg

正直なところ、途中で何度か観るのをやめようと思う瞬間があったんです。あまりにもどうでもよくなったので。知らない人たちがわんさか出てくるようになって、もう世界はめちゃくちゃになっていて、人物は合理的な行動を取れずにいて、一体どこで動力が稼働しているのかもわからない世界があって、もはや90年代的な空気などどこにもなくて。
d0151584_03405.jpg

 やっぱりもう、今までの枠内で語るのは無理なんでしょう。監督も新しいことをやりたいのでしょうね。知らない人が出てきたり、今までの設定ひっくり返したりするのを観て、これならまったく新しいアニメをつくったほうがいいんじゃないかとも思ったのですが、まあそうは言ってもそれでは制作費も出ない。エヴァという枠組みを利用しつつ、最大限新しいものを描き出そうとしていたわけです。観終えてから考えると、その苦労みたいなもんがちょっと伝わってくるのです。
d0151584_044285.jpg

 観ている間はカヲルとシンジの薔薇的くだりがあったり、真希波のノリが今回もまた鬱陶しかったり、もうこんな世界になっているのならどうでもええわ感満載だったのですが、観終えてみるとむしろ、「どうでもよすぎて好きになる」という作用が脳内に生まれたのですね。
d0151584_045531.jpg

ある意味で「ポニョ感」があるんです。「ポニョ感」というのは、『崖の上のポニョ』がそうであるように、あまり肩肘張らずにぼけえっと観てたらおもろいやん、ということです。正直言って世界の崩壊がもうインフレを起こしすぎているため、まともに観る気が失せてくるわけですね。あの中で必死扱いてアスカが暴れ回っても、いや頑張れば頑張るほどに絵空事感が大きくなってくる。だからこれはその絵空事感を捉えて楽しんでいればそれでいいのであって、かつてのエヴァが持っていたような世紀末的な何事かなど、もはや論じるべき作品ではないのです。
d0151584_051642.jpg

 だいたいにおいて人物たちの行動に合理性がないわけです。大人や渚に言いたいのは、「シンジにもっと説明したれよ」ということです。なんだか思わせぶりに、大事なことは言わないぜ的に振る舞いすぎていて、そのせいでシンジがいろいろ引き起こすことになりすぎなんです。
d0151584_052887.jpg

 作品の構成自体が、大きなツカミを持っているわけじゃないですか。みんなびっくりしたわけですよね。あれ、ぜんぜん違うことになっているぞと。なんでミサトたちがあんな感じになっているんだ、萌えキャラ要素が足されたりしているんだと。で、シンジはこっちの訊きたいことをいろいろ訊いてくれるんですけど、そこでもなんかいまひとつ核心に迫った答えをしてもらえへんなといううちにまたぶっ飛ばされていく。ゲンドウはゲンドウで彼にちゃんと説明したったらええのにまともに会話しようとしない。過去作ではその辺がうまいこと行っていたんですけど、世界観が刷新されているからものすごく気になってくる。
d0151584_054296.jpg

 東浩紀も指摘していましたけれど、あの地下深くに行ったときに、シンジが暴走する理由がもうぜんぜんわからない。情報強者たるカヲルが土壇場で「やめておくんだ」と言っているのに、アスカも精一杯止めているのに、単にカヲルについてきただけみたいなシンジが勝手なことをするんです。アスカはアスカでアホなんです。もっと説明したれよということですよね。「馬鹿じゃなくてガキね」みたいなことを言うんです。でも、それは仕方ないじゃないですか、シンジは何にもわからないんだから。だったら大人が善導したれよという話なのに、理由も説明しないまま力尽くで止めようとしているだけ。なんじゃこら、です。

 宇宙戦艦がどこでどう出来上がったんだみたいなのは後の話で説明するかもしれないけど、ああいう人物同士の非合理的行動というか、頭の悪い行動が大変に困る。あの異常な世界を生き延びた人間なのだからさぞ切れ者に違いないと思いきやまるで最善の行動を取れない。これではまるで、最高のクオリティのアニメができるのに人間の行動的合理性が描けない、制作者のメタファではないですか。

 でもね、ぼかあね、今述べたようなこともどうでもええやないかという感じになっているんです。ポニョ感に満ちあふれた作品として受け止めています。あれだけ世界を緻密につくってきたのにそんな感じでいくんや、というわけで、まともに考える気があまり起こらない。見方を変えればとても楽しい作品です。勝手にしやがれ感が満載です。というか、ぼかあ碇ゲンドウがひげそりか何かのCMで使われているのを観たときから、ああ、もう世界観を守っていく気とかないんや、あの『リング』の貞子を始球式に使うノリなんだ、と思って、半ばどうでもよくなっている。
d0151584_055350.jpg

 まったく皮肉ではなく、新作が楽しみです。あんなにもどうでもいいものを、あのクオリティでつくってくれるというのは、なかなかあるものじゃないのです。皆さんも、批評性がうんぬんとか言うのはやめて、ポニョを楽しむときのように、アホみたいな顔をして観るのがよろしかろうと思うのであります。カヲルくんとシンジくんの関係がたまらないのよね! とか、たとえばそんな人たちと同じノリで。あるいは金曜の夜に「バルス!」とか言えちゃう感じのノリで。まさしく、これぞ新劇場版という感じなのであります。ある意味において、これまでの新劇場版三作の中で、ぼくはいちばん好きです。
[PR]
ある設定を根本的に変えていれば、素晴らしいものになったように思うのです。
d0151584_333881.jpg


 放送当時、好事家の間で話題になり、今年の夏には劇場版が公開されるということで、伊集院がラジオでちょいと触れていたのもあって、観てみました。

 あらすじをざっくり言うと、不登校の男子高校生のところに、何年も前に死んだはずの少女が現れるところから始まります。彼女の訪れをきっかけに彼はかつての仲間たちと再会し、死んだ少女への思いを通して再び皆が心を交わし合っていく、みたいな話です。
d0151584_23105892.jpg

うーん、久々なので加減がわからん。いや、これはですね、ぼくにはちょいときついところもありました。その理由はもう完全に明白で、ヒロインたるめんまのキャラクターです。あれはねえ、もういい年をこいてくるときついですね。だからもう、ぼくみたいなもんは端からお呼びでないというか、めんまについていけない人間は観ちゃ駄目なのかもしれませんね。あんな風な萌え萌え幼女的な感じで来られると完全に引いてしまうのであって、あるいは『ハルヒ』における朝比奈みくるのようにキャラづけに何か批評性があるのかと思いきや最後までそうでもなく、めんまがきゃぴきゃぴするたびに心がささくれ立ってくるという不健康な状態で観てしまったので、その辺がどうもあれなんですね、はい。
d0151584_2311977.jpg

 同年に放送された『まどかマギカ』も序盤は萌え風味が鼻につくなと思いつつも、結構物語的な部分とか魔女戦の演出とかキュウべえの謎とかがあったのでよかったのですが、今回はめんまがねえ、うん、ここについては後でちょっと掘り下げます。
d0151584_23111870.jpg

 あとは「デレヤレの構図」ですね。これは思いつきの造語ですが、ラノベやアニメに広く観られる構図です。冴えない主人公のもとに突如現れた少女が無償の愛を捧げながらデレデレし、一方主人公は内心惹かれているにもかかわらず村上春樹由来の「やれやれ」な態度を取る。アニメでは『うる星やつら』のラムちゃんがその金字塔ですが、それをいまだにありがたがっている状況含めて、ちょっと辛かった。
d0151584_23113487.jpg

 観終えてみると、めんまに引きずられたというか、持って行かれた部分がかなりあるなーというのが気になります。主人公と四人の仲間たちが出てくるんですが、彼らの造型というか、物語面がちょっと弱いように思いました。悪く言うと記号的にも思える。確かにそりゃクールなイケメンが女装したりというフックはある。でも、観終えて振り返るに、彼らのことをあまり長くは覚えていないだろうな、と思えてしまう。特に、ぽっぽとつるこは役割的な描かれ方が大きく、彼らの内面に踏み入れない。最終回で感情が爆発するのですが、それまでの話で重しが充分に機能していない。ぽっぽなんかは特にそうでしたねえ。最終回前まで、賑やかしの安定キャラでずっと行っちゃった。あれはどこかで伏線を張っておくべきだった。
d0151584_23114624.jpg

いろいろと文句を垂れてしまい恐縮なのですが、めんまに引っかかり続けていた人間としてはずばりこう思うのですね。賛同を得られる見込みの少ない、元も子もないことを言いますね。

 ぼくね、これはね、めんまの姿を見せないほうがよかったのではないか? という風に思うんです。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! めんまはあんなに可愛らしいのに!」

 ええ、だからもうね、めんまが好きだという人は読んでも意味がない話をするので、切り上げてくれて結構です。でもぼくは観ながら、ああ、これ、めんまの姿が視聴者にも一切見えていなければ、それこそすごいアニメになったんじゃねえかなあっていうのがあるんです。

視聴者は最初からあのとてつもなく可愛いめんまが見えてしまうわけで、主人公とずっと目線を共有することになるんですけど、その分、仲間たちが見せる当初の不理解ぶりを一切共有できない。先ほど、仲間たちの造型について述べましたが、それと繋がる話です。
d0151584_2312190.jpg

 勝手なことをあれこれ続けますが、これ、作り方としては、せっかく十一話あるのだし、他のメンバーを主軸の視点にして数話つくったほうが、深まったんじゃないかって気がしてならないんです。視聴者にも見えないようにしてそのつくりにすれば、もっと彼らに寄り添えた。あ、ネタバレをしますね。知りたくない人はここでやめてくださいね。
d0151584_23122121.jpg

d0151584_23123243.jpg

 ええと、続けます。
 そういうつくりにして、最後の最後にだけ姿を現せば、「みぃつけた!」が最高に活きた。あそこでみんなが見つけてもねえ、こっちは第一話からがんがん来られてますからねえ。「みぃつけた!」からの、消えてしまう、がぜんぜん活きないんです。その「夏の幻」感がない。まったく得られない。
d0151584_23124656.jpg

姿を見せずに声やものの動き、あるいは筆談でその存在を示す。それを視聴者も共有する。めちゃくちゃなことを言っているようですけど、これは実は最もアニメ的な表現の提案でもあるんです。というのはね、そのやり方は絶対に小説ではできない。やっても仕方がない。それに漫画でもできない。漫画ではものが動いたり声が聞こえたりをアニメほどアクティブには描けないですから。あるいは実写映画でもできない。実写映画でやったら、成長前のめんまと成長後のめんまの役者が変わるので、最後の場面を説得的には描けない。そう考えていくと、姿を一切現さなかったら、もっともっと深く刺さるものになったんじゃないかって気がしてしまうんです。

 事実、筆談で仲間たちがめんまの存在を知る場面がありますけど、あれなんかも、姿が一切見えないほうが鮮烈に映ってくるはずだし、ラスト近く、仲間へのメッセージとしてへたくそな字で書かれている文字も、『アルジャーノンに花束を』よろしく、「消えていく存在」の儚さが強まった。主人公には見えていていい。でも、視聴者が見えている必要はない。

めんまが高カロリーな萌え萌え幼女キャラで実在感を示してくる分、周りの仲間にしても、めんまの母の狼狽にしても、ちょっと滑稽に感じられてしまう。視聴者には完全に見えている分、彼らの感情の揺らぎをまったく共有できない。

 なんであんな萌え萌え幼女造型にしたんだろう、というのがものすごく引っかかる。そんなの腐るほどある。地味な見た目になるのを回避したかったのでしょうし、キャラ商売をするうえではそのほうがいいのもわかるんですが、「この話を形作る上で最も的確な方法だったのか? 視点構成だったのか?」というのがすごく疑問として残る。文句ついでに言うと、なんでめんまだけあんな西洋人的な感じなのか。ウィキによるとロシア人の血を引いているなんてことなんですが、その設定の必要理由が何もわからない。単に画的な華を添えたいのか? 透明感みたいなことを言いたいのか? いや、透明感ってキャラでもないわけですし、なんであんな風に妖精的な持って行き方にしたのか。精神的には子供のままなのに肉体は大人びている、みたいなところの媚び要素もあざとくて鼻につく。この話の良さを高めるうえで、本当にあのキャラ造型で正しかったのか? 日本人のコスプレイヤーは泣きを見るぜ。白人にやられたら勝てないぜ。

「正しいに決まってるし。てかめんま超可愛いじゃん。何文句つけてんの。イミフww」

おまえはいつまで読んでいるんだ。読まなくてよいと言ったのに。
d0151584_2313065.jpg

だからあれですね、結局こういう共感を得られそうもない提案をしているぼくのようなじじいは、対象年齢から外れているんです。ポケモンが懐かしゲームとして出てくる設定にしてもそうで、中高生が観て満足すればそれでよいのですね。逆R―20指定作品として設定してもよいのかもしれません。中高生向けのアニメにわざわざ当たりに行っているぼくが当たり屋なんです。どうかご容赦くださいませ。今後の更新は未定ですが、引き続き気まぐれにやっていこうと思います。それじゃあ今日は、この辺で。




[PR]
←menu