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 自民党憲法改正推進本部が2月16日、参議院議員選挙の合区解消にまつわる改憲案を示しました。憲法47条、92条についての条文案です。

 ここでは、47条について考えていきます。
 まずは現行の47条がどのようなものかを見てみましょう。

「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」

 実にシンプルであります。
そして、今回示された条文案。
「両議院の議員の選挙について、選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。

 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」

 最初にこれを読んだとき、「選挙って何回言うねん」とつっこみたくなりました。なんとも持って回った表現の条文案です。内容的にも実になんというか、「これが結党以来の党是を体現したものかよ」と、少し悲しくなります。まず、最初の一文についていえば、いちいち憲法に書く必要がありません。「選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して」などというのは、「そりゃそうだろ。逆にそれ以外の何があるねん」という内容だし、「選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定める」についても同様です。これに反対する日本国民がどこにいるのか。議論にすらならず、改憲をする必要がぜんぜん見受けられない。

 二文目を見ましょう。こちらがつまり、合区解消を謳っている芯の部分です。両議院でもかまわないのに、わざわざ参議院議員と限定しているのですね。
「参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。」
このつっこみどころとしては、「少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる」の部分です。

「すべきものとすることができる」「すべきものとすることができる」「すべきものとすることができる」

 なんじゃそりゃ。
「すべきものとする」で切るならわかります。各都道府県から必ず一人は議員を出すんだぞ、これが守られなければ違憲になるぞ、というメッセージを打ちたいなら、「選挙すべきものとする」で切ればよろしい。それをあろうことか、「することができる」にしちゃったらどうなりますか。「するもしないも自由だけど、まあ、したい場合にはすることができるよ、別にどっちでもいいけど」程度の意味でしかないじゃないですか。

 すなわち、たとえ合区が解消されなかったとしても、この条文ではぜんぜん問題ないことになります。時の与党が法律をいじくり、「少なくとも一人を選出すべき」としたければすればよいし、することができる。ただし、しなくてもよい。だから、与党の裁量で合区オッケーになる。そんな風に解釈できてしまうのです。

 当然、今の状況のままで合区を解消すれば、一票の格差問題とバッティングする(一票の格差を是正したのが合区なのですから)。仮にこの条文案が通り、都道府県ごとにブロックを分けた瞬間、一票の格差問題と正面からぶつかる。自民党はその辺を勘案したうえで、「することができる」を入れたのでしょう。なんとも腑抜けた話です。たとえこの条文案のまま「憲法改正」したとしても、実際は別に合区を解消しなくていいようになっているのです。「一票の格差の問題がありますから、今回については、『少なくとも一人を選挙すべきもの』とはしません。することはできるけどやりません」が成立します。

 もう完全にばれている。隠す気すらない。
 
 繰り返し述べているように、自民党改憲本部は「とにかく一発ヤりたいおっさんの集まり」なんです。愛情も熱意も誠実さも二の次で、とりあえず一発ヤらせてよと迫っているだけです。実際に付き合う気など無い。完全にばれている。
ぼくは改憲についてまったく反対ではないけれど、このレベルではさすがに同意できない。憲法ちゃんは大事な子です。憲法ちゃんと真面目に付き合う気がないなら、拙いラブレターなど端から書かなければよい。

 もしも本気で合区を解消したいなら、悠長に憲法論議などしている場合ではない。選挙制度にまつわる論議を国会で進めればよろしい。来年には参院選があるわけですから、合区解消と一票の格差をどう埋めるのかについて、一刻も早く選挙制度改革に着手すればよろしい。選挙区と比例区の議席配分を見直すもよし、参議院の議席数を増やすもよし、議席数を増やすと金が掛かるというなら、その分だけ今の議員の収入を削るもよし。242人が244人になろうが245人になろうが、大した金じゃない。少なくとも、国民投票のための850億よりはずっと安上がりだ! 幸いにして今の憲法47条は、「法律でこれを定める」という、裁量の広いなんとも簡単な条文なのです。さあ、国会で選挙制度改革に動けばいい。

 しかし、立法に動く気はない。立法じゃ気持ちよくなれない。立法とかそのための議論とか、しちめんどくさいことは後回しでいい。
 なぜなら、一発ヤりたいだけだから!

 改憲は結党以来の党是、結党以来の悲願。
 その看板を掲げ、絶対安定多数の議席を占め、半世紀以上の時を経て提出したものがこれです。
 ぼくはとても悲しい。
 憲法改正、特に九条二項については変えるべきだとぼくは思う。
 けれどこの程度の改憲案しか出せない、憲法について何の愛情も熱意もない、ヤりたいだけの改憲派とは、とてもじゃないけれど同調できない。
「先っぽ入れるだけだから、ゴムつけるから、外出しするから、お願い、一発ヤらして」みてえな、こす辛い口説き方で憲法ちゃんを落とそうとしてんじゃねえ!
 いささか感情的になってしまいました。
 92条については、特に触れる気にもなりません。
 ご意見は、お気軽に。 

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 2月16日の朝、東京メトロ千代田線において運行遅延が発生しました。女性専用車両に異を唱える男性数人と、ほかの乗客の間で口論が起こったためといわれています。

 女性専用車両に賛成か反対か、ということでいえば、ぼくは賛成です。女性を痴漢被害から守るというのが名目となっていますが、男性側から見ても痴漢冤罪リスクの軽減につながります(男性同士の痴漢もありますが、ここではひとまず女性についてのみ論じます)。

 女性の乗客にしてみれば、同乗している男性が性犯罪者かもしれないわけで、女性のみの車両に乗ることは大きな利益がある。また男性としても、女性は「冤罪告発リスク」を抱えた存在たり得るので、女性が少ないほうが安心して乗れる。痴漢撲滅こそが最重要課題ではありますが、その実現はいまだ困難だし、男女双方に利益がある現状を鑑みれば、女性専用車両を否定する必要はないでしょう。反対する人間は男性差別云々を唱えるようですが、専用車両に女性を誘導することで、男性もまた安心感を得ることができるのです。ウィンウィンなのです。

 その点において、女性専用車両への抗議活動、そのための乗車というのはあまり意味がない。というか、仮に抗議が実って専用車両が無くなれば、結果的に男も困るわけですから、反対運動などむしろやらないほうがいい。

 では、抗議をする人間はどういう理屈で動いているのか。
根本には「女性専用車両は男性差別だ!」という主張があるようです。
 そして、専用車両は「男性側による任意の協力」に過ぎないのだから、乗って構わないと主張する。法的には乗車を拒否することができないんだ、だから自分たちは乗るんだコノヤロー! という行動原理のようです。

女性専用車両にわざわざ乗り込むおっさんはキモイ、とまずは言える。そこでぐだぐだやってるやつは超迷惑ともいえる。女性専用車両なくしたら冤罪リスク増えるだろうが、てめえのゴールはどこなんだよクソジジイ、と言ってあげてもよい。

 けれど、ひとつ問題があります。ここが大事な考えどころなんです。そのキモイおっさんが言っていることは実のところ、法律上は正しいのですね。この辺りを掘り下げてみたいと思います。

 女性専用車両を法的に捉えた場合、拘束力がないことは確かです。鉄道会社のスタンスとしては「女性専用車両に乗らないよう、男性に協力を求めている」という形であって、おっさんの行動に違法性はないのです。だからおっさんどもは堂々と蠢き、キモさを爆発させながらわめき続けているのです。おっさん一般の社会的評価を下げる行動なので、全国のおっさんはこいつらに怒ってよいでしょう。

「女性専用車に乗らないのはモラルでしょ」と訴えたところで、「俺たちにモラルなんかない」と相手は開き直れてしまう。アンガールズ田中の名言、「俺は法の中で暴れてるんだ!」状態です。
 モラルのない人間に対して、モラルがないキモイ連中だと罵倒しても意味がない。モラルのない人間の行動をどう抑制すればいいのかといえば、これは法的な対処以外には不可能です。法的あるいは制度的な規制を設けない限り、「おっさんの言っていることが正しい」現状が続いてしまいます。また、女性専用と銘打ちながらも女性専用でないのだとしたら、誤解を招く表現になってしまう。本当の女性専用を実現するには、鉄道会社が対応を急ぐ必要があります。

 しかし、ここで立ち止まるべきポイントが出てきます。
 仮に、法的・制度的な形で「女性専用」を実現した場合、それが「男性差別」になってしまうのではないか、ということです。実際、おっさんたちはその点を主張の根幹に据えているわけです。さて、女性専用は男性差別かどうか、結局はここに踏み込むことになりそうです。

ヒントになるのは、各種の商業サービスで見られる「レディースデー」です。
 同じサービスにもかかわらず、男性客よりも女性客の料金を安くする。もしくは、同じ料金だとしても、レディースデー限定の女性用サービスを付加する。日にちで区切らず、レディースプランとして恒常的に優遇されているものもある。
 このような戦略はいろいろな場面で見受けることができます。
 さて、これは男性差別に当たるのか?

 結果から言えば、これは男性差別に当たるとぼくは思います。男女間で平等な対価を受け取れなくなっているからです。
 では撤廃すべきなのかと言えば、そんなことはありません。男性側としてみれば、「その企業を選ばない自由」も確保されているわけだし、平たく言えば企業側として、「嫌なら来なければいい」が成立する。あくまで企業の戦略に過ぎないわけであり、「確かに男性差別的なサービスだけど、だから何?」で済む話です。憲法で謳われる「法の下の平等」に反するのではないかといえば、別に反しません。一企業が顧客を選別しているだけですし、企業には顧客を選別する権利があるでしょう。女性客限定を謳うホストクラブにおっさんが入ってはいけません。ドレスコードがあるレストランにパジャマで入ってはいけません。ほかの客の利益、つまるところ「公共の福祉」の問題があります。レディースデーにかみつくおっさんが出てきたら、「嫌なら来るな」で終了です。

女性専用車両についても、同様の理路を敷くことができるように思います。
 鉄道会社は法的・制度的な整備を完了させたうえで、「嫌なら我が社を利用しないでください」と、おっさんに迫ればよろしい。男性差別じゃないかと文句をつけてきたら、「男性差別ですけど何か? 嫌ならバスでもタクシーでも自家用車でも自転車でも、ほかの手段を使えばいいんじゃない?」で終了です。日本にある鉄道会社はすべて民間企業ですから、顧客の選別は自由裁量の範囲でしょう。公共性の高い交通機関ではあるものの、あくまで民間企業ですし、公共の福祉で押すこともできます。鉄道会社は利益を出さなくてはならないわけで、多くの女性客を敵に回してまで、キモイおっさんを守る義務はない。差別を許容するのかと食い下がってきたら、「マイノリティへの差別は許さないけど、男性は別にマイノリティじゃないし、ほかの車両にいくらでも乗れるからいいじゃん。現にほかの男性は普通に乗ってるし」でこれまた終了です。

そう言ってもしつこいおっさんは折れず、司法に訴えるかもしれません(現に違憲性を訴えて、負けた事例があります)。そうなればしめたもので、裁判ではモラルや公共の福祉、男女双方を保護する観点などから、憲法に差し障るほどの差別性は認められないとの判決が出るでしょう。おっさんの唯一最大の武器は「法的根拠」ですから、それを示してやればよいのです。

法的・制度的縛りがないからこそ、モラルのないおっさんが暴れるのです。鉄道の運行業務に支障が出た以上、これは社会問題です。「モラルハザードジジイ」を撲滅するために、鉄道会社及び国会議員は制度設計を急ぐべきであろうと思います。

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 ふと、死刑制度の是非について考え込んでしまい、自分の考えを整理しておこうと思い、文章をしたためる次第であります。正直なところ、ぼくは存置派であるとも廃止派であるとも言い切れません。だらだらと書き連ねながら、思考の往き道を探ってみようと思います。

多数決を離れて 
 まず、とっかかりとして、世界における死刑制度を概観してみたところ、およそ100の国(と地域)が死刑を撤廃しているようです。世界全体の半分といったところです。そして、およそ50の国が、「制度としては残しつつも執行していない」状況のようです。日本のように死刑を執行し続けているところは50に満たず、世界で見れば日本は少数派ということになります。事実、国連総会は日本に対して、死刑執行停止を勧告しています。

 ただ、だからといってその潮流に従うべきなのかというと、ぼくには疑問です。少数派だから正しくない、わけではない。その国ごとの事情などもあるわけで、国連や世界の流れがそうだからやめなさい、というのには首肯しかねる。「他の国がどう言おうと、日本には日本の考え方がある」という意見も、十分理解できます。多数決ではないのです。

 そう。多数決ではない。

 こと日本において、各種アンケート調査では、死刑存置派が多数となるようです。日本社会は死刑に対して肯定的である、という言い方が許されるかと思います。ただ、その事実をもって、「だから死刑制度は存置し続けてよい」といえるのか。ここには疑問の余地があるように思います。

「世界の多数派が死刑廃止だから、日本も廃止すべき」というのが通らないならば、「日本人の多数派が死刑存置だから、日本では存置すべき」も通らないのではないか。多数決の原則を採用しないとはそういうことです。現に、ヨーロッパでは世論が死刑制度維持に傾いているにもかかわらず、廃止を決めた国もあるわけです。民意がどう動くかとは別に、ひとつの主張として廃止を考えてみてもよいと思うのです。

存廃双方の主張と問題
 死刑制度の是非における大きな要素として、抑止力の問題が挙げられます。死刑を存置したほうが犯罪が減るなら、制度は維持すべきでしょう。かたや、廃止したほうが減るというなら、死刑撤廃も十分な議論に値します。
そう思って多少ネットに目を走らせてみるものの、これといって有効な統計には出会えません。データを取っても、立場によって恣意的な解釈が可能であるケースだったりするし、凶悪犯罪の増減における因子は必ずしも、死刑の存廃だけではないでしょう。「死刑が抑止力になるかどうか」について、誰もが納得しうる数字があれば、是非教えてほしく思います。抑止力になるとも言えるし、ならないとも言える。双方にとって決定打にはならない。今のところはそんな印象を抱いています。

であるのならば、存置してかまわないのでしょうか。

 廃止派はここで、冤罪可能性を持ち出します。再審請求が多くある以上、冤罪で命を奪ったら取り返しがつかない、だからこそ死刑は許されないという主張です。ただ、この主張には穴があります。「冤罪かもしれないから駄目」といった瞬間、返す刀で、「じゃあ現行犯ならオーケーなんだな?」と言い返されます。公衆の面前で通り魔となり、その場で逮捕された場合、冤罪とするのはどうにも無理筋です。
 一方に裏を返せば、存置派は冤罪問題についてどう捉えるのか。この点、廃止派を説得しきる必要がありましょう。

 廃止派は別の意見として、「たとえ国家であれ、人命を奪ってはいけない」という主張を持ち出します。EUはこのテーゼを重視しているようです。

 さて、この問いに対して、存置派はどう答えるでしょう。

 よく見受けられるのは、「自分が遺族だったらどうする?」という反応です。「自分の愛する人が殺されたら、犯人を憎むだろう。命をもっての償いを求めたくならないか?」と情緒に訴える方法。これが、存置派の支柱のひとつです。

 ただ、情緒に訴えるこのやり方には疑念がつきまといます。

 確かにぼくだって、家族が殺されたら深い悲しみを覚えるだろうし、犯人に憎しみを覚えると思います。犯人を殺してやりたいと感じるだろうと、容易に想像できます。
 そうだろう? だから死刑は存置すべきなんだよ、と落ち着けたいところですが、気をつけるべき点が主に二つあります。

 ひとつ。遺族感情を考えるのならば、「死刑にならないケースをどうするのか」ということです。殺人がすぐさま死刑になるわけではありません。殺人の被害者が1名だけである場合、犯人が死刑にならないケースのほうが多いのです。殺人の量刑は刑法において、「死刑または無期もしくは5年以上の懲役」であって、量刑次第では必ずしも、遺族の応報感情が満たされるわけではない。もしも情緒を大事にすべきだというなら、殺人犯はその罪の数にかかわらず、もっと死刑になってもいいようなものです。「複数殺した殺人犯は死刑になり、1人だけ殺した殺人犯は死刑にならない」のなら、被害者の抱く不公平感はどう埋め合わせるのかという話にもなる。極端な話、「あの犯人がもっと殺人を犯していたら、死刑に持っていけたのに……」という(歪んではいても切実な)遺族感情を抱くケースが、どこかにあるかもしれない。死刑存置派は、今よりも死刑を増やすべきだという厳罰化の主張をするのかどうか。この辺りが気に掛かります。

 ふたつめは、死刑論議においてさらに重要な部分です。
 それは、「遺族感情が本当はどんなものなのか、いざそのときになるまではどうしてもわからない」ということです。
 遺族の中には確かに、死刑を求める人もいる。一方で、死刑を望まずに一生をかけて償ってほしいと考える人もいる。死刑によって区切りをつけたいという人もいれば、死刑執行後にもなんら応報感情は満たされなかったという人もいる。

 ぼくは幸いにして、凶悪犯罪の遺族にならずに済んでいる。

 そうであっても、できるだけリアルに想像することはできる。

感情と想像について
 たとえば一昨年に起きた、相模原の障害者殺人事件。ぼくは遺族ではないけれど、事情があって、おそらく世間一般の人よりも強く心を痛めています。卑劣きわまりない事件であり、犯人の思想をとってみても、ぼくには一切擁護できない。裁判はまだ始まっていないけれど、今の日本の量刑なら死刑が妥当だと迷い無く考える。

 けれど、あの犯人に対して死刑を望むかどうかというと、少し怯んでしまう自分がいるのです。

 あの犯人は逮捕されてもなお、自分のやったことが正しいと主張した。事件後しばらく経ってもなお、正当性を訴えるような声を上げていると、何かの記事で読みました(今現在はどうかわかりません)。

 ぼくは犯人を絶対に許せないし、犯人の主張を叩き潰してやりたいと思う。
 でも、こうも思うのです。
 あの犯人が、自分の間違いを認めることなく死んでいくとしたら、それを許せるのだろうか? 自分は正しいのだと死ぬ瞬間まで考え続けているなら、その死にはどれほどの意味があるのだろうか?
むしろ十年掛かっても二十年掛かっても、あの犯人が自分のやったことを心底悔い改めるまで、その言葉を吐くまでは、生かしておくべきなのではないか?
 謝って済むものではない。反省して済むものではない。
 だからといって、被害者への謝罪の意思も反省もなく死んでいくとしたら、果たしてそれでいいのだろうか?

 そういうことを考えたりもするのです。
 もちろん、実際の遺族の人は別の思いを抱えているでしょう。しかし、多くの遺族がいるわけで、その心情は一様ではないはずだとも思うのです。
 ゆえに、「遺族感情を想像すれば、死刑を求めて当たり前」と一概に一括りにしてしまうのもまた、一面的な想像力なのかもしれないと思う。ケースバイケースとしか言いようのない部分が、どうしたって残されている。

 凶悪な犯罪を犯した人間は死刑にすべきだ、というのが、今の日本における民意かもしれない。でも、ぼくはこの民意というものを金科玉条にはしたくない。当事者でない人間が、とやかく口を出す問題ではないとも思うのです。

 最近では旗色の悪い週刊文春。「不倫なんて当事者のことなんだから、部外者があれこれ口を出すべきじゃない」みたいな世論も沸き起こっている。もしそうなら、犯罪の量刑についても同じことが言えるんじゃないでしょうか。
 不倫は犯罪でこそありませんが、民事では不法行為に当たります。これについて部外者が口を挟むべきではないというなら、刑事事件で違法行為であっても、部外者は口を慎むべき点もあるんじゃないのか。死刑の存廃は果たして、民意なるものによって決められるべきものなのか?

ひとまずの結論
 答えのない問いばかりを並べてしまいました。
 うだうだと考えてみましたが、やはりぼくは今のところ、強力な存置派にも廃止派にもなれません。
 それでも、賛成か反対かと問われるなら、
・現行犯逮捕など、冤罪の可能性が認められない
・遺族の応報感情を満たす手段が、ほかにない
 この二点を満たした場合のみ、賛成という答えになろうかと思います。

 死刑存置派に対しては、「冤罪可能性を限りなくゼロに近づけるため、取り調べの全面可視化を含めた司法の透明化を求めます。それができないなら、死刑は執行停止もやむを得ないでしょう。
 死刑廃止派に対しては、「死刑廃止後における遺族感情の徹底的ケアマネージメント」を求めます。それができないなら、死刑の執行存続もやむを得ないでしょう。
 
 そんなところで、今日はこれまで。ご意見は、お気軽に。

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 小室哲哉さんが音楽活動からの引退を表明しました。週刊文春の「不倫疑惑」記事を受けて、心を決めたそうです。不倫疑惑といっても、会見で語られたところによると、そう単純なものでもない。病気に倒れた妻・KEIKOさんの状況や自身の心境もあり、心の支えのようにしていた女性が別にいてという話で、いわゆるところの略奪愛や二股みたいな構図とはぜんぜん違う模様。この一件を受けて、「文春は悪者だ!」という声がネットに多く見受けられます。

 この辺にどうももやもやを感じるので、言葉にしておこうと思う次第であります。「この辺」というのは、「文春叩き」の辺です。

文春は「悪」か?
 今回の件に関して言うと、文春の報道は表面的かつ扇動的だったように思われます。小室さん自身が会見で語ったことが真実だとすれば、世間一般でいうところの不倫とはやや違うものに思われ、その点において文春の報じ方には問題があると、ぼくは感じます。小室さんが会見で語ったような背景--相手との関係性やKEIKOさんとの今など--を緻密に報じていればよかっただろうとぼくは思います。結果として、文春が社会的評価を下げたとしたら、それは自業自得の結果でありましょう。
 だから、小室さんの件で文春に問題があるとすればそれは、「踏み込みが足りていない」ということになろうかと思います。いわば取材不足。現在の小室さんが抱える事情などをオミットした形で、不倫を印象づける記事を載せてしまったのが文春の失敗です。その点で言えば、文春は今回、週刊誌としてある意味、一番恥ずかしい結果を招いたんじゃないかとも感じられます。ぼくが文春に注文をつけていいなら、「もっと踏み込んだ記事を書くべきだ」という言い方になります。ゆえに、文春は「悪」というより、「浅い」と評せられるべきだろうと思います。介護やなんかの事情、小室さん自身の心境を踏まえず、男女問題のような形で報じてしまったわけですから。

文春が小室さんを引退に追い込んだのか?
 引退発表を受けてか、ネット上では小室さんを擁護する声も多く、「文春が一人の天才を引退に追い込んだ! 許せない!」というような反応も見られます。しかし、それもまた見方が浅いのではないかとぼくは感じます。会見の書き起こしを読む限り、以前から小室さんは自分の楽曲作りに悩んでいたようで、引退は前から考えていたことでもあると述べています。だとするなら、文春報道はひとつのきっかけに過ぎないのかもしれません。文春は確かにひとつのトリガーとなった。けれどそれをもって、引退に追い込んだとするのも短絡的でしょう。トリガーが引かれるまでに、彼の中に積もり積もった火薬はあったわけです。そこを捉えず、文春が引退させたかのように反応するようでは、文春を批判できません。それでは、踏み込みが浅かった文春と同じになってしまいます。背景に思い巡らせるべきです。
 それに、「小室さんを引退に追い込むなんてひどい! もっと多くのすばらしい楽曲をつくってほしいのに!」という反応についても、ぼくは違和感を覚える。彼自身、すばらしい楽曲をつくりたいけどつくれない自分に悩んだり、焦ったりし続けたんじゃないかと思うし、現にそのように語っている。であるのならば、「応援しているように見せかけてプレッシャーを与えているファン」はむしろ、有害かもしれない。引退することで、彼は精神的な重圧から解放されるのかもしれない。彼は楽になれるのかもしれない。彼にとって何が幸福で、何が不幸かはわからないのです。小室さんの心情を想像できなかった文春を責めるならば、複雑であろう彼の内面を想像すべきだし、重圧を与えるファンになることは避けるべきでしょう。

文春のやっていることは正しいのか?
 今回の件を受けて、「そもそも文春はよろしくない」「他人の不倫を暴くのはよくない」「もっと巨悪を叩くべきだ」みたいな反応も見受けられます。パパラッチの執拗なアタックがダイアナ妃の死を導いたように、週刊誌をはじめとするイエロージャーナリズム自体には、確かに咎められるべき点もありそうです。プライバシーの侵害であるというのもそのとおりですし、現に訴訟で敗訴になっている件も数多くあります。
 ただし、だからといってぼくは、文春を悪者だと断罪する気にはなれません。
 なぜ文春が芸能人の不倫を暴き立てるのか。
 簡単です。
 それが売れるからです。

 売れるからと言って他人のプライバシーを侵害してもいいのか?

 なるほど、道義的に見て、よいことであるとは言えません。
 では、文春は芸能人の不倫報道をやめるべきでしょうか。
 その場合、部数は確実に落ちるでしょう。文春編集部の予算、ひいては出版社の経営にも響くでしょう。給与が下がれば記者の士気も下がり、経費節減で十分な取材ができない場合も出てくるでしょう。
 そうなった場合、果たして「巨悪を叩く」能力が高まるでしょうか。
 政治的な問題だけを取り上げていては、ネタが連発できることもなく、部数は見込めなくなるでしょう。ただでさえ出版業界、雑誌業界は縮小傾向の市場です。その結果、週刊誌が死ねばどうなるか。政治の報道は大手メディアに独占され、記者クラブに流される官僚のリリースとリークに支配され、巨悪はますます叩けなくなるでしょう。フリーの記者が頑張ったところでたかがしれているわけで、週刊誌の死は報道の衰退をさえ呼び込むかもしれません。文春をはじめとする週刊誌がいなくなって喜ぶのはむしろ、巨悪たる政治家や大企業、官僚であり、あるいは不倫し放題の芸能人ということです。

 ここにひとつの真理が見透けてきます。
 芸能人の不倫報道があるからこそ、政治に対する報道の底力がつくのです。

 そんなのはおかしいというなら、叩くべきは週刊誌でもテレビのワイドショーでもない。
 芸能人の不倫で喜ぶ読者、視聴者こそが問題の根源です。
 読者や視聴者が、「不倫報道なんてどうでもいい、もっと政治に関するネタに触れたい!」といえば、文春だって姿勢を変えるでしょう。
 でも、そうはならない。政治に関する話題に今以上誌面を割いても、読者は喜びません。

不倫報道大好き!
 大袈裟に言えばそれがこの国の民意であり、報道にまつわる資本主義経済を支えているのです。文春はそこに順応しているにすぎないのです。現に、文春砲だといってさんざんに騒いだじゃないですか。調子がいいときはみんなで持ち上げ、いざ問題があると叩く。そんな人こそまさしく、マスコミ的思考の体現者そのものなのです。すぐに炎上や批判に動く人々こそ、まさしく文春にとっての格好のカモです。
今後も文春は不倫報道を続けるでしょう。今回の件を受けて、さらに踏み込んだ記事を書くようになるかもしれません。そして人々はその文春の記事を読み、またもあれこれと論評を続けるでしょう。
 それでいいのか? ぼくにはわからない。
 ただ少なくとも、文春を叩いて騒いでいる限り、何も変わらないだろうなとは思います。
 人は正しさよりも享楽になびく生き物なのです。
 正妻よりも、愛人になびくのがそうであるように。

 その諦念から、考え始めねばならないと思うわけであります。


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 最近、ひとりこのブログで考え続けている『ガキの使い』問題、そして前回の「道徳自警団」問題。このあたりには、深いテーマが絡んでいるなあと思い、考えを続けていこうと思います。

 笑いと差別について、というのは昔から語られるテーマであり、最近ではテレビにまつわる規制も厳しく、表現の幅は狭められている。この方向を突き詰めていくと、およそほとんどのバラエティは、規制対象になりうると思うんです。
 
 そもそも差別とは何か。手元の電子辞書から引用すれば、
① ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
② 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その違い。
 とある。
 これって、笑いの本質部分と密接に結びついていると思うんですね。

 笑いというのはまずひとつに、差異から生まれるものです。漫才やコントにおけるボケが面白いのは、予想される普通の言動から外れているためです。どのように予想を裏切り、どのように日常感覚とは別の発想を持ち出すか。このあたりに、芸人は頭をめぐらせるわけですね。
 もちろん、そうでない笑いもあります。「あるあるネタ」が筆頭ですが、日常の中のふとした出来事を指摘して、笑いを生み出す手法もある。友近や柳原可奈子など、どこかにいそうな人物になりきったコントをするのも、あるあるの一手法。日常に対する批評的な笑いといえます。

ぼくがもし、「バラエティ絶対殺すマン」になったとしたら、これらについて苦情をぶつけるのは難しくありません。
 たとえば、この社会には知的障害者や精神障害者、あるいは認知症の老人などが多く生活しています。ボケ老人などという言葉もあるように、まさしく漫才のボケのように、突飛な言動に出る人もいるわけです。漫才やコントは、そうした人々の言動を連想させうるものであり、彼らを笑うことにつながるかもしれない。奇妙に思える行動をとった人間を笑っていいのでしょうか。笑いものにしてかまわないのか。そのうえ、ツッコミの芸人はほとんど叱責するような口調でそれを咎め、場合によっては頭部への平手打ちなど、暴行罪に該当しうる暴力を働くのです。
 漫才やコントの笑いは、特定の人々に対する差別を深めるものであると言えます。
 
 どこかにいそうな人物を演じて笑いを取るのもいけません。
 それを見て、自分の言動を笑われていると感じ、傷つく人もいるかもしれないわけですから、これを公共の電波で流せば、他人を揶揄することにつながります。デブ・ブス・チビ・ハゲなどの身体的特徴をあげつらうのも、当然御法度です。

 じゃあトーク番組なら問題ないかといえば、そうではない。芸人が自分の貧乏話を語って笑いに変えることがある。でもそれは、「貧乏を笑いものにしていいんだ」というメッセージを世間に伝えることになるのではないか。「バラエティ絶対殺すマン」は、そのような理路でクレームを入れることができます。その種の声が募れば、「芸人は自分の貧乏話をしてはいけない」という規制がつくられるのも、あながちないとはいえないでしょう。
 それだけではない。
「最近見た変な人の話」も規制できます。トークで語られたのは自分のことだ、笑いものにされたようで傷ついたと訴えを重ねれば、芸人のトークの多くを禁じられるでしょう。

 多くの笑いには、どうしてもリスクがつきまとうんですね。
 古典的なたとえでいけば、「バナナの皮で滑って転ぶ」のを笑うのも駄目です。転んだ人が後頭部を強打すれば、死亡につながる可能性もある。そのような事故を笑うのは間違っていると言えるし、転んだ人は痛い思いをしたうえに、間抜けだと笑われてさらに傷つきます。
その反応を見て笑うことは、「いじり」であり、いじりといじめは紙一重であり、教育的に問題だから規制せよ。さも正当性のあるような顔で、そんな主張することもたやすいのです。

「バラエティ絶対殺すマン」の手に掛かれば、過半のテレビバラエティにクレームを入れ、規制に導くのも難しくはない。笑いというのはその多くが、政治的正しさを逸脱するものであり、倫理的正しさから外れるものでもあるからです。そしておそらく、ほぼすべての笑いは潜在的に、反道徳的とされるリスクを抱えている。笑いが差異や批評によって引き起こされるものである以上、そこには常に、差別や排斥の種が埋まっている

 ならば、ネット番組なら「殺すマン」はやってこないのか。
 いや、いずれはネットにしたってその手を伸ばします。今でこそ、ネットの視聴者はテレビよりも少ない。だから、今はまだお目こぼしされている。けれど、この先ネット視聴がさらに広まっていけば、ネット番組もテレビと同じ運命をたどるのは必定です。それは五年後かもしれないし、十年後かもしれない。いや、もっと早いかもしれない。というか、SNSやブログでは、既に「殺すマン」がうじゃうじゃしている…………。

「殺すマン」は正しいのです。彼が目指すのはおそらく笑いのない世界ですが、言っていること「だけ」は正しい。その世界はおよそ社会主義的であり、差別や格差もないかわりに自由がないのだけれど、正しさというその一点においては分があるように思える。
「バラエティ絶対殺すマン」の理想郷は、共産主義的でもある

 ではどう抗うべきなのか。
 社会主義の正しさを、自由主義はどう打破できるのか。
 
 といえば、結局は経済問題に帰着するわけです。
 西側の自由主義が勝利したのは、東側よりも経済的な発展を果たしたからです。
前回取り上げた古谷経衡氏の書籍では、「道徳自警団を食い止めるには、経済成長が必要」と述べられていましたが、その見方は正しそうです。

 とて、経済成長が必要なんてのはわかりきっている。
 でも、社会一般においてはなかなかできないのが現状。

 じゃあ、どうすればいいのか。

 社会一般に広げると難しい。けれど、テレビ局だけならば手はあるように思う。

 スポンサーに対して、「規制のない番組のほうが視聴率が取れる」と示すことです。

 殺すマンの理想とする社会主義に抗うには、自由主義の経済的優位を示すほかない。
 視聴率が高ければスポンサーは文句を言わない=経済的な後ろ盾が生まれるわけですから、テレビ局は規制を度外視した番組をあえてつくり、数字という実績を示す必要があります。テレビ局自体、たび重なる規制によってテレビがつまらないと言われ、どんどんジリ貧になっている。この負のスパイラルを抜け出すには、自由主義サイドから逆襲をしかけるのが一番でしょう。

 どこの局でもいいし、ゴールデンでも深夜でもいいけれど、「この枠だけは規制度外視」という番組をつくってみればいい。視聴者にもそのことを伝えたうえで放送し、そこでどれだけの数字が取れるのか、スポンサーに提示すればいい。
 そこで、高い視聴率が獲得できたら?
 潮目は多少なりとも変わるんじゃないかと思うんです。追い詰められゆく自由主義圏が巻き返しを図れるチャンスです。

 もし視聴率が低かったらどうするんだ、そんな博打は打てない。
 
 だとするなら、テレビ局はこのままジリ貧。殺すマンのつくりだす社会主義的流れに飲まれ、経済的にも転落を辿るでしょう。面白い番組と視聴率が取れる番組は違う、と言われるかもしれないけれど、視聴率という「収益」が出せないなら、その面白さに経済的価値はないのです。いや、場合によっては、視聴率とは別の指標である「満足度」などを重視するのも手かもしれない。スポンサーを説得するうえでは、価値のある指標です。

 バラエティを救うための、具体的提案。
「規制を一切取っ払った番組枠をつくる。そこで、高視聴率や高満足度の結果を出す」

 さて、いかがなものでしょうか?


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 古谷経衡氏の著書『「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす』を読みました。「道徳自警団」とは著者の造語で、いわば「不道徳ないし不謹慎な言動をした(と判断される)相手を、徹底的に追い込もうとする」タイプの人たちのこと。彼らはネット炎上のみならず、テレビ局や自治体の役所に対しても電話攻勢を繰り広げるなど、世間の「不道徳」や「不謹慎」に対して、苛烈とも思えるバッシングを行うといいます。

 本のタイトルの通り、著者は道徳自警団について否定的です。道徳自警団は「どうでもいい問題」にばかり拘泥し、政府や米軍などの巨悪に対しては無反応。その結果、真に論じるべき問題が隅に追いやられるうえ、自粛や規制ばかりが広がっていく現状があるとして、著者は憂いを表明します。彼らのやっていることは、まさしく中世の魔女狩りじゃないかという論旨です。

 ぼくも著者の主張にはおおむね同意です。対象者の弱みにつけ込む形で徹底的に糾弾する姿は見ていて気分のいいものではないし、自警団自身が決して、高潔な理念のもとに動いているとも思えない。まるで憂さ晴らしか嗜虐趣味の発露にしか見えない面も多々あって、彼らの振るまいが窮屈さをつくりだしている現状があるとすれば、あまり好ましいとは思えない。

 自警団の連中は巨悪を相手にしない、という著者の主張ですが、これはある意味で当然なのですね。巨悪を相手にしたところで、結局は勝てない。勝てない戦いをしてもストレスがたまるだけで気持ちよくない。それなら、勝てそうな相手を選ぶだけなんです。徹底的に叩いたら気分的にすかっとするし、正義の味方として勝利を収めるというお手軽な承認感情を得られる。何か社会に貢献したような気分にさえなれるわけです。

 ネットのみならず、テレビも道徳自警団の一部をなしている、と著者はいいます。これも道理ですね。視聴者を「いい気持ち」にさせるうえで、「自警団的コンテンツ」は有用なのです。芸能人の不倫がその筆頭です。不祥事を犯した芸能人を追い込むことで、テレビ局は正義面ができるし、視聴者もすかっとした気分を得られる。道徳自警団になると、大義名分のもとで嗜虐的快感を得ることができるのです。彼らが世間にはびこるのもむべなるかな、であります(著者は本の中で、経済的停滞が行動原理の背景にあると主張します)。

 彼ら道徳自警団がもし、違法行為を許さないというのなら、YouTubeをはじめとする動画サイトを問題視しないのはおかしい。テレビ局の番組は著作権違反のままにアップロードされ続けています。ゲーム実況もそのひとつで、あれはゲーム会社が黙認・許容しているから成立しているだけであり、法律的に捉えれば違法性はある。でも、そこについて、道徳自警団は別に動こうとしない。むしろその状況を進んで享受してさえいるかもしれません。

 以上のような振る舞いを見るに、道徳自警団は決して、高潔な動機や一貫した法的正義に基づいているとも思えない。彼らとともに武器を持ち、一団に加わりたいかといえば願い下げです。
 ただ他方、ぼくは彼らのような存在について、ある種の難しさを見出します。
 古谷氏は悪影響の部分を大きく論じている。
 けれど、彼らの存在にもまた、正当性がある
 この辺が、悩ましいところだなあと思うわけです。

 自警団である彼らは、不道徳や不謹慎を咎める。この姿勢自体は、本質的に間違ったものではないんです。違法行為を見つけたら、市民の義務として通報する。そのことが正しいならば、SNSでの違法行為に厳しい目を向けるのも間違ってはいない。テレビで差別発言があれば、それを問題視して抗議するのも、また間違ってはいない。

 彼ら道徳自警団に功績があるとすれば、「SNS上の風紀」を保っている、ないし促進したことです。一時期、「バカッター」という言葉が流行しました。バイト先やなんかで、従業員が不埒な振る舞いをしでかし、それをネットにアップする。これについて、道徳自警団が糾弾を繰り広げる。こうしたことが多く起こった結果、「ネットの危険」を社会に周知できたのではないかとも思うのです。

 バカッターを見過ごしていたら、今頃SNS上にはさらなるバカッターが出現していたかもしれない。ネットに対する向き合い方が緩み、ひどい動画や画像をあげる子供たちが増えていたかもしれない。道徳自警団の存在が、「ネットを使ううえでの緊張感」を青少年に持たせているという側面も、ぼくは否定できないと思うのです。「こんな画像をアップしたら炎上するぞ、やめておこう」という自制心を子供たちに植え付けたなら、それは意味のあることだともぼくは思います。

 ここに、社会哲学的ともいえる問題を見出します。

 不道徳なものを糾弾するのは、間違っているのか?

 昨年、松本伊予と早見優が線路に立ち入り、そのときに撮った写真をブログに掲載しました。すると、線路に立ち入るのは違法ではないかと声が上がり、書類送検にまで追い込まれました。

 いわば、道徳自警団は違法行為を摘発したのです。
 さて、その摘発は、間違っていたのかどうか?
 実際のところは、問題となった現地の踏切に一般人が多く詰めかけ、その一般人が線路に立ち入ったりもしたようで、むしろ違法行為を増やすという皮肉な結果を招きましたが、その事実は横に置きます。
 問題は、「道徳自警団の糾弾は、間違っていたのかどうか?」です。

 結論から言えば、間違ってはいません。違法行為に対する市民の通報義務を履行したまで、と言えるでしょう。
 何もそこまで目くじら立てなくたって、という気持ちはわかるし、ぼくもそう思う。でもこのケースにおいては、「道徳自警団はあくまで正しい」のですね。
 道徳的な振る舞いを、社会に広めよう。違法なものを許さない姿勢を、社会に示そう。
 その大義名分自体は、本質的に間違っていない。
 彼ら個人の嗜虐性がいくら下卑ていても、主張自体に間違いはない。

 ここが難しいなあと思うんです。そこの線引きが。
 道徳自警団の問題って、「線引き問題」に帰結すると思うんです。

「ベッキー・タイキック問題」もそうです。
「女性を暴行するのは不道徳である」というのはその通り。
だったら、「不道徳なものをテレビで流さないようにせよ」という主張として、まるまる認められるべきなのか。見ている人の一部が不快になる表現は、放送してはいけないのか。

 オーケー。
 ならばハゲ・デブ・ブス・チビをはじめとする表現もすべて狩るべきだ。ボケ・ツッコミで頭を叩くのも、厳密には暴行に当たるのでやめるべきだ。
 だって、不道徳だから。見ている人の一部を不快にするから。
道徳問題を持ち出すのならば、一律でなくてはならない。一部の人間や属性のみにその道徳を当てはめ、ほかの対象を放置するというその不公平もまた、不道徳である。
 ゆえに、真に道徳的であるためには、お笑いにおける多くの表現を一律に規制する必要がある。

 ……さて、ベッキー問題で騒ぐ人々は、そこまでの意思はあるのかどうか。ないとしたら、どこで線引きをしているのか。
 他方、ベッキーの件に一切問題がないという人は、どこまでの表現を許容するのか。線引きの基準は何なのか(ぼくの場合、彼女がタレントであるというその一点で明確な線を引きますが)。

 道徳自警団は、道徳的である。ゆえに、あくまでも正しい。
 けれど、その振る舞いは場合によってやりすぎにも見えるし、やりすぎではないと感じる人もいる。
 その線引きはどこでなされるのか。どこでなされるべきなのか。
 この問いについて、明確な答えをぼくは持ちません。
 いや、そもそも道徳それ自体、どのような線引きを持つものなのか、考え出すと答えはいっそう見えない。

 そろそろ疲れてきました。

 道徳自警団問題は、およそ社会哲学的な領域に踏み込んでいるなあという感想をもって、とりあえず今日はこの辺で。


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『ガキの使い』における「黒塗り問題」は、海外でも報道されたようです。二つ前の記事でも論じたのですが、いまだに頭から離れずにいるので、吐き出しておきたいなあと思う次第であります。

 大枠は既に書いたのですが、ぼくは「あの黒塗りの一件を、問題視すべきなのかどうか」について、明瞭な答えを持てずにいます。黒人差別に関連する表現である以上、やめるべきというのはわかる。一方で、その主張を絶対視することもまたできないのです。

 黒塗りは「黒人差別に用いられた侮辱的表現」だという。しかし、それが「侮辱的」だというのは、果たして本当に普遍的な規範なのか? ここの疑念が拭えずにいる。

 たとえば、こういうコミュニティがあったとします。そこには白人も黒人も黄色人種も暮らしている。異人種同士がお互いのつながりを持とうとして、「互いの肌に塗り合うことで交流を深める」なんてお祭りが催されるとしたら、これもまたアウトなんでしょうか。お互いの存在をリスペクトし合う意味で、白人は黒人に、黒人は黄色人種に、黄色人種は白人に似た格好となり、お祭りをする。そういう文化が世界のどこかにあったとして、それもまた「ブラックフェイスだ! 国際常識としてアウト!」と糾弾されなくてはいけないのか。

 そんな共同体があるのかどうか、ぼくは知りません。ぼくの頭の中にしかないかもしれない。ただ言いたいのは、「顔を黒く塗ることが侮辱的な意味を持たない」世界観だって十分あり得るだろうということです。そういう文化の存在、捉え方を、この世界は許容し得ないのかという疑念があります。

「黒塗りは問答無用のアウト」がグローバルスタンダードだ、それを解さない人間は人権意識が低い。そういう物言い自体が、危険を孕んでいる気がする。欧米的な文化コード以外を許さない、という風に感じられてしまうのです

 少し話はそれますが、ポリティカル・コレクトネスという点で、性的マイノリティについて思い出すことがある。
 今ではおそらくテレビの自主規制ワードである「オカマ」。90年代までは平然と語られていましたが、次第に使われなくなり、現在は「オネエ」という言葉が主流になっています。ゼロ年代にはKABAちゃんやはるな愛が人気を集め、今ではマツコ・デラックスを筆頭に、オネエタレントがテレビに映らない日がありません。
 彼ら、彼女らの振る舞いはときに突飛で滑稽であり、ときに「男性タレントに無理矢理キスをして嫌がられる」など、今見れば差別的と映る内容もあった。それによって傷ついた性的マイノリティだって、いただろうと思います。

 しかし、ぼくは思うのです。性的マイノリティが社会に受容されるうえで、彼ら、彼女らの存在は実に偉大であったろうと。
 
 しかつめらしく、「性的マイノリティを差別してはいけない!」と叫ぶのではなく、面白い存在として笑いを誘い、人々に受容されていった。その結果、人々の間の偏見や忌避感も次第に溶けていったのではないかと思うのです。仮に、KABAちゃんやはるな愛がタレントでなく、活動家として社会運動を起こしていたらどうだったか。果たして今よりも、性的マイノリティの存在が世に周知されていたか、受け入れられていたか。そうは思えない。笑いには差別的側面もあるかもしれないけれど、一方で人々を魅了し、その存在を肯定的に受け入れさせる側面だってあるわけです。なんだ、怖い人じゃないんだ、不気味な存在じゃないんだ、変に見える部分もあるけど面白いよなって、そういう形で社会に溶け込む方法をつくりだせると思うのです。

 オネエタレントの件から思うのは、「社会的な受容の仕方はひとつじゃない」ということ。別に笑いのネタにしたからといって、それがそのまま差別的であると軽々に断じるのは、世界に対するやせ細った見方じゃないかと感じてしまうんです。

 黒塗りは黒人差別の象徴だ。差別的表現として、例外なくアウトなのだ。

 一見、人権意識が高く、国際常識をわきまえ、政治的に正しい態度かもしれない。

 しかしそれは同時に、黒人に対して、差別的刻印を永久に張り付ける態度なのではないかとも思うのです。今の国際常識は永久に、黒人を被差別側に置き続ける。上に述べた架空のコミュニティのように、「互いをリスペクトする行為として、肌を塗ること」だって、未来の世界ではあり得るかもしれないのに、その可能性を潰すわけです。

 それを支える国際常識とは何か。あくまでも、欧米が規定する国際標準以外を認めないということではないのか。アジア、中東、アフリカ、オセアニア。欧米のコードとは違うそうした地域の文化さえ、欧米が決めることになるのではないか。それは果たして、豊穣な世界といえるのだろうか。

 間違えないでほしいのですが、「今回の『ガキの使い』は黒人へのリスペクトだ」などと言う気はありません。「笑い」という、「差別」につながりやすい局面であるし、テレビ局側にも配慮すべき部分はあったかもしれない。リスペクトの気持ちなんて正直、まったくなかったでしょうし、ぼくが仮定したコミュニティのような理念など、作り手にはさらさらないでしょう。

 けれど、番組独自の文脈も度外視したまま、「黒塗りはアウトだ!」と反射的に言ってしまうことによって、世界の捉え方を単純化してしまうのも違うとぼくは思うんです。

「黒人差別は許さない!」という、何の問題もないように見えるその態度が、実は差別と被差別の構造を固定化し続けることでもあるんじゃないか。その態度への柔軟さも、ときには必要となるのではないか。

 ポリティカル・コレクトネスという言葉が一般的になって久しいけれど、その末にトランプ政権は生まれてしまった。政治的正しさを徹底していこうという清く正しい社会が、反PCの権化たるトランプを大統領にした。そこにあったのは、正しさの敗北だったんじゃないか。
 正しいけれど楽しくない、正しさのあまりに窮屈な規制。
 その鬱屈が反発を生みだし、トランプ旋風につながったんじゃないのか。

 だとすれば、正しさを正しさとして真面目に訴えるだけでは駄目なんじゃないかとぼくは考えるんです。現に、正しさを正しさとして真面目に訴えるリベラル、左派は日本の政治でも負け続けているわけです。その結果、「あれも差別、これも差別ってうるせえな」みたいな、短絡的リアクションも再生産してしまう。

 教条的主張ではなく、笑いを通した受容。その可能性だって、『ガキの使い』にはあり得た。差別をなくすには、そうした柔軟さだって必要なんじゃないかと思うんです。

 もちろん、「あれは黒人差別だ!」という捉え方があってもいい。ぼくだってその捉え方は十分に理解するし、そういう声はあってしかるべきです。でも一方で、「『ガキの使い』は差別的だ! 糾弾すべきだ!」というトーンにはやはりなれない。もっと様々な視点を含みこんだ、複雑な捉え方があるべきだろうと思うのです。

 つまるところ何が言いたいのか。
 あの番組を見て無邪気に笑う人には、PCや黒人差別について考えてほしいと思う。
 あの番組は差別的でけしからんと憤る人には、国際常識を疑う視点と、正しさとは別のアプローチについて考えてみてほしいということです。

 補足的な記事のつもりが、思いのほか長くなってしまいました。
 それでも、ご意見はお気軽に。

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 前回に引き続いて、『ガキの使い』の年末スペシャルを取り上げます。ブラックフェイス問題の一方で、もうひとつの「ネタ」が議論されているようです。タレントのベッキーがドッキリを仕掛けられ、キックボクサーらしき女性からタイキックを受ける、というくだりがあり、一部で非難の声が上がっているようなのです。

 周知の通り、ベッキーは不倫騒動でバッシングを受けました。そのみそぎであるというのがタイキックの名目で、嫌がるベッキーを出演者たちが押さえつけ、お尻にヒットさせるという流れです。この件をどう捉えればよいのか、考えてみようと思います。

 まず大前提として、女性に暴力を振るうことはいけません。いや、性別や年齢の如何を問わず、他者に暴力を振るうことはいけないのです。嫌がる相手に無理矢理押しつけるなどもってのほかであり、セクハラ・パワハラ・レイプ問題などがクローズアップされる昨今にあっては特に、テレビ局は敏感であるべきです。

 だいたい、ああいうものはいじめにつながるのだから全部やめるべきなのです。子供が真似をしてタイキックなどを行い、怪我をしたらどうなるでしょうか。テレビ局はいじめを生み出しているのです。テレビ局がそれを肯定しているのです。世間には実際にレイプの被害者も数多くいて、いじめの被害者も多くいて、そんな人たちはベッキーの嫌がっているあの様子を見て、ひどく傷ついたに違いないのです。ベッキーは暴行の被害者として刑事告訴をしましょう。警察は速やかにテレビ局を取り調べ、ダウンタウンをはじめ暴行に加わった出演者全員を起訴すべきです。ついでに、プロレスラーから毎年いわれのない暴力を受けている月亭方正氏も警察に訴えるべきでしょう。その結果、ベッキーや方正がテレビ局から一切仕事の声が掛からなくなっても、テレビ局が悪いのだからそれでいいのです。正義を貫徹するのです。

…………さて、それでいいのかな、とぼくは思うんです。

まず、おそらくは昭和の頃から議論されてきた「テレビといじめ問題」。
今回のベッキーのくだりを見て、「よっしゃ、学校のあいつにタイキックをしてやろう」と思う子供は出てくるでしょう。いや、それを言い出せば、罰ゲームの概念が生まれた頃から、そのリスクはあったわけです。現にそれで、嫌な思いをした子供もいるだろうなと容易に想像できます。
ただ、それでテレビを責めるというのはあまりにも短絡的だろうと思います。包丁で殺人が起きたからと包丁の所持を禁止するのはおかしいわけです。大事なのは、その背景のほうです。問題視すべきは凶器でなく、原因。つまり、なぜいじめが起きたのかです。テレビが罰ゲームをしなくなれば、いじめはなくなるのか。あり得ない。いじめにおいて問題視すべきは児童間の人間関係だったり、学校における監視と管理体制だったりするわけで、テレビの影響があるからいじめが起きるのではない。
 むしろ、テレビに原因を求めて現場の問題を直視しないような言説こそが、いじめの解決を遠ざけるとさえぼくは思う。テレビで罰ゲームをなくせば、まるで社会が綺麗になったかのように錯覚できるのかもしれない。テレビでいじめらしきものを見なくて済むから、ほっとするのかもしれない。しかし、そうやって良識者が勝手に満足する裏で、いじめは起き続けることでしょう。BPOがあの番組を問題だと断罪すれば、いじめは減るのか? あり得ない。

 バラエティが生み出す「ノリ」や「空気」が、いじめの現場でトレースされている現状はあるかもしれない。バラエティ的な「いじり」のつもりが「いじめ」になっているケースもあるでしょう。じゃあそうしたものをなくせば、いじめは減るのか。そんなはずはない。バラエティがあろうとなかろうと、ノリも空気もいじりも存在し続ける。メディアがどうであろうと存在する現実をどうするか。それを考えることがいじめをなくすために必要な姿勢であって、テレビに責任を押しつけるのは教育的怠慢と言わざるを得ない。

 嫌がるベッキーを押さえつける様子が不快だ。女性を押さえつけて暴行し、それを笑うような内容を認めるわけにはいかない。

なるほど、そこだけを切り取ればまったくの正論です。しかし、彼女がキックを受けるに至った文脈も込みで、あのくだりは成立している。何も、道行く一般人を連れてきてキックしたわけではないのです。そこを汲まずに、行為や構図だけを切り取るというのは、あまりにも短絡的だろうと思います(それともブラックフェイスと同様に、「問答無用でアウト」という教条的態度を取るのでしょうか)。

 ではなぜベッキーがターゲットになったのかと言えば、不倫問題でバッシングされた経緯を切り離すわけにはいきません。ミュージシャンとの不倫が話題になり、クリーンなイメージで売っていた彼女がワイドショーで散々に叩かれた。好感度は下がり、全国区のテレビに出る機会も激減したわけです。不倫の是非、バッシングの是非はここでは問いません。大事なのは、彼女がそういう文脈を背負った個人であるということです。彼女を一般女性同様に捉えることはむしろ、彼女自身を軽視しているとさえぼくは思う。何も知らない人間が見れば、「女性が押さえつけられてお尻を蹴られた」構図でしょう。でも、見ている人間はベッキーの過去を知っている。ベッキーを知っている。そこを踏まえずに、ベッキーが可哀想だ、女性に暴行を働くのは問題だと訴えるのは、どうにも教条的すぎるとぼくは思うのです。

 あのくだりはもともと、ベッキーがメンバーにタイキックを仕掛ける側でした。でも、果たしてそれだけで成立していたのか。かつて猛バッシングをくらったベッキーが、単に仕掛ける側で終わっていたら、視聴者は満足したか。そうではないでしょう。「タイキックを仕掛けてるおまえが、バッシングを受けてただろうこの不倫女め!」という視聴者のもやつきが前フリとしてあって、そのうえでタイキックを受けた。その構図が、観る者に笑いを生み出すわけです。これは、「原因があるから蹴られていいんだ」「いじめられる側にも問題がある」というのとは違います。なぜなら、彼女は芸能人だからです。一般人の社会と同じ捉え方で、バラエティを捉えてはいけないのです。

 オンエア上はドッキリを受けた形ですが、ベッキーはある程度織り込み済みでしょう。自分がどういう観られ方をしているか、彼女だってわかっているはずです。自分がドッキリを受けるとわかっていたか、ぼくにはわからない。わからないけど、単にドッキリを仕掛ける側の人間でいられないことなど、十分承知のうえでオファーを受けているでしょう。

 ベッキーが可哀想だと言う人間は、いったいどうしろというのでしょう。テレビ局が表立って、ベッキーに謝罪すればいいのでしょうか。そうすれば、可哀想だと言っている人間「だけ」は満足するでしょうが、果たしてベッキー自身がそれを望んでいるのかどうかといえば、ぼくにはまったくそうは思えない。気まずさだけが残るでしょう。暴行を受けたと言ってベッキーが刑事告訴したら、正義の人々は満足でしょう。その代わり、彼女の仕事は間違いなく、絶対に減ります。正義の人々はそのあとの面倒を見る覚悟も、当然おありなのでしょうね。なにしろ高潔な正義感の持ち主ですから、仕事が無くなったベッキーを放っておくなんて、そんな無責任なことはないでしょうねえ?

 芸能人は特異な業界の人間です。一般人から見れば嫌なことでも、「おいしい」と解釈する回路を持っている。特に今のベッキーの場合、そういう回路を持たずには業界を渡っていけない事情もあるでしょう。一般人の尺度で文脈も無視で観るというのは、何度も言うように教条的すぎる。

ぼくは今のバラエティを全肯定するものではありませんが、バラエティは好きです。作り手もリスペクトしている。だからこそ、一部分を切り取って正義の拳を振り上げ、悦に入る人間が嫌いです。ドラマをろくろく見てもいないのに、ワンシーンで残虐表現があったからと怒り出す人間と同じくらい嫌いです。文脈を見なくてはいけないし、出演者の背景を捉えなくちゃいけないし、自分の抱く正義を世界の複雑さと照らさなくちゃいけない

 結論として、今回のベッキーに関する「問題視」には、まったく同意できません。不倫で叩いたこと自体が間違っている、という意見もあるかもしれませんし、ぼくも不倫騒動で盛り上がるのはくだらないと思うけれど、「クリーンなイメージで売っていた人気タレント」という看板があった分、バッシングになるのも理解できます。そういう荒波にもまれた中で、それでも逞しくバラエティに復帰し、タイキックを受けるベッキーをぼくはリスペクトする。可哀想とか言っている連中自身が、実はベッキーを貶めているんじゃないか? ベッキーには可哀想な存在でいてもらいたいのか? ファックだ。そんなことも笑いに変えるからタレントなんだよ

 今回の件は、ベッキーの圧倒的勝利だ。蹴られることであらためてバラエティの世界に受け入れてもらえたし、ベッキーを嫌っていた人間を敵に回さなくてすんだし、あまつさえ可哀想だと言ってくれる心優しい人間まで現れてくれた。ベッキーは勝ったんだ。満足だろう? 可哀想だと思っている良識的人々は。それとも何か? もっと可哀想な存在でいてほしいのか? タレントは一般人じゃない。一般人の尺度でタレントを測るな。

 
 挑発的な物言いをしたところで、とりあえずはこの辺で。ご意見は、お気軽に。

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 年末恒例の『ガキの使い』における「笑ってはいけないアメリカン・ポリス」において、浜田がエディ・マーフィーの扮装をしたことが物議を醸しているようです。顔を黒く塗るメイク、いわゆるブラックフェイスが差別的であるという指摘が起きているのです。

 日頃から差別問題については多少なりとも敏感であろうと個人的には思っているし、『ワイドナショー』界隈における松本-安倍の距離感などにも懐疑的ではあるし、松本の肝いりである『ドキュメンタル』が結局は下ネタ方向に疾走し続けていることについても、松本的=ダウンタウン的笑いへの疑問符を大きくするばかりなのですが、今回のブラックフェイス問題に関しては、ぼく自身はどうもぴんと来ていません。あれがどれくらいにまずいことなのかを、内発的に理解できていないのです。他人の指摘を見て、「ふうん」と思うくらいの感じなんです。このあたりのことを考えてみたいと思います。

 19世紀のアメリカにおいてはミンストレル・ショーなるものが催されていて、これは白人が黒人の扮装をして見世物をする内容だったそうです。そこで偏見や嘲笑が再生産された歴史があり、それは実際の黒人差別と分かちがたく結びついたものであり、黒塗りの扮装はいまやアメリカ社会ではまったく許されないというわけです。
そういう文脈を理解せずに、黒人メイクで笑いを取るなんてあり得ない! という反応が、物議の中心にあるようです。

 さて、ここで文脈ということについて考えてみたいのですが、『ガキの使い』という番組にもまた、文脈はあります。簡単に言えば、「浜田いじり」の文脈です。浜田が女装したり、普段の彼とは違う髪型をしてみたり、そうしたことで笑いが生まれるという文脈。他の出演者でやっても面白くないのに、浜田がやると面白いんだよなあという文脈。多くの視聴者にとっては、そちらについての共通了解もまた重要な笑いの文脈なのです。ここをまったく考量せずに、黒人メイク=即アウトという枠組みだけで捉えることについて、ぼくは違和感を覚えてしまうのです
 これが田中だったら笑えていたか、遠藤だったらどうか。また、今回の舞台は「アメリカンポリス」であり、あの扮装は『ビバリーヒルズ・コップ』のエディ・マーフィーという個人をモチーフにしたものであり、単純に「黒人だから面白い」「黒人を笑いの対象にしている」という捉え方は、あまりにも単純すぎるようにも思えてしまう(ところで、ふと気になったのですが、あれがエディ・マーフィーだとして、エディ・マーフィー本人はどう捉えているのでしょう? ハリウッドスターですから、なんらかの許可を取ったうえでやっているのか? もしそうなら、エディ・マーフィー自体は今回の黒塗りメイクを許容しているのか、はたまたしていないのか? その辺も無視してしまうと、さらに単純な捉え方になりそうです)。

 番組には番組固有の、芸人には芸人固有の笑いの文脈がある。という点もひとつ、頭に留め置きたい部分なのです。ところで、過去における浜田の女装は問題なかったのか。今回、番組を叩いている人は、トランスジェンダーへの配慮という点で当時、問題視していたのか。その辺りも気になります。

 ただ、そうは言いつつ、『ガキの使い』が外国人を笑いのネタにする文脈について、ぼくは全面的に肯定する気にはなれません。数年前、あるいはわりと最近だったと記憶していますが、レギュラー放送の回で、「外国人に怪談話をさせる」という企画がありました。ガキのメンバー五人を前に、外国人が拙い日本語で怪談を繰り広げ、その日本語の拙さでメンバーが笑うという構図。これなどは、日本語を学ぼうとしている外国人を笑うような構図にも見え、ぼくは不快でした。もっと物議を醸してもいいのにと思ったくらいですが、さして問題視された感じはありません。外国人と笑いについては、確かに考えるべき点はあろうと思います。

 さて、ブラックフェイス問題に戻ります。
 以上のようなことを踏まえつつですが、ぼくはそもそも、「ブラックフェイスが問答無用でアウトなのだ」というテーゼについて、やはりぴんと来ないのです。おそらく、作り手自身もそうだったろうと思います。
 このように言うと、「ぴんと来てないこと自体が問題なのだ。人種差別の意識が足りないのだ」という反応があるやもしれません。ブラックフェイスが駄目なのは国際的な常識だぞ、という風に言われてしまうかもしれません。

 そこに、ぼくの抱く疑問符の核心があるように思います。

 そもそも近代において黒人差別を生み出したのは誰かといえば、これは大航海時代のヨーロッパ、そして奴隷制度を生み出したアメリカでありましょう。かたや、日本において黒人差別の歴史がまったくなかったかといえば、そうではないとも思います。黒人だからと就職や結婚を断られたケースだってあることでしょう。馬鹿にされたりいじめを受けたりというケースもあったでしょう。
 しかし、こと日本においては少なくとも、黒人奴隷の歴史はない(もしかしたらごく一部にはあるのかもしれませんが)。仮に黒人を差別したことがあるとすれば、それ自体が欧米的価値観によってもたらされたものではないのか? と感じてしまうのです。あるいは脱亜入欧的価値観。白人列強の脅威にさらされ、外国との交流を余儀なくされるうちに、白人への畏怖の反作用として、白人以外の外国人=アジア人や黒人への差別心、恐怖心が醸成されたのではないか。そんな風にも思うのです。

 かいつまんで言えば、「黒人を差別してきたのは誰より白人社会だし、その白人社会のルールを押しつけているんじゃないか?」という疑念が、ぼくには拭いきれないのです。

「ブラックフェイスは国際的常識に照らしてアウト」という。なるほど、ではその「国際的常識」なるものは、いったい誰がつくりだしたのか? まさしく、散々に差別を繰り返してきた欧米ではないのか? 自分たちで差別の芽をぶり撒いて、自分たちで勝手にそれを乗り越えて、さも先進的な価値観を広めているかのような振る舞い。それはあくまでも傲慢な白人社会のマッチポンプではないのか? もちろん、黒人の人々の根強い運動がその常識をもたらしたのでしょう。しかしその運動自体、白人が差別を起こさなければ、する必要がなかったものじゃないのか?

 もっと平たく言いましょう。
「日本人は人種差別の感度が鈍い? 国際的常識に疎い? てめえら白人が差別しまくってきた後ろめたさを押しつけてくるんじゃねーよ。日本のラッツ&スター、シャネルズは黒人を笑いものにしたのか? むしろ黒人の格好よさ、黒人への憧れやリスペクトさえもそこにあったんじゃないのか? 差別をぶり撒いてきた白人にはわからないかもしれないが、黒い日焼け、黒々とした肌は格好いいっていう価値観に基づいて日焼けサロンに通い詰める男だって、日本にはいくらでもいるんだよ。確かに日本にも差別はあるよ。それは事実だよ。でも、人種差別の感度が鈍いとか言ってるアメリカ国内自体が差別まみれだろうが。トランプを勝たせてるんだから。いや、だからといって日本での差別が罷免されるわけじゃない。だが少なくとも今回の件において言えば、黒人を笑ってやれという意識でやったわけじゃなく、観ている側も黒人だからと文脈で笑ったわけでもない。黒塗り自体に差別が刻印されている? それが国際的常識? その国際的常識こそをなぜ疑わない? その常識は差別主義者の白人どもがようやく間違いを認めてできあがったものだ。白人が主導する社会で定められた常識、もともとは白人がつくりだした差別の刻印。白人の捉え方に従うことそれ自体が白人的価値観の押しつけなのだ! 黒塗りが黒人差別を再生産させたのは事実かもしれない。でも違う世界の捉え方をすれば、黒塗りが格好よいという文化だってあるんだ。シャネルズはブラックイズビューティフルを体現していたんじゃないのか? あれを差別的だからやめろというのは結局のところ、後ろめたくてたまらない白人的国際常識の表れじゃないのか?」

 なんだか途中から小林よしのりが乗り移ったような書き方になってしまったのですが、やはり「国際常識に反しているからやめろ」「日本の差別意識は欧米の水準に遅れていて問題」という教条的な物言いには、欧米の傲慢を感じてしまうのです。

 黒人の人が、ブラックフェイスを嫌がっている以上、やめるべきなのかもしれない。でも、白人による差別を根本に持つ世界観がすべてではないし、白人によるブラックフェイスと日本人のブラックフェイスが、同一であるとはどうにも思えない。それこそ、別々の文化圏における別々の文脈なのだから。じゃあ未来永劫、黒塗りにするのは駄目なのか。それはつまり未来永劫、白人がもたらした差別的歴史の中でしか、黒人を捉えることが許されないってことなのか? 黒人は未来永劫、差別の刻印から逃れられないのか?

「嫌がっているのだからやめろ論」というのは、言論やバラエティにおいて難しいなあとつくづく思います。ハゲ、デブ、ブス、チビ。これらの記号だってバラエティの中で劣等種の刻印を押され続けているし、それがゆえに人間関係に悩まされる人間だってたくさんいるわけで、にもかかわらず今日も今日とて「ハゲとるやないか!」というツッコミで、毛髪の薄い人間はただ毛髪が薄いというだけで頭を叩かれたりしている。
 そう考えていくと、そもそも笑いにおけるボケ-ツッコミの構図それ自体、「ボケは認知症患者、知的障害者、精神障害者の言動を連想させ、それを叩くことは許されない」という極論まで行き着くリスクを内在させている。
 こと現代において、「差別と笑い」についてどこまでがセーフでどこからアウトなのか。それはどれくらい教条的であるべきなのか、あるいは番組内固有の文脈を許容されるのか。この辺の議論は本当に難しいと思います。

「ブラックフェイスは問答無用でアウト」という意見の人は、国際常識そのものについてどういう見解をお持ちなのか。嫌がっているのだから駄目というなら、ハゲ・デブ・ブス・チビ論、あるいはボケそれ自体が持つ危うさについてどういう見解をお持ちなのか。

 聞いてみたくもあります。ご意見は、お気軽に。


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 世間にはさまざまな種類のハラスメント、あるいは差別があるわけですが、それをなくすには社会的な取り組みと同時に、青少年教育もまた重要であると思います。子供のうちにそうしたものを拒否する力を育むべきであり、その点においていじめ問題は大人社会にまで地続きなものと考えます。大人社会にも、いじめはありますし。

 また、大人であれば対処できることでも、子供には難しく、それゆえに自殺報道がいつまでも絶えることがない。これはその子供にとっても社会にとっても重大事であるし、現在進行形の問題です。どう解決すべきなのかを、折りに触れて考えさせられます。

 大人は当たり前のように、「いじめはよくない」と言います。しかし、いじめはなくならない。なぜなくならないのかと考え出すと長くなりますが、ひとつには「なくせるような環境にない」という問題が挙げられます。
 
いじめられている生徒がいる。本人からはその被害を言い出せない。周りの人間がそれを見てよくないと思っても、自分が被害者になるのが嫌で言い出せない。この状況の改善が図られない限り、まずいじめをなくすのは難しい。裏を返すと、この二つさえなんとかなればいいのです。ここを取っかかりに考えを膨らませたいと思います。

 前提として捉えておくべきなのは、子供の社会が大人の社会とは別の秩序で動いている(動いてしまっている)という事実です。相手を殴ったり蹴ったり、ものを壊したり盗ったりするのは、刑法に抵触する犯罪。にもかかわらず、それが犯罪として検挙されない世界で、子供は生きているわけです。被害者が被害者として告訴できない、目撃者が加害者を告発できない。そのような法秩序が機能していない世界では、暴力――精神的・肉体的を問わず、相手を加害する行為――を行使できる者が強者となり、いわば弱肉強食の野生となってしまうのでしょう。

いじめはよくない、というのならば、大人はこの無秩序をなくさねばどうしようもない。大人社会の秩序を適用する必要があるわけで、いじめを犯罪として摘発する姿勢が不可欠となります。そのための下地として、文部科学省をはじめ各自治体の教育委員会は、「いじめは犯罪」というキャンペーンを打つことから、始める必要があるでしょう。どういったケースがどういった刑法犯になるのか、その処遇はどうなるのかについての了解を社会のレベルで共有するようにしなければ、いじめはなくなりません。大人の世界の秩序を、子供たちに植え付ける。それでも犯罪が減らない場合は監視を強めるか、ないしは罰則規定を設ける。いじめが犯罪である以上、教育現場の工夫うんぬんで事は解決しないという了解を、社会に広めることが必要です。教師における警察権限の強化。まずは秩序の確立が必要という観点から、そのように考えます。状況によっては、学校内部における防犯カメラも議論の俎上に載せるべきでしょう。プライバシー云々の議論が起こりますが、それならば街頭の防犯カメラはどうなのか。犯罪抑止・摘発の観点から捉えれば、防犯カメラを忌避する必要はない。映像や音声の確認権限について制限を加える必要はありますが、その運用によってプライバシー問題は解決できます。

 場合によっては、学校への警察立ち入りも必要になるでしょう。
このように言うと、教育の現場に司法を持ち込むのは云々となりそうですが、いじめが犯罪である以上は当然です。というか、教育委員会がいじめの存在を認めない云々という構造がある時点で、もはや教育の現場だけでは解決し得ないと言っているようなものです。きちんと司直の手に委ねるべきなのです。

また、教員に対する圧力も必要となります。
 そもそも、教師がいてもいじめがなくならないのには単純な理由があります。「教師にとって、いじめを解決するインセンティブが働かない」のです。ただでさえ過重な労働負担を強いられている教師としてみれば、いじめを見て見ぬふりするのが一番楽なのです。年度が替わって別クラスになったり、卒業してくれるまでやりすごしてくれればそれが一番。下手に踏み入って問題がこじれるのは避けたい。そういう教師の存在は、想像するに難くありません。また、現行の権限では対処しきれない部分もあるでしょう。その範囲を拡大することで、いじめへの対処をしやすくすることも必要です。生徒からの通報に対して、積極的に対処する義務と権限を強化する。警察的役割の拡大です。

 突飛な発想かもしれませんが、警察機能を強化するために、保護者からそのための料金をもらうというのも手です。いわば「いじめ保険」のようなもの。いじめ対策費として、家庭から任意で供出してもらい、その分だけ児童への見守りを強化する。そのうちの幾ばくかを教師の給金に加えてもよい。給金が増えた以上はしっかり摘発せねばという意識になるかもしれません。ただこの場合、生徒ごとに軽重があってはいけないので見守るのは一律だし、お金を出した家庭の子供が加害者になるケースもあると、了承してもらう必要があります。保護者に対してもいじめに対する備えを意識させるのです。

司法秩序の積極的導入、教師の警察的役割の強化、保護者の意識強化。

 ただ、このように書いても結局のところ、現場の教師としては負担が増えて辛くなるでしょう。いじめ撲滅のためには教師の力が第一ですが、彼らへの重負担は避けなくてはなりません。

では、どうするか。
現状における教師の負担を減らせばよいのです。
 どうやって。
 部活動の時間を制限するのです。

 平日・休日を問わない無償労働、ないし低賃金労働が指摘され、教師の大きな負担となっていることは各種メディアで指摘されています。また、子供たちにとってみても、部活動が負担としてのし掛かっているとも言われているわけです。学校が終わると毎日部活、そのあとで塾に行かされて宿題もある。そんな状況ではストレス発散も難しい。生徒・教師双方の負担とストレスが悪循環を生み出し、いじめの誘因となるのならば、現行の部活制度を改善することが急務です。

 というか、現状の労働力配分、時間状況を続ける限り、いじめ対策に割く労力を確保できません。部活動の大幅制限によって、いじめ対策を前進させるべきでしょう。地域クラブへの移行や土日活動の制限。地域差があってよろしくないというなら、手始めに土日活動の制限から全国的にスタートさせてもよい。今は何かにつけて「ネット自警団」が活発ですから、彼らを有効活用しましょう。どこどこの学校は土日に部活をやっていた! ということでバッシングするくらいになってもよいのです。大会くらいは温存してもいいのですが、そうでない土日に部活をやらなくて、困る人間なんていないのです。やりたければクラブに入るなり(当然、それは安価なものでなくてはなりません)、自主練習を組むなり(中学生くらいになればそれぞれ工夫もできましょう)、方法は模索できるでしょう。国際競争力うんぬんの話は不要です。国際的に競争できるプロレベルの人間は、そもそもブラックな部活動の学校から生まれるものでもありません。クラブチームなり、専用コーチのいる名門校から輩出されるのです。

部活を制限することで、教師の負担は減っていじめへの対応力が上がり、子供のストレスは減っていじめに走る危険も下がる。そのうえ、お金も掛からない。ぼくには名案のように思えるのですが、はて、いかがでしょうか?


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