
常々いまさら的に映画を取り上げているわけですが、今回のこれはまあこのブログにしては珍しくタイムリーな一品です。昨日はぼくの居住する場所から二、三キロのところで、あそーさんとはとやまさんがIWGPよろしく、東西戦争を繰り広げていたようであります。選挙に関しては思うところあれこれありますが、映画について書くことでその点も述べられましょう。
『選挙』は、いわゆる小泉自民党の推薦を受けた候補者を追ったドキュメンタリーです。山内和彦という人で、川崎市議会議員の補欠選挙の候補として選挙活動をする様子を映しています。新作『精神』も公開中の想田和弘監督、その一作目です。
想田和弘監督と宇多丸の対談をポッドキャストで聴いたのですが、なかなか面白い話が沢山出てきました。詳しくはそちらを聴いてもらえばいいのですが、かいつまんで言うとこの監督のスタイルは「観察映画」と呼ぶものでありまして、つまり編集以外の作業をほぼ一切行っていないようなのです。聴くところによると、テレビでつくられるドキュメンタリーなどは、現実をありのままに映していると思いきや、ある程度筋書きが用意されているようでして、初めからどういう素材を撮るのか打ち合わせがきっちりあるものらしいのです。
つまりは、ある特定の視点、特定の意見があり、それを裏打ちするための素材としてのドキュメンタリーとなっているものが多く、想田監督は最たる例としてマイケル・ムーアを取り上げていました。すなわち、『華氏911』などはブッシュ批判という視点がもとからあって撮られたものであるということで、その視点を補強するための演出、編集がなされているというわけです。『松嶋・町山 未公開映画を観るテレビ』が面白いですが、あれでもウォルマートのもの、サブプライムローンのものなどは、そのような形式で撮られています。
かたやこの『選挙』は想田監督自身の言葉では「観察映画」、広く言われる言葉では「ダイレクト・シネマ」の形で撮られており、特定の意見などはなく、ただありのままに撮られている。いわく、そのほうが発見があって面白いのだとのことです。ゆえに、メッセージ性などは言ってみれば皆無。観客各々が何を感じ取るかは十人十色というわけです。
以前、家畜産業を扱った『いのちの食べかた』について、ぼくはぼろくそに書きました。あれも形式としてはそっくり同じ、ダイレクト・シネマです。観客に丸投げしていてよろしくない、と書きました。では今回の場合はどうなのか。なるほど、この『選挙』も観客に丸投げです。『いのちの食べかた』の監督もきっと、観客各々に自由に感じてくれ、と思っていたのでしょう。しかし、明らかに違う。何が違うかというと、こちらは面白いということです。面白いという言い方が主観的に過ぎる、ならこう言い換えていい。この『選挙』の場合は、伝わってしまうものが散りばめられている、ということです。
『いのちの食べかた』が比較上の好材料なので、あえてあちらを今再びぼろくそに書きますが、あれはもう本当に撮っているだけなんです。なんというか、本当に、本当に撮っているだけ。もうそれしか言いようがなくて、だから面白くない。『選挙』の場合は、想田監督が面白いと思って撮っているのがわかる。そしてなおかつ、別に何を示しているわけではないけれども、確実に何かが示されている現場を捉えている。もうひとついいのは編集のテンポです。ぜんぜんだらだらしていなくて、わりと次々とシーンを重ねている。はっきり言って別に面白い場面でもないんですよ。でも、なんか知らんけど面白い。これはドキュメンタリーとして、非常に素晴らしいです。
想田監督と宇多丸の対談で痺れたのは、監督の次のような言葉です。
「ネタのインパクトなんて、別にこだわらなくていい。この世界には本当に面白いものが沢山ある。でも、我々が何気なく見過ごしているから、それを面白いと感じていないだけなのだ」
これはねえ、うん、そうなんですよ。絶対そうだってのはわかるんです。伊集院光はそういうのが実にうまいです。今にも死にそうな蝉を這いつくばって見ていた、というだけの話を面白く語ってくれる。ただ、これは切り取り方の問題でもあるのかなあとも思う。映像で見るから面白い、という部分もありますね。想田監督はその切り取りが抜群にうまい人じゃないでしょうか。
この『選挙』では、もう普通のおっさんが普通に喋っているだけのシーンとか沢山あるんですよ。おばさんがどうでもいい話をしている場面とかね。でもそれが妙なおかしみを持っている。はっきり言ってどうでもいいような場面もあって、別に何もおかしなことは起こっていないのに、そこにもおかしさがある。ただねえ、これは世界それ自体の面白さというのとも微妙に違う気がします。それをあえて切り取ることの面白さなんじゃないか、と思うんです。『ある朝スウプは』という映画があって、その中でも日常の一コマがやけにおかしかったりするんですが、それは客観的に映像として見ているから面白い、という部分がかなりあって、実際にその場で体感すると、それほど面白くなかったりもしそうなんです。ここはねえ、うん、世界の面白さ、あるいは世界の深さをどう感じるか、という相当な難題でもあるから、保留が必要なテーマです。言っていることがいまいち伝わっていない気もする。ううむ。
映画それ自体と違う話を膨らませているような、いや本質に迫っているような、といった具合で続けますが、映画で言うと『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』で、父ヒロシが過去を回想するシーンがあります。しんのすけによってくさい靴下をかがされ、正気に戻る場面ですが、これは絶品のシーンです。回想の内容はというと、別に変わったものじゃないんですよ。ヒロシが子供の頃から大人になる今までを音楽とともに流し続けるだけなんです。でも、これはもう感涙してしまう場面なんです。ヒロシの普通すぎるほど普通なこれまでの生涯が、思い切りドラマティックに見えてくるんです。ああ、今思い出しても泣きそうなくらいです。人が普通に育ち、普通に生きてきたというだけのことをあんなに感動的に描いた映画を他に知りません。だからこそ後の場面、クライマックスで、エレベーターに挟まれながら叫ぶ台詞が素晴らしいわけです。敵であるケンに「つまらん人生だったな」と言われ、必死で言い返します。
「俺の人生はつまらなくなんかない!」
ああ、もう涙が湧き出してきました。あんなになんでもないヒロシのこれまでが、なんと素晴らしいものであり、なるほどあんたの人生はつまらなくなんかないよ! と心中叫ばずにはいられないわけです。
こうした体験を映画はじっくりと見せてくれるわけです。『選挙』はその点が実によい。主人公となる山さんの過去までは見えないけれど、彼の周りにいる人々が、確かにそこにいるのだ、と思わされる。別に面白くもない人々の佇まい、でもそこには確かに息づいた人間がいる、とわかる。これはねえ、日常ではそうそう感じていられません。だって日々暮らしていて、自分と出会う人々の生にいちいち感動してはいられませんからね。長々と要領を得ない話を続けてきてようやくまとまってきました。世界それ自体の面白さ、というよりも、世界それ自体を切り取って見つめたときにやっとわかる豊かさがある、ということです。写真とはつまりそういうメディアです。日頃見ている、見たことがあるはずのものなのに、その一瞬として切り取ることで見えてくるものがあり、それを写し撮ることが写真の意義なのです、きっと。想田監督は、ぼくたちがずっと前から写真、画像として見てきたものを、映像として、連続した時間で切り取ることに非常に長けている人だと思います。だからこそ、写真とは違う味わいがあるわけです。
『選挙』は笑いどころが多いですねえ。まずこの山内和彦という人の佇まい、顔だちが好感触です。あのー、初めての立候補だと言って頑張っているのが、なんかくすぐったいんですねえ。先輩から怒られたりするところ、友達と喋るところ、妻と喧嘩するところ、その辺の力の抜け具合がもうこれ以上なく等身大なんです。あるあるネタっぽいというか、ああ、うん、そんな感じになるよな、わかるわかる、というのが数多くあります。学生時代にはきっとわからなかったようなこともありますね。ああ、うん、そう、こんな感じでちょっと大人的な振る舞いを求められるよな、そしてそれがむずがゆいよな、という。そうそう、気に入られようとしてそんな感じでぜんぜんおもろない冗談とか言うてまうよな、ほいで意外とその冗談が相手にうけてなかったりして自分の愛想笑いだけが虚空で散り散りになるよな、という。
この映画のコメディっぽいのは、頑張ってはいるけど頑張りきっているけど、意外に頑張ってへんかったりするよな、というところです。選挙で勝つために頑張るぞー、というわけですが、あのー、これは選挙一般に言えることですけど、結局大人のなんやかんや、付き合いだのうんちゃらかんちゃらが大きいから、泥臭く子供っぽくはなってないというかね。勝利のための一大ドラマではぜんぜんないんですよ。選挙のために幼稚園や老人の運動会に行ったりして、なんか、頑張り方としてぜんぜん説得的じゃないというか、すごく頑張っている、にならないんですね。
これは実際に感じることで、選挙で皆が名前を叫ぶけれど、それって本気っぽくないじゃないですか。本当に、もう是が非でもこの国、この地域をよくしたいんだ、という根本の熱意に関してはこの映画、一切感じられません。もうとにかく当選するかどうか、というそれだけがすべてで、政治の根本部分がすっぽり抜け落ちているから、頑張りが肝心な部分で腑抜けていて、だから滑稽なんです。主人公の活動をずっと追っていて、主人公も気のよさそうな人ですが、ぼくはこの映画を観ても、一ミリたりともこの山内さんに投票しようとは思えなかった。いや、それはぜんぜんこの映画の欠陥ではないんですよ、想田監督だってそんなプロパガンダはぜんぜん狙っていないはずで、その意味で大成功なんです。実際、山内さんが記者に政策を問われてしどろもどろになるところも映されています。要は当選することだけなんです。そういう人はきっと日本中にいっぱいいるはずです。だからぼくは選挙に行きたくないんです。
現実の選挙が描かれていますが、名前をただ連呼するというのはつくづくアホですねえ。「通行人が聴いてくれるのは三秒だけ、だからその三秒に名前を入れる」と選対の人が言っていて、実際ほとんどの人はそういう発想なんでしょうけど、これって本当にアホの発想です。票を入れてもらうためにどうすればいいかな、と小学校の学級会で話し合われることになったとき、アホの調子乗りが言いそうなことです。
「名前を何回も言う! それで覚えてもらう!」
でも実際、それが一番効果的だとされて長年やられ続けているわけですから、それで投票する人がいるということなんでしょう。そいつらはどんだけアホやねん。そういう人は選挙の時期に「たけやさおだけ」を聴いたら、投票用紙に「たけやさおだけ」と書くのでしょう。ぼくは端から選挙に行く気がないですから耳を貸しません。というか、名前を連呼されればされるほど、ああ、名前を連呼すれば投票すると思っているのだな。ということは彼あるいは彼女は俺をその程度の阿呆扱いしているということに他ならず、何故そうした無体な認識を持つ輩に対して一票を投じねばならぬのだ、と思ってしまいます。選挙に行く気があれば、ちゃんとその人の活動とか公約とかなんやかやを吟味します。それで決めます。だから名前なんかいくら叫ばれても無意味で、というか名前を叫ぶだけで投票する阿呆相手の選挙自体をぼくは否定したいので、今回もぼくは投票しません。「そんな選挙活動はやめろ」という意味での棄権です。決して民主主義に喧嘩を売っているわけではないのですが、これは大変な英断でありまして、こうした棄権行為の実践、行為しないという行為による抗議。これこそが現代の選挙に改革を促し、それこそが各立候補者の意識改革、ひいては政治改革につながるというわけです。政治を変えるならまず選挙から、というのもなかなか悪くない考えだと思います。
話がどうも頓珍漢な方向に行きます。長く書いたわりにあまり中身を紹介できていない気がしますが、まあ変な先入観を持たずに観るべきですからこれでよいのです。