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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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