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 世間にはさまざまな種類のハラスメント、あるいは差別があるわけですが、それをなくすには社会的な取り組みと同時に、青少年教育もまた重要であると思います。子供のうちにそうしたものを拒否する力を育むべきであり、その点においていじめ問題は大人社会にまで地続きなものと考えます。大人社会にも、いじめはありますし。

 また、大人であれば対処できることでも、子供には難しく、それゆえに自殺報道がいつまでも絶えることがない。これはその子供にとっても社会にとっても重大事であるし、現在進行形の問題です。どう解決すべきなのかを、折りに触れて考えさせられます。

 大人は当たり前のように、「いじめはよくない」と言います。しかし、いじめはなくならない。なぜなくならないのかと考え出すと長くなりますが、ひとつには「なくせるような環境にない」という問題が挙げられます。
 
いじめられている生徒がいる。本人からはその被害を言い出せない。周りの人間がそれを見てよくないと思っても、自分が被害者になるのが嫌で言い出せない。この状況の改善が図られない限り、まずいじめをなくすのは難しい。裏を返すと、この二つさえなんとかなればいいのです。ここを取っかかりに考えを膨らませたいと思います。

 前提として捉えておくべきなのは、子供の社会が大人の社会とは別の秩序で動いている(動いてしまっている)という事実です。相手を殴ったり蹴ったり、ものを壊したり盗ったりするのは、刑法に抵触する犯罪。にもかかわらず、それが犯罪として検挙されない世界で、子供は生きているわけです。被害者が被害者として告訴できない、目撃者が加害者を告発できない。そのような法秩序が機能していない世界では、暴力――精神的・肉体的を問わず、相手を加害する行為――を行使できる者が強者となり、いわば弱肉強食の野生となってしまうのでしょう。

いじめはよくない、というのならば、大人はこの無秩序をなくさねばどうしようもない。大人社会の秩序を適用する必要があるわけで、いじめを犯罪として摘発する姿勢が不可欠となります。そのための下地として、文部科学省をはじめ各自治体の教育委員会は、「いじめは犯罪」というキャンペーンを打つことから、始める必要があるでしょう。どういったケースがどういった刑法犯になるのか、その処遇はどうなるのかについての了解を社会のレベルで共有するようにしなければ、いじめはなくなりません。大人の世界の秩序を、子供たちに植え付ける。それでも犯罪が減らない場合は監視を強めるか、ないしは罰則規定を設ける。いじめが犯罪である以上、教育現場の工夫うんぬんで事は解決しないという了解を、社会に広めることが必要です。教師における警察権限の強化。まずは秩序の確立が必要という観点から、そのように考えます。状況によっては、学校内部における防犯カメラも議論の俎上に載せるべきでしょう。プライバシー云々の議論が起こりますが、それならば街頭の防犯カメラはどうなのか。犯罪抑止・摘発の観点から捉えれば、防犯カメラを忌避する必要はない。映像や音声の確認権限について制限を加える必要はありますが、その運用によってプライバシー問題は解決できます。

 場合によっては、学校への警察立ち入りも必要になるでしょう。
このように言うと、教育の現場に司法を持ち込むのは云々となりそうですが、いじめが犯罪である以上は当然です。というか、教育委員会がいじめの存在を認めない云々という構造がある時点で、もはや教育の現場だけでは解決し得ないと言っているようなものです。きちんと司直の手に委ねるべきなのです。

また、教員に対する圧力も必要となります。
 そもそも、教師がいてもいじめがなくならないのには単純な理由があります。「教師にとって、いじめを解決するインセンティブが働かない」のです。ただでさえ過重な労働負担を強いられている教師としてみれば、いじめを見て見ぬふりするのが一番楽なのです。年度が替わって別クラスになったり、卒業してくれるまでやりすごしてくれればそれが一番。下手に踏み入って問題がこじれるのは避けたい。そういう教師の存在は、想像するに難くありません。また、現行の権限では対処しきれない部分もあるでしょう。その範囲を拡大することで、いじめへの対処をしやすくすることも必要です。生徒からの通報に対して、積極的に対処する義務と権限を強化する。警察的役割の拡大です。

 突飛な発想かもしれませんが、警察機能を強化するために、保護者からそのための料金をもらうというのも手です。いわば「いじめ保険」のようなもの。いじめ対策費として、家庭から任意で供出してもらい、その分だけ児童への見守りを強化する。そのうちの幾ばくかを教師の給金に加えてもよい。給金が増えた以上はしっかり摘発せねばという意識になるかもしれません。ただこの場合、生徒ごとに軽重があってはいけないので見守るのは一律だし、お金を出した家庭の子供が加害者になるケースもあると、了承してもらう必要があります。保護者に対してもいじめに対する備えを意識させるのです。

司法秩序の積極的導入、教師の警察的役割の強化、保護者の意識強化。

 ただ、このように書いても結局のところ、現場の教師としては負担が増えて辛くなるでしょう。いじめ撲滅のためには教師の力が第一ですが、彼らへの重負担は避けなくてはなりません。

では、どうするか。
現状における教師の負担を減らせばよいのです。
 どうやって。
 部活動の時間を制限するのです。

 平日・休日を問わない無償労働、ないし低賃金労働が指摘され、教師の大きな負担となっていることは各種メディアで指摘されています。また、子供たちにとってみても、部活動が負担としてのし掛かっているとも言われているわけです。学校が終わると毎日部活、そのあとで塾に行かされて宿題もある。そんな状況ではストレス発散も難しい。生徒・教師双方の負担とストレスが悪循環を生み出し、いじめの誘因となるのならば、現行の部活制度を改善することが急務です。

 というか、現状の労働力配分、時間状況を続ける限り、いじめ対策に割く労力を確保できません。部活動の大幅制限によって、いじめ対策を前進させるべきでしょう。地域クラブへの移行や土日活動の制限。地域差があってよろしくないというなら、手始めに土日活動の制限から全国的にスタートさせてもよい。今は何かにつけて「ネット自警団」が活発ですから、彼らを有効活用しましょう。どこどこの学校は土日に部活をやっていた! ということでバッシングするくらいになってもよいのです。大会くらいは温存してもいいのですが、そうでない土日に部活をやらなくて、困る人間なんていないのです。やりたければクラブに入るなり(当然、それは安価なものでなくてはなりません)、自主練習を組むなり(中学生くらいになればそれぞれ工夫もできましょう)、方法は模索できるでしょう。国際競争力うんぬんの話は不要です。国際的に競争できるプロレベルの人間は、そもそもブラックな部活動の学校から生まれるものでもありません。クラブチームなり、専用コーチのいる名門校から輩出されるのです。

部活を制限することで、教師の負担は減っていじめへの対応力が上がり、子供のストレスは減っていじめに走る危険も下がる。そのうえ、お金も掛からない。ぼくには名案のように思えるのですが、はて、いかがでしょうか?


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 社員の女性が自殺して以来、世の注目を集めるようになった電通の労働時間問題。あのあと、電通は夜十時以降にビルの電気を落とすなど、長時間残業を改める努力を続けているようです。ほとぼりが冷めたらまた……といってもこのご時世、すぐに写真をネットにアップされるでしょうから、なかなか深夜のビルの電気を再開するわけにもいかないでしょう。

 そんな電通が最近、隠れ残業をさせていた! ということでネットニュースにされています。この辺のことについて、考えてみたいと思います。

まず前提として、長時間労働は改善されるべきだと思うし、マスメディアが電通のような大企業について発信するようになったのも、いいことであると感じます。セクハラ・パワハラ問題も含め、事態の改善を図る上で、大企業の一件を取り上げるのも効果的なことであると考えます。

ただ、電通ほどの大企業となると、改善は難しかろうなあと感じられてなりません。隠れ残業をしていたと咎めるのもわかるけれど、そうでもしないと電通という会社は回らないんじゃないでしょうか。

ぼくは広告業界について詳しく知りませんが、あれこれと読み聞きするに、とりわけ電通は仕事に対する熱意がすごく、クライアントに対する執着も大変なもののようです。そうであればこそ、ここまでの大企業になってきたわけで、その社風を改めるのは相当困難でありましょう。
労働時間を短くすればその分、仕事のクオリティは下がるかもしれないし、クライアントの数も、受注できる仕事の量も減るだろうし、当然会社の経営にも影響する。それを果たして会社組織が良しとするのかどうか、できるのだろうか、という問題がある。
 これが別の業態であれば、あるいはもっと小さな会社の話ならば別です。
しかし、こと大手広告代理店となると、その広告主にも影響が出てくる。広告の力が弱まることになれば、クライアントサイドの宣伝力にだって差し障りが出る。そういう企業が無数にあるはずで、電通の問題は電通の問題だけでは収まり得ないのです。自殺した女性社員は会社からの長時間労働を強いられていたわけですが、その背後には広告主の存在がある。広告の大企業であればこそ、夥しい数の利害関係者がいるわけです。世の人は電通を叩くけれど、叩いている人の会社が電通に広告を依頼しているケースもあるでしょう。電通が駄目になれば、その人の会社にも影響があるかもしれないわけです。

 だからぼくは、「隠れ残業をしていた! 改善してない!」などといって叩く気にはなれない。残業せざるを得ない状況があるのでしょう。じゃあ何か? クライアントに対してクオリティを下げていいのか? クライアントの会社に影響が出てもいいのか? あるいは受注数を下げていいのか? それで会社は回っていくのか? 

そう考えていくとき、この一件はとりわけ、日本社会そのものへの問いであるなあと思い至るわけです。成長を果たさないことには国家の経済は立ちゆかない。一方で、その成長のためには労働生産性を上げねばならず、長時間労働もそのひとつとして許容しなくてはいけない。もしもそれにノーというなら、経済は鈍化してしまう。さて、それでいいと言えるのか?

 儲けは出さなくてはいけない。一方で、労働時間の改善もしなくてはならない。
 この背反的な事態に対するひとつの解は、たとえば人員の増加ということになる。
 年収一千万円の人間が一人で十六時間働く。その状況を改善するには、人間を二人に増やして八時間ずつの労働とし、それぞれを五百万円にする。
これは最も単純なモデルですし、ここまで綺麗な二等分はないでしょうけれど、会社の収支に影響を出さないように改善を図るには、労働力の分配を果たしていく必要がありそうです。ただこの場合は当然、今まで働いていた人間が収入的に割を食います。
そうならないようにするには、年収一千万円の人は据え置きで、年収がもっと低い人に労働を分配する。雇用を増やす。しかしこれは言うのは簡単、行うは困難。会社の人件費が増加してしまうし、現場でもスムーズに分配できるとは限らない。
 人員増をしないのなら、労働時間数を減らして年収も下げる。この場合、会社自体が縮小の方向に向かうことになりますが、さあ果たしてそれを許容できるのかどうか。
 
 長時間労働についての制度改善は必要、ととりあえずは言える。
 けれど、肝心なこととして見逃せない事実があります。
「我々の社会の発展は、その長時間労働によって支えられてきた」という事実です。
 とりわけ、電通の社員の方々はそれを誇りにしているのではないでしょうか。自分たちは広告で世の中を動かし、資本主義社会をリードする立場にいるのだ。自分たちがこの資本主義社会を支えてきたのだ。そういう矜恃もあるのではないかと勝手に感じています。その矜恃があるからこそ長時間労働に耐え、高収入を得てきたわけで、それもまた大きな誇り。そこに勤めることが社会的ステータス。なればこそ、その状況を変えるのはまた難しい。

 長時間労働が多くのサービス産業を支え、その産業によって我々の利便性は確保されている。長時間労働をやめろ、というとき、自分たちが享受するサービスの低下もまた覚悟しなくてはならないし、ことによっては収入の低下も受け入れねばならない。あなたの着ているその服は外国人が長時間働いたおかげで安く手に入るのかもしれない。あなたの好きなあのアニメはアニメーターが長時間働いてつくったのかもしれない。
 嫌なたとえではあるけれど、この社会はいわば長時間労働という奴隷制度によって支えられている。奴隷を解放するなら、それによって我々の便益が落ち込むことにも耐えなくてはならないわけです。

長時間労働は問題だ、さあ叩こう。長時間労働は問題だ、さあやめよう。
 そう容易く断じられるものではない。それが労働問題であるがゆえに、解決への取り組みは経済そのものに作用する。仮に解決したとして、この社会はきちんと回っていくのだろうか?
 ここについてはまだ、いろいろと考えなくてはならないなあと個人的に思います。

 ただし。
 電通において問題視されたのは労働時間だけでなく、パワハラ・セクハラもしかり。
 こちらは経済とまったく無関係な、やめることへのリスクもまったくない問題です。
こちらが改善されていないとなれば、思うさまぶっ叩いてよいでしょう。
 ですが、こちらはこちらでまたひとつの難しさがあって……という話はまた、別の記事で考えることにします。
 


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 どうも近頃、思考が鈍りまくっているため、自分の脳内をかき回すために文章を書いてみたいと思います。映画について更新しないのかというと、それはかなり先になるだろうし、自分の思考を開陳する場として、ここを使っていこうかなと思います。
さて、北朝鮮情勢もきな臭い昨今でありますが、来年は憲法改正の審議が本格化するのだろうと思います。その辺りについての所感を述べる次第であります。

与党で衆参三分の二以上を押さえ、改憲に前向きな野党がそれに加わる状況下、果たしてどのように改憲論議が進むのか。今のところ、自民党が提示している論点は以下の四案ですね。

① 九条に自衛隊の存在を明記(二項を削除するか否かは留保)
② 緊急事態に対応する項目
③ 国政選挙における合区解消項目
④ 教育の充実を掲げる項目

 まずもって確認したいことですが、上の②~④はわりと最近になってから浮上してきた案です。改憲は結党以来の党是と自民党は言いますが、①以外は別に、結党以来ずっと訴えてきたというわけでもなく、「改憲の合意が取れそうな項目」の色彩が強いと言わざるを得ません。②~④は法律改正で十分に改善可能だという声も、そこかしこに聞かれます。
また、九条についても、合意形成のためにひねり出した部分が拭えません。「陸海空その他の戦力はこれを保持しない」とあるのに、自衛隊が存在する。この奇妙な状態を改めようというのなら、二項に手を突っ込むのが正道。にもかかわらず、三項に自衛隊を明記してしまえば、奇妙な日本国憲法がますます変なものになってしまうでしょう。「九条二項に触れると合意が取りにくいから」という考えが透けて見える、どころか、ありありと窺える状況です。

以上のことから言えることとして、自民党はおそらく、憲法について興味がない。興味があるとすれば、「憲法を変える」ことだけです。「お試し改憲」などという言葉で象徴されるように、とりあえず変えることだけが目標と見えてくるわけです。これはたとえるに、「ヤりたいだけ」なんです。相手は誰でもいいのです。とりあえず一発ヤらしてくれ! というおっさんの願望、ないし欲求不満のばばあの願望が現れている状態。ヤらしてくれればすっきりするし、それが偉業となって歴史にも残れる。そのための改憲として見えてしまうのです。

 意地悪な見方が過ぎるでしょうか。ならばなぜ、結党以来の党是と掲げてきたくせに、最近になってやっとこさ、ぽこぽこ条文案を出しているのか。そこに思考の蓄積が見られないのはなぜか。信念が見えないのはなぜか。

 自衛隊の存在を明記することについて、ぼくは賛成です。そしてそれは九条二項の削除、ないし変更という形でなくてはなりません。そうでなければ結局のところ、「陸海空その他の戦力はこれを保持しない」「けれど、自衛隊は別もの」みたいな、奇妙な状態は解消しないからです。沖縄を筆頭とする米軍基地問題、あるいは日米地位協定についても議論が進まないでしょう。
 どうせやるなら、自民党は九条二項を変える正面突破策を図ってもらいたい。そのうえで、日米地位協定の問題に早く進んでもらいたい。その信念もないのならば改憲の議論など捨ててしまえ、どうせヤりたいだけなんだから。
 というのが、ぼくの意見です。

 さて、そうは言いつつも一方で、どんな項目でもいいからさっさと変えてしまえ、という気持ちもないではありません。現在の日本が様々な問題を抱えているのは言わずもがなでありまして、いつまでも改憲論議がだらだらと延びるのはリソースの無駄に思えるわけです。さっさと改憲の話を終わらせて、財政再建なり社会福祉の問題なり、実際的な政策について論じてほしいとも思うわけです。平たく言えば、「ヤりたいヤりたいってうるせえし、他のことが蔑ろになっても困るから、とりあえず一発ヤらせて落ち着かせるべき」なのです。
そこでぼくには名案があります。改憲派、護憲派の双方が絶対に納得できるアイディアであります。なぜこれを誰も言わないのだという妙案です。
それは、104条の創設です。日本国憲法は103条までありますが、そこにひとつ付け加えるのです。ではどう書き加えるのかというと…………「何も書かない」のです。「104条」とだけ書いて、本文がない条項です。これによって改憲派はとりあえず射精できるし、護憲派は操を奪われずに済むし、いいことずくめであります。憲法を変えた! と威張るのが目的なのだから、それでいいじゃないですか。逆に護憲派が、憲法を変えたくないというなら、何も変わらないからいいじゃないですか。
 ああ、なんと完璧なアイディアでしょう!

 ……冗談はさておき。
 改憲論議が進むと思われる来年でありますが、ここにはもうひとつの駆け引きが隠れています。世間ではまだ表立って語られることの少ない、しかし重要な論点です。
 それは、「改憲論議は政局である」ということです。

 改憲というのはとかく中身についての論議が重要とされますし、事実その通りでありますが、実際の政治を考えたとき、それだけでは済みません。改憲には必ず政局がつきまといます。

 戦後70年以上変わらなかった憲法。その条項を変えることは、大きな政治的エネルギーを生みます。それを実現した政治家は歴史に名を残すでしょうし、だからこそ安倍総理をはじめ、与党の方々は目標として掲げているといえます。要するに、改憲を果たした政治家は、「ものすごく立派」な存在として注目を浴びるわけです。
 そうなると。
 野党としては許せないはずです。仮に今の自公政権が「ものすごく立派」を果たしてしまうと、野党が政権を担える可能性が先々、さらに低くなってしまうのです。いろいろな統計や予測を見ても、未来の日本は縮小傾向をたどるとされている。そうしたとき、この「ものすごく立派」な偉業を果たした政党以外に、日本を任せようという国民が増えるでしょうか。ぼくにはそうは思えない。
 簡単に言えば、改憲によって自民党の株はさらに上がるのです。内容がどうあれ、政局を考えたとき、野党はそれを許さないでしょう。仮に許す政党があったら、その政党は「ものすごく立派」のおこぼれに預かりたい連中であり、自民党に代わって政権を担う気はないのだろうなと思われます。

 では、自民党内部ではどうか。ここにも政局が生まれます。
 大きな政党ですから、当然内部には派閥がある。安倍総理の派閥の人間はもちろん、安倍総理の任期中に改憲を果たしたいでしょう。どんなクソ改憲案でも、イエスというでしょう。しかし、それ以外の派閥としてみればどうか。安倍総理のもとで改憲が行われれば野党同様、自分たちに政権が回る目が小さくなってしまう。ならば、改憲をさせないようにしよう。そういう計算が働いても、まったく不思議ではないのです。
 
 衆参三分の二以上を占めながら、なかなか踏み切れずに来たのは、ひとつに政局的理由があると思われます。大きな政治的エネルギーを生み出す以上、そこで失敗すれば安倍総理の権威は失墜する。ピンチはチャンスであり、チャンスはピンチ。安倍総理がいざ発議に踏み切る段になって、野党ならびに自民党の他派閥が造反に回れば、その時点で一発逆転、総辞職へと突き進む可能性もあるわけです。むろん、公明党がどう動くかも鍵となります。

 改憲論議は進んでいくでしょうけれど、その内容だけが進んでも意味がない。そもそも論議がどれくらい煮詰まるかも不明だし、政局の絡みがそこに生まれます。そうなったとき、安倍自民党(他派閥を除く)が取るであろう方針は、「情緒」に訴える戦略でしょう。

 北朝鮮情勢が危うい、改元が行われる、そして東京オリンピック。新時代を迎えるにあたり、憲法を変えるには今しかない! とぶち上げて、国民を煽動していくのが一番。消費増税のタイミングに当て込めば、増税への反発もごまかせる。細かい論議がそこそこ煮詰まったら、時代状況を理由にして発議に踏み切る。この手しかない。この手を最大限に使う。そういう風に動くだろうなあと、ぼくは見立てています。内容は二の次です。

 ぼくは安倍総理の支持者ではありませんが、九条二項を改める覚悟で改憲を発議するなら、ぼくは賛成します。それ以外の項目では今のところ、「ヤりたい臭」しかしないので反対です。

 さあ、2018年はどうなっていくのでありましょう。と、月並みな一文を添えたところで、ひとまずは終わりです。


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