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この作品は、これでいい。
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 かなり話題になり、評価も集めた漫画ですが、ぼくは未読でありまして、「聴覚障害者の出てくる作品」という以外の予備知識はほぼゼロで観ました。観終えた後で知ったのですが、絶賛している人も多い一方、町山さんはキャラクター造型に否定的な話をしていたりするようです。まあ、うん、そこはまあわかるかなというのはありますが、うむ。
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 序盤は小学校の話です。主人公の将也のいる学校に、聴覚障害者の西宮硝子が転校してくるところから話が動き出します。最初は物珍しく受け入れていたのですが、硝子がだんだんといじめられるようになり、そのいじめが発覚してから将也は暗い人生を送るようになってしまい、そのまま物語は高校時代へと移行します。
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 高校生になった将也は小学校時代とは対照的に暗い毎日を送っており、自殺まで考えるほどに落ち込んでいます。一方、過去の体験ゆえか手話を習ってもおり、手話教室に出向いたところで硝子と再会し、話の本筋が動き出していきます。
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 この映画はいい映画か、そうでないか。
 賛否もあるだろうと思いますが、ぼくはその賛否を招いたことひとつをとっても、いい映画なのだろうなとは思います。この映画を観た後で、よくないところもいろいろ語れるだろうし、一方で美点も大いにある。観た後でいろいろ語れる映画は、総じていい映画でありましょう。
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 アマゾンの★レビューなどを観る限りは実に3分の2が5つ星を挙げているくらいですし、アニメファンの勘所を押さえているのもウケた要因だと思いますね。ラノベでは既に「テンプレ」といえる設定でしょうが、主人公は孤独な高校生であり、自分を慕ってくれる無垢な美少女がおり、母親は「姉貴かよ」とつっこみたくなるほど若々しく、それでいて父性的存在=大人は希薄に描かれている。ついでに、これまた無垢そのものの可愛い幼女キャラがおり、生意気系の妹キャラやツンデレな(そしてヤンデレっぽくもある)元同級生、博愛主義のクラスメイト、無害にして善良な友人などを配合。「こういうの好きだろ」っていう設定を的確に突いている。ベッタベタに手垢のついた日常設定に障害者という「異物」を埋め込みつつ、青春を描く。きわめて周到です。
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 このように言うと突き放したように聞こえるかも知れませんが、違います。アニメファンや漫画ファンを引きつける王道をきちんと押さえているね、ターゲッティングがしっかりしているね、ということです。見習うべき部分が大いにあるのです。

 障害者を描くということは、何につけその描き方が議論の的になるものですが、本作については町山さんが疑義を呈していました。いわく、西宮硝子を綺麗なもの、か弱いものとして描きすぎではないか。障害者だって陰の部分はあるわけだし、障害者を綺麗なものとして描きすぎることは、むしろ彼らを遠ざけることにならないか。障害者の人間性を描けていないのではないか。というような話でした。

 確かに本作の硝子は、綺麗でか弱い存在なんですね(原作は未読なので、映画についてのみ言及しています)。小学校でいじめられても不満そうな顔をしないし、周りから嫌われても暗い顔を見せない。臆病かつ美しく、将也に想いを寄せている。小学校の教室で将也につかみかかる場面はありますが、高校生時代には妹と喧嘩するくらいで、外に対しては陰の部分を見せません。町山さんは、登場人物の少女・植野の怒りに同調を見せつつ、硝子の人間性が見えづらいと指摘しています。

 障害者をモチーフにした映画において、本作の描き方は是か非かということです。

 うーん。

 ぼくなりに思うこととしては、この作品がどの層を狙っているかってことですね。そして、現在の日本における障害者のあり方ってことにも絡んでくると思います。

 上述したように、本作はアニメファン、漫画ファン(ないしラノベファン)、つまりはその種の若者向けの作品として、ツボを押さえています。そして現にウケている。であれば、西宮硝子の人間性を微細に描く、陰影をつけて描くというようなことは--身も蓋もない言い方ですが--マーケティング上、不要なんです。
 これは思うに、「文学を観たいか、アイドルを観たいか」ということでもありましょう。町山さんは文学を観たいと思った。そこにある障害者の人間性。社会や人間関係に対する不満。利己的な部分。打算的な部分。そうした負の部分をも含みこむ文学性を求めた。
 かたや、多くのアニメファンにとって必要なのはアイドル性でしょう。
 主人公に食ってかかるヒロインは可愛くありません。『あの花の名前を僕たちはまだ知らない』におけるめんまがそうであるように、主人公に対しては無償の愛を注ぐか、ないしは主人公にとって適度に都合のいい人物であってほしいのです。利己的で打算的な、人間くささなど要らない。いや、まったくないのも退屈だ、ちょっとだけあればいい、無害なレベルでスパイスを利かせてくれればいい。それがアニメや漫画における、人気ヒロインというものです。
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 だから、本作としてはこれでいい。裏を返せば、本作はあくまで本作のレベルに留まる。高校生の母親なのに20代にも見えてしまう金髪の母親が典型。重んじられているのはリアリティよりもアニメ的心地よさです。もしもリアルな障害者像を本作が求めるなら、あの母親だってもっとリアルに描きます。登場人物のリアリティラインがそうなるでしょう。でも、本作はそういう作品ではないのです。
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 なんだかんだ言ってくさしてやがるじゃないか、と思われるなら、くどいようですが本当に違います。そういう作品だからこそ、広い人気を集めたとも言えます。そして、広い人気であるがゆえに聴覚障害者への関心が高まり、理解が少しでも深まるなら、それはいいことです。
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 感動ポルノなんて言葉もありますが、現代の日本はおそらく、「障害者のリアルな姿」「障害者の人間性」などに興味を持つほど、障害者に関心がありません。残念ですが、そういう状況です。東京オリンピックに関心が集まれど、パラリンピックは大して盛り上がらないでしょう。障害者が健常者と同じレベルまで努力する姿は「感動」を呼ぶけれど、健常者を超える能力を持つ障害者には興味がない。健常者が上、障害者が下。健常と障害という言葉もまた、その認識を保ち続けます。障害者雇用を中央官庁が水増ししていても国民は大して怒りを持たず、残虐きわまりない差別的殺人も風化していく。
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 いい悪いではない。日本の現状はその程度だということです。なればこそ、まずは障害者の存在に興味を持てる題材を広めることが大事であり、ヒットのツボを的確に押さえる作品は大切にしなければなりません。町山さんが期待する、細やかな人間性うんぬんにいたるのは次の段階なのです。アニメ好きな若者が本作を観て、障害者に興味を持つことがあるならそれでいい。障害者という存在を遠巻きにではなく、アニメキャラを通して身近に感じてくれたり、好感を持ってくれたりしたらそれでいい。西宮硝子は終盤で自殺を図る。その悩みの片鱗を見せることができればそれでいい。この作品は、社会的役割を十分に果たしているのです。硝子の拙い喋りが聴覚障害ゆえの響きでなく、可愛さを帯びるのならそれもいい。
 
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 この作品は、町山さんが期待するほどの水準にある作品ではない。
 ただ、日本の現状を鑑みる限り、それでいい。

 褒めてるんだか貶してるんだか最後までわかんねえな、と思われたかもしれませんが、多少なりともいい年をこいてくると、この手の青春譚に諸手を挙げてワッショイする気には到底ならないものなのです。むしろ、周りのことをあれやこれやと考えるものなのです。
 そしてそのうえで、ぼくはこの作品に対して、とても肯定的であります。


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面白い。あるいは抵抗感。
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 2004年9月に福岡県大牟田市で起きた殺人事件。それを取り上げた鈴木智彦氏のノンフィクション、『我が一家全員死刑』を原作とする作品です。小林勇樹氏の作品で、公開時に27歳という若手監督です。

 実在の出来事が題材という点では、前回取り上げた『否定と肯定』に通じます。しかし、描き方は真逆です。脚色をちりばめ、才気煥発の言葉そのままに、エネルギー漲る作品となっています。
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 クラシックとエロスを混ぜ合わせた冒頭シーンは園子温を彷彿とさせ、その直後に痛々しく無様な暴力シーンをかませる。舞台を静岡に置き換えたそうで、シーンの中で交わされる会話は方言ばりばりの粗野なやりとり。掴みとして十分なインパクトを与えます。
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 この映画はやりたい放題やるぜ! という宣言も高らかに、その後に続くシークエンスで主人公一家の様子を描きつつ、冒頭25分というタイミングで最初の殺人にいたるところなどは、脚本術の王道をしっかりとなぞっている。ただの乱暴な映画ではなく、きちんと計算している周到さも好ましいところです。
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 登場するのは軒並みDQNな連中であり、風景の切り取り方も相まって、90年代的な風合いも漂います。間宮祥太朗演ずる主人公もさりながら、その彼女の存在感もぼくは好きでした。清水葉月さんという女優なのですが、「蒼井優マークⅡ」というフレーズがぱっと思い浮かび、ぼくの頭の中を巡っていました。観てもらえばわかってもらえるでしょう。この蒼井優マークⅡがまたいいのです。見た目には小綺麗な感じなんですが、言動はしっかりとDQNであり、ああ、土着の女だなあと思わせてくれる。小人症の男性を雑に扱う点も含め、余計なポリコレに気をとられてない感じは、若い作り手ながら嫉妬を抱かされるものであります。
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 一人一人の顔立ちが適切だなあとも思いました。六平直政はもとより、毎熊克哉さんという俳優はいかにも地方のワルにいそうな感じです。監督につくりたいものが明確にあって、その空気感を的確に醸している。ぼくは現在、東京の中でも都会に位置する場所で暮らしていますが、ここに住んでいてはわからない地方の雰囲気が伝わってくるんです。ああ、日本にはまだまだこのような乾いた街が山ほどあるのだろうなあと確かに思わされる。地方を描くということなら、2000年代以降はとりわけアニメの世界で花開き、数々の「聖地巡礼」ブームなどを巻き起こしたものですが、それとはまったく別種の乾いた風景。地方都市が持つひとつのどうしようもなさ。そんなものが随所に垣間見られ、映画として非常に強いものを感じます。
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 映画好きの人たちも多く絶賛しているようであり、それは確かにわかる。エネルギッシュな作品として確立されており、才気漲る若手監督ということなら、80年代の石井聰互をも想起させる。放埒な悪魔たちを描いた映画なら『マーダーライドショー2』と併映して、悪に酔い痴れる快感に溺れてもいいでしょう。

と、映画として絶賛を惜しむものではないのですが、やっぱりぼくはどうしてもまじめっこちゃんになってしまうのです。なってしまう部分があるのです。

 とかく現代ニッポンにおきましては、「道徳的横槍」が方々に乱立します。ちょっと尖ったCMがあれば「差別的だ」といい、ブログに写真をアップしたタレントがあればその画像を見て「違法ではないか」といい、ツイッターで楽しいことを呟いた人があれば「不謹慎だ、楽しめない人のことを考えろ」と横槍をぶっさす。そういうものにわたしはなりたく、ないのですけれども、それでもなおこの映画についてどうしても引っかかってしまった。

 発生から15年も経っていない実在の事件であって、被害者の遺族は果たしてどのような気持ちなのだろうなと、その思いを拭えないのですね。監督が遺族とどのようなコミュニケーションを取ったのかわからないし、遺族としてまったく問題ないと言っているのならぼくがあれこれ言うのは余計の極みなのでしょうが、どうにも主人公たちが魅力的に映っていて、どうにも殺される側が滑稽というか、軽い。
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 たとえば最初に殺される青年は、アホみたいなユーチューバーなんですね。ありがちなバカ企画をやって盛り上がっているうちに襲われるんですが、この脚色にどうしてもざわざわしてしまった。あいにく原作のノンフィクションを未読なので、被害者の人となりなどはわからないのですが、あんな風に軽い存在なのでしょうかね。鳥居みゆき演じた被害者女性もそうで、あれだけ見ると人生に何の重みもないアッパラパーの成金なんです。被害者がどういう人かわからない。殺されても仕方のないくらいに悪辣な人だったのかもぼくにはわからない。でも、わからないからこそ不安になる。これを面白いと言ってもいいものだろうか。
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 最後に殺されるのはどうもゲイっぽい青年なのですが、そこはどの程度真実なのか。仮に本当にゲイだったとして、あのような描写を青年の遺族や知り合いが観たとき、納得するものなのだろうか。少なくとも、あの青年はあの場に居合わせただけであり、犯人たちに殺されるべき理由は何一つない。にもかかわらず、あのような描き方でいいのか。
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 原作者の鈴木氏は、「死者への敬意を欠いていないか」と監督に指摘したそうですが、監督は「観る側が気にする必要はない」と割り切っているようです。確かにそうなのかもしれない。ただ、この映画を面白く感じ、あの主人公たちに魅力を感じたとき、実際の殺人事件をぼくは(たとえちょっとであっても)肯定してしまうのではないか。気にする必要はないと言われても、それを決めるのは果たして監督なのか?

 それを言い出したら戦争映画も駄目だし、架空であっても殺人事件や犯罪者を描いたものはダメじゃないか。

 うん、そうかもしれない。ただその言い分が正しいとしても、だからこの作品も問題ないと言い切ることが、ぼくにはできない。
 
これってわりとナイーブな問題だと思うんですけど、世間に数多いると思われる「道徳自警団」(古谷経衡氏の造語)は、何も反応していないんですかね、よくわかりませんけど。CMとかタレントにはかみつくのに。映画だからいいの? でも、反日映画ならネトウヨは怒るよね?

 いや、ぼくはこの映画を否定したいわけではない。前半で申し上げた通り、映画的な出来はとてもいい。ただその分だけ、この映画に対する葛藤もせり上がってくるのです。

 さて、あなたはいかがでありましょうか。


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この映画を観て語る時間も、鑑賞体験。
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 原題 Denial

 ホロコーストの歴史をめぐる実在の裁判をもとにした作品です。実際の出来事は「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」と呼ばれているようです。

 歴史学者のアーヴィングはホロコースト否定論を唱えているのですが、その主張を女性の学者・リップシュタットが批判します。すると、その批判が名誉毀損に当たるとして、アーヴィングが訴訟を起こすのです。いわゆる歴史修正主義について取り上げた映画であり、とても興味深く観ました。
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 歴史問題にせよ、もしくは現代日本における原発問題にせよ、常々厄介だなあと思えてならないことがあります。それは一言で言えば、事実と主張の問題です。

 どんな主張を持つにせよ、まずは事実の探求から始めなければなりません。事実を蔑ろにした瞬間、すべての議論は(およそ必然的に)不毛になります。主張はひとまず後回しにして、何が合意可能な事実なのか、その合意点を見出さねば議論は始まらない。歴史にせよ科学にせよ、それが学問だろうと思います。いや、学問に限らず、どんなことにも当てはまる。

 ごく単純に言えば、理性と感情の問題です。事実が理性から導かれる一方で、主張の根源には感情が付随する。であるならば、感情=主張は後回しにして、まずは理性的に事実を見極めねばならない。

 しかし、人間は感情の生き物であります。感情=主張が前に出てしまう。その結果、結局は議論にならない当てこすり、罵り合いばかりが跋扈する。こういうのが本当に厄介だと思います。
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 本作におけるアーヴィングは結局のところ、ナチズムを正当化したいという感情が根底にあって、そこからホロコースト否定論に向かっているのでしょう。こうなると、適切な議論になりません。感情が根底に居座っている以上、理性的な判断は狂ってしまいます。
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「自分はユダヤ人差別に断固反対する、ナチスやヒトラーの思想などもってのほかだ、そのうえでなお、私はホロコーストを否定するのだ」というなら、まだ聞く価値はあるかもしれません。その人は感情ではなく、なんらかの客観的根拠があるのかなと思う余地がある。

 でも、このアーヴィングはそうじゃないっすからねえ。
 おまえの感情に付き合わされたくないよこっちは、という話でしょう。

 ただ、これはもちろん逆も言えるんです。「ユダヤ人差別はいけない、ナチスを擁護してはいけない、だからホロコーストの否定を許してはならない」というのも、厳密な意味ではまずい理路だとぼくは思う。ホロコーストの実在/不在はあくまでも証拠や証言に基づいて判断すべきことであって、ナチズムの是非や差別問題それ自体とも切り離して論じられるべきなのです。

 だから正直な話、ホロコーストが存在しなかったなら、それはそれでかまわない。
 綿密な歴史研究の結果、ホロコーストの不在が証明されたという事態がもしも起こるなら、それを受け入れる覚悟が必要です。歴史に関する議論は、その覚悟が始まりなのだろうと思います。

 ここから派生して原発論議への所感をだらだら述べそうになるのですが、映画から離れるので置いておきます。
 レイチェル・ワイズ扮するリップシュタットは被告となってしまい、弁護団の力を借りて裁判に挑みます。
 惜しむらくは、彼女自身が法廷で何のアクションも起こさないことですね。
 弁論に立つのはあくまで弁護士たちの仕事であって、彼女自身は何も喋らないのです。
 実際にそうだったのでしょうし、脚色して法廷ヒロイン化しなかったのは良心的です。 まさに、事実=歴史を曲げなかったのはこの映画の美点と言えます。
ただその分、映画としてはもどかしさもありますね。
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 一方、アーヴィングのほうは仲間が誰もいないものだから、自分自身でどんどん喋るのです。これってむしろ、アーヴィングが主人公みたいにも見えちゃう構図なんですね。
「大弁護団と戦う一人の歴史学者」みたいな紹介だって許されてしまうし、そうなると途端にヒロイックに映ってしまう。正直なところ、多勢に無勢のアーヴィングを観て、ちょっと応援したい気持ちにさえなってしまった。
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 この映画は「事実」をめぐる作品であり、だからこそあくまで事実に基づく演出を心がけたものだろうと推察します。しかしそのストイックさ、律儀さゆえに、どこかアーヴィングに肩入れを許す構図にもなってしまう。ここは作り手ももどかしかったんじゃないでしょうか。彼のほうがリップシュタットよりもはるかに躍動しているから。
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 と、ここまで書いてふと気づきます。
 なるほどこの映画は、フェイクニュースに代表される「嘘の魔力」をも同時に描いているのだなと。
 
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 トランプ大統領は過去、数々のフェイクをばらまいたとされています。でも、フェイクかどうかこだわらず、言いたい放題言っていれば、それはある面で魅力的に映るのです。事実に基づいて長々と説教する人間よりも、「うるせえこの野郎! 俺はこう思うんだ! 文句は一切受け付けないぞ!」と押し通す人間のほうが、魅力的に映ってしまう場面が確かにあるわけです。
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 この映画はホロコーストを題材にしながら、現代の政治状況を映し出すというきわめて真っ当かつ高等なことにチャレンジしている。そのように見受けます。また、映画という商業的媒体を通すことで、メディアにおける「嘘の魔力」「嘘の魅力」すらも映してしまっている。この映画において魅力的なのは、大弁護団に囲まれているリップシュタットよりも、一人で戦うアーヴィングのほうだったりする。
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 ほら、こういうイメージによって、人はころっと騙されたりするんだ。
 そういう批評性を隠しているなら、まことにハイレベルな作品と言えます。

 また他方、歴史修正主義の怖さにもあらためて気づかされます。
 実のところ、アーヴィングに代表される修正主義者は、自分たちの正当性を示す必要がないんです。彼らはただ、「ひとあな」を開ければそれでいい。世界で正しいとされている史実に揺るぎを与え、「もしかしたら別の真実があるのかも」「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も残されているのかも」と、人々に思わせれば成功なのです。その「ひとあな」が開けば、この現実に寄生することができる。寄生する部位を見つけたらあとは、少しずつ病巣を広げていけばいい。
「ホロコーストはあったとされているけど、なかった可能性も1%くらいあるんだよね」
 人々にそう思わせた瞬間、彼らの勝ち。
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 これが怖い部分だなと、つくづく思います。
 1%は何かの弾みで、2%以上に膨れあがりますから。

『否定と肯定』の内容についてぜんぜん触れてないじゃないか、何が映画評だクソムシ、と思われたかもしれませんが、この映画は観ている間に面白かったかどうかとか、そういうのは二の次だと思います。むしろ、映画を観た後で考える時間こそが鑑賞体験。日本の歴史認識問題、南京事件や従軍慰安婦、あるいは現代の原発問題。さまざまなことへと思考の枝葉を広げることができるし、その中でこの映画もまた息づく。
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 本作は、「この映画を観る」というよりもむしろ、「この映画を通して社会を観る」ということに貢献します。そういう映画を今後も観たいなあと思う次第であります。 
 


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監督はこの映画をつくりたかったのか?
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 とかく人々の中には暴力衝動が内在していたりするもので、あるいは放埒な暴力に対して憧憬を抱く面もあろうかと思われ、ヤクザ映画というのはつまり、そうした人々の欲求を発散させてくれるものなのだろうと考えます。
 
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身近にいたら迷惑きわまりないけれど、フィクションの中では輝く存在。そのヤクザのすごみをひとつの売りとし、ぶち殺すぞこの野郎! と叫ばせまくった前二作。かたやラストとなる本作ではその勢いも切れてしまい、なんだかむにゃむにゃした作品だなあと思わされました。

 北野武扮するヤクザ・大友が今回もキーパーソンの一人となるのですが、どうにも存在感に重みがないのですね。というか、ヤクザ同士、ヤクザ内部でのいざこざに終始してしまい、その外側がちっとも見えてこないというか、北野監督としても本当にこの作品をつくりたかったんだろうか? というのが疑問です。率直に言って、何をしたいのかよくわからなかった。
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今回の話で大部分を占めるのが、西のヤクザ・花菱会の内輪もめなんですが、まずもって関西弁のうまい俳優が少ないし、その点での味わいがない。これは前作からしてそうだったんですが、西田敏行の関西弁はぜんぜんはまってないうえに、ピエール瀧もまずい。塩見三省は京都出身だそうですが、彼にしてもなぜだかイントネーションがおかしい。
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 ところで、方言というものがぼくは好きです。東北弁にせよ琉球語にせよ、音楽的な調べがあるんですね。濃度の高い方言の中には、何を言っているのか外の者には聞き取れないものもありますが、これはその土地に住まう人々が、何世代もかけて磨いてきた調べなんです。無駄が削がれ、言葉の角が取れ、コミュニケーションのための最適化がなされた方言には、独自のチューンがある。関西弁にしてもそうで、大阪にせよ京都にせよどこにせよ、標準語という半ば人工的なものとは違う美しさがある。

 関西のヤクザとなればそれこそ土着の方言、いい意味での汚さを期待するところなのにそれもなく、いかにもつくりものめいて見えるのがまず辛い。こういう映画にこそ、吉本芸人を出してほしいですね。木村祐一なんかがピエール瀧の位置にいれば、はまり役だったんじゃないでしょうか。あ、岸辺一徳だけはよかったです、例外的に。

 さて。それはそれとして。
 話はピエール瀧と北野武のいざこざに始まり、それが別組織にも飛び火して、面倒ごとが膨れあがってという話になり、一方では花菱会の権力争いもひとつの軸になっているんですが、これがなんというか、「誰がどうなろうとわりとどうでもいい」んです。大友=北野武の話がそもそも、本作ではまともに機能していない。だから中心のつくりが非常に脆弱で、作品全体にちっとも熱が生まれない。

 ヤクザ映画の古典、『仁義なき戦い』においては、菅原文太扮する広能があくまでも中心として機能していたし、金子信雄の狡猾さも相まって、きちんと軸を形成していた。ところがこちらの大友は、「なんだかしょうがないけど、しょうがないから暴れている人」以上の深みがなく、大森南朋にいたってはもうほとんど非人格的に追従するだけです。
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 どうせこの三部作もここで終わりなのだから、それならもういっそのこと開き直って、主要な幹部ヤクザ連中を片っ端から撃ち殺す皆殺しカタルシスをつくりだせば映画的に輝くものを、そのそぶりすらない。大友はマシンガンを持ってヤクザのパーティに乗り込むけれど、結局は下っ端を撃ち殺すだけで、西田敏行はすたこらと逃げおおせる。

 一作目は怒号飛び交う元気なヤクザ映画として華があったし、二作目は二作目で関東と関西のヤクザの抗争が盛り上がり、警察との癒着なんかもそこに旨味を添えていた。本作には何もありません。ただ、出がらしの残り香が漂うだけです。
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 細かい部分の演出もぜんぜん締まっていません。
 たとえば、塩見三省とピエール瀧が、詫びを入れるため敵方のヤクザの家に乗り込むシーン。向こうのボスは在日韓国人で韓国語を喋るのですが、それを見た塩見たちは日本語で陰口を叩きます。相手が目の前にいるけど、伝わらないだろうと思ってごちょごちょ不平を言う。ところが、相手のボスは日本語も喋れるため、全部ばれてしまっていた!
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 このくだりもオチがばればれだし、そもそも部屋には警備を務める他の組員もいるのだから、あんな風に喋るのはあまりにも迂闊です。上に述べた(ばればれの)展開をやりたいだけ。本気の場面じゃないから、映画にも本気がこもらない。あげくに下手な関西弁。どないすんねんこれ。どうすんだいこの始末。
 
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 大杉漣が殺される場面も、演出が緩いんです。
 首まで土に埋められた大杉漣を、車で轢き殺す場面。その行為自体はいかにもヤクザの非道さが出ているわけですが、轢き殺したその瞬間、カットは北野武が乗る車中へと切り替わります。殺したとわかる演出は、頭を潰した音のちょっとしたSEが入るだけなんです。

 違うじゃん。そこで一瞬、車が「ドッコン」とならなきゃダメじゃん。
人一人の頭部を轢いたのだから、ちょっとは車体に衝突感が出るだろうし、それがほんのちょっとあるだけで質感が出るじゃん。いや、むしろそれがほんのちょっとであればあるほど、質感に加えて虚しさが生まれるじゃん。そういう細かさもないんです。ただ嫌な感じの音を一瞬入れているだけ。登場人物の存在感が、何にも感じられないのです。

 ことほどさように、北野監督はほとんどやる気がなかったんじゃないかと思われる作品です。前作の『龍三と七人の子分』は面白かったんですよ。いい意味でのはちゃめちゃさが活きていた。本作もどうせ三部作の完結篇なら、はちゃめちゃな方向に舵を切って、やりたい放題やってほしかったなあと思うことしきりでございます。
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